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其の二へもどる―

 ☆
高校で、神谷リサは超痛く、ハイパー切ない恋に落ちた。菜の花が黄色い絨緞を風景に刺繍し、数え切れないつくしたちが顔をだし、桜が咲き乱れ、黄金虫が金属質な体躯をきらめかせ、ひらひらと蝶たちがたわむれ、くっついたり離れたりしながら、花の蜜をながく渦巻く嘴で吸い上げていた。相手は入っていた「詩吟クラブ」で一緒にクラブ活動をしていた「長尾ミグ」という男だった。甘えん坊でハンサム、綺麗な曲線をくねらせる鳳凰眼、髪が長く、声がよくスピーチで人を酔わせることができ、オーバーサイズのワイシャツをダボダボにたらして着こなした灰色の制服がよく似合う男だった。長い髪をかきあげるときに、その髪をすいて、エロティックに上目づかいで見上げる癖があった。ひょろりとして背が高く、いつもいるのか、いないのかわからなくなるぐらい激しく点滅して見え、鼈甲の洒落たマルめがねをかけ、力強く優しい声で文章を朗読をするのが好きだった。みながいうように、長尾ミグはどこか気難しく、とりつきにくかった。ほとんど誰ともまじわろうとはせず、いつも一人で思案にくれたり、クラスメートどころか日本人がだれひとりとして読んでいないような本を読んだり、ぽかん―とゆき過ぎるままの雲をながめたり、授業中だというのに校舎の片すみで眠りこけたりしていた。彼はクラスのだれより物知りだった。先生をバカにし、ときどき議論をふっかけて対立し、はげしく討論し、そして最後に言葉でやりこめてしまうので、いやいや まいったなぁ―といわれながら教師から敬遠されるのだった。「こんな低脳でつまらないことにつきあってらんねぇ!」―と両手と中指を突き出して、シュプレヒコールを挙げ、教師にむかって固く舌を突き出してみせたが、そのくせ授業にだけはやってきて、テストでよい点をとるのだった。クラスメートは「まったくよくわがんねぇヤツだんべ」―と、彼を称していった。「詩吟クラブ」では、大正の大詩人の妖しい詩や南米のシュールレアリストの詩、それに自作の実験的で断片的な詩をなにかにとりつかれたように真剣に読み上げて、クラブのみんなをびっくり酔わせた。そんなとき、長尾ミグは学校で見せるどんな表情よりも生き生きとしていて、楽しげにかがやいて見せ、神谷リサのいたいけな心を刺激的にくすぐるのだった。「詩吟クラブ」の女子は「あの人なんだかよくわかんねぇ、むっつかしい本ばっかり読みふけっとって、それなのによ、それが楽しいようだからざ、リサちゃんにはぴったしそうだな」―といって、無邪気にはやし立てた。それからなんとなく意識するようになった。意識ははじめ、もやりたつただの熱にすぎなかったが、時がくりかえされて、すこしづつ凝縮され、純度をあげ、結晶されてゆくにしたがって、きらきらとまばゆい輝きの感情をひきおこすようになった。心がときめき、胸がきらきらした。神谷リサは、もしかすると、これが「恋」ってものなのかしらん、もしかして―と自問自答して、感情を名づけようとしたが、すぐにあわてて、これは「恋」じゃないわね こんなのって―と打ち消した。だが、わだまる熱そのものまでは打ち消すことはできなかった。それは心の底にふいに生まれて、すこしづつフォルムをかえ、熱をおびてゆく宝石の原石とその純化プロセスのようだったが、まだ自分で自分の変化をきちんと受けとめることのできない少女の心は見るたびごとに表情をかえ、不安と戸惑いを不純にはらんだ、精錬されることのないその原石を持ちあぐね、名づけあぐねるのだった。実際のところ、神谷リサの頭はピンク色でいっぱいに、目はおもわずハートマークに、心は原石の放つ粗熱でいっぱいになってしまうことがおおくなっていた。熱は心をとろかして、こぼれおち、あふれ、たぎるととめどもなかった。それで―おもわず、神谷リサは挙動不審になった。とるにたりない些細なことであたふた戸惑った。ふらふら幻に魅かれて自分でもよくわからない行動をとった。電信柱によく頭をぶつけるようになって、電信柱に「すんません!もうしませんから―」と謝った。なにをするのもうわの空だった。これまで、す―と耳にはいった親の声も、ほんとうはなんでもないような女友達のカラ騒ぎも、コカコーラの炭酸の泡のように刺激的なロックの歌詞も神谷リサの心をすり抜けていってしまった。そんな状態におちいってみて、ようやく神谷リサはこれが「恋」だということを、自分は「恋わずらい」にかかってしまったことを―しぶしぶながらも、認めるのだった。いちど認めると、これまで悩まされてきた葛藤がきえ、すっとした。素直に《ずっとずっと今の「まんま」、ずっとずっとこんな風に恋する「まんま」でいれたらいいのいなぁ―》と浮きおどるような足取りで、ふわふわ、ふらふら思った。生活に変化があらわれた。迷い、とまどい、逡巡して、自分を不確かであやふやなものだと思うようになった。それまでしなかったうすい化粧をして、女の色艶をてからせ、鏡の前で笑顔をきたえ、つながっている眉毛を揺れる思いでみつめ、長いまつげをカールさせて、目を少女漫画の主人公のように星クズでうずめて、彼の前で今までの彼女のなかでいちばん綺麗にきらめく自分をいじましくよそをった。ただきらめく感情を表現してみたかったのだった。でも、反面、彼個人にたいすると、無関心で、特別な感情をいだいていない風にふる舞ってみせてしまう。クラブの朗読の時間には、なんの欲望もない、言葉と記号の世界の住民のように冷めた口調で太古の中国の詩人の詠んだ「愛の詩」を淡々と朗読してみせた。そうしながらも彼の視線に、びくり―と、とくべつ敏感に反応する自分を自分自身のうちに見出すのは、苦痛めいた快楽だった。《いつでも恋はアンヴィヴァレント、あれもこれも、両方なもんなんだもの―》と神谷リサはそうつぶやく。彼の視線の中に「ある」自分は今までの自分自身ではない全くみずしらずの自分であるように神谷リサには思われるのだった。それはなによりもミグの視界のなかに位置づけられてのことだった。だから、いくら落ち着いて冷静に考えてみても、その分身のような自分の「あり方」、そのじぶんの存在モードに恋焦がれているのか、それともミグというフィジカルな対象に恋焦がれているのか、彼という鏡を反射させることによって、そこに映っている自分の影がいとおしいのか、それともミグという男それ自体がいとおしいのか―神谷リサにはもうひとつよく理解できないのだった。ただ恋は自分が自分としていつもイメージしてきたものをいとも脆く、いとも簡単に、壊してしまうものなのだ―ということを踊るような気持ちで実感した。

《…そっか 自分を壊すのは簡単ことなのね―それは恋の魔力のひとつなのね―》

神谷リサはその時実感とともに知るのだった。
    ☆
ところで、その恋は流星のきらめきに落ちた。夜になると、宇宙風に乗って周期的に流星群がやってきて、青白い星たちを惜しげなく降らせたその年の夏、神谷リサは「ラブレター」を書いて、恋する思いと乙女の愛を告げた。とにもかくにもー神谷リサはそうしなければ気がすまなかった。便箋に思いのたけをしたため、その心象風景を七色の絵にえがいた。そしてそれをコピーすると、ひとつは恋の鏡に映るイマジネーションの分身の自分自身へ、それからもうひとつは現実の長尾 ミグの正方形のゲタ箱の中へと送った。なんとはなしに自分に気がなくはないかも―という「微妙な感じ」はあった。ときおり、ふたり一緒になることがあった学校からの帰り道―タンボの脇の畦道を本や映画や音楽や現代美術の話に花を咲かせながら歩いたし、その話の結果、ある意味で単純なところのある長尾ミグという機械の「でき型」ぐらいは見通して、だいたい操作することができるように思われたからだ。《なんだか 「性のちがい」―セックスとしての女のホルモン分泌にくらべると男のホルモン分泌には単純な性質があるようね》浮き立つような思いの中でも冷静な観察眼を発揮して、神谷リサは男と女の性のちがいの磁力と恋の魔術をとき明かしてやろうとぎりぎり歯ぎしりをした。神谷リサにとって、男というセックス―それは可愛さと少しのおろかさの印象をふくんでいて、女というセックスに共鳴し、女に母性本能と母の感情をよびおこさせるものだった。恋の中であっても女であることの中にはどこかしら母の感情に似た感情があると神谷リサは感じるのだった。「愛し、愛されたい」ー《つつみ込んで、固いものを溶かしてしまいたい、そしてそれが滞ることなく機能する時、女は母になるのだろうなぁ~》―と神谷リサは吹くような自らの愛のうちにその愛の結末を予感した。母とはつつみ、溶かす無償の愛だ。現実で子供がいてもいなくても、女の愛にはどこかしら母の愛と共通項でくくれる要素があるのではないのかしら?だから、たしかにスポーツ新聞の見出しをかざり、じつはひとびとの心の奥底の暗闇のうちに揶揄され、不倫疑惑が週刊誌が涎をたらして待つ大スキャンダルとなるように、恋は盲目で愛はおろかなもの。そして人は盲目でおろかなものが好きなんだわ、恋と愛がひとびとの好奇と興味の対象にならない日がないのはそれが盲目でおろかだからー「…でも―でもねっ!―逆に肯定的にいえば、恋や愛に溺れるのは自分がおろかであることを知るためなのかもしれないじゃない―だから、あたまのいい人は愛のおろかさを知らないからバカなのよ!そしておろかであることの甘さはなんて甘いのかしら、甘い人生、LA DOLCE VITAね。おろかであることに溺れてなにが悪いって言うの!」
神谷リサは頭を垂れて、熱っぽい思いに囚われて、ぶつくさぶつくさひとり呟きながら歩くのだった。視界がせばまり、あまり前がみえていなかった。いつの間にやら、電信柱が目の前にあった。はッ!―と気づくと、時はすでに遅かった。頭が、ごッつん!―とそう言った。視界がまっ白になった。かろうじて、6歩ほど、後ろ歩きでよろめき、ぺたん―と尻餅をついた。それから目の前をさかんにとびかう蛍光色の流星群と宇宙塵のまたたきを見たが、自分の目が「☆」のかたちをしていたことには気がつかなかった。金ぴかの装飾をしたトラックが道路をすぎ、そこから垂れパンダのサングラスをかけたパンチパーマの男が顔をだして、「あぶねぇぞ ねぇちゃん ばっきゃろお!」と怒鳴っていったのがすこしづつ取り戻されてゆく視界の中にかろうじて映るのだった。
   ☆
神谷リサのとらえた「微妙な感じ」はおおむね、間違いはなかった。つまり、長尾 ミグは神谷リサに惹かれていたし、ほのかならない恋心を抱いていた。ラブレターを渡した次の日に呼び出した長尾ミグは「んじゃ よろしく…」といって、頬を赤らめ、両手をひろげて、まばゆそうにはにかんでみせた。それでつきあうことになった。でも、それからしばらくつきあってみて、長尾 ミグはやっぱり次男で甘えん坊で恋愛に受け身で優柔不断なのだった。いつも感情を名づけあぐね、態度をきめあぐね、愛を告げあぐねているように神谷リサには印象づけられた。いつも点滅しているように見えちゃうのは「だから」だった。本当にその気になれば、りんとした調子で恋のセリフを読み上げることだって、冷たい目くばせでいたいけな女子の恋の自爆装置を起動させることだって、女心を手玉にとって弄ぶことだって簡単にできるのに―それなのに、長尾ミグはそういった意思を露ほどもみせず、うだりあがった熱っぽい視線で活字ばかり眺めているのだ。晴れて恋が成就して、体面上は、二人の間で体や心のすみずみまでも心おきなく触れ合える関係がむすばれても、いっこうに変わる気配すらなく、長尾ミグは活字ばかりを相手にして、神谷リサの心も体も深くまさぐって、意地悪にいじくりまわしたり、奔放でイマジネーション豊かに弄んでしてみたりしないのだった。デートをしても神谷リサの体にはほとんど触れず、なにか「生臭いもの」をみるような視線で、コピーマシンの蛍光光のように上から下までパパッとスキャンするばかりなのだった。《つめたぁ~い こいつ…長尾って、なんてやつなの》―と神谷リサは感じた。同時に氷の冷たさが燃え立たせる「愛の炎」のパラドクスを思った。愛は氷で空虚に燃え立つものだ。頭ではわかった。そうかもしれない。でも、やっぱり、神谷リサのからだはついてこなかった。「もっと見て欲しいのに―もっと深く動物みたく愛して欲しいのに―もっと神谷をメチャクチャにして狂わせて欲しいのに―どうして記号を見るように神谷を見るのだろう―神谷はファッションの組み合わせなんかじゃないのに―神谷のきたなくて、はずかしいところを見て欲しいのに―服なんてどうでもいいのに―」神谷リサのからだは押さえがたく、そう言うのだった。神谷リサは長尾ミグの煮え切らない態度に自分はきたない、女はきたない、女性というセックスはきたないと思われ、さげすまれているような気がしていたのだった。それは女として女と認めてもらえないみじめさをふくんでいた。それで、神谷リサは「きたないはきれい、きれいはきたない」―とシェークスピアのマクベスの一節をなんどもなんども口にだして呟き、みずからをなぐさめた。それから、少しセックスに大胆でアグレシヴに仕掛けてみるようになった。デートの時、セックスのちがいをアピールした深いV字のシャツを着て、胸の谷間をつくった。胸をおしつけて、頬をよせた。生臭い、生物の吐息をはいて、浴びせかけた。カヒミ カリィのような、ウィスパーな囁き声で耳元をくすぐってみた。―が、どれもダメだった。いや、むしろ長尾ミグは以前よりも露骨に神谷リサを避けるような素振りさえみせたので、神谷リサはなにがよくって、なにがわるいのか、すっかりわからなくなって、内心、雲をつかむような気持ちに打ちひしがれるのだった。複雑な連立方程式よりも微妙で答えの難しい問題―それは筆記と頭ではなくて、心とからだの問題なのである。だから、しばらくのちに彼の部屋によばれて、友人にもあまり明かすことのない「2次元趣味」と「世界への苦しみ」とが明らかになったとき、はじめて神谷リサはしみじみと、長尾ミグの隠された性癖と性質の印象派の色彩のようなその微妙さ、そのむづかしさを理解するのだった。そのとき、男ごころを単純で操作可能、答えが明確なものと考えていた自分はあさはかだったのだと、ちょっぴりわかった。ちょっぴり悔しかったが、事実そうなので仕方なかった。ホワイトノイズのような蝉時雨けたたむ長尾ミグの部屋は数学モデルの構造でうめつくされ、数学の詩でかざられ、現実世界の次元数をおきかえてやろうとする無意識のたくらみにみちたものだった。部屋は、長尾 ミグの優柔不断な性質とはちょうどさかさまに、なにもかもがあからさまに目に見え、曖昧であることを拒否し、グラフィカルで明晰だった。神谷リサはそこでいつもよりも明晰なものとして意識される自分のからだのフォルムを知った。からだに関する意識とは空間に対応して知覚される。この部屋ではからだの線をあらわせる黒い服がいちばんね―と、神谷リサは心の中でそう呟いた。「まだ誰にも話したことがなくって、君にだけいうんだけど…」―とまえおきをしたうえで、長尾ミグは黒い長方形のノートをとりだすと、次元数をめぐる自分の認識を、顔を赤く染めて、でも優しく、しっとりとした調子で説明した。やがて熱がこもった。顔を赤くしたのは恥ずかしいからではなく、時をおいてやってくる熱をはじめにしめしていたからだったことに神谷リサは気がついた。長尾ミグの考える世界は奥ゆきと遠近法を欠き、のっぺり平面で、次元数をこの次元から1次元うしろへもどらさせたものだった。「次元とはなんだろう?時空間とはいったいなんだろうか?」長尾ミグは熱にうなされるように真っ赤な顔で神谷リサに問いた。いつものように自説を力説する長尾ミグは魅力的で自信にあふれていた。でも、しばらく彼の語ることをきいてみると、どうも長尾ミグはこの世界に熱く苦しんでいるようなのだった。それは世界そのもの、存在そのもの、意識そのものにたいする苦しみであって、彼自身どうやったらそれをなくすことができるのか、よくわからないようだった。熱病にうなされ、うわ言のように、せわしげに言葉をつないだ。「いいかい 神谷―つまり…」―と、そのとき、長尾ミグはそう結論づけた。「世界に深みなんてない!そんなものはありゃしないんだ!世界は本質的にぺらぺらでうすっぺらく、ばらばらで、からっぽの表面にすぎないものなんだよ。それをこの社会は深みをむりやりつくりだし、遠近法をむりやりつくりだして、自分たちのほんとうのよろこびを遠ざけて、にやついているばかりなんだ。本来、あるまじき「法律」や「常識」という自然のおきてに逆らう深みをつくりだし、それで自分で自分をしばりつけて、くたびれはてているのさ。現代人って奴らは、けして端へゆくことのないモノゴトとモノゴトの間で、じぶんたちを生ぬるく保存することばかりに気をくばり、自分たちをなぐさめているだけなんだよ。おかしいだろ。こんなの。病人どもだろ、こんなのは病んだ世界の弱者どもだろ。みな殺しにしたいだろ―え?、それじゃあ いつ 世界は喜びに満ちていたのか―だって?それは古代世界だよ。その世界のなかでだけ、人間はじぶんたちの世界を《それそのもの》として受け止める感性にみちていた。哲学と芸術をみればわかるだろ?それがどうだろう?いまの日本じゃあ人々はますます幼稚になるばかりの遠近法になやまされて、影のないところに影をさがしてばかりいるじゃないか!感情のないところに社会がつくりだした感情ばかりをみているじゃないか!よくいわれるように、人はもたれあって生きているものだよね。それで、もたれあうことによって、みんなでよってたかって、みんなを幼稚にしあってよろこんでいるんだ。ぼくはこの世界は次元数に狂っていると思っているんだよ、でも世界はぼくが狂っていると思っているらしいんだ。おかしいだろ?しょせん―この人間の世界は言葉のみせる嘘っぱちの世界さ。大人はみんな嘘つきだろ―だって、しだいにそのうち、言葉をからだであらわすものになるんだもの。みんな、嘘を嘘のうわぬりでなぐさめて、世界を世界のうわぬりでなぐさめて、言葉を言葉のうわぬりでなぐさめて、流し去っているっていうそれだけなんだ!なんて世の中だろう?なんて、世の中なんだい!ねぇ 神谷―教えてほしい。どうして、みんな何事もなかったようにふるまっていられるんだい?どうして、この堕落に気がつかないんだい?どうして、みんなは欺瞞を欺瞞と感じることなく、もっともらしい顔がしていられるんだろう?」ぴかりひらめく孤独の魂が精彩を放ち、数学の都市に病む長尾ミグの心がきらり輝くのを神谷リサは言葉のなかに見た。いちどとして、そんなことを考えたことは神谷リサにはなかった。「やっぱりぼくって女なのよね―しょうがないのよ、それはなんていうか、属性なのよ」その事を夕食のとき、両親に報告しながら、空中につぶやいた。言葉はLEDライトに電光表示される文字列となって、空中にちらつきまわっていた。《あのいっけん気まぐれで点滅していて甘えん坊にみえる長尾ミグがあんなことをあんな風に考えているなんて―ぼく、あいつをみくびっていたのね…恋はもっと簡単でからだでするものだと思っていたわ…》神谷リサは心のおく底でほろ苦く思った。たしかに、長尾ミグは簡単で単純な男ではなかった。神谷リサが手を焼いて、手をこまねき、おもわず両手をあげて、ばんざいしてしまうほどに複雑でむつかしいのだった。長尾ミグは「難解で複雑な高等数学の数式」のような男だ―と彼を称したが、そんなことは周辺のたわむれでしかないことはよくよく自覚していた。それで、家族が寝静まり、虫のやさしい囁きだけが響きわたる、ある初夏の夜、午前1時32分―いつもしずかで、おだやかで、人の話しが聴けて、ものごとを客観視する能力があり、困ったときに相談にのってくれる男友達に電話で問題をぶつけてみた。「でも―さ、ねぇ、男って欲望をもたないもんなの?それともアイツ、長尾ミグが特別ってこと?女が欲望をあらわにするっておかしいのかしら?それとも―女は男の欲望におとなしくしたがってみせるべき?男性ロックグループが歌ってみせてるような男の叫びをきいたほうがいいの?―ふだん男の言葉にできないウダウダってやつを?それで社会全体の女の良心であることを演じたほうがいいの?女の欲望ってさもしくあさはかなものなのかしら?それより―なにより、ねぇ―こんな宙ぶらりんにされて、期待ばかりさせられてる状態ってどうなのよ?とても健全とは思えないわ!」―と鋭い調子で、真剣に神谷リサは聴いた。男ともだちはその真剣をうけて、やんわりと立ちまわった。「う~ん―俺は男だからなぁ、質問全部には答えられないけれども…そりゃあ、シチュエーションにもよるけど、さ。ただ、ほら、昔からいうだろ。追えば逃げて、逃げれば追う―って。恋愛っていうのは、本来、欲望のゲームなんだよ」「いくつになっても?それは成熟した大人であっても?」「そう…だと思うよ。だから、この場合、神谷の意識や関心っていうのが賭け金なんだ。神谷はこの賭け金をもとに愛の値段をせりあげなきゃいけないな」そういわれて、神谷リサはびっくりして、おもわず声を張りあげた。「そ・そんなことぼくにできるわけがないじゃない!ぼくギャンブラーじゃぜんぜんないわ。パチンコだってやったことないし、花札だって、トランプのポーカーだってしないのに…」「それじゃあ あせらないことだね。話をきくと二人の関係は今のところイーブンといったところだろうから―落ち着いて、心をすこしづつ寄りそわせてみるんだね…」、うん わかったわ、キミがそういうなら信頼する、そうする、そうするわ!―と、そう答えて電話を切り、その言葉どおり、神谷リサはしばらく関係をほっておくことにした。しばらく、ふたり無口になった。やがて、神谷リサの事あるたびごとになにか言い出してしまおうとする自分を押さえるポーズ―両手で口を隠して、言葉を封じこめるポーズ―はすっかり板についた。沈黙をおたがいでわけあって、ゆきかう光と影をただただぼんやりと見つめ、耳をすませて、その隠された旋律を味わいぶかげにきいた。すっかり、すっぽり、すっきりだった。学校からのかえりみち、ふたり並んで、おびただしく砕けた太陽を吸った小川のせせらぎをみつめ、にゅうどう雲のたもとを声もださずにてくてくあるいた。世界は沈黙にくれ、ただその予感だけが騒がしげにざわめいていた。蝉しぐれの樹陰の木洩れ日の斑点を縫うように歩き、光にきらめく何万もの羽虫のつどう蟲ばしらを通りぬけ、鮮やかな田が蛍光グリーンに萌えさからんばかりの遠景とニッコウキスゲ咲き乱れる花畑の近景を、白いガードレールに寄りそってすわってみつめ、雲から雲をわたりさすらう風をうけ、期せずしておとずれた清涼に身をさらした。しばらくして、太陽がじ―と照りつけ、光の矢に刺されて、神谷リサはおもわぬ目眩に襲われ、ホワイトフラッシュに目眩んだ。陽光の企み、太陽の目眩い。頭がこてん―と長尾 ミグの肩へとたおれた。制服の白いワイシャツから石鹸のにおいがして、それが長尾 ミグのほのかにたちのぼる体臭とまじりあっているのを神谷リサは嗅ぎ、あわただしい胸さわぎがしたが、瞬間―吹く風にさらわれて、もとの清涼へともどってゆくのだった。「いい気持ち―」神谷リサはいった。「うん」長尾 ミグははにかみながら、うなずいた。胸がまたどきどきした。今度はもう風は吹かなかった。熱がこみ上げた。時間がこの「まんま」、止まってくれればいいのに…

其の四へつづく―
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