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日々雑感☆

いぜんにくらべて、文章がかけないここ最近。
わたくし、才能が枯れてしまったんでしょうか・・・それとも、枯れてしまったのは時間のほうかしら・・・。

どうも時間が描く線には二種類あるよう。

まず、ひとつめは硬質で、はっきりとし、直線を描く線。
もうひとつが、軟質で、もやりたち、螺旋を描く線。

このふたつが入りまじって、現実ができている。このふたつのいりまじりあいの中でリズムが生まれる。それは生命のもつリズムであって、すべてがこのリズムによって時間を奏でている。

それが表現したいのに―
なんだか、どうにもこうにも―

時間をとりもどすこと、リズムを奏でること。
自分を「ポイ捨て」し、リズムと時間の媒体となること。
才能とはその別名なのだろう。

才能とは、つまり、自分を「ポイ捨て」しなければ、けして行き着くことのできない場所へとゆきつくことができる能力のことなのだと思う。
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☆なんて未来のない国!!
さいきん、大手新聞をふくめて、マスコミは小沢潰しに余念がなさげ―

日刊ゲンダイによれば、どうやら大手マスコミの既得権益や地検特捜部が小沢の政策をおそれ、その地位からひきずり降ろそうとしているらしい。でも、もし、ここで小沢を降ろしたら、今の日本で誰が拡がる世代間格差をだれがいったい戻せるのだろうか?壊し屋だから、できることがある。蓮見重彦が某新聞で言っていたように「退職金制度」をやめて、若者に金を回すシステムをつくらないと、少子化と貧困の下部構造にあえぐ若者にあんまり未来はないよう。(「35歳問題」)自民政治のおわりとともに、欧米崇拝と官僚信仰はもうやめて、さっさと金を回すべきだと思う。おかしいかしら。それって。それから、人に律してもらうのをやめて、みんなが自分の頭で価値を生み出すようになれば、それこそが革命にならないだろうか?NHKの「坂の上の雲」じゃなくって、モデルや規範に体をあわせないで、自分が身振ることができたらよいのに。微妙にペシミスティックだけれども、そうなるにはすこし時間が必要で、もしかするとその時間はもう持ち合わせていないのかもしれないのだけれども・・・。
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☆「1Q84」と「甲殻機動隊」のダブルイメージ
おくらばせながらも、今ごろ、「1Q84」を読んでいるんだけれども、なんだか古き良き欧米小説を読むような感じがしてしまって、よいような悪いような感じ。というより映像として見れば、かなりの映像が既視感がある。昨今のレトロフューチャーな80‘Sブームとかぶる。おそらく、すこし映画や小説に詳しい人ならば、あ、ここってこの映画、お、ここってこの小説―といった映像が目にうかんでくるのではないだろうか?つまり、いろいろな映画や小説のパロディというか、パッチ、よせあつめといった呈。でてくるのはG・オーエルはむろん、チェーホフに、ドストエフスキー・・・ETC、それに「オウム」や「ヤマギシズム」といった共同体思想をからめ、レイモンド・チャンドラーでハードに味付けて、「パラレル」な構成にしたよう(これは春樹自身の過去の手法の踏襲?もしくはドストエフスキーの影響??)。いわば、ごった煮教養小説。でも、セックスと殺しがアクセントになって、文章、とても読みやすい。ほんと、読ませ上手。構成やテーマの複雑さにもかかわらず、つるつるっと読める。だれもが心の内側にひそやかに息づかせているマイノリティーの部分を解き放ってくれて、こんな自分も演じられるといった自己がひろがってゆくような歓びがある。でてくる登場人物はどの人も「特別な才能」があって、魅力的。小説がどういうものかのダイジェストとしていいんじゃないかしらん。こんな世界楽しそう―と思う反面、主役のひとりである殺し屋「青豆」がどうしても甲殻機動隊の「草薙素子」と重なってしまって、ついついダブルイメージに。

イマジネーションのなかで、ごっちゃまぜになって、古典教養小説風未来アニメになってしまった・・・。

似てないですか?ねぇ―

あ~んなハイテクじゃぁ~ないか・・・青豆さん。心あるし―
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☆音のない雪の結晶―APPLEという発想の転換―I-PHONE進化系
BEATLES-COMME DES GARCON-APPLE

携帯をもっていなかったのだけれども、APPLEの「ジョブスマジック」(笑)とI-PHONEのたくみな広告戦略に堕ちて、I-PHONEを入手する。いままでの愛用はもう5年ぐらい使いつづけている「I-POD第三世代」だっただけに、その多機能的な拡張は目を見はるばかり。じぶんが「よよ」と夜な夜なロシアの瞑想夢や革命思想の夢の顛末などにふけったり、醒めたりしているうちに現実世界の夢はこうも具体的で、こうも技術論的で、こうも機能的に「結晶化」したのか!-と、いきなり、横っ面をハリ飛ばされたように感じてしまう。本心をいえば、最新テクノロジーや最新モードにたいしては、とても微妙で、センシティブで、複雑な感情を抱いている。たしかにボクは、ウィリアム・ギブスンファンだし、モードファンで、EYE CANDYとして、それらを消費ではなくて、「享受」してはいるのだが、本心、微妙、センシティブ、複雑。あんまりすぐには飛びつかないで、模様眺めしているほう。だけれども、客観としてのI-PODをめぐるテクノロジーとの距離感覚の変遷ぐらいは素描できる。いささかたどたどしい線ではあるかもしれないけれども、以下に描いてみたい。

素描―
なにより、はじめてI-PODを見たとき、そのつるんとしたフォルムに肉体的なエロスを覚えた。秘められた股間の疼き。テクノロジーを見て、肉体をおもったことはそれまでほとんどなかった。でもPODにはそれがあった。なぜって、だって―それまでのテクノロジーはたいがい、突起があって、かちかちと音の打ち鳴るフォルムに収まっていたのに、I-PODには突起がなく、音を吸収するフォルムだったからです。こんな発想の転換がみちびきだされる。音を鳴らすこと(肛門期的―モダン)ではなくて、音を吸収すること(口唇期的?―成熟期的?-ポストモダン)。これは60年代現代音楽を考えてみれば、よいサンプルとなるだろう。現代音楽のマスターのひとり、ジョンケージの作曲した「4分33秒」である。この曲でジョンケージは音楽の概念をくつがえし、演奏者は演奏ではなくて、沈黙することによって環境音を表現するという発想の転換をしてみせた。これと近いような発想の転換をボクはPODに感じた。すなわち音を表現するのではなくて、音を吸収してみせること。冷静な沈黙―落ち着いたインテリジェンス―などを理解した。こういった転換的な発想はBEATLESとなぞらえる、APPLEのひとつの特徴だ。

思えば、BEATLESはPOP MUSICそのものだった。その転換的な発想がゆえに。そしてAPPLEはそういったBEATLESを忠実に映像としてなぞりながら(APPLEとはもちろんBEATLESのAPPLEのイメージ引用だろう)、よりPOP化したテクノロジーの夢を具現化してみせている。あるいはこのあいだ、STONESとBEATLESを引用してみせたファッションブランドのCOMME DES GARCONとおなじように60年代の夢の残滓をひろいあげ、10年代風の現実によりそった商品をつくりつづけている。

テクノロジーのちいさな結晶―そういったちいさなものが世界をREVOLUTIONする力をもつようになるのだろうか―と考えると、現実の夢もわるくはないものだなぁ~と思いました☆
by tomozumi0032 | 2010-01-22 13:39 | 日々雑感☆
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