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つれづれ日々のこと―クロスナショナリティの匂い

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☆たまにはすこしバルセロナについて
★たまにはバルセロナでの生活について、そのリフレクションとして見える東京―ひいては日本―について話しをしてみたいと思います。

★ボクは3年間バルセロナに住んでいたんですが、かなり「かわった状況」に置かれていたと思います。

★なにが「かわっていたか」というと、まず、両親と弟と住んでいました。
それから、バルセロナの中でも最古の地区におり、家は15世紀に建てられたものでした。その地区は盛り場やレストラン、ギャラリー、モードのお店がひしめいていて、アフリカやフランス、イタリアやイギリス、アメリカ、アジアにキューバ、フィリピン、それからイスラムといろいろな人と文化が混在する場所でした。

★こういった環境のなかにいたことは自分の人生におおきな影響を与えていると思います。さまざまなナショナリティーがクロスする多元的なモノの見方や考え方、価値観というものは自分に浸透しているものです。

★あの人種の坩堝のような感じ―それぞれのナショナリティの交錯する感覚。あのとき、それを端的だが、強烈にあらわすのは街角の「匂い」だと強く感じました。

★いろいろな国のさまざまな食べものや香水、大気、体臭。
そういったナショナリティの美的な感覚、体の感じが混然となってたち香っている。

★東京も多少はインターナショナルな感覚があるけれども、やっぱりバルセロナに比べると、旧態依然としている。東京人は頭ではナショナリティの多極化を理解できるし、しているのだろうけれども、体で知るというのは別のことだと思います。

★「モノ」や「文章」といったある意味ではキチンと整理された文脈ではなくて、「匂い」や「色」といったフィジカルな文脈として知るナショナリティ。

★それから、街角の「声」ではなくて、「音」そのものとして知るナショナリティ。

★なんだか、けっきょく―日本人は多国籍的なものの交じり合う「普通の国」にはなれないなぁ~とも思います。

★だって、潔癖で、消臭ばかりして、それを「文明」だと思いこみ、匂いが消された輸入品としての、「モノ」や「文章」、そして「モデル」ばかりを溢れさせているからです。それって、しかたがないといえば、しかたがないけれども、ずるい―といえば、ずるい。

★どうも、さながらロシア人―ドストエフスキーのように、ある抽象化された理念や幻想を「ヨーロッパ」に「投射」している。でも、そんな愛と幻想の理念が、ほんと、好きなんだろうなぁ~、それによって世界を錯覚し、その錯覚において幸せな気分になり、そんな紫煙めいた、「近代」という名の幻想に酔いしれている―その意味で幸せな民族だと感じます。

★もうすこし、フィジカルな文脈で味わえる混沌の幅が広がればなぁ~、そしてその混沌そのものを受け入れられるようになれば、本当の他者というものが受け入れられて、懐が深くなるのになぁ~とぼんやり思う。

★いくら魅惑的であっても、いわゆる社会意識を構成する「男」や「大人」は嫌いです。なぜなら、理解不可能なものを受け入れることができないから。そして、わかりやすい文脈で解釈をしたり、理解したつもりになったり、コントロールしたりしようとするのは、人間の「生命にたいする傲慢」なんではないでしょうか?

★だってだって、「生命」って、どうしようもなく、「匂い」という理解不可能なものによって活気付けられるものだと思うんです。嘘だというならプルーストの「失われた時を求めて」を読んでみてください。あの長大な小説世界の中で、プルーストは「生は匂いである」とくりかえし、示唆しています。

★頭だけでは片手落ち。

★やっぱり、体がとても大切です。

あたりまえですが、理解できることは理解できないことを前提としていて、ドゥルーズがいうように意味っていうのは意味がないことを前提としています。

★体で理解すること―つまり混沌と明晰ではないことを受け入れることを前提としないと、本当の意味でモノゴトを理解したとはいえないのではないでしょうか?すなわち、なにかを愛し、許し、受け入れ、それを理解するには、時と訓練が必要なのです。そして、こういった時がこそ、文化なのではないだろうか?―と、バルセロナでの滞在をつうじて、そう、考えるようになりました。

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☆せっかちな日本人、ゆっくりな欧米人
★べつに、スペインにいるからといって、スペイン人ばかりとつきあわなくてもよいのが「都市」の魅力です。(日本にいるからといって、日本人ばかりとつきあわなくてよいように―「都市」っていのはそういったものでしょう☆)

★人種の坩堝―でも、交流はどちらもたどたどしいスペイン語を介しておこなう―といった、ちょっとした間接性を帯びたINTERなコミュニケーションをしていました。

★当時はさほど感じなかったにせよ、今から鑑みてみれば、それは「ここである」ということが自明のことでは「まるで、ない」―と、いうことを示していたように思います。

すなわち、そのコミュニケーションにおいて、都市や国語(バルセロナ、スペイン語)は共有されているものであり、と同時に共有されえない国籍(日本)を前提としている。

★こういう場において、情報の交換をする、つまり「コミュニケーション」する―ということは、いくつかの複雑でかなり面倒くさい、手続きが必要となりました。これはけっこう大変です。どうしてかというとナショナリティや言葉といった同じ前提を共有していない、「他者」「他人」「別の人たち」と言葉のうえでの前提を共有するという作業をしなければいけないからです。

★その時、「アカウンタヴィリティー」―説明責任―っていうのはこういうことなんだなぁ~と実感したのをよく覚えています。

一見、煩雑で馬鹿げているような当たり前のことの積み重ねがどうして必要なのだろうか?―はじめはあまりよくわからなかったのですが、その時、よくわかりました。

それは同じ前提を共有していない「他者」「他人」「別の人たち」にたいして、前提を共有させるということなんですね。

★日本とはちがって、ヨーロッパにおいては、言葉はそんな機能をします。

すなわち、「他者」を理解しあうためには、煩雑で馬鹿げていて、当たり前であることを積み上げることがとても必要であり、「他者」相互間の「理解」というものはそうやって深めていくものだということをその時はじめて知りました。

それには時間がかかります。とても。

ヨーロッパのような複雑な「相互支配」―占領されることと占領すること(ちなみに、今の「ナショナリスティック」で「内向き」な日本に欠けているのは、ドイツを見ればわかるように、どんなに優秀な国でも、相互支配の文法からは逃れられないということなのだと思いますが―)の歴史と多国籍性をもち、成熟した交流というのはこの時間性の言い換えなのでしょう。

★それだからこそ、ヨーロッパの時間はアメリカや日本のように「せっかち」には進まず、「ゆっくり」と進みますし、この「ゆっくり」さに対する自負とプライドのことを「ヨーロッパ人」というのではないか―と感じました。

★くりかえしてみます、もういちど。

「「ヨーロッパ人」っていうのは「ゆっくり」考えて、自分に合うか合わないか、を取捨選択して、それでも、建築的に「前へと進むことへの意思とプライド」の言いかえのこと―なのです」


★それにくらべてみれば、日本の言葉は「せっかち」です。
それは「他者性」というもの、「他人」というもの、「理解不可能」というものを括弧にいれていて、管理と衛生において、「未成熟」で「幼稚」を前面に押し出して、これが実利的で、金になる価値であると、さだめるからだ―と、思います。

「せっかち」で「幼稚」な国というともうひとつの国はアメリカであり、アメリカ文化は本質的に「せっかち」で「幼稚」で「未成熟」でヨーロッパに対するアンチテーゼという側面がありますが、こういった在り方のコピーをどうも日本人はやっている。

★それが、個人的にいつも残念だなぁ~と思うところです。

★日本だって、成熟した大人になったっていいじゃないか!

よくよく、考えてみれば、「他者」や「他人」、「理解不可能」なものを受け入れることができない「せっかち」な子供社会、「やわらかな笑顔の同質管理社会」が、今の風潮のように、ただしいといえるのでしょうか?

日々をにぎわせる表面、NEWSさながら、モノゴトはそんなにプラグマティックな「機能」と「金」、あるいは「快楽」や「幸福」のみで実証され、その跡付けとして、とってつけられたような説明で満足されるものと考えるのは、あまりにも、短絡で、一面的、日本人が無意識レベルでよく表現する「傲慢さ」以外のなにものでもないと、思います。

★正直をいえば、日本が「麻生太郎」レベルの知性での先導による(要するにこれは「いい人」だが「バカ」ということですが―)、幼稚な漫画化、「手塚」「宮崎」「斉藤たかを」化してしまい、女子供のファッション化ばかりしてしまうこと、あるいは「金」と「権力」、そして犯罪者のその反語によって支配されてしまうことは、幼年期の延長として、どうにも仕方ないかもしれないが、なんとはなしにまずしくて、どこか、さびしい印象があります。

★「他者」を受け入れて、「幼稚化」するなら、いざしらず。

「他者」を拒んで、「幼稚化」し、感情や情緒的な「好きや嫌い」、つまり感情の「暴力」に訴えてゆくのは「今の中国」並みのファシズムと中央集権化だと思います。

★「他者」を受けれいることを、もう少し、わたしたち日本人は「学ぶべき」ではないでしょうか?

たとえ、それが早死にを促そうとも・・・。

★それが日本という共同体的部族社会にとって、良いか悪いかはいざしらず、自分個人、敷衍していえばナショナリティっていうのは意識するにせよ、しないにせよ、実は「他者性」という「理解不可能性」によってできていて、それを意識することがない―といったフロイト・ラカンを思い出すべきなのだ―と、クロスナショナリティの体験を経て、じょじょにですが、そんな風に考えるようになりました☆

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