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つれづれ日々のこと―夢日記3―


◆・・・え、え~、来週っていってたけど、おそくなっちゃいました。
ごめんなさい☆

時間かかんだよね・・・つかてか、じっさい☆
じぶん、とろいっす・・・押忍☆

言い訳がわりにひとつ、いんよ~☆

「かぁちゃん・・・人にはそれぞれあった道ってもんがあんだよ。もっと優しく大きな愛でひ弱なボクをつつんで欲しいなぁ~」
ツッパリHIGHスクールロケンロ~「横浜銀蠅」(クリックすれば、YOUTUBE!)


・・・・っつ~ことで・・・はい、さて、話し、つづけてみます。

ちょっと時間がたったので、も~すこし方向を変えて、も~すこしこの夢という現象を多角的に検討してみます。

ちなみに前回はこちらです☆

デヮ、以下で、かの夢の世界をぐっとまさぐり、ぐぐっとぐぐ~る、ぐぐぐっとせまりたいと思います。

激マジっす、夜露死苦☆4649☆
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☆あっちこっち―それもあれも―ぜんぶぜんぶ
◆夢をすこしマジメにさぐってみると、わかることは、夢が「あっちこっち」に、分裂していることです。「現在」が《へ~ぜん》と、あっちいったりこっちいったりする。あちこち、あっちこっち、どっちにゆくのか、わからない。

◆「夢見る人」がよく知っているように、夢にはいつも「現在」であることを逃れてしまう性質があるようです。そこには「現在」よりもすばしっこい「現在」があって、それはこの世界の「言葉」として捕らえられた時点ですでに遅い。だって、言葉になってしまったとき、もう別の方向へ飛び去ってしまっているからです。夢のなかでは、言葉はいつもおくれて、やってきます。言葉っていうのは「永遠の遅刻魔」みたいなものです。そして、だからこそ、夢とは本質的に「現在」として言葉で捕らえることがでない性質をもっているようです。

◆さながら、夢は圧縮されたイメージという「別の言葉」によって、交錯し、捕まえることができない永遠の「現在」を表現しているようです。やや距離をおいて、言葉としてとらえられた夢の風景を見ていると、まったく、ルイスキャロルが「不思議の国のアリス」でいわせたこんな言葉が思い浮かんでしまいます。

「どっちなの?―いったい、どっちにいったらいいのかしら?・・・」

◆方向性がたくさんあるということ。
そんな状態を、べつの言葉でいえば、「モラトリウムなパラドクス」と言います。そうして、今の社会状況を示すような状態というのはどうもそんな感じがしてしまうのです。「あっちこっち」―「あれもこれも」―夢はひそやかに現実との距離をせばめ、そのあいだに計られてきた距離をなしくずしにしてゆくようです。それは夢本来の隠された企みなのでしょうか?夢という言葉、それ自体になんらかのプログラムが内在され、そのプログラムにしたがって生きているのでしょうか?人はこのイメージという「言葉」の世界の中で夢を現実ととりちがえ、現実を夢と「錯覚」することによって生きている?

もしかすると、なんらかの超知性体による夢の支配―管轄―管理がおこなわれているのかもしれません☆(アーサー・C・クラーク的妄想かしらん・・・)

☆夢は退行的―レトロスペクティヴな原始の言葉である―カウンターカルチャー退行文化―共産主義という夢―映画という夢
◆さて、つづいて精神分析の古典的名著「夢判断」より、フロイトの興味ぶかい指摘を見てみましょう。フロイトは夢分析の過程のなかで、夢にある「退行的―レトロ―」な性質に注目しました。

◆夢は時を逆回しさせ、レトロに後ろに巻き戻して、意識を退行させるようなところがあります。そしてここから拡げて、夢がもしかすると人間そのものの時を逆回転させ、その痕跡をとどめているのではないかと考えたのでした。

◆「夢を見るとは、おおざっぱにいえば、その本人のもっともはやい体験への部分的な「退行」であり、その本人の幼児時代の再生、その幼児時代に支配的だった衝動の動きや表現方法の再生ではないだろうか?しかしこの個人的幼年時代の背後には、系統発生的な幼年期、つまり人類の発展が顔をのぞかせているのである。そして、個々人の幼年期は、人類の幼年期の短縮された、偶然の生活諸事情によって影響されたくり返しにほかならない。ニーチェは夢の中には「いっぺんの原始の人間性がはたらきつづけており、われわれはそこへ直接にはほとんど到達しがたい」といっているが、この言葉がいかに適切なものであるかがよくわかる気がする。」「夢判断」(下巻―P409)より☆

◆「夢見る人」の時はかならずしも一方向に進むものではない。
それはレトロ―退行的―に進み、それゆえ、現実社会にたいして、「対抗的―カウンター」なものです。60年代、世界を熱く燃やしたグレイトフルデットやドアーズ、ビートルズストーンズに見られる「カウンターカルチャー」、すなわち「対抗文化」とは進化論的時間軸と、軸の異なるものであり、レヴィストロースのいった「歴史の否定―冷たい社会」に近い。レヴィはインディアンの社会に複雑で精緻な象徴の言語体系と進歩史観のなさを見出し、それを歴史的進歩史観に対して突きつけました。(進歩史観に乗っ取った西洋社会「熱い社会」、進歩史観のない未開社会「冷たい社会」)それと同じようなものが「対抗文化」や「夢見る人」のなかにはあるのだと思います。

◆考えてみれば、そんなぐあいに冷たい「対抗文化」を指向したのではないものの、かつて共産主義の立役者「レーニン」は「夢見る人」でした。「ゴーゴリー」がそうでした。「ドストエフスキー」がそうでした。ロシア人にはこういった感染症的な「夢見る人」の資質と才能があるようです。そして共産主義はまずはじめにはこういった《ヨーロッパの子供》としての「夢見る人種―ロシア人―」によって始められた運動だった。もちろん、システムとして共産主義はとてもいけないことをいっぱいしてしまいましたし、その機能不全は今では明らかですが、それでも始めにそうした「夢」から生まれたことは確かなようです。

◆古くはパリのシュールレアリストたち、ビートルズやゴダール、全共闘を見ればわかるように、20世紀というパラダイムの中で、わたしたちには「夢」があった。それは共産主義による「新国家創立」という「夢」でした。ところが、それが「悪夢」であったことは、いまの日常での社会認識、知的認識にあきらかです。旧ソヴィエト連邦は「ラーゲリ」といわれる強制収容所をもうけ、逆らう人々や旧権力者、農民をおびただしい数、大量虐殺した。あるいは中国の「文化大革命」といわれる幼稚な、しかし、その強度として今なお影響力をもつ「伝統破壊運動」により、自らによって自らを破壊し、「権力の恐怖」を人々に植えつけた。

◆レヴィ風に言い換えれば、進歩史観の「熱い社会」は、大地の農民の「冷たい社会」に搾取以上に、手ひどい仕打ちを加えた。たしかに「新国家」は設立されたのだけれども、現在に残る断絶と民族紛争の火種を撒いてしまったそれは「20世紀最大の失敗」だったと思います。たとえ「マルクス」、「レーニン」がいかに知的に優れており、「毛沢東」や「スターリン」が巨大な権力を握り、「スプートニック」が束の間の勝利を味わおうとも―。(「環境」「ECO」の連呼に見られるように、進歩史観による「熱い社会」を今日に生きるわたしたちはもうそれほど信じられません。すこしづつ社会は「萎縮」し「閉塞」して、「冷たい社会」―象徴の世界へと退化していっているようです。)

◆わたしたちは「知性」といわれる言葉のまやかし、「夢」と「革命」をめぐるこんな有様、こんなみじめで貧しい有様を知っています。知ってしまっているのです。それがどうして「夢」に対する無邪気な態度に「YES」といえるのでしょうか?20世紀後半の「世界経験」が教えてくれたように、20世紀前半に「夢」見られたひとつのおおきな夢は失敗でした。日本の作家、村上春樹の挫折の空気を孕んだ著作が表現しているのは、こういった20世紀後半の挫折をめぐる意識回路であって、共産主義がありえないアメリカに対する微妙な距離感と暗黙の批判、にもかかわらず「ダンス・ダンス・ダンス」しなければならない高度消費社会を描いています。この「微妙な含み」の中にヨーロッパやロシアでの人気がうかがえます。つまりそこにはもうひとつの世界の匂いがするのです。いやおうなしに―。

◆すこしそれましたね。話しをもどしましょう。
フロイトが明らかにしたように、「夢」はもうひとつの、オルタネティブの言葉の世界です。それはこの「世界の言葉」とは別の言葉の体系であり、「形象―フォルム―」や「幻覚―イメージ―」による原始的で退行的な言葉の世界です。そして、わたしたちは現実世界の意識的な言葉だけでなく、「形象―フォルム―」や「幻覚―イメージ―」といった無意識によっても思考しているとフロイトは考えました。(ちなみに、「無意識」は「星」のようなもので、「昼間」も輝いているんですけれども、「意識」という「太陽」になぞらえるモノが強すぎて、あまり見えないものとされます、「無意識」の言葉―「形象」と「幻覚」には闇が必要です)

◆ところで、これって何かに似ていると思いませんか?
つまり―「形象―フォルム―」、「幻覚―イメージ」が闇を背景にすることよってされる思考って・・・。

そう、え~が、えいが、「映画」、「映画の世界」がこういった思考のあり方に近い。

映画監督は別の世界の言葉を使って、現実の世界を再構成する人なのであって、その意味で「夢見る人」の系譜の代表的な表現者だと思います。

たとえば―そうですね、無声映画やトーキーの方がそうだったんですけれども、シュールレアリズムと映画との密接なつながりや、ダリと組んだ映画監督ルイス ブニュエル、あるいは「8 1/2」っていう夢の映画をとったフェディリコ フェリー二、喪失された時間軸と象徴的なメタファーの世界をさまようミケランジェロ アントニオーニ、ロシア文学的な物語を好んだ黒沢明、それからスピルバーグなんて、そうですよね。

◆まぁ、名前をあげればキリがないくらいに、いっぱいおっぱいバレーなので、そのあたりはみなさんのご想像におまかせすることにしましょう☆

おっぱいばっかり想像しちゃあ、ダメですよ(笑)
ただのエロじゃあ、それだけじゃあ、いけません。

映画監督もまたひとつの言葉、夢の言葉、退行の言葉、原始の言葉の体系を駆使して、表現する表現者なのです。

◆つづきは次回!!(も~「来週」なんていいません、かわりに「いつか」、「きっと」、「たぶん」ということにしておきましょう☆)
by tomozumi0032 | 2009-05-03 18:21 | 夢日記
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