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フラジャイル―弱さからの出発



フラジャイル 弱さからの出発
松岡 正剛 / 筑摩書房




☆松岡正剛について
まずは著者、松岡正剛を紹介してみます。プロフィールの引用から。

1944年、京都生まれ。編集工学研究所所長。ISIS編集学校校長。科学から芸術におよぶ多様なジャンルに取り組み、その研究成果を著作、映像、マルチメディアとして発表している。独自の視点による情報文化論、日本文化論に定評がある。おもな著書に「空海の夢」、「知の編集工学」、「情報の歴史を読む」、「知の編集術」、「日本流」、「日本数奇」、「山水思想」、「遊学」、「花鳥風月の科学」、「ルナティクス」ほか多数。

なお、プロフィールには書かれていませんが、京都の呉服屋さんの出身のようで、世間の諸事に関心のある趣味人、遊び人(ほいじんが?)の「血」を―「知」を?-引いているそうです。

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☆FRAGILE
それではこの本の書名、フラジャイル―FRAGILE―とはなんでしょうか?
語義の訳としては「脆さ」、「弱さ」、「壊れやさす」などが適当なところでしょうが、松岡はラテン時代初期の言葉「フランゴ―FRANGO」にその源泉を見ます。この「フランゴ」という言葉は、「破砕する」や「誓いを破る」や「弱める」といった意味をもっていたそうです。そこから派生して、断片性を意味する「フラクタス―FRACTUS」や「フラギリタス―FRAGILITAS-」、廃墟性を意味する「フラーグメントムーFRAGMENTUMー」が発生したらしい。そしてこのフラジャイルとはこういった言葉と語源をともにするものとして描かれています。

そう、つまり、それは弱くて、脆くて、あやうい。

「むろん、フラジリティは強くない。フラジリティは弱くて薄く、細くて柔らかい。フラジリティは脆弱の歴史というものの本来なのである。
それゆえ、フラジリティはたいていのばあいは強靭を否定し、つねに強制をいささか離れようとするのだが、そのフラジリティをつかまえて制圧するのは厄介である。やめたほうがいい。なぜなら、フラジリティは壊れやすいくせにやけに柔軟であり、破損を好むくせに消滅がないからだ。それはつねに部分性であろうとするからである。しかし、フラジリティがどんなに準備された制度からも自由であるということはない。むしろフラジリティはふりかざした制度の裏側にひそみ、強化のプログラムの隙間から放出されてくるものなのだ」(本書より)

☆弱さの未来性
そんなわけで、この本はFRAGILEなこと-「弱い」ということそのものに焦点があてられた本です。弱さにまつわる単語は拡大されて、こんな風に列挙されています。

「弱さ、弱弱しさ、薄弱、軟弱、弱小、些少感、瑣末感、細部感、虚弱、病弱、希薄、あいまい感、寂寥、寂漠、薄明、薄暮、はかなさ、さびしさ、わびしさ、華奢、繊細、文弱、温和、やさしさ、優美、みやび、あはれ、優柔不断、当惑、おそれ、憂慮、憂鬱、危惧、躊躇、煩悶、葛藤、矛盾、低迷、たよりなさ、おぼつかなさ、うつろいやすさ、移行感、遷移性、変異、不安定、不完全、断片性、部分性、異質性、異例性、奇形性、珍奇感、意外性、例外性、脆弱性、もろさ、きずつきやすさ、受傷性、挫折感、こわれやすさ、あやうさ、危険感、弱気、弱み、いじめやすさ、劣等感、敗北感、貧困、貧弱、劣悪、下等観、賤視観、差別観、汚穢観、弱者、疎外者、愚者、弱点、劣性、弱体、欠如、欠損、欠点、欠陥、不足、不具、毀損、損傷・・・・・・。」

こういったマイナスイメージの言葉を松岡は残らず擁護します。
さらには、けしてむくわれることのないひたむきさ、ゲイ、「ネオテニー」とよばれる幼形成熟、イタリアの「弱い思想」、量子力学と相対性理論によって導き出された「弱い場所」、全体にはいたらない断片、夕暮れの薄明の感覚、ヤクザや部落の人々、どさ回りの芸人、踊ること、振舞うこと、らい病―ハンセン病、侘び茶―などなどといっためくるめくような博学、広範囲におよぶ、いろいろな意味での「境界線の上にあるもの」もまとめて擁護されます。どうやら、松岡はそういったものの中にひとつの可能性を見ているようです。それは今ここで想定されるのではないもうひとつの未来であり、不確かで、小さく弱い可能性のようなものですが、けして、ないわけではありません。むしろ、わたしたちはこういった弱さに賭けなければならない時代に生きているようにさえ思います。小さく、不完全で、淡くて、もろく、傷つきやすくて、それこそ今にも消えてしまいそうな「フラジャイルなもの」―そのなかにこそ強さや傲慢さ、鈍感なものにはない可能性、「もうひとつの未来」―が眠っており、それが時を切り開いてゆくのではないでしょうか?

☆弱がりな若者たち
さて、ここではすこし話しを変えて、別の角度から「弱さ」というものを見てみましょう。「現代に生きる若者の弱がり」について―です。

世の常として、大人たちというのは勝手なもので、いつの世も「今どきの若者」といいます。もちろん、若者だって完全ではないですし、言われるには相応の理由もあるのでしょうけれども―けれども、人は時代を選んで生まれてくるわけにはいきませんので、時代というものを自分の中に微分して、自我を形成する。高度経済成長期の人々はたいがい「強がり」、「強いこと」―もちろん、ここには国際的な見栄や体裁もふくまれるでしょう、つまり国際的標準規格に適合すること、国を欧米並みにすること、ちいさな左傾化―を前提として自我というフィクションを組み立て、成長期がすっかり終わってしまった今を生きるわたしたちは「弱がり」、「弱いこと」―国際的な見栄を捨て、国際的標準規格からすこし外れてしまうこと、国の個性、ちいさな右傾化―を前提として自我というフィクションを組み立てているように見えます。たとえば、三島由紀夫はいろいろなんだかだ、そうはいっても、「強がり」で強いことをアイデンティティのなかに組み込んで、言葉を構造化し、小説にしたり、人生を組み立てていきました。このあいだの文芸春秋に麻生総理大臣が「強い日本を」という論文を出していましたが、まったく強がって、よくいうものです。実際のところ、現代に生きる小説家やひとびとたちって、心の中では、そうではないのではないだろうか?どちらかといえば、正反対なのではないだろうか?「弱がり」で弱いことを前提としているんじゃないか?そりゃあ、みんながみんな「弱がり」かといえば、そんなことはなくって、ついつい「強がる」人だってなかにはいるけれども、現代はそうやって「強がる」ことよりは「弱がる」人のほうが主流になった社会だといえないでしょうか。「弱がり」の連合を文化と呼ぶならば、それがこそ文化。なぜっていえば、文化というものは「弱さ」の告白めいた場所から始まるものだからだと思います。べつの言葉でいえば、「強がり」は社会の適合の言葉、社会に対する認知の言葉、「弱がり」は社会からこぼれ落ちてしまう言葉、社会に対する非認知の言葉だといえると思います。一般に流通している社会の言葉は、新聞を見ればわかるように、あくまで見栄や体裁、強さ、わたしという自我、数字といったフィクションを前提としていますが、でも―はたして、そればかりがわたしたちの心の中にある言葉なのだろうか。そういった社会の言葉ではなくて、そこからこぼれおちるような最小の言葉、もっとも弱くて脆くてとらえがたい言葉にこそ、共感や交流はあるのではないでしょうか。そんな意味でこの本はとても興味ぶかい現代の若者の心のあり方や精神生活のようなものに対する、深い示唆に富んでいるのだと思いました。

☆幼形成熟―ネオテニーーについて
「ネオテニーという言葉は胎児や幼児に特徴的な形質が成人になってもまだ残るというときにつかわれる。幼い形のまま成熟してしまうこと、それがごく一般的なネオテニーの意味である。それが種を超えて継承されることがある。」(本書より)

よく思っていたのですが、小説の魅力や漫画、映画の魅力のみならず、人間の魅力というものは、結局わたしたちが子供のころに思い描いていたあるモデルや憧れと深い関係をもっているものではないでしょうか?

だからわたしたちは大人になって、これが正しいとか、これが可笑しいとか、これが美しいとかって思うのだけれども、それらはすべて子供のころのモデルや憧れに根ざしているのではないだろうか。さらには、ある人に親近感を覚えたり、ある人を遠ざけたりする心の動きの奥底にはこういった「幼児性」のようなものがあって、この幼児性を支配するのが作家の仕事なのではないかなぁと思っていました。だから人間はその人の持っている子供―あるいは動物の部分を支配されるとどうにも弱いところがある。決定的に心を支配されてしまう。それはわたしたちの心の一部分が発達に取り残されたまま、子供の頃から置き去りにされて、成熟する意識の部分からひきはなされてゆくからだと思います。つまり人が大きくなって成熟するというのは、均等になされるわけではない。そうではなく、ある部分のみが発達し、ある部分はまったく子供のまま残されている。しかし、だからといって、わたしたちは自分の子供心を捨て去ることもそこから抜け出ることもけして出来ないはずです。なぜって、もしそれを捨てたり、抜け出たりしてしまえば、ある喪失感を伴い、精神生活に打撃を与えるものだからです。もしそこがなくなってしまったら、生きることはあまりに味気のない、つまらないものになってしまうのではないのでしょうか?松岡は本書の中でこういった洞察を「われわれは幼な心の完成に向かっている」という言葉で表しています。そして、このことを広い意味での生物学的で科学的な推論によって明らかにしようとしています。ここではいわゆる「ピーターパンシンドローム」―あるいは「オタク」といった閉塞的な子供たち―を批判するような「表面的な退化」という視点は退けられます。(それよりも「遅滞」、すなわち「あえて遅らせること」が生物の進化的成熟をもたらすものではないだろうか―と問います。)「利己的な遺伝子」で一躍有名になったリチャード・ドーキンスのDNA中心主義的な考え方、あるいはダーウィニズムの淘汰と進化のヴィジョンはRNAとウィルスにおきかえられています。DNAはウィルスが運ぶものではないだろうか―というのがこの論の中心です。ドーキンス流の遺伝子論が「ひとつの情報パック」による情報伝達の系の考え方だとし、ひとつの中心をもったシステムだとすれば、松岡の提唱するRNAとウィルスの考え方の系は「より多くの情報」によるより微分的で、非中心的なシステムだといえます。これは、つまり、ウィリアムバロウズが言ったように「遺伝」ではなくて、「感染」の経路を重んじることです。たしかに、わたしたちは言葉でも、ウィルスでも、「感染」しあうものなのではないでしょうか?以下本書を見てみましょう。

「ウィルスは種をこえて遺伝子をはこんでいる。ではそうなるとどういうことがおこるのか。たとえば、サルと類人猿のあいだでウィルスが感染したら、サルの遺伝子が類人猿にとりこまれる可能性が充分にある。類人猿どうしでも同じこと、さらには、やっと人になりかけた人猿が類人猿の遺伝子をつかうことになる可能性もある。
もしこうしたことがおきていたとしたら、われわれは進化のある時期に、サルの幼児を調整する遺伝システムを借りてきてしまったのかもしれない。そのうえで、人は脳の成熟をきわだたせるために、わざわざ成熟を遅らせたのかもしれないのだ。きっとネオテニー戦略とはこのことだ。」(本書より)

―以上からわかるように、わたしたちは新聞やNEWSにみられるような経済学的な視点のみから、進化や退化を語るべきではないのかもしれません。中心がひとつの時代ではなく、多くの中心がある時代、「遺伝」ではなく、「感染」の時代。そんな時代のなかで、幼形成熟の魅力はますます増すばかりなのだと思います。

☆おわりに―ドゥルーズと松岡
本書に対する興味は尽きづ、ゲイや渡世人とワンダーフォーゲル、かぶき者、ちんどん屋、一宿聖、遊女のこと、優生学にたいするかなり突っ込んだ批判など、ほんとはもう少し書きたいのだけれども、ここら辺でやめておきます。―つか、もうページがいっぱいいっぱい。最後に言っておくと、本書を読んで受けた印象は松岡正剛の考え方は、フランスのポストモダン哲学者ドゥルーズの考え方と近いということです。だからとても楽しく面白く、にやにや、げらげら読みました。やっぱり優れた知性ってあまり意識せづとも、背景としている時代の精神に近づくものなのかしらん―

う~ん ぜひネットだけではなくて、本を読んでもらいたいなぁ~と思いました。べつに正剛の回しモンってわけじゃないんですけれども。「弱さ」という「強さ」、「強さ」という「弱さ」-相互関連しているもんですよね。じっさい☆

ね―☆

☆それから―
それから、松岡正剛は「ろけんろ~」をよくわかっているといいたい☆
この本には69を感じました☆
とても―

われわれは「感じやすい問題」をとりもどす必要がある。それには「私」の襞を柔らかくして「私」の半径をせめて歩道橋よりも大きくする必要がある。そして、内なる誰かを外なる誰かと結び付けてみる必要がある。
もともと「感じやすい問題」などという問題は、なかなか思想にはなりにくい。きまって個人の感覚や個性の問題に帰着されてしまうからである。かつて実存主義がせっかく「気分」を問題にしていながらも、しきりに「現存在」に足をすくわれて、次の一歩を打開しきれなかったという例もある。けれども自己の境界部分をできるかぎり感じやすい状態にしておくということは、もっとわかりやすくいえば「泣き虫」にしておくということは、社会がかたちづくった勝者や強者の論理にくみしないということでもある。つねに自身の半径をヴァルネラブルな傷つきやすさにおいておくということだ。」(本書より)
by tomozumi0032 | 2008-10-25 15:23 | 哲学批評評論
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