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ジャンキー


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☆麻薬という教師
まずは本書より、引用から―
HERE WE GO☆

「わたしは麻薬に親しんだことを後悔したことは一度もない。ときどき麻薬を使ったためにいまでは常用者にならなかった場合の自分よりも健康になっていると思う。人は成長が止まるとともに死にはじめる。麻薬常用者はけっして成長を停止しない。」

どうやら―ウィリアム バロウズによれば、麻薬は「健康」にいいらしい。
しかも―麻薬を打ち続ければ、つねに成長できるようだ。
そればかりか―若く見えることができて、すばらしい長生きも可能だと、彼はいう。

「たいていの常用者は実際の年齢よりも若く見える。科学者たちは最近の実験によって、ミミズに食物を与えないようにすれば、その体を収縮させることができることを発見した。それゆえ、ミミズを周期的に収縮させて絶えず麻薬停止状態を保つようにすることができれば、すばらしく長生きをすることになるだろう」

さらにバロウズは人生を麻薬から学んだ。

「私は麻薬の方程式を学んだ。麻薬は酒やマリファナのような人生の楽しみを増すための手段ではない。麻薬は刺激ではない。麻薬は生き方なのだ」

ここから導き出されることはつまり学ぶ姿勢があれば、すべては教師だということだ。麻薬や酒、マリファナ、あるいは怠惰や自堕落、頽廃や睡眠、夢みること、これらもまた人生の教師になりうるということである。実際、「裸のランチ」の中でこんな言葉もバロウズは吐いている。以外と勉強家なのだ。こうみえて。

「人生はどの生徒もそれぞれ異なる課目をまなばなければならない学校だ。」(「裸のランチ」)

麻薬を教師としたひとりの生徒の描いてみせた小説―ボードリヤールは「現代消費社会の中でわたしたちはわたしたち自身の「欲望」から目を背けさせられている」といっているが、バロウズにあるのはこの剥きだしてハレーションを起こす「欲望の歌」だと思う。たしかに時折、わけのわからない妄想じみてはいるものの、本当の意味での「自由な作家」とは彼のような男のことをいうのではないだろうか。彼は動かない。ホコリが積もるぐらいピクリともしない。そして動かないことによって、光速で、電撃の脳内のイマジネーションの破裂、そのハレーションを描いてみせる。

ヴェルヴェットアンダーグラウンドのルーリードが、ニルヴァーナのカートコバーンが、あるいはウィリアムギブスンが憧れ、そのある部分での表現が、「バロウズからのインフルエンス」として読まれるのも、この常人ばなれした「幸運」と「知性」と「感性」を味方につけた現代詩人の影響の大きさといったところだろうか―ますます昆虫化してゆく現代社会を生きる作家は、おそらくそうとは知らずにウィリアムバロウズ化してゆくようにも思われてしまう。

そう、なぜなら―まばゆくて、表面的、POPでCRAZYでとびきりCOOLなこの作家は現代文明の極点としての表現を試みた。つまり、短絡された回路と強度の言葉にならぬ領域を表現したのである。

☆SUPER COOL 
「麻薬中毒者の身体はさらに他の属性であり、<SUPER COOL>=0から始まって、特異な強度を生産する。(「麻薬中毒者たちはいつも、彼らが<SUPER COOL>と呼ぶ現象を嘆く。黒いマントのえりを立て、乾ききった首を拳で締め付ける・・・」だがこれはみな演技にすぎない。麻薬中毒者はぬくぬくしているのを好まない。涼しさ、冷たさ、<SUPER COOL>を欲するのだ。しかしその<SUPER COOL>はただ麻薬からだけやってくるのでなければならない。」<「ミルプラトー」ドゥルーズ=ガタリ(P171)>

バロウズはウォーホル同様、あるいはTV画面同様に<SUPER COOL>な存在だ。
麻薬の酔いは酒の酔いとは違う。酒の酔いはカラダを火照らす熱だが、麻薬の酔いはカラダを冷たくさせる熱だからで、古く中国の書家たちは五石散といわれる危険な合成麻薬に酔いどれていたらしい。安全性や管理をひとまずおいた人類進歩という観点から見れば、麻薬は人間の歴史の中に内在されている。コンピューターカルチャーもその例外ではなく、たとえばAPPLEのスティーブ・ジョブスが長髪でインドをうろつくヒッピーだったことは象徴的だし、SF作家ブルース・スターリングの指摘にあるように、ヒッピーロックバンド―グレイトフルデットやサイケデリックカルチャー、テクノカルチャーやサイバーパンク、映画「MATRIX」―などPOPなDRUG文化とコンピューターとの親和性の高さ、シリコンバレーがサンフランシスコにあることなんてことを考え合わせたっていいだろう。

それは熱い酔い、ホットな陶酔ではない。<SUPER COOL>な酔い、冷たい陶酔だ。

おそらくは現代文化の陶酔とは実は酒の陶酔による知覚のフラクタルな遊びではなくて、麻薬の陶酔による知覚のフラクタルな遊びに近いのだろう。カットアップという手法をつかって描かれた「裸のランチ」や「ソフトマシーン」で試みた知覚の遊びはそういった現代文化の先取りを啓示のようにやってみせたところに価値がある。それは極点。死と生、現実と妄想の境目をひたすら冒険するということ―

☆生物学的視点から眺められるジャンキー
さてこの本だけれども、前述した「裸のランチ」や「ソフトマシーン」にくらべると、ノンフィクションタッチで読みやすく、意味と文脈がある。それらの本の中で分解されて、断片的な言葉の廃棄物と化したものがこの本の中では現実的な体裁を整えている。がしかし、そのぶん詩的なサイケデリックハレーションに乏しく、彩りに欠ける。もっとも現代人の頭にはこちらの方が意味と文脈があって、理解しやすいし、普通の読書だったらこちらは解る範疇のようにも思う。「ワタシには自分が何をしているかも、自分が何モノなのかもわからない」(「裸のランチ」)ことはないだろう。すくなくとも―

なにより外部的で感傷をまじえない硬質な文体と人間という種を見つめる生物学的な視点が背後に感じられ、いつもバロウズに感じる「博士っぽさ」をより強く感じた。夏目 漱石もそうだが、人間という種族に対するこの距離感覚が、バロウズを凡百の作家とは別の次元にしているように思う。

☆SUPER COOLの効用
たとえば、なにかを食べる。食事をする。どんなに美味しいものであろうと、それは熱量にかわり、エネルギーとなる。やがてそれは蓄積して、じょじょに太った豚になってゆく。
太ること、すなわち肥満という時代の前提のなかでわたしたちはユニセクシャル化し、デザイン化し、感覚化し、退化への道を歩む。街が「豚天国」になりつつある飽食の先進国―

「太った豚とやせたソクラテス」という言葉ではないけれども、食べれば熱が出、熱は生物エネルギーへと変化し、冷たい知性というマシーンへ影響を及ぼす。食べ終わった後に、頭が鈍るのは、食と知が反目する側面があることを意味してはいないだろうか?

知とは食べることではない。しいて言えば食べることの逆説だ。(だから作家P・オースターは「空腹の技法」を描いてみせた)アメリカで肥満が知的欠落とみなされるように、知とは食べないことによって、食べることを乗り越えることだ。

したがって―食べないこと、冷たさを求めること、SUPER COOLであること、ほっそりすることは逆説が主流となった現代の先進的な知的都市の感性だ。それは現代社会にもとめられるひとつの理念であって、その意味でわたしたちは皆ジャンキーの共犯者、ジャンキーを生む土壌を日々整備しているといえるだろう。

☆文明社会の相克
小説を読むとわかるように、時代と都市というものがあり、その下部構造として組織集団がある。時代と都市という共通言語の分母にたいして、下部集団は分子となり、その分母から言葉を言い換えて、独自の亡霊とジャンクの集団言語を形成する。すなわち、時代と都市のなかにあるものは、下部組織に移し変えられ、言い換えられて、流通する。ここに相互の間で共犯のメカニズムが出来る。禁止と解放の二律背反のメカニズム。このメカニズムは社会から個人の心理へと転移する。つまり―わたしたちはジャンキーを生む土壌を日々整備しておきながら、それを禁止する。社会的な禁止は地下へ潜りこみ、個人的で神経症的な乗り越えへと向かう。価値はその乗り越えに置かれ、やがて、その内実よりも乗り越え自体が問題となり、記号として、社会流通する。記号の概念ができあがり、悪ができる。そしてその悪を取り締まろうとして、権力は捜査の神経網を張り巡らせ、それを根絶することによって、溜飲を下げる。文明社会で割り当てられた自らの職務にナルシスティックに酔いしれるというわけだ。これらはすべて文明社会の耽るマスターベンションのようなものだろう。なぜっていえば、自らつくり上げた「基盤」に対して自らがもつ「極端」を削ってみせ、そうやって中庸化、中間化させ、大衆化、均質化させることによって、資本を発動させて美化しているにすぎないからだ。こういった文明社会の相克の馬鹿莫迦しさを楽しむのも一興かもしれない。禁止と侵犯という意味で麻薬というそのテーゼの中にエロス的なところもあるように感じた。

全体としてみれば、冷静で客観的で知的な観察日記といった感じかしらん―☆
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