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徒然日々のこと―読書日記―

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「わたしの読書中、内部から外部へ、真実の発見にむかって不断の運動をおこなっていたそんな中心的な確信のあとに、つづいてやってきたのは感動で、それはわたしが参加していた活動によってあたえられた感動であった、というのは、そうした読書の午後はしばしば人の全生涯に見出されるよりも、もっとおおくの劇的事件に満ちていたからであった」
―「失われた時をもとめて」Marcel Proust


どちらかといえば読書「バカ」、読書「ムシ」、読書「ダニ」、で、空いた時間はだいたいなにかに目を通している。

本の読み方にはいろいろあって、速読もできるので、時間をあまりかけずにパパッと読むものもあれば、表現を味わいながら、じっくりと読むものもある。
好きで気に入ったのは2、3回と読み返すかな。もちろん強いお酒と一緒に、てれてれ酔いながら。ぼくは酔っ払った方が本が読める。呑みすぎると混濁が見られるが、すぎなければ、ゆったりとした気分になって、とてもリラックスして、頭が冴える。明晰になる。本当である。おかげで酒代がかさむ。

で、だいたい長い読書のときは「畳」にごろりとねっころがる。夜ならば蝋燭か、オイルランプの仄かな明かり。広辞苑が枕。時折耳くそや鼻くそをほじりながら、最近だったら、蚊取り線香を焚いて、網戸から吹くゆるやかな清涼を孕んだ夏風の毛布に身をくるんで、風鈴のすずやかな音の葉を遠いものとして耳の端にからめとりながら、「だ~ うだうだ~」っと読む。本の世界から引き離されてしまうと興ざめしてしまうから、コンピューターはOFF、TVはOFF、クーラーはOFF、音楽はOFF、携帯はなし、である。

以下、自分のおもった「本のよいところ」―

いろいろあるのだけれども、そのひとつは「いろんなひと」とはなしができること。
たとえば、紀元前の人と現実には出会えないけれども、本の中では話しができる。実体験として16世紀や18世紀の人とも話したことはないけれども、本の中では話しができる。ちょっと霊っぽくてRPGゲームの召還魔法ってかんじかしらん。時空間のこの3次元ワールドを超越できるようなところがある。そして―時にそれらの魔法によって召還されてきた霊、言霊は「あなたたちの生きているこの世界は相対的なものにすぎないんだよ、これはひとつのフィクションなんだよ」ってことをそっと耳元でささやく。見えたり触ったり感じたりできるもの、知覚できるもの、それは仮りの姿であって、本当のものは目で見えないところにあるのだ。ぜったい。だから、目が見える人はなにも見えなくて、目が見えない人だけがモノゴトを見極めることができると考えることはそれほど間違っているとはぼくはおもわない。それからべつのひとつには本には自分の存在を危くしてくれるようなものがあるところだと思う。自分が正しいと思っていること、これでいい、こういうものだと思っているものが、ひっくり返されることの面白さ。正しさや真実は解釈によって無数にあり、世界は事実ではなくて、事実の解釈によってできているのだろうけれども、その解釈をくつがえしてくれる価値の目眩みのようなものがあって、これはほかの表現媒体よりも本の中にあるように思う。価値がくるう事、世界の方向感覚と距離の喪失、遠近法がくるい、正しさがくるって、自分がおかしくなってしまうようなもの、そんなようなものが本の中にはあるのだ。別の言い方をすれば、豊かに自分を見失うこと、人間が人間であることの豊饒なあやうさ・・・といったものがある。

―以上のようなゴタクはさておくとして、最近の「読書」はこんな感じ☆

★「風塵妙」司馬遼太郎
小説もあれこれ読んでいるが、どちらかといえば、エッセイとか対談とかの方が「好き」。
あまり女性が書けない作家。男を書くのはうまいが女を書くのは下手。文章は客観的でけれん味がなく非常に読みやすくて、すらすら読めてしまう。

でもこの人、時代ものを書いておきながら、超現代的なところもある。
モンゴル語を勉強していたらしいので、どこか日本人の血の奥底に眠る遊牧性、勇壮で壮大なものを見やる視線といったものが感じられる。モンゴルの遊牧民の血が日本人には流れていると思うし、そう見たほうが現代のようなドラスティックでダイナミックなテクノロジー革新、生活の革新、認識の革新を孕んだ時代はよいのではないだろうか?―

それはさておき本書より以下一文だけ引用してみる。「好き」についてなのだけれども、うならされた文章。「好き」というのは室町時代にできた言葉らしく、もともとは「数奇」だった。「数奇」というのは数が運命をさして、奇は不遇を意味する。きわどい漢字だという。その上で室町の大名の例をひいたあとでこう言う。

「数奇(好き)は芸術的創造の気分だといってもいい」(P249)

現代社会のように恋愛や仕事に「好き」が優先される時代というのは、だから同時にそういったきわどさ、あやうさを裏側に秘めているのだし、芸術的創造の気分が蔓延する、「数奇の時代」なんだなぁ~、と思った。

★「海をわたったモンゴロイド」後藤明
べつに日本人だって、ずっとこの小さい島国にすんでたわけじゃない。
むかしむかしは、どっかからやってきた「海人」なのだ、という本。

たしかに、日本人は「海人」という感じがいつもする。風体もナマズみたいだったり、蟹っぽかったり、クラゲみたいだったりする。これは日本人にとっては当たり前だが、アメリカやヨーロッパへゆくと、それほど「当たり前」のことではない。スペイン人は牛だったり、猪だったり、馬だったりに似ているし、アメリカ人はバッファローっぽかったり、黒豹っぽかったり、ネズミっぽかったりするものだからだ。

海の人、「海人」と陸の人、「陸人」とは当然世界観や価値観が違う。

いろいろな価値観が世界にはあって、日本の価値観は「ただひとつ」の価値観じゃなくて、「たったひとつ」の価値観なのではないでしょうか?

★「檸檬」梶井 基次郎
とても「好き」な作家で、字面が綺麗でいつもびっくりしてしまう。
熱い衰弱と言葉のもののけに取りつかれたようなところがあって、当時肺尖カタルで神経衰弱だった著者の生理と作品とが不可分に結び合っている。この洒落た清涼感。漢字の美しさ。印象の鮮烈さ。みすぼらしくて美しいもの。がらくた、花火、びいどろ、丸善、そして「檸檬」の色彩の爆裂―いつまでも梶井は鮮烈だ。ちなみに「ドンキホーテ」を耽読したらしい。スペイン、ラテンの感性もあるのかしらん。生きていたら一緒に牛丼食いたい―と思った。

★「吾輩は猫である」夏目 漱石
ユーモア小説が「好き」で、漱石だったら、あまりシリアスにならないもの、この「猫」や「夢十夜」といったところがお気に入り。落語好きで軽妙で洒脱で博学な漱石。クシャミ先生に野良猫の黒とどこかユーモラスで、読みながらくすくすと笑いが洩れてしまう。日本人はユーモアのセンスがあるし、やっぱり人生にユーモアは欠かせないものだと思う。筒井康隆あたりまで引き継がれる知識人のヨーロッパかぶれもなんだか滑稽でおかしい。

★「象の消滅」村上 春樹
NYの出版社から出版されたものらしい。
いろいろな時代のいろいろな小説。春樹は虫じゃなくて、爬虫類でもなくて、哺乳類系だよなぁ~と再認識した。ねじまき鳥にカンガルー、猫、象なんて、ちょっと動物園っぽい。言葉が上手でおもしろくて、知的でセクシー。なんとなくレトロな映画やデュラスみたいな会話劇にドストエフスキーだとか、ガルシアマルケスだとか、フィッツジェラルドだとかのコラージュを思わせて、世界文学のパロディみたいで、世界標準のモダニズム文学ってとこかしらん。女性の口真似が色気がある。主夫もできそ―村上龍の手料理はまずそうだけど、春樹の料理は食べてみたい、なんて。ちょっと褒めすぎなので批判をいえば、ぼくちゃんで、根クラなところがあって、どこかしら自分の文法に抱きかかえて、善悪をいってしまいがちなところは、春樹くんのよくないところかしらん☆

カールスパムク ダブ カールスパムク・・・ックルーズシャャャタル!!

★「都市という新しい自然」日野 啓三
日野は小説はよんでいないが、エッセイは現代的でどれも面白い。ギブスンやバラードといった作家にSympathyを覚えるということだけあって、感性が日本人にしては珍しく現代的な作家。都市的で鉱物的、硬質にきらめくようなところはちょっと三島っぽい。

★「ミカドの肖像」猪瀬 直樹
副都知事としてもどうやら有能らしく、都の職員にWELLCOMEで迎え入れられているらしい勤勉で優秀な男の天皇論。ポストモダンの日本ヴァージョンとしてよく書けており、巻末にドゥルーズまで登場する。天皇のイメージの変遷にスポットを当てながらも、そこから派生するイメージを多角的に切り取る手腕は辣腕で、「和製ポストモダン評論」の名作だと思った。一気呵成に読んでしまう面白さは巻をおくにあたわず。素敵な副都知事だと思う。別の本になるけれども、太宰と三島の評論もとても面白い。

★「サブカルチャー文学論」大塚英志
この人は文章は上手だし、よく勉強しているし、切れ者の編集者だし、なかなかの慧眼なのだが、変なといっては失礼だろうけれども、おかしなひっかかり意識があって、そういったひっかかり意識が結局本としての全体の印象をすっきりさせないところがある。コンプレックスなのか、トラウマなのかはわからないが、そういったところがおそらく彼の創造性と結びつきながらも、一定の解釈の限界を露呈させているのは残念なところ、かな。

★「19歳のジェイコブ」中上 健二
中上はいい作家だ。
暴力がこんなに美しいものだとは、三島や中上を読まなければわからないものだったし、若さのやまれぬ衝動が描かれていて、どきどきさせられてしまう。モダンジャズ喫茶、風俗、男と女、剥きだしたSEX、暴力と不良、そして父殺し―村上春樹は中上のファンだったといっていたけれども、とてもよくわかる気がしてしまう。

村上 龍もそうだけれども、W村上は中上の子供、中上チルドレンだと思う。

★「タイムマシン」H・Gウェルズ
TEENAGERだったころ耽読したウェルズ。
タイトル作はSFの名作古典で4次元空間を経て、80万年(正確には80万701年)未来へゆく男の冒険小説。19世紀の英国の博学作家の頭脳を覗き見る面白さ。
冒険小説は冒険小説なのだけれども、文明批評的な観点を忘れず、そこがスパイスとなっている。あまりにもテクノロジーと冒険のみのSFにぼくはあまり興味がないのだが、テクノロジーと冒険と文明批評とがちょうどよいバランスで盛り込まれていて、楽しみながらも考えさせられる。J・Gバラードの一連の著作や「コカイン ナイト」なんて、ちょっと似たようなニュアンスではないかしらん・・・つまり-進歩しすぎて、満たされ、「困窮と自由への欲求」をなくしてしまった人類は「人類の衰退期」に入ってしまうという懸念。よいということはどんな世界でも一面であって、同時にその世界特有の危機をはらむものだ、と思う。

★「スノウ・クラッシュ」ニール スティーブンスン
サイバーパンク小説の新鋭で、CALIFORNIAが舞台。
基本的に、CALIFORNIAの小説って「好き」だし、コンピューターカルチャーを筆頭にして、ファッション、音楽、ライフスタイルなど、日本のカリフォルニアゼーションもひそやかに進んでいる気もする。CALIFORNIAには哲学はないが、面白い文化の可能性があると思う。西洋でも東洋でもない、どちらにも属さないようなフラットで中間的な文化形態。ギブスンのいうEDGE。TATOOなどの人体改造文化やビートニック、サイバーパンクにCAFE文化、古着の洗練ファッションに独自のサブカルチャー、そしてコンピューターカルチャー。W・ギブスンの「ヴァーチャルライト」や「フューチャーマチック」、ピンチョンの「ヴァインランド」それからディックの「アンドロイドは電気羊の―」なんてCALIFORNIAの匂いがプンプンして楽しんだ。これはピンチョンとギブスンを足して二で割って、ティモシーリアリーをくわえたようなカクテル。

サイバーPUNKにドライヴするスピード感がよい―と思った。

ちなみに日本のCALIFORNIAは静岡か、沖縄?
海は日本の方がぜったいによい―どうでもいいが、海のそばに住んで、水着の女の子を見ながら、おおいなるリズムに身をまかせ、とるにたりないこまかなことをいわずに、毎日サーフィンをやって暮らしたいんだけどなぁ~・・・☆ ☆ ☆

★「人間狩り」フィリップ K ディック
過激なタイトル。だけど読みやすい短編が並ぶし、小説上手。
H・G・ウェルズを複雑にして、現代風にInterpretationしたよう。FLAVORとして、マッチョで東西冷戦構造が反映されていて、核シェルター時代の生物学的SFといった呈。よくもわるくも工学的で構造的、男っぽいので、そういったところは好き好きかしら。ユーモアはみんなBLACK。ダークファンタジーで生物学的擬態、昆虫的擬態と人間が組み合わされて、機械と昆虫の相関性が示唆される。あと訳の関係なのか、「~だ!」という単刀直入な言い切りが多くて、なんだかおかしくなった。

★「あいどる」W ギブスン
これはよくかけている。
東京がでてきて、しかも六本木って、すぐ近くがかかれていながらも、近未来的な風景と現代の風景がぐちゃっと入り交じっている。コンピューター社会の抽象的な現実がイマジネーション豊かに描き出される。奇想天外な未来ではなく、現代と地続きの未来。それにしてもこの人は女性の気持ちを書くのが本当にじょうずで、女を描くのがうまい。さらに知恵おくれの子供やジャンキーといった社会の底辺を生きる人の心の闇の部分にも巧みにアクセスしてみせる。それでいて、「結節点」に代表されるIndustrialな生物学的なマクロな視座も見失わない。gadgetやカフカなインテリアのアーチスティックな描写や登場するキャサリン トランスという皮肉な言葉を使う知的な女性も魅力的―

ほんと 作家だと思った。

★「裸のランチ」W・バロウズ
独創的幻想熱帯麻薬REMIX分裂症SF小説!?
梅雨の時や元気がなくなった時、読むと元気になるのはW・バロウズ。
ジャンキー作家のパワフルでCRAZZZZZYな表現に触れると、肛門に言葉の電動バイブを突っこまれたように元気になる。こんな分裂症的な詩を、こんな表現力豊かに描けるのはやっぱりどう考えても並大抵の人間ではできるものではないし、やや調子はずれではあるけれども、バロウズはすごい、天才だ、と思う。陰毛にせんずり、白濁スペルマの放射、メタルとネオンのきらめきに踊る細胞、血を噴出しながらのホモセックス、内臓をだらだらさせて、うんこを垂れ流しながら、麻薬注射を打ちまくるバロウズの言葉は刺激的に暴発しており、思わず「にっこり」してしまう。

精神分裂と麻薬患者の高らかな歌―

「彼は部屋中を跳ね回る。渇望の絶叫でガラス壁を砕き、彼は空中へとび出す。スピンしながらマスターベンションをし、精液を横に漂わせながら1000フィート降下し、その間ずっと砕ける空の青さに向かってさけび、朝日がガソリンみたいに彼の身体を焦がし、巨大なカシの紀やカキの木やヌマ杉やマホガニーの横を落ち、石炭岩舗装の荒廃した広場に「ぐしゃっ」と砕けて一安心。舗石の間からは雑草やツタがのび、全長1メートルの錆びた鉄のボルトが貫く白い石は、サビでうんこじみた茶色いシミができている。」(P142)

打って撃って射ちまくれ!―☆

★「ハッカーを追え」B・スターリング
サイバーパンクの雄で、ギブスンとの共著もあるスターリング。
教条的で少しお説教くさい本だけれども、広い視座からコンピューター空間というものはどういうものなのか、ハッカーというのはどういうものなのか、ということを教えてくれる。まちがいなく、(「年金問題」というのは同時に「データーベース移行失敗問題」だとぼくは思っているが・・・)官庁から会社、一個人にいたるまで、わたしたちはサイバースペースに先導されて、データーベースのサイバー化にいそしんでいるのだが、ハッカーというのは知的エリートとしてサイバースペースでの知を分けあたえて、配下を増殖させ、そしてこのデーターベースの濫用をして・させてしまうもので、逆にいえば、現代の脆弱性というのはこういったデーターベースのアクセスの容易さ、スマートさにあることが明かされる。著者自身の知性ゆえの嫌疑がモチベーションにあるらしく、「知的自由」を守るため、必要に迫られて書いたらしい。

サイバースペースは現実にもうひとつ次元を増やす。

現実はどうしようもなくサイバースペースの中で解体され、別のものとして分解されてしまう。サイバースペースに生きることは誰にとっても未来的な体験なのであって、そこは現実世界と併走している隣にあるもう一つの確固とした(電話)空間なのだ。でもわたしたちはまだそこで生きる経験に富んでいるわけではない。21世紀の社会に生きる、わたしたちは終わらない永遠技術革新のサイクルの中に身を投ぜざるをえないし、そこで欲求をつねに置き換えて、ひとつの記号として、「おままごと」か、「工業劇」か、あるいは「ホログラムの戯れ」か、―を演じなければいけない。

近未来としての現実のおはなし☆

★「ロング グッバイ」レイモンド チャンドラー
文庫ももっているが、これは村上 春樹訳のもの。(ちなみに文庫のタイトルは「長い別れ」)ハードボイルドの代表的名作といわれる一冊。春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は傑作だと思ったけれども、これはハードなのかしらん・・・とてもふわふわと中空をさまようようなエクリチュール。こんなエクリチュールがあるなんて、知らなかったし、他のだれとも似ていない。KILL BILL的といえばそうなのだけれども、こんな闊達で可笑しくて、面白いエクリチュールはカフカか、ドゥルーズか、チャンドラーぐらいだと思うけれども、いいすぎ?!でも本当に可笑しくて面白くて堪能しちゃうのだ☆

★「生命四十億年全史」リチャード フォーティー
文才のある機知に富んだ文章を縦横に駆使して描かれる大英自然史博物館の無脊椎動物の主任研究員の博士の壮大な生命史。マクロとミクロをおり交ぜた視座から生命というものをかたる。わたしたち、人間はおろかな存在で生命のいとなみの巨大な時間については、まだあまりによく知らなすぎるし、ダーウィンも言っていたように、あまりに巨大な時間についてはうまく想像することさえできない。わたしたちが「ここにいる」ということは巨大な時間を経た生物進化の成果であって、肉体にせよ、知能にせよ、自我にせよ、おおいなる進化の過程の賜物であって、けっしてあたりまえのものではない。地球は宇宙の「「ゴミ」からうまれ、生命は宇宙の「別の惑星」から隕石にのってやってきて、「様々な分子間の相互作用」をへて誕生し、植物は数千万年年かけて地球を緑化させ、生命は細胞から胞子、菌類、植物、魚類、爬虫類、両生類、哺乳類、人類へと進化していった。そして今のところまだこの物質的循環の中でしか人間はいきられない。いわゆる「栄養」は地球内部で巨大な歴史によってはぐくまれてきたものであり、地球温暖化は人間が「化石原料」(石油や石炭)を合理的に使用することによってもたらされたということ。つまり生命というのはすべてがわかちがたく「連鎖」した一個のプログラムなのである。そしてその目的は壁をこえること、境界や限界をのりこえてしまうこと、にあるらしい。ちなみにダニを馬鹿にしてはならないと博士は訴えている。なぜならダニは土壌を肥やし、地球生態系を健全にたもつ上でかかせない存在なのだ。

「ダニやそのちっぽけな同類たちが生き延びられなかった世界に未来はない!」(P222)

ダニを馬鹿にすることなかれ!!

★「コレラ時代の愛」
「族長の秋」「エレンディラ」「百年の孤独」でメロメロによじられて、ちょっと頭が狂ってしまいそうになったラテンアメリカを代表する天才作家の老人の愛の歌。20世紀文学の金字塔にして、ラテンの洒落っ気にあふれた一冊。ほんとに天才っていうのはこんなヤツじゃないか、なんてはなしが上手で面白くって、おかしくって、すごいんだろう!―と衝撃をうけ、むさぼるように読みふけった。やっぱり面白い。男性も女性も心の襞を見事に掬い取っており、お洒落でおかしくてエロティック、精緻にして精巧、それでいて人間愛にあふれる。19世紀の小説ってことで、たしかにフローベル的なのかも、と思ったが、フローベル読んだのだいぶ前だから、どんなのか忘れてしまっている・・・飛行船や船なんか乗り物がたくさんでてくる。セックスのシーンが過激だ。老人の酸っぱい匂いまで描かれている。すごい。年老いても人を愛することはすばらしいと思った。語りの天才!!

宮崎アニメと近い感覚。そういえば、「百年の孤独」のウルスラって名前は「魔女の宅急便」にもでてきてたし―具体的にどこがどうというわけではないけれども、背景に通底する基調音としての感性が近いんじゃないかしらん☆

VIVA LATINO!!



◆本に関してはまだまだ山ほどあるけれども、キリがなくなってしまうので、今回はこんなところで。夏休みはハイデガーの「存在と時間」にでもチャレンジしようかしらん―なんて。

そのうち、また、まとめて、ね☆―(笑)

ちゃおちゃお☆
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だに☆
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