人気ブログランキング | 話題のタグを見る

徒然日々のこと―機械昆虫文明

徒然日々のこと―機械昆虫文明_a0065481_19101927.jpg

☆入梅
「入梅宣言」ということですこし涼しくなるかと思っていたら、ぜんぜん雨が降らない日照りの1週間が過ぎたあとで、重い雨と湿潤のもやが水墨画のように立ちこめて、雲がながれ、梅雨が落ちた。盛りをすぎたころの紫陽花の萎えた花弁に水滴がのって、しとど、鈍いウォームグレーを閉じ込めている。きれいに咲いている紫陽花は記憶の中―このあいだ、京王井の頭線にのったとき、窓からいろとりどりのたわわにしたたる水滴のような花が見えて涼しげだった。まったく日本の自然は気がきいていて、美術が西洋のように進化しなかったのも、よくわかった気になった。美術なんてなくっても、空の色と空気の色が季節季節で目まぐるしくかわって、鮮烈で、そんなものをマブタの裏側に「ぎゅっ」と閉じ込めておけば、それでけっこう満足してしまう。美術なんて、あんなものなんて、なくったって、こんなに綺麗でみずみずしい緑があって、うるおう色彩があれば、それ以上のなにかなんてのぞまなくたってよいのじゃないかしら-なんて、都市人からすれば、たぶんぎょっとするようなことを考えながら、6月を過ごしてしまって、気が付くともう6月もおしまいに近づいている。きれいな青空を見て、雲をながめて、まばゆく萌える緑を見て、だんだんと咲きほころぶ花を見て、カラフルな色をふくんだ吹く風に顔をなぶられる。そんな色彩のなかで生きられるのって、日本人の、日本人による、日本人のための、日本に生きるしあわせ☆

それにしても、最近は初夏のべっとりとしてにぶい湿気がおもたるい。吹きでる汗、ふりおちる雫―濡れる肉体と濡れる風景ービニールコーティングされた撥水加工のJKに結露する水晶のきらめき。

しとど。
徒然日々のこと―機械昆虫文明_a0065481_19105561.jpg

☆機械昆虫文明
職場は東京の真ん中にあるっていうのに-

それなのに―

どういうわけだか、虫や動物がもぞもぞあらわれて、そこらじゅうでくちゅくちゅなにかを営んでいる。「ゴキブリ」、「ハエ」、「カ」、「ガガンボ」、「ミミズ」、「カエル」、「コウモリ」、「セミ」、「カニ」、「ネズミ」、「コガネムシ」、「カナブン」、「アブ」、「ダニ」、「ノミ」、「ウスバカゲロウ」、「クモ」、「ハネアリ」、「クロオオアリ」、「アカアリ」、「ゲジゲジ」、「ムカデ」、「ヤスデ」、「カメムシ」、「ヤモリ」に「イモリ」。いったい、なにを営んでいるのだろう?―と思って、ついつい観察したり、メッセージを送ったり、慈愛の視線で見つめたりしてしまう。

ヨーロッパっていろいろな場所で過ごしたけれども、不満は虫や生物が少ないことで、地中海は生き物がすくなくって、海の楽しさにかけるし、サンフランシスコの海もおんなじようにつまらない。日本の海にいるあんな多様な生物や、東京の都市にいるようなあんな多様な昆虫なんて、ついぞお目にかからなかったし、どうにもそれが寂しかった。日本で生きるっていうことは、意識するにせよ、しないにせよ、こういった生物と一緒に生きることになるし、おなじ時を共有するってことはなにかの連鎖反応を彼らの間で結んでいるにちがいない。

同時代を生きる虫-同時代を生きる動物たち。
つまり同時代人ならぬ、同時代虫、同時代動物。

思い返せば、郊外の実家は「そう」だった。家は動物一家だったのである。
実家の裏は切り立った雑木林の茂みとなっていて、「ニワトリ」、「チャボ」、「ミツバチ」、「イヌ」、「ネコ」などを飼っていて、取れたての卵やハチミツを収穫して、ケーキにしたり、御飯に生卵をのせたり、パンに塗ったりして食べていた。当然その動物に群がるように、いろいろな虫が家に飛び込んできて、それはある意味、季節を告げる風物詩だった。

ぼくは動物よりも昆虫により強く魅せられて、心魅かれていた。
あのメタリックな色彩と光沢―強くまばゆく輝く光のきらめき、鮮烈な色彩、金属の冷たさと硬質でさまざまな模様をえがくファッショナブルな宝石のような甲殻などに。そういった鮮烈な色彩の中で、密林の奥地のまだ見ることのかなわない宝石のような昆虫を取りにゆくことを夢見て、夢うつつのまま、うつらうつらとした眠りにつくのだった。

もちろん、家の周りにいたのは綺麗でよい虫ばかりというわけではなかった。
ある時―蜜蜂を追いまわすスズメバチがやって来て、部屋にとびこんできたこともあった。そんな時は決死の覚悟で、スリッパやタオルをもって部屋をおおきな羽音をたてて飛び回る蜂と格闘した。スズメバチはさされると痛いし、死んじゃう危険性があるんだけど、一匹二匹ぐらいは、戦えるし、それほどのものでもなかった。けれども潰した後になにやら人間には感知できない信号のようなものを送られて、集団が押し寄せてきたらどうしようと思ってすこしだけ怖くなった。痛い目にあったのはむしろムカデで、ふくらはぎをさされて紫色にはれあがって、熱をもち、痛みでねむれなくなった。夜中に何匹もの蚊の襲撃をうけて、眠れない夜もよく過ごしたし、夕暮れ時なんかは裏のヤブにゆくと人の周りに蚊柱がたった。ゴキブリが素麺の黒いそば汁の中に投身自殺をこころみてて、黒いそば汁の中でおなじ黒い体の「それ」に気がつかずに、一緒に食べてしまって、口の中でバタバタやられたこともあった。それから、ネコについているノミとダニにアレルギーができるほど、体中をさされたりした。ノミにさされると赤くて痛がゆい斑点が肌に浮かぶのだが、それは蚊のものほど隆起するわけではなく、むしろ平面状に広がる。蚊の刺し痕が山ならば、ノミのは丘といった感じだけれども、痛みはながく、なかなか癒えない。楽しみ方というのもあって、月並みだけれども、よく爪の先でバッテン、Xをかいて、なんとなく自分の肌というキャンバスに傷をしるして楽しんだりもしたが、いつもどこかが痒くて、特に手が届かないところが痒くなると、痒さとは一種の戦いの共犯関係になった。

そんなわけで―どうにも虫や動物たちと一緒に時間と次元を共有して暮らしているというイメージが自分には強くあって、家の外は虫がいたり、動物が跳ね回ったりするような感じがしてしまう。
手塚治「虫」と一緒に育ったというのもどこかであるのかもしれない―手塚は強く虫に魅かれており、「人間昆虫記」というタイトルのマンガもあったし、「変態―メタモルフォーゼ」は手塚の終生かわらないテーゼだった。

機械文明の中では動物というよりは虫の方がイメージしやすいようにも思う。
機械文明の音が昆虫的であるということをいった哲学者もいた。
徒然日々のこと―機械昆虫文明_a0065481_19123493.jpg

「しかし実際には、あたかも昆虫の時代が小鳥の時代を引き継いだように、はるかに分子的な波動、鋭い鳴き声、きしみ、唸り、はじける音、削る音、こする音が響いてくるのだ。鳥は声楽的だが、昆虫は楽器的で、太鼓やヴァイオリン、ギターやシンバルをおもわせる。」(「ミルプラトー」ドゥルーズ=ガタリ)

社会性昆虫といわれる部類の昆虫にたとえられて使われている比喩―働きアリ、女王バチなんていうのは明らかに虫のイメージだろう。そういえば、さいきんますます人間が虫や動物にみえてきた。人間はそれほどたいしたものじゃないんじゃないかしらん、今必要なのは「進化」よりもむしろ「退化」なんじゃないかしらん―なんて思って、NEWSや新聞を眺めている。リチャードフォーティ博士という大英博物館の博士が書いた「生命40億年全史」という素晴らしい生物の本があって、この本の中で博士はすべての生命がたった一度の火花からおこり、分子レベルでは同じ特徴を有していて、全生命は「共通の主題」をもっているという。虫と動物のみならず植物ですら人間と同じ「主題」をもっている。進化の過程で失われた痕跡として昆虫に近かったり、動物に近かったりするということは大いにありうることなのではないだろうか?

ちなみに―機械文明に生きる現代人のフィジカルな動きは哺乳類のそれよりも「昆虫的」だ。
機械は哺乳類よりも昆虫的な動作を反復するし、ブレイクダンスやエレクトロビートの痙攣は虫に近く、そしてSFXやコンピューターグラフィックの中の人間の動きは昆虫的だ。そうして温血生物である哺乳類と冷血生物である昆虫の間で、その矛盾のさまざまに戸惑っている現代人の姿がある。動物と昆虫の二種類の分類の境界にわたしたちはいて、今はまだ哺乳類の支配をうけているものの、信号とエレクトリックとテクノロジーイメージの幻影に支配された「昆虫時代」の進化論的猛威を前に人類はたじろいぎながらも「昆虫化」しようとしているのではないだろうか。昆虫時代の歌は人類の中でもより昆虫化した作家―つまり前衛作家―によって歌われる。それはたとえば、安部 公房であり、F・カフカであり、フィリップ K ディックであり、ウィリアム バロウズであり、ウィリアム ギブスンであり、あるいはドゥルーズ=ガタリなのだろうとぼくは解釈している。人間はこれから「動物になる」のではなくて、「昆虫になる」のだし、これからますます「動物化」ではなくて「昆虫化」してゆくだろう。

「昆虫は、あらゆる生成変化が分子状であるという真理を伝えるのに鳥よりも適しているのだ」(上同書)

おそらく―「社会ダーウィン論」ではなくて「社会ファーブル論」がやってくるに違いない、と思う。みずからの心の内の「砂漠」の中に退化した記憶としての「虫」をさがすことによって、「砂の女」(安部 公房)となること、がこれからますます問われるだろう。
徒然日々のこと―機械昆虫文明_a0065481_1914059.jpg

☆祈り
部屋のそばのアスファルトの道端に阿修羅の地蔵がある。
よく見ると顔のところが剥落しているが、厳しく結んだ口もとに強い意志がうかがえるし、どうやら住民のみんなに愛されているらしく、赤い布をまかれて、お賽銭もあげられ、ときどき色とりどりの花などが飾られている。薄暮の頃のもの憂い光と梅雨時の湿気をはらんだおもたるい「もや」にくるまれて、年配の女性が両手を合わせている。影を探したが、影はない。ぼんやりとした風景で、ただその女性の思いだけが、鮮烈に点滅するフラッシュライトの、ひとつの凝縮したイマージュとなった。

思い―願い―祈り

現実の次元が姿を消すのはそうむずかしいことではないし、ありふれた日常をうずめる反復動作のその中で現実は消え失せる。ただ言葉だけが、むき出して、念を帯びて、発光する。女性が立ち去ったあとで、ぼくもそれをまねて、ただ祈るという行為の中にある空間にアクセスしてみたくて、祈ってみた。そして、それは案外複雑でむずかしいことかもしれない、と思う。本当に誰かが祈ることが出来るのだろうか?思いをとどかせようと強く祈る。でもなかなか「祈る」とこができない。はたして、祈ることを信じられるだろうか?そして本当に祈るような思いになれるのだろうか?

もちろん祈ったところで―
それは通じないかもしれない。
どこにもゆきつかないかもしれない。
なんにもならないかもしれない。

でも―
強く祈るそのことがもしかしたらなににもまして大切なのではないかしらん・・・なんて思いながら・・・やがて点滅するフラッシュライトのイマージュになれればいいなんてちょっと不埒な思いで・・・

いのってしまう・・・
←menu