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花様年華

「男は過ぎ去った年月を思いおこす。埃で汚れたガラス越しに見るかのように。過去は見るだけで、触れることはできない。見えるものすべて幻のようにぼんやりと・・・」(作中より)
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りあい日常生活の中では気付くことがないことを、逆に中国映画に鏡のようにして教えられるときがある。自分がアジア人であるということ、そしてこういった人種の中に含まれる「時間を超越した官能性」「生命のエロティックさ」ある意味では「植物的な性のエレガンス」あるいは「距離の美学」といったものが甘く、切なく、美しく、官能的に描かれている。東洋の美しさに満ちた一本―
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◆物語
舞台は60年代―
説明が少なく抽象的で感覚的、それでいてかなり複雑な物語だけれども、要約は以下の通り―

1962―香港
お互い結婚したチャウ(トニーレオン)とチャン(マギーチャン)のふたりがある寮のようなアパート(独立した部屋はあるが、キッチンは共同でリビングがある)に引っ越してきて、出会う。本を媒介にして徐々に距離が二人の距離は縮まり、逆にお互いのパートナー(それぞれの夫、妻)との距離が開いてゆく。チャウが妻とうまくゆかなくなり、チャンの夫が海外出張すると、二人は一緒にレストランで食事をし、お互いにパートナーの好物を、取り替えて味わい合う。帰り際タクシーの中で、チャウは手を重ねようとするが、そらされてしまう。チャウは連載新聞小説を書きはじめて、二人はHOTELの「2046」号室など、場所を変えて、つかの間の逢瀬をつづけるものの、関係は接近とすれ違いを繰り広げる。ある日チャンは寮母に外出をとがめられて、チャウとの関係を考える。再会したチャンにチャウが「シンガポール」へとゆくことがつげられる。夫と別れていないにもかかわらずチャンに「本気」になってしまったためだという。夫の帰国が告げられ二人の別離に。タクシーの中でまたチャウが手を重ねるが、今度は受け入れ、頭をもたれかけさせるチャン。壁をはさんで部屋のシーン。
ラジオからタイトルの「花様年華」の歌が流れる。
花のように魅惑的な年 月のように輝く心 氷のように清い悟り 楽しい生活 深く愛がしあう2人 満ち足りた家庭 でも急に闇に迷い込み つらい日々になる 愛する故郷よ もう一度
 チャウはチャンに最後の誘惑をし、一緒にシンガポールへ来るように告げる。チャンはホテルの「2046」号室部屋へむかうが、すれ違いで、チャウはいない。

1963―シンガポール
チャウは自分の部屋でだれのかしれない口紅のついた煙草を発見する。秘密の囁き方を友人から習う。「大きな秘密を抱えるものは、山で大木を見つけて、幹にほった穴に秘密をささやく」らしい。チャンらしき人物が映し出され、チャウの部屋で煙草を吸っている。チャウに電話がなり、とると、無言でチャンは姿を消してしまう。

1966―香港
アパートにもどって、寮母と会うチャン。寮母はアメリカへ旅立つ。部屋を見て、涙を流す。
「時は移ろい、あの頃の名残は何も残らなかった」

1968―カンボジア
かつての栄華を誇ったアンコールワットの遺跡の穴に、友人に教えられたように秘密を封じ込めるチャウ。ワットの圧倒的に美しい巨大な時間性を湛えた映像美と虫の鳴き声とともに映画はおわる。最後に中国語で説明の文字テロップ。
「男は過ぎ去った年月を思いおこす。埃で汚れたガラス越しに見るかのように。過去は見るだけで、触れることはできない。見えるものすべて幻のようにぼんやりと・・・」
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◆解説
この映画は次作「2046」の前の映画ということもあって、2046への布石と思われる箇所も多い。愛のすれ違い、成就することのない不毛な愛、というウォンのテーマは一貫している。そしてここではこの「すれ違い」、「触れ合わ(え)ないこと」がエレガントで芸術的な域にまで高められており、思わず「すれ違うこと」にエクスタシーを覚えてしまうほどに美しく描かれる。「触れ合うこと」や「性」を官能的に描く監督は多いが、ここまで「触れ合わ(え)ないこと」の官能を描いた映画ははじめて。ヴェンダースの「パリテキサス」のガラス越しの男女のシーンではないけれども、いずれにせよ―現代の愛の劇といったところだろうか。
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◆時間性への問いかけ―メタ時間とメタフィクション―  
「時は移ろい、あの頃の名残は何も残らなかった」

「男は過ぎ去った年月を思いおこす。埃で汚れたガラス越しに見るかのように。過去は見るだけで、触れることはできない。見えるものすべて幻のようにぼんやりと・・・」

作中、なんどか登場する時間性への問いかけのセリフが興味深かった。最近のウォンはこの時間性への問いかけから、映画をつくっているのではないだろうか?
未来(2046)―現在―過去(アンコールワットの遺跡)といったウォン時間ともいえるだろう時空間の超越的なメタレベルから組み立てられる物語は、主人公のチャンの職業でもある小説家という設定もあいまって、「時間」というよりは「時間の時間」、「物語」というよりは「物語の物語」、したがって、「愛」というよりは「愛の愛」といった表現への注釈となっているように感じられてしまう―

◆モダニズム
非常にモダンな映画である。
書くということ、話すということ、食べるということ、煙草を吸うということ、愛するということ、生きること、生活することがスタイリッシュでエレガントで抑制されて描かれている。
チャンの衣装も形だけ同じチャイナドレスが場面ごとに模様を替えて、瀟洒で華やかな印象。
モダンであるけれども、表面的であるかといえば、よくわからない。
風景として描かれているのは、たしかに表面的なのだけれども、この表面に非常に複雑な心象や情感が折り畳まれていて、表面が饒舌なので、他の映画にいわれるような表面さではなくて、独特。風景が饒舌で、細部にいたるまで、愛と官能が瀰漫してみえた。

◆花様年華
花のように魅惑的な年 月のように輝く心 氷のように清い悟り 楽しい生活 深く愛がしあう2人 満ち足りた家庭 でも急に闇に迷い込み つらい日々になる 愛する故郷よ もう一度

この映画は故郷への憧れ、そしてもうけっして訪れることのないものへの憧れとその「すれ違い」―という意味で、変わりつつある中国人のある気持ちの代弁、ある空気の言い換えのようにも思った。「故郷喪失者」として都市に暮らす中国人の心情―「すれ違う」ことによって、生じる浮遊したパースペクティブ―その、あるイマージュだろうか?

失われたものを慈しむという意味でメランコリックで退廃的なところもまた独特の詩情となっている。

テンポのよい細かいカットの集積とストップモーション、スローモーションがリズムがここちよい―サッチモのメランコリックなスペイン語の曲もよかった。
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センスのよい東洋人の官能美―
by tomozumi0032 | 2007-01-27 00:49 | 王 家衛
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