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社会問題 其の三

◆ドメスティック バイオレント
武蔵野大の小西聖子教授によれば、「バラバラ事件は犯罪学的には対処になれていない人物がやりがち。メッタざしもそうだが、殺した相手に対する恐怖感がそうさせるケースが多い」だ―そうだ。
もちろんこれは一面である。
渋谷で連続した二件のバラバラ殺人は週刊誌にさかんに書きたてられていて、ほんと、下世話っていうか、品性が貧しい気もしちゃうけど、一応CHECKしてると、どうもぼくには「場」が生んだ犯罪だという気がしてならない。
はっきりいえば、「殺し」は誰でもやりうる犯罪だ、と思う。「人を殺したいと思ったことのない人間は信用できない」という言葉があるが、そう思う。やるか、やらないか、というのはその本人の意思の問題であっても、そういう状況で、種々の見えない法則の慣性といったものを考慮にいれるならば、男女の区別なく、殺すものであり、殺しというのは生物学的にいえば、それほど騒ぐような類のものでもない。人間は死ぬものだし、淘汰によって、自然選択によって、ある意味では殺されるのだ、と思う。

17日付け東京新聞によれば、こういった背景にはDV(ドメスティック ヴァオレント)が、根深い女性蔑視があると伝えているが、やはりこれまでの男性優位社会から少なくとも平等な社会になるには時間が必要で、その時間が生み出す場の不均衡がこういった事件につながるのではないのだろうか?SEXが本当に女性にとって解放的で負債を負わないものとなったのは、避妊技術の発達以降だし、日本社会で、女性が性としての「植民地的思考」「搾取の性」から解放されるのには「いましばらく」時間がかかるように思う。

ただ―女性は現状では蔑視されており、蔑視に見合うだけの根拠と理由があることは確かだ。つまり社会的な責任問題を果たしえないということ、そしてなんやかんやいいながら、生物学的な構造として、社会体ではなくて、家庭と個人の領域へと引き籠もってしまうこと、それが従来の価値に見合ったものであること、それによって女性が幸福を得るだろうことは確かなことだろう。

社会体にとっての幸福と個人の幸福は必ずしも一致するものではない。ここにある相剋は領域としては、今度の芥川賞作家女子にみられるように文学の領域である。

◆不二家は悪か―
信頼できる企業ブランドイメージというものは品質管理を第一条件とするならば、たしかに不二家は悪だと思う。つまりわたしたちが日常やるように「賞味期限一日過ぎたけど大丈夫だろう」と考えたゆえに。すなわち―企業は「そういったことをしないものだ」という消費者の期待を裏切ったゆえに。企業における労働者の意識と消費者の意識の混同。雪印同様にこういった類の生産と消費の混同が事件のおおよその根拠だと思う。が、こういった混同は多くの企業に通底するものではないだろうか。生産と消費はいまや分かち得ないものとして、規定されている。生産はいまや「生産する消費」であり、消費はいまや「消費する生産」であって、どちらもが分かち得ない。そしてこういった「場」の慣性から不二家が「問題」として、スキャンダラスな注目を受けるのはそれが「食品」に限ったことであるからだ。これがたとえば、デザインやアートの領域ならば、こういったことは「問題」にすらならないだろう。つまり不二家は食品にまつわる基本的な劣化原理を考慮から外して、混同したということになる。これからおそらく領域の混同あるいはI―PHONEにみられるように「横断」は加速度的に進むだろうから、こういった事件は「彼岸の火事」ではない。どの企業であろうとも、混同のなかでフラット化した「場」の慣性として起こりうる問題だと思う。

◆横断的な「場」にまつわる価値規定の難しさ
こういったNETのディスクールでもそうだが、「場」がドゥルーズ的(「横断的」で「分裂的」)になると、価値規定というものが非常に難しくなる。
これは正しいのだろうか、間違っているのだろうか、という規定が一次的な法則によって、出来ないからだ。かといって本能の直感的な規定や感性の規定というものは、やや説得力に欠けるところがあるというのは正直なところではないだろうか?法整備はあきらかに状況には追いついておらず、テクノロジーの進歩の先行に右往左往しているように見える。そして労働に対する基準や生そのものの価値基準も揺らいでいて、フラクタルで、曖昧だ。
いまや正しさは人の数だけある、と見るべきだろう。
だが、そこに地域的知的公正性としての「法」を導入するのならば、どういった「法」が規定されるのだろうか。「法」というのはおそらく本能に対する下部構造的な中立の正しさの上部構造言い換えだろうから、それはわたしたちの知的規定であって、フラクタルな空気の中から生まれてくる断固たるものでなければならず、それは「感覚」を「言語」によって統治統合するものだ。

◆終末時計
米科学誌「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ」によれば、人類滅亡までの「終末時計」の針が2分進んで、終末まであと5分となったそうだ。彼らによれば、「われわれは二次核時代の瀬戸際に立つ」らしく、その理由として北朝鮮の核実験とイランの核保有の野望、ロシアなどの核物質の管理問題にくわえて、気候変動問題などを挙げている。なんとなくキューブリックの「博士の異常な愛情」を思わせるが、それにしても―日本人はやはり危機意識に欠けている。

一度ユダヤ人のように祖国を追われて、追放させられ、諸国遍歴を余儀なくされれば、大幅に国家意識も変わるだろうが、まぁ そんな可能性は小説的イマジネーションにしかないだろうから、無理だろう。だ、けれどもダーウィンによれば、人類のイマジネーションには限界があって、何百万年といった単位での時間はおおよそ想像できない、とのこと。人類といった種として、終末の危機感の磨滅はしかたないことなのだろうか?

なんにせよ―案外、むずかしい時代だと思う☆
by tomozumi0032 | 2007-01-19 19:05 | 社会問題
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