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闘走機械

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「私はカウンターカルチャーの大いなる幻影の時代をはねつけようとは思わない。なぜならば、結局のところ、あの時代のいきすぎた単純化、あるいは素朴なまでに無防備な信条告白といったものは、わたしの目には、現在のポストモダニズムの信奉者のシニシズムよりも価値のあるものとして映るからである。」(P12)

◆たしかに「ミルプラトー」は巨大な本だった、と思う。
あの本に潜在している可能性はまだまだ汲み尽くされてはいないし、「来るべき世界への示唆」に富んでいるし、なによりも「60年代」という時代が生み出した集合的無意識が生み出した時代の熱気といったものが籠もっており、読んでいて、そういった―熱い、熱気のようなものに心をほだされてしまうところがある。

◆だが―こう問うことはできるだろう。
はたして―
「ミルプラトー」以後に生きるものにとって「ミルプラトー」は―現実レベルでどのくらい実現された未来なのだろうか?
 
◆多元化はいい―平面化はいい―顕微鏡と望遠鏡をもつものはいい―遊牧民はいい―スキゾはいい―分裂症はいい―フロイトはおそらくドゥルーズが指摘したかたちでの制度不良を起こしていることは間違いないように思う(マクロ資本主義(社会身体)に沿うものとしての個人や心的経済形成)

◆その結果訪れた社会は相変わらず―というか、より強固さを増してゆく「抑止構造」と「管理」なのではないだろうか。多様化が逆説的にうむ構造レベルでの抑止と管理―「自由すぎることが生む抑止」といったものはドゥルーズ=ガタリの思考の中に入っていないように思ってしまう。

◆例えばM・ウェルベックはこういったドゥルーズ以後の暗黒面を明らかな前世代への挑戦をもって告げていはしないだろうか。60年代の表現ヴェクトルの強烈さは咀嚼されがたい。そして咀嚼されがたいので、どうしても消化不良をおこしがちになる。ウェルベックは咀嚼されない60年代に彷徨う90年代の若者、そしてボードレールに代表される復古的な「悪」へと向かい、呪詛を復古するという意味ではどうしようもなく不毛な―不毛であるが故に感動的な男だ。

◆もちろんフランスと日本は状況が違うし、封建主義的なものの強い日本という国家と革命によって変革されるフランスという国家―つまり革命が起こり焼き払うことによってかわった国と近代化の革命が復古主義と結びつく国の差異はあるだろう。

◆だが―
それでも、やっぱりドゥルーズ=ガタリのあの本に期待してしまうところはある。
もちろん新しいことへの期待というものを持つには、このどちらかといえばシニシズムと短縮化の機能主義の時代にロマンチックすぎるところはあるかもしれないけれども―
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◆この本はそうしたミルプラトー以後の―80年代のやや苦い状況が著されており、ガタリのちょっと苦虫を噛み潰したような、釈然としない調子もあるが、それでも未来への希望を捨てない闘争し逃走する精神分析家、思想家としてのガタリがうかがわれる。

◆前衛性ということでいえば、ドゥルーズよりガタリのほうが前衛的というか、文献学的ではなくて、実践的な感じがし、よりアクティブな印象もあるが、フランスはまたあんな面白い哲学を生み出せるのかと思うと、今の状況からしてみると厳しいのかも知れない。「ミル・プラトー」のなかでも語られたように―現在フランスがやっていることはたいがいがアングロサクソン言語の圧倒的な支配下のブルジョワコラージュなように思う。

◆フランス語のような一元的な統治構造をもち、「貼り付けること」ではなく、「置き換えること」によって、自らの文化を中華化させてしまうような言語構造はやはりこういった時代には弱いような気もしなくもないのだけれども・・・英語の身軽さとマイノリティ的な変数が言葉構造に内在されていないのはやっぱりねぇ・・・うむむ・・・まぁ OTAKUに萌え無重力にサスペンドする日本のレベルは口にできないようにも思うけれど―
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