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子猫殺しに思ふこと

「子猫殺し論争」はこちら
               
★養老孟司によれば、現代都市・社会は「脳の産物」である。
そして脳の産物としてあるこの都市・社会の中で、最終的に抑圧されるべきものは「身体」、つまり「死体」だという。さらにこのような「身体」「死体」を放逐した社会の裏として、腎臓移植や、脳死問題に現れる思想の昏迷と欠如を挙げ、日本における「思想としての身体の不在」を説き、同時に身体性の認知の問題である「個人主義がない」と述べている。

★「思想としての身体」と「個性」の徹底的な不在―
そしてそういった日本社会の表面に投げられるふいの「死の思想」。社会の極めて感情・情緒的な反応。これはちょっと三島由紀夫の割腹自殺に似ているように思った。
つまり、坂東眞砂子のこの「子猫殺し」の問題も日本の「思想としての身体の不在」と「個性」をめぐる同じ問いの循環LOOPのように見えてしまう。戦後管理社会をめぐる「生の逆説」の思い出したような閃き―

★「死の提示」と「日本批判」の反面には、確かに生きることに対して、淡いボンヤリとしたイメージでしか結べず、あらゆる匂いと実体を排除してしまう、イメージ先行の高速情報資本主義社会が広がり、ヒトを取り巻いている。ヒトはこの状況の中で、記号と実在を交互に置き換えながら、数字を叩き出し、「生」らしきもの、「生」とおぼしきものを生きているのだろうが、こういった「生」にあまり興味がもてないような、免疫不全の心情が拡散しているように思えてしまう。

★少子化は緩慢な自死―「身体の不在」そのものの形態であり、自殺やひきこもりや無気力はこういった「身体の不在」への素直すぎる反応であり、セックスとファッションの過激化は「身体の不在」の逆説の表現の両極ではないだろうか(どちらも艶やかな「狂い咲き」だ)

★そして様々な日本の文化的な台頭が、世界に影響を及ぼすものならば、この日本の状況というのはいみじくも誰かがいったように「憂鬱な世界の最先端」なのだろうか?スノヴィズムとしての日本化が世界を覆うのだろうか?それならば―養老がいうところの「脳化」と「徹底した管理化」、「思想としての身体の不在」はより徹底的な形で世界化してゆくのだろうか?それとも養老が「唯脳論」(1989)の末尾で描くように自然が不敵に復讐するのだろうか?

★私見では、文学ははやくからこの問いを追及してきたように思う。
例えば―ドストエフスキーの「地下室の手記」(1864)は地下室(身体)から水晶宮(脳)への批判だし、ハックスレーの「素晴らしき新世界」(1932)では、野蛮人(身体)と文明人(脳)を鋭く対峙させることによって、タニス リーがSFヒッピー的な意匠を借りて「バイティング ザ サン」(1976)で変奏させてみせたように、あるいは映画「MATRIX」(1999)やJ・G バラードの物語群にあるように―人間の知性とその逆説としての「身体」は永遠に循環loopを生み、変奏と、再生産を繰り返すものなのだろうか?

★文学者とはいつも<動物>である。
だから―ある意味でこういった動物的身体性による逆説ロジックが、彼女の脳裏で閃き展開されるというのも、文学の伝統線に沿っているようだ。

★おそらく彼女がいうことは正しいだろう。たしかに現代社会は死をジョーカーとした、トランプゲーム―記号の組み合わせによって成立しているのだろうし、そこでそれ本来の原初性は喪失されるだろう。が、それがもし人類の生成変化の尖端なのだとしたら―そして遅からず局所的なものから派生的に人類が日本人のように、徹底管理されるものだとしたら―そしてそれをメタレベルに置き換えることによって、平面次元での記号を組み合わせ「なおす」ことにしか未来はないのだろう。

★「身体の不在」、「個性の不在」、つまり―人間実質の最終的な不在―しかし、それならば逆に身体はどこにあったのだろうか?個性はいったいどこにあったのだろうか?人間といわれるものはどこにいたのだろうか?それらは相対的なもの、「いつかに較べると今は」あるいは「彼に較べるとオレ・私は」といったものに過ぎないのだとしたら―

本来人間など呼ばれるものはいないのではないだろうか?

「本当はいくつかの非人間性があるだけなのだ。人間はただ非人間性のみで作られている。」
ドゥルーズ=ガタリ 「ミルプラトー」p216
by tomozumi0032 | 2006-08-27 16:59 | 社会評論
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