人気ブログランキング | 話題のタグを見る

CQ

★「これで終わり?それとも始まり?でもナニの?」
CQ_a0065481_1665977.jpg

◆全体の印象
軽快で馬鹿馬鹿しくってファッショナブルな「パリのアメリカ人」の映画―この映画では虚構と現実、模造品と人間、過去と現在、愛する二人の女性、映画を撮ることと撮らざること、革命と非革命の対立項が交錯し、混淆しており、その狭間の自我の優れて正直な独白(ドキュメンタリー)となっている。等身大の、気負わず、背伸びしない、POPな若者風景として楽しめ、尚優れて知的な映画だと思う。
CQ_a0065481_1682712.jpg

◆物語解説
まず自分自身の自己紹介から始まる。
1969 9.1、朝9時30分。僕にかんする断片、僕に関する事柄―
主人公はガールフレンドのマルレーヌと同棲生活をしながら、「ドラゴンフライ」という美人スパイが活躍するSF映画の編集の仕事をし、同時に私的ドキュメンタリーフィルムをつくっている。「ドラゴンフライ」の監督は「革命」をテーマの映画(謎の若い革命集団が月の裏に秘密基地をつくっている、指導者の名前はミスターE(ゲバラ風の男)、信奉者たちは彼を偉大な詩人、演説家、発明家、武道の達人としてあがめている。彼らは無政府主義にの危険思想を広める計画を練っている)を撮っているが、プロデューサーの反応が悪く、喧嘩になってしまい、監督を降板。新しく作り直すことが求められる。撮影現場で主人公は美人スパイ「ドラゴンフライ」に扮する女優ヴァレンティーナと出会い、淡い恋心を抱くが、スタイリストのフェリックスと食事にさらわれてしまい、さらには連日連夜の映画への情熱からマルレーヌへの愛を疑われてしまう。一方映画はスタイリストのフェリックスが監督を務めることになるが、フェリックスはガールフレンドとパーティーへ行く途中で交通事故に―結局代役を務めることとなる主人公は映画の編集中に妨害にあっていることに気付く。フィルムの第七巻目が切り取られており、箱の中に「愚か者」の暗号が・・・。さらに追い討ちをかけるように帰宅すると、マルレーヌは泣いており、別れが示唆される。主人公はプロデューサーの待つローマへと旅立つこととなり、そこでアイディアを煮詰め、夜遊ぶ。パリの自分の部屋に戻ると、マルレーヌの荷物はなく、彼女は出て行ってしまっている。彼は落ち込むが、映画制作に没頭するようになる。そんなある日撮影中に何ものかにフィルムが盗まれる。主人公とヴァレンティーナは撮影用のスポーツカーで追跡し、車から逃げた男をおって、走る。追い詰めた犯人は以前映画をとっていた監督で議論の末フィルムを取り返す。その際監督から映画が「革命を信じたもの」であることが告げられる。結局作り直すことになった映画の結末で、「革命を信じる」メッセージが導入されて完成し、同時進行で進められていたマレリーナとの私的ドキュメンタリーも完成し、上映されることになる。
最後のセリフ。

「これで終わり?それとも始まり?でもナ二の?」
CQ_a0065481_1691538.jpg

◆トリッキーな現実構造
この映画の特徴はトリッキーな現実構造である。まず主人公はSFスパイ映画という大きなフィクションの物語と同時進行で私的ドキュメンタリーを制作している。そして仕事としてのSFスパイ映画とプライベートとしての私的ドキュメンタリーの二つが相互に補完しあって、完全なる現実のシュミラクラを実現する。つまり「形容矛盾」した言い方でいえば、これは「現実ではないところの現実」であり、したがって「虚構でないところの虚構」なのである。ということは、これは現実というものがないということを強調することによって、現実そのものを宙吊りにしてみせるという潜在意志を秘め、全てがあからさまに映像化される世界の透明な不在性というもの逆説的に明示しているように見える。なにもかもが透明で不在であるということ。そして透明で不在であるということは終わりもなければ、始まりもなく、意味もないのだということを、最後のセリフが示唆しているのではないだろうか。主人公の元の仕事が編集であることは暗示的である。というのもこれは現実認識をめぐる編集感覚の映画であって、現実というものが編集としてしかあらわれない位相を、日常感覚に連結してみせたからである。セリフが暗示する無限の循環感覚は例えば2000年に五月革命的なものを召還させてみせたレトロフューチャー感覚にも明らかだろうし、あるいは革命などというものがありえないものであることを知りながら、あえて革命を物語る確信犯的擬態にも明らかだ。接木された現実のオルタナティブな可能性として説話はPOPな夢として、現実を揺るがさない位置である意味端正にプロダクトされており、現実は透明の不在さに沈められている。(それにしてもなんという現実的革命の不可能さと若者文化の「衰退」だろう!そしてクープランド的ベットタウン感性の圧倒的勝利だろう!ちょっとむかつく、ほどだ)現実は痩せ細ったものですらない。それは徹底的な透明化なのだ。そしてその透明化が無限循環の鏡状迷宮であることを映画は告げている。
CQ_a0065481_1695535.jpg

◆同世代感覚
もう少し砕けた言い方で、同世代感覚で見てみれば、この映画は世界規模での同世代感覚(レトロフューチャー、60‘S回帰)をセンスよく纏めたものだといえる。スタートレックや007、女スパイものといった幼児期の記憶がREMIXされて、「おっしゃれ~!」に編集されている。それからいわゆる大文字の「映画」というよりは映画への情熱、映画自体を解体し違った角度から再構築して見せた話として、「ラヴ・・・」と思った。
CQ_a0065481_161171.jpg

◆「ラヴ・・・」
あ いや すきですよ(笑)ほんとは、かなり―知的でファッショナブルで女の子が綺麗にとれててハッピーでラヴリー、ジャストなかんじっ☆「ラヴ・・・」
CQ_a0065481_16113098.jpg

★「これで終わり?それとも始まり?でもナニの?」
by tomozumi0032 | 2006-05-23 22:12 | 映画評論
←menu