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勝手にしやがれ 2

「勝手にしやがれ」1からの続き-
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3/転
パトリシアがDIORで服を買っている間、ミシェル車の中で新聞にお尋ね者として記事となっている自分を発見、丁度同じく街頭で新聞を眺めていた通行人(ゴダール)に発見されてしまう。何とかやり過ごして、ミシェルはパトリシアを空港のインタヴュー会場まで送る。パトリシアは新作「カンジダ菌」を発表した作家パルヴュレスコをインタヴュー。機知のきいた会話をする。その間ミシェルは中古の車仲介業者に車を売ろうとするが、新聞の記事を見た業者の男に足元をみられ、失敗。その男を殴って逃走。パトリシアとタクシーに乗りながら、パリの街の批評。女のスカートをいたずらにめくる。
「俺には美がわかるんだ 美だ」
「速度をおとすな。4CVをおいこせないのか!スクーターのほうがいいぞ」
「車を大事にするやつはきらいだ」
車内、エネルギッシュなビートにのって言葉が連なる。
2人は別れ、女は新聞社へ。刑事がきて、新聞をみせられ、関係を疑われるパトリシア。刑事に尾行され、映画館へ逃げ込む。館の裏口から逃げ、ミシェルと会う。二人で西部劇の映画を見ながらキスする。
「気をつけろ 口づけの斜面で時はさる。触れる舞い砕け散った思い出には」
「いいえ 保安官 私たちの物語は気高い悲劇です すべてが私たちの恋を美化するのです」
車を失った2人は駐車場へゆき、今度はキャデラックを盗む。外にでると建物の電光掲示板に
「ミシェル逮捕せまる」
の文字。夜の街で仲間のアントニオを探す。BARへ。アントニオとミシェル、ゆすりのため男同士のキス写真を撮ったのち、カンパーニュ街にある女の家(スタジオ?)へ。モデルが写真撮影しているが、やがていなくなる。

4/結
明くる日新聞を買いに出たパトリシアは、CAFEで警察に通報する裏切りのTELをする。買えってミシェルに会うと、その理由を
「ローマに行きたくない」
からだという。当然憤慨し当惑するミシェルに向かって、さらに言う。
「あんたを愛したくないから、あんたを愛しているのか、確かめたくて寝たの。意地悪になるのは愛していない証拠ね」
「人にかまわれたくないの」
「俺もそうさ」とミシェル。
「愛してる?」
「勝手にそう思えばいい」
「だから密告したのよ」
「俺の方がマシだな」
「行ったほうがいいわ」
「どうかしてる。情けない理由だ。誰とでも寝る女と同じだ。そのくせ愛する男とは寝ない。他の男と寝たからといって・・・」
「なぜ いかないの?私は誰とでも寝たわ、私を信じないで」
「いや もうだめだ 刑務所も悪くない」
「狂ってる」
「ああ 誰とも話さず壁をみるだけ・・・」
ミシェル外へ。金を渡しに来たアントニオと会い、金を受け取るが、逃げようとさそう車には乗らず、拳銃も受け取らない。
「もうたくさんだ 俺は疲れた 眠りたい」
「シャクだが、あの女が頭からはなれない」
やってきた刑事に背後から撃たれて、しばらく走って道に倒れこむ。臨終のミシェルを囲む刑事とパトリシア。ミシェル最後の呟き。
「まったく 最低だ・・・」
パトリシア、カメラを正面から見据えて
「最低ってなぁに」
と聞き、唇を親指でなぞるミシェルの癖を模倣してみせる。
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                   ☆印象
この映画は冒頭の字幕にあるように、「B級ハリウッド犯罪映画専門会社モノグラム」に捧げられている。あくまで「A級」ではなくて「B級」の「犯罪映画」である。これはタランティーノが「KILL BILL」でやったこと(KILL BILLが深作やB級ヤクザ映画にささげられていたことを思い出そう)つまり飽和状態に陥った映画それ自体の価値転倒を目論んだものの先駆けと推測される。そしてこの前提があればこそ、すなわち自らB級を名乗ったからこそ、A級ではなしえない型破りな奔放な表現(カメラ目線、細かいカットの交錯、荒々しい編集等々)が成就したのではないか?若々しくてカジュアル、成熟の一切が後景に退き、盗んだ言葉は軽快に、盗んだ車は時速180KMで奔走し、映画それ自体が運動性を秘めて、躍動する。例えば写真表現におけるWILLIAM KRAINの「NEW YORK」、あの躍動に満ちたカメラの向こうで拳銃を突きつけてみせる子供たち、スラングのエネルギッシュな生を閉じ込めた型破りな表現と同様の型破りなカジュアルさが映画全編を通底するトーンだ。そしてそのトーンが色々な場所から蒐集された言葉の感覚的なCUT UPで飾られる。

台詞をみてみよう。
冒頭のシーンでのミシェルの台詞。
「つまり おれはアホだ 結局はそうさ アホでなっくちゃ」
このあとに唇を撫でる彼の癖。(写真2)
そしてラストシーンでのパトリシア。
「最低ってなぁに?」
このあとにミシェルの癖を模倣してみせる。(写真5)

以上のように「勝手にしやがれ」とは「B級犯罪映画」に捧げられ、「アホ」に始まり、「最低」におわる映画なのである。いかにして「ロマンチックなアホ」であり、「美がわかるアホ」であり、「速度にたいするアホ」であり「盗んだ車に固執するアホ」であり、「愛に対するアホ」であるのか・・・・この言葉は蓮實重彦によってこのように映画のレベルに拡大解釈され、アホを「馬鹿」によって置き換えられて繰り返される。

映画を見るのが好きだったり、好きな映画について語ったり書いたりするのがするのが好きだったりする連中は体験的な事実として、そのほとんどが馬鹿だと断言しうる。馬鹿とは何かという定義以前の段階で、彼ら、あるいは彼女らは馬鹿だと思って間違いない。また、映画を見るのが好きでなかったり、にもかかわらず見てしまった映画について語るのが好きではない連中も、ほぼ例外なしに馬鹿である。さらには映画を見るのが好きでも嫌いでもなく、それでいてときに映画を見てしまったりする連中も程よく馬鹿だといえようが、彼ら、また彼女らの馬鹿さ加減が、映画を見ることにまったく関心を示さない連中のそれよりおとっていたりまさっていたりするわけではいささかもない。では、映画が積極的に嫌いだと公言する連中が馬鹿でないかというと、これまた馬鹿たることをまぬがれていない。体験的な事実として、彼ら、または彼女らも救いがたく馬鹿だと断言することができる。そして、以上の言説から、人類は押しなべて馬鹿の集積からなっているのだという命題を涼しい顔で引き出してみせる人間がいたとするなら、これまた馬鹿というほかない。いま、さしあたり問題なのは人間が多少とも馬鹿であったりなかったりする生物か否かを知ることではなく、馬鹿たることによってしか人は映画と関わりを持ち得ないという事実である。繰り返すが、馬鹿とは何かの定義はこのさいどうでもよろしい。映画を肯定するにせよ否定するにせよ、映画という言葉で人が何事かを想像しうるかぎり、人は馬鹿たることをうけいれねばならない。そしてそのことを、人は体験によって熟知している。それは間違いのない事実である。というのも、この世界に映画が存在しなければならないという正当な理由もないのに、誰も積極的にその正当な理由の欠如を不思議に思ったりはしないからだ。

つまりゴダールがこの映画でいわんとしていることとは、「お洒落に生きろ」とか「人生を楽しめ」とか「会話は気を利かせて」とか「知的にスマートに」とか「服はDIORで」、といったことでは断じてない。そうではなく、ゴダールはわたしたちに「アホたれ」「アホとして生きよ」ということを言っているのである。要するにブルジョワジーは「勝手にしやがれ「ぬ」」奴らどもであり、その中で「勝手にしやがって」生き、そして「アホ」たれといったゴダールは「アホ」たれといったそのことによって自ら映画「アホ」を体現し、ヌーベルバーグの「アホ」の英雄になったといえるだろう。勝手にしやがれ 2_a0065481_13213425.jpg
所詮人間なんて「アホ」どもなのであって、せいぜい知的な衣でそれを包んで砂糖菓子のようにしたところで本性は隠されえぬものだとするならば、それならば「勝手にしやがった」ほうがよっぽど魅力的なことに相違ない。そしてこの映画の真の魅力はそこである。これほどの透き通るような素直さでゴダールが映画を撮り得た、それ故にこの映画はゴダールの最高傑作ではないだろうか、つまり成熟のかわりのスピードが故に。そして死と遊戯するその闊達な精神がゆえに。

                  ☆符号
いわずもがなこれは「映像作品」である。ここで表現されているのは映画でしか表現できない言語(映像言語)だ。そしてそれは軽快で自由なものであり、そういったものが孕み得る既成権力への反発である。もちろんこれはオマージュかもしれない。しかし捧げられる対象は「反発そのもの」(つまり犯罪という名でよばれざるをえない「反発」、もしくは「B級」であることを「是」とすることによる「A級」への反発、あるいは「アホ」や「最低」であることを肯定的にとらえるという「反発」そのもの)であって、間違っても優れて立派であることなどは指向しているわけではない。表現が孕み得る反発、それは今日でいう「絵文字」のようなものだ。映画という文法、映画という絵文字、都市という絵文字、が優れて効率的に纏められている。

そして作中では、それらが「限定された言葉数で反復されており、作中を埋めるのはおおくの符号である。これは一見「勝手にしやがって」いるようで、実際は計算されて構築されている。その意味においてはこの映画はまったく「勝手にしやがれ」ではない。

例えば上記の冒頭(起)と終末(結)のシーンでその形を変えて反復される唇を撫でる癖。あるいはの起のシーンでミシェルが交通事故で街頭に横たわる死体を見つけるのは、自らの未来をすでに予見している。またミシェルが拳銃を放って華々しく幕を開けるこのドラマが、結局はミシェルが拳銃を使用することを放棄して、刑事によって背後から撃たれて終わるという悲劇の形で結ばれている。そして承の室内シーンで使われた幸福なムードの中で、その「幸福」への修辞作用を齎した台詞が、そのまま結の室内シーンで今度は「悲劇」への修辞作用として使用されている。

こういった映像や言葉の符号は屋外で撮られたシーンも含めて、この映画に曰くがたいミステリアスな影を付加するその意味で、この映画は「欲望」の映像言語と共通したなにかを感じる。つまり不可思議な浮遊感、表現しているものと意味しているものの乖離のようなもの、を感じてしまう。おそらくゴダールの偉大さはそこではないか、三島でもそうだが、これは読みきれない、解釈を拒絶するテクストめいたところがあって、だからこそ何度見ても楽しめる不可思議な深みがあるのだと思った。
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