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男と女-性に関する問い

日本人の美意識 (中公文庫)

ドナルド キーン / 中央公論新社



ホモセクシャルの世界史 (文春文庫)

海野 弘 / 文藝春秋



幸福は永遠に女だけのものだ (河出文庫)

澁澤龍彦 / 河出書房新社



☆更新しないで、ごめんなさい(笑)
おっす☆

えっと、まずは更新しないで、ごめんなさい(笑)、てか、いちど離れるとけっこう面倒な作業なんだよね、こういうのって。本や言葉を読み込まなきゃいけないし、相応の時間も必要だし、書かないのは、書くより自意識に悩まされて、あらたな煩悩を生まないで済むし、俗世の処世術として、「書かない」という選択肢も楽でいいんだよね。書けば、「もやもや」と雲のような煩悩が生まれて、そのわだまりに対処するのに体力いるっす。なんだか、すっかり、俗世離れした生活になれてしまって、そのことが、どうにもごめんなさい、です。それでもいつも一定数の読んでいただいているかた、あんがとね。こんな無精な「三年寝太郎」みたいなブログでもけっこう来てもらっているので、ときどきビックリです。


★「男」と「女」―「おとこ」と「おんな」
さ~て。

ひさしぶりなんで、なぁに、書こっかなぁ~☆・・・と思案にくれていますけれども、今回はゴダールんとこでもちょっと触れたような、人類、っていうか生物の永遠のテーマである「性差」について、まったく別の3つの本(でもどれもなかなか素敵な本たちですよん☆)を読みながら、ちょっとした思考と解釈の「実験」をくり広げてみたいと思います。「男」と「女」という2つの記号、いっけん、その2つ「だけ」の記号で社会は機能しているように見えますが、本当にそうなんだろうか。時代によって、性はいくつもあったのではないだろうか。合理主義の現代社会にてらし合わせて、あらわになる性だけではなくって、長い人類の歴史のなかで、人間はもうすこし境界の曖昧な、はっきりしないところにいたし、今なお意識においてはそうなのではないだろうか?おおざっぱに言うと、ずっと、そんな風な疑問があります。ひさしぶりなんで―うまくできっかなぁ~といささか不安ではありますが、まぁ適当に無理しない程度でやってみたいと思いますので、興味のある方はおつきあいどうぞ☆ちょっと難しい?いや、まぁ、わかりやすくしますったら。

☆ドナルド・キーン著「日本人の美意識」-歌舞伎の女形(おやま)はかく語りき!
まずはコロンビア大のめ~よきょ~じゅドナルド・キーン氏の著書「日本人の美意識」からの引用から始めてみたいと思います。

余談ですが、この本はとても面白い。表紙の渋さ(もっとPOPにすれば若い子が手に取るのにいいのに、と残念です)とはちがって、愉快なところがあって、ユーモラスで、なにより現代的でAPPLEのスティーブン・ジョブスのように実験的な本です。キーン氏は人類がグローバリゼーションによって、「単一栽培」をはじめる前の、つまりどこの国もみんな同じようになっちゃう前の、日本と西洋の「違い」をこの本の中でさかんに探究しているように見えます。今じゃあ、すっかりグローバル化して、ごっちゃまぜになってしまった結果「違い」を「違い」として見分けられなくなってしまった日本人に日本人の本質を突き付けているのだと思いました。それってたぶん日本人のもちあわせてきた「洗練」と「実験」の精神をとりもどす試みなんだよね。

さて、キーン氏は本書のなかの「日本演劇における写実性と非現実性」の章のなかで、17世紀の伝統的な歌舞伎の女形、芳沢あやめ(1673-1729)の言葉をひいて、以下のように述べています。いいですか、女形の言葉ということに注意してくださいね。つまり、男性が女性を演じる歌舞伎役者のことですよ。

はい、そんぢゃあ、HEREWEGO~☆

「(女性の)女優が舞台に登場しても、理想的女性美を表現することは出来ないだろう。というのは、彼女はせいぜい自分の肉体的特徴を活用するだけで、したがってもっと総合的な理想を表現することは出来ないからだ。理想の女性は、男の役者によってのみ表現しうるのだ」芳沢あやめ(P116)

いま聞くと、ちょっと男性中心主義的だともいえるような言葉ですが、こののちキーン氏はこんな風に続けています。

「女優が女を演じる時、厳密に言うと、男が女の役を演じるよりは、より女らしくなれるかもしれない。しかし、子供の時から、女の動作を精密うに研究してきた男の俳優ほどは見事に、女性の本質的な資質を伝達することは出来ないのである。偉大な女形が演技するのを見ていると、彼の身振り一つ一つの中に、殆ど薄気味悪いほどに細かい気くばりが、行き届いているのがわかる。」(P116)

「女性上位時代」といわれる現代を生きるわたしたちは、こう言われると、この逆はどうなのか―が気になりますが(笑)、それはさておき、キーン氏はさらに歌舞伎の女形は女性として美しい男性ではなくて醜い男性がいいという面白い指摘を続けます。見てみましょう。

「現存する最もすぐれた二人の女形は女性としてひどく醜いだけではなく、その声は、彼らが演じている悲しげな若い娘の声というよりは、むしろあの耳触りな孔雀の鳴き声を想い出させるのだ。自分が本物の女だと観衆に信じ込ませようと試みる女形があるとすれば、その役者は、まだまだ出来ていない役者だと言わざるを得ない。女形の理想が、ある特定の女性というよりは、女性というものの、いわば抽出されたエッセンスである以上、すぐれた女形は自分が観察した女性の仕草その他をいちいち真似る愚は犯さない。彼は過去の女形演技の伝統、あるいは型に、まるで当たり前のようにただ従うだけなのである。」(P117)

これはビックリしてしまうような指摘です。

つまり、歌舞伎の世界においては女らしさやその反対の男らしさは型として、踏襲され、劇としてエッセンシャルに表現され、そして、それがこそ現実の女性以上に女性らしいと言っているのです。

歌舞伎の女形は、わたしたち人間にとって、「女性らしさ」や「女らしさ」、反対に「男性らしさ」や「男らしさ」という概念は抽象的なものであって、その性そのものにそなわっているわけではないという複雑なパラドクスを教えてくれます。


☆海野宏著「ホモセクシャルの歴史」―ネイティブ・アメリカンの第三のジェンダー「二つの魂」をもつもの
キーン氏の指摘どおり、性にはパラドクスがあります。
そういったパラドクスのひとつに同性愛があげられます。海野宏氏はこの大著「ホモセクシャルの歴史」のなかで「ホモセクシャル」の身体的関係はもとより同性間での友情やその延長線上である心や精神の交流、寵愛や慈愛、鳩山由紀夫的(?)「友愛」にもまた愛情の関係を見出しています。社会一般の見地から、身体の関係だけをとりだして、「愛」や「ホモセクシャル」とよぶのは、ちょっと下品でプラグマチックすぎると思います(笑)もっとも身体の関係はわかりやすいだけに、イエスノ―でせまられるという現実があることは確かでしょうが。でも、意識レベルで性を分解してみると、男性の中に女性の面影を、女性の中に男性の面影を見ることはそれほど少ないことじゃあないと個人的には感じます。男だって女らしい部分があるし、女だって男らしい部分がある。それらは光の世界に表立たない影として、その性に付き纏っているかのようです。

さて、本著「ホモセクシャルの歴史」はたしかに歴史の表舞台の欧米人に偏りがあって、ちょっと世界史というわけじゃあないところがあるとは思いますが、広く長い射程のなかで、ギリシアの少年愛、古代ローマの哲学的エロスからダビンチのルネッサンス、パリファッションのさきがけアンリ三世や女嫌いなルイ13世の近世、オスカーワイルドや白人中心帝国主義者セシルローズといった19世紀のイギリス周辺事情、黄過論のヴィルヘルム2世(有色人種の日本人からして見ればローズにせよ、ヴィルヘルムにせよ「やな奴ら」ですね(笑))統治下のゲルマン、ジャンコクトーやニジンスキーで有名な20世紀フランスの華麗なるゲイコネクション、さらには「太陽の子」といわれるオックスフォード、ケンブリッジといったエリートのホモセクシャル秘密結社的コミュニティ、ヴィスコンティのナチス、ハックスレ―とイシャウッド、あるいは二ールキャサディ、ギンズバーグ、バロウズといったビートニクスのアメリカ西海岸、「マイフェアレディ」のジョージ・キューカーや二枚目俳優ケリーグラントのハリウッド、そしてグリニッジヴィレッジとハーレムの狂騒に至るまで華麗で目もくらむばかりの豪華さで描かれています。ホモセクシャルの知的で華やかな狂騒の歴史、もうひとつのファニーでクレイジーな交流史、第3の歴史という意味で、きらめきがまばゆく、とても魅力的な本だと思いました。

本筋からはすこし離れますが個人的にはネイティブ・アメリカンの部族の第三のジェンダー<二つの魂>の逸話が興味深かった。以下に長く引用してみます☆

「「第三のジェンダー」として興味深いのはネイティブ・アメリカンの部族にあらわれる<ベルダ―シュ>である。この語は植民地時代の蔑称なので、今は、<二つの魂を持つもの>とか<マン・ウーマン><男女>と呼ばれる。かつて同性愛は、性的な意味でしか見られなかったが、精神的関係を評価するようになった今、<二つの魂>というのはなかなかいい名ではないかと思う。

<二つの魂>の多くは男であるが、女もいくらかいる。アメリカに渡った宣教師たちは、ネイティブ・アメリカンの部族の中に、女装して、女の仕事をしている男を見ておどろいた。女装の男たちは、部族の最高会議で助言者の役を務め、重大な決定は彼の意見を聞く。占い師、預言者、語り部、ヒーラー(治療師)でもある。

ズ―二ー族にウィ―ワという<二つの魂>がいた。彼はネイティブ・アメリカンの識者として白人にも認められ、ワシントンの上流社会に受け入れられ、<インディアン プリンセス>として人気があった。1886年、<二つの魂>としてはじめてアメリカ大統領と握手をした。ウィ―ワのおかげで、ズ―二ー族はアメリカ人と友好的な関係を持った。」(P30)

まだ世界がこんなに発達する以前、民族や部族の世界のころの、性的なものにたいする「おおらかな」、ひとつの特色をみるように思います。

☆「男」と「女」の分類は「近代」の思考-「好き」は「嫌い」で「嫌い」は「好き」-性をめぐる複雑さ
海野氏は本書の冒頭で現在のように性が「男」と「女」にわかれるようになったのは、欧米では、18世紀の生物学の発達以降であり、新しく、まだわからないことも多いと述べています。「男」と「女」はYES・NOではなく、その曖昧な領域もおおい。

さらにキーン氏のところで見たように、文化や社会における言葉としてのパラドクスもあります。このパラドクスこそ、「同性愛」をめぐる複雑な感情を要約しているようにさえ見えます。
以下に海野氏の言葉で引用してみましょう。

「(欧米で)男と女を対立させる考え方は近代のものらしい。それ以前は、人間は一元的に、男を中心として考えられてきた。男と女を対立させたことは、女性を差別したと見られているが、女性の存在を独立させたと考えることもできる。男は外で活動し、女は家で子どもを育てるという分担は差別的であるかもしれないが、ともかく女を分離した。女性はひとつのまとまりとして自分たちを見るようになり、社会的位置への不満を意識するようになった。わけられなければ意識も目覚めなかっただろう。女性のアイデンティティが問題になってくる。

一方、男も女を分離したがために、逆に男性のアイデンティティ、男らしさを意識するようになった。男は、女に対して<男らしさ>を見せねばという強迫観念にとりつかれるようになった。

エリザベート・バダンテール「XY-男とはなにか」(1997)によると<男らしさ>は二次的なもので、後からつくられる。なぜかといえば、男は女から生まれ、女に育てられるからである。男の子は生まれてしばらく、母親の女性的な愛に包まれていて、男になるためには、そこから脱出しなければならない。<男らしさ>というのは、母親という女性にたいする自衛手段である

「それは女性に対する恐れであり、優しいとか、受け身だとか、よく気がつくとか、どんな形でも女っぽいといわれることに対する恐れである。それにもちろん男性の欲望の対象になることも恐い。」

その結果<男らしさ>を強調し、男の友情を求めるが、同性愛を嫌悪するという矛盾した態度をとることになる。これはかなり複雑な関係で、男の同性愛の嫌悪の底にはしばしば女嫌いがひそんでいる。女っぽいやつを嫌悪し、男らしさを強調する。しかし、男らしさが好きなら、それこそ同性愛なのではないだろうか。

しばしば、同性愛を異常なほど憎む男こそ、同性愛であるということが起こる。たとえば、アーネスト・ヘミングウェイは<男らしさ>に固執したが、ひそかに同性愛にひかれていた。
」(P13)

以上長い引用でしたが、近代で性を社会的記号として、2つにわけてしまって、それを処理してしまうことが、性をめぐる(幼児や未成年もおそらくは似たところがあるでしょうけれども)複雑な感情をよびさましているかのようです。

近代以降、わたしたちはある種の「禁止」のなかを生きています。この「禁止」とそれが生む「抑圧」は時として個人にそれを「破りたい」(自由への憧憬)への魅惑にかわる。「同性愛」のみならず、芸能やアダルトビデオ、やくざや暴力を含めて、「禁止」は逆にそのものの価値を高めます。「禁止」とそれによって付加された価値を「破ること」(自由への憧憬)の永遠のパラドクスにわたしたちはひかれつづけているようでもありますよね。

☆渋沢龍彦著「幸福は永遠に女性だけのものだ」―「男」と「女」の違い
とはいえ、「男」と「女」という分類がまったく不全で機能しないかというとそんなこともないですよね。それは近代以降という社会システムに生きている以上、「男」という塊、「女」という塊で、役割を別にしてきただけに、そのあいだにさまざまな違いも形作られてきました。

たとえば、「男」と「女」はべつの生き物である―という意見はそういった違いを背景にしています。

渋沢氏は本著のなかで、さまざまな「性の差異」を探求しています。「同性愛」や「少年愛」「異性愛」、「サディズム」、「マゾヒズム」、などなど。さながら「性の百科全書」といったところかな。にもかかわらず、この本の基底音として流れているのは、レトロな昭和的「男」と「女」の風景のようにも見えます。

たわむれにすこし面白いところを引用してみます。「CLITORIS」の章ではクリトリスの歴史を描いています。でもこの描き方がやっぱり「昭和っぽい」んですよね。三島由紀夫もそうだけど、こういった昭和っぽさって、なんだかノスタルジックで可愛いなぁ~と、妙な古さと郷愁を誘います。(おうおうにして、三島や渋沢はなにやら「高い」ものとされていますが、じっさいのところ、触れてみて気がつくのは、そのいささかならぬ気負いとヒッチコックさながらの暗喩的「形式の古さ」じゃあないかなぁ~(笑)、「昭和のおじちゃま」っぽいですね。これと好対照なのが村上春樹です)

「ベットのなかで、親しい女性のデルタ地帯を指先で愛撫しながら、「ほら、ここに帽子をかぶった可愛い子ちゃんがいるよ。ちょっと帽子をぬがせてあげようか」
「いやよ。そんなにひっぱっちゃ・・・・・」
こんな会話を交わした経験が、私には何度かあったような気がする。相手はだれだったか、もうすっかり忘れてしまったが、一人や二人でないことだけは確かである。
「帽子をかぶった可愛い子ちゃん」は、その名をクリトリス嬢という。小さな宝石のような、ボタンのような、木苺の実のような、まったく可愛らしい女の子で、その名の通り、指先ふれるとクリクリ動くのだ。」(P71)

ここからギリシア神話へ話はとび、ギリシア神話の小人族の娘「クリトレイス嬢」と蟻の話へ移ります。神話では、クリトリスは「クリトレイス嬢」という小人のお嬢様だったらしい。そして、クリトリス感覚と蟻の蟻走感は近いものだったと述べられます。

この「クリトレイス嬢」はいつもは帽子をかぶているんだけど、「いつも」ってわけじゃない。情熱的になると、思い切ってぱっと帽子を脱ぎすてて、情熱をあらわにします。嬢の情熱的な態度(「クリトリス的態度」)は主に女性の快楽を疎んじるキリストやアラブ世界では軽蔑の対象だったらしい。そして初期精神分析においては、「幼児的快楽」としてさげすまれたようです。

現代からみると、多くの雑誌やアダルトビデオなどで、ゆがめられた男性中心主義から復権された「クリトリス的快楽」を謳歌している女性でいっぱいです(笑)っていうか、これって「クリトリス的時代」だよね☆

逆に言うと、現代とは女性が女性としてこれまで隠すものとされ、アラブ世界では切除さえされていた「クリトリス的快楽」を表現する時代なのだと思います。今までは女性は男性的な権力のもとで「快楽」をあらわしてはいけなかった。つまり、「慎ましくない」と思われていたからです。でも現代ではたくさん表現するようになった。

と同時に、そういった表現一般は女性の「快楽」はなぜ禁じられていたのか?、そして女性の「快楽表現が切り拓くミライのありかた」とはなにか―と考える試金石にもなっているように思います。

さて、たわむれはこれぐらいで話をもどしましょう。

渋沢氏は本著の「幸福は永遠に女だけのものだ」の章のなかで、「男性」と「女性」の違いをさまざまにあらわします。いわく女の幸福には「教養」はまったく関係ない。音楽家には女性はいない。女性は抽象思考ができない。男性原理と女性原理。たしかにそういわれてみれば、そうかもしれませんが、あまりミライ的じゃあないような気もするし、教養に偏りすぎているんじゃないかしらん(笑)。個人的には女性原理にだって、女性にしか気づかない世界があるし、それは別の世界を切り拓くようにも思いますが。

さいごに渋沢氏の男と女の差異を男性原理から解釈した一文を引用することで終わろうと思います。

「女の幸福とはいうが、男の幸福とはあまり言わない。男は本質的に恥ずかしがり屋なのである。「男の生きがい」とは言う。これなら男らしくて立派だ。生きがいとは、たぶんに効用的な考え方であって、少しぐらい苦しくても、自分の意志で無理して幸福だと信じ込む。

―(中略)―

つまり、男の幸福にはゾルレン(意志)の要素が強く、女の幸福はザイン(存在)そのものだというわけである。女に生まれたということが、女の幸福の第一歩なのである。

―(中略)―

女が男のまねをして、ゾルレンの生き方をしようとする場合がある。それもおおいに結構だが、そのためには花も嵐もふみこえて、女性的原理を捨て去る覚悟が必要であろう。女性的原理とは幸福そのものであるから、幸福を捨ててまでも、ある生き方なり観念なりに殉じようとする覚悟である。矛盾するようだが、ちっぽけな幸福を蹴散らしてまで、ある観念に殉じようとすることが、そもそも男性的原理としての幸福だということである。」(P164)

☆結論
ま、けっきょく、どうなのかはよくわかんねっすけど、いろいろあるんすねぇ、あははは(笑)
by tomozumi0032 | 2011-11-17 17:56 | 哲学批評評論
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