其の四へもどる☆


だが―実際、とれなどしなかった。ふたりがつきあっていたあいだ、長尾ミグの成績は下へさがり、それに比例するように、神谷リサの成績も下へさがった。「リサちゃん もうすこし勉強しなさいよ!」両親にも友人にもいわれたが、神谷リサはすこしも聞く耳をもたなかった。「マジですっげぇしてるわ!―学校だけじゃなくて、科目だけじゃなくて、生きることのお勉強―愛のお勉強とか、言葉のお勉強とか、そんなことを、さ―」と股間をいじり、陰毛を抜き、抜けた陰毛をふっと吹き飛ばしながら答えるだけだった。長尾ミグと神谷リサは「股間の不等式」を学びあった。「精液と愛液の修辞学」を教えあい、「エヴィアンなラヴジュースとカルピスのスペルマのディベート」をじょじょに覚えていった。それは楽しく魅惑的な課外授業だった。酸っぱいが甘く、やわらかいがかたかった。珠をむすぶ汗が全身から噴き、ぬるぬるの身をよじり、さわやかさとべたべたさ、快楽と不快とが光と影のたわむれのように交錯した。神谷 リサはその授業のなかで、快楽が不快を前提としていること、「超気持ちいい」は「超気持ち悪い」を前提としていることを学んだ。エクスタシーや快楽はあやうく、不安定なものであり、あやうく不安定であればあるほどに、なおひときわ激しく燃えさかるものなのだ。快楽は嫌悪感―つまり、自分がいやだったり、気持ちがわるかったり、くるしいかったりすることを糧にして、人工ホログラムのように鮮明だが、どこか儚く、実体なく、さかんに投射されては、はげしく燃えさかるのだった。《セックスの舞台では「きれいはきたなく、きたないはきれい」なんだ》―と、神谷リサはまたマクベスの一節をくりかえし思った。でも、自分がほんとうに好きな瞬間は、そういった生き物として、裸の♂(おす)♀(めす)の液体を搾り合うテクノロジカルで快楽的な性愛の行為そのものよりも、セックスが終わったあとで長尾ミグの腕の中にくるまれて、彼のはなしてくれるさまざまな物語に聴き入ることなのだということに気づきはじめた。長尾ミグはさまざまな物語をはなした。自分のこと、人のこと、昨日のこと、今日のこと、明日のこと、楽しかったことや辛かったこと、哀しかったこと、自分のよろこびや悲しみ、なにがうれしく、なにが哀しかったのか、自分がなにを美しいと感じ、なにを美しくないと感じるのか、よろこびと哀しみ、希望と絶望―を包み隠さずに、心の底からありのまま、耳もとで囁かれると、神谷リサの心は夢見ごこちをふわふわ漂うのだった。長尾ミグのはなしはカラフルで魅惑的だった。時に生物進化の歴史をうそぶいて、輪廻転生のそれだったことをもの語った。むかしむかし、大昔の隕石に乗って宇宙を放浪する生命の彷徨い、地球に落ちて増殖をはじめたプランクトンだった頃の自分をまことしやかに語った。そのころ、生きとし生けるものたちのセックスはひとつで、生き物は自己分裂によって自己増殖した。それから、セックスが分化し、オスメスの区別とその交わりによって増殖するようになったこと、快楽は他者によってもたらされるようになった、時代はすすんで生命フォルムの分化の大爆発、生命が多様なフォルムを結び、それをおもいおもいに表現するようになったこと、地を這いずりまわるゴキブリだったこと、ダニの苦悩、銀蝿の尻のメタリックに熟れた悩ましい美しさに恋したこと、魚類の群生物語、恐竜支配におびえ、明日も知れぬまま、必死でその日を暮らす哺乳類だったこと、手をはじめてつかえるようになったAPEのじんわりとした悦び、人間という「種」の進化、生命連鎖の頂点の君臨と驕り、宇宙人との遭遇、大陸を放浪するアフリカ人、やがて国家の礎を築いたメソポタミア人、ローマ帝国、金で売買された黒人奴隷の憂鬱、人間という虫けらだったこと、五石散という合成麻薬を呑みふけり、女装して空騒ぎする中国人書家たちだったこと、ナスカの太陽王、スペイン帝国の軍人として、正義感にもえ、キリスト的使命に死んだこと。産業革命とフランス革命の人類史的な爆発、ヨーロッパの台頭、東洋的停滞と揶揄された阿片戦争時、国の滅びるのを笑って阿片窟でオピウムの恍惚におぼれて死んだ中国宦官の物語、大正ロマンチシズムに酔う日本のハイカラ女性で詩を詠み、色恋沙汰に身も狂わんばかりに興じたこと。民主国家アメリカと共産主義国家ソ連の東西にわかれた冷戦、膨大な核兵器の製造、核テクノロジーの生み出す「人類皆殺し」の冷たさ、人類は誰もみな平等にこれから殺されることができるものとして生存していること、あるいは人類は誰もみな平等に生存を担保に入れられていること、つまり核抑止による管理プログラムとしての生、そののち、西側、資本主義陣営の勝利とその結果、統制を欠いてますます複雑で不安定にナショナリティーを主張する国々の争い、アメリカの衰退、ヨーロッパの通貨統合、中国とロシアの台頭と逼迫する資源と辺境の抑圧、地球環境の問題、多様で複雑に織りあげられ、それだからこそ不安定に揺らぐ価値観、あやうい不安定さの中で結ばれる快楽はデジタルエクスタシーのちいさな小爆発となって、人々を支配していること……そして、今、こうやってここにいること……ロシアの作家のように、物質文明における精神文化の貧しさを長尾ミグは哀しんだ。長尾ミグによれば、世界は相対であり、どれがいいとも悪いともいえず、命の価値はあくまでその時代の価値というあやふやな価値の体系によって、定義づけられているにすぎない。人間はおおきな逆説を孕んで生きており、その逆説は時に人間をおびやかすものだ。価値はひとつではない!―と長尾ミグは力強く、自信たっぷりに言い切ってみせるのだった。逆に神谷リサが長尾ミグを腕の中にくるんでやり、話をすることもあった。たあいもないこと、傷ついたこと、自分の命の価値への疑い、この世界の美しさ、光と影のコントラスト、フラットな中間地帯―グレーゾーンのメタリックな輝き、遠近法、近いものと遠いものの関係などを長尾ミグほど上手ではなかったが、身振り手振りをまじえて、精一杯話した。いままで使ったことのない言葉の使い方で、それは不思議な効果をもたらすものだった。不思議な事に言葉は神谷リサの心を癒した。言葉のなかで現実世界は言葉へとおきかえられ、もうひとつの世界となった。そしてそこにいる自分を発見して、癒された。《言葉の現実こそが自分の生きている世界なのだ》―と神谷リサは思うのだった。
    ☆
長尾ミグはそのうち学校へゆかなくなった。
ヤドカリのように、部屋に引きこもり、閉じこもったまま、部屋から一歩もでなくなった。教師も長尾の両親も「困った困った」といって、あれこれと策を弄したが、長尾ミグの心に届くことはなかった。届くはずもなかった。長尾ミグは心の底で教師や両親の低脳さと社会を軽蔑していたからだ。「単細胞生物ども!」と長尾ミグは彼らを称した。そして神谷リサに向かって、こんな低脳で幼稚な社会に生きなければいけない自分の哀しさを切々と説いた。その頃から長尾ミグはさかんに「生まれる場所を間違えた」というようになった。「こんな「退屈」な―こんな「期待」と「不安」に宙吊り」にされた―こんな「Mッ気」たっぷりの―こんな「平凡」で―こんな「単細胞生物」の―こんな「自己分裂」と「自己増殖」な―こんな「大国によって核管理」された―こんな「情報を解釈することによって成り立つ大衆管理社会」の―こんな「平和に腐った人々たち」へと身を躍らせることは苦痛でしかないんだ、ぼくには…」と長尾ミグはそう言った。それから熱をこめて、「こんな「社会」には生きる価値なんて、すこしもない!」と結論づけて言い切った。神谷リサがどんなに「そんなことはないわ!おいしいものだって食べられるし、気持ちいいセックスだってできるじゃない!むかしの貴族よりもっと巧みなお洒落もできるし、アニメだって、映画だってロックだってあるわ!」といってもムダだった。長尾ミグは暗い目で「神谷、わかってないな、快楽はぼくの問題じゃないんだよ…」と遠く呟くばかりだった。そうして、毒ムカデに噛まれたように彼は孤独に引きこもり、閉じこもって、机に齧りついては、数学による宇宙の解明にいそしんでいた。ある時―「長尾さぁ…それにしても、管理されていたほうが楽じゃない?なんでそんな苦しくて大変なことをやりたがるの?自分を捨てて、おおきなシステムに身を任せて、いうことをきいてたほうが楽に生きられるわよ きっと―」と神谷リサは見かねて長尾ミグにアドバイスをした。だが、長尾ミグは「けっ 生の堕落だね!」と声を張り上げて答えた。「いいじゃん!堕落だって―みんな堕落んなか生きてんじゃん!しょせんそんなもんじゃんか ぼくもきみも、人間なんて―まじ」「や―だね。つか―ん、なのなら…死んだほうがよっぽどましだし…」あごをふんと突き上げる長尾ミグはかたくなだった。それから神谷リサは微妙な軽蔑の視線を日々感じるようになった。それは男が女に対する潜在的な軽蔑のたいがいを含んだ軽蔑―つまり女という性そのものへの軽蔑、生命への軽蔑、体への軽蔑、形而上ではなくて形而下への軽蔑…やがて、そんな長尾ミグといつも一緒にいる神谷リサが気づいたことは、長尾ミグは言葉の両義的で曖昧な詩情を頭で受け入れながらも、体では好まないということだった。長尾ミグの体の快楽と好みはなんといっても明晰さだった。神谷リサには長尾ミグがそれに囚われすぎているように見える。長尾ミグにとって、問いはひとつの答えとして、明らかに表現されなければならなかった。そうでなければ、表現されないも同様なのだった。もっとも、そうしなければ、長尾ミグは自分が自分でなくなってしまうように思っていて、時々、そう思いこんでいるだけのように神谷リサには見えてしまう。神谷リサは部屋から帰るとき、長尾ミグの背中を見た。それは小さく見えた。子供のようだった。それは神谷リサの脳裏に、子供ががんばって、強がって、自立した自分であろうとしている「哀しい背中」として焼きつくのだった。
    ☆
「ちょっとした心の変化―なんだけどなぁ~…もう少し自分が自分でなくなることを覚えればいいのになぁ~…」

自分の部屋へ帰って、ひとり、頬杖をついて、長方形の窓から、闇に揺る梢のざわめきをみつめ、溜め息にまじりに言葉をついた。神谷リサの不満は長尾ミグの人をよせつけない孤独だった。心の奥で彼のことを「不幸な男」だと思う。そして彼を愛した自分は「不幸な女」だとも―。神谷リサは自分を明け渡すことをいとわないが、長尾ミグはけして誰にも自分を明け渡すことができない心の場所を大切に守っている。それが神谷リサにはよくわからない。体のレベルでどんなに接近してみても、唇を重ね、股間をこすりつけ合い、快楽に身をなぶり、体液と体液とを混ぜ合わせてみても、彼がその場所を明け渡してくれない限り、やっぱり二人はひとつにはなれない。《「男と女」ってそんなものなのかしら?―孤独はけして癒されることがなく、恋や愛は束の間の幻想として見えるだけのお芝居にすぎないものなのかしら?―》そう思うと神谷リサはさびしかった。癒されがたい自らの存在を思ったからだ。そうしてもう少しあとになって、もう少し経験を重ねてみた後で、神谷リサは長尾ミグの「哀しい背中」に囚われている自分自身をほろ苦い思いで見つけて、自虐的にそれに酔うのだった。その時―神谷リサは、自分が生きるということの中には、けして誰とも分け合えない心の場所があるのだということを体で理解した。それは痛くて辛いことだったが、長尾ミグというフィルターを通さなければ、生涯、理解することのできなかったものかもしれなかった。自分は甘いキャンディばかりに酔いしれた子供から苦味や妙味のわかる大人になったんだ―とすこしの間だけ考えたが、それも束の間のことですぐにまた子供にもどってしまう。それは、社会や文化が「まだ子供でいなさい」、「大人になんてなるもんじゃありません」とみんなでよってたかって言っているようなものだったからだ。「大人」は人々が「子供」であることを担保にして、良識を組み立てているようなものだった。「ちェッ!社会ってやつァ!ほんと 糞…ばか、ガキ、みんな死ね、ファック…」―と、神谷リサは頬杖をついたまま、苦々しい思いで、社会をファックよばわりするのだった。それでも反面では、ずっと神谷リサは子供でいることにとどまっていたい、みんなと一緒にいたい、ラブリーでスィートでキュートでチャーミングな自分でいたい、みんなに愛されたいという願望も捨てきれなかった。結局、神谷リサはその二つのあいだで引き裂かれ、その時々の空気にあう自分の心を選択し、自分を演じわけて見せるのだった。 

其の六へつづく☆
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