時計じかけのオレンジ
時計じかけのオレンジ
1971 イギリス
監督・製作・脚本/スタンリー・キューブリック
原作/アンソニー・バージェス
主演/マルコム・マクドウェル
           パトリック・マギー、ウォーレン・クラーク
           ジェームズ・マーカス
           マッジ・ライアン
           マイケル・ベイツ
 
★力と市民社会
この映画は人間が古代より持ち続けている青年期の過剰な力が現代市民社会の中でどう反応を起こすかの寓話であり、野心的でタフな人物の成功物語りという意味では後続の「バリー リンドン」と共通するところもあるが、こちらの方が現代的で皮肉に満ちかつ過剰にして複雑だ。
 主人公のアレックスは暴力と性に対する先天的な才能があり、しかも何の社会的規制による規制を受けず、屈託なく、純粋にそれを発揮できる不遜さに恵まれている。彼は「悪」というものを殊更意識するわけではなく行なうという意味で、他者が営む社会の観念が不足している人間である。だがそれにも関わらず、都会的で、お洒落で、エネルギッシュでイマジネーション豊かに詩的言語を操り、音楽(とくにヴェートーベンの第九 第四楽章)と暴力と性をこよなく愛して魅力的だ。そして内面が、内省がない。非常に表面的でモダンだ。
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★暴力のエレガンス
よく暴力的な側面だけが取り上げられる映画なのだが、実際に見てみると、その暴力的な側面は映画の三分の一程度である。ではなぜその暴力的な側面が強調されるのかというと、他に類を見ないほど華やかでエレガントに描いてみせたからである。ワルツや「雨にうたえば」に乗せた暴力やレイプはなにか容易な、楽しげで華やかな印象を与え、暴力がもつ重々しくて暗くダーティなイメージがない。あたかもファッションショーやダンスのショーのような優雅さをもって、アルトラヴァイオレントのゲームが繰り広げられる。これはモダンな消費社会の軽やかな遊戯じみてさえ見えてしまう。
 
★社会が与える罰
実際に物語はそのセンセーショナルな暴力よりもその罰の方に重点が置かれている。アレックスは2度に渡って罰を受ける。映画の中で一番いい思いをしているのは二人の不良仲間であるジョージーとディムであり、彼らは、一度目はアレックスの婦人殺害に際して、もう一度は警官になって、彼に懲罰を加える。しかも自らレイプや略奪に加担しながらであり、もし公平に見積もるならば彼らのほうが姑息で、立ち回りがうまい。アレックスは個人的嗜好の暴力の加害者であると同時に国家暴力の被害者として描かれる。
 暴力を媒介とした過酷な運命に翻弄される一人の不器用な人間の寓話としてとらえられる。描き方によってこれは過酷な物語だ。ただアレックスは「澄み切った湖のように、夏深き青空そのもののように」明るく、過去の怨恨の観念に疎く、タフで、即時的なのだ。
 アレックスは自ら暴力で契機を作り、あとはその契機から引き起こされる社会的変遷の暴力の前で無力である。彼が自らの意志でグループのリーダーとして、力を振るっていたのは前半だけで、あとはひたすら押し寄せる目まぐるしい変転にその場その場で対応するのみだ。
 
★物語の構造
この物語は前半、中盤、後半、終幕の四つに分割される。以下その素描である。

◆前半
コロバ ミルク バーに仲間のドルーグと集い、興奮剤入りのミルクを飲みながら夜のプランをねり、暴力とレイプによって自らのエネルギーを消費するアレックスが描かれる。作中、最も華やかで鮮烈でセンセーショナルな部分。過剰に性的暗喩がちりばめられていて、性と暴力の宴が眩い色彩の洪水とともに繰りひろげられる。浮浪者を襲い、対立するグループと抗争し、スポーツカーで暴走し、押し入った老作家宅で妻をレイプし、レコード店で出会うギャルたちとの3P PLAYを繰り広げる。同時にハッキリとした権力基盤を持たずに恐怖によってグループのリーダー足りえた彼は、よりおおきく巧緻なシステムをもった存在(この場合ぬすんだブツをさばいてくれるウィルの存在)をジョージーからほのめかされて動揺し、彼らへの暴力をもってグループの統率を図ろうとするがこれが命取りとなる。色情狂の婦人宅での殺人、仲間の裏切りによるミルクの一撃によって彼は刑務所に送られてしまう。彼の男根的積極性が仇となる恰好だ。
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◆中盤
色彩とエロティックな形態に満ちた性的消費社会から厳格な規則の支配する刑務所へ。刑務所に入ってからもアレックスの即時的適応力、積極的性格は遺憾なく発揮され模範囚となり、神父に好かれ、新体制が目論む犯罪者強制プログラムの実験台選びに訪れた内務大臣の目にとまって、この「ルドビコ式心理法」なる犯罪性反射神経抹殺プログラムの被験者となる。ルドビコ医療センターで「暴力が恐ろしいものだと、体で学ぶ」ために、特殊な薬品を注射され、セックスとヴァイオレントのハリウッド映画(ハリウッド映画を皮肉っている!)を日夜見ることを強制させられる。そしてあるときその背後に自ら心酔していた「ヴェートーベンの第九 第四楽章」が流れていたと気づいたとき、決定的に彼の内面的変化が引き起こされる。発表会が開かれ、このプログラムの成果発表がされ、ここで内務大臣が世論動向に動かされていることが示唆される。そして動物的暴力衝動と性的攻撃性が嫌悪と嘔吐に置き換わったアレックスをみて、神父は「道徳的選択の能力をうばわれた生き物である」と非難する。

◆後半
世間に放たれたアレックスは自らを自らの力で守る力さえも失った漂える葦である。家にかえると両親のもとにはジョーなる新しい息子がいて、アレックスは彼を追い出すことさえ出来ない。仕方なく家を飛び出したアレックスは、最初に暴行を働いた浮浪者たちの、若さに対する復讐を受ける。さらにそれを止めようとやってきた警官はかつての不良仲間ジョージーとディムでこの二人から(すでにアレックスは裏切りによる懲罰を受けているにも関わらず)執拗な暴力を受ける。ふらふらになってたどり着いた先は最初にレイプをはたらいた老作家宅だった。この老作家は野党の支持者らしく、アレックスが「次の選挙で政府を倒すための強力な武器となる」ことを認識し、聴取によって彼が「第九 第四楽章」に著しい反応を示すことを知ると、それを聞かせ、まるで実験動物のように彼を自殺に追い込む。
 
◆終幕
アレックスは死なない。病院のベッドで目覚めると、世界は一変している。世論が変わったのである。

新聞見出しには「非人道的犯罪矯正で政府に非難集中」「内務大臣非人道療法の責任重大」「あらしをよび犯罪矯正少年」などの言葉がおどる。アレックスは病院にて両親の見舞いを受ける。ここでいうアレックスの一言はひどく当然である。
「一体 なんだって 二人 そろって…勝手だな」
彼らに代表される社会の身勝手さを唯一非難した一言だ。
そして両親はいう。
「だが考えてみると私たちも同罪だな」
 内務大臣も見舞いに訪れる。ここで彼はあの老作家を処置したことを告げ、アレックスに待遇のよい仕事を約束し、「君がその方面で活躍し世論を操作する」ことを期待する。アレックスは性的イマジネーションの中でエクスタシーの歓喜に浸る。
「完璧になおったね」
という一言とともに物語は終わる。  

★価値の不在と世論の絶対性
この映画で善悪は明確な輪郭をもっていない。価値の絶対性を失い、世論によって常に流動的な、その場限りの価値が絶対視される現実社会の皮肉ではないだろうか。そしてその判断を下す黒幕は曖昧として正体を現さない大衆の気分のようなものだ。物語はそのような不確定なものに依拠しながら生きる民主主義社会の戯画だといえる。最後にアレックスは世論操作の仕事に従事するように薦められるのはそれを象徴している。

それから力が本来的に善悪の彼岸にあることを示唆している。アレックスに備わった才覚は彼が空想の中で繰り広げたように、人間を本来根拠づけるものである。戦争の時代、イギリス帝国主義の時代、あるいは「バリー リンドン」の時代であったら、彼には大いに利用価値があったろうし、そればかりか勇敢な兵士として称賛を勝ち得たはずである。問題は平和なブルジョワ市民社会であり、このような場所には場違いなのである。(その意味で後続のオリバーストーン「ナチュラル ボーン キラー」と低通するものがある。あの映画はベトナムで培われた哲学をアメリカの市民社会の中で繰り広げたらというテーゼが散見される。)だがだからといって力の去勢は生存の危機を意味する。人間社会は力ないものを卑下し、服従させようとする不断の法則に支配されているからだ。そして力というもののもっとも原初的なものこそが、「暴力」と「性欲」なのである。日本でもヤクザと政界の相互関連構造はこういった法則があるからではないか。

この映画は現代社会が処理、対応しきれないであろう問題をエレガントでブラックユーモアたっぷりに、センセーショナルに扱った映画だといえる。僕らがこの映画に対して不条理を感じるならば、それは現実世界の不条理の裏返しなのであり、それ故にこの映画は非常に知的な独自領域を形成しているといえるのではないだろうか―
 
★個人的感想
個人的には十代の頃にはじめて見て、主演のマルコム マクダウェルの演じるアレックスの魅力にすっかり魅了されてしまった。ある意味不器用で、タフでお洒落で、男根的だが中性的なロックスターの魅力に近いものを感じた。彼はいくら非難されようとも、表面的でスタイリッシュにしてエレガントで恰好よく見えてしまうので、確かに危険である。そもそもこういった格好よさとは理屈ではないし、現実的に非常に強く影響してしまうもある。十の理論より一つの格好よさが、特に若い時にはエフェクトしてしまうのは、今も昔も変わらない真実だろう。そしてこれだけ伸び伸びと屈託なく、人の迷惑を顧みずに自分の欲望を発揮しているのは素直に羨ましく映った。アレックスはまさに輝かしい存在に見えたのである。
 
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★前半30分
前半30分に盛り込まれた性的扇情性は凄い。至るところに性的な記号のちりばめられた魅惑的で狂った世界である。コロバ ミルク バーは色とりどりの鬘をかぶった、蛍光ホワイトの艶かしい姿態の女マネキンがテーブルとなっているし、ミルクプラスと呼ばれる麻薬ミルクはその乳房より垂れ落ちる。ドルーグのファッションは性器が強調され、レイプに際して装着されるアレックスの鼻は見事に性器の象徴だ(しかも長さがその格を語っているかのよう)。レイプシーンで乳房の形にオレンジのドレスを丸く切り取って見せるのは、ジャンポールゴルチェのショーのようでもあり、アンダーグラウンドの演劇ちっく。彼の部屋には恍惚たる表情を浮かべた大また開きの女の絵、レコードショップではギャル達が毒々しい色彩のアイスキャンディをフェラチオするようにしゃぶっている。押し入った金持ち婦人宅は色情狂とおぼしき性的愛玩物であふれ(その背後にある絵は老作家宅のレイプでアレックスがしたように乳房だけが零れ落ちた女の絵がある)殺人に際しては巨大な白い男性器の彫刻が使用され、それが婦人の唇の中に落とされる。いたるところにセックス、セックス、セックスである。

★アンダーグラウンドエレガンス
キューブリックはその時代のアンダーグラウンドに蠢いていただろうエネルギーをエレガントに表象化させる手腕に長けた作家であることをこの映画を観て改めて感じた。ロック的若者文化の趨勢は彼の手にかかるとこのような芸術作品になる。と同時にそれが及ぼす社会的効果の大きさを測りそこねていたような節もある。彼は彼一流の感性に従って映画を製作し、意見を述べている。しかしこの映画が彼のいうように「感じるところ」のみにあるのだとしたら、社会的混乱は明らかではないのか。

 彼が偉大な才能に恵まれていたことは間違いない。それは身近なものとより大きなものを繋げて見せることができた。だが三島同様、偉大な才能に付きまとう社会的責任の大きさを処理しあぐねていたのではなかろうか。子供の無邪気なクリエイティビティは社会とは相容れないものを秘めている。そして当時の社会はこの映画を受けとめられるほどに知的でもなければ、思慮深くもなかった。(結局この映画は現在に至るまでイギリスで公開されていないらしい。)
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★最後に
この映画が時間的なものを越えて今でも刺激的なのは、そのファッションもさることながら、流行廃りの早いストリート言語を抽象的なロシア語とのハイブリッドに置き換えたところにもあるだろう。

 また精神さえもシステマチックな工学プロセスを踏むことによって、社会の要請に従いうるということを不気味に示した点でアレックスは人工的プログラムを内在させた擬態的存在であり、「ロボコップ」などよりもはるかに先端的でナイーブなテーマを扱っているといえる。

 後進的な日本のイメージする都市性とはこういったものだったのだろうか?
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