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☆数学の国フランスの想像力豊かな抽象性が世界をリードしてゆく
2012 6・6号のNEWSWEEK紙「金融界を騒がすフランス産「数学屋」」の記事を面白く読む。

ラテン的な理知の精神、幾何学の精神はレヴィ・ストロースやドゥルーズといった哲学者のみならず、建築、ファッション、映画の背後にうかがわれ、感性と融合して独特のフランス文化を形成して魅力的なんだけど、それが「リーマンショック」のような巨額損失と金融危機を生み出すおおもとの数学的バックボーンをつくっていたとは知らなかった。ぜんぜん。

本誌によれば、フランスの女流数学者である二コール・エルカルーイ女史の教室から巣立った「クオンツ」とよばれる計量分析の専門家たち(もちろんフランス人たち)が高度で複雑な投資手法を編み出し、それが08年ごろに金融界に爆発的にひろまっていったらしい。昔かたぎのエルカルーイ女史本人には金にたいするこだわりはないんだけれども、彼女が教えた金融手法は理解不能な金融商品の開発に利用され、さらにそれらの商品が投資家や投機家に法外な価格で売られていたという。記事にはこう書かれている。

彼ら金融界の数学屋たちは数学的理論の正しさを検証するために、天文学的な(しかも他人の)資金を動かしているに等しい。

「ひぇ~・・・」―である。

フランスの幾何学精神が金融商品として具体化し、社会の中に投げいれられ、世界をリードし、価値に付加をつけ、そして時に巨額の損失によって、世界を混乱に導くのかと思うと、なんだか頭がくらくらしてしまう。

もっともフランスにはこういった伝統があるらしい。初等中等教育では純粋数学を重視しているし、100年以上前から数学的手法による市場分析の確率論のエレガントなモデルをつくりだしてきた。

さらにエルカルーイ女史によれば、「数学の豊かさは抽象の中にあり」、「現実から一歩下がって考えるから、なんであれ、自由に考えられる。数学は想像力で勝負する」ものなのだ。

ほとんど村上春樹の小説世界のようにすら見える。「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」の計算士、記号士みたいに。

つまり、現代社会は壮大な金融の抽象で想像的実験を先端とする市場の中にいて、その実験の成果によって、左右されるということじゃないか、これって。ただ抽象と想像の世界には痛みはないが、現実の世界には痛みがある。こういった壮大な実験は成功と失敗の繰り返しなのかもしれないが、それにしてもやはり現実と想像、夢の世界はよく似ていると思う。

(追記:この記事をUPしたあと、ゲームのキャラのようなマネキンロボット犬に左足のくるぶしを噛まれる夢を見た。鋭く、強い痛みがあって、それから現実の世界でもくるぶしが痛くて、今日もまだしくしくしている。想像と抽象の世界にだって痛みがある。誤ったことを書いたので、摂理が天罰を下したように思った・・・)
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☆南伊豆へいってみた
GWあけに2泊3日で南伊豆にすむ弟のところへいってみた。

理由ふたつ。ひとつは太陽が見たかったのと、もうひとつは空気が吸いたかったというそれだけの理由。

われながら、ほとんど原始人めいてすらいて、フランスの幾何学精神とは程遠い。エルカルーイ女史の数学理論とも「超複雑なデリバティブのモデリング」ともなんら関係はない。

以下-感想を書く。

下田には以前短いあいだだけれども住んでいたこともあったし、南伊豆もまったくはじめてというわけではなかったのだけれども、それにしてもやっぱり色々おどろかされることが多かった。東京の生活がエレガントで害なく、「つるり」としていることを改めて実感する。慣れてしまうと日常の瑣末がこそ意識されて、日常そのものが意識されなくなってしまうので、どうも時々そういった意識を相対化しておきたくなる。

「つるり」とした触感は魅惑的で快楽的だが、それはやっぱりひとつの触感にすぎないのだと思い知るいい機会だった。

たとえば、都会の信号や記号一般はやはり「つるり」としていて、害がない。ところが南伊豆まで行くと信号や記号が害がある。といっても人為的な悪意による害ではない。そうじゃないけど、それは害であり、東京のそれのように機能しないのだ。害の要因は思うにふたつ。ひとつは自然の力が大きいということ、もうひとつは人間の手が入りきらないこと。

南伊豆はほとんど過疎の村に近い印象で、人がいない。若者もいないし、子供もいない。おじいちゃんとおばあちゃんが農作業しているのだが、それもわずかで田畑に手が入らない場所もおおくあり、打ち捨てられている。

こういう場所では記号が記号として機能していない。

たとえば、GPSの地図上に「ハイキングコース」と書かれているところへ行ってみた。ところがそれはまだ若い土砂崩れでふさがれ、その奥にかろうじて見分けられる道は「ケモノ道」というような、狭くて、茨が入り組み、ヘビが身をくねらせているような道だった。たしかに「ハイキングコース」は「ハイキングコース」だけれども、どうも都会で機能している意味での「ハイキングコース」じゃあないようだ。東京だったら、すぐに手がはいるのだろうけれども、ここでは手がはいらない。自然の力が人間の力を凌駕し、人間は自然の中にかろうじて住まされてもらっているような気持ちになる。

それから「温泉」のマークがあったので、弟につきあってもらって、往路20KMを歩いて、隠れ里のような山里までいってみたのだが、見当たらない。ただ用水路のような場所にパイプがひかれているのは見た。あとにネットで確認してみると、どうやらそれが温泉のようで、ネットにあげられていた写真には水着姿でパイプの下、行水する男の姿があった。秘湯というより、ほとんど温泉行をする行者のようなので、「これは無理だね」と弟と弟の彼女と笑った。たしかに温泉は温泉だが、ふつうにイメージする温泉ではない。

山で遭難したり、海で流されたりする事故はいつになってもたえないが、思うに、自然の力をかろんじてしまう都市の論理、「つるり」とした快楽の感覚と実際の田舎の機能しない記号とのギャップが背景にあるように思う。福島の地震とそれにつづく東電の原発事故に見るように、都市に生きる人間はやはり傲慢で「つるり」としたものに魅かれ、それがずっとつづくという淡い夢に生きてしまう。金融や市場、経済、愛、ファッション、性、教育、制度・・・人知が考えるよりもはるかに壮大で超複雑な営みがその背後にはひかえているのだが、どうもそれが意識にのぼってこない。人間はつくづくちいさく愚かで弱いもの。その時々でしかない影に一喜一憂する。

閑話休題―。

ところで、こういう場所では料理がおいしい。

そりゃ、あたりまえづら。

空気がうまい。水がうまい。素材がうまいもの。

弟もその彼女も料理好きで、庭先の畑で育てたオーガニック野菜をとり、よく料理をしてもてなしてくれた。
ピータンに米蒸しシュウマイを「焼酎」で、イノシシの肉のBBQを「ビール」で、野菜スープとお手製ピザを「白ワイン」で食べる。

したたか酔いどれ、したたか食らう。
もとい、したたか食らい、したたか酔いどれる。

ようやく気付いたのだが、どうやら、弟の彼女のぼくの印象は「酔っ払い」「酒好きのお兄ちゃん」というもので、初日と寝るまえに酔いどれて、呟いた「今日はあんまり呑めないけど、明日は呑めるぞ・・・」というセリフと、次の日寝るまえに呟いた「よ~し、今日はよく呑んだぞ・・・」というセリフをよくおぼえていて、それをネタにからかわれた。たしかに酒が好きで酒ばかり呑んでいるのだけれども、ここでは「そればかりじゃあないぞ!」と力強く言っておきたい。

いろいろ気付かされ、よい勉強になった旅だった。
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