☆刺青やTATOOは趣味の問題?倫理の問題?それとも美的基準の問題?

よくもわるくも、「喧嘩屋」橋本徹大阪市長がなにかと話題な昨今。
先日うちだされた刺青をめぐるきびしい態度は賛否両論をまきおこしている。

だけれども、本来、刺青は装うことをめぐる「趣味」のようなものではないだろうか。そして趣味には、もちろん、よい趣味とわるい趣味がある。

つまり、刺青は趣味が悪く、露悪的。

三島がおそれ、自己同一化させようとしていたアメリカ大衆文化の「毒」みたいなもの。

さらに、体を傷つけるのは、日本的なものの見方(倫理)にそぐわない。

傷をほこるようなグロテスクな表現は控えられるべきだ。
アダルトビデオでの性器表現のように、傷はモザイクで隠されるべきであり、公務員は傷のない、間違いのない清く正しいわたしであるべきである。

はたして趣味の問題が公的な制裁の対象になるのは、趣味の自由を損なうものなのではないのか?倫理観はひとつでなければならない?あるいはそれを美しいと感じてしまう感性はおかしいの?

それとも公務員は趣味の領域まで管理されるべきなのだろうか?

倫理の管理、美的基準の管理。

そうなると、ほとんど、ナチスヒトラーの「頽廃芸術展」を思わせるような、価値への侵犯だと思う。(COOL J-POPの現代、日本の芸術家は大衆のことだ)

あの展覧会で、「頽廃芸術」をレッテルを貼られた作品のほとんどが個人の趣味の自由を謳歌し、傷口をさらすものだったということ。そして、後世からみると、グロテスクを隠ぺいしてみせる、その時代意志そのものがグロテスクであるということを彼は知らないらしい。

はたして、日本人であるわたしたちは強権的リーダーによる父権制、曖昧でなぁなぁなもたれ合いを明文化し、取り締まることによって、世界と論理でわたりあうことにあこがれているのだろうか。(司馬的私のない無自我で恋愛なき青春小説みたいに?―そのくせ、日本のリーダーたちは戦後、論理で世界とわたりあってはいない)

社会制度やシステムへの女性参加がいちじるしく少なく、女性が男性のうえに立てない日本の社会システム。

男性同士の「甘え合い」にしたがった、ホモセクシャルめいた社会の仕組みは、いまだ閉じられたまま、フロイト的ひとつの極をめざす単純なピストン運動の中にあって、制御と開放をくりかえしているだけのようにも見えてしまう。

「刺青の禁止」や「国歌斉唱」のような美しい日本の伝統にしたがって、内部的な体制を強化しようという権力のコントロールへの欲求は東アジアのファシズム体制は「強国」をつくるという、いわゆる中国や北朝鮮のありかたによく似ている。ここでは、伝統的に血縁の倫理的な検閲システムが働いて、抑制された自我を国家という非個人的領域に結んでみせている。(国家宗教主義)

それは中国を見ていればわかるようにスピーディーで、とても効率的だ。
それから三島やその廉価版の石原、配下橋本、現代的なパロディを描いて見せた村上龍、あるいはそのこじらせ系なエヴァゲリの庵野のように多くの人たちを魅了することは間違いない。(三島と庵野は父権制への「こじらせ具合」が意外と似ている)

東アジアの血縁関係と先祖崇拝をベースとする社会体制は基本的にファシズムに親和性が高いということを、帝政日本や中国、北朝鮮は証明させてみせているが、戦後、日本はアメリカの庇護のした、そういった体制と決別できるように見えた。

自然によりそう母権制のアニメ作家宮崎駿や「サマーウォーズ」の細田守やオタクアニメの表現者はそうした戦後日本の代表的表現者のように映る。だが、やっぱりわたしたちは父権を欲しているのだろうか。それともこれは行き過ぎた母権制(日本の甘やかな自然主義、風景、官能の領域)にたいする父権(外来の言葉に地権、軍事の領域)のバランス取りなのだろうか。

おそらく、父なき社会体制において、ねつ造された父のすがたをわたしたちは憧れをもって見守るのだろう。

いずれにしても、わたしたちが社会的調整作用のなかにいることは間違いなさそうで、この問題は案外根深く、繰り返される同じ対立のかたちを変えたすがただ。

公と個人、東アジアとアメリカ、伝統と革新、社会主義と資本主義、ファシズムと個人の自由―わたしたちはいまだ20世紀的なパワーをめぐるバランスの中からでてはいないのだろう。

ちなみに個人的には両肩と腕、足、指などに7つほど刺青をいれている。

公務員にはなれないや☆
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