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◆今までない強烈なトランス体験だった。

◆それは国籍ではない。それは性差ではない。それは個性ではない。
 
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◆狭く高密度な空間に巨大な反復ビートと肉体を集約させることによって生じるのは、ボードリヤールのいう「内破」ではなく、ひたすら微分され素粒子分解されることによって生じる肉体認識の新しい位相である。それはモードなどという優雅な詩情ではない。モードなどはどうだっていいのだ。(事実ここでは鍛え上げられた裸とタトゥーがもっともファッショナブルなものとされる)男女の差異は限りなく「0」に近づき、あらゆる多元的な認識さえもが消える。山田詠美が描く肉市場での男女のゲームさえない。知覚は制御され、思考そのものは消える。同時に自分が自分として成立する言語一切が膨大で圧倒的な強度の中で溶解してしまう。もはや自分は自分でさえない。日常生活の中で確然と言語によって隔てることをよしとしている矮小な自我ではない。そうではなくて、それは「無国籍無性な巨大な一つの肉体」であり、そこでビートが強く性急に「胎動」しているだけなのだ。私たち参加者は社交すらしない。表面上の社交や会話はあるが、本質的にはどうでもいいのだ。大袈裟に再会を喜び、相手の存在を確認しあう、それだけである。私たちはただ肉を放恣に晒して、肉をビートの「胎動」に捧げている一因子なのである。個性もファッションも二次的なものにすぎない。換言すればそれは「胎児への集団メタモルフォーゼ」なのだ。
 
◆それはこの機械文明が生み出した怠惰で反復的な日常の中で、機械によって肉体の獲得することの可能となった特権的な位相のように見える。まさにこう見えるのだ。

◆「人間は消滅し、機械だけが世界に君臨し、私たちはそれが生み出した無国籍無性の胎児(キューブリックの描いて見せた「新人」のように)として、肉体を濫堕に消費している、それだけだ」と。
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Valentina in Nadelstreifen.


Guido Crepax / Schreiber u. L., Mchn.


ファッショナブル!
「René Gruau」のクリスチャンディオールのイラストレーションを思わせるようなヨーロピアンPOPの後継であり、古くはシャネルとコクトーではないがこういうものにはすこぶる弱い。それに加えて70年代のPOPさがあって、「ロランバルトが愛したコミック界のポップなゴダール」なんて解説が着いてしまってはいかんともしがたい衝動の疼きを覚えてしまわないだろうか・・・ぼくだけ?・・・とはいえ一時期熱病のように「HIROMIX」が写真に取ったり、「ヒステリック グラマー」の値札になったりと渋谷がCREPAX化したときがあったのである。現在読み返してみてもどうにもあのときの街の感じが甦ってきてしまうのは仕方ないというもの。なによりデッサンがしっかりしていて、体の線が上手で、指や老人の皺、影、背景の効果模様やGペンのアールヌーボの無骨ともみえる強弱のアクセントにミラノの瀟洒な匂いを感じてしまう。蝶や鶏や蜘蛛が、あるいはスヌーピーが出てきたり、ファッションジャーナリストらしくカメラで「ZIQ!CLICK!」と写真を撮ったり、精神分析的夢世界に迷い込んだり、SM的な遊戯に嵌まり込んだり、と優雅で華やかな闇の世界の大海をPOPに彷徨ってみられるのがこの漫画の特徴かしらん。
なんか一時期のPRADAを思わせるんだけど、いかがでしょうか。
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by tomozumi0032 | 2006-01-27 22:25 | 漫画評論


ハウルの動く城

/ ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント



「「逃れゆく存在」。少女とは速さと遅さの関係であって、それいがいのなにものでもない。」「ミルプラトー「1730」」ドゥルーズ・ガタリ

☆少女の物語
◆原作は英国人らしく「不思議の国/鏡の国のアリス」を思わせる表面を滑るような調子がある。

◆なんだか宮崎の「少女趣味」とピッタリあうような感じでもある。
「意味」から逃げるのはいつも少女であって、少年ではないのだろう。少女だけが逃げる特権をもっている。

光よりもはやく走る少女☆
光速で走り去る色彩のたわむれ☆

☆舞台と美術
◆舞台がどこかわからないけれども、細部に至る装飾はどちらかというとラテンなものを感じさせる。なんとなく国旗の旗はスペイン、バルセロナ、カタルーニアの旗を思わせるし、ハウルの住む城の造形も建築家ガウディの造形に似てオーガニックで、それが宮崎の手にかかって、独自の魅力を放っている。

◆全体としてはこれまでになく華やかな印象。
ピンクが多く、カラフルで装飾的な画面はバロックといっていいもの。
中世の「魔術」が色鮮やかに描かれ、はやい速度で場面展開されていくのが、現代社会のテクノロジー「魔術」社会の寓話として愉しめ、一見しただけでは話の脈略が把握できないようなスピードに満ちている。

◆瞬間的な場面転換と滑るような物語展開、表面でさざめきアニメートする色彩の美しさはアニメの真骨頂でとても綺麗だと思った。
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「「ひとりの若者が死んだ」と、彼がかつてシャンソンを書いてあげた昔の女友達が言った。そして彼の埋葬に押しかけたパリの民衆はこういった。「この老人は、われらが若い人であった」と。」」「サルトルの世紀」B-H・レヴィ

☆永遠の若さとしての宮崎
◆ハウルは臆病で不確かであいまいだけれども、美にこだわり、悪魔と天使の顔を伏せ持つが、優雅に魔法を使いこなし、「名」を多く持つそのたどたどしい危さを含めて現代の若者を思わせる。宮崎の中にいる若者。

◆主人公ソフィは「荒地の魔女」という魔女の魔力によって老人にされてしまうのだが、これもまた老人化社会の暗喩としてチャーミングで愛らしくって、「老いることは老いることだろうか?」という問いが聞こえてくるよう。

◆ちょっと哲学者ドゥルーズの口真似をしてみれば、老いることは年齢を「積み重ねる」ことによって重力にしなだれるのではなくて、年齢を着替えることによって重力をとびこえておどること、つまり老いることによって「若返ること」なのかもしれない。
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◆ナウシカからそうだが、頽廃ということに対する直感的な理解があるように見える。戦争が祭りめいてみえるところも氏の才能のひとつだろうか。

◆いずれにせよ、ユーモラスで、可愛らしく、身軽でエレガントでチャームにあふれた美しい物語。難をいえば「愛」の文学的な機微の不在、非常に単純にしか描かれないところがものたりないところか☆

◆うん でもラブリ~☆
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by tomozumi0032 | 2006-01-27 13:10 | アニメ評論
最近巷を騒がせた問題として「粉飾」決算問題、耐震強度「偽装」問題、ES細胞「捏造」問題が挙げられるが、これら三つの問題とはいずれもあるインフラストラクチャーを背景としたシュミレーションと現実の混同として同じ問題の系を共有しているものと思われてならない。
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そのインフラストラクチャーとはいうまでもなく、コンピューターである。コンピューターが社会に蔓延し、誰もが潜在的にコンピューター環境の中を生きるものとなった現在、この種の混同は非常に簡単に、罪の意識なく行われてしまう。ニュースや新聞で見る限り、本人たちにここまで社会で騒がれるだけの罪の自覚があるものかどうか疑わしく、むしろ騒がれて狼狽し、当惑している表情が見て取れる。これは情報ばかりが先走る社会の陥穽ではなかろうか。シュミレーション感覚で行われるちょっとした錯誤、あるいは混同が瞬時のうちに現実のレベルに置き換えられてしまう。
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これらはなにかコンピューター社会の危さを思わせる。いいかえればすなわち利便性のパラドックスだ。
コンピューターの中では現実と虚構とが複雑に折り畳まれて展開され、そういった中でボタン一つの操作で意志決定がなされてしまう。快楽的といえば快楽的、便利といえば至極便利。そしてそれ故内部制御がかかりづらく、暴走が止められないという意味で危うい。そしてこういった現実と虚構の混在、意思決定の安易さが上記の3問題の根底にあるように思われてならない。

あまりに安易に行われ、瞬間的な「速度」で処理されてしまう「粉飾」と「偽装」と「捏造」。そしてこういったインフラ構造に左右されざるを得ないこの時代の「政治」と「労働」と「生活」。
やはり現代とはある意味では非常に危いバランスの時代だと思わされる。そしてこういってよければ、誰もがまたこういった危さを生の根底に秘め持たざるを得ないそのことが現代の「悲劇」なのではないだろうか。
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by tomozumi0032 | 2006-01-27 01:50 | 社会評論
証券取引法違反の「風説の流布」、粉飾決算疑惑、東証システム停止などlivedoorにまつわる、連日の、喧々諤々たる報道ぶりを見る。

たしかにlivedoorは穏やかな合意に基づく伝統的な会社経営のスタイルや東証のシステムを破壊したエポックメイキングで「若く」「子供な」企業だった。ホリエは情報と欲望、富の集中という社会のエネルギーで膨張した挙句、膨張に耐えられずに、弾けて消える花火のようだ。

新聞各紙の報道は軒並み同一の論調である。つまり「ほら 子供だった」「やっぱ こけたね」「あれはある種の社会的悪性癌だ」というもの。
東京新聞1月20日朝刊
「コラムニストの勝谷誠彦市はテレビ番組で、ライブドアを、レイプ事件をおこした学生サークル「スーパーフリー」にたとえた。(中略)「いいんじゃない」というノリ。「よくない」という大人が必要なのに、そういう「大人」がいない」
フジサンケイビジネスアイ1月20日朝刊 
メディア斬り 麻生千晶
「「若者」が堀江君方式を羨ましがり、人間の全肉体と頭脳を使って働く意義をないがしろにする風潮は間違っているのだと(大人が子供に)教えるいい機会が来たのだ。」
いづれも「大人」がおらず、「子供」のやり方で事件はおきたのだという暗の否定がうかがえる。しかし本当にそうなのだろうか。

堀江はこの社会に潜在する情報と欲望の結節点に思われる。それはもはや止められない流れ(フロー)の点でしかなく、流れを上手く利用し、情報と欲望を巧みに編集してみせ、従来の価値観に「現在」を突きつけて見せたという意味で技術革新と反抗文化のまじりあった結節点である。そしてやがてそれは「操作するもの」から「操作されるもの」となって、流れに呑みこまれてしまった点という意味でこれは悲劇だ。

ドゥルーズ 舟木 亨よりの引用
「資本主義は、いわば底無しなのである。もはや、土地のあり方(自然)や制度のあり方(文化)といった基礎的なコードが重要なのではない。災害、戦争、病気、恐慌のような偶然の出来事のような偶然の出来事において復活してくるかに見える本来の生活(民族性)、人間のなすべきこと(宿命)や安らげる場所(倫理)といった基礎を、資本主義はもっていない。」

こういった状況下において、「大人」というのは恐慌の折に捏造される便利な方便の一つのようにしか思えないし、同時に過去に「大人」がいる理想郷があったという安易な理想逃避でしかない。「子供」企業の粉飾は暴かれるべきだが、問題をそれだけに終わらせるべきではないのではないか。

社会体システムがこのエポックをどう消化吸収するのか、というのがこれからの見ものである
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by tomozumi0032 | 2006-01-20 16:32 | 社会評論
ご意見 ご感想などありましたら、こちらへどうぞ。
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Screamadelica

Primal Scream / Creation


Acid houseとロックの融合。サイケデリックな臭いと暗黒の夜の自由で危険な空気。インドの香の紫煙が立ち昇り、煙の向こうに民族衣装が踊り、人々は向こう側の彼岸を目指して、ゆったりとした瞑想に落ちる。青春の一頁に刻まれている風景を彩った1枚。すべてが突き抜けてゆくと思ったけど、やっぱ突き抜けていかないみたい・・・(笑)それでも、そこはかとなく心地よい夜の「宇宙的-生物学的記憶」ないちまい。

このアルバムを聞くと「遠くへ」生きたくなって、胸がうずうずしてしまう☆
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by tomozumi0032 | 2006-01-18 03:37 | 音楽評論
☆はじめに
◆このブログはさまざまな評論や日記などをのせています。
評論は多岐にわたり、哲学から文学、映画にいたるまでさまざまですが、評論しながらも、どこかで解釈したくないという矛盾に悩まされています。ネットにはびこる解釈と陳腐化はいつもその対象をとりあやまっている、把握しあやまっているようにしか思われません。

◆基本的な姿勢はスーザンソンタグ「反解釈」からの以下の引用にゆだねたいと思います。わたくし個人が語るよりもずっと上手に自分の思いを説明してくれているからです。

「現代はまさしくそういう時代、解釈のこころみが反動的、抑圧的に作用する時代である。都市の大気を汚染する自動車の排気ガスや重工業の煤煙と同様、芸術にたいする解釈の横行がわたしたちの感受性を毒している。

 「肉体的活力と感覚的能力の犠牲において、知性が過大に肥大する」―という典型的な矛盾にすでに犯されているのがわたしたちの文化であるが、これに輪をかけるようにして、芸術にたいして知性が恨みを果たそうという試みが、すなわち解釈なのだ。

 そればかりではない解釈とは世界に対する知性の復讐である。解釈するとは対象を貧困化させること、世界を萎縮させることである。そしてその目的は、さまざまな「意味」によってなりたつ影の世界を打ち立てることだ。世界そのものを「この」世界に変えてしまうことだ。

 世界そのもの、われわれの世界がすでに十分すぎるくらい萎縮して、貧困化しているのだ。それをさらに複製したものなどを、わたしたちは遠ざけねばならない。そして再びわたしたちのもっているものを「直接的に経験」するようにならなければならないのだ」

                  
「解釈による世界の貧困化」は、いまや眼をおおわんばかりに世界にひろがっていますが、どうもあんまり深刻には受け止められていないようです。それがとても腹立たしい!そうではないにもかかわらず、そうだとする言葉の増殖には哀しく貧しい思いしかありません。

人や表現を解釈したり、裁いたりすることは、せいぜい「道徳」や「自分」や「歴史」の下位的な補強―「モラル」や「わたし」、「これまであったこと」の陳腐な補強、でしかないとボクは考えています。

解釈も裁いたりもせずに、愛すること。
そしてその愛を言葉にかえること。
にもかかわらず、感情をしりぞけ、自我をしりぞけ、無私と無感になること。
囚われないこと。逃げること。信じないこと。

そして、それらを厳しく鍛え上げ、洗練させること。

そんなことをこういった「言説空間統治の目標」としています☆

さいごにプルーストから引用をひとつ。

「精神の種類の差異をまったく認めないような無知の徒は上下貴賎を通じて別問題であるが、人々をたがいに近づけるものは、「意見の共通性」ではなくて、「精神の血縁」である」「失われた時をもとめて」より
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◆尚、各記事は推敲中でもUPします。
◆写真は蜷川実花のものです。
◆システム構造上「前のページ」と「次のページ」の機能が逆になっている場合があります。その場合「次のページ」を読みたい時は「前のページ」を、「前のページ」を読みたい時には「次のページ」を押して下さい。
ご意見、ご感想はここにありますので、何かありましたらどうぞ。
◆簡単な自己紹介はこちら。ま こんなやつです。
◆それから「え」かいてます。えはこんな感じです。

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by tomozumi0032 | 2006-01-10 04:25 | はじめに
Metropolis

Jeff Mills / Tresor



バルセロナでこの骨董映画とジェフさまのDJのリンクコンサートを見た。
ジェフさま かっこいい~!とおばかなミーハー状態に胸をどきどきさせながら見たのだが―本当にジェフさまは素敵なのである、黒くてシャープな肉体にとろけるようなスーツを着て、知的異星体のようなお姿はまさに音観音の降臨ではないか―都市がこうやって廃物リサイクルされて、新しい息吹を吹き込まれるということが、都市の成熟というものではないか。その意味での東京の貧しさは決定的であり、それが面白さと離れがたく結びついているところが難しいところでもある。巨大な時間的前提を通じて聴くと、都市の記号といったものが、一面的な進歩のみによって生じているわけではなくて、むしろ過去のイメージの使いまわしによって、「新しいとされているのだ」ということが分る一作ではないだろうか。

ジェフさまのサインほしっす・・・
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by tomozumi0032 | 2006-01-07 14:27 | 音楽評論

◆たらたらへべれけ新年―大晦日から3日まで飲み続ける―ノンストップ―ゲロンパ2回!!
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◆大晦日―正月
▼秋葉原。昼、スペインからの友人と噂の「メイド喫茶」へ。酢鶏あんかけプレート。稚拙でまづい。
▼国立。夜、音楽好きの友人宅でホームパーティー。暖かい部屋でムーグとエレクトリックオルガンのレトロファンキーグルーブにたらたら。無数のグラスの打ちならされた新年―おせち、生ハムのマリネ、歌舞伎揚げ、酎ハイ、ウォッカ、ビール、カクテル。
府中。昼過ぎ、「大国魂神社」へ初詣。あまりの人ごみに並ぶことを放棄。神社内にあった派出所さながらの小さな氏神(?)詣で。後屋台でおでん、ビール、葱の散るもつ煮込み。招き猫を買う。
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◆2日
▼水戸。早朝、弟の妻の実家水戸へ。東京にもまして寒く、着くと同時に彼女の母とおせちつまみに地酒。蒲鉾、はんぺん、黒豆、銀杏、赤蝦、薄味叉焼。彼女酒豪らしく、グイグイといく。夕方、車で茂木の弟宅へ。着くと同時に叢にゲロンパ!後友人を交えて新年会。鍋、肉団子、白菜、饂飩、日本酒、ビール、シャンパン等。

◆3日
▼茂木。昼すぎ、起床。起き抜けににごり酒。夕方、那須へ。大正ノスタルジー薫る石づくりのレストランでたらたら。オリーブトマトピザ、蝦パスタ、ほうれん草パスタ、カモンベールサラダ、ジョッキビール、モルト―グレンフィディック等。車で向かう途中今年初めての雪を見る。雪の上にゲロンパ!アブストラクトな一撃は酸鼻に香る。夜、茂木。映画―弟の妻とビール。へべれけ就寝。
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◆いかんせん食べすぎ呑みすぎの暴飲暴食モード。うっすらと脂肪の皮膜が一枚折り重なったかのよう、肉たらたらと重し。正月太りやや進行か・・・こうやってたらたら「でぶ」になる・・・ゲロンパ!!
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