カテゴリ:サンテクジュぺリ( 2 )

☆その1へもどる―

☆世界・わが心の旅 宮崎駿「サンテクジュペリ 大空の旅」
ちょうど、テクジュペリの世界を宮崎駿が語る番組がありましたので、すこし長いんですが、参考にみてみましょう。(参照

☆それでは―
「星の王子さま」の作者サンテクジュぺリについておさらいしましょう。
彼はいったいどういう男で、どういう時代に、なにをし、なにを書いて、この作品に至ったのでしょうか?

わたしたちはつい現代や私自身という物差しから物事や作品を推しはかるクセがあります。過去の作品を読むにあたって、一番難しいのは、当時の時代状況が体験としてあたえられていないので、それを「推測」することしかできないということです。過去の作品にたいして、ゆきすぎた感傷や誤解や思い違いが横行する原因となるので、なるべく「推測」を事実を踏まえたものとして捉えなおしてみましょう。

☆サンテクジュペリはどんな人生をおくったのか?―前衛的な技術精神について
さて、世界・心の旅でも触れられていたように、サンテクジュぺリは1900年に裕福な貴族の家に生まれています。

今からちょうど110年前で、アメリカの自転車屋「ライト兄弟」(参照)が初の有人飛行をおこなう1903年の3年半ほどまえです。飛行機や飛行技術の進歩とテクジュぺリの人生は軌を一にしています。あんのじょう、テクジュぺリ少年は(ライト兄弟への憧れ?―「魔女の宅急便」のトンボさながら)翼みたいなものを自転車につけて空を飛ぼうとしてみたり、はじめて単葉機(主翼が一枚の飛行機)に試乗させてもらったときの思いを詩に読んだり、空を飛ぶことへの憧れをふくらませていたようです。そしてこのころの「飛行機」というのは今と違って、実験的で男性的な乗り物と考えられていたようです。当然乗るのには命をかけなければならず、どちらかといえば、「命知らず」の「若い」、「やくざ」な職業だと思われていました。(現代のアニメーターやロックミュージシャンもそうなのかもしれません、え、ちがいます?、まぁ その精神はということにしておいてください(笑))

20世紀は技術・テクノロジーの時代で嫌な事実ですが、2つの大きな世界大戦は、もちろん原水爆のような失敗、手に負えないほどの宇宙エネルギーの悪い活用もありましたし、大きな犠牲を払いましたけれども、結果としてその発展を助けました。(ナチスドイツがペットボトルやTV、ラジオ―などを現代生活にありふれたものを用意したことはよく知られています)そんな戦争を含めた20世紀の「技術論的社会実験」の一翼を担ったのが、飛行機であり、テクジュぺリが従事した「飛行士」といわれる職業です。

なんであれ、発売当初のテクノロジーというのは、さまざまな意味で現行社会との軋轢や賛否両論を生むものです。たとえば、今だったらTWITTERやI-PHONE、あるいは現行の出版や知ることをめぐる枠組み、音楽産業などを根こそぎ変えてしまうGOOGLEなんてものがそうかもしれません。どちらかといえば、これらはSF作家J・Gバラード(参照)が指摘したように、外部的なテクノロジーというよりは、内部的で情報的なテクノロジーであって、飛行機のような生命を賭した危険な実験が必要ありません。飛行機もまた安全な管制統御下におかれています。ところが誕生間もない1900年代初頭の飛行機はそうではなかった。なにより当時は戦争の時代で、「やるか、やられるか」「殺すか、殺されるか」といったハードな世界が映画やゲーム、漫画ではなく、現実に拡がっていました。そしてそういった世界的「殺し合い」の大大戦のはざまを縫うようにして、テクジュペリは飛行士という職業を生きました。以下に、やや長いのですが、「人間の大地」から「空のいけにえ」と題された宮崎 駿のあとがきをみてみます。

「人間のやることは凶暴すぎる。20世紀の初頭に生まれたばかりの飛行機械に、才能と野心と労力と資材を注ぎ込み、失敗につぐ失敗にめげず、墜ち、死に、破産し、時にたたえられ、時にあざけられながら、わずか10年ばかりの間に大量殺戮兵器の主役にしてしまったのである。空を飛びたいという人類の夢は、必ずしも平和なものではなく、当初から軍事目的と結びついていた・・・中略・・・多くの若者が空中の兵士になることに憬れ、パイロットに志願した。泥の中をはいまわる塹壕戦の歩兵になるよりマシ、というだけでは説明できない熱狂に、青年達はとりつかれていた。空を自由に飛びたいという願望は、空を自在に高速で飛び回る自由に変わり、速力と破壊力が若者たちの攻撃衝動をかきたてたのだ。今日の信号を無視して突っ走るバイクの若者たちを見ればすぐ理解できることである。実は、速度こそが20世紀をかりたてた麻薬だった。速度は善であり、進歩であり、優越であり、すべての物差しとなったのだ」空のいけにえ 宮崎 駿

サンテクジュペリは、こういった時代に飛行士になりました。もっとも彼自身をめぐるその道のりはけして平たんなものではなかったようです。

☆その3へつづく―
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星の王子さま―オリジナル版

サン=テグジュペリ / 岩波書店



るで大人みたいないいかたをするんだね!・・・《中略》・・・ぼくの知ってる星に、真っ赤な顔をした男の人がいるんだけれど、この人ときたら、花の香りをかいだこともない、星を見つめたこともない、だれかも好きになったこともなくて、することといえば足し算ばかり。そして一日じゅう、おじさんみたいに「わたしはまじめな人間だ!わたしはまじめな人間だ!」って呪文みたいにとなえているんだ。それで鼻高々なのさ。でも、そんなの人間じゃないよ、キノコだよ!本文P43
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★星の王子様

☆ロマンティックなテクジュぺリ
サンテクジュぺリは、その生涯もふくめて、ロマンティックな作家だと思います。

なぜっていって、だって、宮崎駿やJ・Gバラード、稲垣足穂のように飛ぶこと、大空への憧れを捨てなかったから。つまり純粋な子供の心をずっと持ち続けて、そして死んだ。作家は運命の星に生きる生き物ですから、死に方はとても重要です。テクジュぺリは第二次大戦中に本当に飛行機に乗ったまま、大空の星屑になってしまった。テクジュぺリの別の著作、「夜間飛行」を読めばわかるように、飛行機で死ぬのはとてもロマンティックな死に方ですね。すくなくとも病院で癌で死ぬような、月並みで、ステレオタイプな死に方よりは、ジャンボジェットの墜落死であっても、空から堕ちて死ぬのはロマンテックな死に方だとボクは思います。だって、いちどは高みにあがって、それから堕ちるわけですから、死ぬことはまさしく堕ちるという距離の運動とかかわっています。もっといいのは言うまでもなく、消息不明―大空に吸い込まれて、星屑となって死ぬことですが、それはまぁ ここではおいておきましょう。

テクジュぺリはロマンティックです。
なぜっていって、だって、生涯、子供の心をすてなかったからです。
子供の心を捨てない-というのは人間のなかに、どんなに社会風刺や皮肉があっても、つまり社会批判があっても、あたりまえのことだということを教えてくれます。だって、だってね、子供の心のなかでは人は「別の世界」-オルタネィテブに生きるでしょう、みんな。それは、わたしたちが見ている社会、ぼんやりイメージしている世界といったものを相対化する鏡にもなるのです。ある意味では、大人の目は誤魔化せるかもしれませんが、子供の目はすべてを見抜く力をそなえているようです。でも残念なことにわたしたちは大人になって、社会化されることによって、そういった力をすこしづつ鈍らせ、気付かないうちに失くしていってしまうんですよね。

ヴィムヴェンダース(参照)などの映画、面白い漫画、芸術世界、小説の良質な物語、ドゥルーズの哲学(参照)、あるいはベケットやロラン・バルトのエクリチュールや感覚、その当初としてのマルクス主義やソヴィエト連邦の中にはこういった世界を相対化させる鏡や子供の力があるとボクは思います。そして、そこにこそはげしく魅せられちゃうんですよね(笑)

ネットや技術、機能主義と合理主義、目的意識、収益と利益のエピソードによる「直線的な時間」ではおさまりきれないなにかがこの世界の中にはあって(ちなみにかつてそれを「革命」と呼びました。それほど昔じゃありません。レーニンやゲバラや毛沢東やゴダール、アントニオーニの時代です)、それを描くことこそが作家の使命だとしたら、活字離れによる物事のEAZY GOING化、チープ化の精神、安っぽくて薄っぺらい2極化はその意味でとても残念なことですし、社会の喪失だといっていい。

べつだん、わたしたちは市場のために生まれてきたわけではない。

人生はなにを味わうかの舞台であって、そういったことをわかりやすく、婉曲に、子供っぽい調子で、しかも魅力的にサンテクジュぺリは描き出しています。そしてそういった人生の見方そのもののなかにボクはロマンティックを感じます。
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                ★バオバブの木
☆ボクの「星の王子さま」の思ひ出
それでは、個人的な話をすこしします☆

ぼくは団塊JRの世代ですが、はじめて親しんだアニメは「星の王子さま」でした。ブログを読んでくれているみなさん、知っていますか?「プチ~プランスプチ~プランスルルルルルルル~」というテーマ曲の古いアニメです。今でも「☆マーク」や「☆柄」になみなみならぬ執着をおぼえますが(ちなみに、ときどき目が☆になります)、それもこれも、テクジュぺリのこの物語の影響だと思います。

物語がもっている力。とても魅力的で人を美しくする力につよく魅了された最初の物語です。そして中年にさしかかった今、この本を読み返してみても、その魅力はいっこうに衰えません。いまだに強く魅了されてしまいます。どうしてなのでしょう?

その理由を以下に描いてみたいと思います。
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         ★帽子とまちがわれた大蛇が象をのみこんだ絵
☆ものがたり(壊れやすいものは美しい秘密をもっているということ)
まず、「星の王子さま」の物語を忘れている読者もいるかもしれません。

この節において、すこし丁寧に物語をなぞってみましょう。

おそらくこの物語は多大な影響を世界の文学や哲学、アニメにあたえています。(この本は違いますが、「夜間飛行」、「人間の大地」って宮崎駿の絵が表紙ですし、「人間の大地」のあとがきも書いています)多少こじつけめくかもしれませんが、その連想も言い添えおきます。関連性の真偽というのは、いまひとつわかりませんので、頭半分に聴いてみてください。いいですか?誤解しないようにしてください―くれぐれも正しくはないんですよ。ただそう感じた、思ったということです。

さて、物語は語りべの「飛行士」が6つの頃に書いた「大蛇が象を呑みこんだ」絵からはじまります。

そして、この絵は説明不足として、頭の固い大人たちに「帽子」としてしか見なされなかったことが語られます。それから、話は6年前のことに移ります。6年前、サハラ砂漠に不時着した「飛行士」はひとりぽっちと乾きのなかで、風変わりなひとりの男の子に出会い、「羊」の絵を描くことをもとめられます。(そういえば、村上春樹の初期の作品集にさかんに登場した登場人物は「羊」でした)

ありたいていの「羊」の絵を描いても、男の子はうんとはいいません。いくつかの羊を描いたあと、最後に四角い箱にはいった羊の絵を描き、それが彼の気に入ります。(まるで安部公房の「箱男」みたいです。「箱男」ならぬ「箱羊」といったところでしょうか?―)

そう、頭脳明晰かつ聡明なる読者諸君、彼こそが星の王子さまです。

さて、王子の話によると、彼は小さな星に住んでいます。この星は家ぐらいの大きさしかありません。そしてある問題をかかえています。それは「バオバブの木」の問題であって、この木に星を粉々にされてしまう危険にいつもさらされているのです。このあたりはすこし宮崎駿の「風の谷のナウシカ」の「腐海」を思わせますね。飛行士にもとめた「羊」の絵はこの「バオバブの木」を食べさせるためです。そして王子は星では日々、退屈なバオバブ掃除の労働に費やされています。

王子は夕焼けがとても好きです。夕陽が沈むのを44回も見たことがあるそうです。

それから王子は星にあるどこから飛んできたのかわからないが、芽をはやして、育ったいっぽんの「バラの花(棘のある花)」を愛しています。だから、「羊」の絵が「棘のある花」さえも食べてしまう危険があるといって、泣きじゃくります。飛行士は「羊」の絵に口輪をつけることを約束します。(ちょっとこうやって要約すると、おかしいのですが、この物語のなかでは、絵の世界(イマジネーションの世界)と現実の世界とがとけあっているのです。)

この「バラの花」はたいへんな気取りやさんです。

そのうえ、プライドが高く、気難しくて、わがままです。

さらに「心」と「口」とがちぐはぐです。

つまり「女の子」、「女性」ってことですね。


われらが純朴なる王子はこの花に美しさを感じています。花は王子をいい香りで包み、ぱっと明るい気持ちにし、愛の体験を教えてくれたからです。でもこの愛の体験は王子があまりに若すぎて、うまくはゆきません。

あるとき、王子はこの「バオバブの木」と「バラの花」の星をおいて、旅にでます。

別の惑星に住む大人たちを訪問する旅です。
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             ★星でであった王様
「王様」や「うぬぼれ屋」、「酒飲み」「ビジネスマン」、「点灯員」「地理学者」―の星をめぐります。彼らはそれぞれがそれぞれの星に暮らしていて、王子に自分のことを語ります。ところが、王子はそれら別の惑星で出会った大人にたいして、けしてよい印象をいだきません。(松本零士せんせの「銀河鉄道999」ってこんな感じですね、その原型といえないかしらん)

その地位とか名誉、仕事の立派さにとらわれず、そのほとんどに「おとなって奇妙だなぁ・・・」とか「おとなってやっぱりどう見ても普通じゃないなぁ・・・」と心の中でつぶやきながら、旅をします。大人のなかでもっとも王子が親近感をおぼえているのが、「点灯員」です。「点灯員」は上からの指示で単調な仕事をしているうえに、他のひとびと―「王様」や「うぬぼれ屋」や「酒飲み」や「ビジネスマン」に馬鹿にされるのでしょうが、夕陽がたっぷりと見られ、自分以外のことをいつも気にかけています。それで王子はとても親近感をおぼえます。

さて、そのつぎに、ようやくたどり着いた地球はそれまでの星にくらべると、とても規模の大きな星です。王子はアフリカの砂漠に降り立ち、蛇と友達になります。蛇は王子にもし自分の星にかえりたくなったら、おれが手伝ってやる、謎を解いて欲しかったらおれが全部解いてやる―と謎めいた予言のようなことをいいます。

地球で、王子は高い山に登り、そして「バラの花たち」の咲き乱れた庭を見つけ、ちいさな星で感じていた自分の幸福がおおきな世界のなかでありふれたものであることに悲しみます。

それからキツネがあらわれ、そのキツネと「きずな」をつくり、「なじみ」になって、「友達」になります。キツネはなかなか賢くて、こんなことをいいます。

「なんだって時間をかけてなじまなけりゃ、知ったことにはならないさ。人間は、なにかを知ろうにももうその暇がないんだ。店で、できあいの品物を買うばかり。でも友達を売ってる店なんてないからね・・・」

キツネとの交流で自分に自信をつけた王子はもういちどバラの花たちところへゆき、彼女らにいいます。

「キミたちは特別な花じゃない・・・・だれとも「なじみ」になっていないから・・・・・キミたちは綺麗だけど、中身がからっぽなんだ・・・・・・ぼくにはキミたちみんなよりもあの「バラの花」が大切なんだ」

旅立つ王子に別れ際、キツネは彼の秘密を教えてくれます。

「心で見ないとなにも見えない。大切なことは目にみえない。」

そして―

「キミがバラに時間をついやしたからこそ、あのバラはキミにとってあんなに大切なものとなったんだ。人間はこの真実を忘れている。」

旅立った王子はまた「線路のポイント係」や「時間を節約する水の丸薬を売る商人」と出会います。彼らのことも王子はあまり信頼はしていないようですね(笑)

それから物語は砂漠の飛行士との交流にもどります。

砂漠にいる飛行士は喉を乾かせています。2人は砂漠を何時間も歩き続け、星や砂漠、家の美しさをたたえます。星は花を、砂漠は井戸を、家は宝物を隠し持っているから美しい。

「そうだね、家でも、星でも、砂漠でも、その美しさのもとは、目には見えないんだ!」

飛行士は眠る王子を見つめ、眠っている王子が胸を打つのは「ひとつのバラ」を愛し続けたからだといいます。

それから、ふたり、また歩きつづけ、井戸を見つけ出すのです。
井戸につくと王子はいいます。

「人間って、押し合いへし合い特急列車に乗り込んでいるけど、なにをさがしてるのか、もう自分でもわからないんだね。だから落ち着かなくて、おなじところをぐるぐる回ってるんだ・・・そんなことしたってしようがないのに・・・」

水を呑み、また王子がいいます。

「おじさんの星の人間たちって、ひとつの庭に五千本もバラを育ててるんだね。それなのに自分がさがしているものが見つからないんだ・・・でもさがしているものは、一本のバラにだって、ほんのすこしの水にだって、見つかるかもしれないのに・・・」

そして、はじめに約束していた羊の口輪を飛行士は王子に描いてあげます。

あくる日は王子が地球にきてから、ちょうど一年目の記念日です。
その日に王子は飛行士にかいてもらった羊と箱と口輪の絵をもち、「大切なことは目に見えない」「とても弱い花は大丈夫だろうか・・・」と言い残して、以前謎めいた予言を口にした蛇にみずからを噛ませて、死んでしまいます。

六年後、飛行士は羊の口輪に革紐をつけるのを忘れてしまった事を思い出します。そしてあの一本のバラは羊にたべられてしまっただろうか?―と、遠い宇宙に思いを馳せて、物語はおわります。
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             ★星になってしまう王子
★その2へつづく
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