Cool Culture Critics
2012-06-25T21:38:09+09:00
tomozumi0032
映画・現代文学・哲学評論
Excite Blog
坊主あたま
http://tomo0032.exblog.jp/15622532/
2012-06-23T20:02:00+09:00
2012-06-25T21:38:09+09:00
2012-06-23T11:57:16+09:00
tomozumi0032
徒然日々のこと
☆坊主あたま
さいきん、きれいなパステルグリーンのバリカンを買った。
蛸足にコンセントをいれて、がーがーがーがー!と、じぶんでじぶんの頭を刈って、坊主あたまにしている。
坊主あたまの理由はいくつかある。
ひとつめは、もう5年以上ずっとかよいつづけていた表参道の美容院が新宿に移転することになってしまったから。そして、その美容院で髪を切ってもらう最後の最後の日に坊主あたまにしてもらったこと。
いきつけだった美容院の移転は困ったものだ。
路頭に迷ってしまう。
かといって、新宿までいくのも面倒だ。
新宿は六本木や渋谷同様に苦手な街のひとつである。
人ごみにもまれてまで髪を切りにゆくという気分には、とてもなれない。
あんな、めがめがの、びかびか、摩天楼つらなる巨大都市にまでわざわざ出向くのは、出不精で、家からでるのを好まないボクにはまったく向いていない。
それじゃあ、ご近所で、新しい美容院を見つければいいというが、長年をかけてつちかってきた美容師さんとの人間関係をまた1からつくりなおさなければいけないというのは、パソコンのOSの変更みたいにわずらわしい。
髪型は要するに個性と感覚のニュアンスだ。
なじみになるとこの人はこんな人だからこうね-のような感覚のニュアンスが理解してもらえる。そうすると楽なのだけれども、いわずもがな、この感覚のニュアンスを理解してもらうということはなかなか難しいものなんだ。いきつけの美容院の兄ちゃん、姉ちゃんとも最初はいろいろ試行錯誤があったが、3年ぐらい毎月かよって、なんとかニュアンスをわかってもらえるようになった。
―が、その店ももうなくなってしまった。
これがひとつめの理由。
ふたつめの理由は「ふけ」だ。
シャンプーがあわないのか、代謝がさかんなのか、加齢によるものなのかーさだかではないけれども、とにかく毎日「ふけ」が大量にでて、朝起きたときにマクラに雪のようにちらされた白い頭皮のカスをはたくのが日課になってしまった。
そこでボクは考えた。
代謝と加齢はしかたないとして、シャンプーを石鹸にかえ、指をタワシにかえることはできるのではないだろうか?-、と。
それは、坊主あたまならできる-、と。
それで、お風呂の時など石鹸をタワシにこすりつけて、ごしごしと頭皮を落とすことにした。
すりすり、ごしごしごしごし・・・ごしっ!
こうして、ふろ上がりは頭がピカピカするようになった。
光のあたる角度によっては、光が頭皮にたちかえって、本当にマンガのように「きらりっ!」と輝く。そんな時、う~ん、まぁ、なんだかんだいって、坊主あたまも悪くはないな、ふふふ・・・―と悦にひたるのである。ひとり。
そういえば、小さいころ、テレビに、自分の禿げ頭に卵の卵黄をぬって、「どや顔」で登場するおじいちゃんがいて、なんであんなことをするんだろう、禿げって自慢すべきことなのかしら・・・-と、おさな心におもっていたのだが、いざ自分が年を重ねて、坊主にしてみると、なるほど、この輝きだったのか!―とあのおじいちゃんの気持ちが少し理解できたような気がする。
なるほど、年は重ねてみるものだ。
最後の理由はもうちょっと簡単で、年始に「少林寺」に体験入学する日本の俳優の番組がテレビでやっていて、それにでてきた修行僧がかっこうよかったこと、それから映画「ガンジー」を見て、ガンジーの勇気にうたれたこと、さらに手塚治虫のマンガ「ブッダ」をあらためて読み返して感銘をうけたことにある。
でもよくよく考えてみると、そういった高僧のような坊主あたまもいれば、「一休さん」のような「トンチ」の破戒僧だって、もうちょっと身近なところでは、刑務所の人やヤクザ、野球部だって坊主あたまだ。
立派なイメージとDQNでやっちまったなぁ~ってイメージ、秩序正しいイメージとなにかトンチンカンなイメージと両方あって混じり合っている。そういった解釈の振れ幅のおおきい両義性が面白いと思う。
理由は以上で、個人的には楽で経済的でぴかりと輝くこのヘアスタイルが気にいっているのだけれども、いつぐらいまでつづけようかというのが目下のところの案件だ。
そのうち、そりあげて卵黄塗ってみようかしらん。
そしたら、もっと、ぴかりってするよね。
ぴかりって-さ☆]]>
徒然日々のこと
http://tomo0032.exblog.jp/15522426/
2012-06-09T08:56:00+09:00
2012-06-12T08:40:20+09:00
2012-06-09T08:55:37+09:00
tomozumi0032
徒然日々のこと
よくもわるくも、「喧嘩屋」橋本徹大阪市長がなにかと話題な昨今。
先日うちだされた刺青をめぐるきびしい態度は賛否両論をまきおこしている。
だけれども、本来、刺青は装うことをめぐる「趣味」のようなものではないだろうか。そして趣味には、もちろん、よい趣味とわるい趣味がある。
つまり、刺青は趣味が悪く、露悪的。
三島がおそれ、自己同一化させようとしていたアメリカ大衆文化の「毒」みたいなもの。
さらに、体を傷つけるのは、日本的なものの見方(倫理)にそぐわない。
傷をほこるようなグロテスクな表現は控えられるべきだ。
アダルトビデオでの性器表現のように、傷はモザイクで隠されるべきであり、公務員は傷のない、間違いのない清く正しいわたしであるべきである。
はたして趣味の問題が公的な制裁の対象になるのは、趣味の自由を損なうものなのではないのか?倫理観はひとつでなければならない?あるいはそれを美しいと感じてしまう感性はおかしいの?
それとも公務員は趣味の領域まで管理されるべきなのだろうか?
倫理の管理、美的基準の管理。
そうなると、ほとんど、ナチスヒトラーの「頽廃芸術展」を思わせるような、価値への侵犯だと思う。(COOL J-POPの現代、日本の芸術家は大衆のことだ)
あの展覧会で、「頽廃芸術」をレッテルを貼られた作品のほとんどが個人の趣味の自由を謳歌し、傷口をさらすものだったということ。そして、後世からみると、グロテスクを隠ぺいしてみせる、その時代意志そのものがグロテスクであるということを彼は知らないらしい。
はたして、日本人であるわたしたちは強権的リーダーによる父権制、曖昧でなぁなぁなもたれ合いを明文化し、取り締まることによって、世界と論理でわたりあうことにあこがれているのだろうか。(司馬的私のない無自我で恋愛なき青春小説みたいに?―そのくせ、日本のリーダーたちは戦後、論理で世界とわたりあってはいない)
社会制度やシステムへの女性参加がいちじるしく少なく、女性が男性のうえに立てない日本の社会システム。
男性同士の「甘え合い」にしたがった、ホモセクシャルめいた社会の仕組みは、いまだ閉じられたまま、フロイト的ひとつの極をめざす単純なピストン運動の中にあって、制御と開放をくりかえしているだけのようにも見えてしまう。
「刺青の禁止」や「国歌斉唱」のような美しい日本の伝統にしたがって、内部的な体制を強化しようという権力のコントロールへの欲求は東アジアのファシズム体制は「強国」をつくるという、いわゆる中国や北朝鮮のありかたによく似ている。ここでは、伝統的に血縁の倫理的な検閲システムが働いて、抑制された自我を国家という非個人的領域に結んでみせている。(国家宗教主義)
それは中国を見ていればわかるようにスピーディーで、とても効率的だ。
それから三島やその廉価版の石原、配下橋本、現代的なパロディを描いて見せた村上龍、あるいはそのこじらせ系なエヴァゲリの庵野のように多くの人たちを魅了することは間違いない。(三島と庵野は父権制への「こじらせ具合」が意外と似ている)
東アジアの血縁関係と先祖崇拝をベースとする社会体制は基本的にファシズムに親和性が高いということを、帝政日本や中国、北朝鮮は証明させてみせているが、戦後、日本はアメリカの庇護のした、そういった体制と決別できるように見えた。
自然によりそう母権制のアニメ作家宮崎駿や「サマーウォーズ」の細田守やオタクアニメの表現者はそうした戦後日本の代表的表現者のように映る。だが、やっぱりわたしたちは父権を欲しているのだろうか。それともこれは行き過ぎた母権制(日本の甘やかな自然主義、風景、官能の領域)にたいする父権(外来の言葉に地権、軍事の領域)のバランス取りなのだろうか。
おそらく、父なき社会体制において、ねつ造された父のすがたをわたしたちは憧れをもって見守るのだろう。
いずれにしても、わたしたちが社会的調整作用のなかにいることは間違いなさそうで、この問題は案外根深く、繰り返される同じ対立のかたちを変えたすがただ。
公と個人、東アジアとアメリカ、伝統と革新、社会主義と資本主義、ファシズムと個人の自由―わたしたちはいまだ20世紀的なパワーをめぐるバランスの中からでてはいないのだろう。
ちなみに個人的には両肩と腕、足、指などに7つほど刺青をいれている。
公務員にはなれないや☆]]>
徒然日々のこと
http://tomo0032.exblog.jp/15480905/
2012-06-03T21:03:00+09:00
2012-06-09T07:27:38+09:00
2012-06-03T21:03:17+09:00
tomozumi0032
徒然日々のこと
☆数学の国フランスの想像力豊かな抽象性が世界をリードしてゆく
2012 6・6号のNEWSWEEK紙「金融界を騒がすフランス産「数学屋」」の記事を面白く読む。
ラテン的な理知の精神、幾何学の精神はレヴィ・ストロースやドゥルーズといった哲学者のみならず、建築、ファッション、映画の背後にうかがわれ、感性と融合して独特のフランス文化を形成して魅力的なんだけど、それが「リーマンショック」のような巨額損失と金融危機を生み出すおおもとの数学的バックボーンをつくっていたとは知らなかった。ぜんぜん。
本誌によれば、フランスの女流数学者である二コール・エルカルーイ女史の教室から巣立った「クオンツ」とよばれる計量分析の専門家たち(もちろんフランス人たち)が高度で複雑な投資手法を編み出し、それが08年ごろに金融界に爆発的にひろまっていったらしい。昔かたぎのエルカルーイ女史本人には金にたいするこだわりはないんだけれども、彼女が教えた金融手法は理解不能な金融商品の開発に利用され、さらにそれらの商品が投資家や投機家に法外な価格で売られていたという。記事にはこう書かれている。
彼ら金融界の数学屋たちは数学的理論の正しさを検証するために、天文学的な(しかも他人の)資金を動かしているに等しい。
「ひぇ~・・・」―である。
フランスの幾何学精神が金融商品として具体化し、社会の中に投げいれられ、世界をリードし、価値に付加をつけ、そして時に巨額の損失によって、世界を混乱に導くのかと思うと、なんだか頭がくらくらしてしまう。
もっともフランスにはこういった伝統があるらしい。初等中等教育では純粋数学を重視しているし、100年以上前から数学的手法による市場分析の確率論のエレガントなモデルをつくりだしてきた。
さらにエルカルーイ女史によれば、「数学の豊かさは抽象の中にあり」、「現実から一歩下がって考えるから、なんであれ、自由に考えられる。数学は想像力で勝負する」ものなのだ。
ほとんど村上春樹の小説世界のようにすら見える。「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」の計算士、記号士みたいに。
つまり、現代社会は壮大な金融の抽象で想像的実験を先端とする市場の中にいて、その実験の成果によって、左右されるということじゃないか、これって。ただ抽象と想像の世界には痛みはないが、現実の世界には痛みがある。こういった壮大な実験は成功と失敗の繰り返しなのかもしれないが、それにしてもやはり現実と想像、夢の世界はよく似ていると思う。
(追記:この記事をUPしたあと、ゲームのキャラのようなマネキンロボット犬に左足のくるぶしを噛まれる夢を見た。鋭く、強い痛みがあって、それから現実の世界でもくるぶしが痛くて、今日もまだしくしくしている。想像と抽象の世界にだって痛みがある。誤ったことを書いたので、摂理が天罰を下したように思った・・・)
☆南伊豆へいってみた
GWあけに2泊3日で南伊豆にすむ弟のところへいってみた。
理由ふたつ。ひとつは太陽が見たかったのと、もうひとつは空気が吸いたかったというそれだけの理由。
われながら、ほとんど原始人めいてすらいて、フランスの幾何学精神とは程遠い。エルカルーイ女史の数学理論とも「超複雑なデリバティブのモデリング」ともなんら関係はない。
以下-感想を書く。
下田には以前短いあいだだけれども住んでいたこともあったし、南伊豆もまったくはじめてというわけではなかったのだけれども、それにしてもやっぱり色々おどろかされることが多かった。東京の生活がエレガントで害なく、「つるり」としていることを改めて実感する。慣れてしまうと日常の瑣末がこそ意識されて、日常そのものが意識されなくなってしまうので、どうも時々そういった意識を相対化しておきたくなる。
「つるり」とした触感は魅惑的で快楽的だが、それはやっぱりひとつの触感にすぎないのだと思い知るいい機会だった。
たとえば、都会の信号や記号一般はやはり「つるり」としていて、害がない。ところが南伊豆まで行くと信号や記号が害がある。といっても人為的な悪意による害ではない。そうじゃないけど、それは害であり、東京のそれのように機能しないのだ。害の要因は思うにふたつ。ひとつは自然の力が大きいということ、もうひとつは人間の手が入りきらないこと。
南伊豆はほとんど過疎の村に近い印象で、人がいない。若者もいないし、子供もいない。おじいちゃんとおばあちゃんが農作業しているのだが、それもわずかで田畑に手が入らない場所もおおくあり、打ち捨てられている。
こういう場所では記号が記号として機能していない。
たとえば、GPSの地図上に「ハイキングコース」と書かれているところへ行ってみた。ところがそれはまだ若い土砂崩れでふさがれ、その奥にかろうじて見分けられる道は「ケモノ道」というような、狭くて、茨が入り組み、ヘビが身をくねらせているような道だった。たしかに「ハイキングコース」は「ハイキングコース」だけれども、どうも都会で機能している意味での「ハイキングコース」じゃあないようだ。東京だったら、すぐに手がはいるのだろうけれども、ここでは手がはいらない。自然の力が人間の力を凌駕し、人間は自然の中にかろうじて住まされてもらっているような気持ちになる。
それから「温泉」のマークがあったので、弟につきあってもらって、往路20KMを歩いて、隠れ里のような山里までいってみたのだが、見当たらない。ただ用水路のような場所にパイプがひかれているのは見た。あとにネットで確認してみると、どうやらそれが温泉のようで、ネットにあげられていた写真には水着姿でパイプの下、行水する男の姿があった。秘湯というより、ほとんど温泉行をする行者のようなので、「これは無理だね」と弟と弟の彼女と笑った。たしかに温泉は温泉だが、ふつうにイメージする温泉ではない。
山で遭難したり、海で流されたりする事故はいつになってもたえないが、思うに、自然の力をかろんじてしまう都市の論理、「つるり」とした快楽の感覚と実際の田舎の機能しない記号とのギャップが背景にあるように思う。福島の地震とそれにつづく東電の原発事故に見るように、都市に生きる人間はやはり傲慢で「つるり」としたものに魅かれ、それがずっとつづくという淡い夢に生きてしまう。金融や市場、経済、愛、ファッション、性、教育、制度・・・人知が考えるよりもはるかに壮大で超複雑な営みがその背後にはひかえているのだが、どうもそれが意識にのぼってこない。人間はつくづくちいさく愚かで弱いもの。その時々でしかない影に一喜一憂する。
閑話休題―。
ところで、こういう場所では料理がおいしい。
そりゃ、あたりまえづら。
空気がうまい。水がうまい。素材がうまいもの。
弟もその彼女も料理好きで、庭先の畑で育てたオーガニック野菜をとり、よく料理をしてもてなしてくれた。
ピータンに米蒸しシュウマイを「焼酎」で、イノシシの肉のBBQを「ビール」で、野菜スープとお手製ピザを「白ワイン」で食べる。
したたか酔いどれ、したたか食らう。
もとい、したたか食らい、したたか酔いどれる。
ようやく気付いたのだが、どうやら、弟の彼女のぼくの印象は「酔っ払い」「酒好きのお兄ちゃん」というもので、初日と寝るまえに酔いどれて、呟いた「今日はあんまり呑めないけど、明日は呑めるぞ・・・」というセリフと、次の日寝るまえに呟いた「よ~し、今日はよく呑んだぞ・・・」というセリフをよくおぼえていて、それをネタにからかわれた。たしかに酒が好きで酒ばかり呑んでいるのだけれども、ここでは「そればかりじゃあないぞ!」と力強く言っておきたい。
いろいろ気付かされ、よい勉強になった旅だった。]]>
男と女-性に関する問い
http://tomo0032.exblog.jp/13995999/
2011-11-17T17:56:00+09:00
2011-11-17T20:47:10+09:00
2011-11-13T13:13:19+09:00
tomozumi0032
哲学批評評論
ホモセクシャルの世界史 (文春文庫)海野 弘 / 文藝春秋
幸福は永遠に女だけのものだ (河出文庫)澁澤龍彦 / 河出書房新社
☆更新しないで、ごめんなさい(笑)
おっす☆
えっと、まずは更新しないで、ごめんなさい(笑)、てか、いちど離れるとけっこう面倒な作業なんだよね、こういうのって。本や言葉を読み込まなきゃいけないし、相応の時間も必要だし、書かないのは、書くより自意識に悩まされて、あらたな煩悩を生まないで済むし、俗世の処世術として、「書かない」という選択肢も楽でいいんだよね。書けば、「もやもや」と雲のような煩悩が生まれて、そのわだまりに対処するのに体力いるっす。なんだか、すっかり、俗世離れした生活になれてしまって、そのことが、どうにもごめんなさい、です。それでもいつも一定数の読んでいただいているかた、あんがとね。こんな無精な「三年寝太郎」みたいなブログでもけっこう来てもらっているので、ときどきビックリです。
★「男」と「女」―「おとこ」と「おんな」
さ~て。
ひさしぶりなんで、なぁに、書こっかなぁ~☆・・・と思案にくれていますけれども、今回はゴダールんとこでもちょっと触れたような、人類、っていうか生物の永遠のテーマである「性差」について、まったく別の3つの本(でもどれもなかなか素敵な本たちですよん☆)を読みながら、ちょっとした思考と解釈の「実験」をくり広げてみたいと思います。「男」と「女」という2つの記号、いっけん、その2つ「だけ」の記号で社会は機能しているように見えますが、本当にそうなんだろうか。時代によって、性はいくつもあったのではないだろうか。合理主義の現代社会にてらし合わせて、あらわになる性だけではなくって、長い人類の歴史のなかで、人間はもうすこし境界の曖昧な、はっきりしないところにいたし、今なお意識においてはそうなのではないだろうか?おおざっぱに言うと、ずっと、そんな風な疑問があります。ひさしぶりなんで―うまくできっかなぁ~といささか不安ではありますが、まぁ適当に無理しない程度でやってみたいと思いますので、興味のある方はおつきあいどうぞ☆ちょっと難しい?いや、まぁ、わかりやすくしますったら。
☆ドナルド・キーン著「日本人の美意識」-歌舞伎の女形(おやま)はかく語りき!
まずはコロンビア大のめ~よきょ~じゅドナルド・キーン氏の著書「日本人の美意識」からの引用から始めてみたいと思います。
余談ですが、この本はとても面白い。表紙の渋さ(もっとPOPにすれば若い子が手に取るのにいいのに、と残念です)とはちがって、愉快なところがあって、ユーモラスで、なにより現代的でAPPLEのスティーブン・ジョブスのように実験的な本です。キーン氏は人類がグローバリゼーションによって、「単一栽培」をはじめる前の、つまりどこの国もみんな同じようになっちゃう前の、日本と西洋の「違い」をこの本の中でさかんに探究しているように見えます。今じゃあ、すっかりグローバル化して、ごっちゃまぜになってしまった結果「違い」を「違い」として見分けられなくなってしまった日本人に日本人の本質を突き付けているのだと思いました。それってたぶん日本人のもちあわせてきた「洗練」と「実験」の精神をとりもどす試みなんだよね。
さて、キーン氏は本書のなかの「日本演劇における写実性と非現実性」の章のなかで、17世紀の伝統的な歌舞伎の女形、芳沢あやめ(1673-1729)の言葉をひいて、以下のように述べています。いいですか、女形の言葉ということに注意してくださいね。つまり、男性が女性を演じる歌舞伎役者のことですよ。
はい、そんぢゃあ、HEREWEGO~☆
「(女性の)女優が舞台に登場しても、理想的女性美を表現することは出来ないだろう。というのは、彼女はせいぜい自分の肉体的特徴を活用するだけで、したがってもっと総合的な理想を表現することは出来ないからだ。理想の女性は、男の役者によってのみ表現しうるのだ」芳沢あやめ(P116)
いま聞くと、ちょっと男性中心主義的だともいえるような言葉ですが、こののちキーン氏はこんな風に続けています。
「女優が女を演じる時、厳密に言うと、男が女の役を演じるよりは、より女らしくなれるかもしれない。しかし、子供の時から、女の動作を精密うに研究してきた男の俳優ほどは見事に、女性の本質的な資質を伝達することは出来ないのである。偉大な女形が演技するのを見ていると、彼の身振り一つ一つの中に、殆ど薄気味悪いほどに細かい気くばりが、行き届いているのがわかる。」(P116)
「女性上位時代」といわれる現代を生きるわたしたちは、こう言われると、この逆はどうなのか―が気になりますが(笑)、それはさておき、キーン氏はさらに歌舞伎の女形は女性として美しい男性ではなくて醜い男性がいいという面白い指摘を続けます。見てみましょう。
「現存する最もすぐれた二人の女形は女性としてひどく醜いだけではなく、その声は、彼らが演じている悲しげな若い娘の声というよりは、むしろあの耳触りな孔雀の鳴き声を想い出させるのだ。自分が本物の女だと観衆に信じ込ませようと試みる女形があるとすれば、その役者は、まだまだ出来ていない役者だと言わざるを得ない。女形の理想が、ある特定の女性というよりは、女性というものの、いわば抽出されたエッセンスである以上、すぐれた女形は自分が観察した女性の仕草その他をいちいち真似る愚は犯さない。彼は過去の女形演技の伝統、あるいは型に、まるで当たり前のようにただ従うだけなのである。」(P117)
これはビックリしてしまうような指摘です。
つまり、歌舞伎の世界においては女らしさやその反対の男らしさは型として、踏襲され、劇としてエッセンシャルに表現され、そして、それがこそ現実の女性以上に女性らしいと言っているのです。
歌舞伎の女形は、わたしたち人間にとって、「女性らしさ」や「女らしさ」、反対に「男性らしさ」や「男らしさ」という概念は抽象的なものであって、その性そのものにそなわっているわけではないという複雑なパラドクスを教えてくれます。
☆海野宏著「ホモセクシャルの歴史」―ネイティブ・アメリカンの第三のジェンダー「二つの魂」をもつもの
キーン氏の指摘どおり、性にはパラドクスがあります。
そういったパラドクスのひとつに同性愛があげられます。海野宏氏はこの大著「ホモセクシャルの歴史」のなかで「ホモセクシャル」の身体的関係はもとより同性間での友情やその延長線上である心や精神の交流、寵愛や慈愛、鳩山由紀夫的(?)「友愛」にもまた愛情の関係を見出しています。社会一般の見地から、身体の関係だけをとりだして、「愛」や「ホモセクシャル」とよぶのは、ちょっと下品でプラグマチックすぎると思います(笑)もっとも身体の関係はわかりやすいだけに、イエスノ―でせまられるという現実があることは確かでしょうが。でも、意識レベルで性を分解してみると、男性の中に女性の面影を、女性の中に男性の面影を見ることはそれほど少ないことじゃあないと個人的には感じます。男だって女らしい部分があるし、女だって男らしい部分がある。それらは光の世界に表立たない影として、その性に付き纏っているかのようです。
さて、本著「ホモセクシャルの歴史」はたしかに歴史の表舞台の欧米人に偏りがあって、ちょっと世界史というわけじゃあないところがあるとは思いますが、広く長い射程のなかで、ギリシアの少年愛、古代ローマの哲学的エロスからダビンチのルネッサンス、パリファッションのさきがけアンリ三世や女嫌いなルイ13世の近世、オスカーワイルドや白人中心帝国主義者セシルローズといった19世紀のイギリス周辺事情、黄過論のヴィルヘルム2世(有色人種の日本人からして見ればローズにせよ、ヴィルヘルムにせよ「やな奴ら」ですね(笑))統治下のゲルマン、ジャンコクトーやニジンスキーで有名な20世紀フランスの華麗なるゲイコネクション、さらには「太陽の子」といわれるオックスフォード、ケンブリッジといったエリートのホモセクシャル秘密結社的コミュニティ、ヴィスコンティのナチス、ハックスレ―とイシャウッド、あるいは二ールキャサディ、ギンズバーグ、バロウズといったビートニクスのアメリカ西海岸、「マイフェアレディ」のジョージ・キューカーや二枚目俳優ケリーグラントのハリウッド、そしてグリニッジヴィレッジとハーレムの狂騒に至るまで華麗で目もくらむばかりの豪華さで描かれています。ホモセクシャルの知的で華やかな狂騒の歴史、もうひとつのファニーでクレイジーな交流史、第3の歴史という意味で、きらめきがまばゆく、とても魅力的な本だと思いました。
本筋からはすこし離れますが個人的にはネイティブ・アメリカンの部族の第三のジェンダー<二つの魂>の逸話が興味深かった。以下に長く引用してみます☆
「「第三のジェンダー」として興味深いのはネイティブ・アメリカンの部族にあらわれる<ベルダ―シュ>である。この語は植民地時代の蔑称なので、今は、<二つの魂を持つもの>とか<マン・ウーマン><男女>と呼ばれる。かつて同性愛は、性的な意味でしか見られなかったが、精神的関係を評価するようになった今、<二つの魂>というのはなかなかいい名ではないかと思う。
<二つの魂>の多くは男であるが、女もいくらかいる。アメリカに渡った宣教師たちは、ネイティブ・アメリカンの部族の中に、女装して、女の仕事をしている男を見ておどろいた。女装の男たちは、部族の最高会議で助言者の役を務め、重大な決定は彼の意見を聞く。占い師、預言者、語り部、ヒーラー(治療師)でもある。
ズ―二ー族にウィ―ワという<二つの魂>がいた。彼はネイティブ・アメリカンの識者として白人にも認められ、ワシントンの上流社会に受け入れられ、<インディアン プリンセス>として人気があった。1886年、<二つの魂>としてはじめてアメリカ大統領と握手をした。ウィ―ワのおかげで、ズ―二ー族はアメリカ人と友好的な関係を持った。」(P30)
まだ世界がこんなに発達する以前、民族や部族の世界のころの、性的なものにたいする「おおらかな」、ひとつの特色をみるように思います。
☆「男」と「女」の分類は「近代」の思考-「好き」は「嫌い」で「嫌い」は「好き」-性をめぐる複雑さ
海野氏は本書の冒頭で現在のように性が「男」と「女」にわかれるようになったのは、欧米では、18世紀の生物学の発達以降であり、新しく、まだわからないことも多いと述べています。「男」と「女」はYES・NOではなく、その曖昧な領域もおおい。
さらにキーン氏のところで見たように、文化や社会における言葉としてのパラドクスもあります。このパラドクスこそ、「同性愛」をめぐる複雑な感情を要約しているようにさえ見えます。
以下に海野氏の言葉で引用してみましょう。
「(欧米で)男と女を対立させる考え方は近代のものらしい。それ以前は、人間は一元的に、男を中心として考えられてきた。男と女を対立させたことは、女性を差別したと見られているが、女性の存在を独立させたと考えることもできる。男は外で活動し、女は家で子どもを育てるという分担は差別的であるかもしれないが、ともかく女を分離した。女性はひとつのまとまりとして自分たちを見るようになり、社会的位置への不満を意識するようになった。わけられなければ意識も目覚めなかっただろう。女性のアイデンティティが問題になってくる。
一方、男も女を分離したがために、逆に男性のアイデンティティ、男らしさを意識するようになった。男は、女に対して<男らしさ>を見せねばという強迫観念にとりつかれるようになった。
エリザベート・バダンテール「XY-男とはなにか」(1997)によると<男らしさ>は二次的なもので、後からつくられる。なぜかといえば、男は女から生まれ、女に育てられるからである。男の子は生まれてしばらく、母親の女性的な愛に包まれていて、男になるためには、そこから脱出しなければならない。<男らしさ>というのは、母親という女性にたいする自衛手段である。
「それは女性に対する恐れであり、優しいとか、受け身だとか、よく気がつくとか、どんな形でも女っぽいといわれることに対する恐れである。それにもちろん男性の欲望の対象になることも恐い。」
その結果<男らしさ>を強調し、男の友情を求めるが、同性愛を嫌悪するという矛盾した態度をとることになる。これはかなり複雑な関係で、男の同性愛の嫌悪の底にはしばしば女嫌いがひそんでいる。女っぽいやつを嫌悪し、男らしさを強調する。しかし、男らしさが好きなら、それこそ同性愛なのではないだろうか。
しばしば、同性愛を異常なほど憎む男こそ、同性愛であるということが起こる。たとえば、アーネスト・ヘミングウェイは<男らしさ>に固執したが、ひそかに同性愛にひかれていた。」(P13)
以上長い引用でしたが、近代で性を社会的記号として、2つにわけてしまって、それを処理してしまうことが、性をめぐる(幼児や未成年もおそらくは似たところがあるでしょうけれども)複雑な感情をよびさましているかのようです。
近代以降、わたしたちはある種の「禁止」のなかを生きています。この「禁止」とそれが生む「抑圧」は時として個人にそれを「破りたい」(自由への憧憬)への魅惑にかわる。「同性愛」のみならず、芸能やアダルトビデオ、やくざや暴力を含めて、「禁止」は逆にそのものの価値を高めます。「禁止」とそれによって付加された価値を「破ること」(自由への憧憬)の永遠のパラドクスにわたしたちはひかれつづけているようでもありますよね。
☆渋沢龍彦著「幸福は永遠に女性だけのものだ」―「男」と「女」の違い
とはいえ、「男」と「女」という分類がまったく不全で機能しないかというとそんなこともないですよね。それは近代以降という社会システムに生きている以上、「男」という塊、「女」という塊で、役割を別にしてきただけに、そのあいだにさまざまな違いも形作られてきました。
たとえば、「男」と「女」はべつの生き物である―という意見はそういった違いを背景にしています。
渋沢氏は本著のなかで、さまざまな「性の差異」を探求しています。「同性愛」や「少年愛」「異性愛」、「サディズム」、「マゾヒズム」、などなど。さながら「性の百科全書」といったところかな。にもかかわらず、この本の基底音として流れているのは、レトロな昭和的「男」と「女」の風景のようにも見えます。
たわむれにすこし面白いところを引用してみます。「CLITORIS」の章ではクリトリスの歴史を描いています。でもこの描き方がやっぱり「昭和っぽい」んですよね。三島由紀夫もそうだけど、こういった昭和っぽさって、なんだかノスタルジックで可愛いなぁ~と、妙な古さと郷愁を誘います。(おうおうにして、三島や渋沢はなにやら「高い」ものとされていますが、じっさいのところ、触れてみて気がつくのは、そのいささかならぬ気負いとヒッチコックさながらの暗喩的「形式の古さ」じゃあないかなぁ~(笑)、「昭和のおじちゃま」っぽいですね。これと好対照なのが村上春樹です)
「ベットのなかで、親しい女性のデルタ地帯を指先で愛撫しながら、「ほら、ここに帽子をかぶった可愛い子ちゃんがいるよ。ちょっと帽子をぬがせてあげようか」
「いやよ。そんなにひっぱっちゃ・・・・・」
こんな会話を交わした経験が、私には何度かあったような気がする。相手はだれだったか、もうすっかり忘れてしまったが、一人や二人でないことだけは確かである。
「帽子をかぶった可愛い子ちゃん」は、その名をクリトリス嬢という。小さな宝石のような、ボタンのような、木苺の実のような、まったく可愛らしい女の子で、その名の通り、指先ふれるとクリクリ動くのだ。」(P71)
ここからギリシア神話へ話はとび、ギリシア神話の小人族の娘「クリトレイス嬢」と蟻の話へ移ります。神話では、クリトリスは「クリトレイス嬢」という小人のお嬢様だったらしい。そして、クリトリス感覚と蟻の蟻走感は近いものだったと述べられます。
この「クリトレイス嬢」はいつもは帽子をかぶているんだけど、「いつも」ってわけじゃない。情熱的になると、思い切ってぱっと帽子を脱ぎすてて、情熱をあらわにします。嬢の情熱的な態度(「クリトリス的態度」)は主に女性の快楽を疎んじるキリストやアラブ世界では軽蔑の対象だったらしい。そして初期精神分析においては、「幼児的快楽」としてさげすまれたようです。
現代からみると、多くの雑誌やアダルトビデオなどで、ゆがめられた男性中心主義から復権された「クリトリス的快楽」を謳歌している女性でいっぱいです(笑)っていうか、これって「クリトリス的時代」だよね☆
逆に言うと、現代とは女性が女性としてこれまで隠すものとされ、アラブ世界では切除さえされていた「クリトリス的快楽」を表現する時代なのだと思います。今までは女性は男性的な権力のもとで「快楽」をあらわしてはいけなかった。つまり、「慎ましくない」と思われていたからです。でも現代ではたくさん表現するようになった。
と同時に、そういった表現一般は女性の「快楽」はなぜ禁じられていたのか?、そして女性の「快楽表現が切り拓くミライのありかた」とはなにか―と考える試金石にもなっているように思います。
さて、たわむれはこれぐらいで話をもどしましょう。
渋沢氏は本著の「幸福は永遠に女だけのものだ」の章のなかで、「男性」と「女性」の違いをさまざまにあらわします。いわく女の幸福には「教養」はまったく関係ない。音楽家には女性はいない。女性は抽象思考ができない。男性原理と女性原理。たしかにそういわれてみれば、そうかもしれませんが、あまりミライ的じゃあないような気もするし、教養に偏りすぎているんじゃないかしらん(笑)。個人的には女性原理にだって、女性にしか気づかない世界があるし、それは別の世界を切り拓くようにも思いますが。
さいごに渋沢氏の男と女の差異を男性原理から解釈した一文を引用することで終わろうと思います。
「女の幸福とはいうが、男の幸福とはあまり言わない。男は本質的に恥ずかしがり屋なのである。「男の生きがい」とは言う。これなら男らしくて立派だ。生きがいとは、たぶんに効用的な考え方であって、少しぐらい苦しくても、自分の意志で無理して幸福だと信じ込む。
―(中略)―
つまり、男の幸福にはゾルレン(意志)の要素が強く、女の幸福はザイン(存在)そのものだというわけである。女に生まれたということが、女の幸福の第一歩なのである。
―(中略)―
女が男のまねをして、ゾルレンの生き方をしようとする場合がある。それもおおいに結構だが、そのためには花も嵐もふみこえて、女性的原理を捨て去る覚悟が必要であろう。女性的原理とは幸福そのものであるから、幸福を捨ててまでも、ある生き方なり観念なりに殉じようとする覚悟である。矛盾するようだが、ちっぽけな幸福を蹴散らしてまで、ある観念に殉じようとすることが、そもそも男性的原理としての幸福だということである。」(P164)
☆結論
ま、けっきょく、どうなのかはよくわかんねっすけど、いろいろあるんすねぇ、あははは(笑)]]>
見出された時たちに 其の五
http://tomo0032.exblog.jp/11962520/
2011-01-21T10:08:00+09:00
2011-01-21T10:09:18+09:00
2011-01-21T10:08:35+09:00
tomozumi0032
見出された時たちに
だが―実際、とれなどしなかった。ふたりがつきあっていたあいだ、長尾ミグの成績は下へさがり、それに比例するように、神谷リサの成績も下へさがった。「リサちゃん もうすこし勉強しなさいよ!」両親にも友人にもいわれたが、神谷リサはすこしも聞く耳をもたなかった。「マジですっげぇしてるわ!―学校だけじゃなくて、科目だけじゃなくて、生きることのお勉強―愛のお勉強とか、言葉のお勉強とか、そんなことを、さ―」と股間をいじり、陰毛を抜き、抜けた陰毛をふっと吹き飛ばしながら答えるだけだった。長尾ミグと神谷リサは「股間の不等式」を学びあった。「精液と愛液の修辞学」を教えあい、「エヴィアンなラヴジュースとカルピスのスペルマのディベート」をじょじょに覚えていった。それは楽しく魅惑的な課外授業だった。酸っぱいが甘く、やわらかいがかたかった。珠をむすぶ汗が全身から噴き、ぬるぬるの身をよじり、さわやかさとべたべたさ、快楽と不快とが光と影のたわむれのように交錯した。神谷 リサはその授業のなかで、快楽が不快を前提としていること、「超気持ちいい」は「超気持ち悪い」を前提としていることを学んだ。エクスタシーや快楽はあやうく、不安定なものであり、あやうく不安定であればあるほどに、なおひときわ激しく燃えさかるものなのだ。快楽は嫌悪感―つまり、自分がいやだったり、気持ちがわるかったり、くるしいかったりすることを糧にして、人工ホログラムのように鮮明だが、どこか儚く、実体なく、さかんに投射されては、はげしく燃えさかるのだった。《セックスの舞台では「きれいはきたなく、きたないはきれい」なんだ》―と、神谷リサはまたマクベスの一節をくりかえし思った。でも、自分がほんとうに好きな瞬間は、そういった生き物として、裸の♂(おす)♀(めす)の液体を搾り合うテクノロジカルで快楽的な性愛の行為そのものよりも、セックスが終わったあとで長尾ミグの腕の中にくるまれて、彼のはなしてくれるさまざまな物語に聴き入ることなのだということに気づきはじめた。長尾ミグはさまざまな物語をはなした。自分のこと、人のこと、昨日のこと、今日のこと、明日のこと、楽しかったことや辛かったこと、哀しかったこと、自分のよろこびや悲しみ、なにがうれしく、なにが哀しかったのか、自分がなにを美しいと感じ、なにを美しくないと感じるのか、よろこびと哀しみ、希望と絶望―を包み隠さずに、心の底からありのまま、耳もとで囁かれると、神谷リサの心は夢見ごこちをふわふわ漂うのだった。長尾ミグのはなしはカラフルで魅惑的だった。時に生物進化の歴史をうそぶいて、輪廻転生のそれだったことをもの語った。むかしむかし、大昔の隕石に乗って宇宙を放浪する生命の彷徨い、地球に落ちて増殖をはじめたプランクトンだった頃の自分をまことしやかに語った。そのころ、生きとし生けるものたちのセックスはひとつで、生き物は自己分裂によって自己増殖した。それから、セックスが分化し、オスメスの区別とその交わりによって増殖するようになったこと、快楽は他者によってもたらされるようになった、時代はすすんで生命フォルムの分化の大爆発、生命が多様なフォルムを結び、それをおもいおもいに表現するようになったこと、地を這いずりまわるゴキブリだったこと、ダニの苦悩、銀蝿の尻のメタリックに熟れた悩ましい美しさに恋したこと、魚類の群生物語、恐竜支配におびえ、明日も知れぬまま、必死でその日を暮らす哺乳類だったこと、手をはじめてつかえるようになったAPEのじんわりとした悦び、人間という「種」の進化、生命連鎖の頂点の君臨と驕り、宇宙人との遭遇、大陸を放浪するアフリカ人、やがて国家の礎を築いたメソポタミア人、ローマ帝国、金で売買された黒人奴隷の憂鬱、人間という虫けらだったこと、五石散という合成麻薬を呑みふけり、女装して空騒ぎする中国人書家たちだったこと、ナスカの太陽王、スペイン帝国の軍人として、正義感にもえ、キリスト的使命に死んだこと。産業革命とフランス革命の人類史的な爆発、ヨーロッパの台頭、東洋的停滞と揶揄された阿片戦争時、国の滅びるのを笑って阿片窟でオピウムの恍惚におぼれて死んだ中国宦官の物語、大正ロマンチシズムに酔う日本のハイカラ女性で詩を詠み、色恋沙汰に身も狂わんばかりに興じたこと。民主国家アメリカと共産主義国家ソ連の東西にわかれた冷戦、膨大な核兵器の製造、核テクノロジーの生み出す「人類皆殺し」の冷たさ、人類は誰もみな平等にこれから殺されることができるものとして生存していること、あるいは人類は誰もみな平等に生存を担保に入れられていること、つまり核抑止による管理プログラムとしての生、そののち、西側、資本主義陣営の勝利とその結果、統制を欠いてますます複雑で不安定にナショナリティーを主張する国々の争い、アメリカの衰退、ヨーロッパの通貨統合、中国とロシアの台頭と逼迫する資源と辺境の抑圧、地球環境の問題、多様で複雑に織りあげられ、それだからこそ不安定に揺らぐ価値観、あやうい不安定さの中で結ばれる快楽はデジタルエクスタシーのちいさな小爆発となって、人々を支配していること……そして、今、こうやってここにいること……ロシアの作家のように、物質文明における精神文化の貧しさを長尾ミグは哀しんだ。長尾ミグによれば、世界は相対であり、どれがいいとも悪いともいえず、命の価値はあくまでその時代の価値というあやふやな価値の体系によって、定義づけられているにすぎない。人間はおおきな逆説を孕んで生きており、その逆説は時に人間をおびやかすものだ。価値はひとつではない!―と長尾ミグは力強く、自信たっぷりに言い切ってみせるのだった。逆に神谷リサが長尾ミグを腕の中にくるんでやり、話をすることもあった。たあいもないこと、傷ついたこと、自分の命の価値への疑い、この世界の美しさ、光と影のコントラスト、フラットな中間地帯―グレーゾーンのメタリックな輝き、遠近法、近いものと遠いものの関係などを長尾ミグほど上手ではなかったが、身振り手振りをまじえて、精一杯話した。いままで使ったことのない言葉の使い方で、それは不思議な効果をもたらすものだった。不思議な事に言葉は神谷リサの心を癒した。言葉のなかで現実世界は言葉へとおきかえられ、もうひとつの世界となった。そしてそこにいる自分を発見して、癒された。《言葉の現実こそが自分の生きている世界なのだ》―と神谷リサは思うのだった。
☆
長尾ミグはそのうち学校へゆかなくなった。
ヤドカリのように、部屋に引きこもり、閉じこもったまま、部屋から一歩もでなくなった。教師も長尾の両親も「困った困った」といって、あれこれと策を弄したが、長尾ミグの心に届くことはなかった。届くはずもなかった。長尾ミグは心の底で教師や両親の低脳さと社会を軽蔑していたからだ。「単細胞生物ども!」と長尾ミグは彼らを称した。そして神谷リサに向かって、こんな低脳で幼稚な社会に生きなければいけない自分の哀しさを切々と説いた。その頃から長尾ミグはさかんに「生まれる場所を間違えた」というようになった。「こんな「退屈」な―こんな「期待」と「不安」に宙吊り」にされた―こんな「Mッ気」たっぷりの―こんな「平凡」で―こんな「単細胞生物」の―こんな「自己分裂」と「自己増殖」な―こんな「大国によって核管理」された―こんな「情報を解釈することによって成り立つ大衆管理社会」の―こんな「平和に腐った人々たち」へと身を躍らせることは苦痛でしかないんだ、ぼくには…」と長尾ミグはそう言った。それから熱をこめて、「こんな「社会」には生きる価値なんて、すこしもない!」と結論づけて言い切った。神谷リサがどんなに「そんなことはないわ!おいしいものだって食べられるし、気持ちいいセックスだってできるじゃない!むかしの貴族よりもっと巧みなお洒落もできるし、アニメだって、映画だってロックだってあるわ!」といってもムダだった。長尾ミグは暗い目で「神谷、わかってないな、快楽はぼくの問題じゃないんだよ…」と遠く呟くばかりだった。そうして、毒ムカデに噛まれたように彼は孤独に引きこもり、閉じこもって、机に齧りついては、数学による宇宙の解明にいそしんでいた。ある時―「長尾さぁ…それにしても、管理されていたほうが楽じゃない?なんでそんな苦しくて大変なことをやりたがるの?自分を捨てて、おおきなシステムに身を任せて、いうことをきいてたほうが楽に生きられるわよ きっと―」と神谷リサは見かねて長尾ミグにアドバイスをした。だが、長尾ミグは「けっ 生の堕落だね!」と声を張り上げて答えた。「いいじゃん!堕落だって―みんな堕落んなか生きてんじゃん!しょせんそんなもんじゃんか ぼくもきみも、人間なんて―まじ」「や―だね。つか―ん、なのなら…死んだほうがよっぽどましだし…」あごをふんと突き上げる長尾ミグはかたくなだった。それから神谷リサは微妙な軽蔑の視線を日々感じるようになった。それは男が女に対する潜在的な軽蔑のたいがいを含んだ軽蔑―つまり女という性そのものへの軽蔑、生命への軽蔑、体への軽蔑、形而上ではなくて形而下への軽蔑…やがて、そんな長尾ミグといつも一緒にいる神谷リサが気づいたことは、長尾ミグは言葉の両義的で曖昧な詩情を頭で受け入れながらも、体では好まないということだった。長尾ミグの体の快楽と好みはなんといっても明晰さだった。神谷リサには長尾ミグがそれに囚われすぎているように見える。長尾ミグにとって、問いはひとつの答えとして、明らかに表現されなければならなかった。そうでなければ、表現されないも同様なのだった。もっとも、そうしなければ、長尾ミグは自分が自分でなくなってしまうように思っていて、時々、そう思いこんでいるだけのように神谷リサには見えてしまう。神谷リサは部屋から帰るとき、長尾ミグの背中を見た。それは小さく見えた。子供のようだった。それは神谷リサの脳裏に、子供ががんばって、強がって、自立した自分であろうとしている「哀しい背中」として焼きつくのだった。
☆
「ちょっとした心の変化―なんだけどなぁ~…もう少し自分が自分でなくなることを覚えればいいのになぁ~…」
自分の部屋へ帰って、ひとり、頬杖をついて、長方形の窓から、闇に揺る梢のざわめきをみつめ、溜め息にまじりに言葉をついた。神谷リサの不満は長尾ミグの人をよせつけない孤独だった。心の奥で彼のことを「不幸な男」だと思う。そして彼を愛した自分は「不幸な女」だとも―。神谷リサは自分を明け渡すことをいとわないが、長尾ミグはけして誰にも自分を明け渡すことができない心の場所を大切に守っている。それが神谷リサにはよくわからない。体のレベルでどんなに接近してみても、唇を重ね、股間をこすりつけ合い、快楽に身をなぶり、体液と体液とを混ぜ合わせてみても、彼がその場所を明け渡してくれない限り、やっぱり二人はひとつにはなれない。《「男と女」ってそんなものなのかしら?―孤独はけして癒されることがなく、恋や愛は束の間の幻想として見えるだけのお芝居にすぎないものなのかしら?―》そう思うと神谷リサはさびしかった。癒されがたい自らの存在を思ったからだ。そうしてもう少しあとになって、もう少し経験を重ねてみた後で、神谷リサは長尾ミグの「哀しい背中」に囚われている自分自身をほろ苦い思いで見つけて、自虐的にそれに酔うのだった。その時―神谷リサは、自分が生きるということの中には、けして誰とも分け合えない心の場所があるのだということを体で理解した。それは痛くて辛いことだったが、長尾ミグというフィルターを通さなければ、生涯、理解することのできなかったものかもしれなかった。自分は甘いキャンディばかりに酔いしれた子供から苦味や妙味のわかる大人になったんだ―とすこしの間だけ考えたが、それも束の間のことですぐにまた子供にもどってしまう。それは、社会や文化が「まだ子供でいなさい」、「大人になんてなるもんじゃありません」とみんなでよってたかって言っているようなものだったからだ。「大人」は人々が「子供」であることを担保にして、良識を組み立てているようなものだった。「ちェッ!社会ってやつァ!ほんと 糞…ばか、ガキ、みんな死ね、ファック…」―と、神谷リサは頬杖をついたまま、苦々しい思いで、社会をファックよばわりするのだった。それでも反面では、ずっと神谷リサは子供でいることにとどまっていたい、みんなと一緒にいたい、ラブリーでスィートでキュートでチャーミングな自分でいたい、みんなに愛されたいという願望も捨てきれなかった。結局、神谷リサはその二つのあいだで引き裂かれ、その時々の空気にあう自分の心を選択し、自分を演じわけて見せるのだった。
其の六へつづく☆]]>
見出された時たちに 其の四
http://tomo0032.exblog.jp/11767047/
2010-12-23T12:18:00+09:00
2011-01-21T10:10:18+09:00
2010-12-23T12:18:24+09:00
tomozumi0032
見出された時たちに
―神谷 リサは祈るような気持ちでねがいをくりかえした。だが、物理的な次元の問題として、時間がとまるはずもなかった。ながれゆく時間は長尾ミグと神谷リサの唇を重ね、甘酸っぱい感触を現実に召還させてみせた。1度かさなった唇は2度、3度と回をまし、そのたびごとに深まると、心を甘くこわし、自分というものをなりたたせる言葉の基礎構造―そこに結ばれた言葉のリボンをやさしくほどいて見せた。その時、神谷リサは長尾 ミグの瞳をのぞきこんで、その奥にぎらりとひらめく欲望のレーザービームを見た。そしてそれが自分のハートを射抜くのがわかった。からだの物理反応がうれしかった。頭を長尾 ミグのおなかのあいだにたおすと、後頭部に「こつり」―と、なにか固いものがあたった。それは神谷リサにからだにはないものだった。感覚知覚の次元において、神谷リサの知覚はおしなべて、やわらかさの知覚でできていたから、その「こつり」と固い知覚は性のちがい、性差―セックス以外のなにものでもなかった。柔らかさと固さ―相反するものの相互作用。熱っぽくのぞきこむ長尾ミグの瞳のずっと奥底に神谷リサは「恋の不等式」を見た。神谷リサの心は、頭のうしろにあたる長尾ミグの固い部分と接吻の魔力に身も心もとろとろにとろけてしまっていた。やがて耳元に唇をよせて、長尾ミグは神谷リサがながいあいだ待ちわびていた、決定的な一言をささやいた時、《YES!》―と、そう神谷リサは思うのだった。「神谷 だいすき…」みじかく甘い声で、長尾 ミグはささやく。その神谷リサにとって、意外な、だけれども熱っぽい言葉を感じやすい耳から、からだの中へぎゅっと押し込められると、神谷リサの心は「ぱん!」とかわいた音をたてて弾けとんだ。瞬間、神谷リサは心が愛の流星群となって、7色の光とともに時雨れてゆくのが見えた。それは甘酸っぱく、彼女の心をくすぐった。神谷リサはくすくす笑い転げながら、まといきれないほどの幸せのチャームを纏って、長尾ミグの心がわりをつついた。「…でも ぼく3次元の人よ、長尾ってさ、2次元の人じゃなきゃイヤって、そういっていたわよね、たしか―」たしかに長尾ミグの心がわりは沈黙がもたらしたものだった。心ほだされるおだやかで、ふたり共有される時間がすぎ、時から時をわたって、すこしづつふたりを隔てていた距離は消えた。からだと心の距離が近づいてゆけば、頭と頭の距離はそれほどおおきなものではなかったのである。長尾ミグはなんにも言わずに、顔を赤くし、口を尖らせてから、ぶぅ!―と唾を飛ばした。複雑ななんともいえないような顔をして、目をほそめ、横目で神谷リサを見た。《長尾ってなんて可愛いいのかしら、身も体もとろけそうね》―と、神谷リサは自分にむかって言う。それから、しばらくのあいだ、心が熱にバターのようにとけて、なにもかもがどうでもよくなった。《時の流れに身をまかせ、彼といっしょにいる時間をからだの細胞すべてを総動員して楽しもう》―しばらくだけ、神谷リサは思うのだった。《自分は長尾 ミグの掌に堕ちるんだなぁ~…、快楽に殺されんだなぁ~》―そうダイレクトに感じながらも、神谷リサの意識は墜ちゆくそのスピードを愉しみ、官能の熱に悦び、そのスピードと熱を頭のなかで分離させ、架空の舞台をあたえて対象ABと名づけ、それを展開させてみるのだった。そこで抽出された快楽は具体的になにをするのかという次元でのあれこれを問わず、おなじようなものなのだった。そうやって、墜落する自分の堕天使の悦びを、細胞がひくつくような、本能がインストールされたプログラムさながらに駆けてゆくよろこびを、神谷リサはただ冷静にみまもった。ジッパーを下げる金属音がして、長尾 ミグは固くなったペニスをジッパーの間から、あわただしくつたない指の動きで、ぺろん―ととりだす。金属の歯のようなジッパーのきらめきが順をおってひるがえり、規則的に目を刺してゆく。ペニスはジッパーの歯のむれ、股間という口からとりだされたもうひとつの舌めくのだった。だが、それは舌にくらべると、より人工的に見えた。それはなんだか、アニメのフィギュアの肉のかけらのよう見えてしまって、現実感がなかった。だいたい快楽というものは人工的なものだ―だから、「リアル」な肉のかけらが「ヴァーチャル」なフィギュアに見えちゃうのもしょうがないようにも思う。「なに それ?」「え?…あ、うん。かたくなっちゃった これ―やわらかくしてくれない?」のぼりくる熱にすっかり溶かされて、切なく啼くような、すぐに消え入ってしまいそうな長尾 ミグの声がした。《こいつ いきなり「フェラチオ」かよ》―と、胸内で呟いて、長尾ミグをのぞきこんだ。長尾 ミグは甘えるような媚態をつくっていた。「…長尾 キミってさぁ…女みたいなんだね―」神谷リサはいいながら、ペニスをしとやかに握りしめたその後で、唇をひらいて、そのあいだにペニスをすべりこませると、つたないしぐさで、それをしゃぶった。あ―と長尾 ミグは声ならぬ声を洩らし、後ろへ首をのけぞらし、体をそらしながらも、手を神谷リサのワイシャツのあいだにさしいれ、ブラジャーから乳房をむきだした。すぐにふたりは、座っていられなくなってしまった。それで、やんわりと抱きしめあって、ガードレールのしたに転がり落ちて、そのまま「ころころ」、ニッコウキスゲの花畑までいたると、緊張の反動からか、ふたり、おでこをくっつけて、おおきな声でくすくす笑いあった。おっぱいとおちんちんがひょっこりと出ていた。それを見ると、なんだかよくわからなかったが、意味もなくおかしかった。はだかや、自分がずっと自分のものとして隠し持っている性器が、実はおかしなもので、セックス―性差そのものって、なんだかとってもおかしなものなのかもしれない―と神谷リサはそう思うのだった。同時に、人の裸、ペニス、おっぱい、それに陰毛やおまんこ―どうしてふだん人はそれをなにかやましいもののように、隠して生きていなければならないのだろう?―と、社会の逆説を思った。社会は自分のはだかを禁じることでなりたっている。はだかはスキャンダラスなのだ。でも―どうして、自分が自分の身体をもっているという当たり前のことがスキャンダラスになるんだろう?どうして、社会は自分は自分を裸であってはいけないものとして禁止するんだろう?自分が自分のはだかを否定することによって、子供は大人になるとでもいうのだろうか?神谷リサは言った。
「ねぇ 長尾、愛とか恋とかってなんだかおかしいわよね。ほんとは、はだか、つまり性差―セックスだって、なんだか、おかしくて、笑っちゃうものだと思うんだけれど―」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
はりだした太平洋高気圧にすっぽりとおおわれて、青空からおおきな積乱雲が見おろし、よどみない風が駆け、草いきれをさらい、咲き乱れるニッコウキスゲの重たげなこうべたちをいっせいに揺らしてゆく。淡い花の香がただよい、風にのって鼻さきをうって、それから青空へ溶けて消えていった―重なった影を揺らして、もういちど、神谷リサはくすくす笑い転げた。それから、二人は花畑にころがったまま、積乱雲をながめて、たあいもないことに言葉をからませて、空中にほおりなげた。「長尾って―長尾のちんぽって、まだ固いまま?」「まだ すこしだけ、ね。でも、もう、しゃぶらなくってもいいよー」「ねぇ なんで、ちんぽってそんなオモチャみたいなフォルムしてるのよ?―正直、変ね、きもちわるいし―だいたい、グロテスクよ、それ。まぁ おんなのおまんこもグロイけど―ね。ねぇ 長尾、人間のからだって、どうしてちゃんとしたカタチじゃないの?ときどき思うわ。にんげん、もう少しマシなものつけて進化してくれればよかったのにな―って。考えてみれば変なの―おかしいのよ。指が5本であることも、足が2本であることも、頭がひとつであることも、目が2つであることも、耳がこんなこんがらがったかたちであることも、ちんぽやまんこがこんな未発達で太古の海洋生物の痕跡をとどめたフォルムにいまだ甘んじていることも―ぜんぶ変よ、それでいて変なくせに、変じゃないと思いこんでる」
「うん―でも、それだから文明や男女のあいだのパラドックスが発達したんだろ。文化や文明の歴史っていうのは、そのほとんどが変なことを変ではないって証明する―その「結論なき過程」みたいなもんだろ―」「さすが、ご名答。じゃあ…ドクターホーキンスみたいに、それ、数学的に数式で証明してみせてよ―できるでしょ 長尾、キミ あたまいいから―」「それは、難しい難問で、僕にはできないなぁ…」「お願い してみせて。「だいすき」っていったボクのために、ねぇ おねがいだから―」「ちんぽの数式?まんこの方程式?―できるわけないじゃんかよ」
「なんでよ じゃあ「フェラチオの不等式」ってのはどうかしら?これって関係性を扱うし、大なり小なりの記号がしゃぶる口だと仮定してみるとか―けっこうイケんじゃない?」「それつくってどうするの?」「先生に見せてみたら?テストの時、テストの答案用紙のすみに書き入れてみるとか―ちんぽのカタチに数字で描くとかやって」「それでいい点とれるのかなぁ」「とれるわよ、きっとー」
神谷リサは自信まんまんに答えた。
其の五へつづく―]]>
見出された時たちに 其の三
http://tomo0032.exblog.jp/11675556/
2010-12-08T01:11:00+09:00
2010-12-23T12:24:26+09:00
2010-12-08T01:11:28+09:00
tomozumi0032
見出された時たちに
☆
高校で、神谷リサは超痛く、ハイパー切ない恋に落ちた。菜の花が黄色い絨緞を風景に刺繍し、数え切れないつくしたちが顔をだし、桜が咲き乱れ、黄金虫が金属質な体躯をきらめかせ、ひらひらと蝶たちがたわむれ、くっついたり離れたりしながら、花の蜜をながく渦巻く嘴で吸い上げていた。相手は入っていた「詩吟クラブ」で一緒にクラブ活動をしていた「長尾ミグ」という男だった。甘えん坊でハンサム、綺麗な曲線をくねらせる鳳凰眼、髪が長く、声がよくスピーチで人を酔わせることができ、オーバーサイズのワイシャツをダボダボにたらして着こなした灰色の制服がよく似合う男だった。長い髪をかきあげるときに、その髪をすいて、エロティックに上目づかいで見上げる癖があった。ひょろりとして背が高く、いつもいるのか、いないのかわからなくなるぐらい激しく点滅して見え、鼈甲の洒落たマルめがねをかけ、力強く優しい声で文章を朗読をするのが好きだった。みながいうように、長尾ミグはどこか気難しく、とりつきにくかった。ほとんど誰ともまじわろうとはせず、いつも一人で思案にくれたり、クラスメートどころか日本人がだれひとりとして読んでいないような本を読んだり、ぽかん―とゆき過ぎるままの雲をながめたり、授業中だというのに校舎の片すみで眠りこけたりしていた。彼はクラスのだれより物知りだった。先生をバカにし、ときどき議論をふっかけて対立し、はげしく討論し、そして最後に言葉でやりこめてしまうので、いやいや まいったなぁ―といわれながら教師から敬遠されるのだった。「こんな低脳でつまらないことにつきあってらんねぇ!」―と両手と中指を突き出して、シュプレヒコールを挙げ、教師にむかって固く舌を突き出してみせたが、そのくせ授業にだけはやってきて、テストでよい点をとるのだった。クラスメートは「まったくよくわがんねぇヤツだんべ」―と、彼を称していった。「詩吟クラブ」では、大正の大詩人の妖しい詩や南米のシュールレアリストの詩、それに自作の実験的で断片的な詩をなにかにとりつかれたように真剣に読み上げて、クラブのみんなをびっくり酔わせた。そんなとき、長尾ミグは学校で見せるどんな表情よりも生き生きとしていて、楽しげにかがやいて見せ、神谷リサのいたいけな心を刺激的にくすぐるのだった。「詩吟クラブ」の女子は「あの人なんだかよくわかんねぇ、むっつかしい本ばっかり読みふけっとって、それなのによ、それが楽しいようだからざ、リサちゃんにはぴったしそうだな」―といって、無邪気にはやし立てた。それからなんとなく意識するようになった。意識ははじめ、もやりたつただの熱にすぎなかったが、時がくりかえされて、すこしづつ凝縮され、純度をあげ、結晶されてゆくにしたがって、きらきらとまばゆい輝きの感情をひきおこすようになった。心がときめき、胸がきらきらした。神谷リサは、もしかすると、これが「恋」ってものなのかしらん、もしかして―と自問自答して、感情を名づけようとしたが、すぐにあわてて、これは「恋」じゃないわね こんなのって―と打ち消した。だが、わだまる熱そのものまでは打ち消すことはできなかった。それは心の底にふいに生まれて、すこしづつフォルムをかえ、熱をおびてゆく宝石の原石とその純化プロセスのようだったが、まだ自分で自分の変化をきちんと受けとめることのできない少女の心は見るたびごとに表情をかえ、不安と戸惑いを不純にはらんだ、精錬されることのないその原石を持ちあぐね、名づけあぐねるのだった。実際のところ、神谷リサの頭はピンク色でいっぱいに、目はおもわずハートマークに、心は原石の放つ粗熱でいっぱいになってしまうことがおおくなっていた。熱は心をとろかして、こぼれおち、あふれ、たぎるととめどもなかった。それで―おもわず、神谷リサは挙動不審になった。とるにたりない些細なことであたふた戸惑った。ふらふら幻に魅かれて自分でもよくわからない行動をとった。電信柱によく頭をぶつけるようになって、電信柱に「すんません!もうしませんから―」と謝った。なにをするのもうわの空だった。これまで、す―と耳にはいった親の声も、ほんとうはなんでもないような女友達のカラ騒ぎも、コカコーラの炭酸の泡のように刺激的なロックの歌詞も神谷リサの心をすり抜けていってしまった。そんな状態におちいってみて、ようやく神谷リサはこれが「恋」だということを、自分は「恋わずらい」にかかってしまったことを―しぶしぶながらも、認めるのだった。いちど認めると、これまで悩まされてきた葛藤がきえ、すっとした。素直に《ずっとずっと今の「まんま」、ずっとずっとこんな風に恋する「まんま」でいれたらいいのいなぁ―》と浮きおどるような足取りで、ふわふわ、ふらふら思った。生活に変化があらわれた。迷い、とまどい、逡巡して、自分を不確かであやふやなものだと思うようになった。それまでしなかったうすい化粧をして、女の色艶をてからせ、鏡の前で笑顔をきたえ、つながっている眉毛を揺れる思いでみつめ、長いまつげをカールさせて、目を少女漫画の主人公のように星クズでうずめて、彼の前で今までの彼女のなかでいちばん綺麗にきらめく自分をいじましくよそをった。ただきらめく感情を表現してみたかったのだった。でも、反面、彼個人にたいすると、無関心で、特別な感情をいだいていない風にふる舞ってみせてしまう。クラブの朗読の時間には、なんの欲望もない、言葉と記号の世界の住民のように冷めた口調で太古の中国の詩人の詠んだ「愛の詩」を淡々と朗読してみせた。そうしながらも彼の視線に、びくり―と、とくべつ敏感に反応する自分を自分自身のうちに見出すのは、苦痛めいた快楽だった。《いつでも恋はアンヴィヴァレント、あれもこれも、両方なもんなんだもの―》と神谷リサはそうつぶやく。彼の視線の中に「ある」自分は今までの自分自身ではない全くみずしらずの自分であるように神谷リサには思われるのだった。それはなによりもミグの視界のなかに位置づけられてのことだった。だから、いくら落ち着いて冷静に考えてみても、その分身のような自分の「あり方」、そのじぶんの存在モードに恋焦がれているのか、それともミグというフィジカルな対象に恋焦がれているのか、彼という鏡を反射させることによって、そこに映っている自分の影がいとおしいのか、それともミグという男それ自体がいとおしいのか―神谷リサにはもうひとつよく理解できないのだった。ただ恋は自分が自分としていつもイメージしてきたものをいとも脆く、いとも簡単に、壊してしまうものなのだ―ということを踊るような気持ちで実感した。
《…そっか 自分を壊すのは簡単ことなのね―それは恋の魔力のひとつなのね―》
神谷リサはその時実感とともに知るのだった。
☆
ところで、その恋は流星のきらめきに落ちた。夜になると、宇宙風に乗って周期的に流星群がやってきて、青白い星たちを惜しげなく降らせたその年の夏、神谷リサは「ラブレター」を書いて、恋する思いと乙女の愛を告げた。とにもかくにもー神谷リサはそうしなければ気がすまなかった。便箋に思いのたけをしたため、その心象風景を七色の絵にえがいた。そしてそれをコピーすると、ひとつは恋の鏡に映るイマジネーションの分身の自分自身へ、それからもうひとつは現実の長尾 ミグの正方形のゲタ箱の中へと送った。なんとはなしに自分に気がなくはないかも―という「微妙な感じ」はあった。ときおり、ふたり一緒になることがあった学校からの帰り道―タンボの脇の畦道を本や映画や音楽や現代美術の話に花を咲かせながら歩いたし、その話の結果、ある意味で単純なところのある長尾ミグという機械の「でき型」ぐらいは見通して、だいたい操作することができるように思われたからだ。《なんだか 「性のちがい」―セックスとしての女のホルモン分泌にくらべると男のホルモン分泌には単純な性質があるようね》浮き立つような思いの中でも冷静な観察眼を発揮して、神谷リサは男と女の性のちがいの磁力と恋の魔術をとき明かしてやろうとぎりぎり歯ぎしりをした。神谷リサにとって、男というセックス―それは可愛さと少しのおろかさの印象をふくんでいて、女というセックスに共鳴し、女に母性本能と母の感情をよびおこさせるものだった。恋の中であっても女であることの中にはどこかしら母の感情に似た感情があると神谷リサは感じるのだった。「愛し、愛されたい」ー《つつみ込んで、固いものを溶かしてしまいたい、そしてそれが滞ることなく機能する時、女は母になるのだろうなぁ~》―と神谷リサは吹くような自らの愛のうちにその愛の結末を予感した。母とはつつみ、溶かす無償の愛だ。現実で子供がいてもいなくても、女の愛にはどこかしら母の愛と共通項でくくれる要素があるのではないのかしら?だから、たしかにスポーツ新聞の見出しをかざり、じつはひとびとの心の奥底の暗闇のうちに揶揄され、不倫疑惑が週刊誌が涎をたらして待つ大スキャンダルとなるように、恋は盲目で愛はおろかなもの。そして人は盲目でおろかなものが好きなんだわ、恋と愛がひとびとの好奇と興味の対象にならない日がないのはそれが盲目でおろかだからー「…でも―でもねっ!―逆に肯定的にいえば、恋や愛に溺れるのは自分がおろかであることを知るためなのかもしれないじゃない―だから、あたまのいい人は愛のおろかさを知らないからバカなのよ!そしておろかであることの甘さはなんて甘いのかしら、甘い人生、LA DOLCE VITAね。おろかであることに溺れてなにが悪いって言うの!」
神谷リサは頭を垂れて、熱っぽい思いに囚われて、ぶつくさぶつくさひとり呟きながら歩くのだった。視界がせばまり、あまり前がみえていなかった。いつの間にやら、電信柱が目の前にあった。はッ!―と気づくと、時はすでに遅かった。頭が、ごッつん!―とそう言った。視界がまっ白になった。かろうじて、6歩ほど、後ろ歩きでよろめき、ぺたん―と尻餅をついた。それから目の前をさかんにとびかう蛍光色の流星群と宇宙塵のまたたきを見たが、自分の目が「☆」のかたちをしていたことには気がつかなかった。金ぴかの装飾をしたトラックが道路をすぎ、そこから垂れパンダのサングラスをかけたパンチパーマの男が顔をだして、「あぶねぇぞ ねぇちゃん ばっきゃろお!」と怒鳴っていったのがすこしづつ取り戻されてゆく視界の中にかろうじて映るのだった。
☆
神谷リサのとらえた「微妙な感じ」はおおむね、間違いはなかった。つまり、長尾 ミグは神谷リサに惹かれていたし、ほのかならない恋心を抱いていた。ラブレターを渡した次の日に呼び出した長尾ミグは「んじゃ よろしく…」といって、頬を赤らめ、両手をひろげて、まばゆそうにはにかんでみせた。それでつきあうことになった。でも、それからしばらくつきあってみて、長尾 ミグはやっぱり次男で甘えん坊で恋愛に受け身で優柔不断なのだった。いつも感情を名づけあぐね、態度をきめあぐね、愛を告げあぐねているように神谷リサには印象づけられた。いつも点滅しているように見えちゃうのは「だから」だった。本当にその気になれば、りんとした調子で恋のセリフを読み上げることだって、冷たい目くばせでいたいけな女子の恋の自爆装置を起動させることだって、女心を手玉にとって弄ぶことだって簡単にできるのに―それなのに、長尾ミグはそういった意思を露ほどもみせず、うだりあがった熱っぽい視線で活字ばかり眺めているのだ。晴れて恋が成就して、体面上は、二人の間で体や心のすみずみまでも心おきなく触れ合える関係がむすばれても、いっこうに変わる気配すらなく、長尾ミグは活字ばかりを相手にして、神谷リサの心も体も深くまさぐって、意地悪にいじくりまわしたり、奔放でイマジネーション豊かに弄んでしてみたりしないのだった。デートをしても神谷リサの体にはほとんど触れず、なにか「生臭いもの」をみるような視線で、コピーマシンの蛍光光のように上から下までパパッとスキャンするばかりなのだった。《つめたぁ~い こいつ…長尾って、なんてやつなの》―と神谷リサは感じた。同時に氷の冷たさが燃え立たせる「愛の炎」のパラドクスを思った。愛は氷で空虚に燃え立つものだ。頭ではわかった。そうかもしれない。でも、やっぱり、神谷リサのからだはついてこなかった。「もっと見て欲しいのに―もっと深く動物みたく愛して欲しいのに―もっと神谷をメチャクチャにして狂わせて欲しいのに―どうして記号を見るように神谷を見るのだろう―神谷はファッションの組み合わせなんかじゃないのに―神谷のきたなくて、はずかしいところを見て欲しいのに―服なんてどうでもいいのに―」神谷リサのからだは押さえがたく、そう言うのだった。神谷リサは長尾ミグの煮え切らない態度に自分はきたない、女はきたない、女性というセックスはきたないと思われ、さげすまれているような気がしていたのだった。それは女として女と認めてもらえないみじめさをふくんでいた。それで、神谷リサは「きたないはきれい、きれいはきたない」―とシェークスピアのマクベスの一節をなんどもなんども口にだして呟き、みずからをなぐさめた。それから、少しセックスに大胆でアグレシヴに仕掛けてみるようになった。デートの時、セックスのちがいをアピールした深いV字のシャツを着て、胸の谷間をつくった。胸をおしつけて、頬をよせた。生臭い、生物の吐息をはいて、浴びせかけた。カヒミ カリィのような、ウィスパーな囁き声で耳元をくすぐってみた。―が、どれもダメだった。いや、むしろ長尾ミグは以前よりも露骨に神谷リサを避けるような素振りさえみせたので、神谷リサはなにがよくって、なにがわるいのか、すっかりわからなくなって、内心、雲をつかむような気持ちに打ちひしがれるのだった。複雑な連立方程式よりも微妙で答えの難しい問題―それは筆記と頭ではなくて、心とからだの問題なのである。だから、しばらくのちに彼の部屋によばれて、友人にもあまり明かすことのない「2次元趣味」と「世界への苦しみ」とが明らかになったとき、はじめて神谷リサはしみじみと、長尾ミグの隠された性癖と性質の印象派の色彩のようなその微妙さ、そのむづかしさを理解するのだった。そのとき、男ごころを単純で操作可能、答えが明確なものと考えていた自分はあさはかだったのだと、ちょっぴりわかった。ちょっぴり悔しかったが、事実そうなので仕方なかった。ホワイトノイズのような蝉時雨けたたむ長尾ミグの部屋は数学モデルの構造でうめつくされ、数学の詩でかざられ、現実世界の次元数をおきかえてやろうとする無意識のたくらみにみちたものだった。部屋は、長尾 ミグの優柔不断な性質とはちょうどさかさまに、なにもかもがあからさまに目に見え、曖昧であることを拒否し、グラフィカルで明晰だった。神谷リサはそこでいつもよりも明晰なものとして意識される自分のからだのフォルムを知った。からだに関する意識とは空間に対応して知覚される。この部屋ではからだの線をあらわせる黒い服がいちばんね―と、神谷リサは心の中でそう呟いた。「まだ誰にも話したことがなくって、君にだけいうんだけど…」―とまえおきをしたうえで、長尾ミグは黒い長方形のノートをとりだすと、次元数をめぐる自分の認識を、顔を赤く染めて、でも優しく、しっとりとした調子で説明した。やがて熱がこもった。顔を赤くしたのは恥ずかしいからではなく、時をおいてやってくる熱をはじめにしめしていたからだったことに神谷リサは気がついた。長尾ミグの考える世界は奥ゆきと遠近法を欠き、のっぺり平面で、次元数をこの次元から1次元うしろへもどらさせたものだった。「次元とはなんだろう?時空間とはいったいなんだろうか?」長尾ミグは熱にうなされるように真っ赤な顔で神谷リサに問いた。いつものように自説を力説する長尾ミグは魅力的で自信にあふれていた。でも、しばらく彼の語ることをきいてみると、どうも長尾ミグはこの世界に熱く苦しんでいるようなのだった。それは世界そのもの、存在そのもの、意識そのものにたいする苦しみであって、彼自身どうやったらそれをなくすことができるのか、よくわからないようだった。熱病にうなされ、うわ言のように、せわしげに言葉をつないだ。「いいかい 神谷―つまり…」―と、そのとき、長尾ミグはそう結論づけた。「世界に深みなんてない!そんなものはありゃしないんだ!世界は本質的にぺらぺらでうすっぺらく、ばらばらで、からっぽの表面にすぎないものなんだよ。それをこの社会は深みをむりやりつくりだし、遠近法をむりやりつくりだして、自分たちのほんとうのよろこびを遠ざけて、にやついているばかりなんだ。本来、あるまじき「法律」や「常識」という自然のおきてに逆らう深みをつくりだし、それで自分で自分をしばりつけて、くたびれはてているのさ。現代人って奴らは、けして端へゆくことのないモノゴトとモノゴトの間で、じぶんたちを生ぬるく保存することばかりに気をくばり、自分たちをなぐさめているだけなんだよ。おかしいだろ。こんなの。病人どもだろ、こんなのは病んだ世界の弱者どもだろ。みな殺しにしたいだろ―え?、それじゃあ いつ 世界は喜びに満ちていたのか―だって?それは古代世界だよ。その世界のなかでだけ、人間はじぶんたちの世界を《それそのもの》として受け止める感性にみちていた。哲学と芸術をみればわかるだろ?それがどうだろう?いまの日本じゃあ人々はますます幼稚になるばかりの遠近法になやまされて、影のないところに影をさがしてばかりいるじゃないか!感情のないところに社会がつくりだした感情ばかりをみているじゃないか!よくいわれるように、人はもたれあって生きているものだよね。それで、もたれあうことによって、みんなでよってたかって、みんなを幼稚にしあってよろこんでいるんだ。ぼくはこの世界は次元数に狂っていると思っているんだよ、でも世界はぼくが狂っていると思っているらしいんだ。おかしいだろ?しょせん―この人間の世界は言葉のみせる嘘っぱちの世界さ。大人はみんな嘘つきだろ―だって、しだいにそのうち、言葉をからだであらわすものになるんだもの。みんな、嘘を嘘のうわぬりでなぐさめて、世界を世界のうわぬりでなぐさめて、言葉を言葉のうわぬりでなぐさめて、流し去っているっていうそれだけなんだ!なんて世の中だろう?なんて、世の中なんだい!ねぇ 神谷―教えてほしい。どうして、みんな何事もなかったようにふるまっていられるんだい?どうして、この堕落に気がつかないんだい?どうして、みんなは欺瞞を欺瞞と感じることなく、もっともらしい顔がしていられるんだろう?」ぴかりひらめく孤独の魂が精彩を放ち、数学の都市に病む長尾ミグの心がきらり輝くのを神谷リサは言葉のなかに見た。いちどとして、そんなことを考えたことは神谷リサにはなかった。「やっぱりぼくって女なのよね―しょうがないのよ、それはなんていうか、属性なのよ」その事を夕食のとき、両親に報告しながら、空中につぶやいた。言葉はLEDライトに電光表示される文字列となって、空中にちらつきまわっていた。《あのいっけん気まぐれで点滅していて甘えん坊にみえる長尾ミグがあんなことをあんな風に考えているなんて―ぼく、あいつをみくびっていたのね…恋はもっと簡単でからだでするものだと思っていたわ…》神谷リサは心のおく底でほろ苦く思った。たしかに、長尾ミグは簡単で単純な男ではなかった。神谷リサが手を焼いて、手をこまねき、おもわず両手をあげて、ばんざいしてしまうほどに複雑でむつかしいのだった。長尾ミグは「難解で複雑な高等数学の数式」のような男だ―と彼を称したが、そんなことは周辺のたわむれでしかないことはよくよく自覚していた。それで、家族が寝静まり、虫のやさしい囁きだけが響きわたる、ある初夏の夜、午前1時32分―いつもしずかで、おだやかで、人の話しが聴けて、ものごとを客観視する能力があり、困ったときに相談にのってくれる男友達に電話で問題をぶつけてみた。「でも―さ、ねぇ、男って欲望をもたないもんなの?それともアイツ、長尾ミグが特別ってこと?女が欲望をあらわにするっておかしいのかしら?それとも―女は男の欲望におとなしくしたがってみせるべき?男性ロックグループが歌ってみせてるような男の叫びをきいたほうがいいの?―ふだん男の言葉にできないウダウダってやつを?それで社会全体の女の良心であることを演じたほうがいいの?女の欲望ってさもしくあさはかなものなのかしら?それより―なにより、ねぇ―こんな宙ぶらりんにされて、期待ばかりさせられてる状態ってどうなのよ?とても健全とは思えないわ!」―と鋭い調子で、真剣に神谷リサは聴いた。男ともだちはその真剣をうけて、やんわりと立ちまわった。「う~ん―俺は男だからなぁ、質問全部には答えられないけれども…そりゃあ、シチュエーションにもよるけど、さ。ただ、ほら、昔からいうだろ。追えば逃げて、逃げれば追う―って。恋愛っていうのは、本来、欲望のゲームなんだよ」「いくつになっても?それは成熟した大人であっても?」「そう…だと思うよ。だから、この場合、神谷の意識や関心っていうのが賭け金なんだ。神谷はこの賭け金をもとに愛の値段をせりあげなきゃいけないな」そういわれて、神谷リサはびっくりして、おもわず声を張りあげた。「そ・そんなことぼくにできるわけがないじゃない!ぼくギャンブラーじゃぜんぜんないわ。パチンコだってやったことないし、花札だって、トランプのポーカーだってしないのに…」「それじゃあ あせらないことだね。話をきくと二人の関係は今のところイーブンといったところだろうから―落ち着いて、心をすこしづつ寄りそわせてみるんだね…」、うん わかったわ、キミがそういうなら信頼する、そうする、そうするわ!―と、そう答えて電話を切り、その言葉どおり、神谷リサはしばらく関係をほっておくことにした。しばらく、ふたり無口になった。やがて、神谷リサの事あるたびごとになにか言い出してしまおうとする自分を押さえるポーズ―両手で口を隠して、言葉を封じこめるポーズ―はすっかり板についた。沈黙をおたがいでわけあって、ゆきかう光と影をただただぼんやりと見つめ、耳をすませて、その隠された旋律を味わいぶかげにきいた。すっかり、すっぽり、すっきりだった。学校からのかえりみち、ふたり並んで、おびただしく砕けた太陽を吸った小川のせせらぎをみつめ、にゅうどう雲のたもとを声もださずにてくてくあるいた。世界は沈黙にくれ、ただその予感だけが騒がしげにざわめいていた。蝉しぐれの樹陰の木洩れ日の斑点を縫うように歩き、光にきらめく何万もの羽虫のつどう蟲ばしらを通りぬけ、鮮やかな田が蛍光グリーンに萌えさからんばかりの遠景とニッコウキスゲ咲き乱れる花畑の近景を、白いガードレールに寄りそってすわってみつめ、雲から雲をわたりさすらう風をうけ、期せずしておとずれた清涼に身をさらした。しばらくして、太陽がじ―と照りつけ、光の矢に刺されて、神谷リサはおもわぬ目眩に襲われ、ホワイトフラッシュに目眩んだ。陽光の企み、太陽の目眩い。頭がこてん―と長尾 ミグの肩へとたおれた。制服の白いワイシャツから石鹸のにおいがして、それが長尾 ミグのほのかにたちのぼる体臭とまじりあっているのを神谷リサは嗅ぎ、あわただしい胸さわぎがしたが、瞬間―吹く風にさらわれて、もとの清涼へともどってゆくのだった。「いい気持ち―」神谷リサはいった。「うん」長尾 ミグははにかみながら、うなずいた。胸がまたどきどきした。今度はもう風は吹かなかった。熱がこみ上げた。時間がこの「まんま」、止まってくれればいいのに…
其の四へつづく―]]>
見出された時たちに 其の二
http://tomo0032.exblog.jp/11588035/
2010-11-19T14:17:00+09:00
2010-12-23T12:25:32+09:00
2010-11-19T14:17:23+09:00
tomozumi0032
見出された時たちに
家からしばらく畦道を歩いていった、荒れはてたタンボとすっかり色あせた微妙なお洒落を楽しむカカシと雑木林の木立ちのむこう、鬱蒼とした茂みのなかに、ふだん打ちすてられたような神社がひそやかに息づいていた。そこに「ご神木」といわれ、白いしめ縄を巻かれたおおきな楠の木があった。昭和初期の落雷で裂け、高さはそれほどなかったものの、偉容をほこったかつての名残りとその災害をつつみこんで生を継ぐ生命のつよさがあった。幹のところは荒蕪に皺くれ、鋭く枯れはてていたが、そのまわりからすこやかな枝が伸び、萌える粘っこい若葉たちを噴き、新しい生命の流れをかたちづくった。神谷リサがはじめてその楠をながめた時、その幹にそれまで見たこともないくらいに白くて、おおきな蛾がとまっていた。その蛾は神谷リサに奇妙な感じをあたえた。はじめそれは蛾には見えなかった。純粋なかたちそのもの、フォルムそのものが冷ややかに幹にはりついているようだった。神谷リサはそれを、じっと凝視して、それが蛾であるということを知り、世界の音や彩のむれがそこに吸いこまれてゆくような不思議さにとらわれた。この現実に生きる生物はいつもどこか不思議でコズミックな時間をたたえている。彼らは人間とはまったくちがった時間をもっていて、まったくちがった目的意識をもって、生を営んでいるからだ。そしてその蛾はふだん目にする虫や生き物、人間たちとはちがって、どこからあらわれたのかわからないような神々しさをたたえており、時を超越した神のつかいのように思われるのだった。まばゆい太陽の燦然とした盛夏の午後だった。鮮明な影が揺れ、こもれ日がさわぎ、せみ時雨が降っていたが、いまや、神谷リサにはなんにもきこえなくなっているのだった。それは鮮烈な印象として、脳裏に焼きついいて、ぬぐっても消えない心の沁みとなった。そこにあったのはただただ流れゆく「時の歩みそのもの」だった。そこでは日常生活のなかではあまり味わうことのできない別の時の懐につつまれることができた。ブロックみたいな数字や言葉の意味ではあらわされない時の懐。そしてその懐はからっぽだった。無色で、なんにもない、からっぽな、だが吹きあがり、萌えあがる生命の時―神谷リサはなにかあるたびごとに、そこへとむかい、いごこちのよいからっぽさに影をおどらせ、手を合わせて、あるやなしやの守護を祈った。べつだんそれを信じて―というわけではなくって―ただ祈りだけがより自分を透明にしてくれる大切なことのように思われて―
☆
父ゴンゾウ、母牛子、ともにTVが嫌いだった。お茶の間でTVを見て、くつろぐという習慣はとうとう神谷家には根付かなかった。
TVは会話をうばうと二人は主張した。あんなものは受動的なバカを育むだけなんだ―と。
でも、母牛子は映画好きで、よく神谷リサと一緒にヴィデオで映画を見た。アメリカ、ヨーロッパ、中国、アジア、日本。恋愛モノからはじまって、古いやつ、ホラー、コメディ、サスペンス、歴史的大作、SF、文芸もの、アニメ―とどんなものでも見た。母牛子との間に女の会話が生まれた。母牛子は神谷リサに好きになったアメリカの俳優の作品をコレクションし、その作ごとにちがった魅力を放つ俳優の官能の美を言葉巧みに説いた。そんな時、母牛子の瞳はきらりと輝き、言葉は軽やかで愉快だった。神谷リサはいくつになっても心にリボンをむすんだ母牛子に女であることのチャームを感じとって、それに同調するのだったけれども、やがておとずれる思春期になると、その甘すぎるロマンティシズムにあらがった。そのころ、神谷リサは数少ない胸襟をひらいて胸のうちを心おきなく話せる、土着で豪快でなんでも笑う太っちょな友人太山デブ子に母牛子のロマンティックな傾向を揶揄して、笑い飛ばした。そうすることによって、すこしだけ大人になれた気がした。―が、もう少し時間がたち、自分自身を客観的にながめる目がやしなわれると、おなじように自分の中でリボンをむすぶということ、つまり母と同じような女であることのチャームが心の中でひとつの場所をかたちづくっていることをじぶんでみとめざるをえなかった。《人は知らずのうちに体験から居心地のよい場所をみちびきだし、結局そこへかえってゆくことによって、じぶん自身の存在をたしかめるものなのだろうなぁ…》―と、神谷リサはいつしか考えるようになった。人はそうやって―いくつになっても、むしろ歳をとればとるほどに親に似てゆくことによってじぶんを確認するものなのだろう―と神谷リサは思う。
もしかすると、時をかさねて、年をとることは先へすすむことではなくて、後ろへもどること―なのかもしれない。
☆
ある日―神谷リサが、「友達との会話につけないからTVが欲しいんだけど」―というと、「リサちゃん、フランス人はTVを一番見ない民族なんだぞ」―と、父ゴンゾウはすこし誇らしげにアゴをつきだして答えた。「どうして?」と神谷リサは反論した。「だって―ぼく、フランス人じゃないわ。見てのとおり日本人よ。フランス人のマネをするなんて、そんなの、おかしいわ―」すると父は人を諭すことにたけた教師の口調で静かにいった。「TVはね、イマジネーションを限定してみせて表現しすぎてしまうんだよ。イマジネーションは自分のうちで育てるもの。そうすれば無限にひろがるものなんだ。よく胸に手をあてて考えてごらん。時をこえられるものはなんだい?地球をこえられるものはなんだい?かぎりある生命のプログラムをこえられるものはなんだい?リサちゃん、わかるだろ、奇跡や魔法はイマジネーションの中にあるんだよ」神谷リサはその答えの意味が頭ではよくわからなかった。それでも、そのとき世界の価値が多様に織りなされていることをぼんやりと体で感じるのだった。生きる価値はひとつじゃないということは父が教えてくれたことだった。父ゴンゾウには東京の大学でフランス文学を学んでいたときに知り合った「ピエール夫妻」というフランス人の風変わりな夫妻がおり、山村の風景を見せたいのか、折りにふれて、家へとよんだ。フランス語を話す父ゴンゾウは地酒の日本酒や芋焼酎をふるまい、自分もしたたかに酔い、へべれけ、まわらないロレツで夜おそくまでピエールとの会話にふけった。フランス語はおかしな発音で、東北弁のように神谷リサには聞こえるのだった。ピエールは金髪で背が高く、髪がくるりとカールし、けむくじゃらで、いつもどこかへんてこりん、でも不思議にどこかで見たことのある恰好をしていた。それもそのはずで、彼らは母牛子のつくった洋服を買い取って着ていたのだった。ユーモアを愛し、笑うのがとても好きなピエール夫婦だった。とくに妻レイラは高周波の超音波を鋭くあげるコウモリのように、むきゃっむきゃっと手を叩いて笑い転げた。神谷リサはピエールのけむくじゃらの体や高くてごつごつした顔だちを見て、毛深さつながりの親近感を覚えた。そして、なんだか自然の活動が盛んな場所の地形を見るような気になった。《日本人の顔って日本の地形みたいで、フランス人の顔ってフランスの地形のようなのね、顔とその国の風土が育む地形との因果関係ってあるのかしら?いったいぜんたい!》―と、そのときよく思ったものだった。
☆
ピエールが3度目に家へと訪れてきた寒い冬のある日、神谷リサは14歳だった。ピエールは娘を連れてきた。名前はマルタというらしい。マルタは黒ずくめの恰好をしていて、おおきなフードのついた丈の長いパーカーを肩にはおるように着ていて、前の銀色のZIPを開き、フードを目深にかぶって、しじゅうこまやかに頭を左右に振っていた。その影からちらちらとちらめく灰色の瞳は吸い込まれそうなほどに澄んでいて、乾いた空気に濡れて鋭い光をはなっていた。華麗に舞い踊るような子音をつかって、たどたどしい日本語を話した。会話のあいまあいまに唾を吐くように唇を鳴らし「ザケンジャネェ~」「ヤッテランネェ~」とほとんどアクセントとして分節されておらず、何を言っているのかわからない超音速の日本語を呟くくせがあり、人目を忍んで鼻くそをほじっているようだった。神谷リサは紹介された夜はぼんやりとしていて、あまりたいした印象はもたなかったのだけれども、あくる日、朝食を食べ終えたあとで、父にうながされて、近くの小さな森を案内して、家庭菜園で青虫を食べてみせ、「どう 食べてみる?」と誘い、彼女がコックリとうなずいてみせたその時、すこしだけ心と心が近づいたように思われてうれしくなった。果敢に、マルタは青虫を呑み、「うん 悪くない」といって、けろりとした表情をしてみせた。さらに神谷リサはそれ以来ずっとつづく呼び名で「マルタさん」と彼女をよび、マルタは「リサちゃん」と彼女をよんだ。なんだか外国語にないもったいぶった響きがそう呼び合うふたりをおかしな気分にさせるので、そのうち、すっかり気に入った。クラスメートとは共有できない秘密を彼女とだけ共有できたような気がした。
☆
家から車で15分ほど山間を走ったところに代々つづく神谷家はあった。祖父も祖母も長寿で、神谷家は死なない一族だった。親戚は誰ひとりとして死ななかった。ただただ生きて、のっぺりとした生の軌跡を、日常のなかで伝えていた。けれども、100歳を越えたころから、じょじょに祖父と祖母は現実を生きなくなっていた。夢うつつの中をただよい、幽霊とたわむれ、観音たちと会話をかわし、あの世のお釈迦さまと問答し、時折泣き声をあげた。重力が狂ったようなヘアスタイルをし、ほとんど動かずに、だれがなにを話しかけても反応を返さず、ふだんたいていは光りをうしなった鈍色の瞳を、ただただ虚空へ投げやるばかりだったので、生きていることが死んでいることのようなものだった。身体の代謝、それだけが2人が未だにこの世界の生の循環のサイクルの中にいることを教えていた。ときおり―そんな2人を見て、神谷リサは植物から人間にいたる生命進化の過程を考えた。2人は地球上の生物だったが、人間とは別の次元にいて、別の世界をながめやり、別の言葉を話し、別のコミュニケーション能力をもっているように見えた。それはあんまりにも現世の人間や彼らがつくりあげた世界観からかけ離れていたから―それで神谷リサは宇宙人を見ているような気持ちになるのだった。
☆
ちいさな時から、神谷リサは文字や言葉がとても好きな少女だった。文字や言葉はちょっとした甘くて強い酒のような効果を神谷リサにあたえるのだった。文字や言葉は甘く神谷リサを酔わせた。知ることにまつわる甘い酔いはまことしやかで、魅惑的だった。両親のもっていた百科事典や辞書、昔の小説、数学の秘術の本、アンティークの本と古い字組みの活字、古い雑誌、母が定期購読する海外のファッション雑誌、ふるいイタリアンヴォーグやハーパスバザール―などをある時は「ぱぁっ~」―と、ある時は「じぃっ~」―と読んだ。でも、神谷リサが本当に好きな本とのつき合い方は、とくにこれといった目的ももたずに、ゆらゆら、ゆらめいているというものだった。読書の量が増えるにつれ、しだいにわかってきた事のひとつは、言葉を読むことの中には言葉だけではけして読むことのできない部分があるということだった。小説はとくにそうだった。「言葉」を読むことによって、「言葉ではない」ものを読むこと―それが本を読むということなのだと神谷リサはいつしか考えるようになった。言葉という目に見えるものはあいだをつなぐ中継点であって、言葉ではない場所にこそ言葉の役割はあるじゃないかしらん―と、神谷リサはひそやかな確信をもって考えるようになった。そしてなにより、神谷リサにとって、いつも、本と活字は生あたたかくてやわらかかった。それは神谷リサを夢見心地にさせた。言葉に酔って、ふわふわとした感じになり、その言葉をどうしても使いたくて、皆が寝静まった真夜中、ひとり、深い闇夜を飾る星々にむかって、風にむかって、草にむかって、大地にむかって、言葉を紡いだ。言葉は口から紡ぎだされると七色の糸となり、世界を目に見えない次元でつらぬき、とりとめなく拡がってしまった世界を縫い合わせて、一枚のタペストリーを織り上げてゆくように神谷リサには思われてーそれでなんどもなんども言葉はくりかえされ、夜はふけてゆくのだった。唇からこぼれおちてゆく言葉は自分から発されているにもかかわらず、自分のものではなかった。それは―なにか意思をもった独自のファンタジックな生き物のようだった。それは―ときどきうまくコントロールできずにどこかへと飛んでいってしまい、ときどきバッチリと意のままにおさまった、ときどき神谷リサを責めさいなみ、ときどきあたたかくぬめらかなぬくもりで心くるんで、元気づけた。やがてそうした時間は知のうるおいとなり、神谷リサをつつむもう一つの痒水となって、彼女をはぐくむのだった。海のそばで小さな時から育った人間が海の中で泳ぐことをおぼえるように、神谷リサはたどたどしくも、すこしづつ言葉の世界で泳ぐことをおぼえてゆくのだった。
☆
そして―
その頃、神谷リサは髪をおさげの三つ編みにして、詩を書き、7色の絵を描いた。
☆
高校にはいるころになるとすっかり大人びた。もうずいぶん前に赤い血潮の月が降り、胸とお尻がおおきくふくらみはじめ、女としての機能をからだが示すようになり、そのからだとのつき合い方も、だんだんにだが、覚えた。そして、まわりにいる、たいがいの人々が幼稚で頭の遅れた、古くさい、鈍感な子供たちに見えるようになった。まわりの誰もきかないハードロックやパンクをきき、ジャンキー作家ウィリアムバロウズの「昆虫人間」のヴィジョンにふるえ、髪を振りみだしながら、腰をふって踊る快楽をおぼえて、セックスを夢想した。映画をみなくなり、それよりも西海岸の奔放なヘビメタ、ハードロックやサイケデリックロック、アシッドロック、NYパンクのバンドのヴィデオを見ることを好むようになった。セクシーな歌詞をなまめかしくも中性的なルックスで「プッシー」や「キティ」や「ファック」を野獣や蟲のように歌う彼らを眺めるのが、神谷リサはひどく気に入った。若いエネルギーから、こんな男にもてあそばれて、オモチャにされ、めちゃくちゃにされて、傷つけられて、ポイ捨てされたら、どんなに素敵かしら―とそう神谷リサは心の底でひらめくように思ったりした。それから女詩人―シンガーソングライターや女ロックスター、ポップスターも好きだった。彼女たちはもうすこし、女の自立や女の感受性を時に丁寧に囁き、時にエロティックに煽情し、男のオートマティックな欲望に燃え立つ視線をかわしながらも、女の武器をフルに活用し、人口に膾炙し、時にヒステリックにがなりたて、時に変わらない男社会にイラだって破壊衝動を満たすように歌っていた。なにより、彼女たちは、「うじうじ」していなかった。それを、パッとつかんでは投げ捨て、またピッとつかんでは投げ返している液晶映像は「粋」で「クール」だと思った。回転がはやく、めまぐるしく変わるのも気に入った。なにひとつとして、この世の中に確かなものはなく、ただ光速のレーザービームのように瞬間的に生が放射され、ぼんやりとした記号のモザイクの光がよりあつまり、瞬間的に死のクラスター爆弾が暴発する―そんな放射と暴発の閃光のまたたきが美しいとおもって、うっとりとした。
其の三へつづく―]]>
見出された時たちに 其の一
http://tomo0032.exblog.jp/11575347/
2010-11-16T17:31:00+09:00
2010-12-23T12:26:08+09:00
2010-11-16T17:31:41+09:00
tomozumi0032
見出された時たちに
「「時」がすぎて、今、「心」から言える、あなたに会えてよかったね、きっと、わたし…」
「あなたに会えてよかった」
小泉 今日子
「なぜなら「時間」とは生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは「心」をすみかとしているからです」
「モモ」
ミヒャエル エンデ
「この地球という惑星のうえには、求心力はまだまだたくさんあるんだもんな…生きてたいよ…ボクにとっちゃ、「春先に萌え出る粘っこい若葉」が貴重なんだ!…さぁ、魚スープがきた。よろしくやってくれよ!うまいスープだ、けっこうイケるよ!」
「カラマーゾフの兄弟」
ドストエフスキー
☆
…「神谷リサ」のくらす東京のマンションはいかにも古ぼけていた。
1969年にたてられたなが細いかたちの鉄筋マンション。時はそれにあらがおうという人のいとなみをゆるやかに拒みながら、だれも気がつかないうちに手垢でよごし、おだやかな疲労をマンションにあたえていた。風はホコリをなすりつけ、はじめのうち、はりつめて、無垢だったマンションをヨゴレとともにやわらげ、そのころにあった風景とのどことない不調和を眼にはみえないようにした。ピカピカしていたマンションはすこしづつツヤを消して、のっぺりとしはじめると、いかにもいごこちのよいものになりはじめた。いくつもの春がすぎ、夏がすぎ、秋がすぎ、冬がすぎた。春の湿潤な雨の夜がすぎた。夏のてりつける太陽とにゅうどう雲がすぎた。秋の月の潮がすぎ、冬の白くけぶる粉雪の嵐がすぎて、また春がやってきた。神谷リサの部屋はその最上階だった。最上階はみはらしがよかった。いつも空模様がながめられ、ヘリコプターや飛行船、気球やジャンボジェットが季節ごとに表情を変える雲を背に行き交った。その下にはポスターのような風景がひろがり、ビルの間に間に公園があって、ゆきすぎる時の歩みにつれて、彩りをかえた。四季の風光麗しき公園へ集う鳥たちは咽喉をならして、高らかに愛を歌い、その嘴をふるわせて、訪れた人々の目を楽しませていた。―が、その下からでてきたモグラが赤い舌をだして、アカンベ~をしていることには誰一人として気づかなかった。
☆
そこに住みはじめて、しばらくすると、雨もりがしはじめた。ある大雨の夜のつぎの朝、めざめてみると、床がぬれて水たまりができていることに神谷リサは気がついた。それからというもの、雨が降るたびにブリキの洗い桶をあてがって、天井からしたたりおちる雨の雫をまつようになった。雨の雫が滴りおちる夜には、その光景を体育ずわりに両手で頬杖をついたポーズで見まもった。時間そのものにい抱かれる思いだった。ふいに、古い映画のワンシーンで見たようなスクリーンの中の時間のなかに迷い込んでしまったような気がした。実際、滴りおちる雨の雫は風情があった。ブリキの金属を規則的に叩く高い音が部屋に沁み、都市の乾いた夜に、東京では珍しいようなうらぶれた郷愁の詩情をたたえた。神谷リサはそんな時間のなかにいる自分、それ自身にすっかりふけってしまって、雨の日が好きになっていった。雨の日が描く世界につつみこまれている感じ、ぴちぴちとした水のしたたりがつくりだす王冠の栄光、わけもないようなぼんやりとした喜び、あのしとやかに濃縮された多幸感はわすれがたく神谷リサの心を支配するのだった。そうして、いつしか、なんとなく雨の日を心待ちにするようになった。部屋は古ぼけ、ちいさかった。それでも、部屋を飾ろうと工夫をして、精巧な織り目のととのったペルシャ絨毯を買った。はじめのうち遊牧民のようにその上をころがり回り、うんうんへぇへぇ―うなったり、時におおきな声をあげて朗読したり、時にきゃっきゃっ―と笑い転げながら、本を読んだ。以前住んでいた部屋で小さな山だった本はやがて訪れたいつしか、天井にとどくぐらいのおおきな山にまでなった。《あ~あ~、これじゃ、地震があったら本の角にあたまをぶつけて死んじゃうかもなぁ~、それってヤバァイ…かも…》―と、おおきな山を見ながら、ある休日のうすい影があふれた陽だまりの午前、この世の果てまでつづいてゆくようなゆるやかな溜息をついた神谷リサは、その日の午後、ソフィスティケートされたボサノヴァサウンドの流れるインテリアショップへと駆けこんで、メタリックな銀色の本棚を買い、夜までかけて本をならべてみたが、それでも棚の下にねむることしかできないので、地震がきたら下敷きになることは目に見えており、場合によっては倒れてきた棚の鋭く尖った角に頭をぶつけて、それが額に突き刺さったりなどして、そのまま、ホラー映画さながら、額から滝のような血を噴きださせて―「この世にアデュ~」―と、いう可能性は消えたわけではなかった。もっともそんな杞憂はひきつづいたものの、棚を買ってみたことが発奮剤となって、家具にこるようになった。部屋の調度をととのえたいというそれまでさほど意識していなかったが、街の風景をながめ、友人と興じ、街を歩いているうちに、いつの間にやらひらめいた夢想の熾き火に火がついた。コンビニでインテリア雑誌を買っては読みあさり、結局、ちょっと「だる」な感じのモダンボヘミアン風にしてみた。おなじような趣味で古着屋や代官山や青山のブティックやインターネットのオークションでモダンボヘミアンな服を買い、ベットは古ぼけて、すこしおバカで心地よい感じのするロココ調のアンティークのものにした。6つのビーム光線を放つツヤけしステンレスのスタンドを買って、ショーアップされた空間をその光のなかにコラージュさせ、ちょっとした装飾をあしらった。そうやって自らつくりあげた風景のなかにたたずむと、地震の前の時空間の歪みめいた「重力のズレ」が感じられた。夢想は現実の風景になった。だが神谷リサは複雑な感じがした。自分が夢の中におり、その夢の中からガラス窓のむこうをのぞきこむようにしてしか現実を認識できなくなってしまったように思われて、一抹の淡い喪失感をおぼえたからだ。神谷リサは現実がすこしづつだが、抽象的になって、印象画の画家が描く曖昧もことした色彩のように、後景へとしりぞいていっているような不安定な戸惑いを感じるのだった。
………………………………………………
☆
…3月23日の夕暮れ―
黄昏のレインボーな色彩が、その最後の明るさをかがやかせ、影の濃度をかえてゆく。風景は色彩にひたされて、刻々とその表情をかえていった。ステレオの液晶があえかな銀色の微光をもらし、アンビエントな金属音で溢れかえる神谷リサの部屋。窓から射す光の移ろいをぼんやり眺める。―ふいに、今日、ほのかな赤らみに染まったピンクのさくらがしずしずとけぶっているのを見たことをソファの上で神谷リサは思い返していた。神谷リサは追憶という目くらましいばかりの「影の時間」が好きだ。交錯する影がよびさます時間は、現実という「光の時間」よりもその時間の本質を明らかにしているように思われた。「時間」は追憶の中にあるのか、それとも現実それ自体にあるのだろうか?―と自問自答したが、よくわからなかった。ただ、今日一日、風のない時間がすぎたのだった―神谷リサは蒼葉がまばゆく光かがやくのを見た。パステル色の空やメタリックブルーの薄暮を見た。風のないおだやかな午後の静けさを見た。コンクリートのビルディングの中で、液晶画面を見つめるひとびとがしずやかな生の営みを、まるで淡い影それ自体がくりひろげる無意味な戯れのように、淡々とくりひろげてゆくのを見た。そして今、あけはなたれた窓から若葉の匂いを孕んだ「つむじ風」が迷い込み、机の上の本の頁をいたずらにまくりあげてゆくのを見る。風は光ファイバーネットワークの網羅された金属とガラスとネオンのメタル都市を駆け、ひう―という高い声で叫んだ。それから神谷リサの髪をさらい、ソファの上に来ると神谷リサにいたずらに絡みついた。風とともに植物のように追憶が芽吹いた。そうして、それはおおきな樹の、あまたの芽吹きさながら、とめどなくなった。じきに睡魔に襲われた神谷リサはうとうとまどろみ始める…。
時が圧縮され、夢はゆらめき、追憶がストロボのように七色の光芒を刹那刹那のうちに焚いてゆくのが、鋭いイメージの矢となって、つぎつぎと瞳を突き刺していった。
………………………………………………
☆
…そうだった…
ちいさな頃から、神谷リサはユニークな顔だちをしていた。口がおおきくて、目鼻だちははっきりしていたが、毛深くて、左右のまゆげがつながっていた。それでも、ながいまつ毛にかざられた瞳は深く澄んで、いつも好奇心に輝いており美しかった。肌は透けるようで、身は引き締まっていた。人はせまいところでごちゃまぜにならなければ、その人をつつむ時の集積―存在のオーラを立ちのぼらせるもので、そのオーラにはいろいろある。たいがいのオーラはうまく言葉でいいあらわすことができないものだったりするのだけれども、神谷リサは成長するにしたがって、そんなオーラにけぶり、存在をけむりめかせた。頭の回転がはやく、きびきびとして、感じがよく、話し上手というよりは聞き上手で、態度に垢ぬけたところがあった。自分の顔はいやではなかったから、眉毛をそろうとも、整形しようとも思わなかった。ちいさい頃、どんなに男子に「サル」だとか「オランウータン」だとか、「ゴリラ」だとか揶揄されて、「おい てめ~むきゃむきゃっていえよ このサルがぁ!」―とからかわれて、木の棒でつつかれても、タンボにつきおとされても、小石を投げつけられても、眉毛を剃ろうなんて考えたことは一度もなかった。そればかりか《どうして―?》―と、疑問符つきでよく思うのだった。
《どうして―みんな美しさの基準をテレビや雑誌のモデルにもとめたりするのだろう?美はそれぞれがそれぞれのうちがわにもっていて、それが表現されれば、たとえまゆげがつながっていようとも、それはそれでなににも変えがたい美しさなんじゃないかしらん…》
☆
神谷リサは栃木県南部のふかい森にいだかれた山村で生まれ育った。そこには宇宙を受信しているような銀色の屋根をした古い建物と季節をたくみに刺繍する山々とタンボ、鉄分のつよいアスファルトが太陽に反射し、きらりきらり照り輝くところだった。美しい空のスクリーンが「天椀」という古い表現そのままに広がり、太陽の抛物線の軌跡をあからさまにし、うつろう星座群の推移をかがやかせ、刻のうつりかわりをむきだしにしてみせた。すでに長いあいだ、つかわれることのなくなった廃工場や文明開化時の古びた鉄鋼の建造物のその跡地が点在していたが、今は静けさのなかでぴくりともせず、産業の営みから見捨てられ、ただただ時の移ろいを吸い込んでは、錆びにかえるばかりなのだった。時のうつろいは錆びた腐敗の華をひとつ今日もまたほころばせるのだ。
ときどき熊があらわれて、するどい爪で人を襲った。よく岩がおちて、人の頭がつぶされた。ごくまれに、強姦魔があらわれて、色づいたメスの匂いに狂わされるように、レイプし、タンボに投げ捨てた。一度だけ夜の闇にまぎれるように殺人鬼があらわれて、一家が惨殺された。新聞は大見出しで事件をあれこれ書き立て、清潔で都市的な教育をうけた評論家や教授や大衆意識を代弁するというコメンテーターが、冷静で理性的、人間的で、信頼のおける、リスクのない、それゆえにいい加減で適当なことを言い放って、皆を安心させていたが、実際はすべて宇宙が及ぼす生命連鎖の法則にちがいなかった。
☆
父、神谷ゴンゾウは天真爛漫さと頑固なところが混ざり合っていて、黒曜石のような瞳がいつも光をたたえ、動物としてのおかしみがある男だった。そのおかしみは上のほうから降りて来るものではなくて、下のほうから沸きあがって来るものだった。たとえば、彼は毎朝の日課として日々欠かさず寒風摩擦をした。どんなに寒い日でも、赤ふんどし一丁で、庭先にたち、つらなる山々に向かって仁王立ちになると、体にタオルをゴシゴシこすりつけたのだが、そのとき、たいがい気合を入れる声を洩らした。「ちょいそぉ はっ まだまだ こりゃこりゃぁ!!」―と、まわりに民家がまばらだから出せるような大きな声をあげるのだった。それほど声質が高いというわけではなかったが、その声はよく周囲にひびいた。父ゴンゾウは近くの高校で国語の教師をしており、国語の教師だけあって、いろいろな文字をカラダのかたちでつくり、話しをすることができるのだった。神谷リサにだけ―「リサ、見てみろ、これはなんて字だ?じつはな、ゴンゾウ父ちゃんはな、宇宙から来た宇宙人なんだよ。こうやって宇宙の友人とも話をすることができるんだぞ。どうだ すごいだろ!政府が運営する「宇宙顧問審議会」から内密に打診されてるんだぞ!」―とうそぶいた。幼い神谷リサはすっかりそれを本気にして、「とぉちゃん すてき!」と父を尊敬して、首根に抱きついた。もし宇宙人がきて、地球人と会話をしたいというとき、他の人はあまり言葉が通じなかったとしても、父ゴンゾウだったら、きっと、ちゃんと意志の疎通をはかれるにちがいないと神谷リサはけらけら笑い転げながらも、父をうんとほこらしく思うのだった。父ゴンゾウは「ファーブル博士」を尊敬し、虫が好きで、標本をつくり、夏になるとランニングにすててこ、麦藁帽に虫あみをもって、野原を駆けずり回ったり、転げまわったり、猫ジャラシの雑草生い茂る叢の中からお尻だけを突き出したり、木を抱きしめて蝉のようによじ登ったりしたが、蝉のすばやさには到底かなわなかった。青虫を「栄養!栄養!こりゃ、からだにえ~よ~」といっては、ペロリと食べて、「おまえも食べなさい」とリサに食べさせたりもした。リサははじめ「まぢでこれまぢぃ~」と思ったが、そのうちだんだん食べるコツをおぼえて、上手に食べられるようになった。イメージを殺して、のどを通過させればいいのだ。正直、美味しくはなかった。でも、つるりとしたのどごしはわるくなかった。おかげで虫が友達となった。ゴキブリを、ぼうふらを、おたまじゃくしを、蚊を、蝿を、ウジ虫を、みみずを、ダニを、虱を、神谷リサは彼らの毒の害になやまされ、体を筋なすみみず腫れの痛痒に発熱させながらも、「じっ」と熱っぽく見つめた。虫をながめていると、自分はこの世界にひとりでいるわけではないということが、神谷リサにはよくわかった。そして―人間はみながいうほどには、たいしたものではなくって、しょせんは虫たちに栄養を提供する血の詰まった肉のふくろにすぎないのかもしれない―と嫌な事実を体で感じた。もうすこし大きくなったしばらくのち、彼女は虫とたわむれ、残虐に液を絞る遊びをおぼえた。黒いガラスの石をわしづかみにしてはムカデをすり潰し、紫の体液を照り光る石肌になすり、ばたつくおびただしい足々をその液でなぶった。蛇をつかまえ、ナタをふるって頭を落としたり、頭上で鞭のように振りまわしたりした。おおきな蜥蜴を捕まえて丁寧に殺し、太陽の光にさらしてミイラにし、首の付け根に穴をあけて、ペンダントにしてはいくつもぶら下げた。黄金虫や玉虫を石や靴の踵でつぶし、粉々にして、それを顔にまぶして、きらめく化粧にかえた。やがて、すこし年を経ると、そういった残虐な遊びはしなくなったが、残虐なものの鮮烈な美は目の裏に、強く鮮烈に焼きつき、ふと、やってきては、今と過去を、自然と自分を、世界と感覚とを巧みに結合させてみせるのだった。
☆
母、神谷牛子は無農薬の家庭菜園をいとなんでいるのだった。季節によって角度をかえる太陽とそのうつろいをはらんだ風と大地の栄養が手に手をとりあって結ばれあい、果実や野菜がはぐくまれ、じきに実をむすんだ。近くには清流がせせらぎ、野原がひろがり、おく深い秘密を孕んだ生命を連鎖させた森が息づき、さまざまな食べられる植物らが野性で生え、なまめかしくも魅惑の精彩をはなった。自然の有機反応がむすばれあう生産物は豊かだった。おりおり、その多様なフォルムと彩りは風景を鮮やかににぎわせ、ときおり、そのちいさなミニチュアが食卓へのぼるのだった。野菜をたべながら、《大地っていうのはおおきなプロダクト工場みたいなものなのね》―と、神谷リサは思った。春にはツクシや七草やタケノコや銀杏、夏にはトマトや南瓜やキュウリ、秋には茸やオクラや栗、冬には白菜やほうれん草などが登場した出刃包丁にぶつ切りにされたり、銀色の鉄釜で茹でられたり、艶っぽく黒びかりする鉄板で焼かれたり、木でできた樽に漬けられたりした。
母牛子―は、休日の昼下がりに古道具屋で買った、古い木製の足踏みオルガンにすわり、ベルベットのカクテルドレスやベアトップなどで洒落めかすと、ぴんと背筋をのばして、歌を唄った。オペラや洒落たボサノヴァ、昔のスタンダードのジャズソングが好きだった。もっとも、そればかりではなく、古い文部省唱歌やみんなの歌、歌謡曲など豊かなレパートリーを猫のささやき声のように頼りないオルガンの音にのせて唄ったが、お世辞にも上手いとはいえなかった。それは「音痴」の部類で、「下手の横好き」とはこのことだ―と神谷リサは胸のなかで思った。それでも母牛子はたのしげだったし、人に聞かせるものでなければいいんだろう―たとえそれがどんなに音痴で調子はずれなものだろうとも、音楽があることは心くつろぐことだ―とつづけてもやもやと思った。神谷リサは心くつろぎついでに、縁側で夢うつつ、服をきたまま、「ろ」の字に身をまるめ、うとうとまどろんだ。それは《時間がこのまま永遠にとまってしまえばいいのに…》―とおもわず心のおくで祈ってしまうほどの甘いまどろみの時間だった。のちのち、そんな母牛子の調子はずれの歌がひびく休日の昼下がりのぽっかりとした時はかけがえのない甘い夢だったと神谷リサは思いかえすのだった。母牛子にはモダンでハイカラなところがあった。同じ古道具屋で銅製の曲線装飾がこらされたアールヌーボ風の足踏みミシンも買って、服もこしらえた。ひどくのろいミシンで、「きぃこぉきぃこぉ」という音をたててきしみ、なんだかその音が服をつくりあげているようだった。街へでたときやお気に入りのショップで、感覚にぴんとくる古着を目ざとく見つけると、それをばらし、リメイクし、つくりなおした。糸がとび出て、左右不対象で、バランスはくずれ、おかしなところにおかしな布がコラージュされたへんてこな服だったが、生地の選択は洒落ていたし、そういうデザインのものも少数だが、出回っていた。神谷リサは母牛子の服を着て、学校へかよった。クラスメートははじめはおかしがったが、だんだん、そういう家庭があるということがわかると、そういう人なのだとみなすようになった。そればかりか、彼女はお洒落だという噂になって、母牛子から服を買いたいという友人まであらわれ、神谷家の心をうれしくはずませたりもした。
☆
土曜日の黄昏が神谷リサは好きだった。黄昏はすべての色彩をすこしづつ含んで、移りかわる色彩のパーレードのように思われた。はやくに学校が終わって、赤いランドセルをほおりなげて、自分の部屋でぼんやりとした夢想に過ごす午後の時間―神谷リサにとって、その時間はもっともじぶんで自分自身を豊かで幸福な存在としてとらえられるベルベットな時間だった。神谷リサは、とくに春さきの端麗な静けさひろがるはな曇りの逢魔が刻の土曜日、鋭いいかずちが空を点滅させ、雷鳴が空を叩き、おもい雲立ちこめる夏の夕立ちのまえ触れの土曜日、にわかにおとずれた狐の嫁入りのあとの秋の桃色の薄暮の土曜日、冬ののっぺりと冷たい光が銀色の鱗粉のような光を降らせる金属の夕べの土曜日―などが好きだった。なぜって―だって、そこでは芸術的ないたずらをする天気と土曜日という休日前のおっとりとした時間に、いつもより夢見ることが現実として、ちょっぴりだけでも許されているように感じられたから―夢想は萌えあがる生命の予感をはらんでいながらも、しんとした表情をうかべる庭の芝や遠くにこんもりしげる森のふかい緑の木立ちをすさまじく駆け、飽くことを知らなかった。夢想のなかで、木立ちにひそむ虫の羽音やぺりぺりと剥ける梢の樹皮の乾いた音までもが聴こえた。午後のメタリックでアンニュイな日射しがきらめき、庭の雑草の色彩が現実から剥げてはこぼれ落ち、中空でひかりかがやくものとなり、それ自体が発光しているように見えた。魂がフロートして、世界との遠近法が狂った。この現実世界の時空間と自分自身が離れたもののように思われて、この時空間ではない場所をぎこちなくたゆたう意識を知るのだった。そして、たいがいそんなとき、この時空間、この世界、この生の舞台は不思議で神秘的な場所なのだという、やむにやまれぬ感慨がおしよせてきて、彩りのマーブリングされたサイケデリックな綾目で心が非人間的なものによって編みこまれてゆくのを、茫然としたおももちと無力な思いとで眺めるのだった。神谷リサはけして自分には及びつかない神秘と深遠なる大宇宙がこの生命にひそんでいることをこわいような思いで強く感じた。自分がどこか非人間的な宇宙を孕んでいることを思って、身震いした。それはコントロールすることができなくて、気がついたときにはすっかり身も心も支配されてしまっているものなのだ―と突き上げる実感とともに思うと、なんだかひどく心ぼそくなった。情動の放電がおこる。電気が体を駆けぬけ、一緒にいてもみずしらずの体の細胞群がにわかにざわめき、身体にめぐらされた神経網のネットワークが起動し、肌をざわめかせ、冷たい鳥肌をふるわせた。そんな時、きまって、神谷リサは、あまりに大きなものを見すぎたようで、とりとめなくボウ漠として、自分の輪郭がとけ、大宇宙に呑みこまれてしまうようで、こわくなってしまうのだった。
もしかすると―
わたしはわたしではないかもしれないー
☆
生きること―それは宇宙をはらんであることなのだろう―と、神谷リサはいつしかぼんやりとした確信をもつようになった。そして神谷リサはそこから現実的な態度として、世界に対して、爽やかなあきらめの態度をみちびきだした。《つまり、この漠として、あまりにおおきくて、まばゆく、うつくしく、そしてとりとめがなく、どこまでもはみだしていってしまう世界―それは自分がコントロールできる範囲をおおきくこえているもの、だから自分はけしてなにかをコントロールしたり、意のままに操ったりすることはできないのだろう―もしそうすればそれはひどく傲慢なエゴイズムなのではないのかしら…》―と神谷リサはぼんやりと考えるようになった。
これは都市で生まれそだった人間がかんがえられないだろうおおきな地球規模での視点だったから、もうすこし年をかさねて移り住むことになった東京という大都市のせちがらく、いじましい都市の価値とはそぐわないものだった。だが、それから知らず知らずのうちに、運命の綾糸の織りなす好きな綾のほうへと身を寄せていった結果、自分がひとに心地よさをあたえるひとつの存在として、都市のある役割をあたえられたとき、彼女をみまった微妙な座りのわるさは、このコントロールをめぐる人間のあり方と関わっているものだった。
其の二へつづく―]]>
暴力と芸術―ヒトラー、ダリ、カラヴァッジオの生涯
http://tomo0032.exblog.jp/11574659/
2010-11-16T16:51:00+09:00
2010-12-23T13:26:12+09:00
2010-11-16T14:07:07+09:00
tomozumi0032
哲学批評評論
暴力と芸術―ヒトラー、ダリ、カラヴァッジォの生涯勅使河原 純 / フィルムアート社
「美術は野蛮にたいし、対極に立つ概念だという認識がある。美術は人を慰め、励まし、より高い精神状態へと向かうエネルギーを授けてくれる。一方野蛮は人を傷つけ、辱め、意気消沈させて自暴自棄へと向かわせる負のベクトルだというのだ。しかしこれは、少なくともここに挙げたわずか3つの例(ヒトラー、ダリ、カラヴァッジオ)をながめるだけでも、どうやらそう簡単には結論づけられそうもない空想に思えてくる。」
本書―あとがきより
☆ヒトラー・ダリ・カラヴァッジオの力の方向性
この本は現代社会が遠ざけて、見まいとしている暴力の力にスポットライトをあてた本です。
ヒトラー、ダリ、カラヴァッジオという3人の奇人たちの生涯を描くことによって、力がいかにして芸術と関連してゆくのか、あるいは残虐な暴力となって、インスピレーションを掻き立てるのかを描いています。
YOUTUBEの映像で押さえておきます。
☆アドルフ・ヒトラーさん
☆サルバドール・ダリさん
☆ミケランジェロ・カラヴァッジオさん
3人をあまりよく知らない人のために前説明しておきます。
まずはヒトラーさん(1889年~1945年)。
ヒトラーさんはアドルフ・ヒトラーといいます。手塚の漫画で「アドルフに告ぐ」というのがあったけれども、この漫画は彼をモチーフにしています。
ヴェルサイユ条約で法外な債務を負わされたドイツの復興のために機能性重視の独裁的な政治体制をつくり上げ、アレキサンダーやナポレオン同様の帝国主義的野望のもと、2次大戦の侵略とユダヤ人の組織的な虐殺を指揮した「悪名高き」政治家です。
つづいて、ダリさん(1904年~1989年)にいってみましょう。
ダリさんはサルバドール ダリといいます。サルバドールとはスペイン語で「救済」という意味ですが、彼の人柄を見ると、あんまり救済という感じではないですね(笑)
ダリさんはバルセロナも属するスペイン・カタルー二ア地方出身の20世紀を代表する芸術家のひとりです。超現実主義―シュールレアリズムという、常識にとらわれない、それまでの既成を顧みない実験的な芸術運動から出発し、そこにも属さないような独特で個性的な芸術作品を生み出しました。ダリさんは本当に奇人なのかどうかわからないですが、とてもユニークな変わった人であることは間違いないことは写真を見ればわかりますよね(笑)
余談ですが、以前住んでいたバルセロナで住んでいた場所の近くのギャラリーにはダリさんの絵がたくさん置いてありました。なにより驚いたのは、デッサンの巧みさです。ピカソよりもミロよりも、ダリのデッサンは巧みで魅惑的に見えたのをよく覚えています。
さいごは、カラヴァッジオさん(1571年~1610年)です。
彼はバロック絵画の巨匠といわれている大芸術家です。
年譜を見てもらえばわかるように、上の二人は時代的には重なる部分も多いですが、この人はぐっと時代がもどります。
彼の舞台は16世紀のイタリア(ミラノーローマーナポリーマルタ、シチリア島)です。
本書によれば、この当時のイタリア(特にローマ)は世界の中心的な都市のひとつでした。建築マニアの教皇シクストゥス5世のもとで聖堂建築ラッシュに沸き、世界各国から若い芸術家が集まり、コスモポリタンな空気でいっぱいであると同時に治安も乱れ、暴力が街にあふれかえってもいたそうです。
こういった時代背景もあってか、カラヴァッジオさんは気性が荒く、激情家、好んで争いごとを求める「無軌道」な性格、そのうえホモセクシャルな快楽主義者だったそうです。人付き合いは極端に悪く、自分から頭を下げることはけしてない。いつも言葉の端々にはちょっとした脅しの文句をはさみ、得にならない相手にはバカにしたような横柄な態度でのぞみ、護身用の愛剣をがちゃつかせながら、尊大な態度で人を威圧したそうです。
一言でいえば、残虐なことが好きで人を脅して喜ぶようなタイプの男で、嫌なヤツですね(笑)
ところが芸術という観点から見ると、彼のような男の描いた世界はちょっと他の画家にはない凄みがあふれています。おそらく実体験として、剣で首を切り落とした事があるんじゃないのかなぁと想像させるほどの、息を呑むような生々しさをつたえてきます。
☆読み終わって
読み終わって、3人がそれぞれ、それぞれの信念をもって、力の方向に向かっていった結果、暴力や芸術とよばれてしまったような印象を受けます。
人間に力を与えるものの多様さ、複雑さを思いました。
なんだかいつもいっていることのようですが、力はある意味では神話的なものであって、人間はあとから暴力や芸術として、言葉をわけて語っているにすぎないのでしょうか?
それでは、以下に3人それぞれの印象的だった点をメモ風にスケッチしてみたいと思います。
☆ヒトラーは芸術的には退屈だった?
ダリさんやカラヴァッジオさんといった大芸術家にくらべて、興味深かったのは、ヒトラーさんをめぐる芸術的趣味の凡庸さです。画家をめざしながらも落ちこぼれた美術の落第生ヒトラーさんは凡庸で芸術的なセンスに欠けていたようです。奔放な芸術的イマジネーションの不在さが逆に美術にたいする押しつけがましい偏見を生みます。ある傾向の表現を「頽廃」と決めつけて、「頽廃芸術展」を催し、国内を巡回させました。ところが、当時であっても、それが案外な人気だったようです。
今、見返してみると、ぼく個人的には、ヒトラーが好んだ芸術よりも、ヒトラーが嫌った芸術のほうが芸術的には格段に面白い。なにか人間らしいさまざまな感情が秘められているからで、スターリン時代のマレーヴィッチでもそうでしょうけれども、やっぱりファシズムは芸術的にはたいした実りをもたらさないようです。押しつけられ、強制されたものは、それ本来の「味」を失ってしまう。
それでもヒトラーが脳なしというわけではないし、美学的なものを欠いていたかというとそうでもなさそうです。
たとえば、マリリンマンソンやヘビーメタル、パンクなどに影響をあたえたある種の厳格なスタイル、ファッショナブルとさえいってよいようなゲシュタポの制服、咆哮するような猛々しい演説やチャプリンが模して皮肉ったヒトラーさんのちょび髭スタイルなど自分のすがたを魅惑的に見せ、メッセージを伝え、人々を熱狂の渦に巻き込む「演出能力」にはたぐいまれのものがあるのではないでしょうか。
この本ではいささかヒトラーさんの芸術的センスは否定的に描かれていますが、政治を舞台のような、総合的な演出芸術へ高めたという意味で、ヒトラーさんは狂信的な演出の芸術家のようにも見えます。たしかにそれまでの芸術という枠組みのなかでは、ユニークな、偏った、イマジネーションを欠いたものでしょうが、すこし別の角度から見ると、そういったユニークさが別の意味での衝撃を与えます。
☆奇人ダリはいつも飛んでいた?
どうやらダリさんは飛ぶことが好きなようでした。といっても、気球や飛行機に乗ったりすることではありません。
「身投げ」です。実際に石段から身を投げたり、少年を橋の下に突き落としたりして、落下の瞬間を愉しむ性癖があったそうです。虚空に身を投げた瞬間の身軽さ、自由さにかえがたい体験を感じていた。常習的に、快楽を感じ、身を投げ続けるダリはほとんど「身投げマニア」です。出会った美少女を教会の屋上から突き落とそうという誘惑にかられることもあったそうです。
そういわれてみると、ダリの浮遊に対する空間の感覚はとてもユニークです。ほとんど騙し絵的な技巧にめくらまされてしまわなければ、ダリは無重力な、浮遊した物体を独自の感性と体験で切り取ってきたことに気づかされます。
あるいはダリが終生固執(偏執?)した「夢」の世界はどうでしょう。夢の中では現実よりも空間を自由に移動したり、テレポートしたり、浮遊したり、飛行したりすることがあります。こういった感覚はダリさんの表現に重要な方向性を与えているように見えます。
☆暴力の鋭い感覚が画面にみなぎるカラヴァッジオ
この3人の中でもっとも暴力と芸術とが抜き差しならない関係で緊密にむすばれあっているのが、カラヴァッジオさんの絵画です。他の二人は芸術において(ヒトラーの絵はテクノクラート的凡庸さだし、ダリの絵はシュールな夢物語に暴力が中和されています)、カラヴァッジオほどには残虐な暴力の画面は直視されません。
カラヴァッジオの絵は生々しい声が画面から聞こえてきそうです。血の匂いや残虐の甘い香り、暴力の甘美な魅力がよくあらわされているように見えます。それから冷静でなにげのない手さばきで、さも家畜かなにかの首を切るような日常の冷静さがあって、よくいわれる光と影の劇的な演出にもかかわらず、登場人物は日常の中に凍りついたようなところが感じられます。そのあたりがこの作家のただならない資質を伝えてきます。
カラヴァッジさんオは暴力と作品が結びついていた鬼才という呼び名がふさわしい芸術家です。それではカラヴァッジオにとって「暴力」とはいったいなんだったのでしょう?本書によれば、フェアな条件のもとでの戦闘でも、卑怯な闇討ちでもなく、むきだされた本性の炸裂的表明であり、極限の生の営みだそうです。そしてそこでこそ、人は美に関わる。聖者を平然となぶり殺し、その見返りを受け止められる(「美」という)力への信奉。それこそが平民的な日常の暮らしも、宗教的な精神生活も凌駕する「美」の肯定、芸術の高みだそうです。
たしかに、カラヴァッジオ芸術を見ていると、暗黙のうちに「美」や「生命」とは生と死をまたぐある冷ややかな強度の瞬間に凝結されており、その瞬間以外の生活は取るに足らない残滓のようなものだと繰り返し説得されているような気持ちにさせられてしまいます。
「暴力」とは、あまり気持ちのいいものではありませんが、たしかに生命や人生をべつの領域から解釈することを可能にするある独自の場なのかもしれません。
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遊びと人間
http://tomo0032.exblog.jp/11457121/
2010-10-21T21:28:00+09:00
2010-10-22T10:01:39+09:00
2010-10-21T21:28:12+09:00
tomozumi0032
哲学批評評論
遊びと人間 (講談社学術文庫)ロジェ カイヨワ / 講談社
☆「はっきり結論をいえば、人間は人間であるからこそ遊び、また遊ぶからこそ完全な人間である」
―と、いうシラーの言やホイジンガの研究を参考にして、ロジェカイヨワ氏がこれまで否定的にとらえられてきた「遊び」というものを肯定的にとらえなおした一冊。
遊びに潜む文化的意義が生物・人類学的な角度から問い直されています。
もっともシラーに反して、この本書では、遊ぶのは人間だけじゃあなくって、動物や昆虫の世界にも遊びを見いだしており、著者の手塚・宮崎・ピンチョン=アニメ的?(笑)で、生物学的なまなざしの深さを感じます。たとえば、押尾学やウィリアムバロウズのような麻薬中毒者は人間のみならず、蟻の世界にもいるんですよね。フサヒゲサシガメと呼ばれるカメムシの一種は麻薬のような分泌物を出して、蟻を麻痺させますが、蟻はそれに中毒を起こすそうです。面白いですね。
☆カイヨワはホイジンガよりもOUT OF CONTROL?
カイヨワの本書はホイジンガの大著「ホモルーデンス」の遊びの価値を反転させた偉業をたたえながらも、批判しています。なにより批判しているのは、「偶然の遊び」(「アレア」と本書で呼ばれています。たとえば「賭け」や「ルーレット」、「パチンコ」や「宝くじ」など偶然のチャンスによってラッキーをゲットする遊び)や、あるいは「めまいの遊び」(「イリンクス」と本書では呼ばれています。これはたとえば、「ブランコ」、「くるくる回り」、「お酒」や「麻薬」によって「一瞬だけ知覚の安定を崩し、明晰な意識に心地よいパニックをおこそうとする遊び)をホイジンガが考えなかった点です。
カイヨワはホイジンガが「文明の全体をルールの発明と尊重、フェアな競争から結論」していることに疑問を呈しています。
「めまい」や「偶然」の遊びにみられるように、社会全体からすれば、社会秩序にたいして「遊び」は反社会的なところがある。それは時に「OUT OF CONTROL」になることをカイヨワは取り上げました。
☆ジョルジュバタイユ・カイヨワ・岡本太郎
1936年、「エロティシズム」の著者バタイユは社会学研究会(コレージュ・ド・ソシオロジー)を設立します。
これにカイヨワも芸術家岡本太郎と一緒に参加していたそうです。そしてこの会のもうひとつの顔は「秘密結社アセファル」で、数々の秘儀が繰り広げられていたそうです。
バタイユ・カイヨワ・岡本太郎。
日本・フランスの戦後文化史の礎をきずいた彼らが一堂に会し、秘儀を行っていたという話はミステリアスで興味ぶかいものです。
生物と人間をとりもつシュールな結束。彼らが秘儀を通じて見出した生命と意識とのあたらしい関係のあり方とはいったいなんだったのでしょうか?
岡本太郎の絵が物語るような呪術世界なのかしらん―
☆さいごに―
おわりにカイヨワ氏の言葉を引用してみます。
「わたしのさまざまな著作がしめしている関心の数には私自身でもいくらか不安になるほどです。強いてその共通点を探すならば、まず、本能とめまいの力に対する不断の興味であり、さらにくわえて、これらの力の性質を規定したい、その魔法をできるだけ分解したい、その範囲を正しく見極めたいという気持ちであり、最後にこれらの力に逆らって、これらの力を抑えて、知性と意思との優越を維持するという決意でしょう。なぜなら人間にとって自由と創造とのチャンスは、知性および意志からのみ生まれてくるからです。」
雑誌「プルーヴ」(preuves)1968年3月号より
☆PS
ちょうど折よく村上龍の「コインロッカーベイビーズ」と併読しちゃいました。なんだか「コインロッカー」の登場人物がカイヨワの遊びのオンパレードだったので、どちらも2倍面白かったかな(笑)
散漫になったり、名前を忘れたり、併読の弊害もあるかもしれませんが、「好い併読」というのもあるものです。
それから「遊んでいる人は若い。若さの秘密は遊び」だそうですよ。アンチエイジングって古くから遊び上手なことなんでしょうね。]]>
ひさしぶりですが―
http://tomo0032.exblog.jp/11315584/
2010-10-12T18:54:00+09:00
2010-10-12T19:50:14+09:00
2010-09-22T04:02:08+09:00
tomozumi0032
社会評論
☆嫌煙論のアナロジー
ここしばらくのところ、世界の大都市で猖獗をきわめていることのひとつに「嫌煙」というのがありますよね。もう右も左も嫌煙・禁煙で駅を降りて、あ~・・・一服したいなぁと思ってもするところがない。そりゃあそうですよね、人間のタバコばかりではなくて、自動車も工場も煙をもくもくとあげているのってなんだか古臭いなぁ~と、ついイメージしてしまいます。やっぱり煙をあげるってのは前時代的なんでしょうか。まぁ 古いロックやJAZZを聴いていると、ジミヘンの「パープルへイズ」や「煙草の煙が目にしみる」という有名な曲もありますし、煙をぷかぷかやるのが格好がいいという時代もあった。ボクは悪いとは思いません。むしろ、煙というものを十把一絡げにして語るのはよくないし、煙にだっていろいろあるものです。自分自身の記憶のなかでは高度経済成長の記憶のように思います。恣、いくつか記憶をあげてみましょう。ボクがまだ若かったころはディーゼル車だって走ってたし、ダンプカーの排気煙は真っ黒でした。ダンプの後ろは煙たいなぁと幼心に思っていましたし、どこかしら大気に黒く煤けた感じがあった。これはやや乾いた流通の記憶。あんまりファンタジックじゃあないなぁ。ね。もうすこし古くてノスタルジックなもの。ヨーロッパの絵本の中で見た船長さんと船です。これは抽象的にイメージとしてあるものだな。青い空、ぽんぽん上がる煙はブリオッシュのよう。おいしそうで肉感的。船長さんはマリーンな青白ボーダー、背景はオレンジで、そこにもやもやふわふわがぽんぽんぽん・・・。こっちはなかなかオシャレなものですが、実際としては現実世界で見たことがない。そんなもん。イメージです。それからよく長野かどこかの標高の高いところへゆくと大きな白い煙がもわもわっと沸いて、すぎていったことがありました。そのとき一緒にいったおじさんが吸っていたタバコと重なって見えた。山もタバコを吹かしているんだなぁと思った。これも白い煙ですし、すこし古い神仙思想やなにかとも重なります。なんだかちょっと煙に巻いていて、格好がいい。こんなところに龍があらわれたりしたのかしらん-と昔の人の想像力を懐かしがりました。タバコは確かに体に悪い。でも煙に巻くというあのちょっとした韜晦の感覚が格好いい。そういう意味で禁煙と嫌煙の時代はハイパーリアルの時代です。すべてが見える。幻想の余地がない。突き上げる。ひりついた可視。それがいいとみなが思う。もやもやふわふわはあんまり必要ないんだろうなぁ~。それは見えないものではなく、見えるもの。でも、まぁ すべてを見通したり出来るようになるんでしょうか?そうなったらかなりつまらない世の中になってしまいそうです。禁煙によって、死を遠ざけ、すべてが見えるようになるんでしょうか。まったくずいぶん思いあがったものです。人間って。単純な奴らども。け。
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日々雑感 其の五
http://tomo0032.exblog.jp/10978226/
2010-07-15T13:39:00+09:00
2010-07-15T23:17:38+09:00
2010-07-15T12:18:00+09:00
tomozumi0032
日々雑感☆
コンピューターが好きなのか?-といわれると、心ある多くの人同様に、すごく複雑な感情にとらわれてしまいます。
うむむ・・・これはたしかに、すごい!おもしろい!!画期的だ!!!―と頭とからだの半分で思います。
インターラクティブで、エゴイスティック、エロティックな時間の圧縮ができる。生きているみたいな人工知能の進化形態は見ていて、楽しい。からだで触って楽しい。
中性的でオーガニック。
その意味で宮崎 駿せんせのI PAD批判(参照)はなかなか的を得ている。オナニスティックでエロティック、さらにいえばナルシスティックなところが、たしかにこういった消費ブツの中にはありますよね。三面鏡のようなイマージュの織り成す人工迷宮。ラカン理論を裏打ちする高度消費社会の欲望の二乗。ハイパー化。取り残されるのはいつも空虚なわたしという裂け目。消費ブツはいまやボードリヤール理論(参照)の先で精緻な洗練を極めているようにさえ見えます。
ひるがえって、ぼく個人、すなわち、WINDOWSのみならず、ずっと、I podの第三世代に固執してきたある意味やや堅物な一人としては-I PHONEの進化はびっくりさせられちゃいましたし(ほとんど「ハウルの魔法」(参照)かと思いました)、I PADだって書籍の可能性さえも覆そうとしていることもうなづけます。
コンピューターというついこのあいだ前(半世紀ぐらいですが(笑))には国家や研究室、一部の企業の占有物だった遠い存在が、時代を経て、メカニックからオーガニックに変貌をとげ、と同時に、難解な研究者の寡占から、みんなの手に渡り、エステティックなPOP CANDY化を遂げたというのは画期的に見えます。情報はさらに圧縮されて、驚異的ですらある高度な分配の仕組みを整えたのでしょう。なにが凄いってこの圧縮された情報空間です。ここに可能性を見ないわけにはいかない。―っていうよりは、個人的にびっくりです。ひぇえええ・・・・あれよあれよという間に、いつの間にかスゴイ世界になっちゃったものだって。
宮崎せんせはああいう人だから、シャーマニスティックな非言語との交流をもとめるのも道理です。でも、手塚せんせ(参照)はおそらく否定しなかったと思う。手塚せんせの面白いところはそういったシャーマニズムとテクノロジカルなものとが高次で融合していたところじゃあないかな。
その手塚せんせも管理社会の先行きは憂いていたようです。
文化は澱みと停滞にあって、むしろ澱むことと停滞することの中でしか育まれないことを看破したのは、いみじくもネット社会を予見したサイバーパンク作家のウィリアム ギブスン(参照)でしたが、あんまり物事が支障なく、スムーズに、洗練されて進むということはおおいに怪しまなければいけないように思います。
つるり―としたものではなく、ごつり―としたもの。
そういった触感の中に、物事の面白みがなければ、なんのための文化なのでしょうか?
あるいはなんのための人生?
それは―
成功ではなく、ハプニングを楽しむこと。
そうしてそのハプニングのなかに面白みを見出せる別の感覚的洗練を身につけること。その手助けになるようにコンピューターが進化してくれないかなぁ~と個人的には思ってしまいます。世の中上手くゆかないほうが幸せという、PUNKな逆説を促す道具になればいいのに―なんて☆
コンピューターは管理と効率ではなく、多様性を押し広げる道具として認知されてもいいはずです。]]>
宮崎IPAD批判
http://tomo0032.exblog.jp/10978348/
2010-07-15T13:33:00+09:00
2010-07-15T13:33:31+09:00
2010-07-15T12:50:49+09:00
tomozumi0032
NOTE
日本のアニメーション作家・映画監督として活躍する宮崎駿さんが、大人気のタブレットパソコン『iPad』を非常に厳しい言葉で批判している。監督は自身の仕事において、「鉛筆と紙だけあればいい」と考えているようだ。その上で『iPad』について、「感心も感動もない。嫌悪感ならある」と酷評を浴びせている。
宮崎監督の『iPad』批判は、自身が所属するアニメーション制作会社『スタジオジブリ』が発行している小冊子、『熱風』に掲載されたもの。『熱風』の7月号には『iPad』の特集が組まれている。そのなかで監督はインタビューに応えて批判を繰り返しているのだ。
『iPad』片手に監督の話を聞くインタビュアーに監督は、「そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。嫌悪感ならあります」とバッサリ。これに対してインタビュアーは、インターネットに接続して資料を探したり、欲しい文献をすぐに取り寄せることができると切り返した。
すると、さらに追い討ちをかけるように、「あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません(中略)。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです」と、『iPad』とともにユーザーを全否定するような発言をしている。
また、「一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感(ぜんのうかん)を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう」と、購入の動機にまで発言が及んでいる。
監督の過激な否定発言に対してインターネット上では、「バカにしないでくれる!? 知っているわよ。そのくらい!!」や「別にiPadを自慢げに人前で持つことを気持ち悪いというのは良いが、ここまでくると言い過ぎじゃないだろうか」、「こういうこと言う人がいないとだめよね。老人はこれでいい」、「中学校のときの授業中に、シャーペン使うな鉛筆使えって怒鳴ってた教師を思い出した。書けりゃどっちでも良いじゃん、と思いながら渋々鉛筆使ってた」……など、様々な意見が飛びかっている。
『iPad』を購入する人すべてが、『全能感』を味わうためだけに購入しているわけではないものの、「目的もなく新しいものを購入するな」という指摘も十分うなづける。ちなみに今年5月にアメリカのオバマ大統領も、ハンプトン大学の卒業式のスピーチでデジタル機器について否定的な発言をして話題となった。「iPodやiPadをはじめとするデジタル機器のせいで、人は考えなくなった」として、デジタル機器がもてはやされることを、歓迎していない様子である。
監督や大統領が指摘にするように、新しい機器を購入するときには目的や用途について今一度考えた方がよいだろう。しかし「購入者は皆一緒」という考えはいかがなものか?
ロケットニュース24より]]>
BE STUPID
http://tomo0032.exblog.jp/10979684/
2010-07-14T18:58:00+09:00
2010-07-15T19:13:20+09:00
2010-07-15T18:28:04+09:00
tomozumi0032
NOTE
クリオ賞やOne Showと並び、世界3大広告祭のひとつとして名高いカンヌ国際広告祭。過去には日清カップヌードルのCM「hungry?」やユニクロの「UNIQLOCK」がグランプリを受賞したことでも知られる広告の祭典だ。このカンヌ国際広告祭で今年度のアウトドア部門グランプリ・キャンペーンを受賞したディーゼル社の広告が、いまちょっとした話題を呼んでいる。
今回、ディーゼル社が受賞したのは-
“大人はNOと言う。僕らはYESと言う。大人は頭で考える。僕らは心で動く。大人には知恵がある。僕らには度胸がある。BE STUPID”
ーというスローガンに則り、既存の概念にとらわれない状況を映し出したポスター。その中には女性が監視カメラに向かって胸を露わにしていたり、水着姿の女性が自身の下半身の中をカメラで撮影していたりといった、性的なものも含まれている。
しかし、こうした“挑発”的な広告は、国際的に高い評価を受けたからと言って、世界の誰もがお気に召したというわけではないようだ。複数の苦情が寄せられたという英国の広告基準局(Advertising Standard Authority)は、いくつかの写真を「不快で反社会的な行動を助長させる」として批難し、発禁処分に。キャンペーンそのものはまだ出版物などでは認められているものの、広告基準局は「若年層が見てしまう恐れがある」との判断から、路上のような公共スペースへの掲示は認めていない。
こうした措置にディーゼル社は反論。これらの写真は「女性らしさという固定観念に対して、意外性と強さを表すもの」(英紙ガーディアンより)とし、最も批判の多かった監視カメラに向かって服をまくり上げた女性が胸を露出している写真については「ビデオカメラによる、憂慮すべき監視社会へのちょっとした批難」(同)であると説明している。
このような状況について、カンヌ国際広告祭の舞台となったフランスでは、例えばエクスプレス誌が「正直な話、このキャンペーンはディーゼル社の数年来の仕事で最も好ましいものと思われる。先日、フランスで問題となり、結局政府が回収するハメになった禁煙のポスター(タバコを男性器に見立てたもの)と比べれば、まだショックという程でもない」とコメント。擁護とも、ちょっとした皮肉とも取れる評価をしている。
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