カテゴリ:日々雑感☆( 5 )

★宮崎駿せんせのI PAD批判ってどうよ?
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コンピューターが好きなのか?-といわれると、心ある多くの人同様に、すごく複雑な感情にとらわれてしまいます。

うむむ・・・これはたしかに、すごい!おもしろい!!画期的だ!!!―と頭とからだの半分で思います。

インターラクティブで、エゴイスティック、エロティックな時間の圧縮ができる。生きているみたいな人工知能の進化形態は見ていて、楽しい。からだで触って楽しい。

中性的でオーガニック。

その意味で宮崎 駿せんせのI PAD批判(参照)はなかなか的を得ている。オナニスティックでエロティック、さらにいえばナルシスティックなところが、たしかにこういった消費ブツの中にはありますよね。三面鏡のようなイマージュの織り成す人工迷宮。ラカン理論を裏打ちする高度消費社会の欲望の二乗。ハイパー化。取り残されるのはいつも空虚なわたしという裂け目。消費ブツはいまやボードリヤール理論(参照)の先で精緻な洗練を極めているようにさえ見えます。

ひるがえって、ぼく個人、すなわち、WINDOWSのみならず、ずっと、I podの第三世代に固執してきたある意味やや堅物な一人としては-I PHONEの進化はびっくりさせられちゃいましたし(ほとんど「ハウルの魔法」(参照)かと思いました)、I PADだって書籍の可能性さえも覆そうとしていることもうなづけます。

コンピューターというついこのあいだ前(半世紀ぐらいですが(笑))には国家や研究室、一部の企業の占有物だった遠い存在が、時代を経て、メカニックからオーガニックに変貌をとげ、と同時に、難解な研究者の寡占から、みんなの手に渡り、エステティックなPOP CANDY化を遂げたというのは画期的に見えます。情報はさらに圧縮されて、驚異的ですらある高度な分配の仕組みを整えたのでしょう。なにが凄いってこの圧縮された情報空間です。ここに可能性を見ないわけにはいかない。―っていうよりは、個人的にびっくりです。ひぇえええ・・・・あれよあれよという間に、いつの間にかスゴイ世界になっちゃったものだって。

宮崎せんせはああいう人だから、シャーマニスティックな非言語との交流をもとめるのも道理です。でも、手塚せんせ(参照)はおそらく否定しなかったと思う。手塚せんせの面白いところはそういったシャーマニズムとテクノロジカルなものとが高次で融合していたところじゃあないかな。

その手塚せんせも管理社会の先行きは憂いていたようです。
文化は澱みと停滞にあって、むしろ澱むことと停滞することの中でしか育まれないことを看破したのは、いみじくもネット社会を予見したサイバーパンク作家のウィリアム ギブスン(参照)でしたが、あんまり物事が支障なく、スムーズに、洗練されて進むということはおおいに怪しまなければいけないように思います。

つるり―としたものではなく、ごつり―としたもの。

そういった触感の中に、物事の面白みがなければ、なんのための文化なのでしょうか?

あるいはなんのための人生?

それは―

成功ではなく、ハプニングを楽しむこと。

そうしてそのハプニングのなかに面白みを見出せる別の感覚的洗練を身につけること。その手助けになるようにコンピューターが進化してくれないかなぁ~と個人的には思ってしまいます。世の中上手くゆかないほうが幸せという、PUNKな逆説を促す道具になればいいのに―なんて☆

コンピューターは管理と効率ではなく、多様性を押し広げる道具として認知されてもいいはずです。
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by tomozumi0032 | 2010-07-15 13:39 | 日々雑感☆
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★残飯処理係
あまり、大きな声ではいえませんが、じつはぼくの仕事は「残飯処理係」です。オシャレな顔もしますが、その実、それでなんとか食いつないでいます。だからなんとはなしに、自分には「残飯処理係」をやって、そのなかで、独自の体系や価値を紡ぎだした人たちに親近感をおぼえてしまうんです。すてきな「残飯処理係」―たとえば、ダーウィンやフロイト、レヴィストロース、ボードリヤール、ドゥルーズといった学者たち、ジャンジュネやマルケスやドストエフスキーやバロウズ、バラード、カフカ、三島、W村上、ギブスンといった作家たち、アンディウォーホールやイリヤ・カバコフやナム・ジュン・パイクといったアーチストたち、彼らはみな、すてきな「残飯処理係」だったと思います。みなにとって、金にも権威にも結びつかないものたち、どうでもいいもの、価値のないもの、ゴミ、ガラクタ、誰にも相手にされないもの―旧時代の遺物、取るに足らない日常の風景、つまらない言い間違い、くだらない観念や動作―そういったものがあっと驚くような方法で「かたち」になった時、人は魔術を見るようなマジカルなエネルギーを感じます。でも、でも彼らが向き合ったものって、ゴミやガラクタ、つまらないものです。そういったものに向き合うことができる人だけが、価値をかたち作ることができ、その人たちだけが、革命をおこすことができると考えます。だって、価値なんてしょせんは、誰かがきめたものにすぎないから―だから、わたしたちはそうじゃないものの価値が知りたい。なにより、それが「術」と名づくものたち―すなわち「学術」や「芸術」や「技術」は精神の冒険です。ガラクタや残飯に向き合わず、綺麗なものばかりを見て、気持ちいいことばかりを追っているのは、脳みその足りないノータリンな「女・子供」のすることじゃないのかしらん―なんて、そう思います。まぁ しょせん、民主主義社会のいわゆる「現代日本人」というのは「女・子供」ですからね―へ、まぁ せいぜい綺麗なものでも見て、おいしい物でも食べて、草食系にでもなって、リスクをとりのぞき(まぁ 猿の浅知恵でしょうけれども・・・)、長生きでもして、「バカ」になって死にゃあいいんですよね。「たらたら」と―。もっとも、ボクは根が善人ですから、そのお力添えはしているつもりです。みんなをバカにして、「女・子供」になりゃあ、みな安心、幸せ、いやぁ~、本当にいい社会がやってきたものですね。

ほんと、素晴らしい世界です!

ボク生キテテ幸セレス☆
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★現代社会における崇高なるものの喪失
このあいだ、ガールフレンドとガーデンプレイスで催された「第2回恵比寿映像祭」へ行ってきました。展示会場をひとまわりして、それから何の気なしに見た2本立て映画が興味ぶかかった。「神の名の下に―信仰の身体」というプログラムで、1本目はフランスのこれまでカメラがはいることのなかった修道院を映像にしたもの、それから2本目は韓国の新世界到来の予言をイリヤ カバコフ風(あるいはトマス・ピンチョン風!?)に映像化したものでした。この2本に共通していたのは「崇高なるものが現代においてはいかに陳腐なのか」ということに尽きます。フランスの修道院の尼は「マシン」と「メカ」に囲まれて技術論的な、現代風の生活をし、韓国の予言者の予言は政府と日本軍の弾圧によって、あえなく解体されてしまいます。逆にいえば―これは村上春樹の「1Q84」にも通底するテーマでもあるのですけれども―「現代においていったいなにが崇高なるものなのか?」といった問いを惹きおこさずにはいられませんでした。これほど、大衆化し、陳腐化した「崇高性」―は、ほとんど、オウム真理教の「崇高」と「陳腐」のコントラストを見るようです。そういえば、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の問いも似たようなものでしたよね。つまり―わたしたちにとって、「崇高」なるものとはなんだろうか、「陳腐」なるものはなんだろうか―という壮大な問いかけというわけです。そんなことって、これを読んでいるあなたは考えたことがありますか?―にもかかわらず、つまり「陳腐」で「くだらない」とわかっていながら、それを愛してしまうということが現代人にはままあることを、ドストエフスキーはイワンの口を通してこんな風に語っています。

「しかしなぜそれが卑しいものなんだい?この惑星の上には求心力はまだまだ恐ろしくたくさんあるんだものな、アリョーシャ、生きていたいよ、だからおれは論理に反してでも生きているのさ。たとえ、この世の秩序を信じないにせよ、オレにとっちゃ、「春先に萌え出る粘っこい若葉」が貴重なんだ。青い空が貴重なんだよ。そうなんだ、ときにはどこがいいのかわからずに好きになってしまう、そんな相手が大切なんだよ。ことによると、とうの昔に信じなくなっているのに、それでもやはり昔からの記憶どおり敬っているような、人類の偉業が貴重なんだ。」
        カラマーゾフの兄弟(上)第五編 プロとコントラより―

結局、修道院でも、解体された予言でも、かつての幻想をぬぎすてて、生きるということは陳腐で卑しいことのようです。そうしてこの卑しさのなかに見出される、最後の最後―つまり、おしまいでの崇高性がこそカラマーゾフの中で「ミーチャ」や「乞食僧」あるいは「リザヴェータ・スメルジャーシチャ」、そしてジュネにおいて「スティリターノ」、もっと現代では「ROCK」とよばれるのかなぁ~と思いました。

はじめの話とつながるようですが、現代の崇高さとは「卑しいもの」―つまらないものや取るに足らないもの、くだらないものの中に内在して、ここにもあるし、あそこにもあるのだろうなぁ~と感じました。そしてそういった崇高さは人々が案外気がついていないという意味で、来るべき崇高さの姿なのかしらん―なんてことも思いましたね。じっさい、ね☆
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by tomozumi0032 | 2010-02-25 14:03 | 日々雑感☆
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by tomozumi0032 | 2010-02-12 00:17 | 日々雑感☆
もいのほか、今年は寒いようで、先日、「絹更月」のはじまりには、しんしんと雪まで降った。
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巨大な地球のちから―エネルギー―にしたがって、もうすこし、人間の営みがおそくなって、よわまり、とまってしまえばよいのだ―と、ほとんど学級閉鎖をまえにした子供のようなひそやかな悦びを感じる。

こんな日は、とまることによって、べつの違いがあらわれるといいなぁ~・・・と、ほおづえをつき、ぼんやり夢想する。動きのなかではなくて、沈黙のなかにある違い―アナロジカルなものではなく、比較できないものとしての違い―相対的なものではなくて、絶対的なものとしての違い。

ふだんは闇にうずくまっていると看做され、ややもすれば看過されているような違いが現実社会にあらわれ、人々をべつの方向へみちびいてゆけばよいのに・・・。なぜ、現代のおおくの表現者はおなじ方向を見て、おなじようなものばかりをつくって満足している?

だいたい、現代人はつまらないことに忙しくしすぎていないのかしらんー
さもそれが、大切なことだといわんばかりの顔をして―

過剰生産と表裏一体の神経症の「マスメディア」―それを日常のスペクタクルとして享受するひとびとの「同調圧力」、それでしか日常をうずめられない暇をもてあました現代人。

「忙しい」というのは、ぎゃくに「暇であること」をうずめるための口実のようにボクにはみえる。
ひとは、それを夢だとか、現実だとか、幸福だとか、不幸だとか色どりをかえて、よび分ける。まったく、つまらない言葉あそびみたい。ただ、思いこんだという「情熱」だけがその実在を保証するような幸福な言葉あそび。
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そして、その「暇人の欲望」として、情報がみせる洗練されて、きらびやか、光かがやく機能的な記号のたわむれと表裏一体の空虚な色彩の乱舞。

「色即是空 空即是色・・・」―般若心経

村上春樹の小説世界は、はからずも、そして愚かしくも、哀しくも、古代の人間の知恵が現代人にも寸分たがわずに適応されることを寓話としてもの語っている。すぐれた物語のもつ神話性とは、その結果としてわたしたちの心が身体、物質、技術、交通やコミュニケーションのインフラストラクチャーの進化とは正反対に、いかに進化していないかを逆照射してみせる。

さらに、忙しくすれば、その結果子供と女性ばかりが増えてゆく。
よくよく考えてみれば、これはあたりまえのことー
だって、「暇人の欲望」は集中ではなくて、弛緩だからだ。そうして、現代人の忙しさは弛緩の世界に分配されて、ひろがってゆく。フランスの映画監督ゴダールがある短編映画で明らかにしてみせたように、「労働」とはじつはきわめて抽象的な概念世界であって、「金になる仕事」がいつも自分を高めるとはかぎらない。横へひろがることは縦へ高まることととは別のことだ。

弛緩によって、自己増殖すること。
細胞レベルへの退化とメタモルフォーゼ。

「暇人の欲望」=民主主義=世界―こんな世界ではどんな人生もきわめて罪ぶかく、意味を欠いていて、空中をふわふわ漂っているようなものだ。意識のさまよいはとめどがなく、気分の変化は千差万別。まぁ しょせん、生きるとはそんなものかもしれないのだけれども-

けッ☆
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☆東洋人は煙がお好き―「詩情」にたいする「結果」の勝利に小生断固憤慨する
このところ、「歩きたばこ禁止」の看板をよく目にするようになった。小生は喫煙者である。そして、まことに遺憾ながらも、歩きたばこが好きだ。殊に油っぽい拉麺をすすったのち、うつりゆく風景をみながらする一服の清涼はぼんやりとした雲のうえごこちになる―のだが、そうそう呑気なこともいってられないのが最近の風潮。背中に感じる視線が時に冷ややかすぎる。そんな冬。

あるデーターによれば、人口に占める喫煙者のパーセンテージが多い国はいずれも東洋で、順位のほうは忘れたが、韓国、中国、日本がのきなみ上位を独占している。このデーターから東洋人は喫煙が好きで、どちらかといえば、喫煙に甘いのだろうと結論づけて、まちがいではないのではないだろうか。それでは、どうして東洋人は喫煙を好むのだろう?

小生の私見によれば、どうも東洋人の風流の感覚と喫煙はよく合うのだ。
もやもやと立ち昇る煙―それを口にふくんで、吟味して、もやりたたせるといった一連の風景は「雲」にまつわる東洋の詩情を感じさせる。それは一種のロマンチシズムであり、健康うんぬんをこえて、ある独特の、典雅さをたたえている。アングロサクソンやラテン民族にはない、独特の東洋美学―<雲呑や雲水、雲古などにつらなるものだと思う>

「煙に巻く」という言葉があるように、東洋では、喫煙はいかにも洒落ている。

もっとも、がゆえに、中国はアヘンの煙に溺れ、夢見ごこちのロマンと詩情にひたっていたかと思ったら、英国―エゲレス―の強烈な大砲の一撃を見舞われて、足腰もたたぬままに、世界に引きずりだされ、好き勝手に切り刻まれてしまった。まぁ 「陰影礼讃」の谷崎さながらに、いささか愚痴めいているとは思うのだが、あんなにひどい仕打ちで、中国が屈辱を舐めさせられなかったら、もう少し東洋独特の夢は力を保っていたと思う。<仙人思想はもっとCOOLなものとして映ったはずだ、ウィリアムギブスンリドリースコットにいわれなくても―>あのころの英国や西洋列強は本当にひどい国だったし、常識と限度がなく、思い上がって傲慢だった。

さて、現代では、マナーという名の英国、亜米利加、アングロサクソンモデルが跋扈し、跳躍している。これは要するに英国、亜米利加流の常識と限度ということ。国際法からインターネットのモデル、安全性の問題、リスク管理、そして末端にいたっては「歩きたばこ禁止」。小生の身の回りにも見事にふりかかってきて、ただでさえ寒い冬をよりいっそう寒いものにしてしまっているというわけだ。

よくよく思うが、こういった物事の捉え方は経済学者ケインズがいったように、「物の考え方」の違いでしかないのではないか?―タバコはなにゆえニコチンとタールといった有害数値によって、測られるものになったのか?―そして、なにゆえかくも有害なものとして、忌諱されるに至ったのか?-ゆゆしき問題だといわざるをえない。

とどのつまりは、喫煙の「詩情」にたいする、喫煙の「結果」の勝利をあげつらって、白眼視するというわけであって、日本社会の風潮は「詩情」にたいする寛容さを欠いている。小生断固憤慨する。

人生は「詩情」あるいは「現在」なのか、それとも「結果」あるいは「過去」なのか。これは「捉え方」あるいは「考え方」の違い。ゆきすぎて「詩情」におぼれるアヘンジャンキー、スモークジャンキー、ヘロイン中毒のような生もまた生として見るのか、それをゆきすぎだと非難して隔離し、差別化してみせるのか?

いずれにせよ、こんなことを考えさせる日本の現代社会はやっぱりどうあっても貧しくて、貧弱で、なにごとも軽くて、ライトでわかりやすいことを旨とした女子供社会なのだ―と思う。ちぇっ ふざけやがって、暇人どもの民主主義社会め、めらめらすっぞ―つか、なんだか生きているのがイヤんなっぞ・・・ヒトラーとニーチェでも読むぞ―アーナーキストになっぞ。

最後に一言。

「じんせい・ふぁっく・おふ・です、の~・ふゅ~ちゃ~・だ~い☆」

「人生・FUCK・OFF・DEATH―NO・FUTURE・DIE☆」
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by tomozumi0032 | 2010-02-05 10:01 | 日々雑感☆
いぜんにくらべて、文章がかけないここ最近。
わたくし、才能が枯れてしまったんでしょうか・・・それとも、枯れてしまったのは時間のほうかしら・・・。

どうも時間が描く線には二種類あるよう。

まず、ひとつめは硬質で、はっきりとし、直線を描く線。
もうひとつが、軟質で、もやりたち、螺旋を描く線。

このふたつが入りまじって、現実ができている。このふたつのいりまじりあいの中でリズムが生まれる。それは生命のもつリズムであって、すべてがこのリズムによって時間を奏でている。

それが表現したいのに―
なんだか、どうにもこうにも―

時間をとりもどすこと、リズムを奏でること。
自分を「ポイ捨て」し、リズムと時間の媒体となること。
才能とはその別名なのだろう。

才能とは、つまり、自分を「ポイ捨て」しなければ、けして行き着くことのできない場所へとゆきつくことができる能力のことなのだと思う。
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☆なんて未来のない国!!
さいきん、大手新聞をふくめて、マスコミは小沢潰しに余念がなさげ―

日刊ゲンダイによれば、どうやら大手マスコミの既得権益や地検特捜部が小沢の政策をおそれ、その地位からひきずり降ろそうとしているらしい。でも、もし、ここで小沢を降ろしたら、今の日本で誰が拡がる世代間格差をだれがいったい戻せるのだろうか?壊し屋だから、できることがある。蓮見重彦が某新聞で言っていたように「退職金制度」をやめて、若者に金を回すシステムをつくらないと、少子化と貧困の下部構造にあえぐ若者にあんまり未来はないよう。(「35歳問題」)自民政治のおわりとともに、欧米崇拝と官僚信仰はもうやめて、さっさと金を回すべきだと思う。おかしいかしら。それって。それから、人に律してもらうのをやめて、みんなが自分の頭で価値を生み出すようになれば、それこそが革命にならないだろうか?NHKの「坂の上の雲」じゃなくって、モデルや規範に体をあわせないで、自分が身振ることができたらよいのに。微妙にペシミスティックだけれども、そうなるにはすこし時間が必要で、もしかするとその時間はもう持ち合わせていないのかもしれないのだけれども・・・。
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☆「1Q84」と「甲殻機動隊」のダブルイメージ
おくらばせながらも、今ごろ、「1Q84」を読んでいるんだけれども、なんだか古き良き欧米小説を読むような感じがしてしまって、よいような悪いような感じ。というより映像として見れば、かなりの映像が既視感がある。昨今のレトロフューチャーな80‘Sブームとかぶる。おそらく、すこし映画や小説に詳しい人ならば、あ、ここってこの映画、お、ここってこの小説―といった映像が目にうかんでくるのではないだろうか?つまり、いろいろな映画や小説のパロディというか、パッチ、よせあつめといった呈。でてくるのはG・オーエルはむろん、チェーホフに、ドストエフスキー・・・ETC、それに「オウム」や「ヤマギシズム」といった共同体思想をからめ、レイモンド・チャンドラーでハードに味付けて、「パラレル」な構成にしたよう(これは春樹自身の過去の手法の踏襲?もしくはドストエフスキーの影響??)。いわば、ごった煮教養小説。でも、セックスと殺しがアクセントになって、文章、とても読みやすい。ほんと、読ませ上手。構成やテーマの複雑さにもかかわらず、つるつるっと読める。だれもが心の内側にひそやかに息づかせているマイノリティーの部分を解き放ってくれて、こんな自分も演じられるといった自己がひろがってゆくような歓びがある。でてくる登場人物はどの人も「特別な才能」があって、魅力的。小説がどういうものかのダイジェストとしていいんじゃないかしらん。こんな世界楽しそう―と思う反面、主役のひとりである殺し屋「青豆」がどうしても甲殻機動隊の「草薙素子」と重なってしまって、ついついダブルイメージに。

イマジネーションのなかで、ごっちゃまぜになって、古典教養小説風未来アニメになってしまった・・・。

似てないですか?ねぇ―

あ~んなハイテクじゃぁ~ないか・・・青豆さん。心あるし―
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☆音のない雪の結晶―APPLEという発想の転換―I-PHONE進化系
BEATLES-COMME DES GARCON-APPLE

携帯をもっていなかったのだけれども、APPLEの「ジョブスマジック」(笑)とI-PHONEのたくみな広告戦略に堕ちて、I-PHONEを入手する。いままでの愛用はもう5年ぐらい使いつづけている「I-POD第三世代」だっただけに、その多機能的な拡張は目を見はるばかり。じぶんが「よよ」と夜な夜なロシアの瞑想夢や革命思想の夢の顛末などにふけったり、醒めたりしているうちに現実世界の夢はこうも具体的で、こうも技術論的で、こうも機能的に「結晶化」したのか!-と、いきなり、横っ面をハリ飛ばされたように感じてしまう。本心をいえば、最新テクノロジーや最新モードにたいしては、とても微妙で、センシティブで、複雑な感情を抱いている。たしかにボクは、ウィリアム・ギブスンファンだし、モードファンで、EYE CANDYとして、それらを消費ではなくて、「享受」してはいるのだが、本心、微妙、センシティブ、複雑。あんまりすぐには飛びつかないで、模様眺めしているほう。だけれども、客観としてのI-PODをめぐるテクノロジーとの距離感覚の変遷ぐらいは素描できる。いささかたどたどしい線ではあるかもしれないけれども、以下に描いてみたい。

素描―
なにより、はじめてI-PODを見たとき、そのつるんとしたフォルムに肉体的なエロスを覚えた。秘められた股間の疼き。テクノロジーを見て、肉体をおもったことはそれまでほとんどなかった。でもPODにはそれがあった。なぜって、だって―それまでのテクノロジーはたいがい、突起があって、かちかちと音の打ち鳴るフォルムに収まっていたのに、I-PODには突起がなく、音を吸収するフォルムだったからです。こんな発想の転換がみちびきだされる。音を鳴らすこと(肛門期的―モダン)ではなくて、音を吸収すること(口唇期的?―成熟期的?-ポストモダン)。これは60年代現代音楽を考えてみれば、よいサンプルとなるだろう。現代音楽のマスターのひとり、ジョンケージの作曲した「4分33秒」である。この曲でジョンケージは音楽の概念をくつがえし、演奏者は演奏ではなくて、沈黙することによって環境音を表現するという発想の転換をしてみせた。これと近いような発想の転換をボクはPODに感じた。すなわち音を表現するのではなくて、音を吸収してみせること。冷静な沈黙―落ち着いたインテリジェンス―などを理解した。こういった転換的な発想はBEATLESとなぞらえる、APPLEのひとつの特徴だ。

思えば、BEATLESはPOP MUSICそのものだった。その転換的な発想がゆえに。そしてAPPLEはそういったBEATLESを忠実に映像としてなぞりながら(APPLEとはもちろんBEATLESのAPPLEのイメージ引用だろう)、よりPOP化したテクノロジーの夢を具現化してみせている。あるいはこのあいだ、STONESとBEATLESを引用してみせたファッションブランドのCOMME DES GARCONとおなじように60年代の夢の残滓をひろいあげ、10年代風の現実によりそった商品をつくりつづけている。

テクノロジーのちいさな結晶―そういったちいさなものが世界をREVOLUTIONする力をもつようになるのだろうか―と考えると、現実の夢もわるくはないものだなぁ~と思いました☆
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by tomozumi0032 | 2010-01-22 13:39 | 日々雑感☆
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