カテゴリ:夢日記( 4 )

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☆夢日記

☆夢日記2

☆夢日記3
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by tomozumi0032 | 2009-05-17 02:32 | 夢日記

◆・・・え、え~、来週っていってたけど、おそくなっちゃいました。
ごめんなさい☆

時間かかんだよね・・・つかてか、じっさい☆
じぶん、とろいっす・・・押忍☆

言い訳がわりにひとつ、いんよ~☆

「かぁちゃん・・・人にはそれぞれあった道ってもんがあんだよ。もっと優しく大きな愛でひ弱なボクをつつんで欲しいなぁ~」
ツッパリHIGHスクールロケンロ~「横浜銀蠅」(クリックすれば、YOUTUBE!)


・・・・っつ~ことで・・・はい、さて、話し、つづけてみます。

ちょっと時間がたったので、も~すこし方向を変えて、も~すこしこの夢という現象を多角的に検討してみます。

ちなみに前回はこちらです☆

デヮ、以下で、かの夢の世界をぐっとまさぐり、ぐぐっとぐぐ~る、ぐぐぐっとせまりたいと思います。

激マジっす、夜露死苦☆4649☆
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☆あっちこっち―それもあれも―ぜんぶぜんぶ
◆夢をすこしマジメにさぐってみると、わかることは、夢が「あっちこっち」に、分裂していることです。「現在」が《へ~ぜん》と、あっちいったりこっちいったりする。あちこち、あっちこっち、どっちにゆくのか、わからない。

◆「夢見る人」がよく知っているように、夢にはいつも「現在」であることを逃れてしまう性質があるようです。そこには「現在」よりもすばしっこい「現在」があって、それはこの世界の「言葉」として捕らえられた時点ですでに遅い。だって、言葉になってしまったとき、もう別の方向へ飛び去ってしまっているからです。夢のなかでは、言葉はいつもおくれて、やってきます。言葉っていうのは「永遠の遅刻魔」みたいなものです。そして、だからこそ、夢とは本質的に「現在」として言葉で捕らえることがでない性質をもっているようです。

◆さながら、夢は圧縮されたイメージという「別の言葉」によって、交錯し、捕まえることができない永遠の「現在」を表現しているようです。やや距離をおいて、言葉としてとらえられた夢の風景を見ていると、まったく、ルイスキャロルが「不思議の国のアリス」でいわせたこんな言葉が思い浮かんでしまいます。

「どっちなの?―いったい、どっちにいったらいいのかしら?・・・」

◆方向性がたくさんあるということ。
そんな状態を、べつの言葉でいえば、「モラトリウムなパラドクス」と言います。そうして、今の社会状況を示すような状態というのはどうもそんな感じがしてしまうのです。「あっちこっち」―「あれもこれも」―夢はひそやかに現実との距離をせばめ、そのあいだに計られてきた距離をなしくずしにしてゆくようです。それは夢本来の隠された企みなのでしょうか?夢という言葉、それ自体になんらかのプログラムが内在され、そのプログラムにしたがって生きているのでしょうか?人はこのイメージという「言葉」の世界の中で夢を現実ととりちがえ、現実を夢と「錯覚」することによって生きている?

もしかすると、なんらかの超知性体による夢の支配―管轄―管理がおこなわれているのかもしれません☆(アーサー・C・クラーク的妄想かしらん・・・)

☆夢は退行的―レトロスペクティヴな原始の言葉である―カウンターカルチャー退行文化―共産主義という夢―映画という夢
◆さて、つづいて精神分析の古典的名著「夢判断」より、フロイトの興味ぶかい指摘を見てみましょう。フロイトは夢分析の過程のなかで、夢にある「退行的―レトロ―」な性質に注目しました。

◆夢は時を逆回しさせ、レトロに後ろに巻き戻して、意識を退行させるようなところがあります。そしてここから拡げて、夢がもしかすると人間そのものの時を逆回転させ、その痕跡をとどめているのではないかと考えたのでした。

◆「夢を見るとは、おおざっぱにいえば、その本人のもっともはやい体験への部分的な「退行」であり、その本人の幼児時代の再生、その幼児時代に支配的だった衝動の動きや表現方法の再生ではないだろうか?しかしこの個人的幼年時代の背後には、系統発生的な幼年期、つまり人類の発展が顔をのぞかせているのである。そして、個々人の幼年期は、人類の幼年期の短縮された、偶然の生活諸事情によって影響されたくり返しにほかならない。ニーチェは夢の中には「いっぺんの原始の人間性がはたらきつづけており、われわれはそこへ直接にはほとんど到達しがたい」といっているが、この言葉がいかに適切なものであるかがよくわかる気がする。」「夢判断」(下巻―P409)より☆

◆「夢見る人」の時はかならずしも一方向に進むものではない。
それはレトロ―退行的―に進み、それゆえ、現実社会にたいして、「対抗的―カウンター」なものです。60年代、世界を熱く燃やしたグレイトフルデットやドアーズ、ビートルズストーンズに見られる「カウンターカルチャー」、すなわち「対抗文化」とは進化論的時間軸と、軸の異なるものであり、レヴィストロースのいった「歴史の否定―冷たい社会」に近い。レヴィはインディアンの社会に複雑で精緻な象徴の言語体系と進歩史観のなさを見出し、それを歴史的進歩史観に対して突きつけました。(進歩史観に乗っ取った西洋社会「熱い社会」、進歩史観のない未開社会「冷たい社会」)それと同じようなものが「対抗文化」や「夢見る人」のなかにはあるのだと思います。

◆考えてみれば、そんなぐあいに冷たい「対抗文化」を指向したのではないものの、かつて共産主義の立役者「レーニン」は「夢見る人」でした。「ゴーゴリー」がそうでした。「ドストエフスキー」がそうでした。ロシア人にはこういった感染症的な「夢見る人」の資質と才能があるようです。そして共産主義はまずはじめにはこういった《ヨーロッパの子供》としての「夢見る人種―ロシア人―」によって始められた運動だった。もちろん、システムとして共産主義はとてもいけないことをいっぱいしてしまいましたし、その機能不全は今では明らかですが、それでも始めにそうした「夢」から生まれたことは確かなようです。

◆古くはパリのシュールレアリストたち、ビートルズやゴダール、全共闘を見ればわかるように、20世紀というパラダイムの中で、わたしたちには「夢」があった。それは共産主義による「新国家創立」という「夢」でした。ところが、それが「悪夢」であったことは、いまの日常での社会認識、知的認識にあきらかです。旧ソヴィエト連邦は「ラーゲリ」といわれる強制収容所をもうけ、逆らう人々や旧権力者、農民をおびただしい数、大量虐殺した。あるいは中国の「文化大革命」といわれる幼稚な、しかし、その強度として今なお影響力をもつ「伝統破壊運動」により、自らによって自らを破壊し、「権力の恐怖」を人々に植えつけた。

◆レヴィ風に言い換えれば、進歩史観の「熱い社会」は、大地の農民の「冷たい社会」に搾取以上に、手ひどい仕打ちを加えた。たしかに「新国家」は設立されたのだけれども、現在に残る断絶と民族紛争の火種を撒いてしまったそれは「20世紀最大の失敗」だったと思います。たとえ「マルクス」、「レーニン」がいかに知的に優れており、「毛沢東」や「スターリン」が巨大な権力を握り、「スプートニック」が束の間の勝利を味わおうとも―。(「環境」「ECO」の連呼に見られるように、進歩史観による「熱い社会」を今日に生きるわたしたちはもうそれほど信じられません。すこしづつ社会は「萎縮」し「閉塞」して、「冷たい社会」―象徴の世界へと退化していっているようです。)

◆わたしたちは「知性」といわれる言葉のまやかし、「夢」と「革命」をめぐるこんな有様、こんなみじめで貧しい有様を知っています。知ってしまっているのです。それがどうして「夢」に対する無邪気な態度に「YES」といえるのでしょうか?20世紀後半の「世界経験」が教えてくれたように、20世紀前半に「夢」見られたひとつのおおきな夢は失敗でした。日本の作家、村上春樹の挫折の空気を孕んだ著作が表現しているのは、こういった20世紀後半の挫折をめぐる意識回路であって、共産主義がありえないアメリカに対する微妙な距離感と暗黙の批判、にもかかわらず「ダンス・ダンス・ダンス」しなければならない高度消費社会を描いています。この「微妙な含み」の中にヨーロッパやロシアでの人気がうかがえます。つまりそこにはもうひとつの世界の匂いがするのです。いやおうなしに―。

◆すこしそれましたね。話しをもどしましょう。
フロイトが明らかにしたように、「夢」はもうひとつの、オルタネティブの言葉の世界です。それはこの「世界の言葉」とは別の言葉の体系であり、「形象―フォルム―」や「幻覚―イメージ―」による原始的で退行的な言葉の世界です。そして、わたしたちは現実世界の意識的な言葉だけでなく、「形象―フォルム―」や「幻覚―イメージ―」といった無意識によっても思考しているとフロイトは考えました。(ちなみに、「無意識」は「星」のようなもので、「昼間」も輝いているんですけれども、「意識」という「太陽」になぞらえるモノが強すぎて、あまり見えないものとされます、「無意識」の言葉―「形象」と「幻覚」には闇が必要です)

◆ところで、これって何かに似ていると思いませんか?
つまり―「形象―フォルム―」、「幻覚―イメージ」が闇を背景にすることよってされる思考って・・・。

そう、え~が、えいが、「映画」、「映画の世界」がこういった思考のあり方に近い。

映画監督は別の世界の言葉を使って、現実の世界を再構成する人なのであって、その意味で「夢見る人」の系譜の代表的な表現者だと思います。

たとえば―そうですね、無声映画やトーキーの方がそうだったんですけれども、シュールレアリズムと映画との密接なつながりや、ダリと組んだ映画監督ルイス ブニュエル、あるいは「8 1/2」っていう夢の映画をとったフェディリコ フェリー二、喪失された時間軸と象徴的なメタファーの世界をさまようミケランジェロ アントニオーニ、ロシア文学的な物語を好んだ黒沢明、それからスピルバーグなんて、そうですよね。

◆まぁ、名前をあげればキリがないくらいに、いっぱいおっぱいバレーなので、そのあたりはみなさんのご想像におまかせすることにしましょう☆

おっぱいばっかり想像しちゃあ、ダメですよ(笑)
ただのエロじゃあ、それだけじゃあ、いけません。

映画監督もまたひとつの言葉、夢の言葉、退行の言葉、原始の言葉の体系を駆使して、表現する表現者なのです。

◆つづきは次回!!(も~「来週」なんていいません、かわりに「いつか」、「きっと」、「たぶん」ということにしておきましょう☆)
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by tomozumi0032 | 2009-05-03 18:21 | 夢日記

「そんなわけで、「夢」というものは、それが「ちょ~バカ」げているように見えるとき、「もっとも意味深い」ということがかなりよくある」「夢判断」―フロイト
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◆・・・というわけで、前々回にひきつづいて、夢日記です。

◆もともとの体質が「夢見がち」な夢見体質だったんですが、忘れて、モヤになって、きえてなくなっちゃうものもたくさんありました。本当は夢ってかなりデリケートなものです。だから、かなり意識をこらしていないとすぐに消えてなくなっちゃいます。それで、なにかに書いていたほうがおぼえているんだなぁ~ということにふと気がついて、それから、たくさん書いたので、けっこうストックがあります。

◆あとは、ね、夢の本もいろいろ読みました。
好きなの―というか、よく読んだのは、カフカの「夢・アフォリズム・詩」って文庫やそれからフロイトの「夢判断」、カスタネダの「夢見の技法」、マルケス「百年の孤独」、あとはバロウズの「夢の書」や夏目漱石の「夢十夜」などなど。

どれが面白いっていうこともなく、それぞれがそれぞれ―夢というこのちょっと不可思議で神秘的な現象を描きあらわしています。

◆夢にかんするARTもいろいろ好きでした。
わけても、むかし、パリであったシュールレアリズムという芸術運動には強く惹かれました。

みなさん、知ってますか?

アンドレ・ブルドンとかサルバドール・ダリだとか―第一次大戦後の近代理性のゆらぎから生まれた芸術運動です。とくに好きだったのは「デ・キリコ」というイタリアの画家でこの画家のマネキンと夕暮れの風景には強く心をゆさぶられたのを覚えています。

◆とても深いところでの自分の好みは、中性的なものというよりは、顔のないもの、マネキンのようなもの、のっぺらぼうで無機的なものであり、性―SEXは添加物として付加されるような位相にあるものです。顔がなく、性的な分別もない、のっぺらぼうで男であっても女であってもいいような無性で観念的な「からだ」(ちょっとむづかしく言うと「器官なき身体」)、そこにもエロスは絶対にあると思います。すると、性は「再生産」(すなわちイメージ)であり、「再生産」(イメージ)以外のなにものでもない。このことは、ゲイのみが理解し、あるいはゲイしか理解していない。

◆そして、社会的にはまったく哀しいことに、こういうのってあんまり理解されることがないんですよね。このあいだ、ビデオでマルジェラをあげましたが、ああいった感覚がより広く人口に膾炙するようにならないかなぁ~と、「やんぐぴ~ぽ~」に期待しながら、ぼんやり、夢想します。この視点からみれば、男も女も添加物であり、付加でしかない。

男からいわせていただければ、「女が女になる」(ボーボワール)ように、「男も男になる」ものです。

それらはリアルなものとしての「~であるもの」ではなくって、二義的なコトバの世界において「~になるもの」にすぎません。


実際のところ、フロイトもいうように、コトバならない「リアル」なものとして、人間は非性的―ノンセクシャル―な場を生きているように思います。そして、コトバの場において、「性」―セックス―は「オスメス」の「差異」として、「違い」としてあらわれてくる、その程度のものでしかないのです。

まったく、わたしたちの社会はコトバに、「囚われ」すぎており、「固着」しすぎているようです。コトバの奴隷。コトバのFUCKな家畜。これこそ、おろかで、バカなことであり、人間が浅はかな「猿知恵」レベルからいかに発展していないかを明らかに示しています。(おしなべて、コトバによって理解されることや解決される問題は「猿知恵」レベルなものです)

◆ファッションや映画やアニメ、といった表現「コトバ」世界、これらも夢の世界のようにも思われます。

そればかりか、勉強というと言葉は悪いですけれども、文学、数学、英語、歴史、天文学、哲学や法律といった体系的な学問ですら、コトバの世界に属するものすべてが夢であり、コトバそれ自体もまた夢に近い変則的な性質をもっているようにさえ思われるのです。カフカやフロイトが言うように。人間が意識でなにかを認識すること。こういった自明の理でさえもまた、きびしく問い詰めてみると、コトバという「おきかえ」によって認識されるものでしかなく、それは自明ですらなく、曖昧なもやのようなものであり、けっきょく現実なんて夢のようなものなのではないでしょうか?(そう考えると、逆説ですが、夢を描くこととは現実を描くことにほかなりません☆)
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◆この論理を補強してみれば、ブレトンウッズ体制以後の通貨―お金のあり方を考えてもよいでしょう。現在つかわれているお金はもはや「交換価値」としての実質性を欠いています。たしかに、福沢諭吉の通貨、「円」は「金」という地球の生産物、そして人類が富の象徴として定めた「交換価値」としてあんまりリアルなものじゃありませんよね。サブプライム問題のように、「市場原理」が「実質経済」に影響をおよぼすのは「当たり前」のことです。なぜって、だって、その前提として、実質性との交換を欠いた通貨―お金の流通があるからです。こういった社会システムの弊害は「成長幻想の膨張」―無限の自由という「現実という名の夢」シュミラルクル―の暴走がとまらないということにあります。

◆通貨はいまや透明なだけに「快楽」と「欲望」の歯止めがきかない。
ジャンキーがドラッグを濫用し、アル中がアルコールを濫用し、セックス中毒がセックスを濫用するように、資本主義はお金を濫用します。なぜって、だって、それは「透明な快楽」だからです。別の言い方をすれば、実質性のない交換が意識のポイントとなるからです。資本主義はお金中毒のアディクション患者を生み出していてよろこんでいるようにさえ見えます。

◆すこし話しがそれましたね☆
話しを「夢」にもどしましょう―

えっと・・・なんでしたっけ?あ、そうそう。夢と眠りだ。

さらに人が生きるっていうけれども、その人生の3分の1から4分の1は眠ります。
眠らなかったり、寝不足になると、いらいらしたり、死にたくなったりするのは、人が日々ちいさく死んでいるからではないかなぁと思います。つまり、その眠っている時間っていうのは、生きることと死ぬことの中間の場所、明晰な意識ともやつく無意識、抑圧の前意識の中間の場所であって、その場所で翻訳された独自の象徴の言葉でもって、まことしやかに幻影を語ってみせるということがとても不思議なことのように思われるのです。こういった場所に人は日々アクセスし、させられてしまう。なんだかやっぱりどう考えても、「不思議」でよくわからないことではないでしょうか?

◆ま、いいや。
ほんとうはまだまだ「書き足りない」んですが、あんまながくなっても「なん」ですから、そんなことで、このあいだのように、夢のことを書いてみます。
で、今回は、ワンパターンをさけて(笑)、すこし「くくり」をかえようと思います。

◆あららん―長くなっちゃいました。
・・・ので、このつづきは来週にまわします。

来週、日曜日は時間をとって、また書きますので、今回はこのあたりで、ごめんなさい☆

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by tomozumi0032 | 2009-04-19 00:31 | 夢日記
「夢は無意味でも不条理でもなく、われわれの観念群の一部がねむり、他の一部がさめはじめているというわけでもない。夢は一個の心的現象、しかも願望充足である。夢は覚醒時の、われわれのじゅうぶんに納得のゆく心的諸行為の関連に組み入れられるべきものであり、極度に複雑な精神的行為のつくりだしたものなのである。」フロイト
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☆夢日記
日本は「夢がない国」といわれて久しいですが、これは皆が深く安眠しているからだとボクは思います。だって、深く安眠しちゃうと夢は見れないし、入眠のときやレム睡眠のときにおこる幻覚とも無縁になっちゃいます。幻覚を現実におきかえ、それを物量や金額の数値におきかえることがテクノロジーの役割のようですが、その結果、よきにつけあしきにつけ、夢ばかりが現実にあふれてしまうようになってしまったようです。作家ウィリアムギブスンの言葉にしたがえば、たしかに、「わたしたちはテクノロジーという夢」の中に生きているので、「夢を見る必要がない」のかもしれません。

だから、「夢」を取り戻すには安眠しちゃだめです。
浅く眠り、できることなら、なるべく眠りを妨害してやることです。
入眠のときやレム睡眠のときの幻覚を最大限に増幅させることです。

深く眠り、テクノロジーで夢を数値化しておいて「夢がない、ない」なんて、まったく虫のよい話しだとはいえないでしょうか?

とまれ、本題。
かれこれ450日ぐらい、夢を観察し、日記につけているので、今日はその夢日記を紹介してみます。

・・・ですが、いきなり夢のことを話すというのは、なかなかはいりにくいかもしれませんので、多少のイントロヂュースもかねて、まずさいしょに、じぶん自身の夢の特色と傾向を4つにまとめてみたいなぁ~と思います。さすがに毎日ではないけれども、450日も日記をつけていると、おなじような特色の反復にゆきあたるものです。

☆まずひとつめは、「テクノロジーと関係した夢を見ること」です。
これは現代生活の影響がおおきいのかもしれないなぁ~と思います。
だって、生きている環境がだいたいテクノロジーでおおわれているからです。デジタルカメラ、ネット、携帯、現代建築、ファッション、映画、車といったものがでてきています。くり返しになりますが、これらは実際にボクにとって、「現実は夢のようなもので、夢は現実のようなものだ」という思いを強くさせます。テクノロジー化した現実はまったく「夢」のようなものです。それはおそらく、人間がもっているあたりまえの世界にもうひとつの現実をつけくわえるからでしょう。かつて日本の詩人は醒めた達観から、現実生活を「ただ春の夢のごとし」と詠じましたが、テクノロジーと洗練が物を言う今、まさに夢と現実の距離はかつてないほどに近づき、離れがたいものとなっているように思うんです。

☆ふたつめ、「時間の流れと空間の配置が混ざりあっていること」。
どうも、夢の中の時間というのは、現実で流れている時間とは別の時間が流れているようです。
どちらかというと映画、文学、コンピューター、ゲームといった時間の流れに近いようですが、それらよりもっと時空間がごっちゃまぜになっていて、あんまりすっきりと説明できません。これはなんだか、おかしい。それでもこの夢の世界というものの大部分が自分の感じたことや憶えていることで出来ているということはわかります。おぼろげな感覚や記憶の中でいつか感じたこと、いつか刻まれたこと―が別の動きで姿をあらわします。そんな風景をながめていると、まるで、精神分析の古典的な分析のとおり、人間は、「かつて一瞬でも感じてしまったことから逃れることが出来ない」―ようにさえ思われてしまいます。もっとも過去だけではなく、「これって・・・もしかすると、未来なのかも・・・」-と思わされることもあります。もちろん断定はできないのですが、これまで感じたことや覚えていることの中になかったものが時々まぎれこんで、なんともいえない不思議な思いにとらわれてしまいます。

☆みっつめ、夢は「さかさま」や「いたずら」が好きなこと。
それから、夢のなかでは進行方向が「さかさま」だったり、あるモノがとても「大きく」なっていたり、「小さく」なっていたりします。
たとえば、ある夢のなかでバスに乗りますが、そのバスは「さかさま」にバックしながら進み、運転手の男は鏡を眺めながら運転をしています。それから別の夢の中では、家以上に大きなメキシコの料理―ブリトーが何本も山積みとなってあらわれ、それを小人のメキシコ人がロープで縛っているというおかしな光景も見ました。これらの夢の中では現実生活であてはめている大きさや進行方向といったスケールの前提があまり成り立っていません。それはスーパーマリオなどのゲームに似た感覚で、夢はつくづく「いたずら好き」なんだと思います。

☆よっつめは夢には「物語作家」としての現実に対する「批判性」があることです。
そ、夢は意識とはべつの結構な物語作家である―って本気で思います。
だって、現実って意識が「どういう意味か」ってことを解釈することによって、成立しているんですよね。この意味と解釈をべつの方向へ、そうではないのかもしれない方向で再解釈させてくれるという役割を夢が担うのだったら、それは物語作家の小説を読むのとおなじ効果をあたえてくれるんじゃないでしょうか?現実でしている意味づけではない、べつの意味づけ。べつの方向からの物語。そんな風に考えると、カフカの小説が現実そのものに批判性をもっているのは、こういった意味づけから逃れてゆく、逃げてゆくところがあるからでしょう。夢でしか語りえないこと、語りえない物語があるんじゃないかしらん?そうしてそれはぼんやり逃げてゆくようなそんな批判性を帯びた物語なのかもしれません。

さて、こんなところでやめることにします。
あんま、長くて、むずかしくなると、面白くなぁいっていわれちゃいそうだしなぁ~(笑)いや けっこう書くって「U」のはむずか「C」~もんで・・・けっこう、もんもんと書いてるんだもん☆

「たかが夢、されど夢」

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☆X月Y日
どこか遠い陸地をはしる電車にのっている。

季節は春なのだろうか。青嵐のような緑の息吹きが電車の窓のむこうにすぎるのをぼんやりと感じている。電車がどこへ向かっているのか、わからない。「どこへむかっているのだろう・・・」と茫然とした思いで自問するが、よくわからない。ふと見ると、靴が2つともないことに気がついて、心細い気持ちになった。なんだか心にぽっかりとした穴があいてしまったような空虚な思いに囚われる。それで眼をこらして、車内をいろいろ見回すのだけれども、どこにも見つからない。車内にいる乗客は時の終着駅にいるような風情で固く止まって、氷のよう。「どうやら、さっき、うとうと眠ってしまったのがいけなかった・・・」と思った。さきほど、おとずれた睡魔にやられて、浅い眠りに落ちてしまったことを思い出す。靴がないのはおそらくそのためだ。やがて、電車は終点駅へとたどり着き、降りなくてはいけない。降りると、そこはモダンな駅で、ガラスばりのエレベーターが行き来している。白い鉄柱に駅の名前が書いてあり、「何ぞや?」という名前があった。どうやら「何ぞや?」という土地らしい。だが、ここがどこなのか、これからどこへ行ったらいいのか―わからない。茫然として、歩いていると、黒い制服を着た駅の職員がやってきて、「いやぁ もう電車はないですね。なんなら今晩泊まれるところでも案内しましょうか?」と事務的な調子で言う。ボクの後ろのプラットホームにオレンジ色の特急電車が入ってくる。それはオレンジ色をしているが、ひどく薄っぺらい。ぺらぺらの電車でまるで板が走っているように見える。それが猛スピードで後ろをすぎていった。駅員に案内されて、別の電車に乗り込む。そこには人がいて、少しあたたかい感じがした。電車に乗って、しばらくゆくと、窓の外に奇妙な風景がみえた。ブリトーというメキシコ料理が巨大になって、何本も横に積まれている。それを小人のようなメキシコ人がいそがしくロープで縛っていた。眼を丸くして駅員を見ると、駅員は事もなさげに「あ、あれですか。あれはこのあたりの季節の風物詩なんですよ」と言う。通り過ぎざま、そのブリトーの中には巨大な赤エビとキャベツとにんじんが入っているのが見えた。こんなものが風物詩になっているところなんて、一体どんなところなんだろう―とボクは思う。それでますます心細くて、不安で空虚な気持ちになった。

ここはどこなのだろう?
これからどこへゆくのだろう?
ボクのなくなってしまった2つの靴はかえってくるのだろうか?

☆Y月X日
現実の風景と横スクロールのシューティングゲーム風の画面が交錯して展開され、カラーと白黒の2つの映像がまざっている。

現実風景は白黒で、ゲーム風画面はカラー。白黒の方ではコスプレめいたアーマーを装着して走っており、カラーの方ではドラゴンのような動物の背に乗って、空を飛んでいる。しばらくそれが交錯されたかと思うと、突如、映像がかわって、3つ目のアクションゲームへ移る。場面は白いコンビナート群がたなびく湾岸のインダストリアルランドエスケープ。海を直角にはしる白いタイルの地帯にアルミホイルを丸めたような銀色のくしゅくしゅとした小さな塊が走り、それを海に落とさないようにコントロールする。しばらくすると、自己意識がもどってきて、「人」となる。あいかわらず走っている。すぎる風景はくたびれた廃工場風のもので、精彩はないが、古びて、錆びたしっとりとした質感がある。右手におれて、少しゆくと茶っけてごつごつとした鉄の柱の上に年配の男が腰掛けているのが見えた。なにやら楽しげにタバコをふかす仕草はちょっとした仙人風だが、そのうち柱が倒れて、地面に落ちてしまった。もうしばらくゆくとトイレがあらわれて、男女わかれている。はじめは女トイレへはいり、もどって男トイレへ。だが、誰かが先にはいっており、仕方なく周囲をぶらぶらしたのちにもどると、今度はあいていた。木でできたトイレで、もやつく小便の匂いがのぼり立つが、木の芳香で打ち消され、快適に用をたす。外へでるとさっきまでの空気と色合いの違う空気がたちこめていることに気がつく。人の声がし、ざわめきがあふれ、混色の情感に色めきたっている。小さな木の小屋があって、ぷんと好い匂いがする。年配の一団があらわれて、「鳥五目おにぎり」をそこへ集った人みなへ振舞っている。ボクもひとつそれをいただいて食す。少し酢が入っており、なんだか酸っぱい味だった。周囲は宴のあとといった雰囲気で、生ぬるくなった空気がただよう。微温的なぬくもりを感じる。すると、その微温的ぬくもりが風景を転じさせる・・・・・舞台の変転・・・・・気がつくと、古ぼけたタンスのならぶ場所にいて、母がくたびれたアルパカのチョッキをざっくりと着てたたずんでいる。「全部 とっておいてあるのよ、ぜんぶ・・・」と声がする。それが母の声かどうかはわからない。風景は古ぼけているが、ゆったりとしていて、甘く懐かしい。体が溶けてしまいそうな安らかな多幸感に襲われる。いくつもの黄色いランプがともり、柔らかに光を放っている部屋の中で、手塚や過去に読んでなくしてしまった本のコレクションが整然と並んでいる。しとやかな足取りでそれらを見て回り、それから好きな言葉の詰まった本を取り出して、古い椅子に座って、頬杖をつき、ページをめくる。やっぱり自分はこうやって安らかに読書していられる時間がいちばん幸せなのだなぁ~―と思った。すると部屋のドアが開いて、銀色のキラキラと光るスーツを着たイギリス人の若者が入ってくる。彼は熱っぽく「今度ぜひ家へ遊びに来てくれ」という。それをきいて、本をおき、グラムロックも悪くはないなぁ~と考えはじめるのだった。

☆X月Y日
部屋の窓の外からおおきな声がしているので、耳をそばだてて聴いてみると、どうやら誰かが英語でわめき散らしているのだ。

部屋のドアを開けると、イスラエル人だろうか、すこし浅黒い肌をした鼻のとがった男性と日本人の女性の若いカップルがすぐそこに立っており、女性が日本語で「すみません 道に迷ってどう進んだらよいのか、わからなくなったんですけれども・・・」と言う。男は影のような黒ずくめのファッションで身体が細くて、しなやか。女性はダウンヴェストを着て、ぽっちゃりとした感じで、少しあか抜けないがキュート。なんとなく男性はなにか人目に立つ職業をしており、女性はそのマネージメントをしているといった感じがする。突然の問いに戸惑って、答えあぐねていると、2人は「するり」と脇をすり抜けて、部屋の中へ入ってきてしまう。仕方がないので、コンピューターでググール検索することにしたが、どういうわけか、いくらキーボードを叩いても、文字が一向に入力されない。はじめのうち関心をもって見ていた2人は、やがて退屈したのか、押入れへ入り込んで、そこでぐ~ぐ~寝込んでしまう。こんなところで寝込まれても困るので、もう一度と思い、ググール検索してみるものの、また入力することができない。それで途方に暮れてしまった。タバコに火をつけて、風景を煙のカーテンごしに眺めると、部屋は明るくうららか。「あ~あ~・・・」と言って、途方に暮れる。だが、ひさしぶりにこんなうららかな部屋を風景として知覚したような気がして、なんともいえない気分になった。嬉しいハプニングのような、困ったような、複雑な心持ち。ずっとこのまんまなら好いのになぁ~・・・と思う。しばらくそうしていると、ふいに男が起きだしてくる。男は裸になっていて、ペニスをぷらぷらさせている。胸毛は渦巻き、なんだか毛が鎧のように全身を覆っているので、裸だが、毛の服を着ているよう。男はコンピューターのマウスを操って、なにやらページを出し、これがオレだ!!-と、IDカードを見せるように、自らのホームページを披瀝した。「オレ、実はダンサーなんだ・・・」と男は言った。それを聞いて、さっきの「するり」とした身のこなしが理解された。ふつう、なかなかあんな身のこなしはできないからだ。ページはオレンジとブラックでグラフィックでモダンなもの。ページのなかの写真で男は裸で天を見上げ、中性的なポーズをしている。しばらくすると女も起きてきたが、やっぱり裸になっていて、彼女も毛むくじゃらだ。だが、その毛は渦巻かず、直毛だった。視界に彼のペニスがぼんやりちらついていて、うごくたびに近くなったり遠くなったりする。それから、ここにいてもしょうがないので、外へでようということになった。外を歩いていると、急に二人に発作のようなものがはじまって、男は両手をつきあげ、なにかを大声で叫びはじめた。それをきいた女は男に同調して、高いおたけびをあげ、二人で絡みあうと、ギリシア彫刻のようなポーズをとったまま、固まってしまう。よくよく見ると、男のペニスが勃起して、ぴんと立っているのが、毛の隙間に見えた。びっくりしたボクはあたりを見回すが、そこには誰もおらず、閑散としている。ただ、新聞紙がかさかさとした音をたてて、舞ってゆくのだけが見える。2人の体をさわってみるが、なんの反応もないので、腕で押してみる。すると2人の体は道の真ん中に倒れてしまった。それで、なんだかどうしたらよいのか、まったくわからない―ぽっかりとした気持ちになって、ぽかんとしてしまうのだった。

まったく困ったものだ・・・―とため息ばかりがあふれ、それを吐くのがやっとだった。
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by tomozumi0032 | 2009-02-12 18:40 | 夢日記
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