カテゴリ:ドストエフスキー( 1 )

ぼくはいま40歳だが、40年といえば、これはもう人間の全生涯だ。老齢もいいところだ。40年以上生きのびるなんて、みっともないことだし、俗悪で、不道徳だ!だれが40歳以上まで生きているか、ひとつ正直に、嘘いつわりなく答えてみるがいい。ぼくに言わせれば、生きのびているのは、馬鹿と、ならず者だけである。ぼくは世のすべての老人たちに面と向かってこう言ってやれる。尊敬すべきご老人がた、銀髪をいただき、ふくよかな香りをただよわしているご老人がたを前にして言ってやれる!ぼくにはこう言うだけの権利がある。なぜなら、ぼく自身、60までも生きのびるだろうからだ。70までも生きのびるからだ。そうとも、80までだって生きぬいてやる!・・・」(本書より)

☆まっくろい観念文学の魅惑―
この本は15か、16の頃に読んだ。
とても衝撃的―で、髪が重力に逆らって、ぴんと立った。眼がびかびか光った。
「あ~ まぢ やべっ・・・どふとえすすき~(―とあの当時はよんでいた)つか 文学こ~さいっ!」―とはじめて思わされた本だった。強い感動から、思いあまって、両手のコブシを高く突き上げたりした。「YEAH!!」とはいわなかったけれども・・・。それから、しばらくは、あんま寝ずに、夜な夜な、ロシア文学を読みふけるようになったんだけれども、そもそも、この「アンダーグラウンド―地下室―」な、うす暗く、反社会的な、でも―黒びかりする、あやうく、魂をうばわれてしまうようなほどに魅惑的な「反逆する魂」の本に出会ったからだった。

こんな、まっくろい観念の、こんなにも甘美な誘惑がこの世にあったなんて―!
と、びっくりした。
それは、その年のおおきな事件だった。

「へん!・・・っ~かぁ~ーオレもこんなふうにモノ見てみてぇ~もんだな・・・世界に背をむけて、地下室にこもって、まいんち、まいんち、反逆の夢にでもおぼれて、どっかで野垂れ死ぬってのも、こんな「核抑止プログラム」のはりめぐらされた退屈な包括的核管理時代の「糞みたいな生」にとっては、悪くはねぇかもなぁ~!」

・・・など、と―考えたかどうかはさておき、それ以来生きるのが、「馬鹿らしい」ことだと考えるようになった。いまでも「生命」というこの自己複製プログラムは、FUCKなところがあり、人間はおろかで、叡智はどこまでいっても叡智でしかなく、言葉はレトリックのまやかしであり、感覚や認識は頭脳の幻想でしかないんだろうな!―と、いう根本的にペシミスティックで、昏い感じはつづいている。だいたいこの世で言われていることの99パーセントは、せいぜい人生という本質的な「夢」をより好く生き得る処世術や体験や行為、蓄積―などの演技を演出する機能的方法論にすぎない。ダーウィンやカスタネダ、ドゥルーズが言ったように、ほんとうはそうではない。宇宙は恐ろしく広く、深く、暗く、観念や人間的な理解を超えたものだからだ。光など瞬間のまほろばにすぎない。

「けっきょく、この世界に生きているのは醜いのと、オツムの弱いのだけ。美しくて、賢いのはさっさと死ぬ。さっさと死ぬから、超然と、およびがたく美しい。それなのに、醜くて馬鹿なのだけが生きていて、自分たちは賢くて、美しいと思っていやがる。ちぇっ!まったく、なんて下品で傲慢で最悪な世の中なんだろう―」

光はまやかし。
闇だけが本当のこと―

そんなものだろう☆

☆苦痛は快楽―反社会・非合理精神
もっとも、だからといって、馬齢を重ねた、今、光が無価値なのだろうかと考えてみると、そうってわけでもない、光の世界はもろくて、こわれやすくて、危ういものなところがあるから、それはそれで貴重なものだとも思う。光も闇もおなじように大切なもので、この中間地帯にあるグレーゾーンの影だって、日本人のみなさんがよくご承知のように、なかなかなものである。曖昧な弱さだって、さ。

さて―そんなわけで、光の世界に見える「地下室の手記」という闇の作品の影を以下描いてみよう。

この作品は1864年、42歳のドストエフスキーが描いたものである。
フランスの作家アンドレ・ジットはこの作品を「ドストエフスキーの全作品を解く鍵」と呼んだ。以下―本書「あとがき」よりの引用。

「今世紀の初頭、ロシアの思想家シェストフはその著「悲劇の哲学」(1901)でこの「地下室の手記」にはドストエフスキーをみまった「もっともはげしい転機が突然あらわれている」と指摘し、この作品から、ドストエフスキーは処女作「貧しき人びと」以来持ちつづけてきた人道主義、さらにひろくは理性や人間への信頼を突如として喪失し、永遠に希望の消え去ったところで生きていかなければならない「悲劇」の領域に足を踏み入れたのだと断定した」

それがシェストフの言うような「悲劇」なのかどうかはさておいて、やや敷衍して言えば、本書には理性的な合理精神から、本能的な非合理精神への変転がある。人間への信頼から人間への攻撃へ。希望から絶望へ。正の精神から邪の精神へ。そうして、そのことによって、作家としてのドストエフスキーは比類なき深みへと足を踏みいれ、後につづく大作群「罪と罰」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」でくりかえし描かれる正邪のすさまじいせめぎあいの理論的前準備をした。非合理精神―すなわち精神的な邪、反逆性、悪の原理をこの本ではある独特の熱度で論じており、この熱が感染性の魅惑を孕んでいることは日本での今なお冷めやらず、時折、烈しく燃えさかる「ドストエフスキー熱」に明らかだろう。

そして、なにより、邪の精神―非合理精神―は正の精神―合理精神―に比べると個性的で複雑で、それ故魅惑的だ。

☆ドストエフスキーと日本人
つい先日も「カラマーゾフの兄弟」の新訳(亀山 郁夫訳)が話題になって、ベストセラーになっていた。ずっと気になっていたのだが、それにしてもどうして日本人はドストエフスキーがこんなも好きなのだろうか?ドストエフスキーにうなされ、感染し、取り憑かれる作家は「あまた」だし、読者もまた「あまた」である。
それはなぜなのだろう?

以下―わたくし個人の意見を述べる。

それはドストエフスキーが「ロシア人」だったことにあるのだ―と思う。
どういうことだろうか?―「ロシア人」であるということ、それは西洋人と東洋人のあいだに位置していており、宗教的にはヨーロッパキリスト教世界の東の果てであり、独特の民族的アイデンティティを持っているということだ。「タタールのくびき」といわれるモンゴル人支配を200年にわたって受け、ヨーロッパでもなければ、アジアでもない微妙な立ち居地。こういった微妙な状況は「脱亜入欧」を目指し、結果、アジアでもヨーロッパでもない国家をつくりあげることになる近代日本的意識にかなりの「親近感」を感じさせたのではないだろうか?冷戦構造崩壊後、文化・政治的な「ロシアパッシング」は日常レベルだけれども、さかのぼれば、かつて共産主義国家成立の熱気を孕んだ時代のなかで日本が、欧米諸国にはないような文化・政治・国のあり方に対するある「熱っぽい視線」―欧米諸国とくらべて、どこか垢抜けないが、その垢抜けなさを愛する視線―をソ連に注いだだろうことは想像に難くない。それは大国中国というファクターや、やや屈折した回路を伝わって、サブカルチャーやファッションの中にいまでも生きている。(すなわち「先どるということ」、シュールレアリズム、ドゥルーズ、五月革命、全共闘世代、中上健二、北野武ゴダール「中国女」、YMO、コムデギャルソン、山本耀司、ロック、エレクトリックミュージック、あるいは赤塚 不二夫(「狂犬トロッキー」)、宮崎、富野や押井のアニメ―ション―もう一つの価値、ポストモダンなオルタネィテブ)夏目 漱石の著作にあるような洗練された文明国家イギリスに対する共感と迷いと戸惑い、逡巡。その逆説としてのソ連と中国への関心。サブカルチャーに通じるような、シュプレマステイックな「ネオ・モダーン」の最前線としての「共産主義思想」。アンディウォーホルなど、POP ARTには同じであること、機械反復、毛沢東など、共産主義の理念が見え隠れすることは周知のとおり。ある意味では「オバマ次期米大統領」を先取って、グルジア人にもかかわらず少数民族として皇帝のようにふるまった独裁者「スターリン」(ロシア、トルコにおける少数民族が大国を統治するというロシア、西アジアの伝統的前衛主義)やその旗振りとしての左翼運動家。そしてドストエフスキーにあるのはそういった期待と希望を丸ごと受け入れる懐の深い思考なのではないだろうか?たしかに、ドストエフスキーには欧米への憧れ、そしてそれに反する個人的―非合理精神、絶望、あるいは泥臭さが同居しているように見える。「カラマーゾフの兄弟」を見てみよう。ドストエフスキーはスメルジャコフの愛人マリアの口を通じて、民衆に普遍的な憧れを描く。ここにあるのは、ある意味では日本の現代と同列ともいえる欧米社会への憧れ以外のなんだろうか?

「でもそういうあなた自身もまるで外国人みたい。すごく上品な外国人みたいよ。こんなこと言うの、とても恥ずかしいんだけれども」(カラマーゾフの兄弟(上)P564)

あるいは終末部において、父殺しの嫌疑をかけられたミーチャの脱走計画の行く先(「カラマーゾフの兄弟」)やスヴィドリガイロフの逃亡先(「罪と罰」)としての「アメリカ」―もっともここで登場するアメリカはどちらかといえば、F・カフカの「アメリカ」-つまり、想像の投影でしかないアメリカなのだが―そこにはカフカ同様、この未知の新大陸にたいする憧れがひそんでいるように読まれる。こういった心情的な両義性、アンヴィバレントの上に作品世界が成り立っているということが、日本人にとって、欧米仏文学にはない、別の共感を呼び起こさせるのではないだろうか。現在でもひきつづくユーラシア大陸の大きな国土、他民族でモザイク状の大きな民衆、不器用で泥臭く、野蛮で未発達な地帯―その欧米社会への憧れと反発。独特の生活様式、文学的磁場。

☆ロシアの中央集権精神―苦味のなかの快楽―苦悩は偉大なものだからです
ドストエフスキーは三島由紀夫に似て、民主主義が好きではなかった。

「民主主義は数学のようなものです。黒の数が多ければ黒の勝ち、白が多ければ白の勝ち、そのプロセスには美しさがありません。民主主義には儀式的要素や神秘的なもの、(ドストエフスキー的な意味での)理想や夢がないのです。」

そうしてドストエフスキーは、おそらくは彼の作品・精神世界の実現として、作家的エゴとして―、皇帝の権力による専制政治を望んだ。ある意味で東洋的な中央集権システム。(そして今またロシアは改憲という形で中央集権化を推し進めている。2008・11・28、憲法改正案が下院で承認され、大統領の任期がのび、プーチンが党首を強める与党・統一ロシアによる集権化が加速された)中国共産党をふくめ、ユーラシア大陸にいまだ根づよいこの権力統治の構造は、実際、民主国家とは別の意識のあり方、存在のあり方を意味しているのだと思う。ここ30年ほど、世界をリードした支配モデルは合理と機能による「アングロサクソン・アメリカンドリーム―新自由主義市場―」だ。日本はそれを補佐し、支持し、2番手として、支えつづけてきた。それは大衆の夢であり、「夢」―つまり欲望の詩的昇華、経済の幻惑的ふくらまし、シャンペンバブル、モノのソフィスティケーションによるデザインされた消費生活、SEXやドラッグを含めたテクノロジカルな透明性、アニメ的にショーアップされた市場におけるあらゆる快楽の透明な見せびらかし、ポストモダンな多元主義、性としての女「性」のきらめかせ―等々、日本にありふれた風景になっている。これらは透明で濁りがないかわりに、神秘がなく、機能と合理に艶めき、俗、POP、マスメディア―テレビ、新聞、映画、ネット、グーテンベルグ以降の書籍―といった大衆の文法の無前提の勝利を意味している。だが、欲望を開放し、個性によって分化し、構造化された快楽をパワフルに見せびらかすことは、アメリカが今思い知らされ、おそらくこれからなお思い知らされるだろうように、ある意味では両刃の剣だ。そこは「生」の欲望と快楽に対して、「死」の欲望と快楽がつきつけられる意識の舞台となる。この逆転は案外容易であり、これらふたつは欲望と快楽の地平において同等だ。アメリカが力と正義をかざせばかざすほどに、逆転した力と正義が対置され、持つものの生への欲動―エロスが欲望されればされるほど、持たざるものの死への欲動―タナトスが欲望される。「テロル」はここに起きる。つまり持たざるものが持つものに対して言葉を言う手段として。生の欲動にたいして、死の欲動を突きつけること。人間の意識をめぐるバタイユ的なパラドクスはおそらく人間が人間である以上、克服されず、叡智の周りをさまよいめぐるものだろう。そして、イスラム社会やロシア、中国や旧共産圏国家が暗黙裡に同意していることは、日本もふくめた、欧米、西側社会の価値はひとつの価値であり、その価値に属することが果たして人間にとって最善であるのか―という問いかけではないだろうか。もしかしなくとも、近代国家はひとつの価値にすぎないのではないか?別の方向はありえないのか?一元的なアメリカ帝国支配―パクス アメリカーナだけが価値なのだろうか?国家もまた人間が形成している以上、人間的な枠組みから離れたものではなく、人間の感情や思考を原型として、展開されるものではないのか?もし価値が一元的なものとして、日本や欧米といった平和と自由、民主主義のもとに統合されるものであったら、それこそ、価値は中央集権的で、一元的な、やわらかな管理システム、母性的な管理抑圧の内側でまどろむものとして、旧東側陣営がたどった道をそのままなぞってしまうことになりはしないか?なにより、欧米もふくめ、わたしたちは本当に民主主義の中にいるのだろうか?自由は本当か?けっきょく、旧西側陣営の目的は世界をよいとされるシステムのもとに核抑止管理・抑圧し、占領統治という国家暴力によって、ブレインウォッシュ、洗脳し、世界は平和になったという幻想を見るためにあるのではないか?あるいはIMF―国際通貨機構を中心とした市場原理を社会の中心に置くことによって、市場淘汰のメカニズムの中で人員調整し、人間を首切りし、その優劣を競わせ、ある人間を悪として収容所に「隔離」し、死刑という形で「排除」することははたして人間として好いことなのだろうか?―というより人間に人の生き死にを決定する権限があるのだろうか?(レヴィストロースによれば、インディアン社会はそうではない社会を築いていた。この意味でわたしたちの社会は「野蛮」とみなされるインディアン社会に劣るものだと言える。現代人は「テロリスト」と呼ばれる人々が体で知っているように、リスク管理を前提とし、二元論化された「隔離の暴力」によって、本物の血も涙もない「糞の社会」を築いて喜んでいる。これは文明社会の、「文明」といわれる概念についての問題だ)資本の命題として、未来を担保にアメリカ人が「素敵でクリエイティブ」に消費に消費を重ねた結果、どうなった?日本や欧米、中国、ロシア、ドバイに残されたのはアメリカの資本エネルギーの爪あとではないのか?あきらかに、世界はあまりにアメリカに牽引されすぎている。資本は一極集中すべきではない。(だが、アメリカのような解放的な他民族混交の実験国家を他のどこの国ができるのか?フランスには無理だし、イタリア・スペインにも無理だ、中国は出来ないし、日本なんていわずもがな―)。もっとも、その精神の波及、欲望の自由な肯定、女性性のきらめかせはわたしたちに何をもたらし、生をどう豊かにするという?二極化をひろげ、出来るものと出来ないものを隔てた自由主義市場の功罪は大きいのではないか。そして結果として得られた資本の快楽がなんだという?「知の快楽」―すなわちないことの快楽、COOLの快楽、やせたソクラテスの快楽、ロシア的快楽は苦味と謙虚さ、恥じらいの中の快楽だが、「肉の快楽」―あることの快楽、HOTでFUNKの快楽、太った豚の快楽、アメリカ的快楽は甘く、見せびらかす、わがままな快楽であって、俗の、POPの低級さ、低俗さを意味してはいないか?大人の快楽は苦味の中の快楽だ。アメリカはロシアを見習う必要がある。そして日本もまた―。

資本主義や新自由主義市場のなかで、否定されたり、見過ごされているが、わたしたちは苦痛の中の快楽を知ることだってできるのだ。そしてそれはドストエフスキーが教えてくれることのなかでもっとも大きいものなのである。つまり―マルメラードフであり、ソーニャであり(「罪と罰」)、キリーロフ(「悪霊」)だ。

「いまはわたしの言葉を信じませんが、やがてそれに注意をとめるようになります。なぜなら、ロジオン・ロマーヌイチ、苦悩というものは偉大なものだからです。わたしがでくでく肥っているからといって、そんな皮肉な眼では見ないでください。それとこれは別ですよ。ちゃんと知ってるんですよ。そんなことを笑っちゃいけません。苦悩には思想があります・・・」(「罪と罰」P332)


☆闇―宇宙へと向かって開かれる文学の力
「ぼくらがときたまとてつもないナンセンスをしたくなるのも、ぼくらのあさはかさから、このナンセンスこそが、あらかじめ予定された何かの利益に到達するいちばんの近道だと思い込むからなんです。だから、もしこうしたことが全部ときあかされて、紙の上で計算されてしまったら―そのときには、むろん、いわゆる欲望などというものはなくなってしまうでしょうよ。だって、もし将来、欲望と理性とが完全に手を結んだとしたら、そのときにはもうぼくらは理性的に判断をくだすだけで、欲望なんか持たなくなるでしょうもの。なにしろ、理性を保ちながら、意味もないようなことを望むなんて、つまり、みすみす理性にさからって、自分に悪しかれと望むなんて、どだいありえないんですからね・・・略・・・つまり一言でいえば、もしそんなことになったら、ぼくらはもう何をすることもなくなってしまう」(本書より)

ドストエフスキーがもうひとつ準備したこと。
それは非合理主義と幻想性、あるいはナンセンスの領域である。そして、そういった領域を独自の手法で切り開くことによって、19世紀文学・芸術から20世紀文学・芸術といったいわゆる意識活動全般への橋渡しをした。この影響下にはたとえば、ダダイズムがあると思う。あるいはその流れを受けたシュールレアリズムがあり、アンドレ・ブルドンがおり、サルトル、ベケット、カミュ、デュシャンがいる、第二次大戦後、そういった潮流がアメリカにゆきウォーホルらのPOPが、ヴェルヴェット アンダーグラウンドが、バロウズが、バラードが、ゴダールが、その発展系としてデヴィット リンチが、ローリー・アンダーソンが、マシューバーニーが、あるいはビョークがあらわれる。日本では太宰治が、坂口安吾が、埴谷雄高が、「死ね死ね団」が、ダダイスト三島由紀夫が、手塚治虫、村上龍などが―登場した。やや大雑把なものだという謗りはまぬがれないだろうけれども、ぼくにはこれらの流れは、原理的にはドストエフスキーが準備したものの延長線上じゃないのだろうか―と思われる。つまり、彼らの表現活動は―神の死、人間の自由、非合理精神、幻想、ナンセンス―という意味でよく似ている。わたしたちが現在位置している時空間は21世紀だが、今という時代認識の「礎」というべき認識をドストエフスキーに読みとることはたやすい。おなじ原理の反復がそこに読まれるからだ。やや離れた視点から、物事の認識の仕方、意識の方向性、集中のあり方をめぐる共通性は人間というFUCKな「種」が進化という命題をかかげながら、ここ100年、あるいはもっといえば2000年ぐらい、逆にいかに「進化していないか」を指し示している。(ドゥルーズと前プラトン主義「ストア派」の関係を見るがいい(「意味の論理学」)人間進化などはおしなべて「幻想」である。わたしたちは過去に比べて、進化もしてはいないし、ましてや、賢くなど少しもなっていないだろう。むしろ愚かになり、豚になり、より醜くく、低俗で、大衆化、すなわち女子供化し、救われがたいように白痴化している。21世紀に生きる人々はより光ー世界のうさんくさげな「みせかけ」の影に踊り、影に淫し、影を求め、そうやってやがて影に消えるプロセスにいるだけであり、堕落した人類はやがて消滅する時空間の巨大な闇―宇宙の力にうちふるえるだろう。ドストエフスキーはその闇―宇宙の力に気がついた。わたしたちは光の中に意識を踊らすが、その存在は光の中になど断じていない。闇―宇宙の中にいるのだ。混迷と混乱、非合理と幻想、ナンセンス。それこそが真実のエネルギーであり、残りは滓のような影だ―と、ドストエフスキーはこの「地下室の手記」のなかでそう述べているのであって、文学の力はこの闇―宇宙にむかって開かれるべきなのである。
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