カテゴリ:展覧会評( 10 )

☆六本木アートナイト
3月28日、「六本木アートナイト」へゆきました☆
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さて、えっと、知らない人のため、ちょっぴり説明します。
このイベントは六本木を「アートの街」として認知させようと、東京都が主催して、六本木にある3ヶ所の美術館、ミッドタウンのサントリー美術館、森ビルの森美術館、それから新国立美術館―をつないだ「アートトライアングル」を聖地巡礼(?)し、3月28日の一夜をアートによって彩る「夜の芸術イベント」です。
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じっさい、この夜を盛り上げる3つのイベントが用意されていました。まず一つ目は未来的なサバイバルをテーマにコンセプチャルな作品をつくり続けているヤノベケンジの「ジャイアント トらやんの大冒険」という巨大ロボの物語、それから平野治朗の「GINGA@六本木」という風船ライトによる作品、そして「アートトライアングル」にひしめく無数のちいさなBOX(すべて同一のキネティックアート風)アートキューブです。さらに六本木の高層ビルの景観に飛行船が飛び、森万里子や中谷の霧のインスタレーション、さらにDJ、VJ、JAZZライヴなどなど盛りだくさんな内容でした。

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「ジャアント トらやん」
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「風船ライト」
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「アートキューブ」

☆まとめ
えっと、あんま、時間がないのでいきなり「まとめ」です☆

イベント開始の合図として、巨大ロボ「トらやん」が火を吹くんですが、それがあまりにもアッという間におわってしまったのは、ざんねんでした。写真撮ろうと身構えていたのに、取れなかったという個人的な感情こみです(笑)。う~ん、全体としてはとても日本っぽかったなぁと思いました。あんまり六本木ヒルズにはいないで、後半はミッドタウンべったりでした。ミッドタウンの芝生に飾られた風船ライトは奇麗で、不思議な叙情をかなでていたし、六本木がすこしだけ違った角度から体験される「異化」みたいなものが面白かった。ちょっぴり、日常と違うっていう「ズレ」を楽しみました。

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「東京ミッドタウン」

ただ、警備員がおおくて、肩がこったのは六本木という場所柄しょうがないのかしらん。もぉ すこしリラックスして楽しめたらよかったと思いました。なんだか、ずっとなにか起きないようビクビクしているような感じもして、突っ込みと興奮が弱かった。ヘンな場所いって、怒られちゃったし―、逮捕されたらどうしよって意味もなく思いました(笑)―べつに悪いことしたわけじゃないんですが・・・。

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さいごに、28日はちょうど寒かった。風が冷たく、春とはいいがたかった。
それが春をイメージしたイベントとミスマッチでした。はやくあたたかな春になって欲しいなぁ~と思いました☆
by tomozumi0032 | 2009-03-29 22:59 | 展覧会評
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☆ピカソ
「ピ・カ・ソ―」

―と、軽くここちよい「○」の破裂音を喉でふるわせて、でてきた音を唇にのせて、空中でつなぎあわせてみる、と―エキゾチックで「きん」としたヴィジョンが見える。

好い音のひびき―

すこし金属のにおいがして、どこか乾いていて、カラフル。
地中海のPOPで奇麗なシャンパンのよう―

それは、未来的でありながらも、どこか懐かしい。

わたしたち、人類のおそらく永遠にかなわぬ未来の「夢のかけら」だ。
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☆アンヴィヴァレンスなピカソ
ないだ、な、んだけれども―

ピカソ展を新国立美術館へ見にいった。

個人的に、ピカソにたいしてはいろいろある。
BCN―バルセロナ―以来、つきあいの長い作家だし、BCNでは、たいがい赤ワインにしたたか酔いしれて、見た。

絵やART、芸術はしらふで見るのは興が乗らず、つまりあんま面白くなくって、やっぱり、酔いしれて見るのがいちばんだと思う。

なぜって、だって。

だ。

っ。

て。

だって、ね。
―純粋な子供の心にかえって、無邪気、天真爛漫、感じることのおもいがけない破裂を、愉しむ以上に、愉しいよろこびったらないんだから―

遊びごころ―感じることのたわむれ、とやら、に、よって魂の輪郭をトレースし、画家の魂とみずからの魂とを近づけようとしてみること―

さて―いま、すこし、はなれた地点から「ピカソ」を見ると、その表現スタイルのとても幅ひろいひろい広びやかな変化にたいしては「20世紀」という時空間的色彩の強い表現形式を思う。

原始モダニズム。
解体と再構築。
変化―メタモルフォーゼ。
ギリシア神話と素朴な男根主義。
健康的マチズム。
悲しみと愛のよろこび。
知性と本能。
そして女性への飽くことのない憧れ。

―等々、おしなべて、「両義的」で「二律背反」。

すなわち―

「アンヴィヴァレント―」

でも―

「でも、美しい。美ー」

「豊かで奔放な芸術的才能」

「絵」

「それは、表現としての言葉」

「原始象形文字」

「抽象と具象。現実と夢、力強さと繊細さ、原始とモダン・・・」
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☆未来のミノタウルス―その名こそ、ピカソ
う一度、言ってみる。
ピカソはきわめて「20世紀」的な色合いの強い画家である。
彼の特徴は―と、一言で言おう。

それは、「変化」―メタモルフォーゼだ。

伝統と革新―すなわち、「アンヴィヴァレンス」をめぐるメタモルフォーゼ。
男と女-すなわち、「セックス」をめぐるメタモルフォーゼ。
動物と人間―すなわち、「アイデンティティ」をめぐるメタモルフォーゼ。

これらのメタモルフォーゼの中には現代文化、20世紀文化をめぐる理念がある。

ベラスケスの侍女たちのパロディ、あるいは古典的な芸術をめぐる軽やかな「置換」、モダニズムの理念は交換すること、置き換えること、取り替えることによって、その存在の上澄みをはねること、抜き出すことにあるということを、ピカソは体で体現してみせた。

天衣無縫な「好奇心」―
灼熱に燃える対象への「憧れ」-
表現スタイルに対する「研究」と「解体」―
想像と創造の「力強さ」-
かなわぬ愛と描くことへの烈しい「エネルギー」-

人間の領域にたいする「拡張」

「自由」

「愛」

動物的な暴力としての「色彩」

息詰まるような、「瞬間」に、暴発する感情の巧みな「表現」

おりたたまれているのはなんだろう?

それは―

「未来」と「太古」

未来のミノタウルス―

その名こそ、「ピカソ」

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☆picasso picasso picasso。
ういったエネルギーに触れて、その、色彩に艶めきながら、ゆるゆる、ほつれてゆくのは心の綾目。

軽やかで色彩ゆたか―
情感あまねく地中海の太陽と色彩の眼もくらまんばかりのまばゆい破裂。
自由で、愛に満ち、美しくって、ああ なんていったいいのかしらん・・・。

うまい言葉がみあたらない。

とりあえず―

「夢の時間の暴力的な演出者」

―と。
でも言っておこう。
こっそり―と。

すべての芸術は個人にとっての「暴力」、「テロル」なのか、そうではないか。
ただ、それだけだ。

そして、ピカソは見事に「暴力」、「テロル」だった。

それがすばらしい☆

ピカソ、ピカソ、ピカソ。

そんな、展覧会だった。
by tomozumi0032 | 2008-11-30 05:49 | 展覧会評
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☆初夏のうだるような暑さ
◆このあいだ、渋谷の東急文化村で催されている「ロシア アヴァンギャルド展」へゆきました。

◆むせかえる初夏がうだるようですが、初夏の陽光のきらめきの透明さは、湿気にぬれる大気を透かします。しばし時のながれが透明になって、風景がかろやかでいまにも消えてしまいそうに見えてしまうのは、この季、特有のものでしょうか。

☆ロシアではなくてソヴィエト連邦の美術
◆さて、この展覧会は「ロシア アヴァン」-ロシアの前衛-を扱ったものです。一応、表題には「ロシア」とありますが、字義的本来にひるがえってみますと、「ロシア」ではなくて、20世紀初頭におきた「ソヴィエト連邦」と密接な関連性をもつ展覧会です。表題は「ロシア」よりは「ソヴィエト」の方が適切だったようです。

◆なぜなら、展示物からいえば、ソヴィエト連邦共和国的な「永久革命」の理念と帝政ロシア的、スターリニズム的な「永久革命」の削除、そして社会の「停滞」がまじりあっているからです。

解説が、もうすこし政治なものとパラレルの関係性をもつ「芸術表現」として描いてみせたほうが、文脈からの理解が深まったように思います。

◆もちろん、短絡的で回路的なポストモダンの展示といってしまえばそれまでですし、POPな大衆啓蒙というラインでいえばそれはそれでしょうし、いままで実物がみれなかった実物を見たという意味では、まあ、それなりだったのですけれども、そのじつ文脈がよくわからない「ごったまぜ」の寄せ集めといった印象になってしまったし、すくなくともクリアーな理解にはいたれなかった。

◆たとえば、シュプレマティズムでロシア アヴァンを代表する画家として有名なマレーヴィッチ(上-写真)にしてもどうしてああいう表現形態に至り、そして最終的に陳腐な具象の自画像へとたどりつくことになったのか?あの表現過程のあいだにあったのは「革命」とその「停滞」(レーニンからスターリンへと向かった政治支配のあからさまな芸術への介入)ということではなかったのだろうか?-と考えると、頭がもやもやしてしまいました。

なんだか、展を見終わって、なおひときわ、謎がふかまった。それでなんでだろうなぁ~?、どうしてなんだろ?、いったいぜんたいなんだったんだろ、あれは!ーと首ばかりひねり、ぽわぁ~ん・・・と湿潤にたるくけぶるパステル色の空ばかりをみつめるような感じでした。
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☆革命から停滞へ-機械から人間へ
◆ここでは、すこし展覧会の補足をしてみたい誘惑にかられます。
つまり、「ロシア アヴァン」の表現そのものの背景を支えていた20世紀という時代のソヴィエト連邦の歴史的なあゆみとはなんだったのか!-ということを、「ざ」と見て、補足としてみたいのです!

◆旧西側諸国、芸術の都だったPARISとの交流、現実を解体し、バラバラの地平へと投げやるキュビズムの影響、はなばなしい革命への理念、1917年の二度の革命、そしてそれからおこった「血の粛清」とよばれるスターリンによる圧倒的な「革命分子の削除」、そののちのゆっくりとした眠りにはいった停滞、まどろみの夢による退行、状況が決定的になってからの雪崩をうったような社会システム崩壊とその混乱、最後に現代にいたるやや強権的で集権的な民主化過程といったことがぎゅっと圧縮されて、あまり解説なく、展覧会にはつめこまれています。

◆日本にくらべると、考えに考え、紆余曲折をへて苦労し、社会主義システムというシステムを配給し、アメリカとの見えない、おこりえない核競争にあけくれ、東西冷戦の冷たい抑止のプログラムを組み立て、「キューバ」をめぐる危機において人類を滅亡の瀬戸際においやり、巨大に肥大化したシステムをかかえ、虐殺とシベリア送りという矛盾をかかえ、中国同様、まよい、とまどい、ためらいながらもそのおおきな歩みを重ねていった国ロシア。血しぶきの紅にそめあがった赤軍や社会主義システムは日本からみると、白昼夢のようなものだったのだろうか?そしてその白昼夢は表現そのものにどのような影を影をなげているのでしょうか?

◆その意味で上述した画家マレーヴィッチは格好の題材です。初期のはなばなしい未来主義から後期の退行的な自画像へいたるまで、その足取りは革命と停滞という政治状況と密接にかかわっているからです。

◆さて、これはスロヴェ二アの評論家スラヴォイ ジジェク (VIDEOはこちら☆映画のなかに見事に溶け込んでます☆う~ん すてき!)がぼくごときより、ずっと上手に説いてくれています。その文章を見てみましょう。

「1920年代初頭におけるロシア前衛派芸術(未来主義、構成主義)は、産業化を熱狂的にみとめたばかりか、新しい産業人なるもののアイデアさえ語るようになった。
もはやふるいタイプの人間がもつ感傷的な情熱やその伝統的な根ではなく、調整された巨大な産業<機械>のボルトあるいはネジという自分の役割をよろこんでうけいれる新しい人間のアイデアが、それだった・・・中略・・・このアイデアはリベラルな個人主義にとっては組み立て作業のイデオロギーの対応物とみなされ、究極な悪夢とされているが、そうした悪夢として西欧に感じられていたことは、ロシアでは、しかし、開放のユートピア的な展望として喝采をあびていた。」(迫りくる革命-レーニンを繰り返す(P149))

この一説はおそらくシュプレマティズムを唱えたマレーヴィッチの表現を支え、いまなお、斬新なイマージュを提供してくれる理由だと思います。つまり-西欧で受け入れられなかったことを後発的な国家が「社会主義革命」の理念の中でおこなってみせるという心意気だったのではないでしょうか?でもそれは長く続くことはありませんでした。革命機械はより人間的な顔をしたものにおきかえられなければならなかった。テロリズムをたたえる革命は国家を不安定な状態にしてしまうからです。トロツキーとの権力闘争に巧みな手腕でうちかったスターリンが目指したのは、革命ではなくて、国家の安定でした。そもそも革命によっておきた国ですから、革命分子を皆殺しにし、血で血を洗わないことには、権力はすぐにおびやかされてしまい、国家は不安定になってしまう。やらなければ、やられる-といった危うい綱渡りと不安定な孤独の中でスターリンはつぎつぎと共産党員や軍の幹部の人々を粛清してゆきます。そうやって、おとずれた社会安定は競争もなく、野心もなく、したがって(もちろん人によって差はあるでしょうけれども)まだるっこくも居心地がよく、ねむたげな平穏につつまれたものだった。(展のおしまいにあるマレーヴィッチの肖像画はそういった平穏さの退行した芸術家の肖像ではないのでしょうか?)そうしてそのねむたげな平穏の時-あたかも時間のおわり、現在開かれている資本システムのナラティヴとしての歴史のおわりとはちがった、べつの歴史のおわりの中でソヴィエト連邦と社会主義システムは甘くまどろんだ。旧東側圏の表現のなかにあるノスタルジックな甘さはおそらくこの停滞と平穏のまどろみなのです。その結果、資本主義の技術発展と摩擦と軋轢をおこし、自壊していった。現在、わたしたちが日常的に享受している資本主義経済システムがそうであるように、資本主義は「恐慌」や「危機」といった不安定さを内にひめもったプログラムです。こういった「危機感」を先鋭化させることによって、競争させ、人々のエネルギーを総動員し、GDPを押し上げ、国際競争をさせていきます。そういった競争社会のただなかから、ロシアがみた彩り豊かでおおきくて、ユニークな夢想-「20世紀のユートピア」とその顛末、その打ち捨てられた「夢想のかけら」をながめやるのは20世紀をめぐる複雑な状況のある断片をみるようで、エキサイティングな体験でした。

☆ロシア人のすさまじく夢見る力
◆個人的に佐藤優の「地球を斬る」の愛読者ですが、ぼくは官僚でもないし、ロシアを佐藤ほど敵視するような考えはありません。むしろ、村上龍の小説にあったように、もし、第二次大戦後、ロシアに占領されていたら-韓国のように資本主義と社会主義のイデオローグ対立によって、列島分断の脅威がせまっていたら-日本はどんな風になっていたのかしらん-と想像します。より原理的で、主義と論理を重んずるようになっていたのだろうか?テロとおおきな国家暴力にさらされ、独立心をたくましくしたのだろうか?アメリカの軍事統治の傘のした、すくなくとも今のような政治的無関心を装わずにすんだのではなかっただろうか?外交は鍛えられ、逞しくなったのか?政治と弁舌はより発達したかしら?・・・でも、ロシア人は「血を混ぜる民族」だから、婦女子は徹底的にレイプされて、ドイツのように純潔が陵辱され、混血があたりまえになって、逆に純潔がめずらしがられたりしたのでは?純潔を守るファッション雑誌と混血のファッション雑誌があらわれて、部数を競ったりしたりして・・・雑種のイデオローグと逞しさをそなえた村上的人物があらわれ、キリストとブッダをぐちゃぐちゃに混ぜ、資本主義と社会主義をぐちゃぐちゃにまぜて、その贓物をつかみあげて、国際社会におらおらみせつける、がんと屹立するたけだけしいペニスのような国家になったのでは?さらにいえば、おんなっぽくて、こどもっぽい、幼稚で単純で自然な日本人はもうすこし大人な民族になったのではないか?・・・えとせとら、えとせとら☆

◆それにしても、ロシア人には夢の大きさ、夢見る力のすさまじさがあります。どちらかといえば、アナログで泥臭い。アングロサクソンのように洗練されない力。

そんなものにひどく打たれてしまうのです。
ゴーゴリー、ドストエフスキー、トルストイ、レーニン、エイゼンシュタイン、トロツキー、スターリン、ゴルバチョフ、そしてジジェク-彼らにとってあまり特筆すべきことではないようなふとしたことが、こんな風に世界は見えたのか!こんな風に世界はとらえられたのか!こんな風に物事はかんがえられるのか!-ととびあがらんばかりにびっくりしてしまうような新鮮な驚きに満ちています。

◆やっぱり、ロシア人はすごいなぁ~、ロシア人並みに夢みなきゃじゃん!つか、やべ おれの夢 ありんこじゃん!-と思いました。

こんな夢に対抗するにはいちんち18時間ぐらい、ねなきゃぁなぁ~-なんて。
by tomozumi0032 | 2008-07-20 21:28 | 展覧会評
☆なんだかかんだかいって―
このところ、すっかり英国づいています。
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ダーウィン展へゆき、ターナー賞をめぐる英国の現代美術展へゆき、J・Gバラード、イアンマーキュアンをよみふけり、PSPをビートルズでうめ、かれらの進化論的POPをきき(「ビートル(甲虫、かぶと虫)」、「ルーシー(アウストラロピテクス)インザスカイ」、「イエローサブマリン」―なんて進化論的だとは思いませんか!POPなダーウィン☆)、外へでるときは英ファッションシンクタンクのWGSNを参照し、まっかっけの髪を逆立て、タータンチェックに3つボタンサイドベンツのMODS JKをき、まぶたに安全ピンを突き射し、おでこにぶっといクギを打ち込んで、貧血でふらふらよろめきながらも、これぞ「ダーク ロマンなUKファッション」などと称しています。
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☆英国には他のヨーロッパ諸国やアメリカにはない、特有の個性、特有の面白さがあると思います。

思いつくままに、いくつかあげてみれば、まずはじめに大英博物館に代表される英国の蒐集―コレクション―をめぐる博物学的なものの充実があります。

たしかに、博物学というと辛気くさくて、あの標本のすえた香りがします。死体、腐臭処理、ミイラ、標本、ホルマリン漬け、化石なんてミンナが好き好むというわけではないのですけれども、ぼく個人はどういうわけだか、ああいうものを見ているとほっとするのです。特に、骨や化石にたいする愛着はそうとうあって、骨や化石をみていると「ああ 故郷へ帰ってきたんだな」と思うほどですし、「はやくぼくもこうなりたいなぁ~!骨は火葬しないで、ドクロとして残して欲しいものだなぁ~!」と憧れます。生はうさんくさく揺れるものですが、死は物質となって、そこに現存する。それがとてもすばらしくって、骨や化石に囲まれていると、嘘偽りのない、すっきり爽やかな気分になってしまうのが本当のところなんです。

それから、ふたつめの理由は英国の島国的な編集能力の高さとPOPカルチャーにあります。
これについては、雑誌「FACE」などに寄稿していた音楽ジャーナリストのジョン・ザベージ氏の文章から引用してみます。

「大英帝国の歴史は世界中の素材を集積させて分析し、新たに調和させてパッケージングをするという、独特の能力をこの島国のひとびとにのこした。」イギリス族物語(「P18」)

すこし間口をひろげてかんがえてみれば、ダーウィンからビートルズ、そして現在のPOPカルチャーにいたるまで、英国の独自性、英国の知性、英国のCOOOLさといったものは、日本同様、ある種の地政学的といってもいいような民族をめぐる共通項でくくられるように思われます。

みっつめは上記ふたつを踏まえたうえでの、都市性にあります。
アメリカの都市にくらべると、ヨーロッパの都市はコンパクトで複雑で多様な「分化」をしているようですし、歴史の複雑さもあり、比較的、親しみやいのです。もちろん―歴史をめぐる民族の問題、差異やアグレシヴィティー、ドメスティックヴァイオレントやナショナリズム、二元論的一神教思考構造、過熱し、フロートする資本システムなどなど、日本の都市との違いもまた大きいとは思いますけれども。
現代ロンドンの都市とアングロサクソン型思考システムの諸問題と幸福はマーキュアンの「土曜日」という精緻な都市の心象風景的小説にあきらかです。

☆えっと、さて、それでは・・・展覧会の解説をすこししてみます。
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「ダーウィン」はみなさんよくご存知のように「生物進化」という概念をみちびきだした人です。
簡単にいえば、地球をめぐる長い時間軸のなかで、生物とはなにか、種とはなにか―ということをじっくり考えた人でした。個人的には、この膨大な時間というものがなかなか理解できません。それは人間の歴史や伝統が、ある時間的限定のもとで、倫理や価値をさだめるからかもしれません。あるものがよいものなのか、わるいものなのか―価値判断をするには、ある一定のスケールの物差しをあててみる必要があるからです。この物差しが大きくなったとき、価値はめくらんでしまいます。そんなめくらみがダーウィンにはあって、学問的な業績もさることながら、人間としてびっくりしてしまうのです。
人間中心主義にはおわらない超然さ、スケールの大きさが個人的に思うダーウィンの魅力のもっとも大きいものです。

つづいて「ターナー賞」ですが、優美さという意味ではいつもイギリスのファッションやアートは、ラテン諸国、ルネッサンスの、あの香り立つような優美さの伝統に欠けるよなぁ~と見ていましたが、たしかに優美さはなかったけれども、グラフィックで、インダストリアル、解剖学的で、批評的ユーモアがあって、ブラック。19世紀ヴィクトリア王朝のイギリス紳士は幼女売春と暴力にふけり、なかなかブラックだったらしいですし、そんな感覚とも通底するような、良くも悪くも英国的展覧会でした。現代美術家ダミアン ハーストの牛の体を綺麗に切断して、ホルマリン漬けにした有名な作品がありました。むき出した野性を感じるものかしらん―と写真などを見て考えていたのですが、見てみて、インダストリアルな技術論的風景だと実感しました。それからふしぎなことに、牛の体内の切断風景はどこかグーグルマップの地形の風景を連想させました。器官がむき出した体内の風景にもかかわらずです。テクノロジーが生み出す風景はどこか共通性があるのではないか―なんてかんがえました。

そんな感じかしらん―
最後に英国にしても、日本にしても、大陸にたいして、島ぐにっていつもどこかヘンで、そのヘンな個性が面白かったりするのは、ヘンの意固地っていうか、ヘンの逆説的な主張だったりするというのが、この世界の多様な分化の諸相をあらわしているようです。

ま ヘンはヘンなりに―☆

ヘンでなにが悪い!

―と、日本という「かなりヘンな島ぐに」に生きるひとりとしていっておくことにしませう☆

おわり。
by tomozumi0032 | 2008-05-28 16:26 | 展覧会評
ダブ平&ニューシャネル☆ 
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☆ぷろろ~ぐ
 東京都現代美術館でひらかれていた大竹伸朗(おおたけしんろう)の「全景」展へいってきました。
 
 とちゅう木場公園をとおったさいにメタリックな寒空にもえる紅葉がきれいで、とくに銀杏のマットな質感が風景にとけいり、しとやかな秋を肌身で体験しました。

 それで、銀杏というのが、あんなに綺麗な植物だってことをこの時、うまれて、はじめてしりました。
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 銀杏の葉のぬれたような、つるりとした質感はただのあたたかいという表現をこばんでいて、たしかに色彩は暖色なのでほんわかするんだけれどもあの質感がプラスされるとなんだか暖かさと冷たさが相殺されているような感じがしました。しばらくぼんやり銀杏をみつめているとおおきな質感とぬめらかな色の中に跳び込んだみたいで、ああ なんでこの銀杏ってやつはこうなんだろう・・・どうしておまえは銀杏なんだ・・・すごいやつ いちょう!、となんだかほわほわしてきて、広大すぎる無意識の大迷宮にひきずりこまれそうになったので、あわてて足を美術館のほうへ向けることにしました。

 つくと、入り口で大竹 伸朗氏らしき男が煙草を吸っていて「あれれぇ~」と思いました。
「ほんものかなぁ~さいきんはそっくりさんも多いみたいだし、それに、なんでもすぐにどんどん増殖しちゃう―こんな「うんちつんつくん」で「贅沢はステキ」で「鬼畜欧米」な世の中だから―どうせほんものじゃないだっちゃ・・・そうだ そうにちがいないっちゃ・・・でも・・・う~ん・・・」―な~んて思いながら見ていましたが、どうみても、今月号のART ITの表紙と同じ立ち姿です。めだまを20CMぐらい前方におし出してみていますと、どうやら本物みたいです。でもぼくは男なので、男どうしとして「いきなりサインくださいはなぁ~やっぱなぁ」と思って、フェイントをかけることにして、一度なにげなく通りすぎたあとで、もういちどなにげなく回り込んで、なんとか写真を取らしてもらいましたが、やっぱりサインは頼めませんでした。
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☆のいず23?
 大竹氏は1956年うまれってことで、今年で50歳なようですが、それにしては若い。23にみえてしまいます。ライブハウスでギターから轟音を流していてもおかしくない感じがしましたし、瞳をのぞきこむと、そのなかに少年のお猿がモンキーダンスを踊っていました。しかもそれは一匹ではありません。無数の猿の軍団です。そんなところが―さっすがぁ~と思わされました。
 さらに、むかし、けっこうファンだったボアダムスのヤマタカEYEと「JUKE/17」っていう宇宙パンクを組んでいたようで、これも―さっすがぁ~と思わされました。
 ちなみに未聴なんですけれども・・・。

 都築響一の説明は以下―

 「屋台のオモチャ屋で買った、お子さま楽器を大のオトナがいじくると、オトナのふりをした子供がスタジオっていうオトナの場所で遊ぶと、こういう音楽ができるのか。いいかげんでありつづけようとする意志のチカラ。宇和島のアトリエで、ドレッドのヤマタカ君とスキンヘッドの大竹君が、汗だくになりながら30分近く音を出しまくっていた。やっと曲が終わったのか(その終わりはふたりにしかわからないタイミングなのだが)、楽器(のようなもの)を床において、ヤマタカ君がカセットレコーダーのストップボタンを押し、音をチェックする―「あれっ 入ってませんでした!」。いい年して、いまだにこういうことやってるおっさんにはかなわないな、とぼくはそのとき深く納得した」

 ぎぎぎぎ のいず23?☆
 
 ががががが?
 れっ れれれ?
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☆「全景」てんのせつめい
 大竹氏のせつめいを簡単にしてみます。
 まずはこちらを見てみてください。
 ゴミやガラクタを使ったジャンクな作品でしられています。
 これは蛇足ですが、このあいだ紹介したウィリアムバロウズも、せかいの坂本ことサカモトキョージュも熱烈にファンのようです。

 さて次は、こんかいの展覧会のせつめいです。
 以下はフライヤーから引用をしてみます。

 「日本の現代美術の尖端で常に躍進を続けてきた画家、大竹伸朗のはじめての大回顧展が開催されます。目に映る世界をすべて題材として、質・量ともに卓越した絵画を生み出し続けるとともに、写真・本・印刷物・音など、あらゆる手段を取り込んで、多彩な活動を展開してきた大竹伸朗。常に世代やジャンルを超える熱い指示を得ながらも、その活動の量と幅広さを受け入れられる場が存在しなかったために、彼の想像の全貌は、いまだ謎に包まれてきました。30年間にわたり制作され続けてきた「スクラップブック」全64冊をはじめて一挙公開するほか、少年時代のスケッチから「網膜」シリーズ、<ダブ平&ニューシャネル>、「日本景」、おなじみ「ジャリおじさん」、さらには本展のために制作されたパワフルな新作まで―毎日休むことなく描き続けた時間の蓄積から、選りすぐった約2000点の作品群で企画展示室全フロアを埋め尽くし、大竹伸朗の「全景」を展開します。」

☆リサイクル―再生産―の表現
 ところで―どうでしょうか?
 ゴミやガラクタというのは本当に現代社会においてゴミやガラクタだと言い切れるのでしょうか?ゴミをゴミだとして片付けたり、ガラクタをガラクタとして片付けてしまえるのでしょうか?
 ほんとうにそうでしょうか?

 例えばファッションを見ているとそういい切れないことがわかります。現代ファッションがやっていることはほとんどが過去の焼き直しだからです。正直いって、あまり前に進んでいるようにはみえません。ぎゃくに周期的にまわっているのは60年代だったり70年代だったり80年代だったりする時代のさまざまな要素であって、それらがブランド名のもとにアレンジメントされて、解釈されているように見えてしまいます。

 それからPOPカルチャーをみていてもおおよそ60・70・80年代の焼き直しを、キャッチーだったりわかりやすくだったり親しみやすくだったりしている以上に踏み込んで新しいことというのを提示できていはしないのではないでしょうか?プライマルスクリームやオアシス、ラディオヘッドにしてもアンダーワールドにしてもコーネリアスにしても、レイブパーティやトランステクノにしても、どこかしら慨視感というものが付きまとってしまうのはどうしてなのでしょうか?

 ちょっとおおげさに、「現代社会は一方的な歴史というものをどこかで拒否している」―と、いいたくなってしまいます。あるいはこのあいだの日記のように「時間はひとつではな~い!」―と、いいきってしまいたくなります。つまり―現代社会は生産するのではなくて、使い古された記号やデザイン要素の組み合わせしなおすことによって再生産することによって、ことばをかえれば、ゴミの記号やガラクタのデザイン要素を組み合わせることによって、多元的に構造を組み替えて新しいものをつくりだしているようです。すなわち、現代のように生産過剰な社会では「ゴミ」と「新しいもの」との垣根が非常に低いのだ、といえると思います。
「ゴミ」や「ガラクタ」はアレンジメント次第ではアートになり、あるいはPOPカルチャーになり、デザインになるのです。

 付け加えれば、こういったことは学術の世界では案外古くから行われていたようです。
フロイトは夢や錯誤行為といった取るに足りないこと、それまでどうでもいいと思われていたこと、意識の「ゴミ」や「ガラクタ」からはじめて、「無意識」というものを発見してわたしたちの知覚を拡大させたことは有名な話ですし、そこからシュールレアリズムという芸術運動が生まれたこともよく知られています。フロイトがもしこういった「ゴミ」や「ガラクタ」に着目することがなければ、もちろんシュールレアリズムは生まれなかっただろうし、ブルドンくんもダリくんもマグリッドくんもベルメールくんも瀧口くんも登場せず、現代社会は大きく違った様相を呈していたであろうことは想像にかたくありません。

 あるいは構造主義という西洋近代を痛烈に批判した思想を提唱したレヴィストロースが「「歴史学」「考古学」「文献学」が捨てて顧みない種々の「断片」、「残骸」」、「好奇心旺盛な人々は、いわば屑でも拾うように、他の学問が蔑んで知の屑篭にほうり捨てた知の切れ端、問題の断片、眼を愉しませる細部を拾い集めようとした」といっていることは示唆的だと思います。つまり構造主義という学問もゴミの中から生まれてきたわけです。

 これはもちろん自戒もこもっているのですが、どうしてもわたしたちはピカピカした新しいもの、生産や消費物に目をむけがちなものです。大竹にしても、現代美術館という場でやっているから注目したということになってしまいがちなのですが、本当に時代を予見しているのは、こういったゴミの部分に着眼し、そういったものを丹念に拾い集め、蒐集し、構築し、社会に提示している人たちなのだと思います。作家でも、たとえば―W・バロウズでもJ・G バラードでもW・ギブスンでもT・ピンチョンでもそうですが、ゴミと格闘している人々がこそ社会の未来をつくるように思えてなりません。くわえて環境問題という大きな問題もあります。この世界社会体は物的生産の過剰によるエネルギー過剰のエントロピーに悩まされています。

 生産ではなく、再生産の美学が緊急のものとして必要とされているのです。

 芸術がリサイクルされてなにがわるいのでしょうか?

☆お・お・た・け・し
 さて―はなしを本題にもどしてみます。
 上記の引用にみましたように、この展覧会は大竹氏の「全景」―全生涯、歴史―が詰め込まれていて、彼の人生そのものが、作品によって表現されています。マンガ少年だった小学生時代、北海道の牧場にころがりこんだ時の絵、ロンドン、香港、東京、ナイロビ、メンフィス、ロサンジェルス、アメリカ、モロッコ、宇和島―といった場所の変化がそのまま表現されています。大竹氏はずっと絵を描き続けていて、その集大成を「スクラップブック」だと述べていますが、場所的変転の目まぐるしさも含めて、確かにこれまでの彼の半生はスクラップ的な印象が強くします。スクラップ的というのはどういうことかいえば、カットアップ的、情報のコラージュ、編集的だということです。この展覧会を見る限りではひとつのなにか、それだけに熱心にとりくんだ作家ということではなくて、様々なゴミやガラクタになった情報を情熱をもって、丹念に蒐集し、切れ切れの断片的な世界を再編集、再構築したものだといえるのではないでしょうか。ぼくの記憶ではいくつかの作品はドイツのキーファーと相通ずるものがあったようにも感じましたが、それらはキーファーのような一貫性に支えられているわけではありません。非常に多くの手法、多くの題材、多くの素材の複雑のフラクタルな混合であって、ひとつの主張というよりは、おおくの主張をそのつど世界を引きちぎってはつくり、引きちぎってはくつくるといった作業を繰り返しているような印象で、静物的でスタティックな形態構築というよりは、むしろゴミやガラクタに内在するフラクタルの中の形態をチカラ技で構築するという筋力的な形態構築のチカラに圧倒されます。ゴミという素材を再生産させながら、それらはスタティックな自閉と鬱を併発しがちな現代社会を吹き飛ばすような―萌えいずる生命のチカラに貫かれています。個人的にいえば、重い感じのするものはあまり好きではなく、どちらかといえば軽い色彩のPOPなものが好みですが、このさい、そんなことはどうでもよくなってしまうようなエネルギーの充満具合。とにかくこの創造力は超ド級で、なにより微妙な軽さと笑いの感覚がいいと思う。これだけのものが詰め込まれると逆にどうしても圧迫的な印象は残しがちなんだけど、微妙にそれらを軽くする心意気がいいと思いました。おそらく彼のぴょんぴょんと飛び跳ねるような場所的変転やセンスが、すべての作品に通底する彼を中和して、多様なものに、そしてユーモラスなものとしているように思います。最後に彼の傾向はとかく「風景」やキャラクター、質感、無意識、世界細胞のミクロコスモスとマクロコスモスであって、都築 響一同様に「風景」を表現に閉じ込める人なんだなぁという印象をうけました。

 う・・・う~ん おんなのこは好きじゃないのかしらん(笑)

☆ダブ平&ニューシャネル
 そんなこんないろいろ思いをめぐらしているうちに、情報の量の多さにふらふらになってしまいました。それでやっとこさっとこ地下2階にある、この記述のタイトルでもある「ダブ平&ニューシャネル」にたどり着きました。
 「ダブ平&ニューシャネル」というのは氏が43歳のときの作品で「ダブ平」「エイジ」「ボブ」「アダム」の4人メンバーからなる機械仕掛けの遠隔演奏ノイズバンドのことで、これはライブハウスのギターやドラム部分を切り取った見世物小屋風情でした。キャバレーのような照明に後ろには台座が二列めぐらされ、ぬいぐるみやキッチュな置物、天井からは郵便の送り状のようなものがおびただしく垂れ下がっています。なんとなくAKIRA5巻の大覚様とロックバンドのシーンをおもいだしてしまうような感じでしたが、AKIRAに較べるともうちょっと昭和ロマンスが入っており、メランコリック。表現ベクトルとしては情報の集積という意味でもAKIRAの大友のイメージと氏のイメージは重なり合います、おなじ世代かしら・・・―その脇の掘っ立て小屋のようなところに入り、大竹氏がギターを片手に演奏していて、ダブ平をはじめとした楽器(さん?)群が「びぎょ~ん!!ばぎょ~ん!ががががが~!」と音をたてていました。周囲にはいかにもバッグを垂らして口を右斜め上方に吊り上げて「ヤッテランネ~!ダ~イ(DIE)!」と早口で連呼しそうな男子女子が首を小刻みにチキンのように上下運動させています。どうやら「遠隔演奏」ということで大竹氏が操作すると、ステージの楽器が音を奏でるようです。もうちょっとノリノリになるのかなぁ~と思ってみていましたが、男子女子もいまいち大人しくて、首をつかんで振り回しあったり、中指を突き立ててみたり、固く握り締めた怒りの拳を突き上げたりする怒れる若者風情はあまりありませんでした。もっともあれはちょっとした余興ていどのものでしょうけれども―。
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by tomozumi0032 | 2006-11-26 08:04 | 展覧会評
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 ◆長方形立方体
  潔にひりつくような現実感のなさ―BRAND NEW WHITE NOISE―白色騒音―

 アルミニウムの金属身体を艶めかせる林立ビル群、首都高という動脈と隅田川という静脈、鋼鉄とヴォルトの橋群からなる人工的な映像―

 清澄白河周辺の倉庫街には埋立地ということもあって、どこかしら土地というもの、人間というものからかけ離れた純粋に理的で知的な空間制御をおもわせるところがある。
 そこは配慮のない剥きだした機械文明の残滓なのだろうか?
  
 インダストリアル・テクノミュージックが相応しいような剥きだし配列した空間たちは再利用を息を殺して待っているのかもしれない―
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◆ギャラリー
SHUGOARTS
  びただしいパイプを連ね、うなりをあげるセメント工場の脇―
 ぱっくりと口を開いた巨大コンクリートが打ちっぱなされた工場の衣食料市場に群がる人々をマルチストライプに還元し、圧縮ニット、アスファルトに黄金のバックルが金属音を閃かせる皮ブーツを振り落としながら、ギャラリー「SHUGOARTS」へ。

 ギャラリーといっても、そこは倉庫を改造したもの。外からみると普通のどこかの企業の倉庫のようにしか見えない。もし―看板がでていなかったら、まったく分らないだろう。

◆巨大エレベーター
  付に坐る、不規則で精緻な襞を垂らすニットを着た長髪にヒゲ面の男の案内で、便所ではなく、倉庫の方のエレベーターへ。エレベーターは2台並び、一台目は倉庫の運搬用に使われ、二台目がギャラリーへとゆくようになっているらしい。だいたい2M×5Mといった大きさで、今までいろいろなエレベーターに乗ってきたが、これは一度も見たことのないタイプの巨大エレベーターである。
 シルヴァーメタリックの巨大扉に歪む風景―ボタンを押すとサイレンが「ビッ!」となる。 
 ―が、エレベーターはやってこない。
 長髪の男を呼ぶと、どうやらエレベーター操作が悪いらしく、戻ってくるのに時間がかかるらしい。ちょっと説明をすると、「じゃ そういうことなんで」といって、戻ってしまう―なんだか管理されてないようで、剥きだしのコンクリートに投げ放たれた沈黙の時間投下が心地よい。なんでも管理すればいいというものでもないよ、ね。しばらく待っているとやってきて、扉が開く。中は6畳ぐらいあり、下には工業用の鉄板が敷かれ、あちこちに傷があふれている。タフで剛健なタイプだが、こういった金属は使い込むほどにCOOLになるよう。

◆内部構造
  タルの扉が開いて、銀色のまたたきが素粒子になって、瞳に飛び込むと、つづいて粘着質な雪崩打つホワイトの量塊が瞳に鈍重な突起を押し込む。
 ウルトラホワイトの体験―

 ギャラリーは各階ごとに違ったギャラリーが入っている。違ったアーチストを抱え、そのギャラリーの個性を打ち出している。
 しかしそれぞれが同じような色調と素材で統一されているため、同一線上のもののように見える。ウルトラホワイトの壁面、巨大ガラス、メタリックな細部、電気スイッチがおびただしく、システム管理された浮遊する連合ホワイトボックスを思わせる。
 階段はリフォームされておらず、倉庫だった過去の記憶を閉じ込めている。それから階段へいたる裏手部分は工事中を思わせるゴツゴツとした触感の、剥きだした長方形コンクリートの柱が伸び、そこに大きな換気扇のプロペラが備え付けられており、時の中で止待っている。

 システム管理されたホワイトボックスの内部と剥きだしたインダストリアルの外部の対称が、映画「MATRIX」の世界に近い。それはなにかテクノロジー装置群によって変容を余儀なくされる都市身体、あるいは身体意識の位相を暗示するものではないだろうか―

 外部と内部の混在?入り交じる表と裏?正しいことと間違っていること?
 それとも―いったい なに?
 
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★7F 小山登美雄ギャラリー― <蜷川 実花>
  一色で統一された壁に蜷川の色鮮やかな作品がフロートする。墓場にたむけられた花の写真。自然の花と思わせておいて、すべて造花。ゾンビのよう。なかには値段のついたものまである。蜷川の写真は綺麗でキッチュで毒々しい。この贋物感覚は後で紹介する森村が演じる三島にも似て、偽者としての、キッチュのキッチュとしての三島を思わせる。
 現代作家というのはいずれにしても、贋物であることを免れ得ないように思う。自分が贋物でない、と思うのは、この時代の認識としては、やや傲慢ではないだろうか?S・ジジェクは現代の贋物感覚を<ヴァーチャル>として、資本主義という制度に内在する運動として捉えており、経済政策の技術はこのヴァーチャルゲームを長引かせるためのものにほかならないものだと述べている。蜷川はまさに資本主義そのものなように思う―しかも女子として感覚的に呈示される「COCOO」的な生々しい情感を潜在させるヴァーチャル。

 男子としては、微妙に怖い。
 情熱に法が及ばないように、感覚に論理は及ばない。

 人工の食虫植物に喰らわれるような、女性の本性の凄みが内在されていて、綺麗なのだが、いつかカマキリの雌のように雄の顔を食いちぎって、指令系統をことごとく切断された感覚的交尾に耽るのではないだろうか?日常の顔は朗らかで安穏としたもので笑顔に満ちているのだけれども、そういった潜在プログラムを内在させているのではないだろうか、という個人的な女子に対する畏敬のようなものをくすぐられてしまう・・・。
 男と女というのは違和を秘めた機械だ。だからホルモン装置の循環差異ほどに差異が生まれる。情念と感覚の鮮烈な呈示。そして、潜在的解釈の可能性を秘めた詩―

恐ろしいほどの青空、暴力的な色彩。
死者に手向けられた、枯れることのない花。
曖昧になる輪郭、あちら側に足を踏み入れた確信、そして眩暈。


埋葬された土の塊に、造花がさされている光景をはじめてみたのが2000年。
それから6年間、その花を取るために墓地に通いつづけた。
メキシコ、グァム、サイパン・・・。
この本に映っている花々はすべて造花、贋の花。

強烈な日差しの下で生花はすぐ枯れてしまう。
かつて愛した者への記憶を、できるだけ長く持ち続けたいと思う人々の気持ち。
限りある時を終えた人々に手向けられた枯れない花、
そこに込められた永遠を願う思い。
青空に向かって咲き誇り、虫が羽を休め、草と絡み合う。
ねじれた空間、脆弱になっていく生と死の境目、
自分の輪郭が溶け出すような感覚に何度も陥る、地上の涅槃


なんだ、あっち側にいくのなんて簡単だ
                  2006 10月 蜷川 実花
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★6F-いくつかの集合ギャラリー
  いエナジーに溢れていて楽しかった。シュミラルクルでキッチュで鮮烈な色彩といった傾向は小山から引き続くが、特にhiromiyoshiギャラリーで行われていた榎本耕一の展示は日本的なものと幻想としてのヨーロッパが混じりあっており、混沌としたパターンの配列が面白かった。少女趣味。
★5F―shugoarts森村泰昌
  こでは森村泰昌をみる。(サイトはこちら―)
 戦後史の男をテーマにしたもので、説明によれば、「昨今のバーチャルな世界ではなく、血と汗と肉体が激突する世界」だということで、ずっと「女優シリーズ」など「女」を取り上げてきた森村が、否定すべき「過去」となってしまった「男」、その「血」と「汗」と「肉体」を再現させているのだが、それでも三島 由紀夫を演じるという奇妙なファクターがかかっている。三島はいわゆる男のなかの「男」というわけではなくて、ゲイ的な感性をもった作家であり、そういった男性性の不在が逆に超男性的というか、羨望ゆえの偶像視というか、そういった離脱感があった作家でその意味でこの男性性はシュミラルクルなもの。

 細江英公の薔薇系のパロディが8点と昭和史を彩った男の作品が飾られるのだが、感想はどこか泥臭い。もっともこういった泥臭さが好きで芸術だ、という人もいるんだろうけれども―個人的には森村の洒脱な感覚が減退してしまったようで―いまひとつ。

 それにしても、森村は著書やこの展覧会からうかがわれるように、三島に相当の固執があるようで、その辺りがなんだか微妙にゲイちっくで、可笑しくなってしまう。ほんとうにユーモアと自分の世界があって、面白い人だと思う。

 それから―三島の市ヶ谷駐屯所での自決シーンが、森村によるパロディヴィデオで再演されなおして流されていた。それはパロディにもかかわらず、構築的で芝居がかっており、たしかにある種予定調和的なものが三島にもあったのだろうなぁと思わされた。第三者的視点で見ると、こういった構築の徹底が三島にある種の不可思議な魅力を与えているようには感じた。三島というのはどうにも役者である。そしてその役者を必死で演じる森村も現代という時代を象徴して、現代のイコンなのではないだろうか。そう 実質を欠いて、演じる対象を求める情報化社会のわたしたちの、である。
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◆おしまいに―
  り道、墨田川のゆらめく水の隆起に踊る曲線光に自己を射像し、エレクトリックに思いをめぐらせた。髪はピンクに逆立ち、目は焔を吹き上げる。うねる水面に目がいっぱいだ。

以上―
by tomozumi0032 | 2006-11-19 02:24 | 展覧会評
☆「Eっと・・・まずは引用からいきます」

「結局人間の活動はいかにエネルギーを最小にしつつ膨張あるいは流れていくか」ということにあるんだろうね。遊牧民族はそれをひとつの典型として知っていた。別の言葉で言えば「遊び」ですね。これが次の世代の最大の問題ね。」(Num June Pike
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☆「以下、解説の前提2点。
1、直接Numのサイトへと飛びたい方はこちらで―
2、日本語の詳しいサイトは―う~ん―ここらあたりでどうでしょ
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以上を踏まえた上で―

☆「今日は青山にあるWatarium美術館で「さよなら ナム ジュン パイク」展を見てきました!」
(‘3‘)「ところでそれって誰ですか?簡単に一言でいうと?」
☆「あ うん・・・ナムさんは60年代にオノヨーコなんかも参加したフルクサスという芸術運動に参加していたアーチストで、ヴィデオやテレビを使った活動が名高い人です」
(‘3‘)「そのフルクサスでのパフォーマンスはかなり破壊的でダダイズム的だったようだけど―」
☆「時代背景もあったんだろうけれど、「エレクトリック原始時代」あるいは「文化大革命時代」ってことで、そういったものに刺激されたんじゃないかな。実際にはジョンケージという前衛音楽家のネクタイを鋏でちょん切った上、シャンプーの瓶を頭からふりかけて泡だらけにしてしまったり、舞台上のピアノをハンマーで次々打ち壊していき、その過程で発生する音を音楽の演奏としたり、チェロ奏者を裸にし、爆弾をチェロに見立てて演奏したり、芸術の概念のみならず、本当に物もぶっこわしたって磯崎新はいってるけど・・・」
(‘3‘)「壊すのが好きだったのかなぁ」
☆「もし一つの見地からの見方に捉われなければ、壊すって言うのは創ることでもあるんだよね。だって今までの方法を踏襲するばかりで、同じところを順繰り回っているってことあるじゃない、特に時代も、時代だったし、ね。」
(‘3‘)「ま いいや。あんま 長くなるとなんだから、前置きはさておいて、どうだったの?」
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☆「あの美術館、彼と個人的に30年間付き合いがあるそうで―かなりワタリウムにしては気合はいってたように思うけど。少なくともスカスカなものってわけじゃなくて、時間共有してきた、血肉の残滓が生々しいような印象は受けた」
(‘3‘)「時々しょぼいもんね ワタリウム!」
☆「あらら はっきりいうね、でもホント時々しょぼいんだよね あそこ。いうほどじゃね~だろってことも時々あんだけど、でも今回はOKでした!フルクサス時代の活動の紹介というのはそれほど多いわけじゃなくて、むしろダイジェスト的なものを、あのせま~い空間に濃密に凝縮していて、キャンドルという原始光学的ブラウン管作品、LOW―TECHなロボットから増殖ブラウン管作品、それからヨーゼフボイスとの交流から生まれたEURO+ASIA (EURASIAN WAY)(ヨーロッパとアジアとあわせて、ユーラシアになるってもの)、ジョンケージにささげた「ケージの森/森の啓示」(うまい!)まで見ごたえはあると思うけれど」
(‘3‘)「で、君的にはどれがどうだったのよ?どー思ったわけ?」
☆「あのね・・・最初は「わ ギブスン!」って思った。ウィリアム ギブスンって大好きなサイバーパンクの作家がいるんだけど、あれの初期の短編に出てくる感覚と近い感覚世界だなぁって、ね。で段々見てるうちにこの人は音楽的な感性の非常に鋭敏な人でその作品の中に諸因子として露呈する音楽的な部分、あるいは「ケージの森」に見られるような所謂有機物的なものと無機物の混成が非常に問いとして重要なのかなぁ・・・って感じた」
(‘3‘)「有機物と無機物の融合っていうのは、言い換えてみると自然と人工みたいなものかなぁ?」
☆「うん たぶんテクノロジー進化が指向している方向性っていうのは人体と人工、自然と人工って二極を混在させて混じり合わせようとしてるんだろうけれど・・・その試みの先駆っていうか、そういうもの非常にはやい段階で気付いてやったんだろうなぁって。それからボイスを媒介にしているものの EURO+ASIAに見られるような西洋と東洋っていう二極も混ぜようっていう意図ね。これも面白かった。それから無重力空間への指向っていうか、シュミラルクルに実体をさまざまな角度からの視点によって、宙吊りにさせてしまおうっていう意図も見え隠れして、今の状況っていうものが彼らが切り開いた状況のもとにあるんだろうなぁって実感できたかな」
(‘3‘)「あ~ じゃ結果はいってよかった 悪かった?」
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☆「だからそういう二極的な二元論的なもので割り切れないんだよ、もうちょっと多様な襞として、多様な扉の開閉として、小人分子の戯れとして、受け止めて欲しいの。例えばプルースト読んであれ好かった悪かったって聴くのって野暮じゃん。同じようなもんで・・・」
(‘3‘)「でもさぁ そんなこと言われてもモダンじゃないじゃん。いちお いってよ どっちかさぁ?」
☆「あ じゃ さいっこ~!!!でした(笑)」
(‘3‘)「にゃるほど(笑)」
☆「最後にもう一言引用で〆ます」

「人間は間違いをする自由をもたなくてはね。それはとても大事なことだ。」(Num June Pike)
by tomozumi0032 | 2006-06-26 17:34 | 展覧会評
六本木に森山大道と滝沢直己(ISSEY MIAKE)のコラボレーション展示を見に行く。
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非常によかった。

いわゆる展覧会というものではなくて、フランスの雑誌(STILETTO)とのコラボーレーションということもあって、店の壁面に7、8点の大判オリジナルプリントのパネルが等間隔で並ぶといった小規模なものだったし、その性質上、ファッションというファクター外部には出られておらず、ピンポイントなものだったにもかかわらず、前回オペラシティーでみた「新宿展」よりもよかった。オペラシティの展示では荒木との合同展示で二人の個性的な作家が、街を切り取り、その異なった個性からなる裁断面が対比されて、荒木は確かに大衆的で歌謡曲的な側面が強く、一方で森山は知的で建築的な側面が強いという感を受けたのだったが、共同展という性質上受けた印象に統一的なイマージュが欠け、森山初体験だったにもかかわらず、体験としてはやや対比から派生する混濁が見られたように思い返される。今回のものはそういった混濁がなく、滝沢との共同作業はむしろ互いが互いに融和と相剋からなる緊張を孕んで美へと向けたベクトルを高めるといった心地よさのような印象をうけ、加えて森山の選択の軌跡を含むコンタクトシートが展示されており(ちょっとW・クライン的すぎる嫌いはあったが)その一枚が示される以前の―前作品的というか―闇に消えるはずの残りの膨大な写真群が各パネルの下に解剖学的に展示されていたところも非常によかった。写真はどうあっても静止画であり、瞬間の裁断である以上、全く同じものというのはありえず、微差が宿り、その精緻な微差の中から一枚を選択するという過程のダイナミズムといったらいいのだろうか、あるいは審美眼の躍動ともいえるようなものが伝わってきて、凄く面白かった。

個人的に森山は素晴らしい写真家だと思う。
別の言い方をすれば、最高にかっこいい写真家だ、と思う。

どうも彼の作品に騒ぐ世界の微粒子の渦のようなもの、表現が内包するシルバーノイズのような不純性と不良性に眼を背けたくなってしまうような鮮烈な魅力を感じて、いつも彼の表現を見ると眩暈がしてしまう。そしてそのあとはぞくぞくさせられるような鳥肌と戦慄―彼の作品はスタティックで知的、美学は廃物的でどこか禍々しく、ざらついた昏さがあって、アグレシヴ、そしてなにより言葉では表現しがたく「美しい」。
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by tomozumi0032 | 2006-05-07 00:10 | 展覧会評

銀座線-上野へ。
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紅葉に色づく上野の森公園で「ガンダム展-来るべき未来のために」を見る。
幼い頃の記憶のフラッシュバック。ネオン踊る玩具屋のプラモデルコーナーの角の暗がりに見た夢の残骸が立体化されて蘇った。小谷元彦の写真、 西尾康之の巨大彫刻などは面白かったが、入場料から考えると作品構成がやや貧弱。グッズで儲けようとしているのがみえみえ、なんとかカウンターカルチャーであったものを伝統的な文脈に移し変えて、大文字の「日本化」させようという意図が面白い。やはり日本は「混在郷」だ。サイケデリック-テクノロジー文脈からの解釈だともう少しインテリジェントにやれたようにも思う。それでも日本の大都市ならではの新しい企画としてはこんなものか。
「二次適正検査」は受けなかった。ガンプラはちょっと迷ったがそこまでファンではないため、かわず、別にそういうためにいったわけでもあらず。
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by tomozumi0032 | 2005-11-23 19:49 | 展覧会評

 
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 横浜トリエンナーレへ。会場はAKIRAを思わせる埠頭倉庫連。剥き出しのインダストリアル鋼鉄。描かれるファンタジー。何人かのアーチストは楽しめた。特にSF的な展示物が個人的に面白かった。現実とは未来なのだが、今生きている人は五年前の世界を生きているものだ。

のち中華街へ。レストランで中華料理。鱶鰭スープに海鮮、海老チリ。街には漢文字の書体がエレクトリックネオンに踊る。華やかで映画「花様年華」のようだった。

幻想夢のように麗々と綺麗な一日。
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by tomozumi0032 | 2005-11-19 22:32 | 展覧会評
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