カテゴリ:ばからった★( 1 )

◆きょうはばかについてです(゜∀゜)(゜∀゜)━━━━━━━━━━
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◆「映画を見るのが好きだったり、好きな映画について語ったり書いたりするのがするのが好きだったりする連中は体験的な事実として、そのほとんどが馬鹿だと断言しうる。馬鹿とは何かという定義以前の段階で、彼ら、あるいは彼女らは馬鹿だと思って間違いない。また、映画を見るのが好きでなかったり、にもかかわらず見てしまった映画について語るのが好きではない連中も、ほぼ例外なしに馬鹿である。さらには映画を見るのが好きでも嫌いでもなく、それでいてときに映画を見てしまったりする連中も程よく馬鹿だといえようが、彼ら、また彼女らの馬鹿さ加減が、映画を見ることにまったく関心を示さない連中のそれよりおとっていたりまさっていたりするわけではいささかもない。では、映画が積極的に嫌いだと公言する連中が馬鹿でないかというと、これまた馬鹿たることをまぬがれていない。体験的な事実として、彼ら、または彼女らも救いがたく馬鹿だと断言することができる。そして、以上の言説から、人類は押しなべて馬鹿の集積からなっているのだという命題を涼しい顔で引き出してみせる人間がいたとするなら、これまた馬鹿というほかない。いま、さしあたり問題なのは人間が多少とも馬鹿であったりなかったりする生物か否かを知ることではなく、馬鹿たることによってしか人は映画と関わりを持ち得ないという事実である。繰り返すが、馬鹿とは何かの定義はこのさいどうでもよろしい。映画を肯定するにせよ否定するにせよ、映画という言葉で人が何事かを想像しうるかぎり、人は馬鹿たることをうけいれねばならない。そしてそのことを、人は体験によって熟知している。それは間違いのない事実である。というのも、この世界に映画が存在しなければならないという正当な理由もないのに、誰も積極的にその正当な理由の欠如を不思議に思ったりはしないからだ。」「映画狂人シリーズより」蓮実重彦。

◆「意識は自分の分身であることをやめなければならず、情念はたがいの分身になることをやめなくてはならない。意識を生の実験とし、、情念を連続的な強度の場、記号―分子の放射とすること。意識と愛から器官なき身体を作り出すこと。主体を廃棄するために愛と意識を役立てること。「大いなる恋人、魅了するもの、触媒になるにはまず最低の馬鹿になるという知恵を体験してみなければならない」「私は考える」を「動物になること」に、「愛」が「男が女」になることのために役立てること。意識と情念を非主体化すること。」「「ミルプラトー」ガタリ=ドゥルーズ」」
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