カテゴリ:侯 孝賢( 3 )

えっと・・・
今回はゆっくり丁寧に、なにより難しくならずに、限度はありますが、なるべくわかりやすく語ってみたいと思います☆
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極力、メタファーに頼らず、言い回しや単語に気をつけてみますので、どうぞ、紳士淑女諸君、最後までおつきあいくださいませ☆
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◆台湾の物語
監督の侯 孝賢―ホウ・シャオシエン―は台湾人で1947年生まれ、1980年に監督デビューしています。1980年代におこった台湾映画界のあたらしい流れ、台湾ニューシネマを代表する監督の一人で、『悲情城市』という2・28事件(中国人による台湾統治下におこった大量虐殺)を扱った物語で、べネチア映画祭グランプリを受賞しました。彼の作品にはどれも台湾をめぐる複雑な政治情勢と親日的な感情がうかがわれます。
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◆Antiageing Director
1947年生まれですので、今年で60歳になる監督なのですが、映画を見る限り、とても60歳の年齢を感じさせません。そればかりか、20代か、30代の監督の作品なのかと思ってしまうような―「イノセントな若さ」が作品にあふれています。多少の年齢のばらつきがあるとはいえ、例えばキューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」やゴダールの後期の作品群には老いを感じましたが、この映画にはまったく老いがありません。あふれるような映画的教養と洗練があって、それが老いることではなく、若さへのオマージュに捧げられている、そんな風に感じられます。

◆以前の作品レヴュー
もちろん、全ての作品を見たわけではありませんが、何本か見た印象では、個人的に、この監督の持ち味は長回しのカメラによる風景と俳優の表情の饒舌を描いてみせること―ではないか、と思います。

王 家衛のように細かくモダンで人工的なカットをつらねるのではなくて、俳優をポンと突き放して、風景の一部として描いてみせる、おおきくて包容力のある視点で、文学でいえばビートニック的、髪型でいったらロングヘアー的、つまり、「つくりこむこと」-ではなくて、その人の存在そのものを「つつみこむこと」-によって、その人を浮き出させて描いているように見えます。王 家衛などのモダンの監督が「意識」にこだわり、あらゆる状況に「意識的」になることによって、細やかな気配りにささえられた風景をつくり上げてみせるのに対して、侯 孝賢は俳優や風景の「無意識」、あるいは「潜在意識」―を引きだそうとしているように思われます。別の言い方をすれば、王 家衛などがフォトグラファー的に「切り取られた瞬間」をつなぎ合わせることによって、一本の映画を構築しているのとは対照的に、侯 孝賢は「切り取られないその場の空気感」を漂わせることによって、一本の映画を織り上げていると言えるのではないでしょうか―

そんなところが、侯 孝賢の扱う題材がどんなに過激で、ポストモダン的であっても、なんとなくやさしくて、親近感をおぼえてしまう理由なのかもしれません。そういった監督の持ち味はこの映画でもいかんなく発揮されています。

以下―以前の2作品のレヴューです☆

1、ミレニアムマンボ

2、珈琲時光

◆あわただしかった20世紀
この映画には3本の話しが収められており、どれもが夢と恋のお話しになっています。そしてどのお話しともに同じ男優と女優が登場して、愛を紡ぎます。
まずはじめのお話しが「1966年」、つぎのお話しが「1911年」、それからみっつ目のお話しが「2005年」で、それぞれちがった時代の風景、時代の恋愛観を背景にして、それぞれちがった街でお話しは展開されてゆきます。

こういった一連のお話しを見ていると、1911年から2005年まで、なんとまぁ大きな風景と時代精神、「男女関係」の移り変わりにされされてきたのだろう―と、時代の変化の波、そしてその波の中で紡がれる恋の物語の違いに驚かされます。

3つの異なった時代をきっちりと描きわけてみせ、それに感傷をまじえずに並べてみせる監督の知性と力量にうならされるのと同時に、はやい速度で過ぎ去った「20世紀のあわただしさ」を強く感じました。

◆3つのおはなしと「男女関係」
それでは―その3つのお話しとそこに見られる「男女関係」の違いというのはどういったものなのでしょうか?簡単なあらすじを以下に素描してみたあとで、「男女関係」をくらべて、あわせて考えてみたいと思います。
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★第一話「1966―高雄―恋愛の夢」
1966年の、ビリヤード場で芽生えた恋のお話し。
男(チャン・チェン)はビリヤード場ではたらく女、秀美(スー・チー)に恋をします。でも、男は「兵役」の通知が来たことから故郷へ帰らなくてはいけなくなります。秀美のもとへ、男から恋の手紙がやってきますが、しばらくすると秀美は「嘉義」という別の街へいってしまいます。男は秀美を追いかけて、「嘉義」へゆきます。しかし、秀美はもうそこにはおらず、男は秀美の実家へゆき、「虎美」という街へいったことを告げられます。「虎美」へゆくと、秀美はやっぱりビリヤード場で働いています。はにかみ、微笑み合い、恋のもの憂さの表情を浮かべあいながら、2人は再会します。つれ添って、中華を食べ、汁物をすすります。(なんだかこういう食事のシーンが中国や台湾の映画は妙に親近感がわいてしまいます☆)やがて、男が部隊へ帰らなければいけない時間になって、雨の中、電車の時刻表を見にゆきます。どうやら電車の時刻は過ぎてしまって、電車はありません。しかたなくバスを待ちにバス停へゆく途中、相合傘をさして、2人手をつなぎ、ハッピーエンドでこのお話しは終わります。

☆第一話目の「男女関係」―「追う男と逃げる女」
ここまで読まれた方はすでにおわかりになっているかと思いますが、このお話しは男が女を「追う」ことが主題となっているお話しです。兵役にとられ、故郷に帰ることになった男は会うことができなくなってしまった女の後を追いかけます。愛の手紙を書き、街から街へと女を捜し歩いて、そして、ようやく最後で捕まえることができるわけです。もちろん、ここで優位な立場にいるのは女です。なぜなら女は愛され、逃げ、ある意味では男を試し、そして最後に捕まるわけですから。男は女の後を追いかけていくばかりです。これはわたしたちにも身近な、現代的な男女間のちから関係のあり方ではないでしょうか?したがって、このお話しでの「男女関係」は「追う男と逃げる女」ということにしておきましょう☆

それでは―つづいて、第二話を見てみましょう。
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第二話「1911―大稲呈(土へんに呈)―自由の夢」
舞台は1911年、日本統治下の台湾です。
男が女のまつ「大稲呈(土へんに呈)」の屋敷にやってくるシーンからお話しははじまります。このお話しでは、レトロな無声映画のパロディを試みていて、セリフのシーンが字幕で画面を覆います。男は辮髪―べんぱつ―で梁という政治家の先生の助手、女は髪を綺麗に結って彼の身の回りをする「給仕」のような役割が与えられています。男は先生につきそって、アジアを飛び回っています。それなので、男はあまり長い間「大稲呈(土へんに呈)」にはとどまっていることができません。女は男に恋しています。帰ってきた男に女は義妹が蘇さんという別の家へ妾として「身請け」されるにあたって、お金が足りないという話しをします。蘇さんは静かでやさしくて、「身請け」されるには理想的な家で出来たらその家へ身請けされたいと思いますが、金額の折り合いがつきません。男は義妹に気づかって、お金を援助して、彼女にお金を渡します。そのことで女は喜びますが、逆に自らのむくわれぬ恋の不遇を悲しみます。男が出発する日の前日、「わたしの将来は考えたことがあって?」と男を問いただしますが、男はなんとも答えません。女は悲しみにくれて、泣き、そのむくわれぬ恋の悲しみを弦楽器の唄いにのせて歌います。3ヵ月後、辛亥革命がおこり、男からの手紙が女に届きます。そこには、「東京」、「上海」、「下関」と街から街をとびまわっている現状とともに、「春帆楼のもと 夜の浪哀し」という彼女を思う気持ちがそえられていました。

☆第二話の「男女関係」―「飛び回る男と待つ女」
ここでは男は女に対して、自由な立場に立っています。といいますか―現在に比べると女の地位は屈辱的なまでに低い。男は女を「身請け」し、お金を渡し、恋する女をおいて世界を飛び回りますが、女は屋敷におり、給仕し、居続け、そして自らの恋の悲しみを唄うことによってしか晴らすことができません。第一話とは逆に女は強く男を思い焦がれますが、男は心ここにあらずなところがあります。男は先生につきそって、自由を謳歌し、台湾の明日を肌身で感じるというやりがいのある仕事に忙しいといったところでしょうか。ですから、ここでの男女関係は「飛び回る男と待つ女」といえます。
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第三話「2005―台北―青春の夢」
2005年の現代を生きる若者のお話し。
ロックスターの女、ブルーとそれをパパラッチする男のお話しで、非常にソリッドで都市的な画面で物語られます。このお話しは前の二つに比べると設定が複雑で情報量が多い―現代社会を反映したものとなっています。

まず、オートバイに2人乗りで走る男と女のシーンからはじまり、第二話目とはうってかわって、2人は男の部屋ではげしく愛欲をむさぼりあいます。男はバイクで職場へもどり、彼女のデーターをコンピューターで引き出します。「未熟児」、「早くですぎた自我の代償は大きい」、「骨折やテンカンなどの持病」、「いくらだす?魂はうるわ、過去も未来もない、飢えた現在があるだけ」と都市にかつえたような女のデーターの表記がつづきます。男はブルーのライヴへゆき、歌っているブルーをパパラッチします。それから部屋へともどった男はブルーが落とした「ワタシはテンカンもちです」というドッグプレートを見つけて、彼女が精神を病んでいることが示唆されます。ブルーには同棲する女の愛人がいますが、携帯電話にでなかったことを彼女からクラブで問いただされます。それからブルーは彼女と一緒に部屋へともどります。すると、今度は男から携帯に恋のメールが来ます。つまりブルーは二股をかけています。ブルーは男に愛の詩―破滅的で残忍な愛の詩―を送ります。一夜を愛人とすごしたあと、ふたたび男とであって、ドッグプレートを返され、それから男の部屋でまたはげしく愛欲をむさぼりあいます。前に携帯電話にでなかったことからブルーの浮気をうたがっていた愛人の女は彼女のコンピューターを不器用に開いて、彼女の浮気を知り、「死んでやる!」と感情をたかぶらせます。部屋へもどったブルーは愛人の女の飛び降りるような音をききます。ブルーはベットに倒れこみ、それから男のバイクに2人乗りをして走り去ります。

☆第三話の「男女関係」―「不安定な男と不安定な女」
どうもこのお話しでは男女の立ち位置がはっきりしません。男は一見、ただのパパラッチのようにもみえますし、彼女を精神的に支えているようにも、また、彼女を責めさいなんでいるようにもみえます。女もまたバイセクシャルで、精神を病み、感覚をたたえる詩を読むロックシンガーで、男に対する情念はセックスとメールというカタチでしかあらわされません。このように、このお話しを貫く基本的なベクトルは「不安定さ」です。セックスをむさぼるように求めるのは逆にシステムや心や性が不安定だからですし、性の場は彼女―ブルー―をながめてわかるように、曖昧で不安定です。あるいは男の役割、女の役割も不安定で、共犯的に「中性的なもの」だといえます。男も女もこの不安定さに翻弄されているように見えます。それは現代という時代や社会の彩りを反映しているかのようです。ですから、ここでの男女関係は互いに中性的で不安定な状況を生きているということで、「不安定な女と不安定な男」だといえると考えます。

◆時代によって変化する「男女関係」の力のバランス
さて、以上に書いたことを整理してみましょう。

まず一話目の1966年のお話しは―「追う男と逃げる女」でした。ここでは女が逃げ、男が追う。女が恋愛の支配権を握っています。つまり、「女が強い」わけですね。

二話目は―えっと、なんでしたっけ?ああ そうです―1911年の「飛び回る男と待つ女」で、男はアジアを仕事で飛びまわっていました。女は待ち、悲嘆にくれ、胸にわだまる思いを歌に託します。ここでは一話目とは逆に支配権は男の側に移っています。つまり、「男が強い」わけです。

そして三話目の2005年のお話しは「不安定な男と不安定な女」ということで、不安定で曖昧な関係が描かれていました。男も女もこの「飢えた恋」を支配する決定権はもっていません。それはフロートして、浮遊してしまっているようです。ですからここでは恋愛の支配権はイーブン、どっちももっていないかったのです。

以上のように見てゆきますと、この映画がメタファーとして提示していることのひとつは「時代によって男女のちから関係は変わる」―ということだと思います。そして、このことを裏返しにして、逆の側からいいますと、「いつの時代も変わらない普遍的な男女関係はありえない」―ということです。

時代という舞台は与えられると同時に読み込まれて、わたしたちに「男女関係」というものを提示します。でもちょっと考えてみますと、それは時代という舞台が与えた力関係であって、この舞台が変化したときに、恋のなりゆきにが大きな影響を与えてしまうもののように見えます。男と女のいる場というのは、こうも簡単に舞台によって、変化してしまうものであり、この映画に見られるように、20世紀という「激動の世紀」の中でそれが際立って大きかったようです。
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◆後景上手
1、2話目の印象派的な色のぼんやりとしたモザイク、3話目の現代的なグラフィックと光のあそび、ともに後景が上手な映画だと思いました。後ろの方で光がぼんやりとしていて、影が時折交錯したり、グラフィックな模様が覆ったりして物語を彩ります。
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◆スー・チーさんの成長
主演女優のスー・チーさん きれいになりました。
ちゃんと役を演じわけていたし、成熟した魅力を放っていて、とてもよかった。
でも、やっぱり、少女マンガっぽいんだけどなぁ~(笑)
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3編ともに音楽が印象的でした-yo☆
映画の教養による映画的洗練と音の洗練が上手くまざりあっていて、お洒落で教養のある一本。

ギャグとコメディも好いけれども―
アニメだって好い作品作品はいろいろある、のだけれども―
いま、日本でこういうソフィスティケートされた教養の魅力を放つ映画って撮れないのかしらん☆

―ね☆
by tomozumi0032 | 2008-02-17 02:17 | 侯 孝賢
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◆はじめに-
小津の生誕百周年記念映画らしい。
スローで緩慢な時間が長回しのカメラでひたすら続いていて、撮るというこの時間性のようなものが、風景のざわめきと豊饒で饒舌なきらめきをもって再現されている。ゆったりとした時間と淡々とした調子で語られるどこか懐かしい匂いとぽっかりした空虚な感じのする女性的な東京の物語。

◆東洋的関係性―アジアコネクション
ここにあるのは前の作品「ミレニアムマンボ」同様のアジアコネクションというべきアジアの交通性で、主人公のハーフの女性シンガー「一青窈」の上におりかさなるのは時間性としてのアジアだと思う。それは彼女の彼氏が台湾人で、彼女はその子供を孕んでしまうという設定からもうかがえる。

◆不安定さ
カメラの包み込むような緩慢さにあらがって、主人公の心象風景は不安定だ。淡々とした表面とは別に秘められた揺れ動く思い―主人公の洋子(一青窈)の「妊娠」と「国際恋愛」という「肉体」と「距離」の不安定さ、都市を生きる独りの女の不安定さ。おそらく中国大陸が発展をつづける中で指摘されつづけている不安定さ、台湾の地理的不安定さ、日本人のもっている現代社会の不安定さ―といったものが投影されている。アジアの不安定な心象風景の映画としても見れるだろう。
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◆雑踏の描き方
洋子(一青窈)が雑踏を歩くシーンが多いが、ここで主人公は中心的な位置のものとして撮られない。風景がまず前景にある。洋子はその風景のモザイクドットのひとつでしかない。つまり洋子はその風景の全部ではなく一部として立ちあらわれる。この撮り方から推測すると、これは主人公を副次的なものとして扱うところがあって、実際に前景で描かれると思われる物語を実際は後景に退かせているのではないだろうか?つまり―ここで描かれているのは、誰かではない。そうではなくて、むしろ共同体次元での集合的な心象風景である。三島は個人はいない、といったが、この監督は暗黙裡に個人を集合的次元に置き換え、そうすることによって、物語ではない風景としての時代のようなものを表現しようとしているとおぼしい。ただそれは風景レベルという投げはなれた絵として表現されているので、こまやかな物語の分節とはなっていない。その意味でアジア的であるのではないだろうか―自然、天然信仰としてのアジア☆

◆浅野忠信
浅野忠信がいい味をだしている。古本屋で働く謎の青年といった感じで、長髪で、「ぼっさり」と本にかこまれ、いろいろなところの音を集めるいわゆる「いい生活」をし、「都市仙人」といった体の理想を追求しているぼくとしては教えられることが大きかった。ああいった「ぼっさり」具合を表現するというのはできそうで、そう簡単にはできるものではない。まだまだ修行が足りんと身につまされて思わされるのだった。
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◆ヴィム・ウォン・ハスミン
1、ヴィム ヴェンダース
「東京画」の迷い込んでしまったモラトリウムな小津信奉青年としてのヴェンダースはやっぱり西洋人の視線であって、それは続く山本耀司を題材とした「都市とモードのヴィデオノート」でも引き続いている。エクリチュールマシーンとしてのヴィムは東洋を差し挟んで、のちの作品群においてアメリカ映画の解体・再解釈・再構築をしてみせたのだろうが、こういったものへの現代的注釈としても見れた。

2、ウォンカーワイ
モダンで細切れですれ違うカメラワークが印象的なウォンカーワイに対してこれは逆説的な批判だろう。ウォンの時間的なもので分断された視線ではなくて、おおきく包み込む暖かな視線のようなものがうかがえる。

3、ハスミン
エンドクレジットに「ハスミンせんせ」が名を連ねていたけれども、なんだかわかる気がした。激賞してたし―なんてったって「小津」だし、長回しで多様な豊饒で饒舌にざわめく風景は、エクリチュールとしてとってもハスミン的なところがあると思う。でも―ときどき目薬をさし虫眼鏡や秘蔵のルーペまでもちだして、目を皿のようにして画面を一心不乱にみたにもかからずどこにでていたのか残念ながらわからなかった・・・え~がにたいするおそれがたりないかしら あららん☆

一青窈の最後の曲はなんだか胸を打たれて、体がうきあがって、それから―ふ―とシートにふかぶかと身をうずめた。もっとも―いちおう眼の下に、唾を指でなんとかぺたぺたしてうそ涙をつくっておくぐらいの、そんな程度のものだけれども☆

不思議な浮遊感のようなものを味合わされる答えのない中間地点、過程としての「現在」の風景のざわめき―
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◆ほわぁ~ん ふぁ~ん ぼよよよよ~よん☆
by tomozumi0032 | 2007-03-20 18:02 | 侯 孝賢

ミレニアム・マンボ スペシャル・エディション
2001年/台湾+フランス合作
監督:侯孝賢
主演/舒淇(スー・チー)
    高捷(ガオ・ジェ)
    段釣豪(トゥアン・ジュンハォ)他
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◆侯孝賢(ホウ・シャオシェン)は台湾の若手監督。ベネチアで金獅子賞をとった「非情都市」が「ハスミン先生」に激賞されていたおぼえがあってみた。

◆作風的にはウォン カー ワイに近いような感じもするが、彼のほうが感性的に若くて音楽やファッションがカジュアル。こういったカジュアルさが彼の魅力なのかしらん。

◆この映画はアジアの都市の、新しい都市生活感覚に根ざした生活のスタイリッシュといった印象。クラブ、テクノ、ドラッグ、パーティー、蛍光色にネオンの恋愛、お酒と酔いといった都市風俗で彩られている。

◆猥雑でグラフィックな夜の描写で映画は埋められているが、撮影が『花様年華』のひと(リー・ピンビン)というだけあって、美しくて、COOLで、ちょっと感動的☆

◆現代都市風俗をすこし記号論的に取り上げながらも、冷たくならず、どこかノスタルジックな温かみをもって描かれているのは、彼の才能ではないかしらん。他のカメラマンにしても欧米の映画に比べて、冷たくなりすぎないところがアジア映画のひとつの魅力じゃないかなぁ、と思う。 アジアはやっぱなんか親近感があって、あったかい感じがある☆というよりはひとつの不可思議な体系だと思う。
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◆二人の男と二つの国を漂泊する少女の物語。基盤の曖昧な、浮遊した現代若者の感覚が上手くストーリーナイズされている。東京がサブカル越境的にでてくるのが面白い。その意味でもウォン的ではないだろうか。つまり―ポスモダな浮遊かつ不安定な感性ってことで―☆

◆主演女優の「スー・チー」は大きく厚い唇がキュートでスタイルよくてCUTEでラヴリ~☆
ちょっとみわちゃん(市川実和子)に似てるか!?少女マンガテイストなルックスで微乳だけどスタイルがよくてかわE☆

◆主演男優がいまひとつしっくりこなかったか!?もう少しいい男いるだろ~、と思った。

以上、そんなとこ DE R―
by tomozumi0032 | 2005-11-17 18:19 | 侯 孝賢
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