カテゴリ:社会問題( 20 )

☆「LOOOPY?鳩山総理」
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鳩山総理はむかぁ~し、昔、まだ新進党だったころ、なにかのエッセイで作家の曽根綾子さんがひどく辛口の批評をしていたのを覚えている。さすが曽根綾子だけあって、なかなか本質を鋭く突いていると思った。(もっともボクは彼女の石原慎太郎びいきもどうかとは思ったのだけれどもー)うろ覚えなのだけれども、軽薄で態度がころころ変わり、政治家としての資質に疑いをもったというような文章だった。紆余曲折あって、その男が日本の現在総理大臣になった。たしかに、今の日本の総理はちょっと「軽薄」で「浮世離れ」したところがあって、「変」だとは思う。もちろん、ボクは「変」好き(学者、文学者、SF作家、漫画家、音楽家、映画監督、芸術家を尊敬する一人)だし、「変人」総理もいたことだし、「変」なのはいいとしても、その「変」が、はたして現在の政治的情勢に適当なのだろうか?―と問うことはできるだろう。はたして、鳩山総理に、このせせこましくって、複雑で、箱庭のような、言葉と記号の先端で的確に未来をみちびく政治的判断ができるのだろうか?たしかにこの鳩山総理は常人ばなれした、テクノサイエンシストを思わせる不敵さと無表情さがある。なんだかよくわからないが、もしかしたら、わたしたち常人には理解することのかなわない複雑な宇宙の真理を読み解いているのではないか?―という不敵な笑みを時折こっそり浮かべているようだ。あの含んだような、はにかみともつかぬ、どちらかといえばポーカーフェイスな笑み。「ははは」というはひふへほ系の人間の笑いではなくって、「ふぉっふぉっふぉっ」というバルタン星人のような、微妙な笑い。

毀誉褒貶あるかもしれないが、現在の日本国の総理はたしかに「宇宙人」に近いのだろうなぁ~・・・と思う。それはもうSFとSFXとジャパニメーションの世界を生きてしまっていて、現実的な地政学といったものが頭にはいっていない。ガラパゴス的な島国の中で浮世離れしてしまっている。

ワシントンタイムズ紙に「LOOOPY」と称された首相。でも、そうはいっても浮世のつれづれに遊ぶ日本人ははたしてどこまで「LOOOPY」じゃないのだろうか?つまり、大陸的な地政学を頭に入れて日々の生活を生きているのだろうか?国民ひとりひとりを省みて、みな、どれほど国際的な外交能力があるというのだろう?だいたい、自分たちにはもっていないものを政治家やリーダーに求めるのは、ないものねだりなのではないだろうか?そんなエリート教育を国民は大衆化の果てに否定してきたのではなかったのだろうか?鳩山総理は国民の映し鏡であって、国民は移り気にそれを否定しているだけのよう。でもそれはおそらく本当の解決にはけしてならないだろう。混迷の変転期にある今、日本人のトップが「LOOOPY」といわれた。日本の大衆社会が「LOOOPY」といわれたこととあまり違いはないけれども、わたしたちは彼を選んだことを忘れて、みな、それは総理の個人的な問題としてしまっている。そうしたほうが都合がいいからだし、それであとは彼さえ、退陣させればいいからだ。使い捨てて、忘れてしまうことにたいするいつもの日本人の手。そしてなにかが変わったと思いたい。まったくうんざりするような消費社会の思考様態の飽くことないくり返し。いいかげん、それで変わることもあれば、変わらないこともあることぐらい気がつかないのだろうか?

でも、はっきり言えるが、本当の問題がそこにあるとはまったく考えられない。これは首のすげかえだけで済む問題ではないし、意識を対象化して、その対象をすげかえればいいという問題ではまるでないと思う。けっきょくそうしても同じような根から繰り返される循環、美術評論家のサワラギノイ風にいえば「悪い場所の循環」なのだろう。本当の問題はもちろんわたしたち一人一人の中に、この大衆化社会の中にある。おそらく、わたしたちの意識構造の中に、それとはなくしている思考の癖に、あるいは日常で正しいと思っている価値や快楽のメカニズム、理念のプログラムの中に。それはわたしたちの正しさ、気持ちよさとかかわっているので、なかなかそれを否定することができないのだろう。そして、今、これだけ、複雑化して入り組んだ蜘蛛の巣のような混迷の中で、現実の地政学を曇りなく見つめることは、おそらく日本人の誰にとっても、なかなか難しいのだろうなぁ~・・・と思う。

それでも、最後に一言、鳩山総理、あんまりSFされちゃあ、SF好きとして、困ります☆
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by tomozumi0032 | 2010-05-11 20:43 | 社会問題
☆沢尻エリカは本当に非常識な女だ!
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女優、沢尻エリカと高城剛氏の離婚騒動は、男として、そして同じ時代を生きるものとして、高城剛が可哀そうだと思う。そりゃあちょっとひどい。でも見ようによっては、男と女をめぐる感受性の回路の違いのようにも見える。つまり、高城の誤算は沢尻をひとりの自立した女として考え、彼女が判断できる主体として、「信頼」と「意志的な愛」を信じることができると思ったところにあるように見える。沢尻はおそらくはそこまで主体的にふたりの「信頼」と「意志的な愛」をかけがえのないものとは思っていなかったのではないだろうか?そこまで精神的に成熟していなかった?それとも感受性の回路の違い、心のすれ違いなのだろうか?・・・高城は自身の2010 3・16日付けのブログ(参照参照2)に彼女の仕事への復帰をややセンチメンタルに喜んでいる。(ブログを読むかぎりでは、彼はどちらかといえば論理的な人間というよりは、情緒的な人間なんだろうなぁ~と思う)そしてこんなに熱烈なラヴレターを晒し続けている高城の態度は、どんな理由があるにしても、どこか「未練」や「センチメンタルな情感」や「哀愁」を掻き立てるものがある。べつに高城に個人的にいれこんだり、贔屓にしているわけではないが、ただ単純にこの気持ちの持ってき場所ってどうしたらいいんだろう・・・と彼の気持ちを推し量って、哀しい気持ちになる。通じ合っていた心と心を踏みにじってしまうこと。それはなによりも裏切りだし、人を深く傷つけることだ。それに、こんな風にいきなり、衝動的に、断絶するのではなく、もう少し段階を踏むような態度は出来なかったのかなぁ~・・・と他人事ながら、考えてしまう。高城がブログの中で言っていることは純朴で素朴な思いだ。人間的なあたりまえの感情を少し正直すぎるほどに告白している。心で話そうと言っている。でも、そういった純朴で素朴な思いを、さらには愛をあんなかたちで断絶した沢尻エリカは、彼女自身の核となるアイデンティティのようなもの、自分が自分でいられるという当たり前のことを確立していなかったのだろう。(あるいは芸能、女優、振る舞いや演技といったある種の霊媒的な役割のなせる業か?)

いずれにしても高城はきわめて個人的で繋がることをいい、常識的で人と人との愛や関係性を語っている。それにたいして沢尻はどちらかといえば契約的な大きな力、非常識で人と人同士でない振る舞いによって、その常識的な愛を断絶してしまった。(それにしても高城はあのポスターがあらわれたとき、なにかしらの予感を感じなかったのだろうか・・・おそらく彼女はコミュニケーションの新しい形態に肌感覚として親密だ。それが富を生むことを知っている)

もっとも、「女のちから」の本質的にそういうところがあるものかもしれない。なにかを演じる力、擬態やメタモルフォーゼはいつも誘惑すること、生物としての女の性を開放することを「糧」としているということを本能で沢尻は知っていたのだろう。だから、高城がいうう当たり前の心、常識的な愛、自然な純朴さと素朴さ(その先にある母のイメージ)を拒絶して、人工の、つくりあげられたプラスチックでキッチュな世界に身を投じたのだ。その意味では沢尻の勇気が光る。彼女は母として、高城の妻として生きるより、身を賭けてでも、もういちど人工世界へと舞い戻ろうとしたからだ。まさに青天の霹靂―ある日突然おこる事件。これは事件なのか?(参照参照2)だがそれはおそらく彼女の心の中で、感受性のなかで、日々準備され、育まれていったに違いない。つまり高城は「ださい」のだ。彼女にとっては―

愛はときおり、なかなか残酷な劇場であって、それがあるから人生は面白いのか、あるいは高城が言うように迷宮的(参照参照2)なものなのだろうか?ひとつ言える。芸能という霊性を媒介とする世界、あるいはテクノロジーという幽霊がはびこる世界の中でわたしたちは単純で正しいものの中にはいない。じつは世界は複雑で狂っている。わたしたちの感性がそれをとらえるには、あまりに感度が悪くできているから、日常が日常として見えているだけにすぎないんじゃあないのかしらん―

それにしてもマスコミがみな自然で素朴な高城よりも、つくりあげられた人工の沢尻を応援するのはなぜなのかしら―綺麗できらきらした女の子だから・・・それにしても、両成敗というわけにはゆかないみたい。公平じゃあない。
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by tomozumi0032 | 2010-05-11 20:32 | 社会問題
☆のりぴ~事件の教訓
のりぴ~―こと、酒井法子が覚せい剤疑惑で逮捕されてしまいました。

マスメディアの報道は過熱ぎみ―
連日、あつい報道合戦をくりひろげていますが、「立場ある」上から目線のTVのコメンテーターはどちらかといえば、作為して逃走劇をくりひろげたことにたいする懲罰論的な意見がおおく見うけられます。

それから、「光と影」というのりぴ~の2面性をとりざたして、清純派であったにもかかわらず、影で、あんなことをしてた、こんなことをしてた、あれもこれもやってた―と、いうイメージをめぐる一面的で表面的、それゆえに否定的な見方もおおいようです。

いわく―

「あんな清純だったのりぴ~が、こんな悪いことにそまっちゃった。ジャンキーの、「マンモスらりぴ~」になっちゃった!!」

でも、すこし落ち着いてのりぴ~のことを今からかえりみれば、そのデビュー当初から、ユニークでアーチスティックな独自性があって、表現能力がありました。「かわいさ」「CUTEさ」もまたひとつの表現能力であり、いまでいう「しょこたん」のような独自の言語感覚をそなえ、マンガを描き、10代女子の奔放な感覚世界をきづきあげていたように見えます。さらにそののちのキャリアの中で「手話」を覚え、ドメスティックのみならず、中国やアジアといった他国でも通じるような別の表現の言葉の世界によって、人気を博しました。

もし、マスメディアで喧伝されるような、「光と影」といった2元論な見方をしなければ、こういったアーチスティックな感覚世界の「拡大」、「拡張」のうえに、ドラッグが介在していたという見方が成り立つと思います。フロイトを思い出しましょう。フロイトが教えるところによれば、わたしたちは幼少期にえられた快楽のあり方というものをそうそうにかえることはできません。気持ちよさ、快楽と魅惑は成熟するにしたがって、「拡大」、「拡張」をめざすのは自然の導くところです。

だとすれば、べつだん「高相容疑者」とであったから、のりぴ~がジャンキー化したというわけじゃないでしょう。

それは、のりぴ~の中に胚胎され、機会をうかがっていたある感覚世界なのではないでしょうか?それが理解できずに、おそろしい。闇に見える。それは、たぶんにわたしたちの言語世界からそれ、逸脱していってしまうものだからです。そして、それがどうして闇に見えるのかといえば、その感覚世界というのは、言葉の世界とかならずしも併存することがかなわないような「魔性の世界」だからでしょう。(小説家のみならず、表現者の魅力はこういったアンヴィヴァレンスを前提としています。そういった「魔性」を秘めていない表現者世界そのものが、ただただくりかえされるキッチュに終始し、深遠な宇宙を孕まないという意味で、卑俗でおろかであることは周知のとおりでしょう)

このような「魔性の世界」をつうじて、わたしたちは自らの生という一個の現象を説明できるほどに、言葉が成熟していないということを知ります。たとえば、わたしたちは、どのような天才をもってしても、「死」という現象を説明することはできません。実質的に、わたしたちはいまなお「説明できない領域」と「感覚」の中で生きており、サルトルじゃないですが、この生がどのようなものであるのか―を表現することに根本的な限界があることを言葉ではないところで、よく知っています。ですから、この魔性というものは説明できない世界と密接なかかわりをもっていると考えることができます。

だれであれ、人間は説明できない世界、すなわち「魔性の世界」をその生のなかにおいて孕んでしまっている―という当たり前の事実を見つめないマスメディアやわたしたちの意識はあまりに傲慢なのではないでしょうか。というより、そんなにわたしたちの意識は平板でフラットなものなのか?そんなに無知なのか?モノを考えるということができないのか?

個人的には、一連の報道によって明かされる、「のりぴ~事件」の報道を見るにつけ、いかにわたしたちが、わたしたちを説明することができない存在なのか、という無力感を思いました。

それは言葉によって説明できるもの―の、限界なのでしょうか?
言葉を信じるということにはどこかうさんくさいところがありますが、そういったうさんくささの中でしか、わたしたちの生がありえないだろうことを力ない諦念のうちに実感させられてしまったという意味で、とても教訓的な事件でした。

☆アジアの時代
なかなか日本にいてはわかりにくいのですけれども―

欧米にいると、よくわかるように、どうあっても「アジア人」です。わたしたち。東の価値はかならずしも、西の価値といったものを意味しないことは、いまでは、わたしたち日本人よりも欧米人のよく知るところです。

ところで、いままでのらくらと延命につぐ延命処置をかさねながらも、その息の根をとめられなかった、
「自民党体制」
―が、ようやく「死に体」になったとおもわれる次の選挙、自民党、民主党が中心となった二大政党制へとおくらばせながらも変わってゆくようになり、日本もようやくグローバルな先進国的な政治体制へと移行するんじゃないか―と見られています。でも、これってどうも英米アングロサクソンモデルが前提としてあるみたいですよね。米民主党と米共和当、英労働党と英保守党。2つの政党が交互に登場する政権運営は、安定感はないけれども、批判精神とチェック機能という利点がある。

そんな日本の状況にもかかわらず、英米アングロサクソンモデルの相対的な国際地位はおちています。イギリスで下院議員総ぐるみの経費不当請求のスキャンダルが発覚したことや、サッチャー・レーガンが先導し、ブッシュ政権下において爛熟しすぎて、泡と消えたアングロサクソン型市場主義経済の害は、オバマ大統領の外交政策によく反映され、「自由」や「民主主義」の拡大にたいして、ブッシュほど前向きではありません。そんななかで、中国がその強権と発言権をつよめて、周辺の衛星地区や欧米にたいして、大国の力を誇示している。これからさき、中国が独自の文化的主張と政治的発言権を強めるだろうことは少なくみつもっても、
「そうだろうなぁ」
―と、思います。

日本人からみると直接的な占領体験はないけれども、国家として、日本は中国からとてもおおきな文化的な影響をうけ、従属的な朝貢関係をせまられてきた(そういった旧国際地域秩序の枠組みの方程式が今なおアメリカにたいしてされているようですけれども―)のち、近代になって中国文化を「東洋的停滞」と斬りすてた歴史があるだけに、そういった世界情勢にたいして微妙なところな印象をおぼえてしまうし、どうしても、わたしたち民主主義―旧西側陣営の国家からみれば、社会主義―旧東側陣営の中国には批判されるべきところが多々あるように見えてしまいます。(野放図な野蛮、差別、「秦時代」からかわらないような権力の中央集権、中華思想、自国中心主義、情報操作、偽装捏造、官僚的秘密主義等々―)

それでも―すこし括りをおおきくしてみれば、岡倉天心がいうように、「日本人」という以上に「アジア人」なわたしたちにとって、中国の発言権がつよまることは「よいこと」なのだとボクは思います。これまでの「モダン」の価値の体系のなかで、わたしたち―日本人も中国人も台湾人もフィリピン人も―「アジア人」は西洋社会という進歩史観的で植民地的、いささかならづとも押し付けがましい価値を旧西側東側陣営を問わずに「白人―大人―男性」によって、おしつけられきたという側面は歴史的に見逃すわけにはいかない。わたしたち「アジア」の価値を削って、欧米の価値に身の丈をあわせるような、いびつな価値の体系に生きてきた。でも、はじめに書いたように、わたしたちは「アジア人」であることをやめるわけにはいきません。その意味で、「アジアのキッチュ」としての技術大国はもちろんわたしたち日本人だけれども、「アジアのリアル」としての遅れた政治大国としての先端は中国だと思う。

中国がこれからさき、危うい綱わたりにも見える国家運営をしてゆくなかで、なにを欧米(特に米国)にたいして言い、それを日本人はどう受け止めてゆくのだろうか?-アジア人として、なかなか楽しみなことでもあるんですよね。

21世紀は、それがよいことであるにしても、わるいことであるにしても、やっぱり「アジアの時代」のようです☆
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by tomozumi0032 | 2009-08-19 17:52 | 社会問題
まだ、ずっとちいさかったころ、夢は宇宙飛行士だった。
見たことのない世界の住人への幼いあこがれ。
なにより、あの不思議なファッションが好きだった。

今、アジアは宇宙時代にある。
中国人が宇宙遊泳し、日本人はスペースシャトルに乗り、北朝鮮がミサイルを打ち上げた。
でも、あのころ考えたような、なんとなくファッショナブルで、なんとなくフワフワした、胸おどるようなものではないのは、なんでなんだろう?

アメリカの作家トマス・ピンチョン
の「重力の虹」の物語は、主人公スロースロップ中尉のペニスの勃起とミサイル着弾との相関関係を軸に展開されてゆく。ミサイルは象徴的なものとして、男根―「ちんぽ」―であって、国際間での弾道ミサイル配置合戦はそんな象徴としての「ちんぽ」ミサイルによって、抑止されている。言葉をさかさまにすると、以外と「ぽんち」なものなのだ。この世界って。アメリカにしろ、イギリスにしろ、ロシアにしろ、中国にしろ、「ぽんち」な大国の力学が「ちんぽ」な世界をつくっているのだ。そして日本もまた、「ぽんち」な「ちんぽ」―ファロスを見せなくちゃ―としている。あ~、情けないことに―。マラ、マラ☆

宇宙時代☆
わたしたちはぼんやりとした日常にそんな「ぽんち」なファロス宇宙を孕んで生きている。
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☆テポドン2号発射―なかなかしたたかな北朝鮮
クザでも現場作業でもそうだが、「体を張ってやっているのにはかなわない」というのは今も昔も同じこと。

北朝鮮という小さな国が経済規模で何十倍もおおきな韓国、日本ばかりか、「超大国」アメリカまでをもミサイルを使って恫喝していることを考えると、「体を張ってその気になってしまった」、つまり象徴的な言葉を弄せば「ちんぽ勃起した」国は強い。死ぬことを怖がらない国は強い―っていうか、戦時中のアメリカから見た大日本帝国のように、やっぱり、こわい。そして、民主国家韓国と日本はアメリカにべったりで、安全保障もアメリカの傘の下、お金をかけた最新鋭装備で防備しているが、北朝鮮は自前で国際標準からみれば「旧式」な衛星ロケットを打ち上げた。まったくゲリラである。だがこのゲリラ、なかなかのしたたかモンである。なぜって、アメリカ、韓国、日本といった「金持ち」で「おおきな」な自由主義市場経済を向こうにまわして渡り合い、恫喝すらしてみせるのだから―ちいさな国、でも誇り高き国なのかしらん?

東アジアの非核化は、アメリカ、中国、ロシアといった大国、軍事的なパワーバランスを前提としている。それは大国の力をそのまま維持させるような、格好の口実とならないのだろうか?北朝鮮のミサイル問題は「G20時代」の多極的な、それゆえ混迷するだろうパワーバランスにある「東アジア」のある動きを示しているのだと思う。

そして、政治はいつも、だれであっても個人の「人生」にたいして、微妙な判断をせまるものだ。

☆「確率論の破れ」
えっと・・・人間の現実世界には、「万が一」でも現実にはおきないだろう―ってことが現実におきるものらしい。考えてみれば当たり前である。日々を生きていると、思わぬ偶然がかさなってしまって、思わぬ方向へとゆく日だってあるし、文章もきちんとしようとすればするほど、偶然のひらめきに左右されることもある。おなじように社会をながめていると、「絶対おこらない!」と思っていたものが、「起こっちゃって、困っちゃう・・・」ことだってある。

早大ファイナンス総合研究所の所長、森平爽一郎氏によれば、サブプライム問題の株価の暴落は確率として「何京分かの一の確立」だったらしい。株のトレーダーもびっくり。「万が一」をはるかに飛び越えて「京が一」っつ~レベルで、そんなこと起こるはずがないような「確率論の破れ」が起こる。金融工学とは原子力のようなもので、有効につかえばよいけれども、ときどき事故も起きると氏は述べている。さらに、先日起きた成田での炎上航空機事故で事故機となった旧マクドネル・ダグラス社製のMD11機は搭乗100万回にあたり「1・65」の確率で事故を起こしていたことが明らかになっている。(東京新聞 2009 3・25)

つまり、ここ最近の話題というのは「何京分の1」かの確率で起きたことと、「100万回あたり、1・65回」で起きたという統計学的「確率論の破れ」によって、起きている。

「運が悪い」「アンラッキー」といえば、そうかもしれない。

だが、すこし考えてみれば、そういった「運」や「確率論」によって、「かけがえのない命」っていう劣化した知性の概念や、「無限の成長」という幼稚でバブリーでプラスチックな概念が、やぶれたということは人間とかいう、この「生意気な猿」、「APE」を黙らせるちょうどいい機会かもしれない。人間はまさに「猿知恵」というような、「手先の器用さ」と「知性」とかいうもの、そして「言葉」と「貨幣システム」に淫し、フロイトのいう「快楽原則」にのっとった「EGO」の地球支配をやってのけたわけだから、「ざまあみろ」である。だいたい絶対的な時間性の概念も解明することができず、差異に淫する浅知恵の猿こと「誇り高き人間」がうまいことゆくはずがない―とボクは思う。糞なプライドを別にすれば、しょせん「猿は猿」であり、「APE」はどんなに進化しようが「APE」である。植物や大気、動物やウィルスといった環境に負荷をかけては生きられない。すなわち、この「生命連鎖」から逃れることができない。

「確率論は破れ」るものだ。
そして、これからの未来でもまたずっとずっと破れ続けるだろう☆
だが、それを楽しむことだって、「猿」の進化したのにはできるんだろうなぁ~。

一匹の「オス猿」や「メス猿」、「ゲイ猿」として、「確率論の破れ」を楽しむこと☆

ハプニングを楽しむこと☆

自由ってそのことじゃないのかしらん(笑)

☆ねぇ~☆

―ねぇ~☆
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by tomozumi0032 | 2009-04-12 00:05 | 社会問題

あ~、春でぼやぼや、かったりぃ~☆

―けど、社会問題のいくつかを「かなり真面目」に論じてみたい。
120%本気である!!


1、22世紀にむけてかわる新世界秩序―日本はアメリカの影―2009
・・・ってことで―

おっす☆

はじめに、いまの世界の見取り図を簡単に描いてみよう。

まず、世界のリーダー、アメリカが新興国から期待されていた「過剰資本の使い方―余ったお金の使い方」で大きくズっこけた。するとそれが世界に波及して、アイルランドが危うくなってイギリスとの関係を険悪化させ、アイスランドはずっこけ、スイスは300年来つづいてきた「銀行守秘制度―スイス銀行ってやつ―」を変えようとしている。日本だって、GDPのマイナス加減や日々の生活など、人ごとではないのは、みなさんご存知のとおり。まったく、世界金融火の車。いきおい、保守的になって保護主義に走るオバマをブッシュがカナダで釘を刺している(これは珍しくブッシュが正論だと思う)。だけれども、ブッシュの「小さい政府」はオバマの「大きい政府」にならざるをえない状況でどの国でも保護主義的なものと財政出動花ざかり。若い国アメリカは中国とロシアという歴史ある新興(?)大国がこわいから、かわいくて、CUTEな衛星国「日本」に金融面で期待している。中国とロシアが覇権をとなえ、中央アジアの小国をまとめ、勢力をのばしている(イギリスに捨てられたチベット、ロシアの支配下におかれるウクライナ、グルジア)。そして、新興金融資本国家が会したG20はまとまらず、「新国際秩序」をめぐる攻防は混迷をますばかり。アメリカが弱まれば、世界はより「混乱」する、というより、より剥き出しの「利権」の取り合いを繰り広げる。世界はBIGなずっこけ大国アメリカを信じなくなりつつあるらしい。そして日本は外交まる投げした「アメリカの影」となって存在感を薄めつつある。

世界は引っ張り合い、主張しあって、ダイナミックにその「利権」力学をかえている。そして、それはけして日本の普通の普段の生活と無関係ではないと思う。映画「バベル」じゃないけれども、どこかで誰かとつながっている。なにかがどこかとつながっている。アメリカとの関係も以前は二国間関係だったけれども、今ではより他国に開かれた多くの関係性のひとつでしかなくなった。それなのに、安全保障をふくむ日本の政策は旧態依然で、良くも悪くも、かわる国際情勢にあってはいないみたい。アメリカの懐の中にいて、豊かで幸せな人生を夢みることができた時代は終わってしまって、これからはけっこうシビアな国際の力学、「新国際秩序」が、日本人一人ひとりのうえに折りたたまれるのだなぁ~と思う。
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ますます大変だ。これから。

でも、面白いといえば、面白い。いままでのように規範がなくなり、正しいことが入り乱れる。ひとつの正しさではなくて、おおくの正しさ。多様なあり方が入り乱れ、「中流」の価値がゆらいで、あやふやになってゆく面白さ。そして「ECO」の価値観、「人間中心主義」のヨーロッパ的「ヒューマニズム」を問いにさらす。

「G20時代の精神」というのがあってもいいと思う☆

2、べつにたてつくわけではないけれども
「お金がなくても平気なフランス人 お金があっても不安な日本人」という仏流節約のススメの本がじわじわ売れて、21万部らしい。
なんとなく馬鹿げているように思う。

社会構造も価値のあり方も世界の見方や捉え方もぜんぜん違うフランスのやり方が、どうして日本人とおなじ共通の価値概念でくくれるのだろうか?―という根本的疑問があるし、なんとなく「ヨーロッパ=育ちのいい=古き良きものを愛する」みたいな感じがして、ださくて、やだっぺ☆それを受け入れるプリンシパルなき日本人もいかにも安易でださいづら☆つか、てか―そういいながらこの本だって買ってんじゃん、ずっけぇ~づら―と思う。(それにしてもG20でも、G7でも日本のリーダーはもうちょっと主張して、説明責任をはたせれば、日本の立ち居地のようなものが明確になるのに、そこが曖昧でよくない!対米従属のイデオローグ!)さて、この本のなかで、著者はフランス人考え方によりそって、しっかりした金銭感覚を賞賛し、コンビニやブランド品を批判している。でもフランスにはフランスの、日本には日本の歴史感覚があって、買い物にたいする金銭の美学があるんじゃないかなぁ~・・・。日本、東京の金銭美学の特徴は江戸の「浮世のつれづれ」ということにつきるよう。「遊び」と洗練、「粋―あかぬけ、意気地、色っぽさ」の美学、「金ばなれのよい通な人」好き、「酔いごしの金はもたねぇ~」という浮世感覚。ヨーロッパともっとも違うのは「消えてゆくモノ」へのまなざしと「移り変わること」への感受性だと思う。日本人から見ると、ヨーロッパ人は歴史のなかに埋まりたがりすぎる。歴史をそのまま保存したがりすぎ、歴史にこだわりすぎる。歴史は論理だから、論理性にこだわる。そういう感覚はいいけど、堅牢で重く、人間ををある枠組みの中へ押し込めてしまっていて、窮屈で肩がこっちゃうところがある。(実際、ヨーロッパ人の肩こりはひどいものだ・・・)

どちらもどちらでよいところもあれば、悪いところだってある。
そんなものじゃないだろうか。文化相対主義って―
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3、虫けら哲学
ウィリアムバロウズドゥルーズ=ガタリが昆虫世界を、未来のヴィジョンとして描き出していたけれども、実際、ショウジョウバエの触覚と人間の耳の共通点が多く見出され、さらにテクノロジー世界では昆虫がモデルとなった発明がたくさんあるらしい。

新聞記事によれば、人間とハエは約6億年前、耳の機能を持たない祖先から別々に進化して、音や重力という情報を認識する同じような仕組みをもつようになった。音に敏感なのって、ハエも人間もおんなじなんだと思うと、なんだかハエが親しく思われてしまう。そればかりではなくて、「自然に学ぶ粋なテクノロジー」という本によれば、便器や汚れないビルの外壁はカタツムリの殻から、宇宙で開く太陽パネルは羽化する蝉、サバンナのアリ塚に学ぶ空調システムなどなど様々な技術に応用されており、技術面では人間の発明は虫たちがずっと前からやっていたことにつながるらしい。

今日のような昆虫人間時代には「虫けらの哲学」がもう少し注目されてもよいのだと思う。

そう、虫を無視するなどという虫のいい話しはもう我慢することができない。
温血生物の進化史は地球規模での拡大と他生物との融合が見込まれている。これからは虫けらを先輩、大先生、名誉教授として生きてゆかねば―と痛感させられた。アリやハエ、ゴキブリに学ぶことはいろいろあるはずだとボクはついつい考えて、挨拶をしてしまう。今日もまた―。
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「おっすめっすさぁ~す☆」
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by tomozumi0032 | 2009-03-22 02:30 | 社会問題
最近の社会情勢のつれづれ―

☆まづしい現代作家とゆたかな昔の作家

★このあいだ、津村記久子さんの芥川賞受賞作をざっと読んだんですが、もちろん上手な小説で、よく書けているんですけれども、同時になんだか貧乏くさいなぁ~とも思いました。技巧上や構成上のあれこれではなく、その精神が貧乏くさい。これは日本の若い作家に共通して見られる傾向でしょうけれども、こういった精神は案外ジェネレーション的なもののようです。

★不思議なのは、なんでこんなにお金もちの国なのに、生まれてくる表現はマヅシくて、慎ましいんだろうということです。と、同時に21世紀の人の精神はつまらない、かつてドストエフスキーやニーチェが期待と不安をもって描いた「新人類」はひどく退屈なものとなって、つまらないものになった時代だと感じます。

★むかし、大岡昇平という戦後文学の旗手とよばれた作家がいましたが、彼の「俘虜記」や「レイテ島戦記」、「野火」などを読んだ時、そのおかれている状況の貧しさとは別に、言葉のリッチ、感性のかがやかしい豊かさが感じられて、作家はこういうもんだ―と幼心に思いました。あるいはJ・G バラードはSFというフィールドの中でそういった言葉の豊かさを追求しているようです。作家は貧しさを言葉の力によって輝かせる錬金術師なんだと思います。

★でも、現代作家って、残念ながら、そういう「言葉のリッチ」みたいなものが少ない。現代作家の言葉のまづしさは今の日本のまづしさに繋がっているような気がするし、そういったものを皆鏡をのぞきこむようにして、のぞきこんで、自己確認しているようにも見えます。結局、日本は、戦争という心理的外傷―トラウマ―に固着し、退化のプロセスにある、ある「幼稚でプライドの高い民族性を確認すること」をくりかえす循環構造の中にいるようなものでしょう。不況になれば、ますます閉塞して、そういった循環を強化するんでしょうね、しょせん、きっと。

そう考えると、21世紀はまづしい世紀ですね。いやな事ですけれども。

☆ろれつがまわらない日本
★少し遠くから話しをはじめてみましょう。
第一次大戦以後、ちょうど100年の繁栄をほこった新興実験国家アメリカ。
1929年の大恐慌の時もそうだったようですが、また世界同時不況を生み出して、世界に火の粉を撒き散らしています。大恐慌時は経済システムがこれほどまでに1元化されておらず、もう少し緩慢な多元性があったのでしょうが、いまや世界は1つであり、ひとつの経済システムの混乱がアッという間に他国へと飛び火し、そこで燃え盛ってしまいます。

★思えば、新自由主義経済を背景に、世界の過剰資金を集め、圧倒的な国力をほこりながら空前の好景気に沸きたち、資本のテリトリーをイスラムへ拡張するという「アメリカ的野心」に溺れた結果であり、コンピューターとネットを背景とした情報流通の飛躍的発展と対応した金融操作技術を膨らませるだけ膨らませた結果でもあるでしょう。これは資本主義がシステムとして洗練されながらも、バブルという信用膨張を回避することが未だに出来ていないことをあらわしています。
(そして軍事は意識の抽象的なレベルに還元してしまえば「モデル」と「消費」という意味で経済システムそのものなんでしょうね)

哲学者ガタリ=ドゥルーズが説いたように、資本は成長という原則、拡大という原則を内在させているので、過剰資本は成長・拡大へと向かう。それは新たなるフロンティアを切りひらく運動で、知ってのとおり、こういった運動力学が内在された意識こそ、資本主義意識です。この資本主義意識の徹底がこそ、アメリカ的野心であり、アメリカ的精神の源だと思います。空想のキャンバスに描かれる「奔放な夢の劇場」、「進歩という名の演劇」(コールハス)がこそ。

★そうしてそこへ寄り添って、甘えるように依存し、安全保障をまる投げすることで生じる「経済の蜜」を享受し、第二の経済大国うんぬんといってきた日本は未来へのグランドヴィジョンが「中川昭一レベル」で、しどろもどろでロレツが回っていないようにも思われます。結局なんだかんだ言って、「ガイアツ」がないと自己変革も構造改革もできないんじゃないか―なんて。せめてリーダーぐらいは、どこが重要で変えるべきではなく、どこを切り捨ててゆくのがぐらいの「取捨選択」はして欲しいのですけれども―。

★マッカーサーが日本の占領統治にあたって「この国は14歳だ」と言ったことはよく知られていますが、大人になれるのだろうか?-というのは個人のみならず、国としての命題ではないでしょうか?GHQ統治下の頃から、はたして日本は大人になったのでしょうか?より「甘え上手」で「ばらまき上手」になっただけなのでしょうか?

★現代社会でそのマイナス局面のみが取り上げられていますが、「家族」を失ったことや、「共同体がバラバラになったこと」、あるいは「個性」や「2極化」といった問題の背景には、この個人としての、国としての、「大人になること」という通過儀礼的なものがあるように感じます。イニシエーション不在で「痛み」のない社会において、どうやったら「大人になること」ができるのか?どうやったら資本の命題である「成長」を体現し、民主主義という理念モデルに忠実であることができるのか?これは精神面で与えられた日本人の命題だと思います。

★まぁ、個人的には、もうちょっと意識が外部に開かれて、外国とやりあって、競い合うことで意識それ自体が磨きあげられればよいのになぁ~とも思います。情緒を交えない論争がうまくなり、戦いが上手になること。口八丁手八丁で相手を納得させること。ちなみに官僚主義は外国人を排斥し、移民を受け入れず、子供っぽい憧れに生きるからあまりよくないと思います。まぁ 懸案の公務員制度改革もおそらく対した成果はあげられず、いままで通り、骨抜きにされて、構造を温存してゆくんでしょうけれども・・・。

★あ~ でもこのままじゃあなぁ~・・・。憲法9条もぬくぬく内向きだし―でも平和は大切だろうし―でもでも、もうすこし攻撃的で、開放的であったっていいんじゃないかしらん・・・。
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by tomozumi0032 | 2009-02-22 13:58 | 社会問題
☆いまのまんまぢゃ、NO FUTERE FOR YO*U!
日本は、おそらく、みなさん、ほんとうは心の底ではお気づきのように、今のまんまぢゃ、NO FUTERE FOR YOUでしょうね。衰退してゆくのが目に見えていますし、それでいて改革は進まない。なんにもかわらない。なにひとつかわらない。元気のいいジジババどもがのさばり、医療費ばっかりついやして、長生きして、若者は結婚-繁殖できずに死んでゆく。生まれたときから「負け犬な若者」。世代間格差はますます開いてゆくばかり―閉塞感にさいなまれていて、みな、内向きになって、閉じこもっている。あるいはオレオレ詐欺や振り込め詐欺をやる、ジジババを殺す、金を奪う。アダルトヴィデオでセックス見せびらかす。ドラッグにふける。それもこれも、ワケがないわけでもありません。アメリカの金融技術操作のテクノロジーがぶっこわれ、日銀やユーロ銀行はその下支えを打ち出したけれども、全世界の「金余り市場主義」はいまや先端が壊れ始めているし、日本にしたところで、医療費負担ばっかり、皺寄せはみんな若い世代ってわけです。ファッションという気分の領域でPUNKが流行るのはべつだん、こういった社会情勢に関係ないってわけじゃないんですよね。すなわち、少なく見積もっても、若い世代にあまり未来があるとは思えません。

-と、いうことで、そういった世界の気分に同調して、本当にNO FUTERE FOR YOUの一曲からはじめてみます☆

SEX PISTOLSで「GOD SAVE THE QUEEEEEEEN」から―この曲でも聴きながら、ブログ読んでみてください☆


☆リーマン終焉
先日、アメリカ証券会社のリーマンが経営破綻し、これに米政府が公的資金を活用しなかったことが話題になっていますが、すこし引いてみると、この破綻の風景はアメリカ映画で見たもののワンシーンのようにも見えてしまいます。破綻するにせよ、しないにせよ、現代社会は本当にシュミレーションで、透明性のなかにあり、起こりうるすべての映像がすでにデジャヴとしてあるので、すべてが起こりうるようにも、なにも起こっていないようでもあって、大騒ぎするのも、静観するのも等しく差がないような感じがしてしまうのです。発展途上国の食料や資源、石油、ライフライン問題等々をめぐる膨大な量の人の命がこういったリーマンに代表される市場原理やつい先日まで繁栄をほこった米国の金融技術、テクノロジカルな金融操作による価値のせり上げといった先端的シュミレーションの中にあり、そこで操作されてしまう。これは大きく考えれば、核兵器と同じようなものではないでしょうか?いまや、命は最先端でひとにぎりの操作技術によって左右されるという意味で、ひどく軽いもののようであり、なによりも無差別なものです。わたしたちは技術操作のふたつの点、すなわち市場と核において平等であり、運命共同体ってわけなんでしょうね。け。技術操作は透明なものです。ですから、それはエクスタシーに近い快楽をもつ。できることは快楽です。できないことは不快なことです。できる国ができない国を技術操作によって、爆撃し、整地し、痛みを媒介に従属させ、開発し、開放させ、そして搾取する。特にキリスト教圏のものの考え方、アメリカでも、ロシアでも、ヨーロッパでもそうですが、なんだかそういった考え方はいや~な感じがします。そして痛みを媒介に従属している日本はもっといや~な感じです。マゾヒスト国家・・・け☆

アディオス リーマン☆

☆FUCKIN NO SMOKE USA
おおっぴらにはいいませんが、日本人から見ればアメリカ人は「へん」なんじゃないでしょうか?

なぜって、だって―アメリカ人にはどうも潔癖性を旨とした清教徒的理念が背後にあって(W.A.S.PやKKKなど)、それが教育や躾のなかに組み込まれていて、そういった理念にたいする肯定にしても、アンチにしても、かなり神経質でヒステリックに騒ぎたてるのが好きです。大騒ぎして、主張する。時に国家暴力をつかっていうことをきかせる。周りを大国の強権でしたがわせる。モラルや倫理をいいたてる。あやふやな科学を武器にして、グローバルスタンダードを叫ぶ。自分たちを特別にしたがる。こないだの北海道洞爺湖サミットではブッシュ婦人だけ政府の用意した「ECO 乗り合いバス」にのらず、自家用車で移動したらしいですし、環境問題にも大国のエゴをむきだす。そして攻撃すべき対象を見つけると、「野蛮」と名づけ、かなりしつこく攻撃する。こういった攻撃対象をめぐる概念操作は「インディアン」をめぐる文明と野蛮の戦いから、すこしも心理的な発展をとげていないのではないだろうか?-とうたがわしく思ってしまうほどです。それでいて、日本人同様に自分たちを「いいひと」、「ひとがいい国民」だと思い込んでいる。まわりにもよくいますが、「いいひと」、「ひとがいい国民」は無邪気な善意を押しうるという意味で「無神経なひと」、「無神経な国民」であることに気がつかない。こういう国はこころの底ではまわりから嫌われていますが、なにが嫌われているのか、どこが悪いのか-自分たちでは気がつかない。そしてたまに「嫌われていること」をいわれると、ヒステリックに反発したり、感情的に自己正当化したりする。個人的に日本とアメリカは少し似たところがあると思います。管理されて、綺麗な顔をしたがる。機械やテクノロジーに憑かれて、疲れている。お互いが鏡のように、お互いをのぞき込み合って確認しあっている。アメリカは日本をまなざすことにより、異質性をあげつらうことにより、あたかももやのようにつかみがたい自らをながめているようにさえ思います。そして、やや視野狭窄国家日本にとってアメリカは「グローバル世界」の代名詞として機能するようです。アメリカにとって、日本は格好の操作領域となるのは当然なんじゃないでしょうか?-さて、ところで、そんなゆいいつのちょ~大国「アメリカさま」が見つけた攻撃対象のひとつが「タバコ」です。なにしろ、彼らは飲酒を禁じる「禁酒法」なる法律を制定した民族です。民族は二度同じことを繰り返すと、民族性というもの、よきにつけあしきにつけその民族の運命を織り込んだ性質となります。倫理的潔癖性、社会的超自我の生産体制から二元論的な善悪の枠組みを定め、これがよくてこれが悪いことにしてしまう。(すこしいえば、こういった超自我体制を哲学者ドゥルーズは「抑鬱体制」とよびました。超自我形成の問題は超自我それ自体が同一化しようとする「善き対象」の不在、つまりないもののなかに本質を見ようとすることです「意味の論理学(下)」第27セリー 口唇性)そうして―隔離と排除をする。いまや日本はこの考え方の真っ只中です。煙草は体に悪い「悪徳」だ。だから、隔離し排除してしまおう。いまや喫煙者は日本でもマイノリティで、日に日に肩をせばめ、身をすくめなければいけないという状況の中です。喫煙者として、なにが腹が立つって、こういった悪徳に対する余裕のなさです。そういえば、今は映画でもドラマでも煙草を吸うシーンが減っている。悪徳を裏返して、きらめく悪徳にかえてしまうような、ピカレスクな格好よさ、COOLさがない、少ないというのは残念なところだと思います。本当は日本政府は「アメリカはアメリカ 日本は日本。国策として喫煙者擁護します!」と―明確な指針を打ち出してほしかった。アメリカにならって、禁煙化をおしすすめ、たばこ税の値上げを財源の補填として目論む政府はほんと、「糞喰らえ!」―です。心の奥では《福田!てめ~、「チェべス首相」を見習って、「アメリカを知能指数の低い悪魔」と呼べ、アメリカに中指突き立てて、舌だせ、アメリカに反逆しろ・・・アブズルダムラス・・・コノウラミハタサデオクベキカ・・・》―と、呪いながら念じていますが、実際のところ、なんだか肩身がせまそうに、すみっこの方でそっと煙草を吸って、ひとに届く煙まで気にする小心な自分はもっとFUCKです・・・☆

あ~・・・FUCKIN NO SMOKE USA☆

☆ダニ人間であること
いま、社会の状況を見ていると、人々の関心のあることはセレブリティのように、「美しいこと」、「性別年齢を問わずに少女であること」「気持ちいいこと」、「スクリーンの内側であること」「楽しいこと」「快楽的であること」、「消費的であること」のようです。これはひとえに社会に平和がつづいて、女性が社会進出し、社会それ自体が「女こども」になったからでしょうね、きっと。「液晶がめん」とはなにかといえば、女性―つまり「誘惑」と「消費」をきらめかせる場です。総理大臣といった硬い地位ですら、いまや「液晶がめん」の流体力学にさからうことができなくなっているようです。ファッション雑誌のモデルのように飛び出しては消えてゆきます。そう、つまり、一億総「女こども」化です。いまや。たしかになんだか情けない。すこし皮肉っぽくいえば、「男の大人」を「女のこども」に中和させて、満足し、金を与えているのがいまの社会ですから、社会は「女こども」の理念をやしなって、大きくしている。これを民主化、民主主義といえばそうでしょう。次期総理大臣候補の叔父さんのように「プリンシパルなき日本」といえばそうでしょう。さながら、いまの日本の外交のように、みんなに好かれること―八方美人にして、だれにでもいい顔をして、そのバランスをとること、そして伸びしげる葉を切ってしまって、普通にすることで安心する。男はいまや古ぼけた化石です。ああ まったく情けない社会です。僕はいちおう男ですから―あ~ なんだか情けないなぁ~・・・とほほな時代っすね、おほほ―とは思いますが、でも、ほんとは人間はそんなに格好のいいものではなくって、情けなくて、虫けらや動物みたいなものなのじゃないかなぁ~って感じもします。生物学者のダーゥインは「みみず」に愛を見ました。哲学者ドゥルーズは「ダニ」の美しさをたたえています。もしすると、「みみず」や「ダニ」は、生命体として、人間以上のものかもしれない、そんな風に思うと、社会そのものがうんとバカらしく思われます。そして、知性というのも鳥や英知や高みというものではなく、ダニや雑学や平面というものであるかもしれません。ダニはたしかに、顕微鏡で見れば、きれいです。しかもピョンピョン高く跳ね上がれます。羨ましいなぁ~と思うんです。生まれ変わったら、きっとダニにでもなります。ぼく。総理大臣も大臣も、coolなモデルもダニを見習ってほしい。そして人はだれもダニになるべきです。重力にさからってピョンピョン跳ねるべきです。

そ~だにぃ~―などといわずとも。

☆FUCK YOU VERY MUCH!
ここまで読んでいただいてFUCK YO*U VERY MUCH!です。
エンド FUCK ME VERY MUCH!

け くだばれ この世界☆
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by tomozumi0032 | 2008-09-07 15:08 | 社会問題
☆なくならない戦争とたまには天下国家について―
グルジアへのロシアの侵攻が国際的に大きな問題となっていますが、どうも欧米をふくめた国際社会はロシアをみくびり、過小評価していたような気がします。世界は欧米の主導によってみちびかれてゆき、経済がこの世界を支配し、戦争はスポーツや経済などの代理戦争の様相を呈してゆくだろうという見通しは甘かった。世界をめぐる力学は、アフガニスタンで復活したタリバン政権、ロシアの強硬な姿勢、中国の雪崩をうったかのような超大国化、イスラムの混乱とアメリカのコントロールから外れ、多極化し、複雑に入り組んでますますわかりにくいものになってしまっているように見えます。ロシアと中国の台頭をいかにして押さえ込んでゆくのか―といったことが現在の国際社会の課題のようですが、間違いなくロシアと中国は欧米的な価値基準がうまく適合しない別の価値をもっています。つまり欧米にとっては、日本がそうであるように、ロシアと中国は他者性をもっており、異質なところがあります。それは植民地主義へ遅れて参加した国家のあり方というものと密接にかかわり、それを逆転させてしまおうという「巻き返し」をはかる精神構造であり、たとえば、20世紀初頭の「レーニンの革命」はそのようなものであり、中国もまたそれにならってゴダールが描いたように―毛の「文化大革命」を起こした―欧米がこわいのは、この「巻き返し」の力学です。なぜなら、根本的なルールそれ自体が「巻き返され」てしまうかもしれないからです。そして中国とロシアは日本とは異なって、辺境を抱き込んだ大国である以上、地政上の政治が不可欠なので、立場というものが明確にされてゆきます。立場を明確にすることは大陸に偏在する民族にとっては死活問題であり、この立場というものと「軍事」というものが密接に関係しあっているように見えます。「軍事」とは日本人が考えるほどには特別なものではなくて、大陸からしてみれば、立場を守る必要性から派生したもののようです。逆にいえば、この立場がなければ、軍事は必要ありませんので、ちょうど今の地政上の日本がおかれているように、立場の不在は軍事の不必要性を意味しています。つまり、戦争のない世界というのは地政上の立場の不在です。ところがこういった地政上の立場の不在というものに、おそらく民族は耐えられないように思います。それは、立場を明確にすることが民族の精神構造、アイデンティティにかかわっているからです。したがって、日本のアイデンティティの喪失とそれゆえのそれ故の固執とは、二重の意味でのトートロジーとなっているようです。ぼくの意見では戦争はけしてこの世界からなくならないのだと思います。と同様に「野蛮」であることはなくならない。チェチェン人が非常に効果的なかたちで示唆してみせたように、人間は戦うことによって、自分がどこに属した誰であるかを知ることができるものだからです。けっきょくこの世界は対立し、戦うことによって、国や民族であることを自ら受止める構造のなかにあるように思います。それは精神構造としても依然、然りといえます。中国がなぜかくも執拗に日本を攻めるのか。アイデンティティと戦争とが離れがたく結びついているからです。戦いや戦争はわたしたちをわたしたちであることをあからさまに教える効果があります。逆にいえば、わたしたちがわたしたちでないと思うのは、戦いと戦争の不在という日本の状況そのものなのではないでしょうか?―なんにせよ、日本の地政上の隣国、超大3国―アメリカ、中国、ロシアにわたしたちは接していかなければならないという、宿命を背負っています。それは日本人のクビキだといってもいい。こういった強力な帝国主義軍事超大国家を前に小国として日本はどのような外交をくりひろげ、国の指針を明確にしてゆくかという力量が問われているとぼくは思います。
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by tomozumi0032 | 2008-09-07 00:14 | 社会問題
☆低成長時代のモノローグ
んじつ発表された日本の4-6月期のGDPはマイナス成長。
マイナス―マイナス―マイナス―と、ずっと、きかされつづけてきたように思うけれども、マイナスだってプラスよりもいいときだってあるんじゃないのか?―と思う。日本は成長しない。これ以上よくならない。希望がない―んだろうけれども、別に希望なんてなくても、よくならなくたって、生きることはできるわけで、それならそれでいいじゃないか―と思うボクはのんびり屋。でも、もし環境問題としてみれば、人がいつまでも死なずに生きていることは環境問題ではないのか?あるいは快楽におぼれたり、仕事をしなくなるのも実はマイナス社会っていう環境の問題じゃないのか?それがよくない―というのは、生物学的サイクルや連鎖構造の枠組みから外れた人間という種の思い上がりじゃないか?マスコミのトロツキー、社会のウソツキ、国家のキツツキ、時代のキネツキ―なんて考えると、なんだかまったくイヤになってしまう。高度経済成長はおわって、産業は空洞化して、マイナス―マイナス―マイナスに減退してゆく日本社会は退化と孤独の修辞学を学んだほうがよいのかもしれない。いくらやっても成長しない社会、がんばってもむくわれない社会が現実に来ているのに、いまだに高度にプラス成長してゆくという幻想ばかりが一人歩きしているのは、なんだか滑稽なようにも思う。
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☆SPORTS優位の現代社会
ちお、現代人―として、オリンピックが盛り上がっていることもあって、たまにTVやネットを見たりやったりすると、TVやネットって―なんとなくSPORTSに近い気がする。たしかに、まぁ、現代社会はSPORTSだといえば、それはそれまで―TVでも、ネットでも、新聞でも、仕事でも、経済でも、SEXでも、コミュニケーションでも、社会問題でも、外交問題でも、ファッションでも(川久保とSPEED社、山本とアディタス社、PRADAとスポーツ、DRESS CAMPとチャンピオン)、生活全般でも、数値とタイムと勝ち負けにして、なんでもSPORTSではないところまで、SPORTSの精神で眺めてしまうのは、現代人の癖のようなもの。現代人特有の社会認識だ。社会がGAMEだ―と、いう人たちは社会がSPORTSだといっているようなもの。でも、そんなに人間簡単なのだろうか?そういえば、SEXはいまやちょっとした快楽のSPORTSとなって、「肉体」の限界にいどんで、あっさりしているけれど、それじゃ、「心」や「精神」はどうなるのかと思ってしまう。ま、淡白で、そ―と、している。それはいい。それはいいけど、でも生きるということは、それだけじゃないんじゃないか?―生きることはもう少し複雑なファクターがあるんじゃないか。「心」はもう少し微妙でいろいろなエレメントを感じ取り、解釈や勝敗の外側にあふれでるものじゃないか?―とそんな風に思う。時間の洗練は時間を貧しくする―とミヒャエル・エンデも言っていた。SPORTSの優位、ゴールドメダルゲッツ、時間効率、時間の洗練、そういったソフィスティケーションによってもたらされる快楽と、その心と精神の不在はかなり現代人を貧しくしている。オリンピックはあれはあれでいいけれども、でも「それだけ」ではないし、その精神が社会の価値をおおってしまうことは社会をつまらなくって、単調に見るだけのようにも思う。「直線型で蓄積型」の社会の価値はもうすこし、「螺旋型で発散型」の社会それ自体を学ぶべきなのだと思う。

☆グルジアの哀しみ
☆概況 1

☆概況 2

ないだ―ロシアアヴァン展を見にいって、マヤコフスキーとならんで好きになった画家、ニコ ピロスマニWIKIはこちらもうひとつ別のPAGE(「百万本のバラの花」のモデルはグルジア―ピロスマニ)は今ロシアの新覇権主義と米露をめぐる新冷戦構造の誕生か?―と話題のグルジア人だった。

グルジアの位置する黒海とカスピ海というおおきなおおきな湖のあいだ、コーカサス山脈の南側に位置する肥沃な地帯は大国のあいだは、むかしから侵略と略奪に晒されてきたらしい。古代ペルシャ、イスラム、オスマン帝国、ソヴィエト連邦―。ちなみに宮崎駿の「風の谷のナウシカ」の舞台はどうもこのあたりの地政を描いているよう。このあたりの民族の複雑な入り混じりと、複雑な不安定さ、歴史的怨念はちょっと日本人にはよく理解できない。でも、そこにあるっていうだけで、大国の思惑によって、いかようにも支配されてきたというのは、素直に「大変だ」―と思う。中国やロシアの軍事費の増強は大陸という辺境を抱いた民族の複雑な不安定さなのだろうか?そうして小国をめぐって、米露といった大国が軍事力を背景に利権や影響力を争うって構図はかつてドイツや朝鮮半島やキューバでやったこととおんなじじゃんか―となんだか、「漱石の猫」のように国家利権をめぐる人間のおろかな繰り返しに哀しくなる。世界はますます複雑に多極化し、ますます不安定にゆれ、ますます危うくなっている。軍事力に頼るのは安易だが、甘くて、わかりやすい誘惑だ。第二次大戦の日本にたいするアメリカみたいに、ロシアはグルジアの行動を読んで、シナリオを描いていた。それが小国の哀しさなのかもしれない。大国の掌の中で翻弄される小国。それにしても、ロシアは力づくでの国家支配が好きなよう―おおきな国とちいさな国の関係は、本当にむずかしい。バラバラになって不安定になればいいのか、それとも統合されて安定されていれば、それでいいのだろうか?


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☆ざくろの色
とついは青山でパラジャーノフの「ざくろの色」の最後の上映を見る。ちなみにパラジャーノフはグルジアの隣国、アルメニア人。ちなみに、スターリンはグルジア人で、時々、巨人も生むコーカサス地方はなかなか面白い場所。コーカサスヨーグルト(おいしそ☆)に絨毯、古代キリスト教なんて―のもそうらしい。アルメニアは世界ではじめてキリストを国教とした国らしく、イスラムとキリスト、アジアとヨーロッパ、東洋と西洋などの交じり合いがなんだか不思議で面白い。映画もそういった印象。鮮烈なイマージュのぶつかり合いと重なりあい。映像言語というひとつの言語。もうひとつの言葉。おりあげられた文化の混ざり合い。それは綺麗で、ちょっとゴダールやマシュー バーニーに似て、現代のイコノグラフィといったところだと思った☆

ロマンス ベイベ~☆
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by tomozumi0032 | 2008-08-24 22:36 | 社会問題
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すこし古い話しですが、倖田來未の「痒水が35歳になると腐る」という発言が話題をさらっていました。あの発言をした番組はオールナイトニッポンという本音のトークが売り物の番組でした。オールナイトニッポンは過激な番組でした。以前、ビートたけしがDJをやっていて、そのときゲストで内田裕也がでていたんですけれども、たけしが番組を欠席したことに腹をたてて、いきなりスタジオに殴りこみ、代役でDJをしていたたけし軍団(たしか「そのまんま東」)をぶん殴っている一部始終が放送されたことがありました。そのまんま東はあわてふためいて、裕也がどなっている。おお なんて劇的な場面に遭遇したのか!―と興奮しながら、夜中にラジオを聴いていた覚えがあります。微妙なところなんですが、ああいった過激さをよろこび、過激さをたのしむために深夜のラジオを聴くという心持ちがリスナーにはあって、あけすけの本音がきけて、それを夜中に占有できるというちょっぴりエゴイスティックな思いにモチベートされるところがたのしいのです。だからもちろん発言自体は不適切で、科学的な検証を欠くものであっても、深夜ラジオには個人的な対象を独占するよろこび、肌身でその対象を感じられる歓びがあった。そして、そんな対象がすこしぐらい暴走しても、それを人の振れ幅として受け入れる寛容さがあったように思います。だって―個人の発言なんてものは、どうあっても個人です。すべての人があらゆる問題について完璧なことを言えるはずなんてありませんし、そんなことになったら究極の管理社会です。そんなに目くじらたてられて、科学的根拠がどうのこうのなんていわれたら、ひどく息苦しくてなにもいわれなくなってしまいます。こういった発言がこんな風にオオゲサに取り扱われるものとなったのは、インターネットや情報技術の発達によって、日本社会が深夜という主観的な場を失ったことと関連しているように思います。と同時に小説に代表される主観的なものの捉え方というものを軽視している。サルトルという哲学者がいましたが、サルトルは「わたしには無意識などない」といいました。あるいはロシアの文学者ドストエフスキーは「2+2は4、ではない」といいました。ウィリアムバロウズは「麻薬はカラダにいい」といいました。科学はあくまで集合的な基準にすぎないことは、主観と客観が厳密に分離できない今日の科学をめぐる認識のうちにあきらかです。科学はすこし統計学や民主主義の形態に似ています。なぜってみんながそうだ、ならぼくもそうだという論理だからです。ですから、その発言自体は別に科学的ではなくったって、彼女が信じていたのだから、それでいいのではないのだろうかと個人的には思いますし、それが一部のリスナーの内にとどまっていればよかったのです。ところが、今はネットの時代ですから、パッとそれが深夜の個人的語りという枠組みを越えて、広まってしまいます。すると、皆、ひどく感情的に騒ぎ立てる。あの女は気に入らなかった、ファンだったのに裏切られた、もうレコードは買わない・・・といった今まで表面的なものとしてあらわれなかったバッシングがあらわれる。そして缶チューハイのCMが打ち切られ、彼女の評価は下がり、現状がそうであるように問題発言歌手としてのイメージが先行しています。深夜という個人的な場の調子はコンピュータースクリーン上のフラットなオペレーション領域へと転化される。そうやって均質な管理システムの中でわたしたちはそれをもう一度捉え直して、それが正しかったかどうかを判断する。はたしてそれがよいことなのでしょうか?かつては場には場の真実が、言葉には言葉の真実が、そのときという時間にはそのときという時間の真実がありました。ですけれども、科学技術はそういったものを根こそぎさらって、客観的な価値とてらしあわせてどうなのか、大衆としてのわたしたちにとってどうなのか、みんなにとってどうなのか―と問いを変えます。管理社会は人をそうやって客観性という絶対的基準、民主主義的な基準の奴隷、家畜にかえます。民主主義のパラドクスはそうした奴隷と家畜人間は、イラク戦争や現代アート、ポップ、ファッション、あるいは過激なエコロジスト、資本、先を取ること、先を読むことといった日常的なテロリズムや暴力、あるいは個の力に先導されて成り立っているということです。みんなにとっていいこと、みんなと一緒では社会体の運動は循環的なものであって、その枠組み自体を進めることはできません。ですから、この間の狭い場所にいれられ、周囲にもてはやされると同時に興奮させられ、先どることというプレッシャー、自己表現というプレッシャーと民主主義という制度の板ばさみの間で倖田來未の発言はおこるべくしておこったように思われます。そんなわけでもうすこし、社会が主観性や時間というものの領域に対して寛容でないと、長らく続いた封建主義的な価値を超えることなんてできっこないんじゃないかしらん、日本はずっと封建主義にいて、現代は日銀総裁すら決められない昏迷と停滞の中にいるのにそんなに内弁慶ばかりでよいのかしらん、そしてあまりに科学技術によって透明になった社会はひどく不安定で主観的で時間的な場をなくすものではないかしらん―なんてことをぼんやり考えてしまいます。主観的で時間的な場がない社会は安全で楽しいかもしれませんが、息苦しいものであることは間違いありません。わたしたちはなにも客観性のみの場ばかりに生きているのではないのです。
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by tomozumi0032 | 2008-03-20 19:15 | 社会問題
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