カテゴリ:手塚 治虫( 5 )

☆ぜんかいのひょ~ろん「三つ目がとおる」はこちら―
a0065481_1522041.jpg


☆悪いってなんだろう、善いってなんだろう?
「漫画の神様」
―と、よばれた手塚 治虫は今でもおそらく知らない人がいないぐらい有名な漫画家の一人です。その作品は今もなお、漫画、アニメで読まれたり、見られたりするだけにとどまらず、映画にもなっていて、人々の心をとらえつづけています。

作品をめぐる賛否両論はさておき、たしかに多種多様で、非常に幅広い表現スタイルを駆使して、漫画やアニメ文化そのものをLOWな文化から、HIGHな文化へと「底上げ」―ボトムアップさせたひとりであることは間違いありません。ただ、その表現自体には、ちょっと実存主義の哲学ドストエフスキーなどのロシア文学にも通底するような、目録的で、暗くてねばねばしたものへの関心とのめり込みがあって、どうにもどろどろとして、匂いたつようなところがあるなぁ~とは以前から思っていました。

それから、もうひとつ。この神様は「悪」を描くのが、他の漫画家よりも上手なように思います。ときに救いようもない「悪」―映画「時計仕掛けのオレンジ」の主人公さながら、徹底的な「残虐」と実も蓋もない「利己主義」と颯爽として享楽的な「暴力」(例をあげると―「バンパイア」の「ロック」や「三つ目がとおる」の「写楽」、「MW」の「結城美知夫」、「アドルフに告ぐ」の「アドルフ」、この「火の鳥」の「我王」や「義経」などなど枚挙にいとまがありません)―が、おもいっきり漫画的、表面的に描かれます。

大人になった今ではすこし感覚が摩滅してしまっていますが、感覚の鋭かった子供の頃には、「ひぇ~ッ!」なんてイケナイ人なんだろう、なんて悪くてヤな奴、なんて救いがないのかしらん―と叩きのめされました。

―と、同時に「悪」の痛快な魅力、「悪い」っていうことの倒錯した価値、それから世の中をあざける孤独な「悪」の生き様に人知れず心ふるわせていたことも事実です。
a0065481_14431361.jpg

思い返してみれば、「悪」は格好がいい、「悪い」ってCOOLだ、「悪」ってちょ~気持ちE!!―と、いうことはドストエフスキーキューブリックとジャン・ジュネ、サルトル、それからこの手塚治虫によって教えられた価値観でもあるなぁ~と思います。

そして今、個人的に、手塚のすごさっていうのは現在の、ただ絵がうまいだけの、文学的バックボーンを欠いた漫画家とはちがって、「悪」に淫してしまうということがなかったところでは?-と考えています。どういうことかといえば、「悪」を(これは「善」についてもいえることですが)つねに相対的で、長い視座から眺める目をもち、その目によって語って見せた。そして、このことによって、「悪」はただ格好がよくて、COOLで、ちょ~気持ちE!!-だけのものにとどまらず、広く人間的な問題として扱われることになりました。この目から眺めると「悪」ってなんだろう、あるいは「善」ってなんだろう?―という「価値判断そのもの」が重要なものとなります。この「火の鳥」で描かれるのはそういった善悪をめぐる価値判断の問いかけのようにボクには見えます。

それぢゃ、ここでみなさんに問いかけます☆

みなさん 「悪い」ってなんでしょう?
ぢゃ、その反対の「善い」って一体なんなんでしょうか?

それって人間の目でわかるものなんですかね。

あるいは一時の思いや感情、その場しのぎの論述によって説明がつくものなんですか?

この世界にはたしてけして許されることのない「悪」があったり、「善」があったりするの?

はたして、ドラッグやレイプは悪なのかしら?

殺人は悪でしょうか?

ナチスは許されない?

ユダヤ人は許されない?

スペインは、ドイツは、ソヴィエト連邦は、アングロサクソンは、大日本帝国は許されないのかしらん?

ならば―歯止めの利かないPOWERを手にし、「善」を遂行し、結果、失速してしまった「アメリカ」はどうなんでしょう?

許すこともできずに、したがって愛することもできないのですか?

奔放な力やエネルギーはすなわち「悪」?

「女子」を殺して、陵辱して、バラバラにして、森に投げ捨てるのはいけない?

それぢゃ、どうして人間は許されないことを、「悪」だとわかっていることを、勇んでやろうとするんでしょうか?

ドラッグをやり、レイプをし、殺人をし、核兵器をためこみ、大量虐殺し、同類皆殺しをたくらむのは、知性と理性をもった人間だけですよ。

動物はすくなくともそんなことは考えませんから、ね。

そうして、そういったことがきちんと、クリアーにわかるぐらいに人間って頭がよい生き物なんでしょうか?

動物以上に賢い・・・ほんとうに?動物を家畜化し、地球をこんなにズタズタにしてしまって・・・へぇ~賢いもんです。それ以上に、それを踏まえて反省し未来につなげられる?

さてはて、はたして、はたして―

漫画の神様―こと、手塚治虫は、それを究極的なかたちで、この漫画「火の鳥」のなかで問いています。

それじゃ、これから一緒に見てみましょう☆

☆はたして死なないということは善いことなのだろうか?

☆その2へつづく―
[PR]
by tomozumi0032 | 2009-12-20 00:04 | 手塚 治虫
☆その1へもどる―

☆宇宙生命―コスモゾーン
a0065481_18352749.jpg

☆宇宙生命―コスモゾーン―を語る火の鳥(「火の鳥」未来編より)


「時間と空間を自由に行き来する物語を、物語のままに描ききれたまんが家は、かつて日本には生まれなかった。-略―

手塚治虫はいったいどこまで高みに昇れば気がすむのだろうか!

それも、手塚はその視点を高みに移せば移すほど、達観というある種のボケを獲得することを拒否し、ますます衆生の物語へ手をさしのべて、安易な救済を与えようとはしない。その徹底した「外部精神」。そして魂の成人でなければほどこし得ない「優しさ」―略―

われわれはわれわれ自身をどうすることもできない。

だからこそ、その心理を生まれながらに感得していた手塚治虫は、可能なかぎり高みから鳥瞰する物語の創造機械になり切った。

そして、このような物語のことを、かつては哲学小説ないし教養小説と呼んだのである。文学畑で手塚治虫と同様の成果をおさめた唯一の人物は、おそらく宮沢賢治だけだったと思う」
   「漫画と人生」(「時空から幽冥へ―火の鳥の飛翔に寄せて」)
                       荒俣 宏


☆はたして死なないということが善いことなのだろうか?
えっと・・・まずはじめに、少し遠くからはじめましょう。ボクの観察では、おしなべて、わたしたち現代人は「近視眼」です。つまり、現代人は近くのことしかわからない人たちです。かつて、生に対する諦念をいさぎよしとし、さまざまな遠くのことをいろいろ考えたり、思いを馳せたり、想像したり、実感した時間が人間にはありましたが、現代人はそうではありません。そして、現代社会を生きる日本人はそうじゃないですね。よくよく、みなさん、ご承知のように、ね。とくに現代日本の若者は近くはよくわかるけれども、遠くはまったくわからない。どうしてかといえば、簡単です。近くは「利益」に結びつき、遠くは「利益」に結びつかないからです。近くは「生命」に近いのですが、遠くは「茫漠」としており、「生命」から離れて、雲をつかむような感じがしてしまうからです。でも、わたしたちが近くばかり眺め、「近視眼」ばかりになることはよくない。「ポストモダン化」して、「女性化」して、「均質交換化―フラット化―」して、その均質交換のあげくに「閉塞化」してしまった日本社会のひとつのよくない点は、この「近視眼」のなかにあるとボクは考えます。(もちろん、いささか古いようですが、セックスという「客体―身体」からネットに至る「客体―自我」までの「商品としてのわたし」の「均質交換化」もよくない。どうしてかといえば、「違い」がこそわたしたちを活気づけるからです。そしてマルクス流の「交換の原理」でいえば、「違い」―というのは最後には交換できないもの、交換不可能性を受け取りあうという秘儀的なコミュニケーションによってのみ定義づけられます。わたしたちは交換可能性―貨幣、快楽、性、ファッション、意味、価値のみを前提にしているわけではない。そうでないもの、すなわち、非―貨幣、不快、非―性、アンチファッション、無意味、無価値のなかに貨幣や快楽や意味や価値を定義づけてゆくことによってのみ、自らを引き受けることができる―つまり、自分が生きていると感じることができます。どうしてかといえば、わたしたちが生きていると感じることは、わたしたちがわたしたち自身を価値付け、意味づけ、貨幣や賭け金とすることと密接に関わっているからです。そしてもし仮に、たとえば、大塚英志や宮台真司や東浩樹が言うように、交換可能性によって、すべてが交換されてしまうのだとしたら、ひどく退屈な社会―シュミラルクルな退屈なグローバル化が拡がるのではないでしょうか?当たり前のことですが、わたしたちはけしてすべてを交換することはできません。すべてを「言葉」や「記号」にはおきかえられはしない。この問題はグローバル化とローカル化、市場と個人といったおおきい問題にも敷衍されうる問題です、わたしたちはどこまでグローバル化され、市場化されるのか、日本人として、なにを、どのように、いかにして交換するのか?―その場合なにを得て、なにを失うのか?、なにを交換することができて、なにを交換することができないのだろう?―)

そして、この「近視眼的目」(わたしたちは、現在、「宇宙」を失って、「社会」のなかにいます。「非―言葉」を失って、「言葉」のなかにいます)からいうと、どういうことが悪いことなんでしょうか?簡単です。悪は「死ぬ」ことや「死を連想させること」です。それでは善いこととはなんでしょうか?これも簡単です。「生きること」や「生を連想させること」です。それではもし人間が永遠の命や不死を手に入れたのだとしたら、それははたして人間にとって、善いことなのでしょうか?-それを手塚はこの「火の鳥」という「宇宙生命の目―つまり、コスモゾーンEYE」のなかで問いかけます。結論からいえば、不死は人間を火の鳥に近づけます。(火の鳥「未来編」の山之内)「こちら側の存在」(社会―言葉)ではなくて、「あちら側の存在」(宇宙―非言葉)へとかえます。そして科学的な、神話的な、宗教的な―膨大な時間のなかにはいります。時間を超越した宇宙生命体―それはある意味では残酷で、のっぺりとして、孤独と、生きることの辛さのなかで過ぎてしまう。時間の果て、人間文明の終わり―そして、誰もいなくなります。ただただ荒涼とした地球が残って、そこでひとり、不死を生きなければならないのだとしたら、生命はあまりに過酷です。生命は死ぬからこそ、美しい―生きつづけることは善いことではない。そしてそれは生死をめぐるひとつの究極的な問いかけに見えます。

生きるということ、死ぬということ。
生命というひとつの現象。

それはいったいなんなのか?なぜ、わたしたち人間のみならず、生物は生き、満足や快楽をもとめ、欲望という囚われを昇華させることを望み、そして死んでゆくのか?それは言葉の体験ではなくって、言葉以上のものを体験することなのだろうか?命とはなんなんだろう?時間とはなんなのか?空間とはなに?そして―この膨大な生物家族のなかに暮らすひとつの種「人間」とはなにか?

おそらく未来永劫、人智でははかりしれないような問いに手塚は壮大な転生の物語を利用して挑んでいます。膨大で、ながいながい時空間のテーマ―そこを軽やかに飛翔する「火の鳥」という宇宙生命体の創造―神様といわれるゆえんでしょう☆
a0065481_1972635.jpg

☆虫と人間の生命の差について語る火の鳥(「火の鳥」黎明編より)


☆「女」としての火の鳥―フェミニンな宇宙生命体
「火の鳥」は永遠の生命をもった宇宙生命体ですが、この生命体は男性的なものではなくて、女性的なものとして描かれています。つまり宇宙生命体は「女性的―フェミニン―」なものです。このことは手塚の生命観を見るうえできわめて示唆的だと思われます。

☆その3へつづく―

[PR]
by tomozumi0032 | 2009-12-20 00:02 | 手塚 治虫
☆その2へもどる―

☆「女」としての火の鳥―フェミニンな宇宙生命体
「火の鳥」は永遠の生命をもった宇宙生命体ですが、この生命体は男性的なものではなくて、女性的なものとして描かれています。

つまり、宇宙生命体は「女性性―フェミニン―」なものです。

a0065481_17193982.jpg

このことは手塚の生命観を見るうえできわめて示唆的だと思われます。よくゲーテになぞらえられる手塚の宇宙観は根本的なものとして、その「女性性―フェミニン―」にあるようです。(「永遠に女性的なものがわたしたちを高みへみちびく」ゲーテ ファウスト(ちなみにこのファウストは手塚が若い頃漫画にして描いていました))実際、火の鳥に接したときの、男性との関係にはエロテックで、女性に接した時の男の反応を思わせるようなところがあります。ある話においては「おれのもんだぁ!」とさけんで、手荒らにとびかかり(「黎明編」のナギの兄 ウラジ)、ある話においては美しい笛の旋律を聞かせ(「ヤマト編」のオグナ)、ある話においては火の鳥そのものと融合をこころみます(「未来編」の山之内)。ちょっとこういう態度って「恋するもの」の態度に似ていますよね(笑)―そして、なにより、彼女は人々を誘惑し、魅入らせてしまうような「魅惑の力」と「超越性」(「超―生命性」、「超―時間性」)をもっていて、それが男女を問わず、人間には魅力的なものとしてうつります。時代を問わず、「時の権力者」―その権力に見合った超越性―を求めて、奔走します。がしかし、火の鳥は一神教的な「人間」ではありません。それは「鳥」です。しかも男性ではありません。「女性」です。

すなわち、人間ではなく、男ではない超越者。
優雅に「時空間」を舞い、飛び、時に人々を魅了し、時に人々に教え諭す超越者。


「女」としての火の鳥。フェミニンな宇宙生命体―こういったゲーテ的な宇宙観をベースとし、超越的生命としているところに、狭い人間社会だけにはとどまらない手塚の宇宙観の面白さがあるのではないでしょうか?(いくら劇画へ歩み寄っても、手塚はこの「動物・女性的なもの」を捨てはしなかった、そして、この「動物・女性的なもの」の後継者こそが宮崎駿です)

つまり―人間や「男」を相対化する視線。
漱石の孫、夏目房之助氏が手塚に入れ込むのは当然です。だって、漱石の「我輩は猫である」の面白さは同様の人間社会を相対化し、批判する動物の視点の面白さだからです、猫は、火の鳥同様人間社会の卓越した批判者であり、ある意味ではとてもアニメ・漫画的です。

漱石の「猫」も、手塚の「火の鳥」も、ナウシカの「オーム」も、ポニョの「ポニョ」も―問いかけます。

人間より、虫や動物や鳥が劣っている?

男性よりも女性はダメなの?

人間や男性って、そんなにえらくて賢いものでしょうか?

政治や権力、生きること、言葉の世界、人間になること―だけがわたしたちにとっての真実の生なのかしら―

そうなんですか?

はてさて―

ねぇ みなさん―

さてはて―むにゃむにゃ・・・☆

☆「火の鳥」は燃えている―生命体の温度―太陽、このエロスの源
永遠の命をもつ火の鳥は燃えています。
このことが有限の命をもった人間とはおおきく違います。
a0065481_17293657.jpg

体温が高く、つねに代謝する存在です。火の鳥が太陽系の星、「太陽」になぞらえられるゆえんです。そして人間は「地球」に関連づけられ、連鎖しています。

つまり、火の鳥と人間とのコミュニケーションを通じて、生命とは「太陽」と「地球」―その距離と関係性にあるということを手塚は示唆しているようです。人間は低体温(地球―惑星的なもの―生命の関係)なのですが、火の鳥は高体温(太陽―恒星的なもの―生命そのもの)です。

火の鳥は燃えています。(手塚の「太陽崇拝」―太陽の永遠、地球の有限)

それは、あたかも、人智ではうかがいしることのできない時間性そのもののように見えてしまいます☆

そしてこの漫画を読むと、人間の限界も思い知らされます。
人間のからだや温度は永遠の生命を生きるようにはできていません。もし、仮に人間のからだや温度が火の鳥のように、永遠の時を生きられるものだったら、生はどんなにか楽だったのでしょうか。人間は太陽を吸収するという、身体的な「地球」の環境連鎖の条件のなかでしか生きられない。

まったく、人間という「身体システム」の限界が思い知らされるようです☆

☆世界創造という神話―手塚、永井、宮崎、大友、庵野へとつづく神話世界―

「火の鳥」の物語世界には世界創造という神話的なテーゼが散見されます。

手塚は火の鳥において、生物―世界がどうつくられるのか?―というその神話的プロセスを軽やかでハイブロウな解釈とギャグをかましながら、明らかにしています。このハイブロウな解釈とギャグは「ブッダ」でもそうですが、賛否両論あります。でも、そういった、普通に生きていたら、なかなか入りにくい世界の間口を広げるという意味でいいんじゃないかなぁ~と思います。なんにも触れず、なんにも知らないよりかは、たとえ曲解解釈であっても、ハイブロウなギャグ交じりであっても、なんか触れた方がいいとボクは思う。(まぁ それも手塚に「毒されて」いるからかもしれませんけれども―(笑))

☆その4へつづく―
[PR]
by tomozumi0032 | 2009-12-20 00:01 | 手塚 治虫
☆その3へもどるー
a0065481_1917128.jpg

       生物家族をさけぶ猿田博士 「火の鳥 未来編」より 


☆異なるもの同士の「愛」、偏見、それから差別―
それから「火の鳥」でくりかえされるテーマは「愛」です。

「愛」は「愛」でも、同種どうしでとけあったり、その「関係性」がむすばれたりするような平板な「愛」ではありません。

その性質の異なるものたち、たとえば、機械と人間(「復活編」―レオナとチヒロ)、動物と人間(「太陽編」―ハリマと狗族)、エイリアン・宇宙生物と人間(「望郷編」―ムーピーと人間)が愛し合い、ときに偏見や差別を助長し、葛藤します。場合によっては「愛」による生産ではなく、殺戮や廃棄がくりかえされます。

偏見や差別、種族保存の法則と他者や外部の否定、「殺すこと」、「種族の大量殺戮」、そして「大量廃棄」や「自滅」―これも「宇宙編」の牧村と惑星フレミルの住民のように、長い時間を前提としたときにのみ、きちんとわかることができるひとつの愛のかたちなのでしょうか?(手塚は「宇宙」や「時間」が残酷であること―をよくよくわかっている作家のひとりです)

この意味でもっとも興味ぶかく、と、どうじに、哀しい物語が「復活編」です。

ここで描かれるのは、鉄腕アトムと同様に、「機械という無機物」と「人間という有機物」とがどんな風に愛し合い、いかなる偏見や差別、それにともなう葛藤を経て、融合することができるのだろうか?―という興味ぶかい問題の提起とある答えのプロトタイプがえがかれています。

簡単に物語を見てみましょう。

舞台は25世紀の世界から34世紀までの900年の時間を行き来します。
25世紀の世界では人間の少年レオナ・宮津が転落事故をつうじて、脳の半分以上を機械化させ、人間が「結晶体」や、「ガラクタ」に、ロボットが「人間」に見えるようになります。やがて、ロボットであるチヒロと恋に落ちます。少年レオナ・宮津のみならず、ロボットのチヒロも人間のようにレオナ・宮津を愛します。でも人間としてまわりに見られている少年レオナ・宮津はアイデンティティのちがいに苦しみます。脳の半分以上を機械化させ、ロボットを愛するようになってしまった自分は「ロボットなのだろうか?」、それとも「人間なのだろうか?」―少年レオナ・宮津は主治医につめ寄ります。

「おねがいだ!ぼくを人間か、ロボットか、どっちかにはっきりさせてくれっ!!」
a0065481_1931732.jpg

「ぼくはロボットになりたい・・・・」

やがて、少年レオナ・宮津とチヒロは愛の逃走劇をくりひろげます。都市からエアカーでにげだし、辺境の地へ。雪山でエアカーは動かなくなり、ふたりは遭難してしまう。そこで闇で有機死体の売買をする盗賊グループにひろわれ、グループの女ボスに恋されます。でも、少年レオナ・宮津にはまったく興味のない恋です。ボスにせまられた少年レオナ・宮津は女ボスを銃殺し、エアカーをうばって逃走をはかります。が、あえなく事故をおこして、またもや死んでしまう。そして、少年レオナ・宮津は分解されます。盗賊グループの専属の博士の実験手術によって、「心」はロボットのチヒロに、「からだ」は女ボスのものになる。こうして少年レオナ・宮津の「心」をもったロボットがうまれ、「ロビタ」と命名されます。いっぽう、少年レオナ・宮津の「からだ」をもったボスは、やがて、精神がおかしくなって狂い出してしまい、銃を乱射させ、盗賊のアジトを爆発させてしまう。盗賊は壊滅し、ロビタのみが生き残ります。

それから500年後―30世紀の世界では、生き残ったロビタがロボットであるにもかかわらず、人間くさくて人間に好かれ、商品価値があることが認められ、大量生産されることになります。

31世紀にはいると、一台のロビタがひょんな人間の勘違いから、ロボット法にそむいた罪で警察に逮捕され、裁判で有罪とされます。人間はロビタを差別、糾弾し、つぎつぎと廃棄処分にしてゆきます。逆にロビタはそんな人間をボイコットします。大量のロビタがみずから、仕事をやめ、自分で自分を溶鉱炉の中へつきおとしてゆきます。(人間の心とロボットのからだをもったロビタの滅び)

34世紀―月面で「生命の秘密」を探す猿田博士と最後の生き残りである一台のロビタが出会うところで、この編はおわります。

この話はもっと要約してしまえば、人間とロボットをめぐるアイデンティティの葛藤を経て、人間はロボットになった(ロボットと融合した)。しかしその違いから差別され、無実の罪で人間に糾弾された。そして最終的にはみずから滅び、そして「生命の秘密」を追求する博士と出会った―ということです。

つまり、ロボット(「無機物」)と人間(「有機物」)はお互いに愛し合い、わかりあうことができなかった。

「火の鳥」の中で手塚の描く未来像は、歴史にたいするハイブロウな解釈とはちょうど正反対に、どれもペシミスティックで、悲観的なものがおおい。それは、技術の進歩がもたらす同時代的な想像の暗さの反映なのでしょうか?(たとえば、キューブリックの?)そして、わたしたちは本当に手塚が考えるように機械や動物・妖怪、エイリアンを受けいれることができるのでしょうか?

手塚の問いがいまだに現在形で進行している理由がここにあるのだとぼくは考えます☆

異なるものを受け入れること、異なる種族にたいする寛容さはどこまで認められるのだろうか?それは表面的なものだけなのだろうか?多少なにかが起きても、それを認めて受け入れることができるのか?それとも差別と逆差別、排斥と逆排斥のスパイラルに終わりはないのだろうか?・・・。
[PR]
by tomozumi0032 | 2009-12-20 00:00 | 手塚 治虫
◆手塚について
 小学校高学年ぐらいの頃から、300冊もの、「手塚治全集」に囲まれるようになって育った。
a0065481_17341454.jpg

 近くに住んでいたSFの翻訳家の人のところに週末2時間ぐらいコンピューターを習いにいって、その帰りに膨大な蔵書の中から、何冊かづつもっていっていいといわれて、持ち帰るようになっていたからだ。赤いナイロンのリュックに全集を入れ、自転車で団地の陸橋の立体交差を下る記憶が妙に鮮明に浮かぶ。
 もっとも-最初は決して積極的に、というわけではなくて、なんだか重いしおっくうがっていたのだけれども、家でよめる量が増えてくるにしたがって、だんだんとその世界に引きずり込まれるようになった。当時、仲のよい友達は週間ジャンプやサンデーを読んでいた。新しくてツルツルしたベッドタウンの日常の物語を。でも―自分はそんな中一人手塚全集を読みふける少年だった。しかも-アダルトなものも、少年ものも、少女ものも、教養的なものも、どぎついものも、エロティックなものも、ヒュ-マニスティックなものも、反社会的なものも、古いものも新しいものもゴッタ混ぜだった。これらは、小学生にはかなり刺激の強いDEEPワールドで、その表現フィルターのむこうに、薄ぼんやりとオトナ社会と世界をのぞき見たように思う。つまり-「I.L」や「ばるぼら」「タイガーブックス」などのアダルトなものに性の疼きを覚え、「きりひと讃歌」や「人間昆虫記」にシュールでブラックなメタモルフォーゼを、「「ブッダ」や「火の鳥」「ブラック・ジャック」の叫びに「生命とは一体なんぞや?」と強い感銘をうけ、「アラバスター」や「ボンバ!」の暗さに鈍い死と官能の悦びとダークなCOOLさを知り、「リボンの騎士」や「メルモちゃん」や「ユニコ」にメルヘンちっくなファンタジーを、「ユフラテの樹」や「バンパイヤ」のロックや「三つ目が通る」の写楽に「悪」のチャーミングで否定しがたい魅力を教わり、「罪と罰」からドストエフスキーへと続く文学の道を発見し、「一輝まんだら」や「火の鳥―鳳凰編―」などに日本の歴史のダイジェストを、「アトム今昔物語」に「アトム」を否定しパロディにして笑い飛ばす表現者の意固地を、「新世界ルル-」や「W3」、「アトム」や「太平洋Xポイント」の中にハックスレ-やディズニー、あるいはバラードやドゥルーズ、そしてHOLLYWOODに繋がるSFへの共感を、ダイジェストとして見ていたのである。
 でも―正直いって、手塚はこわかった。
 作品には、その当時同世代の友達が読んでいたマンガに比べると、圧倒的に暗い画調や古い画調のもの、エロティックで暴力的なもの、生物学的にメタモルフォーゼしたもの、異世界を描いたものがおおくあって、「天才」「偉人」というよりは「大人のこわい世界を書くマンガ家」だと思った。その「こわさ」が逆に魅力となって、やがて一冊一冊を何度も何度も読み返し、その世界に深く入り込んでいくようになると、モノの考え方、社会の捉え方、あるいは人に対する見方、などがすっかり手塚ナイズされてしまうこととなる。
 今でも世界観の根底にある微妙にペシミスティックなもの、暗く暴力的なものと、明るく華やかなものとの「混在」、その闘争の場としてのPOPでパロディちっくな社会という見方は手塚の海に耽溺したことによって、いつしか育まれたもののように思う。
a0065481_17342793.jpg

◆三つ目が通る―悪とバカの魅力
 数ある手塚作品のなかでもとりわけ印象的で、なんどもなんども繰り返して読んで、いまでも時間があるときに読んじゃうのが、このマンガ。
 「枕頭の書」ならぬ「枕頭のマンガ」といってもいいかもしれない。

 とくに小学生時には主人公の写楽がとなえる呪文の言葉なんかを真似して、本当に超能力がつかるはず!―と、思い込んで、おもわずサイコネキシス(念動力)をいっしょうけんめい練習したりしたし、名前の写楽保介(シャーロック ホームズ)に和登さん(ワトスン)なんていう当時あこがれの探偵小説のパロディな語呂あわせにも胸を熱くしたし、もう本当に写楽になりたい、と恋焦がれた。和登さんみたいな綺麗でビシバシした女の子とお風呂に入ったり、世界各地を冒険したり、ばんそうこうをしている時は「エッチ」で、「だめだめ」で「おばか」で「いじめられっこ」だったり、でもはずすと「悪魔のプリンス」になって「古代文字」を読み解き、「超能力」をつかい、政府までも転覆させようとしちゃうったり―って・・・なんて魅力的なキャラだろう。
 くわえて古代の考古学的ロマンに、宇宙的な発明、三つ目族というミステリアスな設定、横溝正史の金田一のパロディまでこのマンガの魅力は尽きない。

 いまでもときどき三つ目族になりたい、と思ってしまうそんな生涯憧れ続けるようなマンガ―

 そして―いまでは、手塚はとっても「お洒落」で「インテリジェント」で「チャーミング」で「ラヴリー」だと思う☆
a0065481_17344439.jpg

[PR]
by tomozumi0032 | 2007-01-09 18:13 | 手塚 治虫
←menu