カテゴリ:黒澤 清( 4 )

 黒澤清の初監督作品―と、いうこともあってアナログな素人感覚と低予算な感じが日常的の延長線上にあるように思った―と、いうよりこういった生活感覚を取るのが上手な監督だなぁとあらためて思った。
 ピンク映画だけれども、そういった色眼鏡を外してみれば、映画自体はとても楽しかった。
 音楽と状況のアンバランスさ、動きがどれも「舞い」に見えてしまうこと、SEX描写はそれほどでもないけれども、「オナニー」のシーンがよく、女の子(ピンク映画女優麻生うさぎ)がとてもチャーミングでかわいく、瑞々しく、映像が綺麗―「箸が転んでもおかしい」ような若さの明るさがあって、体を動かすことやSEXをすることや隣のマンションの母子相姦を「これはいかん いかんのだよ!」―ととめにいくところ、鼻をつかまれて追い出されて階段を転がり、「ずぁあああ!いてぇ~」―というところ、それからセックスの独白みたいな女の子の心情吐露がたのしい。アメリカの活劇やフランスの映画をよく見ていて、どこかゴダールやチャップリンを思わせる「映画」の洒落た引用があって、それが上手にまとまっていて、なによりほんとうに楽しく描かれているので、大笑いしながらも、不思議な浮遊感のようなものを味合わされる。

 黒澤は耳と眼がいい。
 音と舞いに場面が従属しているように見えてしまう。
 そして物語ではなく、音や舞いの違った因果律がその世界を支配してしまうとき、わたしたちはなんとも形容のしがたいような印象をうけるので、それをなんとか「シュール」という言葉におしこめているように思う。

 ガスだして、火をつけようとするシーンがいいと思いました☆
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by tomozumi0032 | 2007-01-21 16:49 | 黒澤 清
 これもまた、脈絡のない言葉が続く映画で、こういった脈略のない言葉に耐えられるか、耐えられないか、でこの監督に対する評価が決まると思う。
題名の「カリスマ」とは一本の怪物的な木のことで、この木をめぐる利他的と利己的な関係、全体と個の問題、研究者姉妹と地元グループと廃病院の一派の争奪戦が語られ、結局木は焼かれてしまうのだけれども、これがどこまでほんとうの問題なのか、というのは微妙なところ。作中で「これはどういう意味なのか?」という風に意味が問われるのだけれども、作品の根本、あるいは時代の根本に意味がないので、こういった意味への問いそのものがほとんど、意味をなしてないように思う。音楽と映像はあいかわらずというか、黒澤の持ち味というか、まったく調和なくアンバランスで、深刻な場面ほど優雅で幸福な調子の曲が流れる。

◆ゴダール・黒澤
 ゴダールの映画と黒澤の映画が通底するのは断片的で脈略のない美しい映像がつながる、ニュアンスの空想劇だというところ。この意味で黒澤がフランスで評価されるのは理解される。ある意味ではゴダール・黒澤といったラインができるだろうから。黒澤はフランス文学でいうところのアンチロマン一派に近い表現スタンスだと思う。その意味で暴力温泉芸者の中原昌也に近い。そしてかろうじてストーリーを保たせることによって、かろうじてエンターテイメントたりえているその綱渡り的平均感覚がよい。

◆全体と個
 この映画で微妙に踏み込んで見せた全体と個の問題は興味深かった。全体性というものと個というのは生物学がさかんに考察してみせたことだし、R・ドーキンスあたりが得意がってやる領域だろうが、やや考察という意味では物足りない印象だった。
他の映画で掘り下げて見せてくれるか、というのは期待してしまう。

◆暴力
 暴力の描き方がどの映画にしても非常に現代的で、現代の暴力というのはこういったものか、と思わされてしまう。宮沢章夫の「サーチエンジンシステムクラッシュ」や鶴見済の「完全自殺マニュアル」にも通底するような乾いた工学操作としての暴力で、人間はいつもモノとして扱われる。この暴力の描き方が妙にリアリティをもっているのは、不気味な事実だ。

◆不条理
 カフカの不条理性とはちがう、日常の曖昧な不条理性。そしてどこが不条理なのか、わからないような日常を描きながらも、逸れてゆく不条理性という意味で黒澤の不条理性は独特で興味深い。

それはわたしたちの生そのものの不条理な位相を明示しているのではないだろうか。

☆キノコ食べまくって狂っているシーンが笑えた☆
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by tomozumi0032 | 2007-01-15 02:05 | 黒澤 清


大いなる幻影

黒沢清 / / ビデオメーカー



 不安定な時代の無意味な愛の肖像物語。
 そして存在することではなく、消滅することに寄り添って描いたという意味で、ミケランジェロ アントニオの「欲望」に近い意を含んでいるように感じた。作中に登場するブラスバンドのマーチも非常に近いイマージュで、現代版「欲望」あるいは日本版「欲望」とも思え、面白かった。
 ニュアンスとして近い感覚のものはゴダールの「軽蔑」や60年代の不条理劇でロブ・グリエなどのフランス文学とも通底するものがあるのではないかしらん。
 物語はいちおう花粉飛び交う街の愛の話で、主人公のハルと郵便処理をするミチの愛の物語だけれども、あまり物語に情感をたかぶらせるようなドラマチックなものはなく、淡々として、ポッカリとして、空虚といってもいいほどの宙吊りの空間が展開され、そのなかで展開される「色彩」と「空気」と「音」の遊びがあって、「物語」や「情感」といった映画が通常押し出す一次的次元の表現形式をあえて後景へと退かせ、それ以外の、通常の映画が、二次次元に押し込めているものを前景化させたところにこの映画特有の浮遊感がある。だからこの映画は通常の映画のように物語や情感に自らを没入させることによって生じる感情移入そのものを興じるのではなくて、日本料理のように、懐石料理のように、映画自体に孕まれる触感、空気感そのものを味わう「映画」だと思う。したがってこういう映画は子供が見たほうがいい。あまり映画そのものに対して、構造的かつ構築的な視点が養われていないほうが楽しんでみることができるのではないだろうか。

 繰り返しになるが、この映画は確かに巷でよく言われているように、不条理といえば不条理だし、無意味といえば無意味だ。それは一見、意味の解釈そのものを拒んでいるように見えるかもしれない。しかしここには「色彩」と「空気」と「音」の「遊び」の柄あわせの妙があるのではないだろうか。そしてその妙にしたがって展開される物語はより時代の空気そのものを孕んでいるように見えた。つまり―浮遊して宙吊りで空虚な時代の位相そのものが孕まれており、たとえばここでは「暴力」はサイバネティックで誰でもよく誰でもよくないもの、つまり「交換可能」なものとして描かれ、ストリートギャング集団に対する友人と主人公自体の加入というのは、わたしたちの置かれているサイバネテック処理の位相を明示している。そしてこの映画の凄さはそういったサイバネテックに対する個人の無力と内省の著しい欠如であって、すべてが表象レベルに置換され、遊びに置き換えられており、独自の表面を滑るような空虚さがあるし、そういった空虚さが消滅に結びついてゆく。弱々しくて、中性的で、断片的で、無気力で、消滅に近く、内省を欠いた存在。たとえば松岡正剛が著書「フラジャイル」で述べていたような感覚と相通じる感覚がまぎれもなくここにはあると思った。

 黒澤清は松岡正剛同様にある断片としてある現代日本の空気をよく捉えていると思ったのだけれど、いかがでしょうか?
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by tomozumi0032 | 2007-01-11 19:59 | 黒澤 清
アカルイミライ 通常版
2003/日本
監督/黒沢清
出演/オダギリジョー
    浅野忠信
 

 居場所なくただよう「浮遊感覚」それ自体が主題だと思われる抽象的な映画。
 いわゆる世間的な感情の共感を拒絶しながらも、この世界独自の価値観と独自の描き方で描かれる世界は、フロートしながら、たゆたいうつろうこの現代にたいする象徴的寓話世界のようにみえた。
この映画では主人公があきらかではなく、感情の輪郭もあきらかではない。また死もあきらかではなければ、父権の所在や若者の所在もまたあきらかではない。かつて黒澤「明」にあって、あきらかだったものが、輪郭をうしない、形なくただよっている。その意味で作中に登場するクラゲはその象徴的メタファーであるといえる。

 たしかにヒューマニズムはある。
 だが―ここに出てくるのは七年もの間息子との交流のとだえたおおよそ父らしくない父と、就職によって定められようとした途端その雇い主を殺してしまう息子(守)といった設定であり、「形式化され得ないもの」、「定義されえないもの」、「モラトリウムであるもの」が優位にたっている。しかもこの守の犯した殺人に対して、昔の小説などが与えたような内省は一切、描かれない。しいえいえば唯一、守が針金で自らを縛るシーンが登場するのみ―ここでは殺人や死がかつてのヒューマニズムの中で問題とされたように問題とはされていないし、それはこの物語の主題ではない。 それでは主題はなんだろうか?前述したように主題は「居場所がない」というむず痒いような痛痒に満ちた、落ち着かない感情である。この映画の表象的な営みとはこの居場所のなさの反映でしかない。守の雇い主はここが居場所ではないから殺され、守もまた居場所なく死刑になる。父は孤独を持て余し、都市を彷徨い、仁村もまたどこにもいれはしない。最後に登場する不良の学生もまた社会の中では居場所なく漂っているにすぎない。この世界ではなにもかもが頼りなく閉塞気味に漂っているのだ。

 そして守はあの世でさえも落ち着かず、父の元へ戻ってくる。
「ズーッとここにいていいよ」
という最後の父の言葉が印象的だ。

 物語の構造は閉塞とそのカタルシスという古典的なもの。むしろその描かれ方が印象的。

 写真は非常に現代映画的で良いと思った。ファッションはトレンドをおさえながらも、やや場違いな感じ。特に守の私服は職場にあってない感じ。
スピルバーグ的なアメリカ世界と黒澤の現代的なアレンジ?

 何か大文字的に映画である。
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by tomozumi0032 | 2005-11-18 19:48 | 黒澤 清
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