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★フロイトくんって?
 19世紀は3人の大思想家を生んだといわれています。
 マルクス、ダーゥイン、フロイトがその人たちです。
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 それぞれ異なった領域で異なった仕事をし、20世紀の社会実験やモノの考え方、モノの見方、人生の捉え方や人間や社会そのものについての認識を大きく変えてしまったようです。わたしたちがモノを見る、モノを考えるということはなんらかの前提があるわけですが、その前提の礎を築いた人たちだといってもいいかも知れません。簡単に3人を説明してみます。
 まずマルクスから-
 マルクスは経済のしくみをいったん分解して組み立て直すことによって、資本主義を超えるプログラムをつくろうとしました。社会主義システムってやつですね。このことによって、膨大な人の人生が変わり、膨大な人が犠牲になり、膨大なエネルギーがこの社会実験に費やされたんですけれども、結局―ソ連邦の崩壊やベルリンの壁崩壊などあまり上手くいかなかったことは、現代人であるわたしたちの社会認識になんとなく刻まれているはずです。マルクスが資本主義を「読み解ける!」としたことから、そして本当に読み解いてしまったことから、当時の知的で前衛的かつ実験的な若者のハートをGET、ソ連や中国や東欧の―いわゆる旧東側陣営、北朝鮮というのが生まれ、冷戦の抑止構造がうまれ、核をめぐる軍事競争が活発になったのだといえます。養老孟司は「影がうすれた」なんていっていますが、とんでもないと思います。その影響はいまでも根強く残っていますし、世界最大の経済学者といってもいいのではないでしょうか―当世風に費やされた金額(マルクスの時価総額)なんてものを考えると天文学的経済価値じゃないでしょうか・・・個人的にはモダンというのはマルクスじゃないかなぁと考えています。
 つづいてダーウィン―
 ダーウィンは生物学的見地からそれまで宗教観的に神によってつくられてきた人間=高等生物という見方を覆しました。人間が猿からの派生物であるという認識はダーウィンの綿密で粘り強い観察から導き出されています。ダーウィンは何冊か読みましたが、非常に面白いと思いました。ダーウィンというのは読むと分かりますけれども、人間よりも動物に近い魂をもっているのではないでしょうか。動物(あるいはミミズや昆虫)に<なって>しまうことが出来る。動物の心に自分の心を重ね合わせることが出来る。そういった学者の凄みがあると思いました。
 そして-われらがフロイトです。
 フロイトが何を発見したかといえば、いちばんおおきいものは「無意識」ってやつです。つまりわたしたちが色々考えたり、命令したり、自己統制したりしているこの「意識」というものが、実は大きな無意識のほんの氷山の一角にすぎず、わたしたちは「意識」的に考えたり、命令したり、自己統制したりしているつもりでも、「無意識」の絶えざる管理下、統制下にあるということをフロイトは明らかにしてみせたのです。つまりわたしたちが「わたしたち」である、と考えているところのものというのは、実はわたしたちではないのではないか、という個人的な意識に対する不安定な「ゆらぎ」として、フロイトは機能しました。第一次世界大戦という世界情勢を鑑みますと、輪郭をはっきりさせない個人意識、どうしてもゆらいでしまう自己意識、といったものが洞察されはしないでしょうか―

 マクロな視点から眺めてみれば、これら3人の大思想家が現代わたしたちがものを考える礎となっているのだとおもいます。

★精神分析批判
 フロイトに対する批判はさまざまにされていますので、まずは批判から
 なんか定型になってきたようでほんとはイヤなんですが―まぁ いいや☆―
 現代哲学や日本からされている批判を4点引用してみます。

1、「精神分析はわれわれの生の一側面を特別なものと考え、他の側面をわれわれから隠してしまった。それはわれわれの誕生、つまり生物学的であり発生学的な誕生を過大に評価し、別の誕生つまりイニシエーションとしての誕生を忘れた。もしわれわれの生物学的誕生をつかさどる二人の人間がそこにいたとすれば、あなたを誘惑するのはいつでも他者ということになるのを精神分析は忘れた」(ボードリヤール「宿命の戦略」P179)

2、「それだけにフロイトが多様体を取り扱う仕方に、われわれは驚くのだ。なぜなら彼にとってはつねに単一なるものへの還元が用意されているからだ」(ドゥルーズ=ガタリ「ミルプラトー」P48)

3、「精神分析は何も、誰も聞こうとはしない。それはすべてを、つまり群衆と群れ、モル状機械と分子上的機械、あらゆる種類の多様体を押し潰してしまうのである」(ドゥルーズ=ガタリ「ミル プラトー」
P52)

4、「フロイトはそもそも自分のエディプスコンプレックス論を(日本のような)母性社会と相対的な関係にあるような、父権社会の心理的原型としてとらえるなどという発想そのものを、全くもたなかった。むしろ、エディプス・コンプレックスを克服し、父性原理の規範を自分のものにすることこそ、「個」の自立に向かう倫理的自我の基本的課題であり、それは洋の東西を問わず、人間である以上人類進歩の普遍的目的である、そう確信していた。」(モラトリウム人間の時代 小此木圭吾P215)

 簡単に解説してみます☆

 1のボードリヤールの意見は いいかえれば、「発生学」を重んじ、誘惑という「社会学」「経済学」をないがしろにしたという批判。ボードリヤールはその著作の中でさまざまな角度から、執拗にフロイト批判をしていますし、やっぱりフロイトがひとつの側面に淫したということはあるかもしれません。
 2のガタリ=ドゥルーズはもう少し突っ込んで、フロイトが社会に沿った解釈をして、分裂症を押し潰すことを―精神分析によって存在が本来具えていた「多様体潰し」を批判しています。精神分析が社会体構造に沿ったラインでしかその解釈をなし得なかったということはたしかに留意すべきかもしれません。つまり私たちはオトナになるのではありません。オトナにさせられるのです。それ本来がもっている分裂的な要素群を削ることによって―
 3はちょっと2の補正となります。ドゥルーズ=ガタリに従えば、精神分析はマクロ資本主義に沿うことによって、形成されたんですね。(ちなみにボードリヤールのフロイト批判の弱いところは実践学がないところだと思います。ガタリせんせを巻き込んで、実践面での幅広い批判の射程を獲得したドゥルーズはその意味で批判的視座が広くより広範囲からの批判となっています。)
 4は日本からの批判。いいそえておけば、日本的母性社会にはオイディプスコンプレックスはそのまま適応されない―それなのに西欧近代の一元的価値構造から自らの尺度を他の文明にも押しはめようとしたフロイトの傲慢がここにうかがえます。

 それから多くの人が性的暗喩に象徴意味を押し付けすぎるといいます。つまりSEXを強調しすぎる、というのですが、これはどうでしょうか?やや生物学的主観的見方だとは自覚していますが、個人的には人間の潜在意識には遺伝子の記憶、生殖、再生産といったものが刻まれ、性的暗喩というものは人間の本質に関わることのように思います。したがって、この意味ではぼくはフロイトの擁護者といってもいいのですが、性的暗喩は多くの点で妥当であると考えています。

 以上―簡単に個人的なフロイトの批判と擁護でした。

★フロイトの面白さ
 フロイトは非常に多くの影響を20世紀に与えています。
 たとえばドゥルーズ=ガタリが批判含みとはいえ多大なる影響を受けたように(ガタリはフロイトを尊敬しているといったいましたけれど)、精神分析医ラカンがフロイトを読み直すことによって新たな発見をしたように、シュールレアリズムに大きな影響を与え現代美術に色濃い影を落としているように、ピンチョンやバラードなどの現代文学がインスピレーションの下敷きとしているように、あるいは夢野や三島や村上龍や京極夏彦や斉藤 環や香山リカの東京POPのテキストが準拠しているように―フロイトの精神分析は現代社会を解釈する一手段としての尽きない泉なのではないでしょうか。

 それではどのあたりがフロイトの面白いところなのでしょうか。以下に簡略化してみます。

1、「クズ・ガラクタ」の分解☆
 「クズ・ガラクタ」に注目したところ。そしてつぶさにこういった「クズ・ガラクタ」を調べ上げて、自らの理論にまで高めたところ。フロイトはみずからが「クズ・ガラクタ」に着目したことを誇らしげにこう述べています。

それどころか、精神分析の観察の材料は、他の学問ではとるにたりないとして捨てて顧みられないようなこと、いわば現象界のクズのようなものから成り立っているのです。」(本書(上)P28)

すなわち―クズのリサイクルという環境的(?)ともいえることを時代に先駆けてやっているわけですね。ちょっとシニカルな言葉をつかえば、文化人類学を含めて、こういったクズの、残滓の学問の中心化を現代の位相として見ることもできます。つまりクズひろいの学問、残滓の学問の中心化した時代、その残滓の学問の言葉がつよい影響力をもつそういった時代―これはあきらかにわたしたちの時代がクズの時代であることではないでしょうか?もちろん審級―審査機関はこういったクズにヒラエルキーをつけて、序列化するものではあるのでしょうけれども―

2、「錯誤行為」のパラドックス☆
 フロイトは具体的な「クズ・ガラクタ」である「錯誤行為」に着目しました。 
 錯誤行為とは言い違いや書き違い、読み違い、聞き違い、といったことです。こういうことのなかに「それ自身の独自の意味(P47)」を探ろうとすること、そしてそれが二つの意図によって生じる心的行為であるということ、何かを言おうとする意図が現存するのに、それを抑えつけるということが言い違いを起こす不可欠の条件であるということを探り当てたのです。
 
 つまり―錯誤行為の中に、フロイトはより大きな無意識の意向と心の経済学をみてとっているようです。これは小さなことのようですが、小さなことではありません。人間の正しいと思って喋っていることは正しくないのであって、むしろ―すべてではないにせよ、言い間違いがこそ正しい、無意識の本質を示唆しているってフロイトは主張します。それは―こうやって言っていることがいくらでも偽装可能で操作可能なものだからであって、なんとでもいえてしまうから、無意識の本質は映さないという考えであって、フロイトによれば、言い間違いの中に無意識の本質があるとされます。これは明らかにパラドックスですね。三島と同様にこういったパラドックスの面白さがフロイトにはあります。

3、夢の解釈☆
 夢―フロイトはその当時の夢の扱いさのぞんざいさに対して、憤慨し、意義を唱えています。当時の哲学者は夢を「軽視し」、「能力低下のいろいろな徴候」(P113)としていたようですが、フロイトはそれを観察から退け、「眠っている間に働きかけてくる刺激に対して心が反応する仕方」であると述べています。夢の中に別の心のはたらきを、「質的に異なる別種の心的活動」(P118)を見出したんですね。フロイトは夢を「刺激を加工して、ある関連にはめこみ、その刺激をほかのなにものかで代理するもの」としています。

 夢は「クズ・ガラクタ」ではなくて、昼間の活動の象徴的で複雑な反映であることをフロイトは発見しました。それのみならず、フロイトは「夢」が生の記憶のストックとしての、コンプレックスや「無意識的」なものの歪曲され検閲された代理物であるといっています。

 つまり―フロイトによれば、「夢」は広大な無意識への扉なんですね。
 さらにフロイトはこういうことによって、意識への批判と攻撃をし、みずからへの批判を先回りすることによって、未然に防いでいるように見えます。

夢を見た人はその夢がなにを意味をしているかを知っているのだ、ただ自分の夢の意味を知っているということを知らないのであり、そのために自分が知らないと信じているだけなのだ」(P135)

 つまり―ここで錯誤行為と関連をもつわけですけれど、知っていることを知らないとする、意識の検閲作用をフロイトは見て取っているようです。
 それから―これは意見が色々わかれるところなのであり、フロイト理論の焦点といってもいいところでしょうが―フロイトは人間が本来抑制なくもっている性的放縦・近親相姦への願望(男性なら母親や姉妹、女性なら父親や兄弟を対象とした性的願望昇華、簡単に言えばSEX)を夢のなかで行っているとしています。

夢の中で歪んだ形で表現される願望は放縦で粗暴な利己主義のあらわれであります・・・中略・・・すべての倫理的な束縛から解放された自我は、性的欲望の一切の要求、すなわち、とうにわれわれの美的教育が非としてきた性的欲求や、あらゆる倫理的規制の要請に反する性的欲求を受け入れるのです。快感追求の努力―すなわちわれわれのいわゆるリビドー―はその対象を好き勝手に選び取ります。いや、禁ぜられた対象を最も好んで選ぶのです。リビドーは、たんに人妻を対象に選ぶのみならず、なかんずく人類の約束として神聖なものとされている近親姦的対象、すなわち男性では母親や姉妹、女性では父親や兄弟をさえその対象として選ぶのです。」(P198)

 フロイトにしたがって、すこしだけ言葉を身近にしてみますと、教育されてきたものではないもの、倫理に反するものが、かくされざることなく、夢の中で行われているということになります。つまり―男子はお母さんやお姉ちゃんや妹に対するSEXを、女子はお父さんやお兄ちゃんや弟に対するSEXを潜在的に欲求している、そして夢の中でそういったことが空想されている―だとしたら―(シュールレアリズムに代表される)アートが、あるいは(サイケデリックテクノロジーといわれる)コンピューターの世界が、あるいは吉本バナナのような小説家の小説世界やアダルトヴィデオやドラマの世界が、こういった夢の世界に似ていないということはできるのでしょうか?(ちょっと話はそれますが、コンピューター・ネットの世界は非常に夢の世界に似ていると思います。コンピューターはその画面の前にいる人間が属している何かを決定的に分解し、剥きだしの慾動を表現しますし―2CHねるじゃないですが―そういった表現が表現可能なメディアです。そしてあなたが見ている、このコンピューター画面の中の世界というのは、論理的な思考の支配というよりは、それよりも強度のもの、感覚的で、フェミニンで、セクシャルで、エロティックなもの、突然変異的なものが往々にして人々の目を引きます、それからネットサーフィンしていると出会う―断片的な出来かけの、中断してしまった未完の夢の集積、人々の呟きと切れ切れの言葉ならぬ言葉の数々・・・「夢」と「クズ・ガラクタ」の集積箱・・・そう このあいだ書きました芸術家大竹氏が鋭敏な洞察からいうように「夢」と「クズ・ガラクタ」というのは似ているものなんですね)そう ぼくの意見では現代社会というものは「夢」の領域の拡張なのだ、と思います。そしてドゥルーズ風にいえば―この「夢」が一元的社会形態にのっとった「組織」を形成するのではなく、むしろ「シュールレアリスト」が実践したようなカタチでの集合体―「徒党」を組むものなのではないでしょうか。あるいは三島がやや粗雑に「野粗」と退けた「野合」を組むものだと思います。「社会組織」ではなく、オルタナティブなもう一つの別の組織形態が「夢」を媒介に組まれる―というのが現代社会の組織のあり方なのであると思われてなりません。もっともフロイトにいわせれば、「夢はもともと理解させないことを狙っている」(P325)ので、夢化した世界というのは理解することができない、ということになりかねませんが、まぁ それはひとまずおいておきましょう。

4、夢と幼児性☆
 フロイトによればわたしたちの夢の表現というのは、とても古い時期にまでさかのぼります。どれくらい古いかといえば、ものを考える言葉が発達する前の段階にまでさかのぼるといっています。そして夢の作業の表現方式を「太古的あるいは退行的表現方式」と名づけています。さらに、フロイトはこの推論を推し進めて、人間の知的進化の歴史のなかで、まだよく知られていない初期(だれかがだれかとして発生する「個体発生」―そして人類の発達の全段階を短縮して反復する「系統発生」)にまでさかのぼれるといっています。ユングのいう集合的無意識はこのことを敷衍させたもののようにも思いますし、そして生物学のいうDNAの、例えば「利己的な遺伝子」のリチャード ドーキンスがいうことはこのあたりのフロイトと重複しているように読まれます。そして夢の近親相姦的な性質を踏まえて、個人のエゴイズムが幼児期に発生し「愛」、人を愛することと不可分であることを指摘します。

幼児は最初は他人ならぬ自分自身を愛するのです。のちになってはじめて他の人間を愛し、他の人間のために自分の自我の幾分かを犠牲にすることを学びます。はじめから幼児が愛し、他の人間のために自分の自我の幾分かを犠牲にすることを学びます。はじめから幼児が愛するようにみえる人物であっても、実は彼にとってその人物が必要だし、欠くことができないものだから愛するにすぎないのです。これはまたエゴイズムの動機から愛しているわけです。のちになってはじめて、愛の感情はエゴイズムと無関係なものとなります。事実幼児はエゴイズムを通じて愛することを学び知るのです」(P283)

 ところで森鴎外のような、昔の日本人にこういった理論が当てはまるのだろうか?と考えてみますと、なんとなく違うんじゃないかなぁ、と思ってしまいます。でも資本主義にドップリ浸って、ナルシスティックに育った若いジェネレーションにはおおむね当てはまるのではないでしょうか。

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5、隠蔽記憶☆
 ダイジェストとして語るつもりだったんですけれど(笑)―ついつい個人的に興味がある「細部」に立ち入って、長くなるというのが悪い癖です。
えっと―これは面白いところなんですが、フロイトはわたしたちの中の記憶の空白に着目しています。みなさんは子供の頃の記憶がスッポリ抜け落ちていたり、どうしても思い返せなかったことがないでしょうか?それから逆に記憶が鮮明であざやかなんだけれども、ばらばらで、どうして覚えているのか、思い出せないことがあったりはしないでしょうか?フロイトによれば、わたしたちの記憶は「淘汰処理」を行う装置です。つまり―なんらかの点で重要なものを保存し、そうでないものはふるい落すものですが、こういった幼児の記憶をフロイトは「隠蔽記憶」と名づけています。この「隠蔽記憶」をふたたび明るみに出させることが精神分析の治療のひとつなのですが、「隠蔽記憶」というのは実際には忘れられていたわけではなく、意識に潜在したものとされ、夢の中でべつのカタチをとって表現されます。つまり―ここで示唆されることは「夢」というものは無意識の記憶ストックから任意に対象を選び出し、表現する舞台だということです。これは面白いと思います。だって―そうだとするならば、わたしたちは個体的か系統的かはさておき、記憶ストックというメガマシーンに「夢を見させられている」ということが出来ると思うからです。つまり「夢」というのは「現実」同様見ているのではけっしてなくて、見させられているものだ、という示唆なのではないでしょうか?それでは―個性やわたしというものは一体どこにあるのでしょうか?そして現実というものは構築要素をはずして、バラバラにしてしまうと、一体どこにあるのでしょうか?

6、エディプスコンプレックス☆
 ガタリ=ドゥルーズの「文化総体の革新を目指す革命テキ理論」の書が「アンチ オイディプス(エディプス)」であることはよく知られていますが、さてこのエディプスとは、「おっとちゃん」のことです。つまり―直訳して、ちょっと崩していいますと、この「エディプス」とは「おっとちゃんコンプレックス(おっとちゃんへの劣等感)」ということですが、実際には、言葉にもう少し深い含みがあって、ソポクレスという人がかいたギリシア神話の「オイディプス王」という物語に拠っているようです。
 いっちお~「さ」と、「エディプス王」読んでみたんですけれども、今の「メタフィクション風」の構成をもったよく出来た悲劇でした。簡単に物語を説明してみます。
 テバイという国の国王であるオイディプス(エディプス)は前国王のライオスの殺人事件を聞かされ、その事件を明るみにだすこと、犯人を国から追放することを誓いますが、預言者はその犯人がオイディプス自身であることを宣告します。しかしオイディプスは殺した犯人が自分であることに気がついていないのです。はじめから答えがでている物語。推理小説のようにスリリングな「危険な真実」。謎を知るということをめぐる追求と葛藤。その謎を解き明かすための探究過程として、物語は進行していきます。そしてオイディプスの出生時の秘密が明かされ、オイディプスがライオスの子であったこと、そして預言によってその子は父殺しをするという神託が下ったことから殺されようとした子であったことが明かされます。ところが殺しを依頼された男が不憫に思って、殺しきれなかったために、オイディプスはまったくの偶然から実の父であるライオスを殺し、自分の実の母であるイオカステを妻として子をもうけていたのです。自分に投げた呪いの言葉が自分に跳ね返るという悲劇のもとでオイディプスは自らの眼を潰し、耳をふさいで、自らを生ける牢獄として子供への恋慕を口にしながら、放浪の旅にでるという哀しい宿命の物語でした。
 記号論的な読みをすれば、予言と呪いの言葉、みずからの権威の言葉による3重の言葉による呪縛にとらわれた男としてのオイディプスという読みもできてボードリヤールならやりそうに思いますが、それはそうとして―フロイトはこれを幼少期の心的体験として解釈します。

男子は幼い時分にすでに、自分のものと思い込んでいる母親に対して特殊なやさしい情愛を示し始め、その独占をめぐって自分と争う父親を競争者と感じ始めます。同じように幼い女子も母親の中に父親に対する自分のやさしい愛情を妨げ、自分だってりっぱに果たせると思っている地位を占有している競争相手を見出しているのです。このような態度がどのくらい遠く幼い時代にまでさかのぼって見出せるものであるかは、観察によってこれを知らなければなりませんが、この心的態度をわれわれは「エディプスコンプレックス」と呼んでいます。それはこのエディプス伝説が、息子であるという状況から生まれてくる二つの極端な願望、すなわち父を殺すことと母を妻とするという二つの極端な願望を、ほんのわずか弱めるだけで実現しているからです。わたしは、このエディプスコンプレックスが両親に対する子供の関係のすべてをつくしていると主張するものではありません。親子関係にはもっともっと複雑な場合もあります。またエディプスコンプレックスが強く形成されていることもあり、それほどでないこともあり、事情が逆転していることさえありますが、とにかくエディプスコンプレックスは幼児の心的生活にかなり一般的にみられる、非常に重要な要因であります。」(P288)

あらら ながくなっちゃいました(笑)
まぁ ページ制限のないBLOGなので「しどけなく」「おもうがまま」に語ってみたいとおもいます。

え~ えっと つづきはこちらです☆
by tomozumi0032 | 2006-12-25 18:18 | フロイト
 え~っと 前回はこちらです☆

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 もっともこういった願望がはたして日本人にどれぐらい当てはまるのかと考えると微妙なようにも思ってしまいます。たとえば、中上健二のような作家は「YES」でしょうが、おおくの日本人には当てはまらないような気もしてしまいます。現代にイメージされる日本的父性というのは確かに明治期に輸入的に形成され、例えば「小林 よしのり」や「石原 慎太郎」といった作家にはその残滓がうかがわれますけれども、日本は本質的にはそういった父性は西洋や中国ほど「きちん」としたかたちでは形成されていないのではないでしょうか。もちろんそのような父性に厳格で超越的で論理的な存在としての父を見るというのは、たやすいことなのでしょうが、日本本来の性質としては、中国の漢字を「真名」(真の名)と呼び習わし、日本の仮名を「仮名」(仮の名)と呼び習わせたように、そういったもののキッチュあるいはパロディとして、みずからを仮のものとして位置づけたように思われてなりません。(これは話のわき道ですが、ぼくの考えではこの領域の規定―つまりみずからを「真」ではなく「仮」としたことの規定―がこそ日本の最先端性なのです。やがて世界はこの「仮」を日本から学ぶこととなるでしょう。なぜならコンピューター文化と映像とモデルに牽引されるかたちで進行しているわたしたちの生を規定するメガマシーンシステム、つまり「産業資本主義システム」の方向性は、「真」ではなくて「仮」へと、「実在」ではなくて「シュミラルクル」へと否応なくむかい、全世界的なひとりとしてのわたしたちは戦略的な核抑止防衛システムを頂点としたフラットで宙吊りな領域に住まざるを得ません。フラットで宙吊りな世界のおわり、儀式と儀礼の国家としての日本―そこで暮らし続けた日本人の智慧や生活感覚の「かりそめさ」はおそらく禅的なミニマルイデオローグとあいまって、世界を魅了することは確かでしょう。もっとも半面ではこういった「かりそめさ」が論理の領域と衝突したときに起きるハレーションとしてのコミュニケーションの難しさにあって、論理の領域は決して消滅することはないでしょうから、そこには「相剋」が生まれることでしょうが、やや話が逸れましたので、これはこの辺でやめておきます。)

7、トラウマ=心的外傷☆
 最近よくTVやラジオなどで耳にするなぁ、と思う言葉に心的外傷「トラウマ」というものがあります。「なにげ」に会話などでつかったりしてはいないでしょうか。
 先日喫茶店でコーヒーを飲んでいたところ横に坐ったカップルが以下のような話をしていました。ちなみ待ち合わせだったらしく、あとから来た男性は自分がケーキとコーヒーを頼んだことから、女性もコーヒーと一緒にケーキを頼んでいるものとばかり思っていたようです。

男性「あれ?どうしたの?ケーキたべないの?」
女性「う うん・・・コーヒーだけ」
男性「え なんで?GXさんは甘いものが好きじゃなかったっけ?」
女性「甘いものは好きなんだけど、でも・・・わたし、ホラー映画で見たケーキが、トラウマんなっちゃって・・・それからケーキたべられないのよね・・・」

 トラウマは日本語に置き換えますと、「心的外傷」といわれているようです。つまり簡単にいえば、「傷ついた」ということですね。もっともこの会話程度のトラウマというのは、それほど重いトラウマだとは思えないんですが、それでも彼女がケーキを食べることが出来ないことの理由となっています。さらに深刻なものだと、強姦や震災や暴力、戦争などによって出来るトラウマであって、これらはここでは「外傷性神経症」という名で、「固着」を含むものとして説明されています。

「外傷性神経症はその根底に、外傷を引き起こした災害の瞬間への固着があることを明瞭にしてしています。外傷性神経症の患者はその夢の中でいつも外傷の起こった情景を反復しているのが普通です」(P384)

8、性器の他の器官代理=リビドー☆
 これもとても面白い説ですので、ちょっと詳しく書いてみます。
 フロイトは性倒錯者―アヌス(肛門)を使ったアナルセックスやフェラチオなどのオーラルセックスを行う人々やスカトロ趣味の人々、フェティシズムといった当時としては奇異な倒錯者とみられていた男女に注目します。彼らのやっていることというのは、つまり―性器同士を結合させるわけではありませんので、生殖を目的としないセックスであり、セックスによる満足以外の準備的で、取るにたりないと思われる興味の関心から、性における「倒錯」をフロイトは見たのです。そしてこのような「倒錯」や「倒錯によって得られる性的満足」の中に、性器を他の器官によって代理しようとする働きや身体器官にはそれ本来の役割としての機能のほかに、「性的―催情的―な意義」を見出します。つまり、わたしたちの身体器官はそれぞれ肛門や口や指としての道具的な使用だけではなくて、性的な器官をも代用すること(とりわけフェティシズムでしょうか)、さらにフロイトはそういった倒錯的な欲望が幼児時代に根ざしていることも発見します。そしてこういった乳児からオトナにいたる性生活というものを考えていく上で、「リビドー」という概念を導入します。「リビドー」とは性の慾動を発現させる力であるとされ、「飢え」によく似たものとして説明されています。たとえば、乳児の関心っていうとなんでしょうか?これは簡単ですよね。生存のための栄養の摂取です。栄養を取ることを覚えること。つまり―使い慣れた言葉でいえば、母親の乳房をしゃぶることなんですが、こういった母親の乳房をしゃぶることによって得られた快楽というものは、セックスの時のオルガズムで得られる快楽と同じものとされます。そして乳児は、栄養摂取の必要がないにもかかわらず乳房をしゃぶる行動を唇で「反復」するのですが、これは「しゃぶる」という行動が「性」的なものを伴っているからだと説明されます。

「われわれはこの場合には、精神分析を通じて、この動作が全人生にわたっていかに多くの心的意義を保ち続けているかを知り、驚かざるをえないのです。母の乳房を吸うということは性生活全体の出発点となり、後年のあらゆる性的満足の比類ない手本となって、不満を感じる時には、人間は空想の中でよくこの手本に立ち戻るのです。」(P440)

 やがて幼児はそれを別の身体の一部分で代理するようになります。
 幼児によく見られる光景ですが、「指しゃぶり」です。フロイトによれば、これは指をしゃぶることによって、乳房の代理対象を別の部分で代理させ、性的な快感を得ているということになります。そしてこのような代理対象をもとめて、幼児は体のあちこちを探し回り、特に興奮しやすい箇所として性器を見つけ、指しゃぶりからオナニーへと移るとされます。このような幼児の特性は「自体愛的」と呼ばれます。その性的対象を自己の身体に求めてそれを見つけ出すのです。
 またこういった性的な快感は排泄時にも見出されるとされています。フロイトは「催情的な粘膜部位である肛門や尿道を興奮させ、できるだけ大きい興奮をうるように、その行為を調整する」と結論づけています。
 したがって、栄養を「摂取」する時と「排泄」するとき人間は否が応でも「性的な快感」を得るわけです。これらは実は多くの人に潜在的に共有されているものだと、フロイトは主張します。

「みなさん、そうではないのです。みなさんはただ、私が幼児の性生活のいろいろな事実を、性的倒錯の事実と関連させながらお話しようとしたことを忘れておいでです。すなわち、同性愛者と異性愛者とを問わず、肛門が多数の成人において実際にセックスに際して膣の役目を引き受けているという事実をなぜみなさんは知ってはいけないのですか。そして排便の際の快感を一生の間もちつづけており、その快感を決してつまらないものではないと書いている人がたくさんいることをなぜ知ってはいけないのですか。」(P442)

 さらに、「性欲」=「リビドー」が形成されるのは、生殖行為より前であり、それがわたしたちの「倒錯」の大きな要因となっていることをフロイトは指摘します。

「わたしはまた、幼児の性的活動と性的倒錯との近縁関係がみなさんにたいへん奇妙に見えたとしても、それに対して異を唱えるつもりは少しもありません。そもそも幼児に性生活というものがあるとするならば、それは当然倒錯的な性質のものとなるのは、もともと自明なことなのです。というのは幼児には、ほんのわずかな気配を除いては性欲を生殖機能たらしめるものはまだないからです。一方生殖という目標を捨て去ってしまっていることは、すべての倒錯に共通した性格です。性的活動が生殖という目標を断念してしまい、それとは無関係に快感獲得が目標として追求される場合にこそ、われわれはまさにその活動を倒錯的と呼んでいるのです。それゆえ、性生活の発達における断絶と転回点とは、性活動が生殖という意図に従属せしめられるところにあることが皆さんもおわかりになるでしょう。」(P443)

もうひとつ。長いのですが、そのまま引用してみます。

ほんとうは、幼児ははじめからないように豊かな性生活をもっているのですが、それはのちの正常とみなされるような性生活とは多くの点で異なっているのです。われわれが成人の生活の中で「性的倒錯」と呼ぶものは、正常のものとは次の点で違っています。すなわち第一には、種の限界(人間と動物との間にある深遠)を無視していること、第二には嫌悪感の限界を超えていること、第三には近親姦の限界(血縁者に性的満足を求めてはならないという禁制)を踏み越えている事、第四には同性愛をなんともおもわないこと、第五には性器の役割を他の期間や肉体部位におきかえていることなどがそれです。これらの制限は実は最初から存在するものではなく、幼児の発達と教育の過程の中でおもむろに形成されてくるものです。幼児はこのような制限にはとらわれてはいません。また、幼児はまだ人間と動物との間の厳格な隔離を知りません。人間は動物とは違うのだとする驕慢は、後年になってからはじめて生じてくるものなのです。幼児は、はじめは排泄物に対しても嫌悪の念をいだきません。この嫌悪感は教育の影響によっておもむろに修得されるものなのです。幼児は性の区別にたいしても特別の価値をおきませんし、むしろ男女ともに同じ性器をもっていると思っています。幼児はその最初の制的な欲望と好奇心とを、自分に最も身近で、他の理由から最も愛する人たち、すなわち両親、兄弟姉妹、世話をしてくれる人に向けるのです。そして最後に、幼児にあっては、これはのちになって愛情関係の頂点に達した時にまた発現してくるのですが、性器の部分だけから快感を期待するのではなく、他のさまざまの身体部位にも同一の敏感さがあって、それらの部位も同様な快感を媒介することができ、従って性器の役割を果たしうるのです。つまり幼児は「多形倒錯」型とよぶことができるのです」(P290)

 わたしたちは幼児期にはみな倒錯者であり、まだよく彫刻されていないリビドーの塊ですが、それが「生殖=再生産」といった目的の枠が適応される時、そこにうまく一致する人もいれば、そうではない人もいるということをフロイトは明らかにしています。

 現代の性の状況を見れば一目瞭然でしょうけれども、倒錯者というのはとりたてて異常なものではなくて、わたしたちは皆幼児期には性的倒錯を経験しているのだ、といえるのでしょう。いや、もう少し突っ込んで、ピルとコンドームと性解放と平和社会によって、「中性化」させられ「幼児化」させられ「動物化」させらているわたしたちは「倒錯」がこそ日常の社会に漫然と暮らしているのです。そして仮に、性の本質がフロイトがいう「自体愛的」であるのだとしたら、すべての対象をもった「セックス」とは逆に自分のイメージの投射であり、記憶の再現であるという意味で、対象間の相互の「オナニー」であるというのはいいすぎでしょうか。対象それ自体というものは果たしてどこまで独立して、対象となりうるのでしょうか、と考えるとまた迷宮入りしてしまいそうなので、これぐらいでやめておきます。
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◆最後に―まとめ☆
 細部にいたるとフロイト理論は非常に複雑なところがあるので、どうにもうまくまとまらなくなってしまいそうでしたが、なんとか(笑)―がんばってみました。最初にもどってみましょう。フロイトのもっとも重要な点というのは「わたしたち」が「わたしたち」と考えているところのもの、意識しているところのもの、ではないということを明らかにしたことです。これにたいしては当時のアカデミズムからは相当傍若無人な批判を受けたようです。それに対するフロイトの反論というのがこの本の本質、フロイト主張の重要さの本質を得ているように思いますので、これも長いのですが、以下に引用して終わりにします。

「このように心的生活における無意識的なものを強調することは精神分析に対する批判という最も手強い悪霊どもを呼び出す結果を招きました。これをふしぎにお思いにならないで下さい。またわれわれに対する反論が、無意識的なものが理解しにくいために起こったのだとかいうようにはお考えにならないでいただきたい。私はこういう反論はもっと深いところから出ていると考えています。人類は時の流れの中で科学のために二度その単純な自惚れに大きな侮辱を受けなければなりませんでした。最初は宇宙の中心が地球ではなく、地球はほとんど想像することのできないほど大きな宇宙のほんの一小部分にすぎないことを人類が知ったときです。すでにアレクサンドリアの学問がこれに似たことを告げておりますが、われわれはコペルニクスの名をあげなければなりません。二度目は、生物学の研究が人類の自称する創造における特権を無に帰し、人類は動物界から進化したものであり、その動物的本性の消しがたいことを教えたときです。この価値の逆転は、現代においてCH・ダーウィンやウォレスやその先人たちの影響のもとに同時代の人々の極めて厳しい抵抗を受けながら成就されたものです。ところが、人間の誇大癖は、三度めの、そして最も手痛い侮辱を今日の心理学的研究によって与えられることになります。自我は自分自身の家の主人などでは決してありえないし、自分の心的な生活の中で無意識におこっていることについても、依然としてごく乏しい情報しか与えられていないということを、この心理学的研究は証明してみせようとしているのです。人間の反省をうながすこの警告もまた、われわれ精神分析家が最初に、しかも唯一の警告者として提起したものではありません。しかしこの警告を最も強力に主張し、誰にも身近な経験材料によって裏書することは、われわれに与えられた使命であろうかと思うのです。」
(P400)
by tomozumi0032 | 2006-12-25 14:25 | フロイト
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