カテゴリ:徒然日々のこと( 50 )

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☆坊主あたま
さいきん、きれいなパステルグリーンのバリカンを買った。
蛸足にコンセントをいれて、がーがーがーがー!と、じぶんでじぶんの頭を刈って、坊主あたまにしている。

坊主あたまの理由はいくつかある。

ひとつめは、もう5年以上ずっとかよいつづけていた表参道の美容院が新宿に移転することになってしまったから。そして、その美容院で髪を切ってもらう最後の最後の日に坊主あたまにしてもらったこと。

いきつけだった美容院の移転は困ったものだ。
路頭に迷ってしまう。

かといって、新宿までいくのも面倒だ。

新宿は六本木や渋谷同様に苦手な街のひとつである。
人ごみにもまれてまで髪を切りにゆくという気分には、とてもなれない。

あんな、めがめがの、びかびか、摩天楼つらなる巨大都市にまでわざわざ出向くのは、出不精で、家からでるのを好まないボクにはまったく向いていない。

それじゃあ、ご近所で、新しい美容院を見つければいいというが、長年をかけてつちかってきた美容師さんとの人間関係をまた1からつくりなおさなければいけないというのは、パソコンのOSの変更みたいにわずらわしい。

髪型は要するに個性と感覚のニュアンスだ。
なじみになるとこの人はこんな人だからこうね-のような感覚のニュアンスが理解してもらえる。そうすると楽なのだけれども、いわずもがな、この感覚のニュアンスを理解してもらうということはなかなか難しいものなんだ。いきつけの美容院の兄ちゃん、姉ちゃんとも最初はいろいろ試行錯誤があったが、3年ぐらい毎月かよって、なんとかニュアンスをわかってもらえるようになった。

―が、その店ももうなくなってしまった。

これがひとつめの理由。

ふたつめの理由は「ふけ」だ。

シャンプーがあわないのか、代謝がさかんなのか、加齢によるものなのかーさだかではないけれども、とにかく毎日「ふけ」が大量にでて、朝起きたときにマクラに雪のようにちらされた白い頭皮のカスをはたくのが日課になってしまった。

そこでボクは考えた。
代謝と加齢はしかたないとして、シャンプーを石鹸にかえ、指をタワシにかえることはできるのではないだろうか?-、と。
それは、坊主あたまならできる-、と。

それで、お風呂の時など石鹸をタワシにこすりつけて、ごしごしと頭皮を落とすことにした。

すりすり、ごしごしごしごし・・・ごしっ!

こうして、ふろ上がりは頭がピカピカするようになった。

光のあたる角度によっては、光が頭皮にたちかえって、本当にマンガのように「きらりっ!」と輝く。そんな時、う~ん、まぁ、なんだかんだいって、坊主あたまも悪くはないな、ふふふ・・・―と悦にひたるのである。ひとり。

そういえば、小さいころ、テレビに、自分の禿げ頭に卵の卵黄をぬって、「どや顔」で登場するおじいちゃんがいて、なんであんなことをするんだろう、禿げって自慢すべきことなのかしら・・・-と、おさな心におもっていたのだが、いざ自分が年を重ねて、坊主にしてみると、なるほど、この輝きだったのか!―とあのおじいちゃんの気持ちが少し理解できたような気がする。

なるほど、年は重ねてみるものだ。

最後の理由はもうちょっと簡単で、年始に「少林寺」に体験入学する日本の俳優の番組がテレビでやっていて、それにでてきた修行僧がかっこうよかったこと、それから映画「ガンジー」を見て、ガンジーの勇気にうたれたこと、さらに手塚治虫のマンガ「ブッダ」をあらためて読み返して感銘をうけたことにある。

でもよくよく考えてみると、そういった高僧のような坊主あたまもいれば、「一休さん」のような「トンチ」の破戒僧だって、もうちょっと身近なところでは、刑務所の人やヤクザ、野球部だって坊主あたまだ。

立派なイメージとDQNでやっちまったなぁ~ってイメージ、秩序正しいイメージとなにかトンチンカンなイメージと両方あって混じり合っている。そういった解釈の振れ幅のおおきい両義性が面白いと思う。

理由は以上で、個人的には楽で経済的でぴかりと輝くこのヘアスタイルが気にいっているのだけれども、いつぐらいまでつづけようかというのが目下のところの案件だ。

そのうち、そりあげて卵黄塗ってみようかしらん。

そしたら、もっと、ぴかりってするよね。
ぴかりって-さ☆
☆刺青やTATOOは趣味の問題?倫理の問題?それとも美的基準の問題?

よくもわるくも、「喧嘩屋」橋本徹大阪市長がなにかと話題な昨今。
先日うちだされた刺青をめぐるきびしい態度は賛否両論をまきおこしている。

だけれども、本来、刺青は装うことをめぐる「趣味」のようなものではないだろうか。そして趣味には、もちろん、よい趣味とわるい趣味がある。

つまり、刺青は趣味が悪く、露悪的。

三島がおそれ、自己同一化させようとしていたアメリカ大衆文化の「毒」みたいなもの。

さらに、体を傷つけるのは、日本的なものの見方(倫理)にそぐわない。

傷をほこるようなグロテスクな表現は控えられるべきだ。
アダルトビデオでの性器表現のように、傷はモザイクで隠されるべきであり、公務員は傷のない、間違いのない清く正しいわたしであるべきである。

はたして趣味の問題が公的な制裁の対象になるのは、趣味の自由を損なうものなのではないのか?倫理観はひとつでなければならない?あるいはそれを美しいと感じてしまう感性はおかしいの?

それとも公務員は趣味の領域まで管理されるべきなのだろうか?

倫理の管理、美的基準の管理。

そうなると、ほとんど、ナチスヒトラーの「頽廃芸術展」を思わせるような、価値への侵犯だと思う。(COOL J-POPの現代、日本の芸術家は大衆のことだ)

あの展覧会で、「頽廃芸術」をレッテルを貼られた作品のほとんどが個人の趣味の自由を謳歌し、傷口をさらすものだったということ。そして、後世からみると、グロテスクを隠ぺいしてみせる、その時代意志そのものがグロテスクであるということを彼は知らないらしい。

はたして、日本人であるわたしたちは強権的リーダーによる父権制、曖昧でなぁなぁなもたれ合いを明文化し、取り締まることによって、世界と論理でわたりあうことにあこがれているのだろうか。(司馬的私のない無自我で恋愛なき青春小説みたいに?―そのくせ、日本のリーダーたちは戦後、論理で世界とわたりあってはいない)

社会制度やシステムへの女性参加がいちじるしく少なく、女性が男性のうえに立てない日本の社会システム。

男性同士の「甘え合い」にしたがった、ホモセクシャルめいた社会の仕組みは、いまだ閉じられたまま、フロイト的ひとつの極をめざす単純なピストン運動の中にあって、制御と開放をくりかえしているだけのようにも見えてしまう。

「刺青の禁止」や「国歌斉唱」のような美しい日本の伝統にしたがって、内部的な体制を強化しようという権力のコントロールへの欲求は東アジアのファシズム体制は「強国」をつくるという、いわゆる中国や北朝鮮のありかたによく似ている。ここでは、伝統的に血縁の倫理的な検閲システムが働いて、抑制された自我を国家という非個人的領域に結んでみせている。(国家宗教主義)

それは中国を見ていればわかるようにスピーディーで、とても効率的だ。
それから三島やその廉価版の石原、配下橋本、現代的なパロディを描いて見せた村上龍、あるいはそのこじらせ系なエヴァゲリの庵野のように多くの人たちを魅了することは間違いない。(三島と庵野は父権制への「こじらせ具合」が意外と似ている)

東アジアの血縁関係と先祖崇拝をベースとする社会体制は基本的にファシズムに親和性が高いということを、帝政日本や中国、北朝鮮は証明させてみせているが、戦後、日本はアメリカの庇護のした、そういった体制と決別できるように見えた。

自然によりそう母権制のアニメ作家宮崎駿や「サマーウォーズ」の細田守やオタクアニメの表現者はそうした戦後日本の代表的表現者のように映る。だが、やっぱりわたしたちは父権を欲しているのだろうか。それともこれは行き過ぎた母権制(日本の甘やかな自然主義、風景、官能の領域)にたいする父権(外来の言葉に地権、軍事の領域)のバランス取りなのだろうか。

おそらく、父なき社会体制において、ねつ造された父のすがたをわたしたちは憧れをもって見守るのだろう。

いずれにしても、わたしたちが社会的調整作用のなかにいることは間違いなさそうで、この問題は案外根深く、繰り返される同じ対立のかたちを変えたすがただ。

公と個人、東アジアとアメリカ、伝統と革新、社会主義と資本主義、ファシズムと個人の自由―わたしたちはいまだ20世紀的なパワーをめぐるバランスの中からでてはいないのだろう。

ちなみに個人的には両肩と腕、足、指などに7つほど刺青をいれている。

公務員にはなれないや☆
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☆数学の国フランスの想像力豊かな抽象性が世界をリードしてゆく
2012 6・6号のNEWSWEEK紙「金融界を騒がすフランス産「数学屋」」の記事を面白く読む。

ラテン的な理知の精神、幾何学の精神はレヴィ・ストロースやドゥルーズといった哲学者のみならず、建築、ファッション、映画の背後にうかがわれ、感性と融合して独特のフランス文化を形成して魅力的なんだけど、それが「リーマンショック」のような巨額損失と金融危機を生み出すおおもとの数学的バックボーンをつくっていたとは知らなかった。ぜんぜん。

本誌によれば、フランスの女流数学者である二コール・エルカルーイ女史の教室から巣立った「クオンツ」とよばれる計量分析の専門家たち(もちろんフランス人たち)が高度で複雑な投資手法を編み出し、それが08年ごろに金融界に爆発的にひろまっていったらしい。昔かたぎのエルカルーイ女史本人には金にたいするこだわりはないんだけれども、彼女が教えた金融手法は理解不能な金融商品の開発に利用され、さらにそれらの商品が投資家や投機家に法外な価格で売られていたという。記事にはこう書かれている。

彼ら金融界の数学屋たちは数学的理論の正しさを検証するために、天文学的な(しかも他人の)資金を動かしているに等しい。

「ひぇ~・・・」―である。

フランスの幾何学精神が金融商品として具体化し、社会の中に投げいれられ、世界をリードし、価値に付加をつけ、そして時に巨額の損失によって、世界を混乱に導くのかと思うと、なんだか頭がくらくらしてしまう。

もっともフランスにはこういった伝統があるらしい。初等中等教育では純粋数学を重視しているし、100年以上前から数学的手法による市場分析の確率論のエレガントなモデルをつくりだしてきた。

さらにエルカルーイ女史によれば、「数学の豊かさは抽象の中にあり」、「現実から一歩下がって考えるから、なんであれ、自由に考えられる。数学は想像力で勝負する」ものなのだ。

ほとんど村上春樹の小説世界のようにすら見える。「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」の計算士、記号士みたいに。

つまり、現代社会は壮大な金融の抽象で想像的実験を先端とする市場の中にいて、その実験の成果によって、左右されるということじゃないか、これって。ただ抽象と想像の世界には痛みはないが、現実の世界には痛みがある。こういった壮大な実験は成功と失敗の繰り返しなのかもしれないが、それにしてもやはり現実と想像、夢の世界はよく似ていると思う。

(追記:この記事をUPしたあと、ゲームのキャラのようなマネキンロボット犬に左足のくるぶしを噛まれる夢を見た。鋭く、強い痛みがあって、それから現実の世界でもくるぶしが痛くて、今日もまだしくしくしている。想像と抽象の世界にだって痛みがある。誤ったことを書いたので、摂理が天罰を下したように思った・・・)
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☆南伊豆へいってみた
GWあけに2泊3日で南伊豆にすむ弟のところへいってみた。

理由ふたつ。ひとつは太陽が見たかったのと、もうひとつは空気が吸いたかったというそれだけの理由。

われながら、ほとんど原始人めいてすらいて、フランスの幾何学精神とは程遠い。エルカルーイ女史の数学理論とも「超複雑なデリバティブのモデリング」ともなんら関係はない。

以下-感想を書く。

下田には以前短いあいだだけれども住んでいたこともあったし、南伊豆もまったくはじめてというわけではなかったのだけれども、それにしてもやっぱり色々おどろかされることが多かった。東京の生活がエレガントで害なく、「つるり」としていることを改めて実感する。慣れてしまうと日常の瑣末がこそ意識されて、日常そのものが意識されなくなってしまうので、どうも時々そういった意識を相対化しておきたくなる。

「つるり」とした触感は魅惑的で快楽的だが、それはやっぱりひとつの触感にすぎないのだと思い知るいい機会だった。

たとえば、都会の信号や記号一般はやはり「つるり」としていて、害がない。ところが南伊豆まで行くと信号や記号が害がある。といっても人為的な悪意による害ではない。そうじゃないけど、それは害であり、東京のそれのように機能しないのだ。害の要因は思うにふたつ。ひとつは自然の力が大きいということ、もうひとつは人間の手が入りきらないこと。

南伊豆はほとんど過疎の村に近い印象で、人がいない。若者もいないし、子供もいない。おじいちゃんとおばあちゃんが農作業しているのだが、それもわずかで田畑に手が入らない場所もおおくあり、打ち捨てられている。

こういう場所では記号が記号として機能していない。

たとえば、GPSの地図上に「ハイキングコース」と書かれているところへ行ってみた。ところがそれはまだ若い土砂崩れでふさがれ、その奥にかろうじて見分けられる道は「ケモノ道」というような、狭くて、茨が入り組み、ヘビが身をくねらせているような道だった。たしかに「ハイキングコース」は「ハイキングコース」だけれども、どうも都会で機能している意味での「ハイキングコース」じゃあないようだ。東京だったら、すぐに手がはいるのだろうけれども、ここでは手がはいらない。自然の力が人間の力を凌駕し、人間は自然の中にかろうじて住まされてもらっているような気持ちになる。

それから「温泉」のマークがあったので、弟につきあってもらって、往路20KMを歩いて、隠れ里のような山里までいってみたのだが、見当たらない。ただ用水路のような場所にパイプがひかれているのは見た。あとにネットで確認してみると、どうやらそれが温泉のようで、ネットにあげられていた写真には水着姿でパイプの下、行水する男の姿があった。秘湯というより、ほとんど温泉行をする行者のようなので、「これは無理だね」と弟と弟の彼女と笑った。たしかに温泉は温泉だが、ふつうにイメージする温泉ではない。

山で遭難したり、海で流されたりする事故はいつになってもたえないが、思うに、自然の力をかろんじてしまう都市の論理、「つるり」とした快楽の感覚と実際の田舎の機能しない記号とのギャップが背景にあるように思う。福島の地震とそれにつづく東電の原発事故に見るように、都市に生きる人間はやはり傲慢で「つるり」としたものに魅かれ、それがずっとつづくという淡い夢に生きてしまう。金融や市場、経済、愛、ファッション、性、教育、制度・・・人知が考えるよりもはるかに壮大で超複雑な営みがその背後にはひかえているのだが、どうもそれが意識にのぼってこない。人間はつくづくちいさく愚かで弱いもの。その時々でしかない影に一喜一憂する。

閑話休題―。

ところで、こういう場所では料理がおいしい。

そりゃ、あたりまえづら。

空気がうまい。水がうまい。素材がうまいもの。

弟もその彼女も料理好きで、庭先の畑で育てたオーガニック野菜をとり、よく料理をしてもてなしてくれた。
ピータンに米蒸しシュウマイを「焼酎」で、イノシシの肉のBBQを「ビール」で、野菜スープとお手製ピザを「白ワイン」で食べる。

したたか酔いどれ、したたか食らう。
もとい、したたか食らい、したたか酔いどれる。

ようやく気付いたのだが、どうやら、弟の彼女のぼくの印象は「酔っ払い」「酒好きのお兄ちゃん」というもので、初日と寝るまえに酔いどれて、呟いた「今日はあんまり呑めないけど、明日は呑めるぞ・・・」というセリフと、次の日寝るまえに呟いた「よ~し、今日はよく呑んだぞ・・・」というセリフをよくおぼえていて、それをネタにからかわれた。たしかに酒が好きで酒ばかり呑んでいるのだけれども、ここでは「そればかりじゃあないぞ!」と力強く言っておきたい。

いろいろ気付かされ、よい勉強になった旅だった。
COVIA YOMU OR DIE?
毎年まいとし、書くようだけれども、今年ももうおわり―。

それにしても一年はみじかく、年とともに、ぐん―と、そのスピードをあげているかのよう。

年をかさね、生の俯瞰MAPにやがてきづくにしたがって、のろわしくも、時はスピードをあげて、ブロックになって、硬くなってしまうのがわかる。時にかたちはなくとも、生は把握のどあいを上げれば上げるほど、速く、固まってしまう。正直、なんだかすこし大人がつまらない―と思う。たしかに時は伸び縮みする。

でも、それでも、個人的にこの一年をまとめてみると、なんだかけっこう変化があったし、それなりによかったようにも思う。そう、今年は周りのひとたちに支えられて、「よい一年」でした。

2009年をふりかえって印象によく残っていることは、「春の青山霊園で桜に夢見ごこちだったこと」、「夏の旧友の誘いで長野へいったこと」、「秋きのこを食べて、べっとり、いろいろな本に耽読したこと」、「冬の星のきらめきのまばゆさ、てかてかこうこう」、あとは「あやちゃんというガールフレンドができて、ラブラブモードだったこと」、「酒ばかりのんでいたこと」―それから「仕事のシフトがかわり、見慣れた風景が変化したこと」-などなど。

今年は変化があったのだ。とても。

それはそれまでのマットで黒いミニマルビートのくりかえしによる、ふたつのコブシを「なにげ」にふりあげた秘密の快感ではなくって、鮮烈な風景の変化がもたらすカラフルな驚き。

―と、同時にビートが風景に変わったことにたいする一抹の喪失感―それらがないまぜとなってしまって、混乱した印象をもたらす。やってくるさまざまなイメージをひとつづつ捉えなおそうとしてみるのだけれども、どうにもうまく纏まらない。

びみょうな無力感を思う。

哀しみではなくて、無力感。

よわい線。

切れ切れで輪郭のはっきりしない線。

時の不思議、生命の移ろい、記憶のはかなさ、色彩の哀しみなどがよぎり、からみ、もつれ、とりとめもなく、とりとめがないままに転がってゆく。ただようのは、「白い思索の海」。どうしようもないままに、だらしなくって、おわりのなく、おわりのなさによってただただあるような「ウルトラホワイト」におぼれ、おぼれて、おぼれちゃう・・・。

それでも、日々の闇に揺る夢がゆたかに語りかけるのは、鮮烈な色彩の記憶!ああ なんて光の爆裂!めくるめき狂った閃光のまばゆさよ。

たとえば、生命を金属に変える力をもち、つやっぽく艶めくエロスの赤、光をたっぷりすいこんで暴発する快活なイエロー、わしづかみの思慮深いネイビーブルー、チャーミングなベビーピンクの軽やかなキス。

色彩―この生命の飛沫。

夏の長野の香ばしく爆ぜてゆく色とりどりの太陽の飛沫が「べとり」、ガールフレンドの瞳の底にかがやく虹彩のレインボーが「ぴちゃり」、冬空にゆうゆうと浮かぶおおきな雲の灰色が「ふわり」、闇のなかでひらめくイマージュの色たちが「きらり」。

ぺとり

ぴちゃり

ふわり

きらり

―ザワメイテイル。

色彩にはげまされ、活気づけられ、死にそうながらも、なんとか生きながらえた―そんな一年でした。色彩なくしては、ボクはここまで生きることができなかった―と、本気で思う。

死なずにいられてよかったよ―おかあちゃん☆
おら 生きとるっぺよぉ~!!
ん、だけどよぉ~、色きちがいの色情狂だっぺ、これじゃ。

とまれ、みなみなみなさま どうもありがとうございました☆
こんな知性と品格とお洒落さのかけらもないような糞文章見ていただいたみなさまに愛とウンコ・チンコ・マンコ・チャンコやチャンチャンコをこめて―

FUCK YOU VERY MUCH!!!―と、いいたい。
せ~ぜ~80年生きて、さっさと死んでください。

来年も、ぼかぁ、せ~ぜ~、力の限り、死なないようにがんばらずにがんばりますんで、応援してください。

つか、てめ~、しろ。

殺☆

FUCK’IN USA OR DIE?

COVIA―YOMU OR DIE??
あまりどうしたらよいのか、よくわからないことについて

☆また死者のかたわらで―
このあいだ、清志郎が死んでしまったが、先日は民俗学者のレヴィストロースが死んだ。そういえば、社会学者のボードリヤールも、イギリスの作家J・Gバラードも死んでしまったし、マイコーも死んだ。身の回りにおり、近さを感じていて、自分とともに現在という時を重ねているように思っていた人々がつぎつぎといなくなるということは、生きることをめぐる根本的な昏さを感じる。なんとなくだがレヴィ先生は死なないだろう―と勝手に思い込んでいたのに・・・。(100歳―なんて美しく、知的で冒険的な人生だったのだろう!なんてインテリジェントでお洒落でシュールで美しい魂なのだろう!その魂にふれることがこんなに楽しい学者はいなかった

―と、同時に、以外と生きてるってむつかしいことなんだなぁ~ということにあらためて気がつかされた。人は死に、この世界からいなくなる。生きてるっていうのは微細な均衡の上でなんとか調和を保っていることであり、すこしの調和の乱れが「あちらがわ」の世界への窓口となってしまう。それに、今の都市化した社会はこういった「あちらがわ」の姿を身近に感じる機会がほとんどないので、どうにも高速の死が突然やってきて、またたく間に生命を奪いさり、ポッカリとした暗黒空間を開いてみせるので、それにたいしてどのように反応してよいのかわからない自分に戸惑う。名づけられない言葉の胸内の疼き。

―悲しみなのだろうか?
―空虚なのだろうか?

やり場のない戸惑い―処理することも解決することもかなわないような、ただただ持て余されるだけの思い。

みんな死んでしまう―
今も昔もこれは普遍的でかわりようもない事実だ。そして人はこういった死を遠ざけることによって、社会という言葉のフィクションをつくっている。とてもみんな死ななそうに見え、一見このルーティーン化した日常の反復がどこまでも続くように思う。でも、だが、そうした日常の中にもなお死は忍びより、そうして突如、人々を奪いさってゆく。どうにも自分の頭ではあまりよくわからないところがある。混乱する、空虚になる、心がどろぉ~ん、重く濁る。おそらく人間の頭というのはそういったことを上手に考えられるようにはできていないのだろうなぁ~・・・とやりきれない。

あまりどうしたらよいのかわからない。

ただ、また本が死者のものとなり、言葉はすこし発酵した死体の魅力を濃密にする。そんな死体の言葉にくるまれて、時は重なり、ボクはすこしづつ死に近づいてゆくのだろう。そうやってやがて訪れる死にむかって、慣れ親しんだ感覚を養いたい。やり場のない戸惑いのなかでそう思った。

☆愛がないことについて
なにかにつけて友人がよく呟く言葉。

「みんな 愛がないよなぁ~・・・」

その言葉をきくと、すこしドキリとさせられるのは自分の身に覚えのないことではないからだろうか?そう面と向かっていわれると、わが身におきかえて、なにやらバツのわるい罪の意識を覚えてしまう。もしや、いつやも知れぬうち、ボクもその愛のなさに加担しているかもしれない。

その友人のいう愛はべつだん複雑なものではない。むつかしいものでもない。
ただ単純に「寛容さ」や「許すこと」を意味していて、彼にとって「許されれば愛があること」であり、「許されないことは愛がないこと」だ。だから彼はいつも許されない自分に嘆いている。

先日ひさかたぶりに会って、闇ににじむ赤提灯の光の下、スルメにマヨネーズを片手、片手に焼酎をあおっていたときにも例によって「愛のなさ」をさかんに嘆いていた。「許されたい」けれども「許されない」―「許したい」けれども「許せない」。そうやってみな、すこしづつ愛を喪失してゆくんだ―と友人は嘆く。

「ときどき、さ、オレ自身もすこしづつ愛がない奴になってんじゃねぇ~かって思うんだよね・・・でもさぁ、どうやって愛を取り戻したらいいのか、だんだんわかんなくなって来てる、それってすっげぇ~イヤなことだけど、でも気がつくとそうなってるって怖いよな・・・だってさ、だってだってそうだろ、わかってやってるうちはいいんだ、問題は気がつくとそうなってるってとこだよ。気がつくと愛がなくなっている、いつの間にやら・・・最低だ・・・」

人は愛さえあれば、生きてゆける生き物なのだろうか?
政府は金をばらまける。でも愛はばらまけない。愛は個人的な事柄だからで、個人が許され、受け入れられることと関係しているからだ。もし、生きることが個人として愛されること、許されて、受け入れられることならば、生きることは愛されることと関係しなきゃじゃん―と友人と話してて、ボクは思うのだった。そしておそらくなにはなくとも、愛され、許されていれば、人は生きてゆけるはずだと思った。いくらお金があっても、愛のない人生は「許しがない」んじゃないだろか。

許されない人生の浪費。
人は「許されるため」にお金を使う生き物なのだ。
すなわち、愛されるために。

愛のない社会。お金とモノの社会の公共性。その社会にすこしでも加担しているのは、愛のないボク自身なのだろうな。きっと。

いつやも知れぬうち―いつの間にやら・・・。

でもそれってとてもとてもむつかしいのだ。
おそらく、人を許して受け入れることは、人を許さず受け入れないことよりもズッとむつかしいことで、ときどき心が苦しくなってしまうような、そんなことだ。

愛がある社会はむつかしく、愛のない社会は簡単だ。とても嫌なことではあるのだけれども・・・。たぶんボクは本質的には愛のない男であり、だからいつも愛を装っているような―いいかげんな人間なんだろう。そして、そんなボクに友人の言葉は痛く響くのだった。

・・・心が痛くて、ボクにはどうしたらよいのか、あまりよくわからない。

でも、どうすることができるっていうのだろう・・・嫌な感じ。死んでしまいたくなるような、生命の心地悪さ。不快感―
☆もどり梅雨の効用
夏本番―とはいえ、なかなかどうして、はっきりしない空模様がつづいています。

空に雲。

さまざまな灰色どうしの色鮮やかなコントラスト。曇りは曇りなりに豊かな灰色が眺められ、ほんとうに日本の色彩は微妙で繊細、それで素敵だなぁ~と嬉しくなります。

湿潤にうるおう緑も綺麗。
ああ、こんなにも緑が綺麗な夏でよいものかしらん―
もどり梅雨の効用といったところか、光彩陸離、輝きを結んで、色彩を衒っているのです。


☆マイケルの死
「現代文化」っていうと、「多国籍性文化」だといえると思いますが、エンターテイメントや政治、ファッションなどで、なによりも強い影響をもっているのが、黒人文化だと考えています。アングロサクソンアメリカ文化は決定的に黒人的なモノの考え方、話し方、表現の仕方を取り込むかたちで成り立っており、現代の現代性はこういったカウンター性を内側に織り込んでいる。現代の表現で黒人的なニュアンスがうかがえない表現はすこし懐古的な傾向を帯びているように見えます。

今、世界は「ピュア」で「純粋」な白人の考え方や話し方、表現の仕方がすこしづつ薄れ、黒人のそれと「混ざり合って」ゆき「ごっちゃまぜ」になってゆくプロセスだと思います。そういった中で、マイケルジャクソンの存在はまばゆかった。洗練されて、時代をコラージュしたようなダンスとMTV、表現それ自体を強度に変えたような歌詞とでその動きを加速させたからです。あの整形でかわるルックスも白黒混合の人間の在り方を伝えてきたみたい―(笑)

AHHHHHH・・・BLACK OR WHITE YEAH☆
GOODGOOD☆


若かったのに―とは思いますが、マドンナやブリトニーやクリスティナやエイミーやPERFUME、エグザイルなんて見ていると、「お~ マイコ~の血族!」、なぁんてちょっぴり嬉しくなってしまう☆


☆暴動
ウイグルで暴動と漢民族による少数民族「虐殺」が起きましたが、なんだか、ああいった他民族同士の争いの殺伐は大陸の奥知れないおそろしさのようなものを感じます。と、同時に日本で暴動がおきないのは、やっぱり、島国の封建主義的な体質があまりにも機能し、管理されているからなのかしらん。いまでも、暴動は起こりうる事実である―ということを、まざまざと見せつけられたし、ウイグル族の背後にイスラムの影があって、その抑圧を9・11以後の中国が強めたっていうのは、外交において狡猾な中国の読みがありそうです。メディアに対する取り扱いもチベットの反省をうけて上手になったようだし、国際世論に汲みして立ち回る、中国の強権と中央集権ぶりは、よい意味でもわるい意味でも、すこし戦前の日本を思わせます。

それにしても国土のなかにイスラム圏の「辺境」を内包しているって、どんな感じなんだろう?

日本で同様の事件がおきたら、はたして日本は「少数民族への寛容な取り扱い」なんて悠長で、現代的なことをいうのだろうか?「官僚管理体制」を是として受け入れ、「死刑制度」を平気でおこない、「バーグ条約」非加入による幼児誘拐を促し、いまだに「部落差別」をつづけ、「情緒」や「曖昧」、「ものの哀れ」を第一に考える日本人は、「かなりあやし~」と思います。

しょせん、日本国民にとっては、対岸の火事。

外交的で、嘘くさい人権尊重。

「なまくら付け刃」。


ぢつは日本人って、表面的かつ理想的な平等主義であるのとは別に、現実において、理解できない論理を排除して、情緒でしか人をはかることのできない、雅量の欠けた「女子供民族」、かなりの「差別・封建主義者」なんじゃないでしょうか?

ほんとうに中国を批判できるのか?日本人わっ。
―と、いうより、そんなに日本が成熟した、大人の、「大文字の他者」を受け入れることができる国だったなんて、中国批判をする日本人を見て、はじめて知りました。

へぇ~、「大人な国」なんですね、日本わ。
さすが、すてきでいい子ちゃま、「G8参加」の金持ち一流国なもんです☆

☆どうも萌えない選挙戦
選挙がちかい―わりにはなんだか萌えないんです・・・。

鳩山だろうが、麻生だろうが、さしたる差もなくどうにも熱いエネルギーが政治から感じられない。それはたぶん、ボクはでたらめが好きで、でたらめなものの中に混沌としたエネルギーを見るのが楽しいからなんだと思います。鳩山と麻生にでたらめを期待するのもなかなかむずかしい。だいたい、今、政治家にでたらめを期待するほうが難しいというプチブルなテレビ時代になってしまったようです。

あんまり精密じゃないんですが、ざっくばらん、みぢかな例でマンガを考えてみましょう。

高度経済成長期のマンガはいま、読み返してみても、荒唐無稽、でたらめで、熱いエネルギーを感じさせてくれるものが多かったように思います。洗練とはお世辞にもいえなかったけれども、熱い将来への確信に満ちていた。あのほとばしりでる熱気に圧倒される体験。

赤塚不二夫の「天才バカボン」や本宮ひろしの「男一匹ガキ大将」やちばてつやの「明日のジョー」、白土三平の「カムイ伝」、永井豪の「学園退屈男」など、ピカレスク、やんちゃででたらめな男の子が世の中の価値規範をもろともせず、まったく自由奔放に画面狭しとあばれまわっていた。

いまの人気マンガを読むともうすこし洗練され、と同時に女性化がいちじるしい。文字通りの「だめんず」や「のだめ」もそうだし、「GANTZ」もそうだし、「バガボンド」もそう、本宮の「サラリーマン金太郎」でさえそう思います。時代がそうなんですね。これは推測ですが、社会が女性化してしまったこととでたらめが許されなくなったことには、おそらく密接な関係があると考えています。

もちろん、「社会の女性化」は良い点もあると思いますし、これまであまりにも女性のことを社会は見くびりすぎていたのでしょう。でも、やっぱりどうにも「社会の女性化」、(すなわち「洗練」と「エステティック化―美学化」、あるいは「わかりやすさ」と「誰にでも化」)の中には、ちいさくって、うるさくって、神経質でヒステリックなところがありすぎるのではないだろうか―と首をひねりたくなることが多い。

けっきょく、政治や社会がつまらなくて退屈に感じられるのは、こういった女性化の果てに、でたらめを許さなくなって、プチブル化したわたしたちの意識の運動力学があり、それはわたしたちが片側ではどうにかしたいと思うのだけれども、片側ではそれを失うことがこわいのであって、意識はつねにそういったふたつの極のあいだの揺れ戻しをさまよってゆくように感じられてしまいます。

なんだかなんだかなぁ~・・・と、やや、あきらめ半分に、この閉塞して、階級化し、未来にたいした展望のもてなくなってしまった老人と女性と子供ばかりの日本の状況を眺めているといったところでしょうか。

ただただ、タンポポの綿毛のようにぼんやりと―

☆ちょ~きもちEプルースト
最近していることといったら、プルーストを読み返すことぐらいのものです。

プルーストを読んでいると思うんですが、プルーストはブルジョワという大衆社会を描いています。それはモードに支配されて、シックに焦がれ、たゆたう日本趣味の趣をそえた「愛の生活」です。と、同時に19世紀の人々たちのあり方や考え方、感じ方が克明に記され、そこにはドストエフスキー同様に社会的な制度の混迷がおよぼす人々の心の内実がうかがわれます。ドストエフスキーはロシアの農奴解放以後の混迷で衰退する貴族社会と農奴の台頭、プルーストはフランスの第二帝政後の混迷で衰退するブルジョワジーとプチブルの台頭―そして、そんな双方に共通するのは、かぐわしき「悪の魅惑」だと感じます。

でも、ふたりって正反対の感受性をもっています。

ドストエフスキーは「苦痛」と「激情」、「発作」。
つまり「ちょ~痛い感受性」。
プルーストは「魅惑」と「快楽」、「官能」。
つまり「ちょ~きもちE感受性」。

ぶっちゃけ、どっちも「かなりやばめ」な感受性世界です。

こういった世界を人間ばなれした「病気」と「変態」レベルで感じ、あまさず描き出したっていうのが文豪の文豪とよばれるゆえんなのかしらん。

ドストエフスキーを読めば、「あ~、いて~っていいッス!!」と思い、プルーストを読めば、「あ~、きもちE、こ~さいっ!」と思ってしまうんです。くわえて、どちらも階級の下だった人が台頭して、上の価値や生活を乱してゆくってところがおもしろい。

21世紀の人も19世紀の人もあんまり変わっていないような心の生活をしているんだなぁ~と思います。でも、昔の方が豊かで自由だったのかな。いまほど管理されない精神ののびやかな拡がりがこの時代の文学のひとつの魅力です☆

ぢつのところ、今の人の方が心は貧しいかもしれませんね。21世紀が19世紀より進んでいるかなんて、おおいに疑わしいものです。

よくよく観察してみると、わたしたちが日常の前提として、うたがうことを知らない、無垢のままの、いわゆる「進歩史観的なものの考え」は、べつだん、それが正しいとか、真実であるというわけではなくて、効率的で機能的だといわれている大衆幻影、共同体幻想なのかもしれないなぁ~と思う今日この頃なのです☆

うらぁ~☆
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☆たまにはすこしバルセロナについて
★たまにはバルセロナでの生活について、そのリフレクションとして見える東京―ひいては日本―について話しをしてみたいと思います。

★ボクは3年間バルセロナに住んでいたんですが、かなり「かわった状況」に置かれていたと思います。

★なにが「かわっていたか」というと、まず、両親と弟と住んでいました。
それから、バルセロナの中でも最古の地区におり、家は15世紀に建てられたものでした。その地区は盛り場やレストラン、ギャラリー、モードのお店がひしめいていて、アフリカやフランス、イタリアやイギリス、アメリカ、アジアにキューバ、フィリピン、それからイスラムといろいろな人と文化が混在する場所でした。

★こういった環境のなかにいたことは自分の人生におおきな影響を与えていると思います。さまざまなナショナリティーがクロスする多元的なモノの見方や考え方、価値観というものは自分に浸透しているものです。

★あの人種の坩堝のような感じ―それぞれのナショナリティの交錯する感覚。あのとき、それを端的だが、強烈にあらわすのは街角の「匂い」だと強く感じました。

★いろいろな国のさまざまな食べものや香水、大気、体臭。
そういったナショナリティの美的な感覚、体の感じが混然となってたち香っている。

★東京も多少はインターナショナルな感覚があるけれども、やっぱりバルセロナに比べると、旧態依然としている。東京人は頭ではナショナリティの多極化を理解できるし、しているのだろうけれども、体で知るというのは別のことだと思います。

★「モノ」や「文章」といったある意味ではキチンと整理された文脈ではなくて、「匂い」や「色」といったフィジカルな文脈として知るナショナリティ。

★それから、街角の「声」ではなくて、「音」そのものとして知るナショナリティ。

★なんだか、けっきょく―日本人は多国籍的なものの交じり合う「普通の国」にはなれないなぁ~とも思います。

★だって、潔癖で、消臭ばかりして、それを「文明」だと思いこみ、匂いが消された輸入品としての、「モノ」や「文章」、そして「モデル」ばかりを溢れさせているからです。それって、しかたがないといえば、しかたがないけれども、ずるい―といえば、ずるい。

★どうも、さながらロシア人―ドストエフスキーのように、ある抽象化された理念や幻想を「ヨーロッパ」に「投射」している。でも、そんな愛と幻想の理念が、ほんと、好きなんだろうなぁ~、それによって世界を錯覚し、その錯覚において幸せな気分になり、そんな紫煙めいた、「近代」という名の幻想に酔いしれている―その意味で幸せな民族だと感じます。

★もうすこし、フィジカルな文脈で味わえる混沌の幅が広がればなぁ~、そしてその混沌そのものを受け入れられるようになれば、本当の他者というものが受け入れられて、懐が深くなるのになぁ~とぼんやり思う。

★いくら魅惑的であっても、いわゆる社会意識を構成する「男」や「大人」は嫌いです。なぜなら、理解不可能なものを受け入れることができないから。そして、わかりやすい文脈で解釈をしたり、理解したつもりになったり、コントロールしたりしようとするのは、人間の「生命にたいする傲慢」なんではないでしょうか?

★だってだって、「生命」って、どうしようもなく、「匂い」という理解不可能なものによって活気付けられるものだと思うんです。嘘だというならプルーストの「失われた時を求めて」を読んでみてください。あの長大な小説世界の中で、プルーストは「生は匂いである」とくりかえし、示唆しています。

★頭だけでは片手落ち。

★やっぱり、体がとても大切です。

あたりまえですが、理解できることは理解できないことを前提としていて、ドゥルーズがいうように意味っていうのは意味がないことを前提としています。

★体で理解すること―つまり混沌と明晰ではないことを受け入れることを前提としないと、本当の意味でモノゴトを理解したとはいえないのではないでしょうか?すなわち、なにかを愛し、許し、受け入れ、それを理解するには、時と訓練が必要なのです。そして、こういった時がこそ、文化なのではないだろうか?―と、バルセロナでの滞在をつうじて、そう、考えるようになりました。

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☆せっかちな日本人、ゆっくりな欧米人
★べつに、スペインにいるからといって、スペイン人ばかりとつきあわなくてもよいのが「都市」の魅力です。(日本にいるからといって、日本人ばかりとつきあわなくてよいように―「都市」っていのはそういったものでしょう☆)

★人種の坩堝―でも、交流はどちらもたどたどしいスペイン語を介しておこなう―といった、ちょっとした間接性を帯びたINTERなコミュニケーションをしていました。

★当時はさほど感じなかったにせよ、今から鑑みてみれば、それは「ここである」ということが自明のことでは「まるで、ない」―と、いうことを示していたように思います。

すなわち、そのコミュニケーションにおいて、都市や国語(バルセロナ、スペイン語)は共有されているものであり、と同時に共有されえない国籍(日本)を前提としている。

★こういう場において、情報の交換をする、つまり「コミュニケーション」する―ということは、いくつかの複雑でかなり面倒くさい、手続きが必要となりました。これはけっこう大変です。どうしてかというとナショナリティや言葉といった同じ前提を共有していない、「他者」「他人」「別の人たち」と言葉のうえでの前提を共有するという作業をしなければいけないからです。

★その時、「アカウンタヴィリティー」―説明責任―っていうのはこういうことなんだなぁ~と実感したのをよく覚えています。

一見、煩雑で馬鹿げているような当たり前のことの積み重ねがどうして必要なのだろうか?―はじめはあまりよくわからなかったのですが、その時、よくわかりました。

それは同じ前提を共有していない「他者」「他人」「別の人たち」にたいして、前提を共有させるということなんですね。

★日本とはちがって、ヨーロッパにおいては、言葉はそんな機能をします。

すなわち、「他者」を理解しあうためには、煩雑で馬鹿げていて、当たり前であることを積み上げることがとても必要であり、「他者」相互間の「理解」というものはそうやって深めていくものだということをその時はじめて知りました。

それには時間がかかります。とても。

ヨーロッパのような複雑な「相互支配」―占領されることと占領すること(ちなみに、今の「ナショナリスティック」で「内向き」な日本に欠けているのは、ドイツを見ればわかるように、どんなに優秀な国でも、相互支配の文法からは逃れられないということなのだと思いますが―)の歴史と多国籍性をもち、成熟した交流というのはこの時間性の言い換えなのでしょう。

★それだからこそ、ヨーロッパの時間はアメリカや日本のように「せっかち」には進まず、「ゆっくり」と進みますし、この「ゆっくり」さに対する自負とプライドのことを「ヨーロッパ人」というのではないか―と感じました。

★くりかえしてみます、もういちど。

「「ヨーロッパ人」っていうのは「ゆっくり」考えて、自分に合うか合わないか、を取捨選択して、それでも、建築的に「前へと進むことへの意思とプライド」の言いかえのこと―なのです」


★それにくらべてみれば、日本の言葉は「せっかち」です。
それは「他者性」というもの、「他人」というもの、「理解不可能」というものを括弧にいれていて、管理と衛生において、「未成熟」で「幼稚」を前面に押し出して、これが実利的で、金になる価値であると、さだめるからだ―と、思います。

「せっかち」で「幼稚」な国というともうひとつの国はアメリカであり、アメリカ文化は本質的に「せっかち」で「幼稚」で「未成熟」でヨーロッパに対するアンチテーゼという側面がありますが、こういった在り方のコピーをどうも日本人はやっている。

★それが、個人的にいつも残念だなぁ~と思うところです。

★日本だって、成熟した大人になったっていいじゃないか!

よくよく、考えてみれば、「他者」や「他人」、「理解不可能」なものを受け入れることができない「せっかち」な子供社会、「やわらかな笑顔の同質管理社会」が、今の風潮のように、ただしいといえるのでしょうか?

日々をにぎわせる表面、NEWSさながら、モノゴトはそんなにプラグマティックな「機能」と「金」、あるいは「快楽」や「幸福」のみで実証され、その跡付けとして、とってつけられたような説明で満足されるものと考えるのは、あまりにも、短絡で、一面的、日本人が無意識レベルでよく表現する「傲慢さ」以外のなにものでもないと、思います。

★正直をいえば、日本が「麻生太郎」レベルの知性での先導による(要するにこれは「いい人」だが「バカ」ということですが―)、幼稚な漫画化、「手塚」「宮崎」「斉藤たかを」化してしまい、女子供のファッション化ばかりしてしまうこと、あるいは「金」と「権力」、そして犯罪者のその反語によって支配されてしまうことは、幼年期の延長として、どうにも仕方ないかもしれないが、なんとはなしにまずしくて、どこか、さびしい印象があります。

★「他者」を受け入れて、「幼稚化」するなら、いざしらず。

「他者」を拒んで、「幼稚化」し、感情や情緒的な「好きや嫌い」、つまり感情の「暴力」に訴えてゆくのは「今の中国」並みのファシズムと中央集権化だと思います。

★「他者」を受けれいることを、もう少し、わたしたち日本人は「学ぶべき」ではないでしょうか?

たとえ、それが早死にを促そうとも・・・。

★それが日本という共同体的部族社会にとって、良いか悪いかはいざしらず、自分個人、敷衍していえばナショナリティっていうのは意識するにせよ、しないにせよ、実は「他者性」という「理解不可能性」によってできていて、それを意識することがない―といったフロイト・ラカンを思い出すべきなのだ―と、クロスナショナリティの体験を経て、じょじょにですが、そんな風に考えるようになりました☆

「なんだか―なるままに日暮し、心にうつりゆくよしな仕事をつれづれなるままにメンフラハップ・・・海老天饂飩・・・DEATH DEATH DESTROY・・・」

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☆なんだかのススメ
◆なんだか―
すっかりあたたかくなったゴールデンウィークでした。

◆寒いあいだ、あつい羽根フトンで、ねむっていたんですが、さすがに足がでて、汗が噴いてしまうので―それなので、フトンをかえて、うすい毛布にして、足だして、Tシャツで、腕もだして、ねむるようにしました。窓をひらいて、風をいれて、黒青みどり色の風を部屋いっぱいにしてねむります。ようやくやってきた風がふわり―しとりとした頬のうすら汗をさらって、またふわり。あちらのほうへ抜けてゆく。体がすとりとして、心も夢の世界でふわり。よくよく爽やかなまどろみのなか―きれぎれの色の世界に落っこちる。

◆そんな春はやっぱりなんど味わってみても、色鮮やかで新鮮です。
風景と感覚、色の洪水がやってきて、萌えあがり、あふれだしている。

◆少しづつですけれども、バカになってきちゃいそうですが、もとからバカだからなぁ~と諦めながら、ぽかん―として、それで、ぽかんと右をみたり、左をみたりします。右をみても、左をみても、どちらを見てもとても青い。青、青、青の青嵐です。

◆―なんだかとってもなんだかです。

◆それでこの世界はなんだかなんだなぁ~と思いました。

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☆退屈のススメ
◆さいわいなことにゴールデンウィークはたっぷり時間がありました。

◆お金はあんまりありませんが、時間だけはたっぷりです。

だから―贅沢に退屈してみました。

なんにもしない。

なにかすることをしないで、なにもしないことをする。

とてもとても退屈。

うとうとまどろみ、うたうたゆれる。

陽だまりに腰かけ、体いっぱいで風を感じて、空を眺める。

ただ、それだけ―

◆でもそれがちゃんと出来るってことは、なかなかどうして、むつかしいんです。

◆つい、なにかしてしまったり、つい、言葉で頭をせわしなく働かせようとしたり、つい、あれもこれも欲ばったり、ついつい、そんな体や言葉の忙しさにとらわれちゃう―からです。

◆しない、ということの豊かさを学ぶにはある別のタイプの知識が必要で、それはたぶん風景だとか、体だとか、動物だとか、花だとか、植物だとか、虫だとか、色だとか、夢見ることだとか―に「なること」にかかわっているんだろうと思います。することによって、人は人になりますが、しないことによって、人はその対象に―風景や体、動物―に「なること」ができるんだと思います。

◆それでも、するんじゃなくて、しないって、本当に本当にむつかしい。
なんにもしないってそうそうできるもんじゃない。

◆今まで、ボクはあまりきちんと退屈することができなかったよう―。
今の人って、そういう感じで、あまりきちんと退屈しているようには見えない。

◆それがやっぱり哀しい。
なにか、とても大切なものを取り逃がしているように感じるからです。

◆きちんと退屈。
とてもとても退屈。
ずっとずっと退屈。

◆退屈のススメ。
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☆うとうと読書のススメ
◆たいがい、本を読んでいると眠ったるくなるものです。

◆まったく、本にはつい人をうとうとさせる睡眠効果があるようです。小説やエッセイだけでなく、マジメな本も哲学の本も経済の本でもそうではないのかしらん。本を読むことと眠ったるくなってまどろむこと、それから夢を見ることは関係があるんじゃないかなぁ~とぼんやり思います。電車にのっても、図書館へいっても、タバコ屋のおじさんも、「我輩は猫である」の主人公の先生もみんな本を読んでうとうと眠っています。たぶん夢見てんだろうなぁと思いながら、そういう人のいる空気を不思議な感じのように感じ、ついついまったり埋もれてしまう。

◆本を読んで、眠ったるくならないのは自然の法則に逆らっているのでは?-うとうとしながら読書というのが「読書の正しい在り方」ではないのだろうか―とそんな風に思ってしまう今日このごろ―

◆ごろんと寝転がって、うとうと読む。
◆ぺたんと座り込んで、うとうと読む。
◆ごつんとぶつけて、うとうと読む。

◆うとうと読書っていけないことかしらん?
いや、そうではなくて、「健康」な読書っていうのは、そうやって、「うとうと読書」をすることではないかしらん―なんて。

◆うとうと読書のススメ
☆いま~の きよしろ~の死
★めっきり春めいた陽射しうららかな9日。午後から「いま~の きよしろ~の葬儀・告別式」へゆく。
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★ふつつかな軽さから、はじめ、些して待つことはないだろう―と思いきや、列はぞろぞろ、駅付近までのび、先の見えない人の群れの最語尾につく。黒山の人だかり。それにしても、いろいろ、人がいる。年はさまざま、格好もおなじく―ネクタイ姿、リーゼント、黒ずくめ、カラフル、革ジャンと、いろいろ。

いささか強すぎた思い入れにかまけて、考えることすらしなかったが、かくもさまざまな人に愛されていたのだ―と驚く。
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★思えば―以前、十代の頃だった。
家の近くに自然農業をして暮らす男がおり、父の仕事を手伝っていてもらっていた時分、その男が教えてくれたのだった。殴り書きのRCサクセションの文字の書かれたカセットテープから鳴る音は、郊外につづく日常にあって、暖かくで懐かしかった。それは初期のフォークロア風の音でもって、やんわりとゆるく愛や日常風景が描かれていた。陽だまり時間が豊かになった。そののち、テレビでタイマーズを聴き、「ああ ロケンロ~なるもの」とは好いものだと思わされた。ユーモアと反骨精神が楽しく、土方ファッションにヘルメットも忘れがたきファッションで、いつかあんなファッションをしたひもんだぜ!―などと一人ごちたのだった。

★そうして月日は流れ、昨日に至った。
こうやって葬儀の参列にならび、ひとりの人間の死をながめるのは、どうにも合点がゆかぬ「時のいたずら」を見る思いになる。明るいことや暗いこと、悲しいこと、さびしいことといった形容をさておいて、どうもよくわからない感じがして、刹那、頭がけだるくなる。さながら春霞の朦朧。あの記憶とこの今と、そして生と死と―。いったい、これはなんなんだろう―と、どうにもよくわからない。

★べつだん、社会としての事実がわからないというわけではないし、小生の頭脳が把握の明晰さを欠いているというわけでもない。ただ、どうも、この次元や、この時空間、この生のなかで、なにやら模糊として、把握することも「ままならぬもの」があって、そういった「ままならぬもの」の中になにかがあるのではないかという予感を思う。
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★列はずらずらと続き、3~4キロメートルはあったろう、何時間か待ち、やがて、日も暮れて、つらなる氷のビルの上に、まるいまるい満月がかかった。前にいた女2人が空腹にしびれをきらして食料調達にコンビ二へと駆け、近隣の自販機は売り切れのランプをぴからせ、トイレは長い列となった。後ろの姿勢のよい長髪の男が携帯で「すっげ~列で、大変だよ!」と言った。それから2時間のち、ようやく葬儀所へと入れた。
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★所内では、ピンクのスーツを着たウサちゃんのアドバルーンがたっていて、往年のRCサクセションの名曲がかかっていた。喚声があがり、往年の名曲が口から口へ歌われた。女性は涙ぐみ、しとしと涙をこぼしていた。これは「最後のロックショー」だというアナウンスがあった。「清志郎の死」といふロックショー。明るくて、華やかでけばけばしい色彩にかざられた死は、なんだか死ぬのも楽しいことかもしれんと思わせる。もみくちゃの人ごみとカメラフラッシュの嵐の中、献花をして、手をあわせて祈ると、すこし、ぐすんときたが、それほど悲しいことではないのだろう。葬儀所をでる最後の瞬間に大好きだった「トランジスタラジオ」がかかった。思わず楽しくなって歌いだして、晴れやかな気持ちになる。

「AH・・・こんな気持ち、うまく言えたことがない、ないやいやい」
                「トランジスタラジオ」RCサクセション


★死ぬときは明るく楽しく死にたいものだと、「いま~の きよしろ~の死」に触れて、そう思う。そして死をこんなにエンターテイメントに変える自由で、自在、自分に正直で、素直な「ロックな生き様」がうらやましいのだった。ちょっぴり。そんな霊の力に少しだけ触れ、そのエネルギーの一端をわずかながらでもいただいたかと思えば、なるほど、死には生と生をつなぐ役割があるのだということを考えずにはいられなくなった。
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★いづれにせよ、死は不思議なところがあるものなのだろう。

ひるがえって、いわんや生もまた、なお。
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★「いま~の」さま、おちゃ~めんぐなエネルギーを、どうもありがとうございました☆
☆桜―かわる風景―日本人の考える美―風景論

桜がきれいな季節になりました☆
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すこし冷静に桜の花の美しさをいうと、その特徴は「風景」をかえることにあると思います。いままで見ていた「風景」が全体としてパッとかわる・・・あのいつもの街角が、川べりの散歩路が、そして山の小道が・・・いつしか見慣れない「異界」の風景になる。

「「この世」―常世―から「あの世」―異界―へかわる風景」の美しさの一瞬の妙をとらえるということ」

桜の花にある美の本質ってそんなところにあるのかなぁ~と、きのう、桜をながめながら、そう思いました。つまり「異界」の幽玄めいた風景を、静やかにあらわすこと。

事実、桜を見ると、なんとなく―
「あ、このまま、死んじゃってもOKかな・・・」―と、思う。
「こんな風に散っていいんだな・・・」―と、思う。
「ま、いろいろあったけど、ま、いっか・・・」―と、思う。
なんだか、思っちゃうんですよね。どうしようもなく。
つくづく、自分で自分のことが、とても日本人的な感性だと思います。
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風に散る花吹雪にまみれ、むかしから長いあいだ、花見をしたり、歩いたりして、時にうかれ、酔いしれて、死を思い、美を感じながら、桜の花爛漫の風景を見ていたけれども、どうして美しいのかという問いを深めることがなかったことはすこし悲しい時間の浪費のように感じました。まったく「光」ばかり眺め、「コトバ」ばかり慈しみすぎたことは、おろかなことだと思います。「宇宙」ではなく、「地球」のレベルで生きていることが、とても悔しい。
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先日の六本木アートナイトでもっとも興味深かったのは、1000個の風船が風景を「異化」させることでしたが、こういった「風景論―ランドエスケープ論」はずっと日本人の根本に流れている「ART」や「芸術的」なものをめぐる根本的な認識ではないか―と思います。(基本に立ち返れば、「ART」、「芸術」、「芸能」とはあの世とこの世を橋渡しするものです)そこには個性はなく、名前もなく、ただただ無記名で、言葉ではないようなもの。もやりたち、夢幻めく、この世ならぬもの。「コトバ」にならず、逃げていってしまうもの。消えていってしまうもの。本当の「風景」とはそういうものだと考えます。
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そんな「風景」に囲まれると、自分の存在が溶解し、ぐちゃぐちゃ、ぐにゅぐにゅ―になるのを感じます。自分なんてものは「原始のスープ」みたいなもんなんだろうな。しょせん。存在なんて、くだらないもんだということを、桜の中に感じました☆

春はそんな季節なんでしょう。
おそらく、きっと―
自分の人生がいかに下らない、愚かで幸福な「コトバ」のまやかしで出来ているのか―を痛感させられてしまいました。
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