カテゴリ:ウィリアム バロウズ( 2 )


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☆麻薬という教師
まずは本書より、引用から―
HERE WE GO☆

「わたしは麻薬に親しんだことを後悔したことは一度もない。ときどき麻薬を使ったためにいまでは常用者にならなかった場合の自分よりも健康になっていると思う。人は成長が止まるとともに死にはじめる。麻薬常用者はけっして成長を停止しない。」

どうやら―ウィリアム バロウズによれば、麻薬は「健康」にいいらしい。
しかも―麻薬を打ち続ければ、つねに成長できるようだ。
そればかりか―若く見えることができて、すばらしい長生きも可能だと、彼はいう。

「たいていの常用者は実際の年齢よりも若く見える。科学者たちは最近の実験によって、ミミズに食物を与えないようにすれば、その体を収縮させることができることを発見した。それゆえ、ミミズを周期的に収縮させて絶えず麻薬停止状態を保つようにすることができれば、すばらしく長生きをすることになるだろう」

さらにバロウズは人生を麻薬から学んだ。

「私は麻薬の方程式を学んだ。麻薬は酒やマリファナのような人生の楽しみを増すための手段ではない。麻薬は刺激ではない。麻薬は生き方なのだ」

ここから導き出されることはつまり学ぶ姿勢があれば、すべては教師だということだ。麻薬や酒、マリファナ、あるいは怠惰や自堕落、頽廃や睡眠、夢みること、これらもまた人生の教師になりうるということである。実際、「裸のランチ」の中でこんな言葉もバロウズは吐いている。以外と勉強家なのだ。こうみえて。

「人生はどの生徒もそれぞれ異なる課目をまなばなければならない学校だ。」(「裸のランチ」)

麻薬を教師としたひとりの生徒の描いてみせた小説―ボードリヤールは「現代消費社会の中でわたしたちはわたしたち自身の「欲望」から目を背けさせられている」といっているが、バロウズにあるのはこの剥きだしてハレーションを起こす「欲望の歌」だと思う。たしかに時折、わけのわからない妄想じみてはいるものの、本当の意味での「自由な作家」とは彼のような男のことをいうのではないだろうか。彼は動かない。ホコリが積もるぐらいピクリともしない。そして動かないことによって、光速で、電撃の脳内のイマジネーションの破裂、そのハレーションを描いてみせる。

ヴェルヴェットアンダーグラウンドのルーリードが、ニルヴァーナのカートコバーンが、あるいはウィリアムギブスンが憧れ、そのある部分での表現が、「バロウズからのインフルエンス」として読まれるのも、この常人ばなれした「幸運」と「知性」と「感性」を味方につけた現代詩人の影響の大きさといったところだろうか―ますます昆虫化してゆく現代社会を生きる作家は、おそらくそうとは知らずにウィリアムバロウズ化してゆくようにも思われてしまう。

そう、なぜなら―まばゆくて、表面的、POPでCRAZYでとびきりCOOLなこの作家は現代文明の極点としての表現を試みた。つまり、短絡された回路と強度の言葉にならぬ領域を表現したのである。

☆SUPER COOL 
「麻薬中毒者の身体はさらに他の属性であり、<SUPER COOL>=0から始まって、特異な強度を生産する。(「麻薬中毒者たちはいつも、彼らが<SUPER COOL>と呼ぶ現象を嘆く。黒いマントのえりを立て、乾ききった首を拳で締め付ける・・・」だがこれはみな演技にすぎない。麻薬中毒者はぬくぬくしているのを好まない。涼しさ、冷たさ、<SUPER COOL>を欲するのだ。しかしその<SUPER COOL>はただ麻薬からだけやってくるのでなければならない。」<「ミルプラトー」ドゥルーズ=ガタリ(P171)>

バロウズはウォーホル同様、あるいはTV画面同様に<SUPER COOL>な存在だ。
麻薬の酔いは酒の酔いとは違う。酒の酔いはカラダを火照らす熱だが、麻薬の酔いはカラダを冷たくさせる熱だからで、古く中国の書家たちは五石散といわれる危険な合成麻薬に酔いどれていたらしい。安全性や管理をひとまずおいた人類進歩という観点から見れば、麻薬は人間の歴史の中に内在されている。コンピューターカルチャーもその例外ではなく、たとえばAPPLEのスティーブ・ジョブスが長髪でインドをうろつくヒッピーだったことは象徴的だし、SF作家ブルース・スターリングの指摘にあるように、ヒッピーロックバンド―グレイトフルデットやサイケデリックカルチャー、テクノカルチャーやサイバーパンク、映画「MATRIX」―などPOPなDRUG文化とコンピューターとの親和性の高さ、シリコンバレーがサンフランシスコにあることなんてことを考え合わせたっていいだろう。

それは熱い酔い、ホットな陶酔ではない。<SUPER COOL>な酔い、冷たい陶酔だ。

おそらくは現代文化の陶酔とは実は酒の陶酔による知覚のフラクタルな遊びではなくて、麻薬の陶酔による知覚のフラクタルな遊びに近いのだろう。カットアップという手法をつかって描かれた「裸のランチ」や「ソフトマシーン」で試みた知覚の遊びはそういった現代文化の先取りを啓示のようにやってみせたところに価値がある。それは極点。死と生、現実と妄想の境目をひたすら冒険するということ―

☆生物学的視点から眺められるジャンキー
さてこの本だけれども、前述した「裸のランチ」や「ソフトマシーン」にくらべると、ノンフィクションタッチで読みやすく、意味と文脈がある。それらの本の中で分解されて、断片的な言葉の廃棄物と化したものがこの本の中では現実的な体裁を整えている。がしかし、そのぶん詩的なサイケデリックハレーションに乏しく、彩りに欠ける。もっとも現代人の頭にはこちらの方が意味と文脈があって、理解しやすいし、普通の読書だったらこちらは解る範疇のようにも思う。「ワタシには自分が何をしているかも、自分が何モノなのかもわからない」(「裸のランチ」)ことはないだろう。すくなくとも―

なにより外部的で感傷をまじえない硬質な文体と人間という種を見つめる生物学的な視点が背後に感じられ、いつもバロウズに感じる「博士っぽさ」をより強く感じた。夏目 漱石もそうだが、人間という種族に対するこの距離感覚が、バロウズを凡百の作家とは別の次元にしているように思う。

☆SUPER COOLの効用
たとえば、なにかを食べる。食事をする。どんなに美味しいものであろうと、それは熱量にかわり、エネルギーとなる。やがてそれは蓄積して、じょじょに太った豚になってゆく。
太ること、すなわち肥満という時代の前提のなかでわたしたちはユニセクシャル化し、デザイン化し、感覚化し、退化への道を歩む。街が「豚天国」になりつつある飽食の先進国―

「太った豚とやせたソクラテス」という言葉ではないけれども、食べれば熱が出、熱は生物エネルギーへと変化し、冷たい知性というマシーンへ影響を及ぼす。食べ終わった後に、頭が鈍るのは、食と知が反目する側面があることを意味してはいないだろうか?

知とは食べることではない。しいて言えば食べることの逆説だ。(だから作家P・オースターは「空腹の技法」を描いてみせた)アメリカで肥満が知的欠落とみなされるように、知とは食べないことによって、食べることを乗り越えることだ。

したがって―食べないこと、冷たさを求めること、SUPER COOLであること、ほっそりすることは逆説が主流となった現代の先進的な知的都市の感性だ。それは現代社会にもとめられるひとつの理念であって、その意味でわたしたちは皆ジャンキーの共犯者、ジャンキーを生む土壌を日々整備しているといえるだろう。

☆文明社会の相克
小説を読むとわかるように、時代と都市というものがあり、その下部構造として組織集団がある。時代と都市という共通言語の分母にたいして、下部集団は分子となり、その分母から言葉を言い換えて、独自の亡霊とジャンクの集団言語を形成する。すなわち、時代と都市のなかにあるものは、下部組織に移し変えられ、言い換えられて、流通する。ここに相互の間で共犯のメカニズムが出来る。禁止と解放の二律背反のメカニズム。このメカニズムは社会から個人の心理へと転移する。つまり―わたしたちはジャンキーを生む土壌を日々整備しておきながら、それを禁止する。社会的な禁止は地下へ潜りこみ、個人的で神経症的な乗り越えへと向かう。価値はその乗り越えに置かれ、やがて、その内実よりも乗り越え自体が問題となり、記号として、社会流通する。記号の概念ができあがり、悪ができる。そしてその悪を取り締まろうとして、権力は捜査の神経網を張り巡らせ、それを根絶することによって、溜飲を下げる。文明社会で割り当てられた自らの職務にナルシスティックに酔いしれるというわけだ。これらはすべて文明社会の耽るマスターベンションのようなものだろう。なぜっていえば、自らつくり上げた「基盤」に対して自らがもつ「極端」を削ってみせ、そうやって中庸化、中間化させ、大衆化、均質化させることによって、資本を発動させて美化しているにすぎないからだ。こういった文明社会の相克の馬鹿莫迦しさを楽しむのも一興かもしれない。禁止と侵犯という意味で麻薬というそのテーゼの中にエロス的なところもあるように感じた。

全体としてみれば、冷静で客観的で知的な観察日記といった感じかしらん―☆


ソフトマシーン

ウィリアム・バロウズ 山形 浩生 柳下 毅一郎 / 河出書房新社


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「壊れた石碑、陶器のかけら、石像、コンドーム、ウンコまみれのマンガ、燐光を発する金クソのボタ山―新世界産のピンクや紫虫病にやられた顔―カニ少年は人間の脚と性器を持ち、ドロ壁の小部屋から這い出してくる―末期ペイ中毒者が冷たい山おろしに水晶ののど軟骨を引き出す―ウンコまみれのバルビツール乞食は錆びたフロオケで眠る―空までひろがる末期的停滞の下水デルタが育てる病気のイルカは炭酸ガスのあぶくの中に浮かび上がる―金属の味がくちびるに銀色のただれを残した」(本文 P44)

まずは―言葉足らず(-と一人よがり(笑))を補う意味で―補正から入ります。
松岡セイゴウのバローズ評
この人理解しているとはいいがたいところは周辺事情に置き換えて語りすぎるきらいがあるけれど、ま 多少は参考になるかしらん?

 ☆1、文学表現
―えっと・・・ぼくとしては・・・
文学表現というのもは一体なんなのだろうか?―
―という大上段の問いからはじめてみたい。

そう 問いは簡単である。

文学を表現するということはどういうこと?
文学を描くというのはどういうこと?

たとえばロシアの評論家であるバフチンが指摘するドフトエフスキー論の多声言語のハーモニー。多くの声が多重的に混在するような書き方。あれはひとつの偉大な表現様式だろう。
あるいは日本独自の発展をとげた私小説の系譜―個は個でありながら普遍であるという大江や村上春樹あたりにまで引き継がれるような書き方。あれもまたひとつの表現様式だと思う(これは蛇足だが、大江にはノーベル賞はふさわしいような人間の抉り出し感覚があるが村上春樹はやっぱりカフカ賞あたりがお似合いだとは思うのだけれど―)
それらはいずれにしても現実構造から抽出された要素の記号領域への転写であって、親現実的なものだといえるのではないだろうか。つまり現実の抽出と転写としての文学であって、現実がまず第一前提としてあるものであって、これらはいかに優れた作品であっても現実からの要素を抜き出しているという意味で文学的な自律領域としてのメタレベル性は低い。つまり現実の反映である以上なんらかの現実抽出をして表現形態として構造化する。これがいわゆる世にいわれるところの「小説」というもので、娯楽小説からアイドル本から純文学を貫く表現に内在するもののように思われる。

別の表現形態として、文献学的文学というものもある。これはポストモダンな記号の戯れと言葉遊びであって、現実的親和性は低い。もちろん作家が世界=内=存在として、現在に位置する以上、決して現実や時間系列すなわち時代からの乖離ということは出来ないのだろうけれども、それでもやはり前述の作家群に較べると現実から乖離した印象があって、これはおそらく相手にするものが現実的な対象というよりはより文献やテキストに近く、その意味で描かれているものはメタレベルへと投擲されている。メタというのは物語構造の多重のREMIXであって、もはや現実にはどのような新しいものもうまれることはないだろうという怜悧な認識がある。そこではいかなることも可能なのだ。どんなことも出来る―が、なにもおこりはしないだろうという現実への冷たい侮蔑が前提となっている。現実などはしょせんそんなものであって自分の表現はこの現実をなにもかえることはないだろう。芸術フォームでいうところのシュミレーショニズムがこれに当たる。

つまり―言葉を乱暴に置き換えてみれば―前者は「生」でロックな現実のリフレクションとして現実が現実と機能すると考えうる限りで白痴的でおめでたく時に嘲りの対象となるようなものであり、後者は「生」であることが多重に透明化されているという意味でテクノで現実をメタレベルに投擲しており、その意味で「生」の濃度として薄い。だれであってもよくだれでなくともよい―という個や人間性の徹底的な否定と嘲笑の態度に貫かれたシュールでサイバネティックなものだ。

そしてよい作家とはこの双方のどちらの領域にも足を突っ込んでいる、あるいはこの二つの領域を兼ね備えている、二つの領域の「あいだ」にいるものだとおもう。この間にある波やベクトルや情念指数といったものがむしろよい作家の条件なのではないだろうか。(バロウズでいえば処女作「ジャンキー」は体験ベースのもの、前者であり、「裸のランチ」「ソフトマシーン」等はどちらかといえば文献学的文学なのだろう―もっともバロウズの場合凄いところというのはだれであってもよいとは到底いえない地点からこの領域へと殴りこみをかけたところだ。バロウズにしか書けない文学―境地―それは凡百の作家のはるか先をゆく光速の文学となる。)
そして作家は、その「あいだ」の現実というものをまことしやかに発散させて、私たちのリアルであることを情念や愛着とともに告げるだろう。つまり大江であってもいいし、村上春樹であってもいいし、村上龍であってもいい。あるいは―古川日出男であってもいいし、阿部重和であってもいいし、池松江美であってもいいし、糸山秋子であってもいい。愛着や情念、あるいは折り畳まれた憧れ、欲望モーターの洗練された言語的昇華―に、模造のリアルをバーコード装置のように読み込んで思考を構造化させ選別装置を頭の中に設置し選別し選り分け判断する。結局人間は無意識のAUTOMATICALなフォーメーションマシーンなのだから、こういった諸連鎖の円環スパイラルから抜け出すことはできないだろう。
「情念」と「愛着」と「自己指針」としての作家―言葉世界の「リーダー」―それらは新しい現実を読み取り提出する言語製造マシーンであり、その尖端にあるのは新しいサイバネティックの非人間的様相だ。つまり―ここでもとめられる適性というものを考慮してみれば、サイバネティックスの形成する先端的テクノロジー世界が織り成す社会、状況、現実を親しみをもって、POPで教養的な大衆に配分するということであって、そこに付与される諸々の個にまつわる神話をその存在として読み込ませるという才覚なのであって、装置―間―係員というのがふさわしいだろう。もっとも―現実のバーコード転写には個人によって分配の差異があるから、その分配の差異によって、作家の個人名は機械状結節するという様相であり、結局は慾動の機械状結節の点として、個人名は社会に組み立てられる。そうやって徐々にその作家の言語が浸透してゆくことによって言語補完されて作家は作家として時代メカ(ジェネレーションマシーン)と化する。
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☆2、バロウズ―その影響

そこでウィリアムバロウズである。
バロウズは明らかにジェネレーションマシーンである。
それも―
異質でクレージーで強烈な―
何人かの影響を受けたものとおぼしい著述家を以下に挙げてみたい。

ドゥルーズ=ガタリ―あきらかにバロウズの強く強烈な影響下にあり、それは「アンチオイディプス」や「ミルプラトー」にうかがえるものであるにとどまらず、その表現様式やリズム、あるいは器官なき身体や遊牧民の音響触空間や存立平面にいたる概念設定、あるいはその内実―昆虫世界や言語を統制するなという言葉にいたるまでおそらく強いインスピレーションを受けていることは想像に難くない。これらの本は相互に補完しあっているといいたい欲望に駆られるほどのもの。

ウィリアムギブスン
―ルーリードを経由してパンクからウィリアムギブスン、SONIC YOUTHからNIRVANAへ、そして(どうでもいいが、ヴォーカルのボビーくんをぼくが兄さんとあがめている)プライマルスクリームへといたるメカニカルなライン。このラインでもバロウズの影が潜在的にうかがえる。NIRVANAと共演するバロウズを思い出してみてほしい。POPカルチャーという巨大な平面に落とされた日常と地続きにあるようにみえながら異質な可能性の言語宇宙を切り開いている。ギブスンの諸著作においては特に初期にこの影響が顕著なように感じられる。

☆日本―日本だとちょっと、バロウズの直裁的影響下にある作家というものは思いつかない。椹木が軽くかすめ、清水アリカが少しだけ齧り、村上龍が3歩ぐらい接近し、金原ひとみがそのペニスの尖端を舐めたようではあるもののああいった分裂的で平面的かつ教養的かつ詩的言語空間の創造は、ぼくの知る限りではされていない。これからされるのだろうか?若くて獰猛で狂った才能に期待したい。

J・G バラードをひくまでもなく、世界は認識され方と解釈のされ方によって案外簡単にそのイマージュを一新させてしまうような―その程度のものにすぎない。
                  
☆3、内実と形式―シュールレアリズムからDJカルチャーへの流れ
内実と形式―

内実―それはゲイのセックスと刺激的で、暴力的なヴィジョンが連なっていて、脈絡のないイメージが暴発してクラスター爆弾のように爆ぜている。
例えばこんな感じで―

「―誰?Quien es?前にあるのは明瞭に世界の終わりでしかありえない―
色褪せた写真を踏んでキキが歩みだす―身をよじってズボンを落としてはだかで立ち両手に唾を吐く―笑みを浮かべてバケツに射つ―そよぐ干潟で若者がズボンを下ろし、はだかで犬の糞を踏みしめて事におよんでいた―世界中の街路の臭いが紅白Tシャツを褐色ジョニーへ吸い上げた―あのすえた夜明け、天井の扇風機ではだかで眠る匂い―じわじわとした快楽で足をばたつかせ、腹ばいのあいつにつっこむ―「フードをかぶった死人が回転ドアの中で独り言を言う―かつて私だったものは逆回転サウンドトラックだ―化石オルガズムがうつろな協力にひざまずく」公衆便所を抜ける風―「J`aimes ces types vicieux qui`ci montrent la bite」―水道管のそばの緑地―恥毛にからまった枯葉―「おいでせんずり―1925」―・・・」(「柔らかい機械」P73)

と―まぁ―こんな感じのヴィジョンが延々つづいており、巻末のギンズバーグとのインタヴューによれば、一応舞台は金星で、南米のような有毒で異様な生命体あふれた鬱蒼たる熱帯風景ということになっているが、断片的で、爆裂的で痙攣的な語彙が続き、風景らしい風景は描かれず、物語らしい物語は語られない。これは―現代版ロートレアモン「マルロドールの歌」、それをさらに加速させて破裂させたような散文詩なのだろうか―という問いが頭をもたげる。科学と残虐性の「手術台」の上での突然の出会い?
それとも―
別のなにかだろうか?

巻末の訳者あとがきから山形浩生の文章を以下に見てみよう。

「「ソフトマシーン」に限らず、バロウズの小説には遠近法的視覚イメージはほとんどない。むしろその世界を律しているのは音だ。その次に、触覚や嗅覚や政治的力関係と同列に視覚がやってくるが、その視覚も遠近法的なほどよい距離感を持った視覚ではなく、眼の前一杯に広がる色彩であるとか、奥行きを全く欠いた単なる網膜上のパターンとしての視覚だ。たまに出来上がりかかる透視図も、カットアップやフォールドインによってたちまち切断されてしまう。その切り口に単語がむき出しとなってあらわれる。絵にもかけず、われわれの頭のなかにあるわけでもない、夢見ることも、ましてや映画化することなど(クローネンバーグをもってしても)望むべくもない、ただ言葉でし書かけない世界がそこに顔をだす

形式―そう―つまり―この小説はまず「音」から出来ているのだ。だから―翻訳上の精緻さ、厳密さといった諸事項がいかに遵守されていようと、ある種の不理解の澱を残すのは、この音韻が伝わってこないという他言語翻訳の難しさにある。なにより―村上春樹が本質的な耳の明晰さをもって理解しているように―言葉とは意味である前に音として存在するものであって、この音の精妙な調整作用が翻訳で失われてしまうというのは、やむをえないことではあっても、残念なこと。他言語の本の読書の難しさというのは翻訳を纏わる作者の二重性―すなわち著者と翻訳者に根ざすものであることがその理由のひとつであることは間違いない。もっとも別の楽しみ方としては、この翻訳にぎしぎしと骨がなる日本語の、悲痛な痛みの音をにやにやとした嘲笑をもって読むというのはまた楽しい翻訳本にまつわる言葉の楽しみ方であるかもしれないのだけれども―(たとえばデリダやジジェクなどは日本語が枠から漏れ出してしまいそうになるのをなんとか枠の中におしこめようとする翻訳者の苦闘のあとが見えて、楽しい。個人的にはもっと言葉を狂わせてやって、破壊して、破裂させてしまえばいいと思うが―)

それからカットアップ、フォールドインといった前衛的手法―
簡単に引用すれば、「カットアップとは「切り刻む」こと、それからフォールドインとは「折り畳む」こと」であって、「自分の書いた文章や他人の書いた文章を切り刻んで並び替えたり、切るのが面倒なので追って並べたりして新しい文章の塊を半ば自動的に生成する手法」である。
ここで思い出されるのは、シュールレアリストの先駆的試みではないだろうか。つまりシュールレアリストが試した自動筆記、無意識的機械的筆記というものがあるが、あれに近い印象を受ける。このような表現方式では言葉は主体には厳密に属さないものとされるところでも、同様のことであり、シュールレアリズムがダリによって都市へと侵入するウィルスに擬えられたように、バロウズは言語をウィルスだといったことを重ね合わせてみれば、この手法らに潜在するある種の可能性が把握されるだろう。

あるいは、こういった手法はいわゆるフォトモンタージュとして、ダダやシュールレアリストが試みた手法と近親性が見られはしないだろうか?都市的金属的日常を異化するARTの系譜があるのだとしたら、このバロウズの手法はこの系譜に属すると考えられる。以下にフォトモンタージュの手法を見てみよう。

「フォトモンタージュは様々な写真の断片を組み合わせ、互いに性質を異にするイメージ同士を結びつけることで新しいイメージをつくり、日常を以下する方法としてダダやシュールレアリスムを中心に広く用いられたが、この概念は単に二十世紀の前衛芸術があみだした新しい表現方法としてばかりではなく、20世紀人の認識や無意識の構造の変化を本質的に示すヴィジョンとしても重要な意味合いを持っている」(「20世紀イメージ考古学」―1916―伊藤俊治)

ちなみにフォトモンター所というのは雑誌や広告の写真を切りとって、合成したり、張り合わせたりするもので、最近では映画「フリー・ダ・カーロ」にこの手法の折込がされている。こんな感じのもの。

バロウズは文化の荒野のアメリカの「シュールレアリスト」だ―
20世紀後半に妖しく咲く徒花にしてPOPの人肉植物―

コクトーが阿片に溺れたように、バロウズは異物質注射に明け暮れる―
異物質と婚姻するために―肉体変容と器官なき身体を形成するために―ドゥルーズがその立場上、肉体上、踏み込めなかった領域、想像するにとどまった領域にバロウズはペニスを握り締め、スペルマを射ちながら、皮のブーツを履いて突入する―そして繋がるのは断片を混在させて編集するというDJカルチャーだ―ポストモダンのDJカルチャーはバロウズのカラフルでPOPでより口当たりのよい言い換えではないだろうか。
                
☆4、光速文学―「天才」バロウズの先見性
W・バロウズ―奇妙な人物―複合体機械としてのバロウズ―バロウズには博士としかいいようがないところがあり、また鋭敏な言語感覚世界の主人としてのバロウズがいて、ゲイで暴力的でセクシャルでやくざなバロウズがいる。それらが文学的直感に基づいて、先見的な感覚領域でマーブリングされて文学として抽出される。
それは―
光速の文学。
輪郭のはっきりしない―あやふやな―妖しい―毒々しい文学。
感覚で掴まえた言語領域でなされる前衛的実験としての文学。
ドゥルーズ=ガタリ「アンチオイディプス」はこの実験の哲学的言い換えにすぎないのではないか、といってしまいたくもなる。
原書の出版で見てみれば「オイディプス」は1972年、「ソフトマシーン」は一番早いクレジットが1961年となっているから、明らかにドゥルーズはこの本を読んでいるはずだ。

これは両者の比較でみるとこのことははっきりするように思う。
まず名前―
「柔らかい機械」というのはどういう意味なのか?ドゥルーズ=ガタリのいう「欲望する機械」そのものではないのか?言葉悪くいえば、ドゥルーズはバロウズの詩的な感覚パクって、西欧の諸概念に対抗させたのではないか?バロウズ風にいえばドゥルーズ=ガタリはバロウズの言語ウィルスに汚染されたのか?あるいは―その放射能におかされたのか?

「卵」―
これはドゥルーズ=ガタリ哲学の主要概念といわれている。

「白痴の死の痙攣の笑み―ゆっくりした植物の腐敗があいつの象牙肉を撮る―卵が割れ、破裂した脊椎から白い液がほとばしるとき、いつもそこに―あいつの口から炭酸ガスと紫外線がただよった―少年は錆びついた黒いパンツを落とした―泥のついた亜麻布の微妙な黴」(「バロウズ「柔らかい機械」P55)

「卵」が割れ、破裂した脊椎からほとばしる白い液体。この一文は卵の「有機的生殖性」と精液という暗喩であり、同時にドゥルーズ=ガタリが以下のようにいうところのものを示唆するものでもある。

「器官なき身体は宇宙の卵胞のようなものである。この卵胞は巨大なる分子であり、そこでは、いくたのうじ、細菌、小人国の著名人、極微動物、こびと、といったものが、それぞれの組織や諸機械(すなわち、極小のひも、ロープ、牙、爪、滑車、カタパルト)を具えて蠢いている」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチオイディプス 第四章「分裂者分析への道」P335)

あるいは―破壊のアジテーション。

「言語線を切れ―音楽線を切れ―コントロール画面を叩き潰せ―コントロール機械を叩き潰せ―本を燃やせ―祭司どもを殺せ―殺せ!殺せ!殺せ!―」(バロウズ「柔らかい機械」P112)

「破壊せよ。破壊せよ。分裂者分析の仕事は破壊を通じて行われる。つまり、無意識をまるまる清掃し掻爬することを通じて行われる。破壊せよ!オイディプスを、自我の錯覚を、超自我のあやつり人形を、罪責感を、法律を、去勢を」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチオイディプス」第四章「分裂者分析への道」P369)

それから昆虫への烈愛をめぐる両者の相関性―これは暗に人間中心主義的な文明感を覆す先見的な洞察だといってもいい。つまりここで暗示されているのはまぎれもなく自然=人間=機械共生系の前衛的ヴィジョンであり、「アンチオイディプス」がおくらばせながら多重に言語化し、哲学化したことを先見的に暗示している。あるいは―ウィリアムギブスンのヴィジョンはバロウズのヴィジョンの正統的後継者といってもよいものではないのだろうか?
幻視者バロウズ―時代の先を見通すCOOOOLな妻殺しジャンキー。

「おれセキュイン、この技法をミンラウド通り沿いに完成す。ムカデ座の下で。虜囚頭。ミンラウド時間で。刺青ボックスで。肉移植パーラー。ミンラウドの生けるロウ人形。印象用に作ったダミー目撃。おまえが待つ間。操短から。ミンラウド時間で。破裂脊椎の白虫体液噴出目撃―肉のセックス機器。ムカデペニス。灰紫肉から昆虫ヒゲ。サソリ人間の。生首。下水タンクで。緑ウンコ喰いながら。ミンラウド水族館で。ミンラウドボックス。ムカデ座の下に。」(バロウズ「柔らかい機械」P114)

昆虫は、あらゆる生成変化が分子状であるという真理を伝えるのに鳥よりも適しているのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「ミル プラトー」P354)

ノーマンメイラーがいみじくも明晰かつ鋭敏に指摘していたように―
バロウズは一個の時代が生んだ「天才」なのだろう。
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