カテゴリ:ブライアン ジョーンズ( 2 )

★ローリングストーンズ
個人的なはなしからはじめてみる。
初めて買ったレコードはローリングストーンズだった。
忘れもしない雨の下北沢の夜―Flash disc lunch<フラッシュディスクランチ>―階段を上って狭い店内に入ると、膨大な中古レコードに囲まれて、鬚づらでカラフルなタイダイTシャツを着た長髪の親父が不機嫌そうな顔をして、坐っていた。
湿気の匂い、ところ狭しと並ぶ正方形のレコード盤と角の擦り切れたジャケットの放つとじこめられていた60年代当時の空気が店内に充満していた。居心地の良い匂いと空気にかすかに酔いしれて、ご自慢の動きでシャカシャカと盤を高速スクロールさせていると、ふと眼に留まったレコードがストーンズ5枚目の古いアルバム「December's Children<ディッセンバーズ・チルドレン>」だった。それは、まだブルースをやっていた頃のストーンズで、モノトーンの簡潔なジャケットに心魅かれた・・・COOLだと思った。

そして、今、このアルバムを、見返してみると(Flowersでの葉のないブライアンFlowerとは対照的に)当時のストーンズのメンバーの力学を示唆するものが内在しているように思われる。

以下にアルバムジャケットをみてみよう―
a0065481_3393232.jpg

壁の奥の方に据えられたカメラから撮られた写真らしく、両側から壁が鬩ぎ合い、画面の中央までその壁が続く。壁の影から出来る黒い部分が大きく、中央の壁の合間の20パーセントほどの空間にメンバーが集合しており、一番前下にブライアン、それから立ち姿のキース、ミック、チャーリー、ビルと順に交互に並んでいる。人の大きさはブライアンが一番大きく映し出されていて、それから立ち姿のキース、ちっちゃく顔をだしているミック、そしてさらに合間を縫って配されるチャーリーとビルの顔。ここでもっとも眼が行きやすいのはキースだろう。なぜなら彼は中心に「立って」いるからだ。他のメンバーもまた立っている。ブライアンは前方にいるのだが、あくまで「坐り」、物思うポーズをとっているので、視線を下部へと移行させなければならない。しかし左壁から中心に向かって、集中線が一本描かれており、その集中線に注目するとブライアンに行きつく。そしてこの線がアクセントとなって、最終的にブライアンの印象を強めている。つまりこうだ。最初キースへ行く視線は、のちに各メンバーを経巡り、そしてブライアンへと行き着くと、ブライアンの視線と壁から引かれた放射線によって、視線は立ち返されるのである。ブライアンはそこにいる。そして鋭く鋭角的に見るものと対峙するのは、ブライアンだ。なぜなら、彼は一人「坐って」おり、他のメンバーが親しげに寄り集まっているのとは対照的に、孤立した孤高を放っているからだ。このように見ると、このアルバムというのはブライアンのアルバムだといえないだろうか。つまり、これはうえにずらずらと立ち並ぶ他のメンバーが一人坐って思考するブライアンの方法論の亡霊のようにも見えてしまう。彼らはまるでブライアンがつくりだしたように―すべてはブライアンの思念と思考の賜物としての初期ローリングストーンズ・・・そして何よりストーンズはブライアンが創始したバンドであり、初期のリーダーだったのである。

★ネットページより

★「ブライアンはいままであったやつの中で最高のやつだった」キース リチャーズ
                 
★「ブライアンは誰よりも高い理想を抱きながら生きていた」ピート タウンゼント

★「ブライアンなしではストーンズはありえなかった」ビル ワイマン


a0065481_22434190.jpg

★フライヤーよりの引用
以下フライヤーより引用―

1969年7月3日、イギリスのBBCはこう報じた―
「ローリング ストーンズのギターリスト、ブライアン・ジョーンズが、自宅のプールで死体で発見された。享年27歳(ちなみにこの27歳で死んだロックアーチストとして、他にはジミ・ヘンドリックス、ジム・モリスン、ジャニス・ジョップリン、カート・コバーンがいるらしい)」1963年のデビュー以来、世界最高の怪物ロックンロールバンドとして君臨する”ローリング・ストーンズ”の創始者であり、リーダーでもあったブライアンジョーンズ。その天才的な音楽性豪華で大胆なファッション不思議な魅力、そしてセックス、ドラッグ&ロックンロールを体現した彼は60年代のアイコンだった。事件当時彼の死は酒とドラッグの影響で偶発的に溺れ死んだと公表された。しかし、真偽については憶測も含め多くの説が浮かび上がっていた。
本作は10年以上の歳月をリサーチに費やし、彼の死に対する著書、検視官の調査結果、関係者の証言、さらには死の当日現場にいたストーンズのマネージャー、トム キーロックなどをコンサルタントに招き、ついに”他殺説”という衝撃の”真実”を暴き出す。
一体ブライアンに何が起こったのか?カリスマ性を極めた絶頂期に「俺たちはビートルズになる気はない。」と宣言。ストイックに音楽を追求しはじめたブライアンは次第にバンドから孤立し、予想だにしない結末を迎える。60年代という華やかな時代性を忠実に再現し、”死の真相”をサスペンスフルに描く一級のエンターテイメントに仕上がっている。
a0065481_22441833.jpg


★物語
最初に描かれるのはブライアンのプールでの死体映像で、これをブライアンの看護婦であるジャネットが見つけ出すシーン。それから過去のセックス・ドラッグ映像の鮮烈なフラッシュバック―物語はこの死の解説の形で、麻薬問題でストーンズの米国ツアーから干されたブライアンがロンドン郊外に(くまのプーさんの原作者AA ミルトンが以前住んでいたという)プール付き家を買って隠遁生活を始めるところからはじまり、そこにストーンズのやり手マネージャーであるトム キーロックが家の改築師で世話役のフランクをつれてくる。中心軸として描かれるのはブライアンとフランクの<主人=奴隷>の関係であり、フランクが左右不対象―キリスト教のいわゆる忌まわしきものの象徴―の片目の義眼であることも含めて、物語構造的にはありふれたものであり、どこかヒッチコックを思わせるところもある。ブライアンにはスゥエーデン人の愛人アンナがいるが、二人の関係は消費に傾き、ブライアンが本当に愛しているという風ではない。そしてフランクに、消費物のような女の子ととっかえひっかえセックスするところをうかがわせ、改築作業でようやくたてたレンガ壁のいやがらせ的移転を命じ、アンナとのセックスを餌に腕立て伏せをさせたり、降りしきる雨の中で排水溝の蓋が外れたといって自宅でくつろぐフランクを呼び寄せたり、と殆ど家畜なみの扱いをする。フランクはそれでも金と引き換えにそれらの仕打ちに耐える。フラッシュバックで語られる映像では、ブライアンには以前「ロンドンで最も美しいカップルともてはやされた」彼女アニタがおり、SMをし、一緒にドラッグをたべ、中近東のエキゾチックな映像の中で愛し合うのだが、ブライアンの麻薬への耽溺がたたって二人連れ添ってのモロッコ旅行の際に愛想を着かされてしまう。と同時にキースへと彼女を譲り渡してしまう。何故かと言えば
実験
だという。そしてある日ブライアンが他の女の子と3Pしているところをアニタに発見され、4Pへと引きずり込もうとするが、アニタは怒ってそれを拒否する。ブライアンはここで決定的に彼女と亀裂を走らせる。アニタにはブライアンの実験が狂ったものに見える、あるいは理解できない。

米国ツアー終了後のストーンズのメンバー一行がこのブライアンの家を訪れて、決別を告げられる。
「スタジオでも練習に参加せず、曲も覚えず、曲も書こうとしない」
ブライアンを見限った恰好だ。だがブライアンはまったくそれに悪びれる様子もない。その後ブライアンは<奴隷=主人>の関係は残るものの―寂しさからだろうか―フランクとの関係を深めてゆく。フランクはアンナの持つマリファナを取り上げ、ブライアンの管理に意欲を見せ、一緒にゲームをし、フランクの不手際から水のなくなったプールに電子オルガンを持ち込んで演奏し、時にはドラッグをたべ、楽しくも危険な魅惑の時間を過ごす。が、一方でブライアンの浪費はひどく経済事情は悪くなってゆき、フランクへの支払いが契約よりも少ないものになってしまう。映し出される女の嘲笑―やや不均衡で、あまりよい主人とはいえないブライアンとの<主人=奴隷>の関係の中で、フランクの雄としての鬱屈した怒りが蓄積される。そして支払いの少なさから、ブライアンに鬱屈した怒りを爆発させると、いきなり首を通告されてしまう。しかしその日の食事は作らされ、一緒につくる看護婦ジャネットの食べる料理に、以前アンナから取り上げたマリファナを混入させ、酔っ払わせて、セックスをしようとする。が、これも不首尾におわる。鬱屈した欲望を持て余したフランクは、ついにプールへと飛び込み、先に泳いでいたブライアンの足を掴んで水の中に引きずり込み、溺死させてしまう。そして最初のシーンへと戻る。

最後に映し出されるハイドパークで行われる50万人の追悼コンサート。
フランクは
「ブライアンがいてもいなくても、ストーンズはかわらない」
という。
フランクの目の中に照らし出されるプールを前にファッショナブルな水着を着た女の子に囲まれるブライアン、そしてやり手マネージャーのトム キー ロックとの対話。

トム「すべては君(ブライアン)がつくりだしたものによって、君は死んだんだ」

トム「君は幸福を知らない」
ブライアン「いや ぼくはそれなりに幸福だったさ 
でも―
幸福は退屈だ

そしてブライアンの不敵な笑いによって、 映画は終わる―

以下「2」へと続く―

「2」はこちら
「1」はこちら
a0065481_1465390.jpg























 ★解説
まず映画解説のまえに60年代は現在とは異なる時代だったこと、は踏まえておこう―
それは現代とは異なった「価値観」や「文化背景」の時代でであり、そういった価値の座標軸に対して、ストーンズや、ロックがあったと見るべきだ、と思う。つまり一方に、今よりはいくらか強固に価値を結ぶメインカルチャー、従来の伝統的な思考があり、そして一方に、それらを「実験的」に、「分解」し、「解体」してしまおうというカウンターカルチャーがあり、それらが激しくせめぎ合っていた時代―

この映画に閉じ込められ、そして人々に物語や表現され得たもの以上の、「なにか」を与えるものとはこのせめぎ合うもの―ひとことでいえば「時代精神」じゃないだろうか。たしかに―上記の物語に見たように、ブライアンは「特定の女と寝た」、「愛を交感した」、というよりは、まさに「時代と寝」、「時代と愛を交感した」、そうしてそうすることによって、「時代精神」を体現しえたのである。では「時代に寝た」っていうのはこの時代においてはどういうことかっていえば、つまり「実験」に身を捧げたんだと思う。そしてその「実験」は結果的に悲劇的な結末を生むものだったんだけど、が、しかし、この実験というのは、彼が作ったグループである「ストーンズ」も含めて、確実に現代社会を変革してしまうようなプログラムではあったといえるのではないだろうか。現在の視座からこの映画を眺めてしまうと、彼はある意味では非常にバカなことをやったようには見えるし、その遣り方は子供じみていて、粗雑でわがまま放題だったのだろうけれども、これは当時の状況を鑑みればいたしかたないことであったように思う。そこにはあの時代が孕んだんだろう反抗の熱気が、別のいいかたをすれば、カウンターカルチャーがカウンターカルチャーとして機能しえた時代の熱気が、そしてそれに伴う過剰の力学があったのだろうから―(やっぱり歴史的な映画や、古い映画を見ることの難しさというものは、現代とは違う価値観、違った文化背景、違った表現の座標軸に対する表現の意味が汲み取れないことにあって、そういった違った座標軸を現在から解釈するのはとても難しい作業なのである)例えば、この映画に対するレヴューはこういった時代的な座標軸を多くは見誤っている。ブライアンはバカでもニヒルでもなければ、ストーンズに捨てられたのでも、自らが墓穴を掘ったわけではない。もう少しブライアンに寄り添った解釈をしてみれば、ちょうどさかさまにブライアンはそうなることを全て見越していたように見える―「ニヒル」に見えるのだとしたら、それはブライアンの表現がその感覚生活で獲得したものを表現し切れないというジレンマのせいだろうし、ストーンズに「捨てられた」のではなくて、大衆化したストーンズにブライアンが興味を失って、「捨てた」のだろうし、墓穴を掘ったのではなくて、こうなることを直感によって最初にプログラムしていた、ようにと思う。孤高の天才―ストーンズのメンバーの誰よりもはやく時代を駆けた男―そしてだからこそ、最後のセリフ―「すべては君(ブライアン)がつくりだしたものによって、君は死んだんだ」は「幸福は退屈だ」と、不敵な笑いは意味を持つのだ。墓穴ではない。それは、ひとつのプログラムの起動だし、言葉と情念のウィルスを、そしてなによりローリングストーンズというプログラムを社会に放ったのだ。それだからこそ、わたしたちの暮らしているこの社会は砕け散ったカウンターカルチャーの内包されたものとなったのではないだろうか―
a0065481_1473667.jpg

























ラストシーンでのブライアンの不敵な笑い―あれは、たとえば「時計仕掛けのオレンジ」のアレックス同様に、未だにウィルスを撒き散らしているカウンターカルチャーのアイコンなのである。

★未来のヴィジョンの終焉
ちょっと視点を変えてみると、この映画は「今の東京の気分」を背後から補足しているものだろう。例えば川久保玲のコムデギャルソンや、ヒステリックグラマー、あるいはアニメやデザインに見られる60年代テイストや、フリーセックス、ドラッグやロックといったものは現代若者文化、東京POP大衆文化のアイコンとなっているし、そんな「東京の今」を、少しだけ拡大させたもの、オシャレ映画として消費されるのだろうなぁ、と思う。もちろん、これらは、当時の素朴な異議申し立てを、COOLになぞってしまうことによって、模造品的なもの、非常に数字的なもの、エコノミックなものになってしまっていることは否めないのだろうけれども―それでも今を生きるしかないような、わたしたちにとってはなにかしらの感覚的、趣味的、あるいは文化(分化?)的アイデンティティを満足させる消費ブツなのだろう―そして、それというのは同時に文化のアイコンの再生産、つまり前衛というものが循環LOOPとなり、スクリーン板に様々な要素がコラージュ、カットアップされるかたちでの再生産としてしかなくなって、一方向の未来のヴィジョンが終焉しているいうことを意味しているんだろうなぁってあらためて思いました。

★YES
―以上のようなわけで、個人的には
この映画を―
ブライアン・ジョーンズを―
肯定したいとおもいます。

つまり―

YESです。

そして―

VIVA BRAIAN!!!

a0065481_213239.jpg

←menu