カテゴリ:ミケランジェロ アントニオーニ( 1 )


欲望

1967 イギリス・イタリア
監督/ミケランジェロ・アントニオーニ 
原作/ジュリオ・コルタザール
音楽/ハービー・ハンコック
出演/デヴィッド・ヘミングス 
ヴァネッサ・レッドグレーヴ 
サラ・マイルズ 
ジェーン・バーキン

◆イタリア人監督ミケランジェロ・アントニオーニの有名なカンヌ受賞作。タイトルの写真(上の写真はやや小さくて見にくいのだが)は有名で、スゥインギンロンドンイコンひいては60年代文化イコンという感もあるし、雑貨屋などで映画は見ておらずとも、このポスターは知っているという人も多いのではないだろうか。作中ではこれは性の暗喩となっていて、 タイトルの「欲望」を暗示している。作中でもこのポスターの女に跨る主人公のカメラマンの男の欲望の生成と消滅過程が描かれる。
a0065481_17593424.jpg

◆結論から先にいってしまえば、この映画というのは「欲望」を描きながら、その描いて見せた「欲望」を宙吊りにしてみせているという点で優れた同時代批評となっているのではないだろうか。メカニックでファッショナブルで華やかな欲望渦巻く都市消費文化を描きながら、そこに溺れずに冷静に冷めた視点から俯瞰しており、サスペンスフルな展開とあいまって、映画でしか表現できない表現を追及しながらも、それのみに終わらない批判性あるいは知性がある。
a0065481_1801863.jpg

◆また作中幾つか不条理としかいえない抽象的な謎を振りまくシーンが挿入されているのも特徴的で、これらはいずれも欲望の儚さを象徴しているとおぼしい。これらのシーンの不条理さによって、この映画は宙吊りになる。印象的な不条理シーン以下4点。

1、アンティック屋で欲望のままに衝動的にプロペラ買うシーン。それはその後の展開とはまったく繋がりを持たない。

2、ライブハウスでヤードバーズ(レッド ツェッペリンの母体となったバンド)を見、バンドのメンバーがギターを破壊、そのギターの折れたヘッドの部分を主人公はファンとの競争のすえ手に入れるのだが、ライブハウスの外にでると、いとも簡単に捨ててしまうシーン。

3、自分が撮影した写真のなかに死体を見つけ、急いで撮影現場へ戻ると、本物の死体が転がっていて、家へ戻るとその写真がなくなっているシーン。

4、見えない球でテニスをする奇妙な道化の集団が現れしばらくプレイをする。やがてボールはコートから反れていってしまう。主人公はその見えないボールを拾いに行く。すると芝の上で突如主人公が消滅してしまうラストシーン。

これらの不条理な抽象性が意味することとは以下のようなことだと考えられる。

テクノロジーとモードに囲まれた社会の中で「欲望」というものと「価値」というものは「透明なエクスタシー」でしかなく、それらは極限的にはフィクショナルな領域外部で消滅してしまうものであるということ。つまり「価値」と「欲望」というものは實は空虚で透明なものであり、それは不条理で無意味であるということ。
たとえば1におけるプロペラの購入はこういった不条理な欲望の滑稽さを意味し、2においてはそれはライブハウスの中でしか価値のあるものではないことを示唆しており、3においては死さえもがテクノロジカルに消滅した現代社会の空虚な透明性を揶揄しており、最後の4においてはコートからそれた透明ボールとは価値そのものであり、コートからそれてしまった途端に無価値なものとして消滅してしまうことを表現しているのではないだろうか。

◆社会の価値、スウィンギンロンドンの価値、それからモードの価値いづれもが作中そうとはなくいずれも宙吊りにされ、消滅的なニュアンスを含んで表現されているということは、スウィンギンロンドンの時代舞台の華々しさ、ヤードバーズがあらわすロックとカウンターカルチャーの喧騒へのCOOLな視点、COOLな造反表現なのであり、この映画はそれらを一見華々しく描いているとみせながら、批判しているのである。

◆60年代が野蛮で若い狂騒だけではない、こういった知的な視点も持ち合わせていたという時代だったことを確認できるというだけでもこの映画を観る価値はあるように思えた。

◆高度消費社会へのアイロニカルな美学的昇華!
a0065481_1803696.jpg

←menu