カテゴリ:マシューバーニー( 1 )

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◆Mathew Barney
まず簡単なMathewの解説から-
1967年のサンフランシスコ生まれ。38歳。現在ニューヨークの「ミートパッキング(肉の包装)」地区にアトリエをもつ。89年イエール大学で医学を修めた後、美術と体育を学ぶ。91年サンフランシスコ近代美術館での新作個展を23歳の若さで成功させ、活発な活動を展開。早くから高い評価を得る。近年は体の内と外で起こっていることをテーマにしたビデオ作品「クレマスター」をシリーズで制作。自らが出演するビデオ作品のなかで用いた彫刻のインスタレーションなども発表している。93年ヴェネツィア・ビエンナーレのアペルト部門で受賞。現代アートのファンタジックなカリスマの一人。ちなみに妻はミュージシャンの「BJORK

◆CREMASTER(クレマスター)
Cremastar(クレマスター)とは精巣のこと。
「クレマスターシリーズ」は、場所、登場人物、衣装、小道具そして物語という映像を構成する全ての要素が、生命体の発育プロセスを描き出している。万華鏡の様に変化する映像は、スポーツ、医学、生物学、セクシャリティー、歴史、神話学といった様々な分野から引き出されたメタファーとして繰り広げられ展開する。コスチュームプレイ的なフェティッシュな仮装によるメタモルフォーゼ(変容)と肉体を捉える生物学的視座、他生物とのハイブリッドが特徴か。「オナニスト」でもあるらしい。

◆Drewing Restraint(拘束のドローイング)
「抵抗力とは発達に不可欠なもの、創造性の媒体として提示するものである」(バーニー)
身体に拘束、抑制を与えてドローイングを行うシリーズ。筋肉が抵抗や負荷を与えることで増強する仕組みに想を得て、拘束やそれに対する抵抗が発展の大前提であり創造の伝達手段となると定義。科学知識やスポーツ、医学などからのアプローチ、パフォーマンスや映像、写真、彫刻などメディアの重層的、多様的な使用が特徴で、身体や身体内の活動、身体の変容、エネルギーの問題を主題にこれまで8作品がつくられている。

◆Drewing Restraint9(拘束のドローイング9)
金沢21世紀美術館がサムソン美術館と共同企画で催された展の一環として製作されたもの。展では彫刻、ドローイングが展示されたようだが、今回見たのは映画に近い映像作品のみで135分。展は後にソウル、サンフランシスコと巡回した。
この映画はミュージシャン、アートリンゼイとのコラボレーションである「デ ラマ ラミナ」のエロスを底流としてもち、シリーズ中最も物語性の強いものらしい。また鯨と捕鯨船という二つのエネルギー源をめぐる循環としても読めるようだ。

◆フィールドエンブレム
作中「フィールドエンブレム」が登場する。解説以下-
「フィールドエンブレム」は拘束のドローイング1から使用されているマーク。拘束自体が創造のエネルギーとなるのではないかという上述の考えの象徴。棒が抵抗であり、楕円は身体を意味している。そしてこの「9」ではそこに鯨の絵が描かれている。

◆簡単なストーリー解説
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舞台は出雲だろうか、神社が登場し、神々しく神秘的な日本のイメージ。白塗りの建物、石油精製所で阿波踊りの隊列に先導された鯨の潮吹きを思わせる青い突起状装飾で飾られたタンクローリーが捕鯨船「日新丸」の脇に止まる。タンクの有機的液体ワセリンは船上にある巨大な鋳型に流し込まれ、船が南極に向けて出港するなか「フィールドエンブレム」の形を形成してゆく。神社の前に坐るビョークが登場、小船に乗り「日新丸」と合流。二人はまだであってはいない。マシューは日新丸内でビョークを求め彷徨う。船内ではファイアーエンブレムのゼラチンが工員に食される。マシューはふと迷い込んだ一室でヒゲを剃られる。さらに和室の部屋に入り、畳で眠り込んでしまっていると、こんどは頭を「ちょんまげ風」に刈られ、さらに眉毛もそり落とされる。ビョークも別の部屋で同様に眉を剃られ、頭を日本髪に結われる。後に二人は毛皮の袴振袖を纏い、背に巻き貝を背負い、骨の草履を履いて、部屋を出、控え室のような白い一室で出会う。そして船内に設けられた茶室へ、アンモナイトの柄杓、鮫皮の袱紗、ショートの法螺貝のような茶碗で茶をのむ。
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そのころ工員によって「フィールドエンブレム」の解体作業が行われる。エンブレムの中心バーが切り離され、竜涎香が間に流し込まれる。亭主は客であるマシューとビョークに「日新丸」の傷を話す。船は不幸を帯びた生物であって、鉱物機械ではない。そののちに「もののあわれ」が説かれる。それから亭主が下がり、二人は寄り添う。するとワセリンの塊で部屋は膨張してゆき、二人を取り巻く恰好となる。二人は庖丁を取り出し、そのワセリンを切り裂き、同時に下半身を斬りあう。足はワセリンの中で切り裂かれ、肉を剔抉されてゆく。この手立ては鯨の皮剥ぎ職人のそれが遵守されているらしい。そこで鼓にのった以下のような謡いが流れる。
破の破
四 肌に切り込む共感ナイフ 女が男を切り取れば、男は女を解体する
抵抗解ければ内心現る
破の急
五 船と主人の西洋客人 生みの苦しみ血を伴うも
大経綸の条件なるか 一こま一こまにすべてあり

六 血潮の熱き陸棲客人 目指せ南海 息吹き新たに 南極の主人
船も誇らか 客人鯨は帰り行く

やがて二人は切断した肉の破片を食べあう。切り落とされた足の部分からは尾が出現し、背中には潮吹き穴があらわれる。二人は哺乳類である鯨へと退化してゆく。
海女があらわれて口から真珠を吐き、吐き出した真珠が海の中で形態を結ぶ。コンクリートの岬がひび割れ崩れ落ちて、終わる。
                   
◆印象と感想
ぼくにとってこの作品は多くの読んできた文脈と符号する。まずキューブリックの1、「2001年 宇宙の旅(以下2001)」との符号(物語構造と進化、道具の暗喩性)、それから2、「ダナハラウェイ」の哲学との符号(人間中心主義批判)、SF映画、ホラー、シュールレアリズムなどとの符号であって、非常に同時代的なものの総合の印象を強く受けた。以下追って2つの符号を見てみよう。
 
1、「2001年宇宙の旅」との符号(物語構造と進化、道具の暗喩性)
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冒頭の石油精製所にせよ、日新丸の船内の風景にせよ、ワセリンにせよ、色彩で印象的なものは「白」であって、その色彩が日常的な未来空間を思わせる。白は「2001」では宇宙船の外観と内装の色彩であり、精子のメタファーとしてのスペルマを想起させる色彩であり、同時に最終シーンでの部屋の色彩であり、つまり未来表象に夥しく用いられた色なのである。「拘束のドローイング 9」(以下CR9)においてこの白によって表象されるもの、あるいはこの映画によって表象されるものとは「崩れ落ちた2001年の天蓋」というべきであって、「2005年」に製作されたこの映画は「日常に接続された未来とSF」といってもいいのではないか。「2001」でまだ飛躍的に気負って、かつファンタジックに模索された未来はこの映画では日常に溶け込み何気ないものとして描かれている。それは西洋近代文脈からしてみれば異化された形で表現されているのである。つまりこの映画が西洋人の現実に突きつけてみせるものとは、未来(2000年代を含めて)というのは60年代に漠然と想像されていたような形で訪れるものではなくて、むしろ今日において、奇妙な世界(日本)として日常に内包されているものなのである、ということであり、さらにいえばそれらはファンタジーでさえないのである。SF作家ウィリアム ギブスンはあるインタヴューの中でいっている。
「現在という時代というのはこの上なくファンタスティックになっていて、ファンタスティックな未来を想像する必要はないのです。」
つまりそれはファンタジーという名の日常ということに他ならない。
さらに「2001」との相似は色彩のみにとどまらない。南極を目指して旅立ち、大海原を航海する捕鯨船は、荒野をゆく人工空間として、そのまま2001年で宇宙を彷徨う宇宙船とトレースされるだろうし、その機械環境内部である種の進化的飛躍(2001年ではHALの暴走から新人への移行過程、CR9ではワセリンの中での肉体破壊と変態(メタモルフォーゼ))、それから「2001」のモノリスとCR9でのフィールドエンブレムの神秘的な象徴性はほぼ同一のもの、換骨奪胎したものとみられる。いずれにせよ現在38歳であるマシューが「ポスト2001世代」といってもいい世代であることはまちがいないだろう。

2、ダナ ハラウェイの哲学との相関性(人間中心主義批判)
ダナ ハラウェイDonna Jeanne Harawayはカリフォルニア州立大学サンタクルス校の意識史専攻課程の教授。生物学的フェミニズムで知られ、「サイボーグ宣言」(1985)がセンセーションを巻き起こした。宣言の中でハラウェイはサイボーグの創出を「三つの重大な二項対立解体明示」として描出しているのだが、これらはCR9の表現と底通するものがある。

1、アメリカの科学文化においては、二十世紀後半までの時点で、人間と動物との間の境界がみじんもなく解体されたこと。独自性を守る最後の牙城は、遊園地と化したとはいわないまでもすっかり汚染されてしまっている。言語にしても道具の使用にしても、あるいは社会的行動や心理的事象にしても、人間と動物の区分を決定的に保証するものは何もない。(中略)サイボーグが人間と他の生物の間を壁で隔てるわけはない、むしろ不気味ながらも心地よく、両者の確実な融合を象徴する。やがて獣性の概念そのものが、このような融合・交換の循環を経たことにより、まったく新たな意義を帯びていくこと。

、第二の区別は、すでに予想されるとおり、動物-人間(有機体)と機械との間に引かれる。(中略)二十世紀後半の機械は、自然と人工の差異はもちろん、精神と肉体、自己開発と他者依存の差異を、要するにこれまで機械と生物の間に適用されてきた差異のすべてを、ことごとく曖昧化してしまった。現代の機械は不気味なほど活力に満ちており、むしろ人間のほうが不思議なほど活力を欠く。

マシューの作品を通底しているとおぼしきコスプレちっくな変態(メタモルフォーゼ)は時にマスターベンションといった恍惚と超越の行為を内包しながらも、こういった二項の融合、変態へ向かうものであり、アートリンゼイとのコラボレーションである「デ ラマ ラミナ」においてはトラックという無機的機械への、そしてこのCR9では鯨という哺乳類への退化であり、ここにおいてまさに「人間中心主義批判」がなされているものとおぼしい。マシューの表現領域は越境的である。東洋と西洋、男と女、人間と動物、人間と機械、美と醜などこれまで二項対立的に隔てられていたものが渾然と溶け合って、混在郷の血みどろの宴を繰り広げている。これは狂気や変態という言葉で片づけられるものなのか、というよりは、むしろ狂気や変態という名のファンタジーなのではないだろうか?

3、まとめ(その先のファンタジー性)
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1において「ファンタジーでさえない」と書いておきながら、ファンタジーという言葉をここで登場させるのはおかしいのではないだろうかという声が聞こえてきそうだが、日常の中にあるファンタジーのレベルでこの映画はやはりファンタジックなものである。それはどのようにだろうか?つまり「ファッション」の領域において。ファッションは日常における文脈の異化作用としてとらえられる。それから「フィールドエンブレム」から「拘束することによる肉体進化」といったコンセプトに至る「象徴性」と「科学」のレベルにおいて。なぜならファッションから科学や象徴性というものが意味するものとは、人間を超えたもの、進化の神秘に対する一貫した憧れだ。この視点から眺めれば3者は並列的な問いである。そしてこの視点から眺めれば、彼の表現の意味するところはこの世界は記号を日常とは違った形で攪乱すればいくらでも神秘があらわれるというシュールレアリズムの伝統そのものではないか。
彼の世界は神秘的である。それは人間の限界を超えんとする超人への試み、実直でひたむきな努力を感じさせてそうなのであって、それこそが以下の、人類に課せられた(ファンタジックな)問いを想起させるのである。

人間という種ははたして超えられるのだろうか

一貫してマシューにあるもの。それはヒトラーであり、ニーチェであり、あるいはジャリであり、オリンピックを背後からささえるものである。すなわち超人への飽く事の無い憧れとその実践なのであって、それがまた1のキューブリック的地平と文脈を同じくするのである。このようにして見てゆくと、シュールレアリズムの後継者にして、ニーチェの実践者としてのマシューの表現の連続性が見えてこないだろうか。要するにマシューとは西洋の人間の進化形の夢のひとつの結晶なのである。そしてわたしたちはマシューの表現に人間の神秘さとできる事の可能性を見るのだ。
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★蛇足 ビョークの音楽は可愛い。ファンです。ビョークとマシューはもってるオーラが似てる。ジェフくんとチョチョリーナよりどぎつく戦略的に見えないところもいい。それから工員の人の顔とか日本人の男の子たちとかはなんだかいつも生きている日常という感じだったけど、それがマシューによって異化されるのを楽しみました。あとファッションがとってもお洒落です。あんな服着たいっす。結婚のお祝い映画としても見れますね。祝!
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