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MDMA大全―違法ドラッグ・エクスタシーの全知識

MDMA研究会 / データハウス



☆はじめに―合法・非合法を問わないドラッグの問題
個人的にボクはお酒はかなり呑みますが、合法・非合法を問わずドラッグをほとんど摂取しません。(風邪薬、頭痛薬もなるべく摂らない、睡眠薬の類もしかり)だから、合法なものであっても摂取したときには、よく効いてしまいます。こういったドラッグに対する距離感のある身体意識からいえば、どうも合法も非合法もそれほど違いはなく、ドラッグはドラッグであり、脳内物質や神経伝達物質を組みかえる脳と身体のテクノロジーであり、程度の差や危険度の差こそあれ、その「作用」という点では似たようなものではないか?-と思います。それはつまり植物や化学の成分をかりて、頭痛や腹痛といった痛みを消したり、知覚の作用を別のものとする、「シュミレーション」であり、それが「シュミレーション」である以上、先日のアメリカの「マネー」の快楽的な濫用同様に、どうしても「過剰濫用」しがちなものなんじゃないかしらん―なんていう風に見ています。

ドラッグにまつわる社会的な事件をあげてみれば―

「マイケルジャクソンの突然死」は致死量を超える合法的な睡眠薬の処方でした。

あるいは「薬害エイズ問題」はドラッグの取り扱いに対する政府の判断の誤りが問題となりました。

ドラッグはそれを処方する医師さえ無知なまま過剰に濫用されつづけている。こういったことは非合法とよばれるドラッグにたいして、さらに猖獗を極めているように見えます。ウィリアム バロウズではないですが、本書を読むかぎりにおいて、ドラッグの問題はやはりその服用量とアメリカ、ヨーロッパ、日本を問わず法的規制をする権力―つまり、わたしたちのなかの「マジョリティー」―の判断の問題ではないかと思わされます。

そして今回とりあげた、この違法薬物MDMA、エクスタシーをめぐるおおくの誤解やマスメディア的イメージは「洗脳」といってよいような絶対的なちからでわたしたちの判断をみちびいています。でも―でも本当のところはどうなのでしょうか?MDMA、エクスタシーはそんなにいけないドラッグなのでしょうか?

ここでは、本書を追うことによって、ドラッグにたいする偏見や「悪いものは悪い」「人間やめますか、ドラッグやめますか」といった強権的な見方を捨て、時代背景をふまえたおおきな枠組みから、週刊誌的な「人間性」にもとづく情念的なものではなくて、社会構造的な「理性」として冷静に考えてみましょう。

☆エクスタシー(MDMA)は「セックス」のドラッグではなくて、「共感」のドラッグです。
「MDMAの作用には男性の攻撃性を排除する傾向があるようで、その結果として官能の高まりは強くなるようですが、単純な性欲からは遠ざかってしまうようです。つまり、MDMAの使用と性欲は両立しない種類のものだといえるのです。」(本書P100より引用)

つい先日も俳優の押尾学が「エクスタシーの不法所持」ということで逮捕され、「のりぴ~事件」とともに芸能界の一大スキャンダル、薬物汚染ということで今なおマスメディアをさわがせています。エクスタシーはその名から連想されるように「ラヴドラッグ」だ―とさかんにいわれていて、セックスのためにつかったということがセンセーショナルに報道されていますが、これは誤った知識にもとづいています。

エクスタシーはセックスのための媚薬ではありません。

この本でくりかえし書かれているように、エクスタシーとはその名前とは裏腹に、性的な欲望を高めたり、強めたりするものではないのです。(セックスはおうおうにして、ひどくわかりやすいステレオタイプの馬鹿げた「スキャンダル」イメージを誇張するものであって、この事件を通じて、日本のマスメディアには本当の意味での客観性と知的公正性の概念が欠落していることがよくわかりました。日本のメディアはあきらかに「市民社会的」なもののとらえ方の中ではなくて、「封建主義的」なもののとらえ方の中にいます)

本書によると、エクスタシーの効用のもっとも大きなものは、

「シンクロ二ティ―同期、同調―」


すなわち、

「共感すること」

ということです。それはストレスと隔離の社会のなかで、見失われがちな本質的な「愛」と「官能」-それらはおそらくプルーストの小説のように中性的なものでしょう―の気分を高めてくれるドラッグであり、かんたんにいえば、「愛」と「官能」というのは、エクスタシーの効用さながらの、「共感すること」「よりそうこと」のなかにあります。たとえ、セックスがそのあいだにあるとしても、セックスは単に媒介的な行為、過程であって、目的ではないんじゃないでしょうか?ですから、押尾容疑者はドラッグに対する知識を欠き、使用の目的とをとり誤ったという意味で「バカだなぁ~」と思うし、この事件は死亡した女性や妻子もふくめて、「哀しい悲劇」だと思います。なぜって―だって、彼らは時代をやっつけようとして、時代にやられちゃったからです。時代の英雄のつもりだったはずが、時代のスケープゴート(いけにえ)になってしまった―。

それでは、以下、この本を解説することによってエクスタシー(MDMA)がどういうドラッグで、どんな効果と副作用をもち、どんな歴史で生まれ、どんな風に人口に膾炙し、拡がり、そして法の規制を受けるようになったかを検討してみたいと思います。

☆MDMAがひろまる社会的背景について
MDMAにかぎらず、クリントンやオバマ大統領がドラッグ体験を告白していたように、欧米ではドラッグと民主主義社会は密接なかかわりがあります。これはとりなおさずも、日本が規範とする欧米のPOPな政治や音楽、芸術、写真、文学、ネット―といったいわゆる「POPカルチャー」が、もちろんすべてではないにしても、ドラッグ文化と密接にかかわりあっているということを示唆しているように思います。この視点からみると、日本はその意味で「アンビバレント」―つまり両義的なところがあります。というのは、とてもおおくの、「POPカルチャー」を、欧米から輸入し、それを享受しながらも、無菌的な場所で消費し、組み替えなおしてしまうからです。そうして本来、共感のためのツールとして機能した文化が複雑なものとなって、細分化され、おたがいを隔てるものになってしまうという悲劇を生んでいるように見えます。

日本においても、MDMAがひろく人口に膾炙し、蔓延する背景にはこういった複雑さをきわめた価値の状況、社会の状況があって、そこにとまどう現代人の心理生活があるのだと思います。

こんなに情報にあふれた社会のなかで生きる現代人が、
「なんだか、わかりにくい世の中だなぁ~」
―という感想をいだいて、社会の中での疎外感を感じ、MDMAにある明快な共感の悦びを見出したとしてら―あんがい、MDMAはわたしたちの不足を埋め合わせる社会的機能を帯びているのかもしれません。マーケティングでもそうですが、時代の欲望は時代に足りないと思われていたモノを求めます。合法・非合法を問わず、なにかあるものが社会に蔓延するということは、そのあるものが社会の不足や不安、不満を補足するという関係にあるからではないでしょうか?

つまり、現代社会の中で日々を生きるわたしたちは、

「共感」

―という感情を見失っているのであって、そういった感情を社会が供給しないのだとしたら、MDMAのようなドラッグがつねに人々の興味の対象となるのではないだろうかと思います。

☆MDMAの歴史
さて、それではここでMDMAの歴史について、すこしふりかえってみましょう。

本書によれば、厳密な正確さは欠くものの、MDMAはいまからおよそ100年まえの1912年ドイツの大手化学メーカー「メルク」社によって開発されたようです。そののちMDMAは開発されたものの、どう使ってよいのかわからないまま、いちど歴史の流れから忘れ去られます。そして、65年後の、1977年に、もういちどアメリカの化学者アレキサンダー シュルギン博士によって、その効力の再評価をされ合成されます。そのときシュルギン博士はこのドラッグのもたらす「多幸感」「共感」の作用に着目し、対人関係の改善のため、臨床心理学者や精神医学者、サイコセラピストに紹介します。MDMAはもともとセックスのためというよりは、「セラピー的」な使用のされ方をしていたんですね。やがてMDMAはアメリカ南部テキサスの若者やドラッグ好きのアンダーグラウンドの人々によって使われはじめて、あっという間にひろく人口に膾炙されるようになります。やがて、MDMAはヨーロッパへともちこまれはじめます。これには2つのグループがおおきな働きをしたといわれています。1つめは、インド人宗教者「バグワン・シュリ・ラジニーシ(和尚・ラジニーシ)」を教祖にする信徒「サニヤシンたち」、もう1つはインドの「ゴア島」という島経由で「ヨーロッパのヒッピーたち」です。そしてこの2つのグループによって、ヨーロッパにエクスタシーがもちこまれ、ウェアハウスという(DJのりぴ~が陶酔した画像が広がっていましたが)、トランスミュージックとMDMAのコラボレーションの図式が生まれ、これがのちのレイブパーティーへと発展してゆき、日本にも伝わるようになります。日本では、レイブパーティーを介してMDMAは広く認知されるようになったようです。

☆肉体の否定と精神性の高みへ
こんなふうにMDMAの歴史を見てみますと、2つの傾向に気がつかされます。

1つめは「セラピー的」な「精神療法」との関連性で、もうひとつはラジニーシの宗教団体やゴア、レイブといったインド的といってもいいかもしれませんが―「宗教」「スピリチャルなもの」との関連性です。

ドラッグにはまることになった酒井法子や押尾学が好んだファッションがインド的な影響が強かったことを思い出しましょう―これは偶然の符合ではありません。これらは実はいずれも「宗教的なもの―精神的なもの」と関連していて、社会的な肉体性と相いれないものを意味しています。マスメディアや週刊誌は競って、プライバシーをあばきたて、彼らの「肉体性」や「セックス」を強調することによって、わたしたちに「劣情」や「堕落」のイメージを植えつけようとしていますが、ちょうど正反対なことに、MDMAにあるのは「肉体性」や「セックス」ではなくて、「精神の高み」の方向性であり、今日の社会に欠けている宗教的な気分を盛り上げてくれるドラッグでもあります。

このことは本書にもあるように、教会の修道士や禅宗の雲水がエクスタシーのなかに、修行によってもたらされる「精神的な恍惚」を発見していることにも見出されます。以下にその意見を引用してみましょう。

☆キリスト教 ベネディクト会の修道士
「わたしたちの祈りの目的は神とのコミュニケーションです。しかし、毎日の祈りにはさまざまな障害があるため、簡単には達成感を得ることができません。わたしはほとんどMDMAを使用しませんが、使用したときには絶対的な「神との絆」を感じることができます。この絆を毎日の礼拝でも感じることができるように修行を続けているわけです。MDMAは静かで空気の澄み切った場所で使用するべきです。また周囲にいる人々と「愛」を共有すべきです。そうしないと精霊的な領域へと達することはできません。またわたしはレイヴァーのような快楽主義者がMDMAを使用することに反対です。MDMAの体験は「神聖なもの」と考えるからです。」

☆曹洞宗の雲水
「MDMAは悟りへと至るための素晴らしい道具だと思います。ある雲水は非常に熱心に修行していましたが、一度たりとも悟りを開いたことはありませんでした。しかし、MDMAを使用してみたところ、彼の座禅から意気込みというものが消滅し、完全なる座禅に成功したのです。その体験のちの彼は大変な進歩を見せていて、現在も熱心な雲水として修行をつづけています。つまりこういうことだと思うのです。MDMAは座禅とは調和しない、しかし座禅は完全にMDMAと調和する」

☆MDMAの肯定的作用と否定的作用
どんなドラッグでもその作用には肯定面と否定面があります。MDMAの作用の肯定面と否定面とはなんでしょうか?簡単に見てみます。

☆MDMAの肯定的な作用
●ぜったい的な多幸感
●はげしい高揚感
●不安感の減少
●洞察力の深まり
●他人との肉体的接触の希求
●他人とのコミュニケーションの増大
●サイコセラピーでのトラウマの解消
●自我意識の強化
●肉体的運動への希求

☆MDMAの否定的な作用
●抑うつ状態をひきおこすおそれ
●薬理効果の終了後におちこむことがある
●薬理効果のあらわれる直前に胃痛、吐き気をもよおすことがある
●使用の翌日に二日酔い状態をひきおこすことがある
●エクスタシーの名称とはことなり、性的興奮をひきおこすことはない
●MDMAを使用した人体実験ができないため、潜在的な未知の危険性を知ることができない状況がある

                     「本書P38」より引用

そしてここにはありませんが、もうひとつ。

●他のドラッグと組み合わせて、効果が過剰になる危険性がある

―ようにも思います。

こういったことをあげてみると、その肯定面、否定面のいくつかの項目では酒―アルコールの「酔い」と似ているようです。酒―アルコールとその依存によって、年間相当数の死者がでていることは欧米、ロシア、日本を問わずに社会問題になっています。ただ、酒には歴史的に長く社会にとけこみ、それが「認知」されており、その作用のよいところも悪いところもひろく知られているのに対して、MDMAの酔いはあるジェネレーション以降に限定されがちなようです。それは限定のぶんだけ地下化した悦びになっており、マスメディアの過剰反応を引き起こす原因なようです。

☆その2へつづく―
by tomozumi0032 | 2009-09-01 23:40 | MDMA
☆その1へもどる―

☆MDMA GENERATION
60年代アメリカのLSDが代表的ですが、現代社会において、あるていど以上ひろまり、ポピュラリティーを獲得したドラッグはおしなべて世代の刻印、ジェネレーション的な感覚に強い影響をおよぼしています。

それは新感覚としてもてはやされる、さまざまなファッション―芸術―音楽表現につながっています。たとえば、曲線を多用したテキスタイルデザインやOP柄、蛍光色といった幻覚的なファッション感覚、あるいはOP ARTや自然主義的傾向の強いアールヌーボーのとらえなおし、それからポップ アートにみられるような芸術感覚、そしてジミ・ヘンドリックスやTHE DOORSやジャニス ジョプリンに代表される黒人・インディアンといった辺境のとらえなおし、「辺境と幻覚との融合」としてのカウンターカルチャー、サイケデリックミュージックなどは一大ムーブメントを巻き起こして、今日のわたしたちの文化的背景となっていることはよく知られています。これらの背後にLSDという大衆に広まったドラッグの力を忘れるわけにはいきません。こういった文化は、LSDと関係があるというレベルにとどまるものではなく、文化そのものがLSD体験の深い刻印を刻んでいると見るべきでしょう。

そして、MDMAもまたアングロサクソン大衆文化を先頭にして、ポップカルチャーを中心とした現代の文化背景におおきな影響を及ぼしていると考えられます。

わたしたちは平板化を旨とする資本主義社会に生きている以上、いずれにせよわたしたちの文化は有形無形や好悪を問わずとして、伝染の社会回路のなかを生きています。どこかはどこかに伝染し、感染し、そして表現され、表象化され、商品となってしまう。MDMAもまたそういった例に漏れません。中性的でアンドロギュノスなファッションデザインやインスタレーションや映像表現における「無国籍共感」の芸術、あるいは純粋、ピュアな「快楽」が着目されてポイントとなるエレクトリックなエクスタシーサウンドなどなど、現代社会をにぎわせるおおくの表現媒体のなかにはMDMA的なもの、エクスタシー的なものが内包されています。でも、これってすこし考えてみれば当たり前ですよね―だって、それだけおおくの人がドラッグ体験をし、感覚的な影響をうけているのだから、その感覚はどこかで表現に反映されてしまう。MDMAを摂取しない日本のミュージシャンにしてもしかり―MDMAを摂取した感覚の欧米のファッション、音楽、美術に伝染し、感染し、影響されるのだから、それはそうです。「「時代」や「世代」というマスカルチャー、大衆文化の影響を受けないわけがない」」―ちょっ普通に考えれば、そう思います。テクノロジーに浸り、テクノ・レイブカルチャーの影響をうけたファッション・音楽・芸術にかこまれて育った1970年代以降の世代である、わたしたちは「MDMA GENERATION」だといえそうです。

☆植物の力の喪失と合成麻薬の問題点
最近メキシコでの麻薬戦争がよく報道されています。

どのようなもの、たとえそれが無害なものであっても、禁酒法よろしく禁止された対象は地下にもぐって、組織を形成し、法権力と哀しい抗争をくりひろげるものです。現在の法権力や国家権力に包囲されたわたしたちはつい100年前まで、現在麻薬や大麻とよばれるものが「天からの贈り物」といわれ、生活にひろく親しんでいたことを完全な忘却に葬り去っているようです。人類史的に見れば、麻薬の歴史5000年、麻薬中毒の歴史100年といわれるように、人間はついこのあいだまで、麻薬による幸福を追求し、世界との「シンクロ二ティ」を味わってきました。現代人は「麻薬」―これは植物性の幻覚作用をもたらす薬、つまり「植物の力」ということですが―が非常にながいあいだ人類と関係をもってきたことを忘れています。

そしてそれが人類にとって、動植物をふくめた生命連鎖のなかで、「生命」というものを教えてくれた。「植物の力」はわたしたちが現在考えているように、法や権力、そしてなにより「科学」によって飼いならされるものではなかった。それはわたしたちを大きな宇宙へと誘う窓口でもあったのです。そしてわたしたちはその宇宙にたいして「敬虔」になることができた。このことがこそ「エコロジー」ということではないでしょうか?現在、欧米諸国や民主党がおしすすめているような、意識や知覚や企画による「数値目標」としてのエコロジーが、はたしてどこまで本当のエコロジーだといえるのか―おおいに疑問が残るところです。

麻薬もまた問題です。
現代社会において、麻薬は敬虔な神秘を欠いて、平板な効用によって使用されるモノとなってしまったからです。MDMAもそうですが、麻薬は「天からの贈り物」といった自然とのつながりを失い、「植物の力」といった原始的な力を失った。それはいまや、誰もが知るように、「成分の抜き取り」、「抽出」、「合成操作」、そして「効き目」―効果―とその精神デザインのソフィスティケーションといった化学式のレベルに堕しています。そしてだからこそGHBやケタミンといった「強姦薬」―レイプを容易にし、記憶を飛ばすことのできるドラッグ―やスポーツの「ドーピング」やメタンフェタミン―覚せい剤―やポパーズのような勃起作用を長持ちさせることができる「セックスドラッグ」といった薬物の「快楽の過剰濫用」―すなわち想像や妄想への過剰な耽溺、象徴界の凋落―を生み出しているように思います。

問題は麻薬そのものではなく、麻薬にはらまれた「過剰濫用」や「依存」の関係が引き起こす関係性にあります。そして残念なことに、現代社会の貧しさはこの関係性を「補強」する土壌をととのえています。(「押尾事件」も「のりぴ~事件」もこういった現代社会の貧しさ―共同体の崩壊と象徴界の凋落、貧しい意味しか持たなくなった孤独を背景としていることは確かです)

さらに、この関係性はかならずしも平等なものではなく、人間が「依存」しやすく弱い生き物である以上、そういった関係に容易に陥りやすい。(ここには、もちろん例外はあります。アーチストやミュージシャン、ティモシーリアリーやジョン・C・リリーといった精神先導者、あるいは宗教者、それから、ウィリアム・バロウズのような人たちもいるでしょう)でも大多数に人間にとって、おそらくドラッグ使用の第一の目的は気晴らしとストレス解消、気持ちよく、自分が肯定されていると感じられる「忘却」と「快楽」の時間をすごしたいことにあるようです。資本主義に生きる現代人は「快楽原則」にしたがって、個人の快楽は社会に容認されていますので、わたしたちは誰もが「薬物依存」へ陥る危険を孕んでいると見るべきだと思います。

さらにいえば、現代医療の問題のひとつとして、「薬漬け医療」があげられます。「薬漬け医療」とは別の言い方をすれば、すこし悪い表現ですが、「合法的ジャンキー」のようにさえ思われます。「生命を薬の力によってのばすこと」―これがはたしてよいことなのやら。そうして延ばした平均寿命は「若い生命」との生命の代謝を不健全なものにしているようにも見えます。現状肯定すること、死を遠ざけること、生きること。それはよいことだけれども、度がすぎると醜悪です。意地の悪い意見でしょうが、現代人は、潜在的なものにせよ、ウィリアムバロウズの言ったように「だれもみなジャンキー」なのかもしれません。

☆資本主義の快楽とドラッグ問題
上述のように、現在のドラッグはその「神秘性」を欠いて、化学式の調合レベルとなった以上、やがて、そう遠くない将来、人間はそのデザインされた化学式の調合を「管理」と「安全」のなかで試すこととなるように思います。

このことは以前からSFの世界で描かれてきた光景でもあります。

手塚治虫の「火の鳥」未来編にでてきた幻覚をひきおこす不定形生物「ムーピー」やPKディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」に登場した「ムードオルガン」、ハックスレーの「素晴らしき新世界」の聖水「ソーマ」、キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」の「ミルク」、あるいはタニス リーの「バイティング・ザ・サン」で描かれた「エクスタシー・ピル」などがそうです。

そして、現実社会において、これといった副作用をもたず、身体の官能的な快楽に奉仕するMDMAの登場はまさにその具現化のようにも思われます。いわゆる余暇はドラッグのなかで、「快楽的」に「気持ちよく過ごすべき」だ―ということをMDMAは暗に示唆しています。

わたしたちの資本は正しく、人生は美しい。
対立軸を欠いた資本の絶対肯定。
美の賛美。
地球とエコロジーの崇拝。


でも、でも老婆心ながらも―そこに精神の深みがあるのかと考えてしまいます。リアリーがその著書の中で述べたような方程式がはたして成り立つのか?合成麻薬のような「想像界の絶対」というのはこの「象徴界の萎えてしまった社会」の「快楽」と「想像力」という堕落をよりおしすすめるのだろうか?

なにより、ある方向性だけの意識がただしい意識なのだろうか?想像界に根ざすだけに「幼稚」な資本意識は人類を代表するものなのか?こういった「幼稚」な傲慢はいずれ象徴界の「テロ」をひきおこす要因となるのではないだろうか?

その時にこそ、資本主義社会に生きるわたしたちは資本にモチベートされ、「快楽原則」に満ちた日常に生きるわたしたち自身の愚かさを―みずからの快楽の代償を知るのでしょうね。欧米をふくめて、先進国を生きるわたしたちの意識は「幼稚な快楽」と「日常」の奴隷であって、「快楽と代償」という苦味を知ることは日常を生きている限り、難しいことなのかもしれません。

そうして、その「代償」を知らされたとき、衆愚に淫し、せいぜい愚かしくわめきちらして、理解することのできない他者「イスラム」を破壊してまわるといった低脳な幼稚さを見せつけることしかできない醜い超大国の「凶悪なモンスター」めいた姿は、いやなことですが、ちょうど自我にまつわる報復感情に基づいた死刑制度を野放しにする日本人の意識的鏡なのでしょうね。まったくどちらも国家権力―すなわち衆愚ということですね―は醜く、わたしたちの「愚かさ―豊かさでもあるでしょう―を補強」し、「感情を解放」するもののようです。

☆その3へつづく―
by tomozumi0032 | 2009-09-01 23:35 | MDMA
☆その2へもどる― 

はじめてのLSD体験を語るジョンレノン☆

☆ドラッグデザイナーは未来のアーチスト?
フランスの研究者ミシェル オートフィーユ氏の意見にこんな意見があります。以下、興味深い項目をいくつか、引用してみます。(ちなみにここでいわれるドラッグとは合成ドラッグ、向精神薬の意味合いが強いものですが―)

「ドラッグの売買は将来有望であろうと誰もがかんがえている。一方で消費者の需要があるので、消費人口が広がらないはずはない。そしてもう一方では、ドラッグの供給がある。ドラッグはますます変化し、作用は正確になり、副作用がないものがあらわれる。またドラッグがいっそう入手しやすくなり、比較的低価格となる。ニーズに見合った供給があるということは商売繁盛の原則である(「合成ドラッグ」P122)

ここで、オートフィーユ氏はドラッグがどんなに規制を厳しくしてもその需要があるかぎり、けしてなくならないこと、ドラッグそれ自体のより安全で的確な効果への変化を示唆しています。もしドラッグそのものが正確な快楽の作用をもち、なんらかの副作用をももたないものとなった場合、それはどのような意味で危険なものなのでしょうか?さらに、つづく文章のなかで、こんなことも書いています。

「(前述したとおり、MDMAの再発見者のアメリカの研究者)アレキサンダー シュルギンやD・ニコラスのような科学者がやってきたことや、リカエムやエロウィドのようなインターネットサイト上で得られる情報を見ると、薬理化学が次第に美や芸術の想像に似た考えをもつようになり、化合物を美的、芸術的に提示する傾向が始まっている。これらの研究者たちはファッションデザイナーや映画監督が自分たちの作品を披露するように、自分がつくった薬を披露する」(「合成ドラッグ」P123)

時代の先端を切り開く研究者がいまや、アーチスト、ファッションデザイナーや映画監督と似て、「芸術家」であり、ある感覚世界のデザインをしているという認識がここにあるのでしょう。こうなるともはやドラッグはひとつの世界認識の手段だといえそうです。

いまでもドラッグと取り締まりとをめぐっては、「いたちごっこ」の様相を呈していますが、これからなお細分化され、洗練をきわめ、より作用の正確で、より安全な、そしてまだ法的な取り締まりを受けない新しいドラッグが社会にでまわり、人々は束の間の別の世界、内面世界をかいま見ることになりそうです。

そうなった時、法的規制は有効に機能するのでしょうか?

「毒にも薬にもならない」―という言葉があるように、わたしたちにとっての薬とは毒であることをもう一度考え直してみる必要があるのだと思います。

☆アメリカのドラッグをめぐる法律のずさんさ―ドラッグイメージをめぐるうさんくささ
「ヘロイン」「コカイン」「マリファナ」「LSD」「覚せい剤」-その他どんな違法ドラッグも、最初から世界の法律で禁止されていたわけではありません。そしてあたりまえですが、ドラッグは今のような「バッドイメージ」として人口に膾炙されていたわけでもない。社会に自然などというものはなく、誰かが戦略的にふりまいたイメージのなかにわたしたちのイメージはとらわれてしまいます。そしてそれはイメージである以上、イマジネーションによって、助長されてゆくものでしょう。だから、ドラッグの問題のひとつはそれがよいものにせよ、わるいものにせよ、こういったイメージが連鎖の中で増殖し、ふくらんでゆくというそのイメージ増殖のプロセスの中にあるようにさえ、思われてしまいます。(現実問題としてドラッグをするにせよ、しないにせよ、「コトバというドラッグ」(現実のおきかえ)を使ってしかドラッグイメージを構成できないのは人間と言語の関係にまつわる問題ではないのでしょうか?)

ここにアートやファッション、映画との相関関係があるように見えます。現代社会を生きるわたしたちのもつイメージとは一体なんなのか?それは連鎖によって、増殖し、ある中空の、浮遊した、あってないようなコトバのエネルギーを獲得してゆくプロセスなのだろうか?なぜ、人は現実をイメージしたり、イマジネートしたりするのだろうか?どうして、肯定するにせよ否定するにせよ、それを肯定や否定のエネルギーへと転化するのか?いったいリアリティとはなんなんだろう?コトバによって得られるものだというのだろうか?それならば、現実はコトバそのものなのか?そして、わたしたちはイメージ、コトバから逃れて、リアルな世界そのものに触れることはできないのだろうか・・・・・・・。こう考えてみると、サルトルが描いた「実存的嘔吐」とはいまだに続く問題だと思います。

さて、ドラッグに対するイメージを決定的な「悪」としてふりまいたのは、1960年代後半、反社会的な若者文化を攻撃することによって、サイレントマジョリティーに支持された「ニクソン大統領」の時代にさかのぼります。(ドラッグウォーのはじまり)

そのニクソン大統領とはどのような時代背景にどのような施策をとった大統領なのか?-こちらを見てみましょう。

ドルと金の交換停止(ニクソンショック)やスペースシャトル計画、中華人民共和国との国交樹立、ベトナム戦争の締結と現代社会へとつながる筋道を整備しましたが、1973年麻薬取締り局DEAを設置し、麻薬戦争の口火を切って落とした大統領でもあります。

ニクソン大統領の施策の特徴は、反体制―若者文化、カウンターカルチャームーブメントのうねりと連動しています。このムーブメントはいままであまり注目されていなかったモノ、下にあったモノ、とるにたりないとされていたモノ―に強い光をあてました。(「黒人」、「女性」、「子供」、「反戦」、「東洋思想」、そして「ドラッグ」)その結果、当然、それは強烈な作用と反作用をともないました。現代社会にもつうじているとおぼしき矛盾した二つのパワー―かたや「社会の推進力」、そしてかたや「社会の混乱」。

そういった混乱状況のなかでニクソン大統領は「法と秩序の回復」をとなえ、カウンターカルチャーによって、混迷し、不安感をつのらせたアメリカ社会の立てなおしをはかりました。ヒッピー文化やマイノリティ文化を攻撃し、「サイレント マジョリティー」といわれる保守層に訴えかけることによって、「平和と秩序」を回復させ、「ベトナム戦争」を軟着陸させようとした。そしてそのさいに格好の標的(ブッシュの「悪の枢軸」発言もそうだけれども、アメリカはこういった標的をつくるのが好きです)となったのが、ドラッグ―麻薬なようにも考えられます。

「禁酒法よりもひどい」-と称されたニクソンのドラッグ政策は、からだに対する「ドラッグ」の効果そのものというよりは、社会的なメッセージの方により大きく注目したように見えます。(そうでなかったらマリファナがヘロインと同じ危険度をもつ有害麻薬として、厳しく取り締まられた理由がわからない)ニクソンにとって、そしてその時代の保守派にとって、ほんとうに警戒しなければならない問題は「ドラッグ」そのものではなく、「ドラッグ」というコトバにまつわるある種の雰囲気、イメージです。そしてそれはその時代を生きていたアメリカ人にとっては、かなり差しせまった問題でもありました。雰囲気やイメージ(「イマジン」)が体制を瓦解させかねないことを大人がはじめて知ったとでもいえるのでしょうか。この雰囲気、イメージはいまの日本でも社会的に注目されるもの―そしてそれは穏健でまっとうとされる「平和主義的」で「現状維持的」な「共同体倫理」にもとるものとして現代日本を生きるわたしたちの神経をアンヴィヴァレントに刺激するものでもある。個人的には、これらはそのルーツの部分で、ニクソンがとった政策、すなわち「ベトナム戦争締結」と「ドラッグに対する取締り強化」というアメと鞭のあいだでアメリカの世論を軟着陸させてみせた 政策の微妙に「矛盾したあり方」につながっているように感じられます。現代社会の「夢」と「動揺」はおそらく近い場所にあるのでしょう。

そして、すくなくとも、じっさいのところ、わたしたち日本の社会において、「ドラッグ」そのものが問題になっているのか?―と問うことはできるでしょう。いろいろ見わたしたところで、「のりぴ~事件」にしても、「押尾事件」にしても、現代日本のマスメディアにおいて、ソフトな「ドラッグの雰囲気やイメージ」ではなくて、ハードな「ドラッグそのもの」が問題となっている記事や報道を見たことがない。まったく、アイロニーを忘れて、法規制をよく守るお利口ちゃまの日本人の「ニクソン主義」ぶりは素晴らしすぎて、目に余るほどです。

マスメディアの報道姿勢は、かなり「雰囲気・イメージ的」、ドラッグそのものへの言及を欠いて「周辺的」、そしてなにより「封建主義的」―「情報の一元管理的」すなわち「中央集権的」で「画一的」な一個人の快楽にもとづいた「堕落イメージ」に記事がかたよりすぎているようにみえます。これは、はっきりいえば真実をつつみかくさず透明にするというマスメディアそのものの「怠慢」でもあるし、ひいては日本人ひとりひとりの民度の低さなんじゃないかなぁ~と思いました。カレル・ヴァン・ウォルフレン風にいえば、こういった思考や神経のあり方が「人間を幸福にしない日本というシステム」そのものなんじゃないのでしょうか。因果関係の図式が単純であり、解釈は幼稚で、あまりに思考が不在すぎるのではないだろうか。

日本のマスメディアはこういう風―つまり、アメリカの言論奴隷、国際社会をおそれて縮こまり、保護者アメリカの「愛人・子供」風の幼稚報道―にしか報道できないのかしらん・・・(「属国イデオローグ」)市民をふくむ日本社会が日本独自の寛容さをもてづに、アメリカ的で画一的な思考トーンで彩られた戦後民主主義、官僚主義的な見方をいまだにつづけてるばかりの姿勢にはおおいに不満がのこるところです。

個人的には、日本人だって「麻薬」に対する独自の見解や価値、寛容さをうち出したっていいんじゃないか―と思います


☆テクノロジー社会が「セックス」と「麻薬」を氾濫させたこと
かつて、テクノロジーがこうも社会の中心ではなく、わたしたち人類がいまよりず~っと寛容だったころ、人は「罪を憎んで、人を憎まず」といいました。人は悪くない。罪が悪い。あるいは「疑わしきは罰せず」といいました。疑わしい、けれども罰にはしない。こういった共同体レベルでのあたたかな寛容さはどこへやら―「冷戦」や「オウムサリン事件」を経て「9・11」を体験し、テクノロジーと死が直結していることを知ったいまでは、罪は「さらしもの」の罰をくわえられるようになってしまった―これは「知性の怠慢」と「テクノロジーの勝利」以外のなにものでもないとボクは考えます。だって、本当は「ジャンキー」は他人事じゃないでしょ―だれだって、あなただって、「ジャンキー」になりうる可能性はある。それなのに、いままで、おだてていた芸能人を掌を返すように「さらしもの」にして、それを「罪と罰」の論法で処理してパロディとしてよろこんでいる「いい子ちゃん」ぶったわたしたち観客も観客です。これらはすべて「衆愚」の、「女性化」し、「共同体的な倫理」も、「モラル」も、本質的な「星座」と「象徴界」も欠いて、よろこんでいる「テクノロジー民主主義」社会のおろかさ以外のなにものでもないと頭半分では考える。―だけれども、そういった方向にいまや社会全体が向かってしまっています。人類と古いつきあいをもっていた植物を「麻薬」として排除してしまう価値を見つけたのも、「セックス」の快楽を抜き取って、増殖させ、社会に蔓延させたのも、おなじ社会や価値のあり方と関連しています。つまり資本主義であり、「道具」と「テクノロジー」の社会です。上述した「ニクソン主義」のところで見たように、「麻薬」はこの社会体制、価値のあり方の中で名づけられ、排撃されるものになった。本質的にはそれが「絶対悪」なのかどうかは誰にもわからないことです。しょせん、わたしたちは法や社会に裁かれるにすぎません。でも、わたしたちはより大きなレベル、より大きな次元においては、けして裁かれたり、善悪を評価されることはありえないことなのでしょう。

☆その4へつづく
by tomozumi0032 | 2009-09-01 23:34 | MDMA
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☆西欧近代のおわり(肉食の時代から草食の時代へと変転するパラダイムシフト)
「生物―人類史」というよりおおきな枠組みから眺めてみれば、わたしたちは非常に長いあいだ法と秩序の「社会性」ではなく、より広大なシステムである「儀礼性」のなかに生きていました。だから実はわたしたちの生活において、「社会性」よりも「儀礼性」のほうがより親しい感覚でもある。社会学者ボードリヤールから一文を引用して見てみましょう。

「一般的に「儀礼性」は「社会性」よりはるかにすぐれた形態である。

「社会性」は、人間が相互につくりあげた機構と交換のあたらしい形式にほかならないが、それは誘惑的ではない。

「儀礼性」はもっと広大なシステムであって、生きているものも、死者も、動物もふくみ、「自然」さえも排除しない。自然がもっている周期的なプロセス、反復、破局は、自発的に儀礼的などの役割を演じている。

これに対して、「社会性」は非常に貧しいもののように見える。
社会性が、法の支配下で連帯させるのはひとつの種(人類)にすぎない(それさえも不確かである)。

「儀礼性」は、法によってではなく、規則と無限なアナロジーの運動とに、サイクル的な機構と普遍的な交換の形式を維持することによって成功する。この形式の維持は法と社会的なものには不可能である。」
               「誘惑の戦略」P120


ボードリヤールの指摘するように、かつてわたしたちは「儀礼性」のなかで、本当の「エコロジー」を完成させていたように考えられます。おそらくそのころは、意識していなかったにせよ、植物・動物・人類をふくむ生命は循環的な周期プロセスのなかにおり、すべてはこの周期プロセスに収斂されると考えられていた。(特に、一神教ではない地域や日本を含む東洋でこの傾向は強い)その周期プロセスを体感する方法のひとつとして、「植物の力」―すなわち今でいうところの「麻薬」があった。それは世界との危険であやうい、だからこそ生命のエネルギーに満ちた過剰な関係をエロティックに体感させてくれたはずです。(したがって、この論理でいけば、麻薬」はエロティックなエコロジーである―ということです)現代人の衰退した生命にたいするアンチテーゼとして、「麻薬」はいまもなお機能しているといった面もあるでしょう。

西欧近代の合理主義的な見地からの見解を退け、より正確にいえば、「麻薬」は「退廃的」なものではなくて、「退行的」なものです。それは「植物の力」によって、「植物」になることを意味しています。そして「植物人間」となった人間は植物や無機物やモノといった一般的には語らないもの、言葉をもたないものと別の言語で通じ合うことができます。植物の生、「べつの在り方」―オルタネティブの生を理解すること。個人的に考える「エコロジー」とはこういったこと―つまり、声なき対象の声を聴くことという「退行」と結びついています。しかし、この「退行」は非可逆性を旨とするこれまでの資本幻想―すなわちストックや進化論的夢、よりよい明日を目指すこと―と相容れないものでもありました。

「退行」とは「上」ではなく「下」へと向かう運動です。そして、「エコロジー」とは人類が「上昇」することではなく、「下降」せざるをえない時代の要請です。あきらかに、わたしたちは資本幻想の終わり、西欧社会の衰退を生きているのです。(「法的な社会性」のゆるみではなくて、わたしたちを取り巻く「法的な社会性」への疑い、そして失われた「儀礼性」の部分的な復権)

この150年ものあいだ、世界は西欧近代の暴力的で強引ともいえるような合理的な価値の押し付け―肉食化のなかを生きてきました。それは精密化する技術に対する信仰と同時に「植物の力」に対する抑圧を生んできたように見えます。個性にもとづいたみずからの積極性、アグレシヴィティを開放し、それを力にすること、個への絶対信仰、わけることによって混同のないクリアーな状態を理想とすること、そして分割し線をひいて概念化してしまうこと、人間理性への信頼―こういった西欧近代はポストコロニアル運動の高まりやエコロジームーブメント、最先端科学、精神分析、民俗学や文化人類学、カウンター・サブカルチャーなどによって攻撃され、批判され、相対化されていることを今日を生きるわたしたちは知っています。合理主義的なものの価値はいまやきわめて危うい根拠によってしか支えられておらず、わたしたちの文明社会は文明的とはこれまで見なされてこなかったもの、植民地主義的なもの、非合理なもの―頭ではあまり理解したり把握したりすることのできないもの、言葉におきかえがたいもの、歴史にならないもの、ストックされないもの、消えてゆくもの、美しいもの、より複雑でとらえがたいもの、移り変わるもの、瞬間的なもの、女性の力、水やエロス、エコロジーのエネルギーに今日的な価値を見出しています。たしかに合理的で理性的な説明は人を納得させる力があります。そのときはそう思うかも知れません。でも、それはかつてのような全体性を示すものではなくなっています。そういった説明は西欧近代の、ひいては知や教養、歴史主義―といった「西欧化した権威」のひとつとしか見えない。今、そういった権威が瓦解して、知や教養が軽んじられ、本が売れず、大学が人物製造装置となり、大衆化して、女性化するのを見るのは楽しいことです。(西欧化の終焉とポストコロニアル化、価値の相対性の重視)わたしたちはおそらくこれまで知や教養の中に見出そうとしてきたものを性の違い(SEX)やエロス、麻薬、消費、西欧ではなく日本、遠くのものではなく近くのもの、アンチストックとコミュニケーションテクノロジーとに置きかえようとするパラダイムの変転のなかにいるのでしょう。今、この変転を前にして、さまざまな価値が大きく揺らぎ、あやふやで不安定なのは当然なのではないでしょうか。

もういちど繰り返します。
麻薬に代表される「植物の力」は儀礼的なものを復権させ、わたしたちをより広大なシステムへ導くものです。「肉食と法の世界」、西欧近代はこの魅惑的な力を規制することができるのでしょうか?わたしたちは全体的な宇宙を希求する生き物であり、近代的理性はいまや風前のともし火にすぎません。近代理性の暴力がもたらした地球的な危機、すなわち「エコロジー社会」を生きるわたしたちは「植物の力化」、「植物人間化」を避けることはできない。わたしたちは「草食化」しなければならず、それは「地球」の要請でもあります。

全世界的なドラッグの蔓延は肉食文明の終焉を示しているようにボクには思われてなりません。



☆まとめ―時代のドラッグ化
おそらく、この論文の弱点は「合成麻薬」と「原麻薬―植物の力」を混同して語ったことにあります。それらがうまく整理してわけられずに、混在してしまった。そこに論旨の弱さを感じます。ですが、個人的には、「まぁ 言いたいことはいったぞ」―という気分にもなるのです。もう少し明晰に、きちんとわけて語れればもう少しクリアーに理解は深まったかもしれませんが、しかたありません。不完全で未完成な論述におつき合いいただいた皆様ありがとうございました。でもなにかしらは感じていただければ幸いです。ただひとつ言えることは、ファッション同様、都市とテクノロジー化著しい現代では麻薬もまた「デザイナーズ化」しているということであって、原初的なものは見失われがちになっています。

良いか悪い判断はできませんが、現代都市に生きるわたしたちはますます実質性の乏しい、身近な感覚の、「デザイナーズ化」された時空間をさまようようになっています。それはわたしたちが文化とよぶところのいずれの表象においても、やむことのない文化圧力を形成しているようです。

そうしてこういった「デザイナーズ化」された現代都市の「遊び感覚」あふれる生活もまた「合成麻薬化」しているといえます。前述の社会学者ボードリヤールの興味深い指摘をみてみましょう。

「つまり、「遊び感覚」のものはスーパーで洗剤のブランドを「選択」することまで含めて、いたるところにある。強制しなくてもひとびとは麻薬と向精神薬の世界に加わる。この世界もまた、感覚的なキーの操作、ニューロン的な計器板にほかならないという意味で「遊び感覚」である。コンピューターゲームは、甘美な麻薬であり、おなじやり方、おなじ夢遊病的放心状態、おなじ感覚的快感によってなされる。」
                     「誘惑の技法」P215


現代社会の生の営みは麻薬的なものと近い位置にあって、その親和性が高いことがわかると思います。いずれにせよ、「合成」「非合成」を問わず、これからますます麻薬は現代社会にとって、避けて通れない問題となるでしょう。最後にミシェル・オートフイユの興味深い問いかけを引用して終わることにしたいと思います。

「ドラッグが提起する緊急課題は、われわれの社会が充分に答えてこなかった問題を執拗に問いかけてくる。それは、ドラッグの消費をどのように取り扱い、どのように管理するのかということである。

すべてのドラッグの消費者を、社会を危険におとしいれる者や、法律違反者とみるのはいまでも適切だろうか?自分の体と心を自分の思うようにするという基本的な権利に、社会は介入しなければならないのか?

しかし、あきらかに問題となるのは、ヒトは意見を持ち選択できるために必要な情報を得ている限りにおいて、自分の生命と運命に責任をもち、みずから管理できるか否かである。

われわれの社会はヒトの知性に賭けるか、それともヒトは幼稚な生き物だから管理しなければならないという立場をとり続けるのだろうか?

ドラッグは、このような難しい問題、つねに新しく問い直さなければならない問題、自由とはなにかという問題について、議論の扉を開いた。もしも、自由とは人々が従属するものを選択できる可能性であるとわれわれが考えるならば、ドラッグの使用というテーマに関するかぎり、その選択の可能性はないことを認めなければならない。」
                    「合成ドラッグ」P127



おしまい☆

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by tomozumi0032 | 2009-09-01 23:25 | MDMA
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