カテゴリ:J・G・バラード( 4 )

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☆HENなイギリス人
この小説「クラッシュ」(1973)の著者であるJ・G バラードはイギリスの文学者です。

個人的な話をしますと、小学生ぐらいのとき、シャーロックホームズ全集やアガサ クリスティを図書館にとじこもったり、夜な夜なあんまり寝ずに、もぞもぞと虫みたく読みふけってからというもの、ずっとイギリスはおもしろい国だなぁ~と、アメリカやフランス、ロシア、中国、そして日本に対してと同様に飽きることのない視線を注ぎつづけて国のひとつです。え どうしてか、ですって!それは前にも書いたように博物学的な伝統のもやが立ちこめるからですし、それに島国の民イギリス人はヨーロッパ大陸でも変人扱いされていたことがあげられます。秩序とゲームが好きで、プライドが高くて、変わっているんですよね。あるイギリスのポストモダン実験作家にいわせれば、「英国人は正直で現実的な人間であるふりをするけれど、根本は奇人変人なんですって!」-ということでしょう。

小説や芸術や文化はまちがいなく奇人変人のものですが、イギリス文学のおもしろさ、J・G バラードのおもしろさもこの変態ぶりにあるようです。


それからバルセロナにいたころ、同じピソ-アパートメント-に住んでいた70代の老イギリス人の夫妻がおり、日本びいきということもあって、可愛がられたこともあります。彼らはいつも山本耀司の黒ずくめの服を着て、あふれかえるような本にうずもれていて、知的でお洒落でエレガント。パリと東京とバルセロナをゆききし、英語、フランス語、スペイン語、日本語の四カ国語をはなし、気さくで面倒見がよく、楽しかった。パーティーによばれたり、いろいろな文化的なことを教えてもらったり、ウィリアムギブスンやこのバラード、ジョン ケージ、ジョン ゾーンなんて前衛芸術の貴重な本やCDを借りたり、一緒に映画を見に行ったり、病気になったとき医者を紹介してもらったり、パティオ-屋上-に所有する熱帯植物園の鍵を借りてそこで読書に耽ったり-それで、どうもやっぱりイギリス人があまり他人だとは思えなくなった。とくにバラードの年代の人は肉体感覚での近親感をおぼえるようになったことがあげられます。

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☆J・G バラードのNOVELワールドについて-
J・Gバラードの小説は、本質的に、どれも-「戦争小説」、であると考えています。(彼が好きな日本文学に大岡 昇平の「野火」をあげていたことは示唆的です。表現形式のちがいこそあれ、大岡の小説世界と彼の小説世界のあいだには近いところがあると思います。)

「戦争小説」というのはどういうことか-といえば、彼じしんの幼いころに幼児体験としてきざまれた戦争風景-それ自体をとりもどして、ぎゃくにフロイト的といってもいい、彼のトラウマ-精神的外傷への回復過程-それが彼の文学世界の根幹をなしていると考えられるからです。このもっとも顕著な例はスピルバーグの映画にもなった「太陽の帝国」(1984)です。これは、「結晶世界」(1966)、「クラッシュ」と並んで個人的なバラード作品の上位を争う名作ではないかと思うんですが(個人的には第一位「太陽の帝国」、第二位「結晶世界」、第三位「クラッシュ」といったところでしょうか-)ここに描かれたバラードの原風景がそののちの小説の中で、表現方法とテーマを変えて繰り返されているように思います。「太陽の帝国」で描かれているのは、上海で植民地生活を謳歌していたバラード少年が日本軍の侵略によって、生活の基盤を失い、価値の基盤を失い、窮乏生活を余儀なくされ、生死の境目のあやうい綱渡りを繰り返しながら、ある種の確信犯的な倒錯した価値の閉塞へと至るプロセスです。この倒錯した価値への熱度、こがれる切ないような思いが淡々と客観的、理知的にして硬質、ゴージャスな文体で描かれます。それからこの本では飛行機やテクノロジーといったものに対する子供っぽい、無邪気な、だからこそまばゆく輝く憧れが明らかにされます。飛行機やテクノロジーに焦がれるバラードの熱情は人並みはずれています。飛行機にむかって、勃起するシーンがあるほどです。いつしか、こういった憧れが熱情をとおりこして、この小説「クラッシュ」で描かれたような無機物への性的な関心、機械そのものと血肉をもってまじわること、生体アンドロイド化へとむかってもおかしくないような資質、性質が彼にはそなわっていたといえます。(まぁ サイボーグフェミニズムの反対ではありますけれども-)
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☆バラードのみつけた内宇宙
-と、同時にバラードはあたらしい領域をSFの世界にひらいてみせたようです。それは「外」の宇宙ではなくて、「内」の宇宙の世界です。この内宇宙というのは、たんなる精神世界や無意識の世界というわけではなく、外の現実と内の精神がであい、融けあう場所なのです。すこし難しい言葉でいえば、「外部世界と内部世界の照応」というべきヴィジョンがバラード世界のあちこちに見られます。こういった彼の世界観をもっとも強くうちだした世界が「残虐行為展覧会」(1970)で、ここではこの世界観がむきだして、たいした物語もなく、ただただ並べられてゆきます。(小説「クラッシュ」はたぶんにこの傾向を引き継いでいます)風景描写がそのまま心の描写とパラレルな関係で描き出される風景は独特で、他の作家にはみられることのないユニークな世界観です。それでは、「残虐行為展覧会」から一文を抜き出してみて、それがどのようなものであるのか、見てみましょう。すこし難しいといえば難しいのですが、それはバラードの表現している世界の複雑さにほかなりません。

引用1-「平面が交差しているんだ。あるレベルにおいては、ケープ・ケネディとヴェトナムの悲劇は広告看板につづけて掲載され、無作為にとりだされたされた「死」はネイダーとその協力者たちの自動車事故に擬態化されている。無意識層におけるそれらの厳密な役割は調査をおこなうに値するけれど、その役割というのはわれわれがかんがえているのは実際のところまったくちがっている。またべつのレヴェルにおいては、個人的な環境、あなたのとる姿勢の幾何学、この研究室にふくまれた時間価値、壁のあいだの角度、といったものがあるのさ。そして、第3のレヴェルにおいては、精神の内的世界というわけだ。これらの諸平面が交差するところで、イメージはうまれ、ある種の確固とした現実があきらかになりはじめるんだ」(「残虐行為展覧会」P101)

3つのレヴェルで示される、いっけん、あまり関連のない平面の交差、内部世界とランドスケープがまじわり、かさなったところに生まれ出る現実をバラードは見ようとしていることがわかると思います。もちろん、そんな世界は言われてみないとなかなか見られるものではありません。
つづけて、もう一つ見てみましょう。

引用2-「こういった実験から精神という内面世界における表面、および潜在的内容のあいだにフロイトがもうけた古典的な区別は、いまや、物質世界という外の世界にも適応されなければならないことはあきらかである。この物質世界における支配的な要素は、テクノロジーとその支配的な手段である「機械」である。たいがいの場合、機械は柔和で受動的な姿勢をとっている-たとえば、携帯交換機、軍事用部品など。20世紀はまた、機械のかくされた正体が熟練した研究者にさえ、あいまいであるような各種の機械-コンピューター、パイロットのいらない飛行機、熱原子核兵器-をもうみだした。この正体を理解するには、スピード、攻撃、暴力、欲望などのベクトルを支配する「自動車」を研究すればいい。ことに「自動車の衝突」は、概念化された精神病理学としての機械のはっきりとした像をふくんでいる。広い範囲の被験者たちにたいしてなされたテストは、自動車-そして特に自動車の衝突-が精神病理学、性意識、自己犠牲といった諸要素をふくむさまざまな衝動を概念化するにあたっての焦点を提供するということをしめしている。」(「残虐行為展覧会」P223)

ここでは内的宇宙から一歩すすんで、物質世界の機械への関心、その研究、彼の意識がどのような意味で、小説「クラッシュ」にみられるような衝突事故へと意識が向かったのか、ということが明らかにされているようです。ここでの言葉を借りれば、「クラッシュ」とは「スピード、攻撃、暴力、欲望などのベクトルを支配する自動車」における「概念化された精神病理学としての機械のはっきりした像」ということになるでしょう。

☆リッチでゴージャスな魅惑世界-それから日本への視線
もっとも、バラードの楽しみは、べつに「内的宇宙」のようなコンセプチャルで抽象的で思弁的な、ヴィジョンの立脚点のみを説明するばかりに終始するわけでもありません。純粋に読書の楽しみもあります。それはフィジカルでみずみずしくもアイロニカルな感性でありながら、どれもめまいがしてしまうほどにリッチでゴージャスな言葉の群れです。廃墟やゴミ、汚濁、腐敗、ボロ、貧しさはバラードとっては、恰好の言い換えの題材です。それらは転倒させられ、まばゆくて、鮮烈な光でかがやきはじめます。これを精神の豊かさ、精神のリッチ、言葉のリッチといわずになんというのでしょうか?幼女売春やSM、ドラッグ、暴力、貧困、死などを描いても、凡百の作家とはちがって、バラードは豊かであることを手放しはしません。フランスの泥棒作家ジャン ジュネがそうであったように、この裏返しの魔術、反対の豊かさの放つ光のかがやかしさには、読書のたびに頭がくらくらして、身もこころもうばわれてしまう魅惑があります。
それから日本への視線です。バラードの描写は事象や体験、事件をなぞりながらも、つねにそれ自体との距離を測っているようなところがあって、冷静で皮肉っぽいといわれています。ところが「太陽の帝国」であかされる日本への視線はそうではありません。無垢の情熱、熱烈な憧れ、鮮烈な輪郭の想念がそこでは描かれます。そして、日本兵になって、ゼロ戦のパイロットになりたいというやむなき願望があかされます。これらは人種や政治的支配のレベルを超えて、子供がもっているまなざしの熱度であり、ここでは事象や体験、事件との距離がフィルターを通さずに表現されます。おそらく現代社会をいきるわたしたちとはちがって、戦争体験はバラードにとって、きわめて「リアルな世界」であったのではないでしょうか?つまり、自我やプライド、社会的地位、それに知性や理念といったさまざまな虚栄をうむ媒介やフィルターを通さずに、透明で公正なまなざしを注ぐことのできた世界。だからこそ、バラードの随所に描き出す日本-これは「コカインナイト」(1996)や「スーパーカンヌ」(2000)でもひきつづくのですが-にはどこか現実ばなれした、夢のようなところがある。日本人からみても、バラードは日本という大きな夢をみているように思われてしまうのであり、この外部世界は共有されているものというアプリオリな前提がありながらも、そのズレにめくらんでしまうのです。
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☆小説「クラッシュ」について
まずはこちらのヴィデオを見てみましょう。

バラード自身の説明でこの小説のコンセプトがつまびらかにされています。
わからない方のために簡単に解説すれば、小説「クラッシュ」はその題名のとおり、自動車の衝突事故の話です。衝突事故は衝突事故なんですが、その描かれ方は「引用1」で見たような、事故をめぐるイマージュの「平面」の交差によって、いくえにも上塗りされています。そして根本的には「引用2」でみたようなヴィジョンの発展形といえる小説で、肉体と機械とが衝突を通じて、「ぐちょぐちょ」に混ぜ合わされてしまう。あとでゆっくりと見ますが、これは機械と人間のつむぐ前衛的で実験的な「ポルノグラフティ」、「ハードファック」小説なのです。その意味ですこしウィリアムバロウズの「裸のランチ」に似たようなところがありますが、「裸のランチ」がどこともしれない熱帯の風景の中での麻薬患者のSF的でゲイ的、SM的な妄想なのに対して、この小説はもう少しヨーロッパという、しっかりとした知的背景に根ざしているように思います。

D・クローネンバーグによる映画もありますので、できの方はさておき、お好きな方は見てみるといいでしょう。

それからフランスのポストモダン社会学者ボードリヤールは著作「シュミレーションとシュミラルクル」のなかでこの小説の批評にまるまる一章をさいています(「シュミレーションとシュミラルクル」第12章)。ここでボードリヤールはフィジカルな性器の転移とメカニカルな機能主義を彼じしんのハイパー商品論とかさねあわせて、刺激的に論じています。

現実生活での交流はいざしらず、その諸著作において、バラードとボードリヤールは相互に関連しあい、補足しあっているようです。ちなみに「スーパーカンヌ」(2000)にはちょい役で、ボードリヤールからの引用句をプリントしたヴェストを身につけたウェイトレスがひょっこり登場します(「スーパーカンヌ」P90)。なんだか、ちょっぴりゴダールか、ヒッチコックを思わせる演出ですが、親近感があるんだなぁ~と思いました。
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その2へつづく☆
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その1へもどる☆

☆テクノロジーや機械にあるエロスについて

これは男性のほうが、よくわかるかもしれませんが、たしかに機械にはどこかしらエロティックなところがあります。男の支配欲や征服欲といった側面のみならず、機械それ自体にエロスを放つ無性的なフェロモンがある。それでなければ、こんなにも人々がテクノロジーや機械にいれこむはずがない-のではないでしょうか?

たとえば、車や飛行機の操縦、ドライブ、ハッキングやコンピューター改造、技術者の人工知脳への夢、あるいは人工生体研究でもそうですが、それらの営みの中にある機械を「なぶったり」、「いじったり」、「試したり」-すること、そのこと自体のなかに性的なものがあるように感じます。そして電子音で「泣いたり」、「呻いたり」、「クラッシュしたり」して、機械は反応してみせたりしています。

手塚 治虫が意識的にせよ無意識的にせよ、「鉄腕アトム」で日本人に見せたことは「機械のエロス」でした。手塚の線のエロティックさには定評があり、それをロボットにあてはめた時、人々を魅了する決定的な戦後の大衆ヴィジョンが提示されたように思われます。ロボットという無機物とエロスという有機的な生殖の概念のなまめかしい溶け合い。アトムは吉本ばななにいわせなくても、現在わたしたちの集合的無意識に刻まれているイコンのひとつであることは確かなことのようです。(今度アニメ化されるのは「鉄腕バーディ」でしたっけ?-WW☆)

あるいは、インターネットのサイトで、まずはじめにヒットするのは「エロサイト」、「セックスサイト」らしいという話です。まぁ 真偽のほどはさておくにせよ(笑)-たぶん そうでしょう☆-「エロ」はコンピューターカルチャーの無視できない巨大なひとつの側面であることは間違いありません。おおくのブログでもそうですが、コンピューターは無意識の欲動を言葉にしてしまうところがあるから、人はそちらにゆきやすい。そして、そこにはなにか機械とセックスとの親和性の高さを裏付けるものがあるように思います。すなわちセックスの中にはなにか機械的なところ、メカニックなところがあり、機械の中にはなにかしらセックス的なところ、エロティックなところがあるといえます。そして-昔の性的探求者、セックスの哲学者マルキ・ド・サド侯爵が透徹な視線で見透かしたように、セックスの中でわたしたちは「モノ」になるのです。この「モノ」が、「メカ」になるのがテクノロジカルなガジェットに環境を覆われた現代の認識だといえます。

それでは人々はやがて、機械とセックスできるようにになるのでしょうか?
「クラッシュ」に書かれた「ハードファック」ではなくて、より「ソフトファック」に女性的にやさしく機械と交わることがあるのか?

そのあたりは、みなさんの想像力に任せたいと思います(笑)
少子化には役立ちそうにはないですけれども-ね。
いまみたいに、機械に勃起する男性がふえ、男性が女性化し、セックスそのものがスポーツジム化して、(「乳と卵」の川上未映子せんせじゃないですが-)女性はからだを整形し、機械化させ、セックスをハイパー化することによって-巨乳やアヌスのかく乱、ヴァイブレーターによるメカニックなマスターベンション-、逆説的に男性化していたら、子供は増えないでしょうね。
おそらくは-。

☆序文
えっと、さて、話を変えて、ここでは、この小説「クラッシュ」にそえられている序文-を引用してみます。
これは、わたしたちの生きる現代社会にたいして、とても鋭い批判を投げかけています。けっこう長いのですが、すべて見てみましょう。

20世紀を支配する理性の悪夢との結婚は、これまでになく「あいまいな世界」を産み落とした。

マス・コミュニケーションの風景の、そのかなたには、テクノロジーのゴーストと金で買える夢がさまよっている。
熱核兵器システムとソフト・ドリンクのCMが共存する、ひかりあふれた場所はCMと擬似イベント、サイエンスとセックスに支配されている。われわれの日々の暮らしのうえには20世紀の偉大な双子のライトモチーフが君臨する―「セックス」と「パラノイア」だ。
高速情報モザイクに対するマクルハーンの熱狂ぶりにもかかわらず、われわれはいまだに「文化の不満」におけるフロイトの深遠なるペシミズムを思いおこさざるをえない。
われわれの「夢」や「欲望」をささえる窃視症的で自己嫌悪的な幼稚な基盤-そうした精神の病は、今世紀最悪の死者として結実した。愛情の死である。

感覚と感情の死亡は、ハイパーリアルでやさしい快楽へと道をひらいた-つまり苦痛とダメージへの興奮である。あらゆるケースの倒錯の闘牛テクノロジーを実験する殺菌したうみ汁の培養マットのような、完全な闘技場でのセックス。自分じしんの精神病理でさえも「ゲーム」としてさぐる道徳的自由。そして限界をしらない概念化のちから-こどもたちがおそれるべきなのは、ハイウェイをはしる車ではなく、もっともエレガントな死の媒介変数を計算して楽しむおとなたちなのだ。

この本質的には「うすぐらい楽園」に生きる不安な快楽を記録するのは、これまでにもましてSF(サイエンス・フィクション)の重要な役割となった。わたしはかたく信じているが、SFは文学のとるにたりない細い枝葉などではなく、20世紀の中心となる文学的伝統を代表して、まちがいなくその最古のものである。すなわち、サイエンスとテクノロジーに対する想像力の反応という、H・Gウェルズ、オルダス・ハックスレー、現代アメリカのSF作家を通って、ウィリアム バロウズら今日の革新者までをとぎれることのない線でつなぐ伝統である。

「無限の可能性」という概念は20世紀の中心的な事実である。
このサイエンスとテクノロジーによる断定の中につつみこまれているのが、過去のモラトリウムであり-過去と現在とを切りはなし、さいごには殺しさえもする-現在にあたえられた無限の選択肢なのである。
ライト兄弟の初飛行と避妊用ピルの発明とをつなぐのは、緊急脱出用射出座席の性的、社会学的な哲学なのだ。

この果てのない可能性の大陸と向かいあい、その題材と取り組むのにもっとも適した小説がSF-サイエンス・フィクション-である。他のフィクション形式には、未来はもとより、現在と取り組むのに必要なアイデアとイメージのボキャブラリーすらない。

現代主流文学の支配的特徴は、個人の孤独感、それにまつわる内省と疎外-つねに掛け値なしの20世紀意識と推定される精神状態である。
そんなはずはない。
それとは正反対に、これはまちがいなく、19世紀に属する心理のように思われる。ブルジョワ社会の強大な抑圧・財政的・性的権威によってまもられたヴィクトリア朝期の一枚岩的特性、家父長制の暴虐に対する反応であるように。あからさまな回顧的傾向と、経験の主観性についての強迫観念をべつにすれば、19世紀心理の真の関心ごとは罪と疎外の合理化である。その要素は内省、ペシミズム、洗練であった。

だが、20世紀にふさわしいものがあるとすれば、それはオプティミズムであり、大量販売の記号学、精神のあらゆる可能性を無邪気に罪悪感なく楽しむことである。

SFで表現されているイマジネーションはけしてあたらしいものではない。ホメロス、シェイクスピア、ミルトンはいずれもこの世界を論じるために、もうひとつの新しい世界をつくりだした。SFを独立したジャンルに閉じ込めてさげすむのはごく最近のモードなのだ。これは最近になって、演劇的、哲学的な詩文が消滅したこと、伝統的な小説が瑣末の人間関係にとじこもり、ひきこもった自律性を確立するにつれて、ゆっくりと衰退してきたことと関係している。伝統的小説に拒否されたところには、なにより、人間社会における動力学(伝統的小説は社会を静的なものとして描く傾向がある)および宇宙における人間の位置がある。

粗雑で、うぶではあれ、すくなくともSFは、われわれの生活と意識のうちにあるもっとも重要なできごとに、哲学的、形而上学的なわくをはめようとしてきた。

わたしがSFを過剰に弁護しているように見えるとすれば、それはとうぜん、20年ちかくになる作家としてのキャリアを通じ、一貫してこのジャンルに関わってきたからである。そもそも、SFに目を向けたときから、わたしは現在への鍵となるのは「過去」よりも「未来」なのだと確信していた。とはいえ、いまなお、SFの2大テーマ―外宇宙と遠未来―への脅迫に満足することはできない。わたしは自分が深めたいとおもった新しい場所を、象徴的な目的からだけではなく、純理論的な、また予定的目的から「内宇宙」と名づけた。この心理学の場において(たとえば、シュールレアリズム絵画にみられるように)精神の内部世界と外部世界とがであって、とけあうのだ。


まずはじめに、わたしは「現在についてのフィクション」を書きたかった。
50年代末、横においたラジオから、ソ連の人工衛星「SPUTNIK」のコール・サインがあたらしい宇宙への前進をしめす電波標識としてきこえてくる世界でそれを実現させるためには、19世紀の文学者とはまったく異なるテクニックが必要だったのである。じっさい、もし、いま、すべての文学遺産を捨ててしまって、過去の知識抜きで1から文学をはじめることになれば、あらゆる作家がSFにとても近いものを生み出すことになると思う。

科学と技術はわたしたちのまわりで増殖しつづける。
ついにはわたしたちが話し、かんがえる言葉を支配するまでに―。
科学の言葉をつかうか、さもなくば黙るしかない。

ところが、皮肉なことに、現代のSFは、じぶん自身が予言し、生み出すのに手をかした世界によるはじめての犠牲者となってしまった。1940年代、50年代のSFが夢見た未来はすでに過去のものだ。当時の支配的なイメージは、いまでは、「月一番のり」や、「惑星間旅行」はもとより、テクノロジーに支配された世界でのかわりゆく社会的・政治的な関係についてすら、もはや、うちすてられた舞台背景画の痕かすにしかみえない。わたしたちにとって、このもっとも痛ましい実例は「2001年宇宙の旅」であり、これをもって現代SFの「英雄時代」はおわりを告げる―イマジネーションが生み出したうつくしいパノラマ、衣装と巨大セットは「風とともに去りぬ」を思わせ、科学のページェントが逆転した一種の歴史ロマンスとなり、同時代現実の鋭い光は差し込めないパックされた世界を生み出してしまうのだ。

「現在」、「過去」、「未来」についての概念は日々改訂をせまられている。「過去」―それひとつにしてみても、社会的、心理的な意味で、広島と核時代の犠牲者となった。そうするとそれに対応するはずの「未来」も消え、すべてをむさぼり食らう「現在」に飲み込まれてしまう。「未来」もまた「現在」の中に組み入れられ、その多様なヴァリエーションのひとつにされるようになってしまった。ますます選択肢がふえた結果、わたしたちの生きるほとんど幼児的な、幼稚な社会ではライフスタイル、旅行、セックスの役割とセックスのアイデンティティ、それ以外のどんな欲求、どんな可能性もたちどころに実現される。

さらに、ここ10年ほどで、虚構と現実のバランスは劇的に変わってしまったように思える。その2つの役割は逆転しつつある。わたしたちはあらゆる種類の虚構に支配された世界に住んでいる―大量販売、広告、その一分野にすぎない政治、すぐに通俗的想像力に翻訳されるサイエンスとテクノロジー、消費財のなかでますますあいまいにまじり合ってしまうアイデンティティ、経験にたいする自由な、イマジネーション豊かな独自の反応を先取りして封じ込めるテレビ画面。わたしたちは巨大な小説のなかにすんでいる。とりわけ作家にとっては、ますます、小説のなかで虚構をつくりだす必要はなくなりつつある。虚構はすでにあるのだ。作家の仕事は現実をつくりだすことである。

かつては、自分の外側の世界こそが、たとえ、どんなに混乱し、不確実だったとしてもあくまでも現実なのであり、精神の内側にある世界は、その夢、希望、野心は幻想と創造の世界を代表しているのだと信じられてきた。だが、わたしには、こうした役割もまた逆転してしまったように思われてならない。いま、世界に向き合うもっとも賢明で、効果的な方法は、世界を完全な虚構としてとらえることだ―はんたいに、最後にのこされた現実と結びつく点はわたしたちの頭の中にある。夢の潜在内容と顕在内容とを区別したフロイトの古典的分析、見かけと実体の区別は、いまこそ、現実とよばれている外部世界にあてはめてやらなければならない。

こうした変化を前にしたとき、作家の仕事とはなんだろう?
まだ19世紀小説のテクニックや構成を、直線的描写を、整然とした年代記述を、ありあまる時空間を堂々と支配する登場人物を利用できるのだろうか?
主題となるべきなのは、過去に根をおろした人物やその性格なのだろうか?
その人物のルーツをのんびり探ることなのだろうか?
社会行動と個人的関係のきわめて微妙なニュアンスを調べることだろうか?
作家は自己充足し、自己完結した世界を創造し、それにたいする質問すべてに答えを用意して、試験官のように登場人物をためす道徳的審判であっていいのだろうか?
理解したくないことは、すべて、じぶん自身の動機や偏見、精神病理までをふくめて無視してしまっていいのだろうか?

わたし自身は、作家の役割、そのよるべき権威は、ラジカルに変化してしまったと感じている。作家は読者にじぶんの頭の中をさしだして、選択肢とイマジネーションの代償物を提供する。その役割は科学者がフィールドワークで、あるいは実験室で、まったく未知の分野やテーマに挑戦する際のそれとおなじである。さまざまな仮説をつくりだしては、事実に即して、検証することしかできない。


「クラッシュ」はそうした本である。極端な状況における極端なメタファー、極端な危機のみに利用される自暴自棄なガイドブックなのだ。わたしが、過去数年の仕事によってじぶんの現在が回復されているならば、「クラッシュ」は近未来を舞台にした、過去の災害小説―「沈んだ世界」「燃える世界」「結晶世界」―のながれにつらなる、現在の災害小説としての位置をしめるはずである。

もちろん、「クラッシュ」があつかっているのは想像上の災害ではなく、いま、さしせまった世界のあらゆる産業社会で制度化されている全地球的災害、毎年何十万人ものひとを殺し、何百万人もの人を傷つけている災害である。

自動車事故のなかに、わたしたちは、セックスとテクノロジーの悪夢めいた結婚の不吉な予兆を読みとっているのではないだろうか?
現代テクノロジーは、だれも想像もしていなかった手段で、わたしたちの精神病理の扉をノックしているのではないだろうか?
ひと、それほんらいが持っている倒錯に枷をはめるのはわたしたちにとってよいことなのだろうか?
理性があたえてくれるよりも力強い逸脱の理論はあるのだろうか?

「クラッシュ」全体をつうじて、わたしは自動車をたんにセックスイメージというだけではなく、今日の社会における人間生活全体のメタファーとして使用している。そうした小説は性的な内容とはべつに、政治的な意味もあるのだが、わたしとしてはやはり「クラッシュ」を世界ではじめての「テクノロジーに基づくポルノグラフティー」だとかんがえたい。ある意味で、ポルノグラフティーとはもっとも政治的なかたちのフィクション、人がお互い同士を一番てっとりばやく、容赦なく利用し、搾取するやりかたについての小説だということもできるだろう。

いうまでもないことだが、「クラッシュ」の究極の役割は「警告」にある。テクノロジーの風景の辺境からますます強まりつつある声でよびかける、この野蛮な、エロティカルな、ひかり輝く場所への警戒信号なのである。」


いうまでもなく、わたしたちは21世紀に生きています。
でも、はたしてバラードのいう19世紀的な自我の認識からどれだけ遠ざかっているのでしょうか?いまだに封建社会的制度の枠組みのなかでしか思考やイマジネーションがされていないのではないでしょうか?インターネットがあらわれ、携帯端末が日常化し、現実がたちまちのうちに液晶画面のなかへと置き換えられ、世界そのものがフィジカルレベル、皮膚レベルで近づき、記号になり、まばゆい差をしめすイメージとなり、すぐそこでダンスするなかで、わたしたちの意識そのものはいまだに強固に古い価値にしがみつこうとしてはいないでしょうか。価値をめぐるこぼれおちるようなひかりあふれる混乱はわたしたちを自由にするどころか、逆にいままでの価値にしがみつかせようとし、伝統的で、保守的なものの枠組みは、言葉ばかりの改革とは正反対に強固に機能しつつあるように見えます。わたしたちは未成年売春、幼形成熟、ドラッグ濫用、アンドロイド、アイデンティティの混在、自我の不在、人間のモノ化、性的混乱、人工生体臓器移植をふくめたあらゆる種類の倒錯をうけいれ、社会をもっともっとハイパー化された方向へとおしすすめるべきなのでしょうか?(おそらく、そこでは逆転の逆転があたりまえとなるでしょう)畸形と突然変異のモンスター、欲望の人工培養クローン、そのモードがキャットウォークする社会はいまや先進諸国の共通の認識なのではないでしょうか?あるいはそれをただ見て、現状を憂いていればいい?いずれにせよ、民主主義という政治体制をベースにもつ現代社会の「許容範囲」、倒錯と価値の逆転―そのむきだしで、エロティックで、なまめかしい金属的な欲望のきらめきはおもわず目をほそめ、おおくのひとの頭を狂わせてしまうほどに、まばゆいものであることはまちがいないようです。日々をうずめる倒錯して、分解的、フィジカルな次元でも、こころの次元でも、政治的制度の次元でも、「バラバラ」な事件は如実にそれを物語っています。
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☆インタヴューたち
さいごにインタヴューを見て、補正とします。
ここで語ったことのだいたいはこのヴィデオの中でバラードの翻訳にすぎません。
頭のよい読者のかたならば、べつに無理に本を読まなくとも、状況をかんがみて、バラードのいわんとしていることのたいがいは見透かせるのではないでしょうか。

☆South Bank Show インタヴュー その1
☆South Bank Show インタヴュー その2
☆South Bank Show インタヴュー その3

☆ロングインタヴュー BBC Profile

クレージーでおもしろくって、嘘の嘘が本当であるような、シュミレーション世界、テクノロジーのハイパーワールドがわたしたちのとりまかれている世界であり、それらは否定しがたく、進んでゆく。世界はひとの現実意識そのものをぐんにゃりとゆがめ、まどわし、錯覚させ、もやでおおってゆきます。わたしたちの意識にはテクノロジカルな白昼夢ばかりが霧のようにもやもやとただようばかりなのかも知れませんね-。

そして、そんな世界の中では「深刻に悩むこと」も「腹をかかえて笑い転げること」もフラット、おなじ価値のものにすぎないのかもしれません。それはある意味では、モードとファッションのレベルとして、認識され、民主主義の根本的なディスクール-すなわち「女こども」によって、中和され、抜き取られ、溶かされてしまうものなんでしょうね、きっと-。

そして、そのとき、いったい、ひとはどんな顔をしているのか?
男たちのバカづら、まぬけでなににたいする反応なのか、いまひとつよくわからないフ抜けたアホづら、よだれを垂らして快楽にふるえるアーパーづら-なんてものを、政治家の演説や新聞のインタヴューに答える作家、社会につながれた犬のような新聞記者、一面的で頭のかたい大学教授とおなじようにながめるのは、「心のかたすみ」に巣食うサディスティックな欲求をおおいに満足させるものです。でも同時に、ここにはなにかが抜かれてしまっているようにも思います。それは、これまでずっと、わたしたちを根拠づけ、わたしたちをかたちの中へいれ、わたしたちを見ることができるものとしてきたものだとぼくは考えています。そして、はたして、それでいいのでしょうか?よいのだとすれば、それは欠けてしまったということなのでしょうか?それとも付け加えられたということなのでしょうか?それは進化なのでしょうか?それとも退化なのでしょうか?

バラードとの関連からいえば、テクノロジーの進化とガジェットの発展は精神の幼稚化、こころの未熟さをそのまま包みこんで、カプセルの中へといれる保護装置にすぎず、テクノロジーが進歩すればするほど、こころは未熟で貧しいものになってゆくのだろうか?もし、そうなら日本というテクノロジーの先端国でつむがれる幼稚で、アメリカナイズされた、どうあってもマンガ化された視界という前提からしか見えない無限の祈りにも似た「女・こどもの夢想」-幼稚で平和でフラットな無国籍の夢のゆくえはどこへゆくのか?

問いはずっと遠くのほうまでつきることはありませんが、今回はこれぐらいでやめておくことにしましょう。これだけははっきりと言えます。平和とセックスはひとを幼稚な「女こども」にします。戦争と戦いはひとを「男おとな」にします。マンガや情緒・感覚は「女こども」にかかわり、思想や論理・理性は「男おとな」にかかわります。まじりあうことや交配がすこしづつおこなわれているとはいえ、現代に支配的視界が前者であることは日々の生活やなにげなく耳にする社会の声であきらかでしょう-日本語は漢字を借りなければ、きわめて情緒的な言語であり、この情緒から日本語それ自体を切りはすことが大岡昇平から三島由紀夫、村上春樹、龍、阿部重和に至るまで、日本の戦後文学の隠された課題であることは周知のとおりです。(とはいえ、現状は情けないほどの先祖がえりですけれども-)もし自然発生的なものとして今おかれている現実をとらえるのなら、わたしたちは誰もが社会と時代のなまぬるい大気のなかで「女こども」になってゆくにちがいありません☆

そうして-世界そのものをミニチュアで手のとどく「女こども」にし、彼らに平和とECOを説き、母性によってとかしてしまうこと-2008・G8サミットの主催国である現代日本社会の潜在的夢とはそんなようなものなのでしょうか。これはいいことなのでしょうか?日本人ならば、この潜在的夢を共有すべきなのですか?どうでしょう、あやしいものです。そんなものー

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☆おまけー時間をめぐる考察
これはあんまり「クラッシュ」とは関係ないのですが、バラードの時間にたいする考え方は鋭く、興味深いものです。「結晶世界」でも時間性そのものへの問いがありますが、バラードの文学世界にはこの問いかけが繰り返され、それはプルーストの時間性にもうひとつ時間性をつけくわえたような考え方に思われます。

「われわれの中には共存するおおくのシステムがあって、とりわけ、生物的システムと精神的システムがある。たとえば、J・G バラードは46才であっても同時に何百万年生きてきたといえるわけです。このことは経験の側面でもあてはまる。たとえば、ぼくには数秒前の体験もあれば、親や祖父母からうけついだ体験もある。真の作家や詩人は火花あるいは稲妻のような瞬間的なひかりをもって、このような「同時性」において、いくつかのシステムを観察しなければならないという任務をもっている。すなわち、一瞬にすべてを凝縮させ、いくつかのシステムをつなぐイメージを創るのがわれわれの任務です。ぼくはいろいろなシステムの接点を発見しなければならないと思って書いてきた」
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

J・G・バラード(James Graham Ballard, 1930年11月18日 - )は、中国上海生まれのイギリスの小説家、SF作家。

目次

1- 経歴
2-主な著作
2.1-長篇小説
2.2-短篇集
2.3-書評、エッセイ集
3 -映画化作品

少年時代を上海で過ごすが、第二次世界大戦開戦後、一家は日本軍の捕虜収容所に収容された。(このときの体験は後に小説『太陽の帝国』としてまとめられることとなる。)

1946年、バラードは一人でイギリスに帰還し、祖父母の家に住んだ(父母はしばらく上海に残ったが、1949年に共産党軍の侵攻により裁判にかかった。が、うまく逃れてイギリスに帰国した)。バラードは帰国直後、「話と本でしか知らなかった」、初めて体験する「母国」イギリスに、非常なカルチャーショックを感じたと語っている。

ケンブリッジ大学で医学を学ぶが、途中でロンドン大学に移り文学を専攻。だがそこも中退して、カナダ空軍の飛行訓練生になったが、また中途でやめ、イギリスに戻り広告会社に入社した。

1956年、『サイエンス・ファンタジー』誌から、のちに短編集『ヴァーミリオン・サンズ』にまとめられるシリーズの短編「プリマ・ベラドンナ」でデビュー。

60年代には『ニューワールズ』誌を中心に「思弁小説(スペキュラティブ・フィクション)」と呼ばれる新しいSFの形式を呼びかけ、自らも多く発表した。ニュー・ウェーブSFの中心人物のひとりである。当時のバラードの有名な宣言に「真のSF小説の第一号は、健忘症の男が浜辺に寝ころんで、錆びた自転車の車輪を見つめつつ、両者の関係性の究極的な本質をつきとめようとする、そんな物語になるはずだ。」という文章がある。実際に彼が書いた短編小説は、この文章で表現されたような小説であった。

そして、「破滅三部作」と呼ばれる、『沈んだ世界』『燃える世界』『結晶世界』で、破滅していく美しい世界を描きだした。60年代後半には自ら“濃縮小説”と名付けた、断片・断章からなる短篇群を書き、『残虐行為展覧会』にまとめられた。

70年代には『クラッシュ』『コンクリート・アイランド』『ハイ-ライズ』の「テクノロジー三部作」によって、科学技術の産物と人間との関係を追求した。

近年は『太陽の帝国』、『女たちの優しさ』など、自伝的な作品も発表している。特に『太陽の帝国』に描かれた、テクノロジーへの憧憬と、魅惑的な破滅する世界は衝撃的で、「バラードの『異様な小説の世界』は、少年時代の彼の体験そのものであった」という驚きの事実が判明した。

シュール・リアリズム絵画の愛好家であり、普通小説であろうと、SF小説であろうと、主人公が体験する世界はまるで”オブジェ"のように、独特の比喩を用いた文体で描かれ、主人公はその世界に流され、主体的な判断をしようとしない。

なお、妻は60年代前半に、スペインでの休暇中に肺炎で若くして死に、バラードはひとりで、3人の子供を育てあげている。

☆主な著作

☆長篇小説

* The Wind from Nowhere(1962年) 『狂風世界』宇野利泰訳
* The Drowned World(1962年) 『沈んだ世界』峰岸久訳
* The Burning World(1965年) 『燃える世界』中村保男訳
* The Crystal World(1966年) 『結晶世界』中村保男訳 1970年第1回星雲賞海外長編賞受賞
* Crash(1973年) 『クラッシュ』柳下毅一郎訳
* Concrete Island(1974年) 『コンクリート・アイランド』(『コンクリートの島』)大和田始/國領昭彦訳
o 太田出版での再刊時に、山形浩生による、17,000字に及ぶ解説「J.G.バラード:欲望の磁場」を追加した。
* High-rise(1975年) 『ハイ-ライズ』村上博基訳
* The Unlimited Dream Company 1980年イギリスSF協会賞受賞(1979年) 『夢幻会社』増田まもる訳
* Hello America(1981年) 『22世紀のコロンブス』南山宏訳
* Empire of the Sun(1984年) 『太陽の帝国』高橋和久訳
* The Day of Creation(1987年) 『奇跡の大河』浅倉久志訳
* Running Wild(1988年) 『殺す』山田順子訳
* The Kindness of Women(1991年) 『女たちのやさしさ』高橋和久訳
* Rushing To Paradise(1995年) 『楽園への疾走』増田まもる訳
* Cocaine Nights(1996年) 『コカイン・ナイト』山田和子訳
* Super-Cannes(2000年) 『スーパー・カンヌ』小山太一訳
* Millennium People(2003年)

☆ 短篇集

* The Voices of Time And Other Stories(1962年) 『時の声』吉田誠一訳
* Billenium(1962年) 『時間都市』宇野利泰訳
* The Four Dimensional Nightmare(1963年)
* Passport to Eternity(1963年) 『永遠へのパスポート』永井淳訳
* Terminal Beach(1964年) 『時間の墓標』伊藤哲訳
* The Impossible Man(1966年) 『溺れた巨人』浅倉久志訳
* The Day Of Forever(1967年)
* The Disaster Area(1967年)
* The Overloaded Man(1967年)
* The Atrocity Exhibition(1970年) 『残虐行為展覧会』法水金太郎訳(横山茂雄のペンネーム)
* Vermillion Sands(1971年/1973年) 『ヴァーミリオン・サンズ』浅倉久志訳
* Chronopolis And Other Stories(1971年)
* Low-flying Aircraft And Other Stories(1976年) 『死亡した宇宙飛行士』野口幸夫訳
* The Best of J. G. Ballard(1977年) 『ザ・ベスト・オブ・J・G・バラード』星新蔵訳
* The Venus Hunters(1980年)
* Myths Of The Near Future(1982年)
* Memories Of The Space Age(1988年)
* War Fever(1990年) 『ウォー・フィーバー』(『第三次世界大戦秘史』)飯田隆昭訳

☆書評、エッセイ集

* A User's Guide to the Millennium(1996年) 『J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド』木原善彦訳

☆ 映画化作品

* クラッシュ(Crash) 1996年カナダ、監督:デヴィッド・クローネンバーグ、出演:ジェームズ・スペイダー、ホリー・ハンター ほか
* 太陽の帝国(Empire of the Sun) 1987年アメリカ合衆国、監督:スティーヴン・スピルバーグ、出演:クリスチャン・ベール、ジョン・マルコヴィッチ、ミランダ・リチャードソンほか
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