カテゴリ:フィリップ k ディック( 2 )



アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

フィリップ・K・ディック 浅倉 久志 / 早川書房





ブレードランナー 最終版





否定的なもののもとへの滞留―カント、ヘーゲル、イデオロギー批判
スラヴォイ ジジェク Slavoj Zizek 酒井 隆史 田崎 英明 / 太田出版



セックスだよ
「セックス?」
「原因は、彼女(アンドロイド=レイチェル)に―あれに―色気を感じたからさ。
いままでそんな経験が一度もなかったというのか?」フィルレッシュは笑い声を上げた。
・・・・・・・・・・
「もし―セックスではなく―愛だとしたら?」
「愛はセックスの別名さ」
「国を愛したり、音楽を愛するような愛だ」
「もしそれが女か、女もどきのアンドロイドに対する愛なら、それはセックスだね。眼をさまして、はっきり自分を見つめたらどうだ、デッカード。あんたはある女性型のアンドロイドに対して、いっしょに寝たいという欲望を感じた―しょせんはそれだけのことだ」
・・・・・・・・・・・
リックはあんぐりと口をあけた。「まず、彼女と一緒に寝て―」
「それから殺すんだ」フィル・レッシュは簡潔にしめくくった。依然としてつめたい微笑をたたえたままで。
 おまえさんは優秀なバウンティ・ハンター(アンドロイドハンター)だよ、とリックは思った。その態度は見上げたもんだ。しかし、このおれは?
 だしぬけに、生まれてはじめて、リックは迷いを感じ始めた。
 (ブレードランナー原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」P185 フィリップ K ディック)


 上記、引用はまさに西洋人が現代の流行語である「萌え」を先見的に捉えたものではないだろうか。「性欲=愛」が人間のみならず、「それと似ているがそれであらぬもの」にまで、拡大し―そしてそういった模造ブツ―FAKEな「モノ」―を人間が読み込んでしまい、「寝たい―」とまで思ってしまうという意味で極めて現代的なテーマを扱った物語だろう。

◆相互補正=イメージと構造連動
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 さて―この物語が、暗示しているものというのはいわゆる表象レベルにおける東洋的な未来観というものを越えて、資本と肉体の相関関係の位相、模造とリアル、ヴァーチャルと現実との未来的関係を示唆したもののように思われてならない。この映画の真に重要な点というのは西洋東洋の混合的な世界観レベルにとどまるものではないことは明らかだし、世界観のみに焦点をあてたものとして見るべきではないように自省をこめて思った。これはつまり―ウォンカーワイ「2046」やスピルバーグ「AI」、あるいはSONY PLAY STATIONにおけるメタルギアシリーズによって敷衍されるところの―あるテクノ未来主義の脱二元論的幻像なのだろう。そしてわたしたちの知覚がいわゆるモノ=機械=アンドロイドにまで及んで情愛の感情を抱きうることの確認という意味で、西洋近代ディスクールの意味するところの「倒錯」の映画であるということができるだろう。(もっとも「FAKEなモノ」へのこういった感情は 「萌え」 といった21世紀的言語表現にあらわされるように多神教宗教観をもつ日本人にとってはそれほど「倒錯」的なものだとは思えない。この映画は西洋近代ディスクール文脈における、あきらかな「倒錯性」と「混在性」、そして資本の流れと意識の流れの東洋化という意味でいわゆる西洋近代言説を超え、そしてポストモダン思想さえも超えた領域で営まれた映像幻影であると、戯れに断言してみたい誘惑に駆られてしまうような映画なのである。フィリップ K ディックの原作それ自体もさることながら、従来のディック的な枠組みに都市論レベルでの東洋趣味解釈をさせて、未来フレーバーに味付けして見せたのは、個性的で幻視的であり、示唆に富んでいるよう―もっとも原作(「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?DO ANDROIDS DREAM OF ELECTRIC SHEEP?(以下―「DS?」)」にあったある種の情感と要素をふるいおとして、翻訳してしまったところはあるし、映画という枠組みの中に転写する過程で、原作のもっていた主題的なものを読みかえてしまったところはは確かにある。(たとえば最も大きなものは「DS?」では―で描かれた中心的かつ生物学的要素を賦与するものとされたペットのテーゼで、これによってこの映画から生物学的循環構造(羊のみならず驢馬や蟇蛙といった動物的要素群)は切られてしまっている。それから、「DS?」に登場する倫理規定作用としてのマーサ教は映画ではまったく触れられない。そして、原作で描かれるレイチェルはもっと子供っぽく、明らかに東洋人を意識したものだ(「あらためて気がついたのは、レイチェルの体の異様なプロポーションだった。ゆたかな黒い髪のせいで頭が大きく見えるのと、小さな乳房のおかげで、彼女の肢体は子供のようにほっそりとして見える。」(「DS?」P240)―黒い髪、大きな頭、小さな乳房、子供のような細い肢体―とは日本人女子の体型を喚起させるものではないだろうか?それが映画ではひどく大人びて、よりスタイリッシュで、超越的でスタティック、そして「崇高」な西洋文明の粋を凝縮したかのような存在として描かれる。この超越性と崇高性とを賦与することによって映画は、原作を凌駕して、たとえば同じディック原作の「トータル リコール」などに比べると、圧倒的にヴィジュアルの美的高みを感じさせられるからだ―つまりこういったふるい落として、翻訳することによって、生物学的なもの、倫理的なものや宗教的なものはエッセンシャルにとどめ、ヴィジュアル主体のものとして、再構成されたのだろう。そしてヴィジュアルとして映画は面白いし、より思想的深みがあるのは小説だ。
どちらかが独立した「よりよい」ものというべきものではなくて、どちらもが相互に補正しあうところの相互補正としてあるもので、全体的な理解としては、どちらをも読んだほうがいいし、イメージ(映画)と思想(原作)の相互の読みによって補完されるものだと思う。
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◆資本主義経済の幻想をめぐる人間意識変容
 スラヴォイ ジジェクはその著作「否定的なもののもとへの滞留」において、映画「エンゼルハート」と「ブレードランナー」の共通性を指摘しながら、以下のように述べている。

「これらの映画が共通して描いている世界では企業体<資本>Corporate Capitalがわれわれの存在の最も幻想の核まで入り込み、それを支配している。われわれの持っている特徴の何一つとしてわれわれのものではない、われわれの記憶や幻覚さえも、人工的に植えつけられたものである。これまでは<資本>の回路からは排除されきた最後の手段までもが<資本>によって植民地化される時代としてのポストモダン、というフレドリック ジェイムソンのテーゼのように。」(「否定的なるもののもとへの滞留」P25)

 後にジジェクはこういった階級闘争と主体の純粋な空虚としてのラカン理論に論点を移すのだが、ここでは資本主義が企業体を通じて、シュミラルクルに主体を支配し、模像化させることに着眼し、その模造化を簡単に描いてみたい。それではまずわたしたちが生きている現実社会としての資本主義市場経済とはどのようなものなのだろうか。

★=1、「ケインズ以来われわれが知っているように、資本主義経済はきわめて厳密な意味に「ヴァーチャル」である。ケインズのお気に入りの格言によれば、長い目で見ればわれわれは皆死ぬ。資本主義経済の逆説は(ヴァーチャルな)未来からの借り入れ、つまり「現実(リアル)の」価値によって、「担保されていない」貨幣の印刷が現実の効果(成長)をもたらすことができるということなのである。」(「否定的なもののもとへと滞留」P158 スラヴォイ ジジェク☆)

★=2、「資本主義がすべての社会の外なる極限であるのは、資本主義がそれ自身として外なる極限をもっていないからではない。そうではなくて、ただ資本主義自身のみがみずから到達しえない内なる極限(資本そのものという内なる極限)をもっているからなのである。この内なる極限は、資本主義によってたえずおきかえられ、再生産し続けられるものなのである」(「アンチオイディプス」P277 ドゥルーズ=ガタリ☆)

★=3、「ディズニーランドとは、他の場所もそうだが、空間の再生空間だ。しかもこの場こそ、廃棄物処理工場なのだ。いま廃棄物を、夢を、幻影を歴史的夢幻的幻想をいたるところで再利用(リサイクル)しなければならない。子供や大人の伝説とは廃棄物だ。これこそハイパーリアルな文明の、最初にして最大の有毒な廃棄物だ。ディズニーランドとは精神面におけるこんな機能を備えたプロトタイプだ。」(「シュミラークルとシュミレーション」P19 ジャン ボードリヤール☆)

 これら★シリーズの3つの引用から確認されることはいずれも資本主義の限界とその在りかたなはずだ。つまり未来的な意味の前借によって、ヴァーチャルなものとして成立し(★=1)、内なる極限を絶えず置き換えられた再生産(★=2)と同時にそれが「再利用」された最大の廃棄物の夢の空間 (★=3)がこそ私たちが取り巻かれているこの社会の基本MATRIXに他ならない。そして主体活動といったものがこういった基本MATRIXへの登録と備給をされることによって、主体といったものは必然的に外部的な★=規定によって、規定されるところの主体といえる。言い換えよう。例えば時代的な諸配置の構造的視座からながめるのであれば、「わたし」というこの空虚な主体というものは、資本主義の措定する限りの<男子欲望装置>であると言い換えることできるだろう。もちろん「わたし」などというものが主体として自らを規定しうるなどというようなことはいうまい。「わたし」とは上記引用の規定の中を生きる資本主義機械の再生産物であり、いみじくも置き換えによって「再生産」され、廃棄物の夢をまともな夢として読み込む装置にすぎない。で、あるならばこの装置というものは、もし資本主義の発展と不可分な、一連托鉢なものであるとは考えられないだろうか。つまり―こういった外部によって必然的に規定され、定位付けられうるところの主体装置。それならば外部的な諸条項因子構造によって、内部構造を賦与される主体とはいかなるものだろうか。つまり「わたし」というのは社会の何らかの影響なしに内部構造を形成できないところの主体ということだ。こういったことはドストエフスキーからトルストイ、モードのおけるロマンテックとハードのローテーション、あるいは哲学や科学における主体と客体をめぐる実存から構造への揺れ戻しの史学のなかに内包されている問いなのではないだろうか―だからこそ、この映画に描かれる資本主義の発展した諸状況というものは、いずれ訪れるべき可能性としての状況として見るべきだろう。つまり―これから訪れるところの―外部という―いまだ訪れていない現在という―内部として。そしてもし仮に―これから訪れるところの―外部というものが、―いまだ訪れていない現在という―内部の慣性と示唆、あるいは発展的進歩的可能性をその表象に内在させているのであるというならば、それは現在に内在されているところの未来だといえるのではないだろうか―以上のように考えるならば、この映画は、すなわち現在の人間の模造物性の逆照射なのだ。つまりやや飛躍した断言してみれば、このネクサス7型がこそ、こういった高度資本主義の所詮「ヴァーチャル」(★=1)かつ「再生産」(★=2)かつ「廃物」(★=3)にすぎない現代人のある種の素粒子的微分因子を分子顕微鏡的に敷衍したものに他ならず、それはまさに、 現代人が模造人間、ネクサス7型であることに他ならない。わたしたちはすでにとっくにそれと気付くことなく、ネクサス7型なのである。ボードリヤールはいう。
 
われわれは模擬人間だ。われわれは模擬物―ブツ、「モノ」―だ。社会体が放射した凹面鏡だ。といっても光源のない放射だ。原点も距離もない権力だ。だからこそこのシュミラルクル宇宙で戦わねばならないのだろう―希望もなく(希望とは弱い価値だが)―しかし挑発と誘惑の中で闘わねばならない。というのは、あらゆる判定機関や、価値の軸、価値体系学、もちろん政治も、それを液化させる源である強力な魅惑を拒否してはならないからだ。こんなスペクタクルは資本にとっては末期であると同時に絶頂期のスペクタクルであり、シチュアショニストが描く商品のスペクタクルから大きくはみ出るものだ。このスペクタクルこそわれわれのエネルギーの源だ。・・・・・・・・・・死がわれわれにもたらしたものよりも流動的で模擬的な動物や、生き生きとした亡霊の誠実さとこの砂漠の民となるのはわれわれだ、価値の機械的な幻想をぬぎすてて。資本よりも資本の共に、われわれはこの世界に、砂漠とシュミラークルの奇妙な不安につつまれて生きるだろう―なぜなら、都市砂漠とは砂の砂漠と同じであり―記号のジャングルとは森のジャングルと同じで―シュミラークルの眩暈とは自然の眩暈と同じだからだ―瀕死のシステムのまばゆい誘惑が生き残っているだけだ。(シュミレーションとシュミラークル第16章「螺旋しかばね」P191)

わたしたちは自ら作り出したものと自然がつくりだしたものとを分け隔てて考えることが出来ない―都市砂漠は砂の砂漠で記号のジャングルは森のジャングル、シュミラークルの眩暈は自然の眩暈―つまり人工と自然とが分かち難いものだ」と、いうこと。これらというものは明らかにキリスト教的倫理基準から外れてゆくものであり、科学によって分解させられた21世紀的価値基準であり、ある意味では日本的アニミズムの宗教感覚に近いように思う―アニメはこんなアニミズムの古代信仰がテクノロジーと連結することによって齎される現代の表現形態のひとつだ、だからこそ日本は、ディズニーが見た麻薬の夢をテクノロジー(ぼくは明らかに麻薬とテクノロジーは何らかの相互補足関係にあると思っている)によって置き換えることが出来るのだろう、そしてその背後に潜む思想は仏教であり、古代神道の古くも新しいドグマの形式なのではないか?ドゥルーズの思想というのはそれ故日本人に読まれるのだ。つまり喋る鉱物、連結されるモノたち、うねり接続される機械、あるいは躍動し同一化される動物たち、アニメ的なあまりにアニメ的な思想―そしてわたしたちは明らかにヨーロッパ人のようにこれらの意識を厳密にとらえてはいない。つまり弁証法的な論理厳密性による思弁の対立とレトリックの駆使による言語空中戦を不得手とする日本人は言語ならざる交流の形態を、不可視の領域を、洗練されたミニマリズムの所作を、そして泥沼の言語陥没地帯を育み、そうすることによって言語ならざるテレパシー領域を、クイズ番組などに見られるサイバネテックス対応型第六感鍛錬を、非アカウンタビリティーの暗黙の了解領域の拡大を意図してきたのではなかっただろうか?―勿論ここにはこういった運動形態が必然的に孕むであろう慣性の危機―自己閉塞、自己撞着、ひきこもり、近親相姦、箱庭世界構築、粘着質関係疲労症候群、自殺、閉塞的精神濫用、閉塞的薬物濫用、肉体道具使用に伴う精神疲労・・・等―があるだろうが、他面においては、そうと定義することもはばかられるような失笑ぎみのポストモダン、西洋近代の異物としてのモダン、あるいはどうしようもなくポストモダンが体現され、西洋かぶれのインテリの訳知り顔を軽くいなす全く新しい活力や視座がまさに今スーパーフラットな存立平面から勃興し煮えたぎる溶岩のようにぐつぐつと音を立てていると見るのはやや楽観的すぎることなのだろうか?

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フィリップ・K・ディック 浅倉 久志 / 早川書房






否定的なもののもとへの滞留―カント、ヘーゲル、イデオロギー批判
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◆モノの超越性
 ところで、上述したように、この<モノの超越性>を賦与された存在としてのミステリアスな魅惑を、ヒロイン「レイチェル」に漂わせることによって、「崇高さ」を纏わせたことはこの映画の成功の要因のひとつだろう。(つまり残滓として死に際の欧米高級文化の精神を賦与したこと)原作ではレイチェルが「増殖」してしまうのだが、そうさせることによって、映画で表現された<モノの超越性>がない。映画のレイチェルにはジジェクによれば、「カント的」といわれる<モノの超越性>があって、それは、アンドロイドというものが孕む「及びがたい冷たさ」、「異物の美しさ」、あるいは「テクノロジーの孕む崇高な美」だ。たとえばエヴァンゲリオンの「綾波レイ」はレイチェルの崇高さ抜きの翻訳と見ることができる。すぐそこの地続きの日常の中に投げられた「モノの超越性」を漂わせる存在。そして及びがたいからこそ、萌える欲望―現代のSF映画やSFアニメに潜在する「テクノロジーの孕む崇高な美」はこういった人間のパラドクスともいうべき欲望からなっているように思う。

 それから映画の都市構造において、こういった強固な建築群の中に秘められたある種の建築学的超越性をわたしたちは行間のうちに読み取ることによって、この映画を特別の位置に位置付けているのではないだろうか?(おそらくこういった感覚というのは、ヨーロッパを旅行する日本人旅行客がはじめてはいる大聖堂カテドラル体験と近い)―つまり、日本にはない天井の高さ、そして人間の超越性、高級文化の高み―それらが映画という大衆的存立平面に残滓として漂う文明の痕跡を鋭敏に嗅ぎ分けるのである。
 そしてこのレイチェルや綾波などのモノというものは到達不可能なものであり、この到達不可能性がこそ、<モノの超越性>を背後から支えているのではないだろうか。

「「要するにこういうことだ。「考える<モノ>はいかに構造化されているのか」という問いに対しては、われわれは答えることができないのである。自己意識の逆説とは、それが可能であるのは、それの不可能性というものを背景にするかぎりにおいてであるということにある。私が私自身を意識するのは、私が私の存在の現実的な欠くREAL KERNEL(考える私あるいは彼あるいはそれ(モノ))としての私自身(私そのもの)には手の届かないところにいるかぎりでなのである。私は、私の「考える<モノ>」としての能力からは、私自身(について)の意識を獲得することはできない。「ブレードランナー」で、デッカードは、レイチェルが自分のことを人間であると認識し(損ね)ているレプリカントであると知った後で驚きながらこう問う。「それITがなんであるかをそれが知りえないなどということがどうしてありえよう」。われわれはいまやカントの哲学が200年以上も前にこの謎への解答をどのように素描していたかを理解することができる。自己意識の概念そのものが主体と客体のあいだの対立よりも一層ラディカルな自己の脱中心化を含んでいる、というのがその答えである。これこそはカントの形而上学的理論が究極のところ取り扱おうとしているものなのである。形而上学とは主体に「存在の大いなる連鎖」の場所を確保してやることで「原抑圧」の傷(「考える<モノ>への接近不可能性)を癒そうとする努力なのだ。」(否定的なもののもとへの滞留(P34))

以上の引用から、ジジェクがここで読み込んでいるものは明らかだろう。ジジェクはここに西洋がなしうる精神的LOOPを読み込んでおり、引き続き続く精神連鎖の解釈によって、カントをデッカードに、あるいはディックに連結解釈している。そしてそうすることによって、西洋文明的な位置づけの言説重層性の中にPOPを読み込む。そしてここにこそジジェクの面白さがあるのだ。ジジェクは一見結びつきがないように見えるもの、つまり「連関を失って散乱し浮遊する廃物たちのそのざらついたきらめき」(日野啓三)を、アクロバティックというべき空中概念連結によって、結合し、言説を製造するそこに。そして逆の見地からいえば、その連結と自己包摂の原MATRIXを形成し、言説を弁証法的に閉ざしてしまうところにこそ、彼の限界はあるのではないだろうか。つまり彼はボードリヤール同様に西洋文明の循環LOOPに準拠しすぎるのである。だからその言説は確かに面白くて、一見未来を開くように見えて、知識人のもっとも初歩的な陥穽の中と閉塞に捉われてしまっているように見えてしまう。
ジジェクはアジア的な、東洋的なものにたいしてあまりに無関心なのである。

だからジジェク的見地からは一面においては、おそらくブレードランナーは言説構造の重層性といったものを約束こそすれど、多面において「決定的な言説の無効性」をとりにがしてしまっているように見える。つまりここで欠けているのは崇高性の反対の側面、都市のアジア的「猥雑さ」とテクノロジーに準拠した資本主義社会が決定的に位相を変えるだろうその地点である。(もちろん崇高さはそれとして敬うべきである、かもしれない。がしかし、われわれの生において決定的に重要なものは崇高さではない。それはアジア=ヨーロッパの露西亜人が洩らしたこんな言葉なはずだ―

「生きていたいよ、だからおれは論理に反してでも生きているのさ。たとえこの世の秩序を信じないにせよ、俺にとっちゃ、<春先に萌え出る粘っこい若葉>が貴重なんだ。青い空が貴重なんだよ。そうなんだ、ときにはどこがいいのかわからずに好きになってしまう、そんな相手がたいせつなんだよ」(「カラマーゾフの兄弟(上)P441 新潮社文庫 ドストエフスキー)

そしてアジアの雑草性―

「中国は人類というキャベツ畑の雑草だ。・・・・・雑草は人間の努力の復讐の女神である。われわれがもろもろの植物、動物、星などに託しているあらゆる創造的生活のうちで、いちばん賢明な生活を送っているのは雑草である・・・・けれどもとどのつまり、すべてが中国の状態に回帰するのだ。それは歴史家たちが一般的に注背の暗黒と呼ぶものである。草以外に出口はない。・・・・草は耕されない広大な空間のあいだにしか存在しない。それは空虚を満たすのだ。それはあいだに生える。(注 つまり存在というものと存在というものの間に、崇高性を存在させない、中間地点に)ほかのものにはさまれて。花は美しいし、キャベツは役に立ち、ケシは人を狂わせる。けれども草は氾濫であり、それは一個の教訓なのだ。」(ヘンリー ミラーの引用「千のプラトー」ドゥルーズ=ガタリ P32)

ドゥルーズはジジェクが閉ざされているものに対して開かれている。逆にいえば、ここにこそジジェクの根本的な原始人感覚―それは魅惑と批判のないまぜになったもので、日本に対する批判に対して使用可能な原MATRIX―があるように思う。だから、ジジェクに対しておこる疑問は、結局ジジェクは自らが看破した西洋批判構造の循環LOOOPを超越しているのだろうか?ということ。そして―個人的に、ドゥルーズに見えるものというのは、そういった西洋近代言説LOOPから逃れてゆく変数、西洋的視点からは捉えがたいものへの意識拡張なのである。この見地からしてみれば、ここでレイチェルに読み込まれる崇高性の死に際の西洋近代―これもまた高度資本主義が打ち上げる通過点としてのイマージュにすぎなかったといえはしないだろうか?
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