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消費社会の神話と構造 普及版

ジャン ボードリヤール / 紀伊國屋書店



「幸福な時にも不幸な時にも人間が自分の像と向かい合う場所であった「鏡」は、現代的秩序から姿を消し、そのかわり「ショーウィンドゥ」が出現した。そこでは個人が自分自身を映して見ることはなく、大量の記号化されたモノを見つめるだけであり、見つめることによって彼は社会的地位などを意味する記号の秩序の中に吸い込まれてしまう。だからショーウィンドゥは消費そのものの軌跡を映し出す場所であって、個人を映し出すどころか吸収し、解体してしまう。消費の主体は個人ではなく、記号の秩序なのである。」

日本でも、アメリカでも、ヨーロッパでも―(そしておそらくこれから中国でも、BRICKsでもそうなるだろうが)現代社会は進歩の脅迫観念にとらわれ、経済的な領土を押し広げることに躍起になっている。それで―押し広げられた未開、西洋ならざるもの、あるいは架空の領土、コンピュータースクリーンに人々が殺到し、数字を折りたたみ、それで―満足したり、とまどったり、失敗しながらも、それが豊かな先進国の「生の体験」だと、思っているのだけれども、こんな生の総体体験そのものを批判する一冊。

わたしたちは本当に豊かなのか?
つまり現代の先進国の消費社会というのは豊かなのだろうか?
 

―という問いを鋭く問いている。

それではその批判はどういったものなのだろうか?
これから簡単に省略して要点を整理して書いてみたい。

★モノ社会の機能人間
わたしたちは今日消費社会に生きている。

日々のNEWSをにぎわすのは「生産の英雄」ではなくて、消費の「あいどる」であり、消費の「セレブ」であり、消費の「大人」であり、消費の「コドモ」であり、消費の「貧乏人」であり、消費の「金持ち」、事物をいかに生産したのか―ではなくて、いかに消費したのか―が常に人をイメージしたりする前提としてある。消費社会というのはなにか?簡単にいえば、生産性の著しく増大した社会のことだろう。つまり分配の比率でいえば、生産過剰のデフレーションの時代-ありふれた「大量生産的なモノ」や「生産そのもの」ではなく、「稀少価値-ブランド-」と「再生産-置き換え、見直し-」の時代。原初的な力強くも粗野な言語に対する、滅菌処理されてそれ本来の意味を抹消された「記号の美的組み合わせ」の時代。

この時代の人間はかつてのように「人間」には囲まれていない。と、同時にいわゆる「自然」というものにも囲まれてはいない。かわりに現代人は増大し、多様化し、複雑に入り組んだ「モノ」とそこから派生する「イメージ」に囲まれている。

小説や映画、あるいは雑誌やコンピューターといったいわゆる情報メディアで追体験される「人間」は、小説や映画、雑誌やコンピューターといった「モノ」から派生する「イメージ」としての「人間」であり、あるいは「自然」はそれ本来のものというよりは、飼い慣らされて、荒々しさを奪われて、程よく調教されたもの、たとえば「ECO」という記号としての自然だ。

消費社会は人間や自然がそれ本来の「わけのわからなさ」を消去し、合理的で機能的、合目的的な「記号」に置き換え、「プチブルナイズ」させて機械処理し、「自然」それ本来のもっている「人知を超えた神秘」を削り取り、合理的で機能的、合目的な「記号」に置き換え、「飼い慣らされたもの(ECO)」とすることによって、機械処理する。

「わけのわからなさ」はすべて教育システムによって叩かれ、打ちつけられることによって了解されて、平板な「記号」、フラットで置き換え可能なモノとなる。

消費主義社会システムといったものはこういった「記号化」と「人間のモノ化」を孕んでいる。
ボードリヤールを見てみよう。

「今日、われわれのまわりにはモノやサーヴィスや物的財の増加によってもたらされた消費と豊かさというあまりにも自明な事実が存在しており、人類の生態系に根本的な変化が生じている。すなわち豊かになった人間たちはこれまでのどの時代にもそうであったように他の人間に取り巻かれているのではなく、モノによって取り巻かれている」

そうして「モノ」とその消費「イメージ」に囲まれている現代人はだれもが「機能人間」とならざるをえない。なぜならわたしたちはモノを相手に生きなければならないから。

狼少年が狼たちと一緒に暮らすことによって次第に狼になってゆくように、われわれもまたこうしてゆっくり機能的人間になってゆく。われわれはモノの時代に生きている。つまり、モノのリズムに合わせて、モノの耐えざる連続に従って生きているのだ。今日、われわれはモノが生まれ完成して死滅する過程を目にしているが、これまでいかなる文明の場合でも、人間の世代の後に生き残ったのはモノの方であり、はるかに長い寿命をもつ道具や記念建造物のほうであった。

そこは生き生きとしたもの、原初的な生産の場ではない。めくるめくスピードの「再生産」の記号の組み合わせ、置き換えの場であり、殺菌処理され、真空パックされた空虚な記号が広告で「それらしく」未来を語る場だ。

「すべては消化されて均質なカスとなった。こうしてすべては終わりを告げた。検査され、油をさされ、消費されたカスは、今後は品物のなかへと移動し、いたるところで品物と社会関係係のぼんやりしたつながりの内部へと拡散される。―中略―(消費社会では)均質な諸要素の永遠の交替があるばかりだ。象徴的な機能はすでにうしなわれ、常春の気候のなかで「雰囲気」の永遠の組み合わせが繰り返されるのである」

均質な諸要素の永遠の交代、常春の気候の中での雰囲気の永遠の組み合わせの生―くりかえしになるけれども、そこでの主役は人間ではない。あるいは個人ではない。
主役は「生産のシステム」、そのシステムが生み出す「欲求」であって、人間や個人はその「カス」となった。

「(経済成長の社会において)自立的な欲求は存在しないし、また存在できない。存在するのは成長への欲求だけである。システム内の個人の合目的性を考慮する余地などはなく、システムそのものの合目的性だけが問題となる。」 

成長への欲求と合目的システムのうなり。
そして―女性はもちろんこの文脈に則っているから、社会は女性にとって有利にはたらくだろう。消費することと見せびらかすこと。男性はいまや女性の「消費的豊かさのカス」なのかもしれない。

★豊かさとはなんだろう? 
それではその「豊かさ」というのはなんだろうか?
それはモノや金なのだろうか?異性にもてること?
それとも―
それは例えば今よく語られるように「お金で買えないもの」なのだろうか?
もしそうだとすれば、その「お金」で買えないものとはなんなのだろうか?
わたしたちの生きるこの現代社会は「豊かな社会」とされている。
―ということはかたや相対的に「貧しい社会」というもの、あるいは中国のように「発展途上社会」というものが、「豊かな社会」を語る上で想定されている。しかしボードリヤールによれば、「貧しい社会」というものはないらしい。

「「豊かな社会」も「貧しい社会」も未だかつて存在したことはなかったし、現在も存在してはいない。というのはどんな形態の社会であろうと、生産された財と自由になる富の量がどれほどであろうとも、あらゆる社会は構造的過剰(構造的豊かさ)と構造的窮乏(構造的貧しさ)とに同時に結びついているからである。過剰とは、神の取り分、いけにえの部分であり、あるいはぜいたくな出資、剰余価値、経済的利潤、見せびらかし的予算となるべきものである。」

重要なところをもう一度くりかえしてみよう。

「―というのはどんな形態の社会であろうと、生産された財と自由になる富の量がどれほどであろうとも、あらゆる社会は構造的過剰(構造的豊かさ)と構造的窮乏(構造的貧しさ)とに同時に結びついているからである。」

逆にいえば、生産された財と自由になる富の量がどれほどあっても、構造的なものと結びつかない財と自由は財でも自由でもない。つまり―富や財や自由は社会構造の中で「実感」されるものなのである。

「豊かさと富の構造上の定義は社会組織の内部に存在する」

貧困というのは、構造上の貧困であり、豊かさは同時に、構造上の豊かさだ。
現代社会ではこの豊かさが「特権」の生産によって定義されている。この特権をささえるために構造上の貧困が必要とされる。これはすべての時代のすべての社会に当てはまる価値感ではない。ボードリヤールは経済学者マーシャルサリーンズをひいて、稀少性に憑かれ、システムに欲求をおきかえられた社会の「貧しさ」を告発している。

「われわれの生産至上主義産業社会は稀少性に支配されており、市場経済の特徴である稀少性という憑依観念につきまとわれている。われわれは生産すればするほど、豊富なモノの真っ只中でさえ、豊かさとよばれるであろう最終段階から確実に遠ざかってゆく。というのは成長社会において、生産性の増大とともにますます満たされる欲求は「生産の領域に属する欲求」であって、「人間の欲求」ではないからである。そして、システム全体が人間的欲求を無視することの上に成り立っているのだから、「豊かさ」が限りなく後退しつつあることは明らかである。それどころではない。現代社会の豊かさは希少性の組織的支配(構造的貧困)が優先するために徹底的に否定される。」

現代の豊かさ、そして貧しさとは「稀少性」の中にある。
珍しいもの崇拝、プレミア、突然変異的、ビザール、大量生産ではないもの、などの傾向は、この「稀少性への欲求」だといえると思う。ところで、こういった「稀少性」はおうおうにして社会では「個性」と名づけられることが多い。個性的なものとは、つまり―現代では「突然変異的」ななにかを意味している。そうしてこの突然変異を個性と呼び習わすことによって、ハイパー化されたものに先導される形で資本が注がれる。わたしたちの社会は突然変異に強く魅せられている。これは資本主義そのものの生産システムに内在する運動であって、「個人」の欲求ではなく、「個性」と呼ばれるところのシステム生産された稀少価値とされる。すこしややこしくなるのだが、実際この社会には「個人」はなく、「システム」がある。「個性」は「システム」が生むものであって、それ以上でもそれ以下でもない。現代社会の豊かにはこういった社会集合体験として、システマチックに与えられる。だれであってもよく、だれでなくてもよいような、そんな「雰囲気」として消費される豊かさ。「お金でかえないもの」とは「自分ならではの体験」、「自分ならではの感じ方」、すなわち「稀少性」と「個性」のことだ。現代のシステム先行社会において、感じにくく、あることがむずかしいもの。そうして、人々は稀少性へとむらがり、結局稀少性を大量生産として置き換えてしまう。数少ないもの、の大量生産、ブランドの大量生産、プレミアの大量生産、特権の大量生産、個性の大量生産・・・ETC。徹底的な自我の抹消によってもたらされる「人間」という「モノのカス」のフラットな「交換消費ゲーム」。「カス」の豊かさ・・・。そのようなものはシステムや豊かさをめぐる本質的な矛盾だといえる。現代社会はこういった本質的な矛盾を孕まずには機能しない。ここに現代社会の本質的な問題点がある。つまり欲求は永遠の循環ループの中にからめとられるというわけだ。

ところで「真の豊かさ」とはなにか?どういった社会が「真に豊かな社会」なのだろうか?
ボードリヤールは前述のサーリンズを引いて、以下のように述べている。

「狩猟=採集生活者たち(未開の遊牧民)は絶対的「貧しさ」にもかかわらず、「真の豊かさ」を知っていた。未開人たちは何も「所有」していない。彼らは自分の持ちものにつきまとわれることもなく、それらのものを次々に投げ捨てて、もっとよいところへ移動してゆく。」

さらに―

「未開社会の特徴である集団全体としての「将来への気づかいの欠如」、そして「浪費性」は真の豊かさのしるしなのである。われわれの方には豊かさの記号しかない。われわれは巨大な生産機構によって、貧困と稀少性の記号を追放しつつある。だがサーリンズもいうように、貧困とは財の量がすくないことではないし、目的と手段との単純な関係でもなく、なによりまず人間と人間との関係なのである・・・中略・・・富は財のなかに生じるのではなくて、人々の間の具体的交換のなかに生じる。したがって、富みは無限に存在することになる・・・この富の具体的で関係的な弁証法が文明化され、かつ産業化されたわれわれの社会を特徴づける競争と差異のなかで、欠乏と無限の欲求の弁証法として逆転されてしまっているのである。未開社会の交換の場合には、それぞれの関係が社会の富を増加させるのだが、現代の差別社会では逆に、それぞれの社会関係が個人の欠乏感を増大させてしまっている。」

現代社会では欠乏は動機付けられ、欲求はシュミラルクルに生産されて、相対としての「わたし」をかたちづくる。わたしたちを逆説的に「欠乏のスパイラル」の中を循環させるものだ。

「所有」を知り、「将来への気づかい」を覚え、「欲望」による「浪費」のかわりに「欲求」による「消費」を知ってしまったわたしたちは永遠に「豊かさ」を知ることはないしないのかもしれない・・・。
 
★ことばのおわり
ボードリヤールには「象徴的なもの」という精神分析医ラカンの概念のおわりに生きているという認識がある。そしておわりの先に現代の「消費社会」を位置づけている。つまり―それまでわたしたちの価値や正しいことが準拠していた上部構造として、「象徴的なもの」が仮定されていたわけだが、それが崩れてしまい、と同時に「よいものもわるいものもごっちゃ混ぜにして」すべてを記号にかえ、その消費的平面(SUPER FLAT)へと移し変え、そして消費しつくしてしまう消費大衆社会が訪れた。「象徴的なもの」があった社会の中では価値はある定まった絶対的なものであったのだが、消費社会のなかでは「欲求が逃げる」差異化への欲求によって、置き換えられている。つまりこの、差異(人と違うこと)を前提とした社会の中では、欲求は人との相対的な差を前提とする以上、いつも生産されねばならない。なぜなら、差異はいつも無限だからだからである。―と、同時に消費もいつも生産されなければならない。欲求と消費とは常に絶えることのない循環LOOPをへめぐる回路だ。結局この回路の根底にあるのは肉体への欲求、そしてその「空虚さ」「欠如」「不在」によって、発動させられているとややペシミスティックにボードリヤールはいう。以下引用―

「肉体の真実とは欲求のことである。欲求は欠如だから、みせることは出来ない。肉体を最大限に露出させても、「欲求の不在」が強調されるだけではなく、結局欲求を検閲するにすぎない。いつか「勃起」の写真が出現するかもしれないが、これもまた、モードのひとつとなるだけだろう。だから検閲官はなにもおそれることはない。彼らが恐れているのは自分自身の欲望だけなのだ」

現代は、「象徴的なもの」の崩壊によって、性的なもの、肉体的なもの、客体的で機能的なもの、フェティシズム、SEXやSMを嚆矢とした、ファッション、デザイン、POPアートなどの「欲求のガジェット」の起動による、たえることのない「空虚さ」「欠如」「不在」の記号によって、そして差異のめくるめくような相対性によって、眩暈を起こさせられ、欲求を位置づけられている。それでは-その「象徴的なもの」というのは一体なんだろう?

ラカン派精神分析では、人間は「(象徴的なもの)象徴界」に登録されることによってはじめて「主体」となると考えます。そしてその場合の「象徴界」とは言語的コミュニケーションを成立させる場のことであり、具体的には社会的制度や国家のことです。それゆえ(現代社会において)象徴界の力が衰えているというのは言語=シンボルによるコミュニケーションが弱体化しているということ、そしてそのコミュニケーションをかつて保証していた「社会」というまとまりが解体してきているということを意味します。」東浩紀

ボードリヤールによれば、この「象徴的なもの」の衰え―主体の衰え―が、この社会を終わることのない消費に向かって走らせるという。そしてその消費社会の主体である「人間」ではなくて、「モノ」(人間はこの社会の主体ではまったくない)はどこであろうと「場違い」に存在しており、消費期限を定められたものだ。それはファッション―モードの世界を見ていればよくわかることであって、むしろこの「場違い」さと「消費期限」がこそ、モードだからだ。逆にいえば、この「場違いなズレ」と「消費期限の有限的破壊性」がこそ現代のモノ社会をあらわしており、モノは「ズレ」と「有限的破壊性」とをあらかじめ織り込み済みなのである。

「消費社会が存在するにはモノが必要である。もっと正確にいえば、モノの破壊が必要である。モノの「使用」はその緩慢な消耗を招くだけだが、急激な消耗において創造される価値ははるかに大きなものとなる。それゆえ破壊は根本に生産の対極であって、消費は両者の中間項でしかない。消費は自らを乗り越えて破壊に変容しようとする強い傾向をもっている。そうして、この点においてこそ、消費は意味あるものとなるのである。現代日常生活では、多くの場合、消費は導かれた消費性として、生産性の命令に服従している。それゆえ、ほとんどの場合、モノは場違いに存在しているのであって、モノの豊かさ自体が逆説的ではあるが貧しさを意味している。在庫品とは欠乏につけられた無駄な飾り、苦悩の刻印にすぎない。モノは破壊においてのみ真に有り余るほど存在し、姿を消すことによって、富の証拠となる。 いずれにしても、暴力的で象徴的な形態にせよ、系統的で制度的な形態にせよ、破壊は脱工業化社会の支配的機能のひとつとなるべく定められている」

その2へつづく☆
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その1からのつづき☆

 ★TVの害悪
人間は生まれる時代を選ぶことができないので、どうしても比較は相対的なものとならざるをえないが、こういった消費主義が排除し、なくしてしまうのは、「生」の、「剥きだした」、「濃い」何か、たとえば「苦しみ」や「反逆」あるいは「戦争」や「暴力」によって人間を活気づけていたなにかだろう。そういったものはむしろ旧時代の産物として扱われ、かろうじて古臭いとされる「文学」の領域で連呼されているし、むしろ文学はそういったネガティブな感情を表現するメディアとして受け取られがちだ。アニメやマンガは苦悩を文学ほど豊かな表現言語をもって表現してはいない。アニメやマンガは分裂的な消費主義社会の「記号」と「解釈」の置き換えの問題であり、文学はそういったものを超越して連続する「言葉」に内在する時間性の問題だと思うが、ここでは詳しく書かない。たしかに―この本の冒頭に引用されているドストエフスキー以後の近代文学の中では、非合理的な反逆というもの、非機能性への欲求といったものがあったし、そういった社会に対する反抗の姿勢は脈々とその中に流れ続けているが、現代ではそういった反抗のあった人間の力、悲劇的で滑稽でさえある人間の力は、「記号」と「消費」と「雰囲気」に瞬間的に置きおきえられてしまう。

「このようにわれわれは「記号に保護」されて、現実を否定しつつ暮らしている。これこそまさに奇跡的な安全というものだ。」

「メディアはわれわれに現実世界を指示しない。記号を記号として、しかしながら現実に保証されたものとして消費することを、われわれに命じるのである。」

ボードリヤールによれば、消費社会という神話のなかでは、わたしたちはわたしたちの「欲望」それ自体から絶えずつねに目を背けさせられている。つまり―わたしたちはわたしたちの「欲望」を決してまなざさないし、まなざすことはできない。そのかわりに、たえず消費する対象物―ファッション、レストラン、恋人、旅行―をまなざし、わたしたちを「機能」させ「処理」させることだけを学ぶ。―なんどもくりかえすようだけれども、まったく人間は消費ブツの「カス」、「ゴミ」、「クズ」だ―わたしたちは最初から最後まで自分を欺き、自分に対する甘い嘘と甘いキャンディを広告によって注がれ続け、そうしてそれを消費して、分裂し、統一体としての自我をもたずに死んでゆく。消費社会の中ではわたしたちは決して解放されることはなく、記号ではなくて、言葉の真の意味で「自由」になることはないだろう。記号の自由と解放はクズのようにありふれたものとして、街をうずめているが、言葉の真の意味で、みずからを解放するにはみずからの「欲望」をまなざさなければならない。みずからをまなざすことを絶えずやめるように吹き込まれているような社会の中で一体だれが自由になれるのだろうか?(もっともここでは自我は統一体だろうか?それとも分裂したものだろうか?―という問いは分析されないのだけれども・・・)

結局、消費社会という神話の時代には「解放」もなく、「自由」もない。
ただ「雰囲気」だけがあって、「解放のダイジェスト」、「自由のダイジェスト」だけがある。まるで大学の授業が「学問のダイジェスト」であり、パーティーが「享楽のダイジェスト」であり、社会の中での自我が「自我のダイジェスト」であり、あらゆる書物が「世界のダイジェスト」であるように。消費社会を生きるわたしたちの真の問題は「ダイジェスト」で満足し、「ダイジェスト」に安住し、むしろ「ダイジェスト」でなければおかしいと感じ、自分ではなく自分の似姿とよく似たモデルを「ショーウィンドゥ」の中に検索し、自らの真の姿をうつす「鏡」ではなく、自らを似せる「モデル」をさがし、その「モデル」をながめ、その「モデル」に自分を近づけようと思う「そのこと」ではないだろうか?こんな時代の生体験とはすべてダイジェストであり、生のダイジェスト、生のシュミレーションだ。なんの批判もなく、なんの疑問もなく、なんの実感もないようなみじめで最悪で、「雰囲気」によって、「モデライズ」され、「記号化」される生。しかし「モデル」はわたしたち自身のある理想の姿をとても巧みにあらわしてわたしたちを誘惑している。わたしたちはそれを内面化し、崇拝する回路構造の中のおり、この構造の外にはでられない。内面は「ショーウィンドゥ」を通じて、あるいはTVやアニメなどの記号解釈を通じて、社会を見る目をビルトインされ、この目を通じてしか社会をながめることはできなくなる。社会をめぐる「誘惑の戦略」―。人々のイメージ解釈を通じた自分自身と事物の消費の姿勢。そのイメージを拡散する技術的メディアとしてのTV。
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TVというメディアがその技術的組織を通じて伝達するのは、意のままに視覚化され、意のままに切り取られ、イメージによって読み取られる世界の観念(イデオロギー)である。TVは、記号システムとなった世界に対する読解体系の全能性というイデオロギーを伝達する。TVの画像は不在の世界のメタ言語活動であろうとしている。もっとも取るに足らない技術的製品やガジェットでさえ技術がいたるところで勝利する見込みのあらわれであると同様に、イメージ/記号は、世界の徹底的な虚構化、つまり現実の世界を全面的にイメージすることの傲慢さの現れである。・・・中略・・・われわれが「消費する」のは、技術的であると同時に「伝説的」でもあるコードに従って細分化され濾過され再解釈された世界の実体である。

「消費される」と同時に「内面化」されるTV。自己はTVのようなコードにしたがって内部を確立する。言葉ではなくて、記号としての解釈。そうやって世界は実際には起伏に富んだ風景であるにもかかわらず、わたしたちにそれを示さない。なぜなら、記号は言葉ではなく、そういった言葉をエレクトリックフラッシュで消去してしまうから―世界はイメージによって先験的に体験されたものとなって、実質的な体験を欠いた退屈な風景があらわれる。ここでは誰もがなにとも出会いはしない。誰もがなにも見つめなければ、まなざしもしない。ただ―内部機構の要請にしたがって、日常性という解釈のシステムにしたがって、記号を処理する。こんな心理構造が現代の主流的なものだろう。

結局、この小文字化したポストモダン消費社会のなかで、わたしたちは生産性に準拠したモダン社会に匹敵するものは生み出せない―と考えることは正しいとされる。時代はそういったものを要請しもしない。文学と批判といった「言葉の世界」は衰退し、かわってこの世界は、アニメとTVとコンピューターといった「イメージの世界」によって解釈されるものになり、大きな物語はなくなり、象徴的な機能の統合はなくなり、「英雄」はいなくなり、かわりに「スター」と「アイドル」があらわれた。アートのスターとアイドル、ロックのスターとアイドル、ネット界のスターとアイドル、英雄は遠い存在だが、スターとアイドルはすぐ脇にいる、あなたでも「もしかしたら」なれるかもしれない、手が届くかもしれない。精神分析のフィクションは終わり、自我はドゥルーズ的にいえば、分裂したものとされとらえがたいものとなったし、統一体としての甲殻をもった脊椎動物は、瞬間瞬間の多様性に対応する接続系の軟体動物にとって変わられた。偉大人間はいなくなり、かわって面白人間があらわれた。反逆したり、逆説をいうのはちょっとおかしな人間であり、シュールレアリズムの真摯な先鋭性はパロディとして、TVの液晶スクリーンで「不思議ちゃん」を演じている。
たしかにそうかもしれない。

「箱庭」の世界。
「女性化」し「動物化」し、「昆虫化」する世界。
「平和」な衛星都市国家という名の「強制収容所」。

★無意味な暴力  
豊かさと暴力は切り離せないものである。 

先進国という平和で退屈な「収容所」で衝撃的に起こるバラバラ殺人、哺乳類の大量虐殺、クラスメートの銃殺、毒による平和に生きる人々の惨殺、女の拉致監禁PLAY、おたく狩り、エレクトリック管理されたインテリジェントビルの爆破、未成熟な少女との乱交、といった無意味な暴力が三面記事をにぎわせない日はない。それはシステムの「逆補正」作用として働いており、システムと相互依存の関係にあるからだ。だが、このような暴力には意味がなく、しかるべき動機がない場合が多い。あたかも社会経済システムに意味がないことのちょうど同じ投射であるように、暴力は無意味だ。それではこの暴力はどのようにして生まれるのか?わたしたちの社会は豊かである。そしてこの豊かさが暴力と密接な関係があるとボードリヤールはいう。

豊かさと安全が一定の段階に到達したときににじみ出てくる統御不能な現実の暴力の問題―日常生活の安定が達成された瞬間ににじみ出てくる統御不可能な暴力・・・われわれの社会を正当化する(正当化したつもりになる)、というよりはむしろ意識的合理性の規範をこの社会に押し付けるあの欲求充足と生活の安定という意識的目標からはみだした何かが存在しているということだ。

豊かさは自由を意味しない。むしろ「強制」を意味し、わたしたちを管理し、強制し、全体主義的倫理を押し付ける。


もし豊かさが自由を意味するなら、こうした暴力の発生は到底考えられないが、豊かさ(経済成長)が強制だとすれば、この暴力も自ずと理解できるし、豊かさの論理的帰結と見なすこともできる。暴力が野蛮で無対象で非公式なものであるのは、それによって否認される強制自体がやはり、不明確で、無意識で、漠然としているからである。これらの強制は「自由」の強制、管理された幸福を手に入れることの強制、豊かさの全体主義的倫理の強制とさえいうことができる。

豊かさとは暴力から切り離すことはできない。それはわたしたちの成長幻想が準拠している力が「欲望」だからではないだろうか、「欲望」は「豊饒さ」ともなれば、転じて「暴力」ともなるような、そういったものであり、より豊饒で豊かであることは、より暴力的な力を内部に秘め持つということだからだ。「豊かさとは暴力である」といったらいいすぎになるのだろうか。いいかえれば、豊かさの強制もまた実際には有無のない不羈なエネルギーの塊であり、暴力へと容易に転じうるもの、この消費社会を見えない次元から根拠づけるものだろう。

消費社会、それは気づかいの社会であると同時に抑圧の社会であり、平和な社会であると同時に暴力の社会である。「平穏無事」な日常が消費対象としての「暗示的」暴力(三面記事、殺人、革命、マスメディアのまきちらす黙示録的内容)を「糧」として成り立っている。

破壊がモノに「おり込まれ済み」のプログラムであるように、暴力もまた引き離しがたく社会に内在する「おり込まれ済み」のプログラムなのであって、わたしたちは合理的な合目的性のみを追求することができないことが示される。 

この考え方に準拠すれば―アメリカのイラク戦争は現代社会という「収容所」に生きる人々の非合目的性の暴発、スマートで賢い兵器を文字通り「消費」することへの「統御不可能な暴力」だったのかもしれない。アメリカの恐ろしさは豊かからにじみ出る、この「統御不可能な暴力」の恐ろしさだろう。言葉をかえれば、インテリジェントで「かしこい」ガジェットによる死と破壊の「豊かな暴力」、そして「遊び」(たとえば、「クラスター爆弾」のような兵器は本当に必要なのだろうか?もし必要だとすれば、なんのため?逆にこのような爆弾の製造は「殺すこと」が遊びの一種であることを意味していないだろうか?)そうしてガジェット的な遊び兵器によって抹殺される伝統的なイラクの生活(マクロな意味での市場拡大、「全世界の資本主義化のうねり」の一通過点としての物資投下戦略の「大量殺人」、組織的で見世物―SHOW―であることをあらかじめ計算された戦争(イラク戦争のアメリカの英雄が米国政府広報によって「捏造」されたことがこの間明るみにでたように))これは推論にすぎないけれども、もしかしたら―ブッシュは支持率を下げ、ラムズフェルド国防長官は更迭を最初からおり込まれていたのかもしれない。ただそこに不可抗力ともいうべき大衆欲望の「プログラム」があり、「うねり」があって、「組織的」で「国家的大義名分」によって正当化されただけかもしれない。この「プログラム」自体は資本主義体制が洗練されたものとして成立された、その時に、すでにシステムの中に内在されたものであって、遅かれ早かれ、姿をあらわしただろうそんなものかもしれない。

すなわち、わたしたちは決して合理的で道徳的な世界には暮らしてはいないのだ。もっと荒々しくなにか制御しがたいもの、わたしたちからはみでてしまうものの中にいる。あるいは巨大な「プログラム」の中にいる。

このような暴力が不快で馬鹿げていて悪魔的に見えるのはあらゆるものが意識的合目的性にしたがうとか、個人や集団の選択は基本的には合理的であるといった道徳的幻想にわれわれが惑わされているからなのだ。

エコロジーを含んだ脱工業化ゲームのよしとする消費主義経済が、「破壊」を内部におりこみ、「破壊はいけません」というママ的金科玉条をその主張の正義を信じる活力に転化させるように、「暴力」とそのショーは作用反作用を計算されて投入される消費社会のもう一つの顔なのだろう。

「だが厳密にいってもはや歴史的でも神聖でも儀礼的でもイデオロギー的でもないが、かといって純粋な行為でも個人の奇行でもないこの暴力が、「豊かさそのもの」と構造的に結びついていることを見落としてはならない。だからこそこの暴力は不可逆的でいつでも爆発する危険があり、すべての人びとの内部に潜んでいながら誰にもコントロールできないのである。つまり、いまやわれわれがひとり残らず引っ張り込まれている経済成長と増殖する欲求充足の過程そのものに現代の暴力は深く根をおろしているのである。時おり、消費対象となった暴力と平穏に満ちたわれわれの「閉ざされた世界」の真っ只中にこの新しい暴力が出現し、失われた象徴機能の一部を万人の眼の前でひきうけることとなるが、それも束の間で、この暴力さえもがたちまち消費対象となってしまう。」
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★肉体とセックス
★肉体の位相
消費社会の中でそのもっともまとめ的な表現は「肉体」だ。
経済システムと性欲によって動機付けられる「肉体の発見」、「自分の肉体をさらすこと」、「肉体とセックスの解放」―肉体は広告、モード、マンガや雑誌などありふれたものとしていたるところに氾濫している。
ところでこの肉体というもの、消費される「モノ」との関係によって、その措かれている位相が違うらしい。

肉体がどんな地位を占めているかということは、ひとつの文化的事実なのである。人間と肉体との関係を決定する様式は、どの文化においても「人間とモノとの関係」や「社会的関係」を決定する様式を反映している。資本主義社会では、肉体そのものと、肉体を利用した社会活動や精神は私有財産一般と同じ地位を与えられている。伝統的な社会では自分の肉体へのナルシシズム的熱中も見世物じみた扱いもなく、労働仮定および自然との関係から生じる魔術的で道具的な肉体観が見出される

人間とモノとの関係が肉体の地位を、その位相を示すという指摘は興味深い。だとするならば、たとえば、Tシャツやドレス、化粧品といった消費物の中にわたしたちの肉体の地位があるということになる。そしてそれはそれらの消費物同様に「私有財産」、ひとつの資産として管理され、整備され、そうして社会的地位をしめす「記号の形式」として操作される。肉体はモノ同様に「記号」であると同時に社会的地位をあらわす。もっとも現代のモードなどはこういった地位を直接的に示しているとは思えない。モードはむしろ消費的平面を押し広げ、地位と記号を解体して、再構築しているようだが、それはここではおいておこう。さて、現代社会では「美」という機能的命令がアナウンスされる。この「美」はあくまでインダストリアル美学の美であって、「機能とかたち」に支配されている。

ファッションモデルの肉体はもはや欲望の対象ではない。それは機能的なモノであり、記号の集合体であって、そこでそこでは流行とエロティシズムが混ざり合っている。モード専門の写真家がシュミレーション過程によって自然なポーズを再創造しようといくら腕をふるったところで、彼女に肉体はもはや自然の身振りの総合ではない。それはもはや本来の意味での肉体ではなくて、ひとつのかたち(フォルム)である。

それではその「機能とかたち」はどこにやどっているのだろうか?

エロティシズムが記号のうちに存在し、決して欲望のうちには存在しないように、ファッションモデルたちの機能的美しさも「からだの線」に宿っているのであって、決して表情に宿っているのではない。

「からだの線」の機能的美しさ。
アニメに表現される身体にひそやかに、あるいはおおっぴらに息づくエロスというものは、この線の機能的な美しさであって、この線の中で、人間は記号に還元される。つまり―その性質上、アニメはファッションと親和性が高いものであって、今も昔もアニメの美しさというものはこの「からだの線」の美しさなのだ。前述のボードリヤールの言葉を借りれば、「それは肉体をあらわしながら、ひとつのかたち(フォルム)」なのである。「フォルム」というものは表情に宿っているのではなくて、無表情さ、記号に置き換えられた「マネキン」的なもの、「アンドロイド」的なもの、「サイボーグ」的なもののなかに秘められる。J・G バラードのミューズ的存在として描かれる女性の美しさ、エヴァンゲリオンの綾波玲の美しさや甲殻機動隊の草薙素子の美しさ、W・ギブスンのモリイやキャシートランスの美しさといったものはこういった無表情が示す記号としての肉の超越性の中にあるように思う。

エロティシズムが記号のうちに存在し、決して欲望のうちには存在しないように、ファッションモデルたちの機能的美しさも「からだの線」に宿っているのであって、決して表情に宿っているのではない。彼女たちの美しさはとりわけ無表情な美しさである。

そうしてそうやってかたち・フォルム・記号に抽象化された「美しい肉体」は「消費の全領域」に深く浸透するひとつの原理となる。

肉体とモノのこの関係性=相同性は、管理された消費の深層に存在するメカニズムへとわれわれを導く。肉体の再発見が他のものとの関係におけるモノとしての肉体の再発見である以上、肉体の機能的所有から購買行為による財とモノへの意向がどれほど容易で論理的で必然的でもあるか明らかだ。現代では、エロティシズムと肉体の美学がすべての領域での洗練された雰囲気づくりを口実にして、増加する一方の商品、ガジェット、アクセサリーなどに取り巻かれていることはいうまでもない。健康法から日光浴やスポーツなど流行中のさまざまな「肉体解放」を経て化粧へといたる肉体の再発見はまずモノを通じておこなわれる。まるで購買衝動だけが真に解放された衝動ではないかと思われるほどだ。

経済システムのみえない要請としての肉体追求、美やエロスへの欲求。「美」は経済システムだ。消費社会は「美」と「誘惑」を要請し、そうすることによって、肉体を束縛から「解放」する。

肉体は解放される―消費ブツ、として。
それもとびきり美しい消費ブツとして。


肉体、美しさ、エロティシズム、それらは売り上げを増やす力がある。これは「肉体の解放」の全歴史的過程を決定的に方向づける要因として、少なからぬ重要性をもつ事実である。労働力についても肉体と同じことがいえる。生産性向上のために合理的に搾取されるには、肉体があらゆる束縛から「解放」されなければならない。」

ブームとなった援助交際にしても、一般化する風俗産業にしても、セックスの氾濫にしても、コマーシャリックにアナウンスされる「肉体の解放」と消費社会の経済システムの要請といった力学から逃れるものなのだとは思わない。むしろこの消費力学の置き換え、パロディ、再生産としてわたしたちを魅了するものなのではないだろうか?つまり―モードに魅せられるように、「援助交際」に、「風俗」に、「セックス」に魅せられてしまう。たしかに方向と表現手段が違う。あるいは距離が違う。前者には遠い世界への憧れがあるが、後者には近くのイージーな満足がある。がにもかかわらず、心理構造的な面だけに限っていえば、両者の間でそれほど違いがあるようには思えない。経済システムの欲望によって解放される「肉体」。そして「モノ」になる肉体。消費ブツとしての肉体。

解体された肉体と分断された性欲のレベルで収益を上げるという経済的家庭が確立するためには、個人が自分自身をひとつのモノ、それももっとも美しいモノ、もっとも貴重な交換材料と見なす必要があるのだ

その3へつづく☆
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 その2からのつづき☆ 
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★解放は本当の意味での解放だろうか?


いまや肉体は管理され、資産として記号となり、消費社会を貫く基本的な原理としての「消費ブツ」となった。この原理は広告の中へ、生活の中へ拡散する。こうして消費社会にそうやってセックスを氾濫させることによって、セックスの中にそれまであったなにか、より本質的ななにか、差異としてあったなにか、均質でフラットなものとして置き換えてしまう。

セックスが消費社会の第一面で取り上げられて、マスコミュニケーションの意味作用の全領域を重層的に決定している。見るもの、聴くものすべてに露骨に性的ビブラートがかけられ、消費されるものすべて性的色彩を帯びている。・・・中略・・・(ここでの問題は)商業化・産業化されたモノやメッセージの変化に応じて性をますます組織的に取り入れることによって、既成秩序はモノとメッセージの客観的合理性を歪曲し、性の爆発的合目的性を奪い取る。」

広告やTV、雑誌などセックスは消費社会の中に拡散している。しかしそれは「モノ=記号」としてであって、その本質は消費的な平面に置き換えられている。つまり消費可能なものとしてコード化される肉体。そこで繰り広げられるマニュアル化したパックとしての快楽の舞台―ここにはなにかがない。セックスを本来的に根拠付けたなにか―生命力の瑞々しい力。

性的記号がコード化される過程では、象徴機能も幻覚もその他の性的意味をもつものもすべて削除・検閲・廃棄されてしまう。というのも、このコード化によっていたるところに性的なものがバラまかれるが、それらは統辞法の支配から逃れた直後に、閉鎖的で同語反復的な操作の対象となるからである。あらゆる形態の性はこの組織されたテロリズムによって実態を失い、「消費用具」(「モノ」)となる。」

かつて性は消費用具(「モノ」)ではなかった。が、いまではすっかり消費用具(「モノ」)であり、器官は分解されて、テクノロジーによって処理される。たとえば「バスト89CMのIカップ」というのは消費用具化されて数値化された性的道具を表現している。あるいは女性器を「名器」とよぶのも同様だろう。

風俗やテレクラなどの数値的性産業(数字がセックスの間に介在する産業化された「性」)社会においては、セックスは「人間の全体体験」ではなくて、「人間の器官の体験」となっている。「唇」と「乳房」と「性感帯」と「性器」の体験としてのセックス。人間としてではなくて、解体された器官としてのセックス。人間性そのものとしての分節化ではなく、器官の強度として測られる女性―女性のがわでもこの器官的強度が経済的価値であることを知っている。こういった社会の女性の危険はここでみずからを器官として取り違える可能性だということをボードリヤールは指摘する。

「もっとはっきりいえば、かつて「性」として従属を強いられていた女性がやはり「性」として「解放」されるわけで、この混同は現代でも姿を消すどころか、あらゆるカタチで取り返しがつかないほどに深刻化している。というのも、女性の「解放」が進むにつれて、女性が自分自身を自分自身の肉体そのものと取り違える傾向がますます激しくなるからである・・・・・・表面的に解放されただけの女性が、自分をやはり表面的に解放されただけの肉体と混同するのだ。」

消費社会の中で性は解放され、肉体は解放された。
大量生産される産業社会の中で解放される性は、その内部に大量生産の特有の論理を織り込んでいる。性もまた前述した象徴機能が破壊された社会、分断され分解され、全体性への潜在的な憧れのなかで、産業として切り離された機能と価値として客観化される。(これは「産業」としての性であって、「欲望」としての性ではない)そしてこの「解放」はその中に大量生産産業社会特有の「検閲」と「操作」を孕んでいる。つまり「解放」という広告、デザイン、キャッチコピーの中の「検閲」と「操作」であって、「操作された解放」はもはや「解放」などとはいえない。
そしてこういった性の氾濫をボードリヤールは問う。

「おおざっぱにいえば、問題は次のようなものである。ここには本当にリビドーが存在しているのだろうか。エロティシズムの氾濫のなかには、真に性的なもの、リビドー的なものがあるのだろうか。広告のみならずマスメディアのシステムは真に幻覚的「シーン」となっているだろうか。」

そして答える。

「真の幻覚は表現しえないものだ。たとえ表現しえたとしても、それは直視に耐えないものとなるだろう。剃刀の刃で囲まれた、女性のぬめぬめした唇をあらわすジレット剃刀の広告が直視に耐えるのは、そこに暗示されているペニスを去勢する膣の幻覚そのものを表現しているわけではないからだ。つまりこうした広告は統辞法をうばわれ、バラバラに切り離されたうえできちんと整理された一連の記号を組み合わせるだけで満足しているのであって、これらの記号はいかなる無意識的連想も喚起せず、「文化的」連想をよびおこすにすぎない。それはさまざまな象徴をよせあつめた蝋人形館であり、性的衝動の作用の痕をもはやすこしもとどめてはいない、記号としての化石化した集合体なのである。」

ボードリヤールにいわせれば、こういうことだろう。進行する情報革命の下で広告とマスメディアの趨勢、あるいはコンピューターとネット化のうねりの中、社会は非常に安易なカタチでの記号の組み合わせの目新しさを競う。しかしそれはその組み合わせ以上のなにかであるのだろうか。こういった統辞法にまとめられない分断と分裂は記号の廃墟にすぎず、その化石にすぎないのではないか。そしてそれが呼び起こすのは消費社会が用意した精気を欠いた記号集積としての肉体、あるいはセックスにすぎないものなのではないか。

「広告の扇情的装置をつうじてわれわれを真に条件づけているのは「隠された」説得や無意識的暗示ではなくて、むしろその反対に象徴機能やきちんと分節化された統辞法中にもちいられた幻覚表現など、つまり性的意味をもつものの生き生きとした表現にたいする検閲という、深い意味での検閲である。性的記号がコード化される過程では、象徴機能も幻覚もそのほかの性的意味をもつものもすべて削除・検閲・廃棄されてしまう。というのも、このコード化によっていたるところに性的なものがバラまかれるが、それらは統辞法の支配から逃れた直後に閉鎖的で同語反復的な操作の対象となるからである。あらゆる形態の性は、この組織化されたテロリズムによって実体を失い消費用具になる。この消費用具になった段階で、性は消費過程に吸収される。」

広告にあるのは検閲であり、TVとマスコミ、あるいはコンピューターの表舞台にあるのは検閲である。そしてそれらは解放という名の検閲なのであり、いわゆる社会というものはこういった検閲を前提としている。こういった検閲にのっとらないものは、ようするにスキャンダルなものであり、大量生産された解放にあるのは、解放という意味での検閲なのだ。そうして社会はこういった言語的な矛盾をはらんで、カウンターカルチャーを取り込むのだから、その表面的な均衡は見かけの平静さ以上に実は相当あやういものなのではないだろうか。
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★時間浪費という豊かさの欠如

「わたしたちは時間を稼いで一生を過ごさずにはいられないというこの宿命を祓いのけるのに充分なほどおおくの時間を浪費することができない時代に生きている。下着を脱ぎ捨てるように時間を捨てるわけにはいかないし、貨幣同様、時間をつぶすこともなくすこともできない。貨幣と時間は交換価値のシステムの表現そのものだからである。象徴的な意味では金貨も銀貨も、客体化された時間も排泄物だが、貨幣と時間に排泄物としての古風で供儀的な機能を与えることはほとんどないし、現在のシステム下では論理的に不可能である。そんなことが可能なら、わたしたちは象徴的なかたちで貨幣と時間から真に解放されることになるだろう。ところがわたしたちを支配する計算と資本の秩序においていわばその反対のことが起こっている。この秩序によって客体化され、交換価値として操作されているのはわたしたち自身であり、貨幣と時間の排泄物となったのもむしろわたしたちの方なのである。」

現代社会において、時間は貴重な資源、貴重な交換財として、みなされ、労働と自由時間に二元化されている。レミントンのタイプライターに印された金科玉条。「TIME IS MONEY」。労働時間は義務として行わなければいけない時間であり、自由時間は自由に使うことが許可された時間として、社会的に認知されて、交換価値に従う貴重な商品とみなされているわけだが、そういった商品としての自由時間とは、ボードリヤールによれば、自由時間ではない。なぜならここでいわれている自由とは拘束を前提とした自由だからであり、時間が計量される生産システムの抽象性という完全な抽象性に支配されており、そういった支配の構図のなかでしか思考できなくなっている以上、それをもはや自由とは呼べない。動物や未開社会の中には時間は存在しない。すなわち時間という概念をさだめることによってのみ、時間は人間、現代人にとって、存在するものとなるのである。だがこの存在することになった時間にはやはりなにかが欠けている。そしてそれは絶望的、解決不可能な矛盾を前にして、循環構造をへめぐるようなそんな根本的な欠如なのであり、逆説的にいえば、自由は自由を前提としている以上、自由とは呼べない。ボードリヤールはこのような自由な時間の根本的矛盾を告発している。

「「時間を所有し始めると、時間はもう自由ではない。」もちろん、この矛盾は言葉の矛盾ではなく、本質的なものであって、これこそまさに消費の悲劇的逆説である。所有され消費される一つ一つのモノ、自由時間の一分一分のなかに、各人は自分の欲望を注ぎ込もうと願うか、あるいは注ぎ込んだと信じている。だが、所有されたモノや実現された充足のなかにも「自由に使える」時間のなかにも欲望はもはや存在しないし、存在できるはずがないのである。そこにあるのは消費された欲望の残り滓にすぎない。」

それでは逆にどのような社会が自由時間をもっているのだろうか?

「未開社会には時間が存在しないので、人々が時間をもっているかどうかを問うことには意味がない。そこでは時間は、反復される集団活動のリズム以外のなにものでもない。時間をこれらの活動から切り離して未来に投影し、予測と操作をおこなうことは不可能である。時間は個人的なものではなく、祭りの行事において頂点に達する交換のリズムそのものなのだ。」

時間という概念を定めることによって、そうしてそれを予測し、操作し、スケジュール調整することによって、わたしたちは時間を失っている。こういった未開社会との比較からいえば、たとえば、「ヴァカンス」(休暇、空っぽの状態、つまり無償の行為、完全な剥奪、空虚)は「ヴァカンス」ではない。それは未開社会の時間性に焦がれながらもけしてたどりつけないものなのだから。

「かれらは「ヴァカンス」のまねごとをしようと必死になっているのだが、真のヴァカンスとは自分自身および自分の時間の喪失のことであって、時間が決定的に客体化された世界の住民である彼らにとっては絶対にたどりつけない世界である。」

けっきょくこのような時間の中でわたしたちに自由などといったものは存在しないことをボードリヤールは結論づけている。

「われわれのシステムのように統合された全体的システムのなかでは、時間の使い方に関する自由は存在しないだろう。余暇は時間を自由に使えることそのものではなく、この自由のポスターにすぎない。余暇の根本的な意味は、労働時間との差異を示せという強制である。だから余暇は自律的ではなく、労働時間の「不在」によって規定される。よかの本質的価値でもあるこの差異はいたるところで示され、誇張され、店ビラ咲かされている。余暇のすべての記号・態度・実践のなかで、また余暇が話題とされるすべての言説において、余暇はそのような見せびらかしや絶えざる誇張を糧とし、自己宣伝によってなりたっている」

現代社会に生きるわたしたちには自由時間などといったものはない。あるのは拘束された時間のみであり、どんなにそれが長くとも、消費的な「気晴らし」の時間にすぎない限りにおいては「生産の時間」なのだから。余暇は表面的には無償の時間のように見えるが、生産の時間と奴隷化された日常性にともなうすべての精神的・実践的拘束を忠実に再現している以上、拘束された時間なのである。
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誘惑の戦略

ジャン・ボードリヤール / / 法政大学出版局

 

◆社会批評家としてのボードリヤールは、少し三島やバラードと同じような匂いがする。
 
◆つまり―古い社会というもの、古い構造や構成というものをよく知っていて、そこからつづく現代を眺めやる視線に含まれる厳しさがあり、その厳しさが強く心をうつ。鋭敏な知性と強固な教養、ジジェクにあるような内側から湧き出るパロディ感覚というものではなくって、冷ややかに「クールなパロディ増殖」を「欲望」する大衆を眺めやりながらも、圧倒的な熱量をもって逆説的な言葉を語る―だからわたしたちはここで、この資本主義消費社会がどのような成立基盤によって成り立ち、古い世代というものはどのような視線で「流動化」し「枠組みを失いつつある」社会を眺めやっているか、ということを確認することができるのだ、と思う。この言葉は逆説的だが、的確で、現代社会の病理にひそむある種の法則を「誘惑の戦略」と名づけることによって抉り出している。

◆「セックス」が社会の表舞台に氾濫する「ハイパー化」した社会の慣性と運動力学であるということ。「男」とはどういうものか、「女」とはどういうものか、「ゲイ」とはどういうものか。あるいは「賭けること」、「現代人が潜在的にクローン化したもの」であり、「増殖」してゆくのは社会体の要請によってであるということ。「主体」の喪失。テロリストとスターの相関性。コンピューターなどのテクノロジー発展によってもたらされる「テクノナルシズム」の自己愛的迷宮。動物の儀式としての「化粧」、「美」の誘惑的な力とそれをとりまく社会環境の変遷、社会体そのものの「誘惑」の力の磨滅。戦略的核抑止システムを頂点とした「宙吊り」で「無重力」で「無気力」な社会と「衛星都市化」する都市の中での、「器官」の道具的放蕩によるポルノ・セックスの隆盛の極。生物のマイクロチップとして、人工マトリックスとしての遺伝子コード、ドゥルーズ・ガタリへの批判などなど―鋭い分析と現状認識から敷衍された運動慣性としての未来認識予測が続く。

◆個人的には現代哲学の面白さは「SF哲学」であるということで、たとえばドゥルーズ・ガタリの「ミルプラトー」はその主張も含めて、断片的なものであるにせよ、ダーウィン「種の起源」やフロイト・マルクスの著作や百科全書や歴史書物の現代的パロディの匂いがするが、ボードリヤールはパロディというよりは、それを絶えずひっくり返してやろうという逆説的な警句が見られて、より批判的SF哲学といった印象がとても興奮させられてしまい、いつも一気呵成に読んでしまう。
たぶんにボードリヤールは甘くはない。刺激的でスパイスの効いた、そしてテロリズムへと向かうとも知れない強烈な言葉は逆説的にモラルへの希求が読み取れる。

◆日本のステレオやストリップに対する厳しい批判もあるが、なんとも―まぁ そうかしら・・・だけれども、それは非常に構造的な思考であって、東洋人にとってはやはり受け入れがたいところも様々あるのではないかしらん―それにしても、凄い言葉群たち。
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シミュラークルとシミュレーション

ジャン・ボードリヤール  竹原 あき子 / 法政大学出版局

 この書物からは強い知的興奮を受けた。おそらく映画MATRIXが準拠している思想的構造はこの本(特に第10章)の中にあるだろうし、広義の意味でのキューブリック批判としても読める。
 現代社会の問題が列挙されており、鋭い分析が下されている。
 個人的に整理してみるとこんな感じだろうか。

1、マクロレベルでの核を頂点にした抑止の構造による抑圧的管理システムの構築と地球全体を累進的軌道衛星化。

2、ミクロレベルでのDNAコードの情報化。このコード化はサイバネティクスによって人工物となり、操作的人工補綴になり、クローンを生み出すものになるという両極での認識。

3、核と同様の性質をもったテレビの普及による生活のハイパーリアル化。モデル先行系の生活様式。このことによって我々は模造人間となり、現実原則は消える。同時に真と偽、実在と空想の差異がなくなり、医学は意味がなくなる。

4、このような社会では爆発は期待されながらも(抑圧によって)起こらずに爆発は内破に変わる。内破とはシステム自身の飽和と収縮から生じる暴力である。
(パリの五月革命こそこの内破による事件であった)

5、社会体では価値が転換する。残りこそが価値を帯びる。われわれは生産ではなく、再生産とリサイクルの経済学に支配される。狂気に照らされ、あらゆる領域で名もなきもの、女性、狂人、周辺、芸術における排泄物とくずなど、すべての残りが特権となる。

 けっこう丁寧に読んだつもりだが、まだイメージが曖昧で掴めていないところもある。

 我々が取り巻かれている現代の秀逸な解説書。
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宿命の戦略


ジャン ボードリヤール 竹原 あき子 / 法政大学出版局


「消費社会の神話と構造」以来独自の弁証法によって、資本主義が構造の中に孕む抑止と過剰性と内破の危機、舞台の中性化、消滅などのプロセスを予言的に開示してきたのだが、ここでは「シュミレショーンとシュミラルクル」「誘惑の戦略」で解剖された概念が角度を変えて、より細緻かつ具体的に分析されている。難解さはかわらず、時に自己撞着を孕んでいるようにも思われるが、映画とエクスタシー、モードの批判的解剖学ともいえる言語群に込められた熱い熱量は圧倒的迫力。

なによりボードリヤールは皮肉屋であり、ニヒリストであり、逆説であり、予言者であり、現代の詩人ではないか。こういった徹底的な批判を受け入れ育むフランスという国の言語的豊かさは素直にうらやましい、といったら馬鹿にされちゃうだろうか。

なにゆえ正義は解体され貶められ、パロディー化され、シュミラルクルになるか、なにゆえ性は中性化され、セックスが労働と等価の交換因子となるか、なにゆえ論理は浮遊し、結実点をむすばぬままに空中分解するのか、エクスタシーの魅惑的な魔力といったことが現代の舞台が俎上に挙げられ、解体される。

現代の作家のいうだいたいの言葉というものはこういった舞台構造の機知に満ちた言い換えにすぎないようにも思われる。

ただ日本のことが書かれているが、これはちょっと眉唾ものかなぁ・・・あくまで彼の見た日本ということで、やや踏み込みに欠ける印象。
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