カテゴリ:ジャン ポール サルトル( 1 )

「われ思わず、ゆえに、われは口ひげなり」(本書より引用)
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十代の頃読んでとても面白かった小説。
実存主義者のバイブルだったらしい。
さすがバイブルといわれるだけあって、サイバースペース内での解説がめずらしく充実しているので、簡単な前説にかえて、以下にいくつかその紹介ページを引用してみる。

◆松岡正剛 千夜千冊『方法の問題』(これは直接この本ではないけれども、その周辺ということで―)
◆海外文学
◆「ヨーロッパ文化」講義録vol.19~サルトルとカミュ~

それではその実存主義の実存とは―なんだろう?
言葉だけを一人歩きさせないためにも、サルトルくんにはっきりと答えてもらおう。

「実存とは記憶のないもの、行方不明者であり、なにひとつ―思い出さえもとどめておかない。いたるところにあり、きりがなく、余計なもので、つねにどこにでもいる実存、それは実存によってしか限定されない。はじまりのない存在物のこれらの豊かさに茫然自失しうんざりして、わたしはベンチにくずれ落ちた。いたるところに、卯化と開花があり、わたしの両耳には実存が「ガンガン」響き、わたしの肉体そのものが「ピクピク」動いて、なかば口を開け、宇宙的発芽に身を任せていた」

やや抽象的で詩的ないいまわしだけれども、実存とは記憶のないものにして、行方不明者、そして何一つとどめておかない現存在-それはいたるところにあり、きりがなく、余計なもので、つねにどこにでもいる上に両耳でがんがん響き宇宙的発芽へ向かってゆくものであり、つまりドゥルーズくんバロウズくんのいう「卵」ってこれに近いのかもしれない。

実存の宇宙的発芽に、なかば口を開き、ぴくぴくと身を任せるサルトルは存在論的ミュータントとおもわせる。ミュータントっぽくて、宇宙人めいてすらいる。
デカルトくんにせよデリダくんにせよドゥルーズくんにせよ、哲学者の真の魅力はこの宇宙人っぽさにほかならない。

たしかにイメージでいえば、実存っていうと「なんか固く」て「へヴィーで重い」感じもするけれど、それは後付けのイメージにすぎない。実存とは「柔らかく」て、「軽い」もので、「空中浮遊」おり、あらゆるものに触れると溶けてしまうものだとサルトルはいう。

「わたしは実存する。それは柔らかい。非常に柔らかく、非常に緩慢である。そして、軽い。そうだ。それはひとりでに空中に浮いているようだ。それは動く。それは、あらゆくところに軽く触れると、つぎには溶けて消えてしまう。まったく柔らかい、まったく柔らかい・・・」

さらにいえば、実存というのは、なまぬるいものではない。あること。それは逃げても逃げてもつきまとわれる存在のおそろしさのようなものであり、と同時にその反対の充実したものだ。

「わたしはある。わたしはあり、実存する、われ思うゆえにわれあり。わたしがあるのは考えるからだ。なぜ考えるのか、わたしはもう考えたくない。わたしはありたくないと考えるからわたしはある。わたしは考える、わたしは・・・なぜなら・・・ああ、いやだ。わたしは逃げる。犯罪者は逃げた。強姦された少女のからだ。彼女は自分の肉体のなかにほかの肉体が滑りこんでくるのを感じた。わたし・・・だからわたしは・・・。強姦された女。強姦という血まみれの、「甘美な欲望」がわたしを後ろからつかまえる。その欲望は耳のうしろでまったく甘美だ、耳がわたしの背後に流れる、赤毛の髪。わたしの頭の上の髪は赤い、濡れた草、赤い草、それもまたわたしなのか?そして新聞、それもまたわたしなのか?」

ぐにゃぐにゃとしていたるところに偏在する実存―宇宙人サルトルの宇宙的存在論☆
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さて―ここからは調子を変えて、個人的なはなし☆

この本にたいするぼくの思いいれは相当なものであって、旅したり引っ越したり―国や都市や場所がかわるたびに読み返すし、そのたびに感動をあらたにしてしまうので、どうやらこのドラッキーでパロディカルで宇宙的なハードコアパンクの絶叫のようなテンションの高いなテイストが自分にはあっているようである。いごこちがいい言葉のお風呂みたいなものでけっこう熱いけど、その熱さが「GOOD」で、「ぐぐっ」ときて、「ぐっごぉ」といったところであろう。人はずっと長い間その本と親しむと本が他人とは思えなくなって、言葉の泉に浸されたぶん、その言葉が自分の深くて暗いところにしみこんで放射性物質のように、不可視の物質を放射するときがあるものだけれども、サルトルにはそういうところがある。つまり―他人とは思えないし、他人じゃない。彼は。ぼくの一部だ。ときどきぼくの中にひそむサルトルが、おやおや そんなことを書いて、じぶんへの言及を忘れてはいないかい?―とか、実存はどうしたんだい?あの、ロックミュージックのような連続する破裂音としての実存を耳のなかへがんがん流し込んでやろうか?―とか、自己欺瞞とナルシズムにすぎないような自我に酔ったりしてはいないかい?―と、いうので、なんとなくなんだけれども、本を読むと叱責された気になって、あ、たしかに、ぼくはやっぱなんか人間づらした男で、すみません、つか なにげになっちゃってるかもしれない自己愛なんて糞喰らえ!!―と、しかと握りしめた両手のこぶしを高々と突き上げて、目を白目にしながら思う。サルトルは憧れの人だ。反逆者で芸術家で哲学者、ないことの価値を体現し、あることをないことに塗りこめてしまった男。右と左とちがうところを見てるカメレオンみたいなろんぱった目で、ちびのせむしで、カエルのようにみにくくて、アンフェタミンをかじり、メスカリンで幻覚をぐるぐるさせ、COFFEEをガブ呑みして、煙草を吸いまくり、プルーストとヘーゲルに挑み、ハイデガーを言い換え、書き換え、そして、むきゃむきゃいってかどうかはわからないが、共産主義へと突入していった最後にして最高にCOOLな宇宙人。どうもときどきぼくにとってはアメリカンライフの小説やポストモダンは軽くちいさくまとまりすぎているように見えてしまって、退屈で、ふがふがしながら読んでしまって、読み終わった本を「ぽ~ん」と、あたかも鼻くそをはじきとばすがごとく、遠くへ放り投げてしまうのだけれども、サルトルはそうではない。存在をとりまく世界を微分し、濃密に編み上げられること、ここに在るということはどういうことか、孤独とはなにか、といったことをこんな風に突き詰めて、徹底的に追い詰め、知性と機知と詩情、カフカ的なブラックユーモアと人間ばなれしたイマジネーションを駆使して小説として描いてみせた男はサルトル以外にぼくは知らない。

20世紀文学の金字塔にして金属バットにして金属爆弾。
サルトルとプルースト、それからドストエフスキーといった金字塔の文学によって、ぼくは読書が生ぬるい陶酔にべろべろと酔う行為ではなくて、金属バットによって、脳味噌をスッコーンとジャストミートで打ち抜かれ、言葉という金属爆弾によって、バッカ~ンと爆破、だらだらと中身を垂れながして、サルトルがそうしたようになかば口を開き涎をたらしながらする行為であることを、つくづく思い知らされた。いうまでもなくよい読書とは涎を垂らしながらするものなのだ。そしてよい読書ほど涎が垂れる。垂れないヤツはよい読書に対する感性が不在なケチなゲス野郎にちがいない。べつの言い方をすれば、アイデンティティや自我や個性、名前やわたし、主体性―人間なんて下らないものを丁寧にぶっこわされることの心地よさが読書にはある。

「いましがたまで、だれかがまだ「わたし」といった、「わたし」の意識といった。それはだれか。外にはおしゃべりな、よく知られた色彩と匂いを持った街々があった。いま残っているのは匿名の壁であり、匿名の意識である。ここにあるのは、おおくの壁と壁のあいだで生きている、人格をもたないちょっとした透明なものだ。意識は樹のように、草のめばえのように実存する。意識はうとうとしている、退屈している。つかのまのちいさな実存たちが、枝にむらがる小鳥のように意識をいっぱいにする。意識をいっぱいにして消えてゆく。これらの壁のあいだ、曇り空のしたに、忘れられ、みすてられた意識。この意識の実存の意義とは、この意識が、自分が余計なものであることを意識している点である。意識は希薄になり、拡散し、褐色の壁のうえや街灯にそって、あるいはむこうの夕暮れの靄の中に自己を見失おうと努めている。しかしそれは絶対に自己を見失うことがない。それは自己を見失う意識である、ということの意識だから。それがそのめぐり合わせなのだ。」

自己を見失うという意識においてはけっして自己を見失うことはない。

最後にもういちど最初の引用を繰り返してみよう―

「われ思わず、ゆえに、われは口ひげなり」

そうなのだ、わたしたちはだれもみな、われおもわずに口ひげたるべきなのだ―わたしや主体などという近代システムに沿ってしか著述されえないフィクションは廃棄して、巨大な現在という宇宙の原始生命のスープの中にほおり投げて、ぐつぐつ煮込んでしまえばいいのだ。
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◆・・・・・・・もし、死んで、晴れて「肉塊」となって、焔にやかれるときには、SONIC YOUTHの宇宙的ノイズサウンドをがんがんにかけ、みんなを革ジャンにブラックジーンズに穴あき(アナーキー)Tシャツにブーツで参列させ、この本と「ミルプラトー」を焼却炉に一緒に投げ込まれたい―と思ってしまった自分に今年、最大級のFUCK YOU VERY MUCHを贈ることにしたい。

FUCK YOU VERY MUCH☆

AND

LOVE

FOREVER☆

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