カテゴリ:サイボーグ フェミニズム( 1 )

サイボーグ・フェミニズム
ダナ ハラウェイ ジェシカ・アマンダ サーモンスン サミュエル ディレイニー Donna Haraway Jessica Amanda Salmonson Samuel R. Delany
巽 孝之 / 水声社  
       
★サイボーグ宣言
まずあとがきより引用を1つ。

「サイボーグ フェミニズムはひとつのコンテクストの仮称である。じっさいダナ ハラウェイ1985年の「サイボーグ宣言」が発表されてからというもの、それをめぐる言説は、ハラウェイ理論を綿密に再定義するよりもはやく、ひたすら数量的に増加しては以外な脱領域性を強めていったのだった。(中略)本書全体を「サイボーグ宣言」にからむ壮大なる一大論争絵巻として編集し直すことも、じゅうぶん可能であったかもしれない」<編者あとがきより>

本書は「サイボーグ宣言」という論文を取り巻く多角的な論述の総体である。
全5章のうち序章と3章、終章は関連文物紹介、1章に「サイボーグ宣言」、そして続く2章にSF作家、サミュエル ディレニーによるその批判といった構成。総じて視れば、アメリカ現代文化紹介といったところか。いずれにせよ本書読了後に受ける印象は「不確かであるものの刺激的な論文」をめぐる言説壁蠢動胎といったもの。修正される断片矛盾と未完成でやや混在したなにか。
ここではあまり周辺部分に触れず、「サイボーグ宣言」そのものの特に興味深かった点をあげてみたい。本書全体の評論ということにはならないが、現代社会の映し鏡として示唆に富んだ見解が多く見られて、刺激的だったので、あえて断片的な記述の集積に終始したい。

★サイボーグの記号学
引用を2つ。

人間を何かにたとえるとしたら、その他の構成要素やサブシステムと同じく、蓋然的・統計的機能を根本とするシステム・アーキテクチャがいちばんなのだ。いかなる事物も空間も肉体も内在的に神聖なのではない。むしろすべては部分なのであって、しかるべき規範ないし暗号がつくられ共通言語で命令を発信しさえすれば、部分相互が連動するものと前提すべきである」(「サイボーグ宣言」P64)

今日ではいかなる事物も人間も、その根底から解体し再統合されるものと考えるのが妥当なのである。自然の構造物のうちで、システム設計を制約するものは存在しない。世界中の都市の金融街が、輸出加工区域や自由貿易地域などと同じく、「後期資本主義」の基礎事実を明らかにしている。事物の全宇宙は、科学的に認識可能であるかぎり、管理者のためには通信工学上の問題として、反政府主義者のためにはテクスト理論上の問題として、定式化することができる。そして双方の問題は、ともにサイボーグの記号学を成す」(「同上」P64)

著者ハラウェイによれば「人間とはシステム・アーキテクスチャ」である。そして「解体され再統合されたもの」にすぎない。
サイバネティクなこのような前衛的といってもいいだろう認識が本書の基本認識となっている。本書を流れる底流音がこそ「サイボーグの記号学」なのである。
              
★サイボーグフェミニズム
それではその「サイボーグ フェミニズム」とは何か。
前出の「サイボーグ」をまずやや仔細に見る。
ハラウェイ女史は世界は「リアル」であると同時に「フィクション」によって成立する世界と規定、このような世界の抑圧と可能性に対して有効な概念として、「サイボーグ」を提示する。つまりそれは神話が崩れ落ちた、あるいはSFの物語伽藍が崩れ落ちた現代に相応しい概念ということか。

サイボーグ-それはサイバネティック オーガニズムの略であり、機械と生物のハイブリッドだ。架空の生物であるとともに、現実社会の産物でもある。だがそもそも現代社会そのものが、リアルな社会関係であるとともに、何より不可欠な「政治的工作物」であり世界変革に必要なフィクションであろう。」(「同上」P29)

そしてハラウェイはボードリヤール調にこうまで断言してみせる。

「二十世紀後半の現代は、神話的な時代である。すでに現代人はキメラになってしまった。理論的にも実質的にも、人間は機械と生物の混合体(キメラ)と化した。つまりわたしたちはすでにみなサイボーグなのだ。サイボーグこそ現代人の本質であり、政略といえる。」(「同上」P31)

ハラウェイのいう「サイボーグ」とはとどのつまり現代人とその理念のことではないか。脱性差時代の世界の産物であり、西欧的な起源神話を欠き、精神分析とマルクス主義を切り捨て、そこに究極のアイロニーの潜在を見出すものであり、断片性とアイロニー、融合と倒錯を称揚してみせ、生物家族を夢見ず、エディプス神話さえもちあわせないその概念の中に潜在するのは「アンチ オイディプス」以降の認識といってもいい。というよりはこの本が「アンチ オイディプス」の分流のようにも読まれてしまうのはドゥルーズ=ガタリの大きさだろうか。そしてこれはマジョリティにならないであろうマイノリティの論文であり、もしこれがマジョリティ化しているのならば、現代は大いなる皮肉、まさにそれこそがアイロニーだともいえるだろう(笑)つまり「個性化」の名の下に起こるフラクタルの爆裂の「忍び笑い」がこそが。

それではこのサイボーグはいかなる地平に創出されたのだろうか。ハラウェイは「三つの重大な二項対立解体明示」としてこの地平を描出している。

1、アメリカの科学文化においては、二十世紀後半までの時点で、人間と動物との間の境界がみじんもなく解体されたこと。独自性を守る最後の牙城は、遊園地と化したとはいわないまでもすっかり汚染されてしまっている。言語にしても道具の使用にしても、あるいは社会的行動や心理的事象にしても、人間と動物の区分を決定的に保証するものは何もない。(中略)サイボーグが人間と他の生物の間を壁で隔てるわけはない、むしろ不気味ながらも心地よく、両者の確実な融合を象徴する。やがて獣性の概念そのものが、このような融合・交換の循環を経たことにより、まったく新たな意義を帯びていくこと。

2、第二の区別は、すでに予想されるとおり、動物-人間(有機体)と機械との間に引かれる。(中略)二十世紀後半の機械は、自然と人工の差異はもちろん、精神と肉体、自己開発と他者依存の差異を、要するにこれまで機械と生物の間に適用されてきた差異のすべてを、ことごとく曖昧化してしまった。現代の機械は不気味なほど活力に満ちており、むしろ人間のほうが不思議なほど活力を欠く。

3、第三の差異は第二の差異の部分集合といえる。物理的なるものと物理的ならざるものとの間の差異は、目下、きわめて不明確だ。(中略)たとえば現代の機械がマイクロエレクトロニクスの産物であること。至るところに存在し、目に見えないほどに小さい。現代の機械類は不遜ななり上がりものの神であり、父なる神の遍在性と精神性をパロディ化してしまう。(中略)機械たちはいまやとてつもなく流動化しており、もはや人間という実体には手の届かぬ境地に達している。そこでサイボーグが浮上するのだ-すべての精気として、精髄として。サイボーグは偏在し、不可視である。こうした特徴を孕むからこそ、これら陽光を帯びた機械はおそろしい。サイボーグは物質的にも政治的にも目にしにくい。サイボーグとはけっきょく、意識の問題なのだ-あるいは意識のシュミレーションの問題なのだ。サイボーグは浮遊する記号表現として、ヒッチハイカー相手のトラックのようにヨーロッパ中をかけめぐる。


これまで定義されてきた人間の「境界錯乱」がこそサイボーグ出現の領域である。つまり人間はいまや従来人間であったように人間であるわけではなく、動物の領域と機械の領域とが混在してしまったもの、独自性の領域の汚染されたものとして考えられ、これは前述の「つまりわたしたちはすでにみなサイボーグなのだ。サイボーグこそ現代人の本質であり、政略といえる。」といったテーゼを補強するものとなる。そしてここで析出されたサイボーグのヴィジョンとは建築家磯崎 新の都市を綴ったこんな魅惑的なヴィジョンを想起させる。

「「都市」は国家や民族と同様に、有用性を喪失し、忘却される。「都市」はその姿さえ消すだろう。あげくに、生物学的本能を電脳チップによって加速し拡張された奇妙な種が、地球上を疥癬類のように占拠する。それは振動する粒子のかたちづくる流体で、海や雲に近い形状をもとう。」<「都市」は姿を消す>

そしてまた国際政治的に見れば、「現代の機械類は不遜ななり上がりものの神であり、父なる神の遍在性と精神性をパロディ化してしまう」とはまさしく我々日本人のことだろうか。つまり、マイクロチップのように小型で、折り畳まれ、端正に整えられ、キリスト教のドグマをそうとは意識せずに、八百万の神々とともにパロディー化してしまう日本人こそが、西欧社会における「「異物」としてのサイボーグ」のようにも思う。だからこの視点からながめやるに、父権構造のパロディとして物事を語ることしか出来ない日本の政治家の言説はいずれも「おバカ」であって、それがさも我が物顔で流通してしまう「社会機械装置」の円滑ぶりもまた同様なのではないだろうか。

話が逸れたので、話を戻す。
さらにハラウェイは「支配の情報工学」の章において、おそらく現代社会の的確であるだろう移行する二項を提示している。ハラウェイによれば「労働」は「ゲーム」へ、しかも「最終的なゲームへ」着実に移行しているのである。そしてここで中心を占めるのは、いわゆる優生学的な旧きよき階級支配の諸概念「白人中心資本主義的父権制」ではなく、おぞましくも新しいネットワーク群すなわち「情報の支配工学」だという。この二項リストは以下。

表象⇒擬態
ブルジョワ小説⇒サイエンスフィクション
リアリズム⇒ポストモダニズム
有機体⇒生体部品
深層、完全性⇒表層、境界線
熱⇒雑音
臨床としての生物学⇒記号としての生物学
生理学⇒通信工学
小集団⇒下位組織
完成⇒楽観
優生学⇒大衆操作 
デカダンス⇒廃物感覚
衛生⇒ストレス管理
微生物学⇒免疫学
有機的分業⇒人間工学
機能専門化⇒モジュール構造
生殖・再生産⇒模造
性的役割の有機的個別化⇒優良遺伝子戦略
生物学的決定論⇒進化論的慣性・諸拘束
地域生態学⇒生態系
人種的な存在の鎖⇒新帝国主義/国連的ヒューマニズム
家/工場の科学的管理⇒地球工場/在宅勤務用電脳住宅
家族/市場/工場⇒集積回路上の女性
家族賃金⇒相対価値
公的/私的⇒サイボーグ市民権
自然/文化⇒差異の諸分野
協同⇒コミュニケーション増長
フロイト⇒ラカン
セックス⇒遺伝工学
労働⇒ロボット工学
人間知性⇒人工知能
第二次世界大戦⇒宇宙戦争
白人中心資本主義的父権制⇒支配の情報工学


そしてこの「支配の情報工学」の中で女性は搾取される可能性を孕み、下位的地位に甘んじなければならない。ハラウェイによれば状況は悪化し、「貧困はいわば女性の問題となって、目下切迫してきた」という。

次に後続の「フェミニズム」を見てみよう。
女史はマルクス主義/社会主義フェミニズム、マッキンノンのラディカルフェミニズム、クリスティヴァなどを踏まえたうえで、現代フェミニズムに潜在するアリストテレス以来の二元論を批判する。

「フェミニズム分析の中には、アリストテレス以来の西欧的言説につきものの有機的で階層的な二元論がいまなお支配しているかのようにふるまうものが見受けられたからである。西欧二元論は、いまやそれ自体換骨奪胎され、あるいは、ゾーン・ソフーライもいうように「テクノロジーによって咀嚼されてしまった」精神と肉体、動物と人間、公私、自然と文明、男女、原始と文明などもろもろの二元論は、すべてイデオロギーの点から疑問符を突きつけられている」(本書P65)

このような二元論に準拠したフェミニズムの社会構築の側面を強調する。

だいたい、女性であるなとという状態じたいが、ほんらい存在してはいないのだ。女性であること、それは性化学的言説や社会活動における論争史によって構築された複合カテゴリーにすぎない。」(「同上」P45)

「もちろん「女性の文化」にしたところで、有色女性と同様、親和力を誘導するための言説機構によって人工的に産出されているのである」(「同上」P49)

「女性」は二元論的言説構造下人工的な産出物にすぎない。
もし仮に女性が「自然」に女性であるというなら、その「自然」とは男性によって作り出された「自然」にすぎず、「自然」であることは勿論絶対的諸条件というわけではなく、いくらでも人工的操作によって、組み替え可能なものにすぎない。ハラウェイはこれを加速させ、サイボーグ連結させるのである。サイボーグ連結-つまり機械の力の介在によって史学的フェミニズムに纏わる二元論を乗り越えること。

サイボーグフェミニストたちが議論しなければならないのは、わたしたちがもはや統一的な母型が「自然」にあったなどとは前提にしていないこと、そしていかなる構造も完全ではありえないことだ。無垢の観念をふまえ、犠牲の存在こそ唯一の思考の根拠とみなす考え方では、もうだめなのである。けれど革命的主体という装置あるかぎり、二十世紀後半の人々はものを考え直す機会を得るだろう。アイデンティティが攪乱され、アイデンティティ構築のためと称し反省的戦略がねられるなかで、ひとつの可能性が浮上する。それは、預言どおり救済史さえ終わらせるような終末の世界に備えて、経帷子以外の服を縫いあげること」(「同上」P52)

ハイテク文化はじつに興味深い方法で、こうした二元論に挑戦している。いったい誰が人間と機械の関係を構成し、誰がその関係の中で構成されるのか、それは明白ではない。コード化作業にいそしむ機械に至っては、どの部分が知性でどの部分が身体であるのか定かではない。わたしたちは生物学のような形式的言説においても集積回路内のホームワーク・エコノミーのような日常的活動においても自己認識するけれども、まさにそのとき、自分たちがサイボーグであり、ハイブリッドでありモザイクでありキメラであることを思い知る。生物体はいまや生体組織にすなわち情報伝達装置のたぐいになった。」(「同上」P102)

フェミニズムはここでハイテク文化化され、つまりアップデートされ、新しい概念装置となったかのように見える。つまりドゥルーズ風にいえば、「女性機械」に、より現代に即した形態に再定義(再生産?)される。

「社会主義フェミニズムの政治学を再構築するためには、科学とテクノロジーの社会関係を主題とする理論と実践を通過しなくてはならない。そしてそのさい、わたしたちの想像力を構造化する神話と意味の体系をも絶対的に含めて考えなくてはならない。サイボーグとは、解体と再構築をくりかえすポストモダンな集合的・個人的主体のかたちだ。これこそ、フェミニストたちがコード化しなければならない主体のあり方なのである。」(「同上」P66)

その際の武器となるものはなにか。この「情報の支配工学」の中で「サイボーグフェミニスト」はいかに戦うのだろうか。
ハラウェイはジョアン ラス、サミュエル ディレイニー、ジョン ヴァーリイ、ジェイムズ ティプトリーなどの作家を擁護したうえで、2つのポイントを強調する。ひとつめは「ものを編むこと」それから「書くこと」のふたつである。

むしろわたしが好むのは、ネットワーク状のイデオロギー概念だ。それは、空間とアイデンティティが豊潤をきわめ、個人の肉体と政体における境界線さえ侵犯されてしまったことを示唆する。ネットワーク編成はフェミニスト的行動であると同時に、多国籍企業特有の戦略である。ものを編むこと、それはまさに闘争的サイボーグのための方法論なのだ。」(「同上」P81)

書くことの意味をめぐる論争は、現代における政治的闘争の主要形態である。文字のゲームを解放してやることは、ひどく真面目な目論見なのである。アメリカの有色人女性の詩や小説は、くりかえし「書くこと」を主題にしながら、意味する力をどのように入手できるか、まさにそのことを考えている。」(「同上」P95)
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サイボーグ時代の文学が扱うのは、サバイバルの力である。それは、始原の無垢には立脚しない。むしろ、かつて道具を他者として記録=有徴化した世界そのものへ、当の道具をつかんで文字を刻印してゆくような姿勢から出発する。
この道具として、しばしば物語が登場するのだ。それはすでに物語の再話であり、自然化されたアイデンティティ固有の階層秩序的二元論を逆転させズラしてしまう。サイボーグ作家たちは、起源の物語を語りなおすことで、西洋文化の中心たる起源の神話をくつがえす。」(「同上」P95)

最後にこの闘争の果てに夢見られる地点なのだろうか。

「怪物たちは、西欧的想像力における共同体の限界をたえず浮き彫りにしている。たとえば、ギリシャ神話のケンタウルスとアマゾンは、結婚を破綻させると同時に戦士と動物、あるいは戦士と女性との境界を汚染することによって、ギリシャ人男性からなる中央集権的ポリスの限界を設定した。シャム双生児や両性具有者たちが実在する畸形人間として大きなショックを与えたのは、とりわけ近代初頭のフランスにおけるかぎり、自然と超自然、医学と法学、徴候と疾患といった図式に基づく言説が構築されていて、それこそまさに近代的主体を確立するのに不可欠だったからである。」(「同上」P105)

「サイボーグジェンダーは小規模の可能性だが、全地球に復讐する。人種・性差・資本の3条権を考えようとしたら、部分と全体に関するサイボーグ理論が必要なのだ。サイボーグはべつだん全体的理論を産出したいわけではない、たんに境界に関する本質的な経験が、境界の構築・脱構築があるにすぎない。いま、ひとつの神話体系が政治言語になる時を待つ。それはやがて、科学とテクノロジーを眺望しつつ支配の情報工学に挑戦していくような、ひとつの手段を確保するだろう。」(「同上」P108)

「ところでわたしたちにしても、すでにみな、受けてきた傷は深い。だからこそ復活ならぬ再生を求めるのだ。そしてそのような再生可能性が確保されてはじめて、ジェンダーなき怪物的世界への期待が、さながらユートピアを夢見るように織り紡がれる。」(「同上」P109)

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読み終えてなんだか「comme des garcon」の理念を見るように思ってしまった。服は服ではない。畸形と怪物世界の鎧である。フェミニズムの夢-怪物世界への夢、これらはいずれにせよそれほど遠いところではないところで実現されているに違いない。
いや もうすでに-世界は集積回路の局所においてハラウェイ化しているのではないか。

本書内にEnki bilalやH・R Giger、「バーバレラ」のジェーンフォンダ、「メトロポリス」やFetishな写真が掲載されており、それがなかなかよかった。やはり絵や写真が文字と組み合わされたほうが愉しい。

なかなか刺激的な論文だった。
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