カテゴリ:小説評論( 17 )

sweet memory~エレカシ青春セレクション~

エレファントカシマシ / フェイスレコーズ


武蔵野 (岩波文庫)

国木田 独歩 / 岩波書店


☆オルタネイティブ ムサシノ

オレは空気だけで感じるのさ
東京はかつて木々と川の地平線


武蔵野の坂の上 歩いた二人
そう 遠い幻 遠い幻・・・


武蔵野の川の向こう 乾いた土
オレたちは確かに生きている

        「武蔵野」エレファントカシマシ


ムサシノはオルタネイティブな場所である。

若者を魅了するなにかがムサシノにはあって、若者はムサシノに住みたがる。吉祥寺はいつも住みたい街ランキングの上位にはいる。漫画家やアニメーター志望の若者はムサシノを目指し、ミュージシャンの卵くんたちはムサシノで夜な夜な、よれよれ呑んだくれている。そればかりではない。散歩の達人やホームレスもまたムサシノを目指す。おそらくそこにはなにやら人間の、人間ではない場所を刺激してやまないものがあるに違いない。

さて、いまから遡ること、108年前、イマドキの若者同様にムサシノにかなり魅せられていた男がいた。自然主義の先駆としてその名を知られる「武蔵野」の著者国木田独歩である。独歩は熱烈な恋におちたガールフレンドとの幸福な結婚生活を夢見て、「北海道」の僻地の田園地帯をさまよった後、神奈川県の逗子にて結婚生活をスタートさせた。だが、極貧の生活にあえなく破局。傷心のうちにひとり、武蔵野の地にて(渋谷らしいのだけれども)生活をはじめ、この作品を著した。

今、現代人がこの「武蔵野」の本に触れると、その自然観の原始性に驚かさせられる。むき出して、荒々しく、ロッケンローな原始性。作中、独歩は「ロシア」の作家ツルゲーネフや「北海道」の田園地帯の風景との対比によって、武蔵野の風景を切り取って見せている。このことは、はからずも東京郊外の風景観の礎を築いているのだと筆者には思われる。つまり、「ロシア」や「北海道」に対する憧れ―日本そのものを「別の」、「新しい」、「もう一つの」、「オルタネティブ」な角度から切り取ってみせた風景論―「武蔵野」はそんな風に当時の人口に膾炙したのではないだろうか?

「ロシア」、「北海道」、そして「武蔵野」。
これらは同一線上に並んで、それまでになかった「オルタナ風景観」や「オルタナ自然観」を提示して、人々に新しい感覚をもたらした。そして、こういった感覚はいま世界を席捲している「スタジオ ジブリ」のアニメにも共通する郊外感覚の礎となっているように見える。「武蔵野」は108年前の冒険的オルタナピーポー国木田独歩によって見出された自然観を、現代に移しなおすことによって、その場特有の「鳥の羽音、さえずる声、風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。叢の蔭、林の奥にすだく虫の音」(「武蔵野」)を再生産しているのかもしれない。

そうして、今日もまたこのオルタネィテブな場所の生命は豊穣に息づいていて、人間の、人間ではない場所を刺激しているに違いない。人間は、人間ではない場所において、生命を感じることができる。ムサシノはやっぱりオルタネィテブな場所であり、だからこそ若者を魅了してやまない匂いを発し続けている。そうして、今日もまた―

オレは空気だけで感じるのさ
東京はかつて木々と川の地平線


武蔵野の坂の上 歩いた二人
そう 遠い幻 遠い幻・・・


武蔵野の川の向こう 乾いた土
オレたちは確かに生きている

        「武蔵野」エレファントカシマシ
[PR]
by tomozumi0032 | 2009-10-23 03:44 | 小説評論
―というわけで、めずらしく(?)、前回の告知どおりやってみたいと思います。

谷崎の名著「陰翳礼賛」です。

まぁ―こういうコンピューター空間のような進歩的で、まっ白で、ピカピカした空間にはおおよそ似つかわしくない本であることは間違いないのですけれども、時代の流れです、谷崎には申し訳ないのですが、でてきていただきましょう。古い日本的美学と欧米化した現代社会にたいする批判というようなものがつまっている一冊です。
a0065481_198407.jpg

☆「陰翳」という日本文化の女性性
まず、はじめにすこしだけ、本の概観を描いてみます。
この本は昭和八年(1933)に出版されました。
昭和八年といえば、第一次世界大戦と第二次世界大戦のあいだの時期にあたり、日本はかなり欧米化と工業化が進んでいたようです。一方で日本的なものと欧米的なものとをめぐる価値観の齟齬があったらしく、夏目漱石から谷崎潤一郎にいたるまで、そういった齟齬がくり返し描かれています。

いまの社会からは、あまりうまくイメージすることができないんですが、当時は欧米と日本の価値はあいいれるのかと思われていた。大日本帝国化へと急ぎ足ですすんでいたこの時代、ふと今おかれている状況を省み、基本に立ち返って、すこしだけ状況を押し戻してみたい思いに駆られたような谷崎を通して、この時分の日本人の心境が推し量られます。その意味でこの本は「回帰」の本なのでしょうが、「武士道」がそうであったように、たいがい人が「回帰」して、昔を懐かしむというのは、それが失われてしまったか、失われつつあるからであって、今から約80年前にすでに「陰翳」―つまり影―を尊ぶ日本精神が失われつつあったことをこの本は暗示しています。そうしていまや「陰翳」は暗がりとして、忌まわしいもの、消し去るもの、すみずみまで照らし出すものとなってしまったようですが、これは日本人として残念なことだと思います。この本の中で谷崎は触れていませんが、おそらく「陰翳」は眼に見えるもの「物質性」ではなく、眼には見えないもの「霊性」と関わりをもっています。そしてさらにいえば、その意味で男ではなくて、女、男性ではなくて、女性という性とかかわっているように思います。つまり、日本文化には谷崎が男性として意識で捉えている以上に、その女性性が無意識としてうごめいているのではないでしょうか?

ひら仮名からブンガク、ロックから携帯の絵文字、男女のゲイ化に至るまで、日本文化は本質的にとても女性―すなわち霊性に近い文化であって、これは映画や小説などの説話構造、あるいは日常の生活の節々で感じるところなのではないかと思います。

もっともこういった女性性の文化形態には欠点もあります。
まず議論が不得手なところ、短文で感性的な著述の上手さに比べて、長文で理性的な著述の下手なところ、それから言葉が霊性を帯びてしまうので、言葉がその意味として機能しないところ、感性に流されやすいところ、批判が成立しないというファシズム的社会を招きやすいこと、それから「男性性への憧れ」を捨てきれないところ―したがって、大国の論理や大きな流れに弱いところ、インディペンデントな自立ではなくて、甘い依存に溺れやすいところなどがそうです。ですから、今のNEWSなどを聞いていると、そういった女性的依存の流れにたいする揺れ戻しとして、インディペンデントな人が個性として、もてはやされているようにも眺められます。手近な例では昨今ブームな「白洲 次郎」などはその一例のようにも思われます。英語、あるいは漢文、中国語にある論理性や(白洲風にいえば)「プリンシパル―原理原則」は翻訳こそすれども、ついぞ日本人に血肉化しなかったし、しないことを民族的な良さとしてとらえてきたところもあります。なぜって、プリンシパル―原理原則がないということは、それによって争わないという「平和」を保障するものだからであって、公平に見れば、ここには良い面もあれば、悪い面もあったと思われます。

☆なまけものの哲学
この本には「陰翳礼讃」のほか、いくつかの短いエッセイがおさめられています。

これらのエッセイはおそらく相互におぎないあって、観念の補填をしているものとおぼしく、どれもが日本情緒を再認識、再発見したような、「とらえ直し」の文章によって、情緒豊かに描かれます。なかでも「陰翳礼讃」のつぎに収められていた「☆惰(らいだ)の説」(☆はりっしんべんに頼)は個人的に面白く読みました。ここで、谷崎は物臭太郎に代表される「なまけもの」の哲学を擁護しています。中国でも日本でも東洋人には「なまけもの」なところがあって、それを尊ぶ文化があったようです。以下にすこしだけ見てみましょう。

「とにかくこの「物臭さ」、「億劫がり」は東洋人の特色であって、わたしはかりにこれを「東洋的☆惰」と名づける。ところでこう云う気風は、仏教や老荘の無為の思想、「なまけものの哲学」に影響されているのだろうが、実はそんな「思想」などに関係なく、もっと卑近な日常生活の諸相にゆきわたっているのであって、その根ざしはあんがいに深く、わたしたちの気候や風土、体質等に胚胎し、仏教や老荘の哲学は、むしろ、それらの環境がぎゃくに生み出したものであると考えるほうが自然にちかい」(本文より)

東洋のある時期が欧米のある歴史家によって「東洋的停滞」とよばれたことはよく知られており、今や進歩史観によって、生産性が計られる「GDP」という指標が提示され、日本人、のみならず東洋人は急激な変化にさらされています。よく考えてみれば、この「東洋的停滞」というのは、谷崎が「東洋的☆惰」と呼んだものと同じもののようです。19世紀、西洋人によって、東洋人が武力によって、かなり強引に「西洋化」され、そしてそのことの精神的外傷―トラウマ―を東洋人はいまだにひきずっています。つまり、「陰翳」を嫌うようになり、「なまけもの」ではいられなくなったことは西洋への憧れと表裏一体のようにも見えます。谷崎はそんな日本人や東洋人を、古き日本や東洋への回帰ということで、批判しているようにも読まれました☆

「陰翳」の中で、「なまけて」みるというのも、なかなか風流で優雅なことなのではないでしょうか☆
[PR]
by tomozumi0032 | 2009-03-08 19:02 | 小説評論
◆ふわふわとして、じっさい、とらえどころがない、「時」を描いたことで名高い小説。

◆以前、この小説の発端に登場するマドレーヌをパリのおみやげで食べたが、あんまり美味しくなかったし、あんな「なにか異常なこと」なんて起こらなかった―(笑)

◆幼少期の愛や恋から、かつてのブルジョワの栄華の残り香の思い出、劇場、ファッション、文学、母への愛、そしてゲイ、それを座標軸へとつなげとめようとする具体性と抽象性の相関的な描写。夢と現実、過去と今、映画―幻灯―の映像の混じりあい、混色のパレット。匂いにたいする繊細で複雑な感性。

◆そして、なにより、おどろくほどの饒舌。

◆「1秒」が「30分」に引き伸ばされる時の、読書の「めまい」のようなものがわんだふる。だいたい、作中に登場する恋慕する作家ベルゴット氏へのテキストへの注釈として、「きもちE」ところが引きのばされてるんだから、そりゃ気持ちいい。この本を退屈なんていうのは、経験と感性の不在(現代アメリカにゼーションの価値観の豚、ダニ、ノミ、虱)―だろう、と思う。

◆この本を出版した当初フランスでは「望遠鏡をさかさまに眺めたような―」と形容されたらしいテクノロジカルで稠密な文体、そして過去と未来と今を描くことによって、次元をもうひとつ付けくわえること―。

◆時そのものを描いて蘇えらせようとしている、その無謀な情熱のかがやきと、時そのものがただただエクリチュールの中で再現されていて、とても豊穣で驚いてしまうような文学体験だなぁ~と思った。豊かでハレーションを起こす言葉の群れ。素敵な文学の中には、他のメディアではけして味わえないような、次元数を高次にし、存在にクラックをいれ、存在そのものを壊してしまうところがあるんだと思う。

◆それから、なんとなく、ボク個人としては、現実というものがいかにしてイメージとしてしかわたしたちにとらえられないのか、時そのものというものがいかにしてイメージでしかないのか―ということを教えてくれる本で、そんな意味でカフカやガルシア マルケスに近い印象だった。柄谷行人じゃないが、リアリズムとはわたしたちがいかにして「現実をリアルに知覚していないか」を教えてくれるものであって、現実はどこかあやふやなものを孕んでいるんだろうなぁ。(少し話しはそれるのだけれども、けっこう思うが、ドストエフスキーはリアリズムだと言われるけれども、あれって―そうかしらん?と読みながら疑問符がつく。だって、夢の描写が多くて、例えば白昼夢や幻覚を見る「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフ、コミューンを夢見るレベージャドニコフ、「カラマーゾフの兄弟」の瞑想家スメルジャコフ等々を見ていると、どうも現実離れしているとしか思えないような気になってしまう)

◆ま いいや☆

◆文学はとても優雅でなににも変えがたい体験なんだってことを、プルーストは肯定してくれ、さらに1次元を付け加えてくれるみたい☆

◆ちなみに漫画もでているけれども、あれは駄目だなぁ~。
表現スタイルとしての、漫画の限界もあると思った。時間との親和性は具体性を喚起させる「絵文字」よりも抽象性の高い「文字そのもの」の方が高く、時そのものは絵文字では描き出せない。

◆時そのものを、ある意味では優雅に、ある意味では、不器用ともいえるような、不確かな歩みで、よろよろとよろめき探る「文字」は、やっぱり、えらいのだ!
[PR]
by tomozumi0032 | 2009-01-18 13:56 | 小説評論
ヴァインランド
トマス ピンチョン / / 新潮社

「革命よ、あなたも肌で感じるでしょ?」(「本書より」)


☆漫画的小説、それからエンターテイメントに対する愛
くよく、現代小説を読んでいて思うのですが、現代小説と漫画はけっこうよく似ています☆

ウィリアムギブスンの諸作品にしても、バロウズにしても、村上春樹や龍、山田詠美や吉本ばなな、阿部重和にしても、そしてこのトマス ピンチョンの「重力の虹」という20世紀後半を代表する文学作品にしても、どこか漫画くさい。それはおそらく小説という表現ジャンルが小説のみにとどまるものではなく、その近隣領域―漫画、映画、ART、哲学とお互いに影響を与え合って成立しているからだと思います。かつて小説が自律的に体系的な歴史のなかで成立したような気がした時代があった―し、それをいまだに古臭く文学というようですが、現代ではなかなかそういった閉域にとどまっていることがむずかしくなっているように見えます。―というのは、同時に文学的といわれる表現領域はそれ以外の「グローバル身体」の領域にまたがって表現されてしまっているからでしょう。いまや、漫画、映画、ART、哲学の中で、かつて文学的といわれた表現を見出すことはむつかしいことではありません。そして、おなじように文学といわれる領域の中に漫画や映画や哲学を見出すことは当たり前のことのようにぼくには思われます。

この小説もそんな近隣領域に絶大な影響を受けた、「ちょ~まんがっぽく」って、「ろけんろ~」で、「が~り~」で「ヒッピー」で、「どっちいっちゃうんだろ?」な一冊です。

☆「どたばた喜劇」のF・カフカ
「もちろん役人の顔ぶれが、権力者の名前が変わったからといって「抑圧」は続きてゆく。より広大でより深遠でよりとらえがたい力が自分たちを取り押さえようとしている。次はどんな指令をうけてどこに飛ばされるのか、その決定もはるか遠くの官僚的機構にゆだねられ、内容もますます薄汚れた微弱なものになっていくばかり―」(「本書より」)

ンチョンを読むたびにいつも思うのは、カフカ的なものの延長なんじゃないかなぁということです。

これはあんまり言われていないように思いますが、パルプ的な感性-シュールなユーモアや笑い、不条理な現実感覚、夢と現実の脆く淡い境、虫や動物と人間のまじり合い、官僚的なものと逃亡者のせめぎあい、幸せと苦しみのあやうい均衡、生きることへのおかしなペーソスなどなど-の中にはカフカが切り開いた世界と同じ匂いがあります。ハリウッドだったら、チャップリンやバスター・キートン、マルクス兄弟からタランティーノ、コーエン兄弟まで、日本だったら、ある時期の手塚治虫から赤塚不二夫、宮崎駿、吉田戦車、しりあがり寿、北野武、一発芸のピン芸人、数々のB級映画にいたるまで(もっとある?、ありますね―(笑)でも、そのあたりはご想像にまかせることにしましょう☆)直接ではないにしても、同じような匂いがしてしまう。そして、このピンチョンもまた強くカフカの匂いがしていて、文章がどっかに迷い込み、「ささっ」ではなく、「どたばた」と逃げてゆく。「重力の虹」なんて本当に迷宮をさまようようなラビリンスな読後感で、終わったところでなんだか終わったのか、終わっていないのか、よくわからない。さらにハイカルチャーなのか、サブカルチャーなのか、笑うべきなのか、悲しむべきなのか、その反応に困ってしまうのはその名に恥じない「謎」の作家の面目躍如といったところでしょう。その後に残されるのは戸惑いと笑い、う~ん なんだかなぁ~!-という宙ぶらりんに取り残される感じはカフカが見出した生存感覚に近いのではないでしょうか?もっとも、それを絶望と見るのか、笑いと見るのかは微妙なところがあって、時代ごとの解釈にわかれるものではあるでしょうが-。

●バスターキートンの「どたばた喜劇」その1


●バスターキートンの「どたばた喜劇」その2

☆舞台はカリフォルニア―ドジでダメなヒッピー男とCUTEな娘のファンタジックな冒険物語
て―
長くて、かなりこみいって、ややこしい話ですが、ざっとおおまかにですが、あらすじを描いてみましょう。はなしの枝葉やわき道が充実した小説ですが、本筋は政府権力とそこからの逃走、そしてCUTEなヒッピー娘の母探しの物語として描かれています。

本書の舞台は1984年のヒッピー文化すぎさりしカリフォルニアです。
主人公は、これまでのピンチョン作品の主人公とおなじく、生きることすべてに関してピントがはずれた、元バンドマンのヒッピー男、ドジなダメだが、純粋なフラワーチルドレン「ゾイド ホィーラ」でこの男はTVCMで窓などを突き破ったりする仕事をやっています。ゾイドには「プレーリィー」という名のへヴィメタ好きの娘がおり、彼女はゾイドが以前に別れてしまった母「フレネシ」を恋しく思っています。ゾイドの仇敵は「ヘクタ」というレザーハットに黒目がねの警察官で、数々の違法行為をおこなってきたゾイドを追い、映画まがいの追跡劇をくりひろげてゆきます。時に法を犯すことも辞さない理想主義者のゾイドと現実主義者のヘクタの間で、たわむれのような争いがくりひろげられ、ときに「ゴッツンコ!」-しながらも、ゾイドは逃げおおせ、マリファナばかりを吸っています。そんなある日、プレーリィーがへヴィメタの友人イザヤのバンド「ビリー・ゲローとザ・へドーズ」の結婚式のギグに参加するということで、家をでることになります。そのとき、ゾイドはむかしであった「文茂田 武」という日本人の名前がかかれた名詞をプレーリィの荷物に忍ばせます。さて、その「ザ・へドーズ」の結婚式ギグにて、名刺の文茂田 武のパートナーで母フレネシの昔の仲間で、すっごいCOOLなダリル ルイーズ テェイスティンこと、「DL」に出会います。DLは勇猛なフェミニストグループである「くの一求道会」にプレーリィをつれてゆきます。プレーリィはそこで、DLからDL自身や武、(ここって、すっごくおかしいのですけれども―)過去の修行で日本へいったこと、両親ゾイドとフレネシにまつわるのさまざまな話しをきき、母フレネシにたいする愛をつのらせます。それから、やがてあらわれた武と合流したプレーリィ、DL、武の3人はロスアンゼルスにある武の家へと向かいます。システム機械におおわれた武の部屋で昔の母フレネシの映像を見るプレーリィですが、そこで母がむかし愛したやり手カリスマ検察官「ブロック・ヴォンド」の存在を知らされます。そして、過去にさかのぼって、ゾイドがすぎさりし60’Sにやっていたバンド、「コルヴェアーズ」のこと、きらびやかなサイケデリックドリーム、母フレネシと父ゾイドの関係、ヴォンドと母フレネシの関係、自分が出産され、父ゾイドにひきとられるまでの経緯、ヴォンドと父ゾイドの間の母フレネシ争奪合戦などなどが豊富なその時代をめぐる知識を背景に語られます。最終章、村の夏の集いの場で、はたしてプレーリィは母フレネシに再会をとげますが、たいしたショックもなく、TVで慨視されたような他人行儀なものとして描かれます。そののち森へいったプレーリィにヘリコプターに乗ったカリスマ検察官ヴォンドの魔の手がのび、「わたしこそが本当の父だ」と主張します。―が、プレーリィはそれを否定して、彼を追い払います。やがてヒッピー軍団の彼らを根絶やしにしようと総攻撃をもくろんだヴォンドは先住民の霊的パワーによって、骸骨の山へと送られます。翌日、プレーリィはその知らせを聞いて森へともどります。森の中でひとり、覚醒夢に自問し、やがて眠りにおちた彼女は愛犬の舌の攻撃に目を覚まして、おしまいです。

☆いつまでも子供でいたい―にたいする肯定と批判
の、現代風マジカル・リアリズム、ファンタジックすぎるきらいのある小説がいまでも面白く読める理由のひとつとしては、二つの対立の交流とせめぎあいが描かれているところにあると思います。きらびやかなサイケデリック・ドラッグカルチャーだけが描かれるでもなく、それを取り締まる行政当局だけが描かれるのでもない。主人公はヒッピーの娘ですから、その娘にたいして同情的な視点というものが多いのはもちろん仕方ないんだけど、でもそれを両手離しで肯定しているというわけでもない。その二つの対立のあいだが埋められるように、情報量のとても多い文体で描かれていきます。のみならず、男性と女性、日本とアメリカ、光と影、大人と子供も同様にとりあげられており、そういったせめぎあいの面白さは、ほんとうに、おもわず笑いころげてしまうほどです。でも、ここで注目したいのは、ピンチョンはヒッピー男ゾイドを「子供」として、それに対する警察官「ヘクタ」やカリスマ検察官ヴォンドを「大人」として、やや突き放した地点から描いている点です。高度資本主義社会における子供性、幼児化、長びくモラトリウム状態というのは先進諸国の共通の認識であり、この点において、日本はそういった状況の先進国性をもっています。いまや、進んだ国の共通認識は「幼児化のレベル」によって、はかれるのではないでしょうか。文明国の社会的なイニシエーションの不在、すなわち帰属すべき肉体性の不在こそが「グローバリゼーション」そのものなことは明らかです。ロシアの作家ソルジェニーツィンによれば、ロシアの抵抗民族であるチェチェン人が互いに身体的イニシエーションをとりかわすことによって、仲間どおしを他民族のまえで殺すことができ、それが周囲を恐れさせたーようです。それはなぜか?。それはイニシエーション的な「契り」をむすぶことによって他民族が不可侵の決壊をはりめぐらせるからです。あるいは、かつて、フランス人に内臓を投げつけたサムライとはこういったイニシエーションによってささえられ、他民族に対して閉じられた、「ローカル身体」でした。ところが、今日、わたしたちはイニシエーション的なものから解き放たれ開放された、「グローバル身体」にすんでいます。その身体というものはモードがよくしめしているように、他民族に交換可能な身体であって、開放的であると同時にある種の不定形なあやふやさを孕んでいます。この身体意識の不定形のあやふやさこそがピンチョン、あるいはカフカのあやふやさのようにぼくは思います。すなわちこれは大人ではなく、イニシエーション不在にさいなまれた幼形成熟の「子供」の身体であり、その先鋭化―言語化です。(こういった身体感覚は日本の現代作家の多くにもまた見出されるものです)興味深い点はこういった身体感覚を60年代の時点で、ピンチョンが見出している点です。以下本文のヘクタのセリフを見てみます。ここでは警察官ヘクタがヒッピー男ゾイドの性質を批判しています。

「・・・みんな子供のこころのまんま、リアルライフっての生きていて、それが魔法のように報われることを待っている。そりゃそれでいい、べつに止めたりはしない・・・怠け者だとはおもわないし、働くのがこわいとは思わないけど・・・あんたははかり損ねたな、ゾイド。あんたは自分の心がどれぐらい純粋だと思っている?見ていると、あんたは純粋なフラワーチルドレンにしか見えなかった。まるでじぶんを裏切ったことなんか一度もないみたいにな」

サンフランシスコを中心に発生した愛と平和をもとめるフラワームーブメントに対するピンチョンのやんわりとした批判とその肯定がここに読めるのではないでしょうか。さらにこういった「活動」そのものを批判的に見るカリスマ検察官ヴォイドの視線はもっとシビアなものです。

「(フラワームーブメントやベトナム戦争反対など)60年代の活動の残り火のなかに、秩序への脅威ではなく、当事者にも自覚のないひそかな「秩序への渇望」を見て取ったところにブロック・ヴォンドの天才があった。TVメディアが「若者革命」などの題目をとなえ、あらゆる意味での「親」の権威失墜の物語を一般市民に浸透させていたころ、ブロックは、子供たちの意義申し立てのなかに、いつまでも子供でいたいという深いニーズを読みとっていた。こいつらは国という拡大家族の子供として、平穏で安全な暮らしをつづけていきたいという止むにやまれない、ほとんど感動的な思いがあるのだと。反逆のノロシをあげた子供たちは、反逆者への道をすでに半分進んだぶんだけ、改心するのもはやいだろうし、洗脳も安上がりにいくだろう・・・この閃きにヴォンドは賭けた。なに、それほどの変化じゃないさ。聴く音楽がすこし変わり、吸っている煙の種類が変わり、英雄としてあおぐタイプが変わるだけのこと。すこしだけ条件づけをしなおすというだけの話しだ・・・・・・女のようになった男と子供のようになった女・・・・・そう このひ弱さがおあつらえ向きなのだ。こいつらは檻に囲われているほうが、実はずっと居心地よいことなのだ。彼らは規律を叩き込まれることを実はもとめている」

―もっとも、そういいながら、ヴォンドは自分のペニスを勃起させてしまいます。そしてそれから司法省の側でも、殺しとこんがらがった性と権力のゲームがはじまっていることが暴かれます。

ヴォンドの住んでいて、暗黙のうちに志向している身体は、統治国家の司法権力という意味で、強く存在する大人で「ローカルな身体」です。でも、ゾイドや60年代の活動家の住んでいる身体はそうではない。開かれた身体、つまり中性的で、あやふや、消えてしまいそうな弱い「グローバル身体」です。たしかに、ヴォンドがいうようにそれは「女のようになった男、子供のようになった女」かもしれません。でも、逆にいえば、それは「他のもの」に開かれているのではないか―と思われます。他のものに開かれること、他のものに夢見ること。オバマ大統領が「CHANGE」という合図とともにかかげたスローガンとはそういうことだったのではないでしょうか?世界がオバマ大統領という「弱さ」によって先導されることは人間としてとてもうれしくて、勇気づけられることです。自我の傲慢さにではなくて、「他のもの」の弱さ―フラジャイル―マイナーコードに開かれること。弱いことを見つめること。そして未来を弱さのなかに夢見ること。これらはすべて「グローバル身体」のフラジャイルの中にあるようにボクは思います。

☆高度消費社会の映像表現と現実をめぐる問題意識
書をとりまくのは大量な情報をたれながすTVや映画、ヴィデオなどのマス・イメージによって形成されたアメリカの意識をめぐる現実です。ここであらわされている革命運動やロック、ドラッグカルチャーや消費生活、人物に付随するオーラやカリスマ性といったことすべてが「イメージ」と「実態」というふたつの状況をめぐる問いかけとしても読まれます。つまり映像メディアによって、現実にあることごとくのものがさきどられてあるような慨視感がこの作品全体を活気づけ、同時に一抹のむなしさを与えています。日本同様に最新ガジェットにおおいつくされたインダストリアルな高度消費社会の風景が描かれ、精神のテクノロジーとしてのドラッグがきらびやかな色彩と幻想をもって描かれるとき、いささか本来の実態からかけ離れた、だがそれなりのリアリティーをもったものとしてたちあらわれてしまうような―そんな世界、ないわけでもなくさりとてばあるわけでもない―現実をめぐるあやふやな感覚、テクノロジーが人間の存在をはかないイメージにしてしまうというギブスンやバロウズ同様の「幽霊めいた生」の認識。そういったものをとらえることの独特の上手さは、楽しく、幻想的で、でもどこか哀しい彼特有の世界観をもたらしています。

☆60年代カウンターカルチャーの熱気と挫折―そして転落
「おれだってさ、にんげん、けっして死ぬことはないんだって確信してた。国がパニクるのもあたりまえだよな。魂の不滅を信じる人々を管理してくなんてことは不可能だもん。国ってのは大昔から人々の生死を左右する力をひそかにふるってきたわけよ。それがいつも最終的な締めつけの力になってきた。ところがACIDが広まって、そのことがX線みたいにみんなに透けてみえるようになってしまったわけだ。禁止して、取り上げちゃおうと夢中になるわけだ。」
「でもさ、実際おこったこたあ取りあげらんねぇだろ?見透かされてしまったってことだ」
「簡単よ。忘れ去れさせりゃあいい。脳の中へ刺激を大量にぶちこむ。一分たりとも休ませない、映像と話題とサウンドの濁流、それがTVってもんじゃないか。それと、自分でいうのはつらいんだが、ロックもどうもおんなじもんになってきてるみたいだぜ。みんなの心を吸い上げて、世の中見えなくしちまう。おれたちの綺麗な信念もどんどんかき曇らされてって、さ、けっきょく、また死を信じるようになっちゃうんだ。そうして、みんなふたたび奴らの支配に落ちてゆく」(「本文より」)

イドは、小室哲也のように転落した男です。どれぐらいの転落かといえば、距離のみならず質においても自分に勝るものはそういなということを自分でちゃんとわきまえているぐらいの転落です。彼は妻フレネシに逃げられ、生活保護で暮らしながら、「窓破り」のCMにでて、マリファナばかり吸って生きています。でも以前はそうではなかった。「コルヴェアーズ」というサーフィンバンドでアシッドにまみれながら、演奏をし、はちゃめちゃなエレキサウンドを専門して浮上してきた新手のレーベルと契約を結び、虹色にかがやくレインボーな毎日をいそがしく送っていた。彼の転落そのものはちょうど「カウンターカルチャー」の転落そのものと軌をともにします。転落がただひとりの人間の問題として描かれないこと、そこがこの小説の面白さのひとつであり、60年代夢みられた「革命」の世界と、その運動が「挫折」して、社会に取り込まれ、やがて古びてしまった80年代の「現実」として二重うつしとなります。ロックはTVに取り込まれ、若者が信じた純粋な思いは消費社会に取り込まれ、日常と地続きの「危険のないもの」となって、商業化されてしまう。いったいあれはなんだったのだろう?-と当時の熱気や夢を思いかえすピンチョンの視点は愛に満ちていて、描写はとてもドリーミーでファンタスティック☆挫折と転落の果ての現代社会をみやるピンチョンのまなざしに、ペーソスや哀愁がまじるのはこういった背景によっており、そこには複雑な感情が読みとれて、小説でしか表現できない領域を切り開いているようです。

☆運動イメージと時間イメージ
ンチョンの運動と時間―それが切りひらく次元についての感覚と認識は独自のものがあります。本書ではこれらについてのよりわかりやすく直接的な言及が多く見られて興味ぶかい。運動性とはなにか、時間性とはなにか?-が盛んに問われるところもまたピンチョンの魅力だと思います。

☆アメリカ文学そのもの
ィズニーやアメリカの冒険童話で育ち、詩人ホイットマンに強く感銘を受け、フォークナーにおどろかされ、ギンズバーグやバロウズといったビートニック文学にやっつけられ、古着ルックでグレイトフル・デッドなどのカウンターカルチャーの洗礼をあび、ハリウッド映画を浴びるように見、村上春樹を読みふけり、リーバイスの501をはいて、コーラ片手にロックを聴き、オバマ大統領にあつい声援を送る日本人のごく一般的な一人として、ぼくは「普通」にアメリカ文学の大ファンです。アメリカ文学にはフランスやイギリスの文学、ロシア文学にはない、特有の大陸意識、おおきくて、おおらかな自然をはらんだ無骨で骨太な感覚があります。たしかにやぼったくて田舎っぽいところもあるけれども、でもそんなことがどうでもよくなってしまうようなダイナミックなエネルギーを感じます。まぁ いまではメディアでさわがれているようにアメリカの一極支配、超帝国ぶりも終焉しようとしており、世界はロシア、中国、EUをふくんだおだやかな多極化へむかっているようですが、それでもアメリカ文学のエネルギーや活気が失せるようには思われません。壮大な実験の成功と失敗、フロンティア精神、賛否両論をもろともせず、清濁あわせのむような超大国―そんな世界帝国の現在進行形の文学の面白さはこのピンチョンで十分に味わえるように思いました。

「合衆国はまだ黄昏の光の中に生き残っているのだろうか、それとも日は完全に暮れてしまって、すべてはファシストたちの夜の景色につつまれてしまったのだろうか。今の時代、見えたと思った光はじつは、数千万ものブラウン管から発せられる、ただのケバい「影」にすぎないのか。別の声が加わるたびに、新しい人名が一つずつ発せられる。叫ばれる名前。唾とともに吐き出される名前。長時間の激論と、胃痛と、睡眠不足への展開が容易に予想される名前たちだ。ヒットラー、ルーズベルト、ケネディ、ニクソン、フーヴァー、マフィア、CIA、レーガン、キッシンジャー・・・・・・。これらの名前が集まり、結ばれあってつくるのは天空の星座ではない。はるかなる夜空一面をちらちらと高貴な光を放つ星々としてではなく、地面にすてられ、とおりかかる悪意の靴底によって、くり返しふみつけられ、じめじめした地中深くへ押し込められていく、そういう名前たちである。それらが集まってつくるのは、だれも相対することができないアメリカにのこる最後の暗がりだ。暗い森の土のなかに、黒々と腐敗していく湿った落ち葉を持ち上げて、獲物を待ちかまえている毒虫がうようよ群れるなかに、それを見に行く者はいない。」
[PR]
by tomozumi0032 | 2008-11-09 00:26 | 小説評論

ライン

村上 龍 / / 幻冬舎




う いつも―
 村上龍は大都市の匂いがする。
 中心がなくて、混沌とした大都会。小都市や街ではない。雑踏のざわめきや嬌声や喚声の入り混じる大都市。洗練というよりは、より開けっぴろげで気前がよくてダイナミックで刺激的でクレージーでアグレシヴで、そして、なにより、面白い―
 村上春樹はそうではなく、いつも小都市か、街の匂い。どちらかというとこじんまりとしてて、ちょっと瀟洒で、気の利いた居心地のよさがある。おいしいパスタにJAZZに「いい感じがする」女の子、自分はこれが好きという洗練され、コジンマリとした世界があって、それは居心地がよいのだけれども、かわりにちょっぴり閉じこもった閉鎖的な匂いがする。
 
 この二人の作家―どちらも、外国の文化が身近な港街で育ち、外国文化の多大なる影響を受け、同じくらいの世代で、同じくらいにデビューしていて、アメリカナイズされたPOPさという意味では共通しているけれども、趣向という意味では正反対で面白い。ライヴァルなのかしらん―あ もちろん意識はお互いし合っている風ではあるけれども―でもこの二人がいなかったら、日本の文学はもっとつまらないものになっていたことだけは確かだ、とは思う。

 この小説は形式としては「トパーズ」に似ている。短い挿話が連なって、互いに微妙な関連性を描きながら、おおきな物語性の総体を描いていく。「トパーズ」は夜に働くSM嬢や風俗の女の子の物語だったけれども、これはもう少し間口をひろげて、いろいろな人のいろいろな思い。村上文学のダイジェストといった感じもあって、軽くサラリと読める。読後にやってくる微妙に浮遊した感じの投げ出され加減が好き好きかしらん。

 でもこういう曖昧なニュアンスなものも上手ですよね。
 龍せんせ―
[PR]
by tomozumi0032 | 2006-12-25 23:45 | 小説評論


アッシュベイビー

金原 ひとみ / 集英社




動物みたいなすごい情念―鶏とSEXしちゃうホクトって男もでてくるし、ここまで情念をあからさまに出されると、逆に情念というものが情念として機能している装置を思わされて、ちょっとテクノな感じもする。テクノとポジティブパンクが微妙に融合したみたいな印象。なんか―奇妙に熱いものがあるような気もしなくもない―和製キャシーアーカーか・・・ゴシック風味っていうか、趣味が付加されるともう少し広がりがでるような気もする。

小説の完成度としては前の蛇にピアスの方が高かったかな☆
[PR]
by tomozumi0032 | 2006-10-29 20:20 | 小説評論
 

インディヴィジュアル・プロジェクション

阿部 和重 / 新潮社

 


 
えっと・・・これ いっちお~渋谷の小説らしいが、どうも渋谷で生きている人を重層的にとらえたものとは言いがたく、あくまで舞台としての渋谷で、渋谷の描写自体は貧弱だ。渋谷で青春自体を過ごした人間として、いわせていただければ、これは渋谷の生成過程に付与するブンガクではなくて、渋谷に出てきた男が渋谷という都市制度(ヤクザやヒラサワが殴られる高校生のクローン、アヤコ)と地方上京者の持ち込んだ特異なシステム(高踏塾や映画への粘着リビドー固執、プルトニウム)間の闘争としても見ることができ、つまりある意味では都市を舞台に繰り広げられる―漱石以来の小説の一形態である地方上京者の夢―であって、渋谷のブンガクというのはあまり妥当ではないだろう。
 それからやはり強いのは映画の影響であって、非常に構造的に近いものでは「ファイトクラブ」(映画技師という職業の一致、主人公の主体の混濁、下位組織の形成)であり、その他にも「タクシードライバー」に代表されるスコセッシ映画や東映やくざもの、武映画を想起させるところがある。
 武器や拳銃に興味があるらしく、作中何度かでてくるが、武器に対する呪術的美学的陶酔に乏しく、あまり武器に文章が艶めかないという意味で、彼にとって武器は実用価値のみが主題となっているとおぼしく、文章全体が実用と解釈レベルによる渇きがあって、その意味で貧しいように思った。理性の貧しさというものではなくて、感性の貧しさ。もっとも、それを割り切ってしまえば、安部公房的なのかなぁ・・・と楽しんだ。
 都市論としていえば地方上京者にありがちな平板さで、状況の中を賢く生きているのだろうが、もう少し人物的記号論としてのものではなくて、都市論として複雑な深みを表現できてもよいような気がする。都市はむしろ乱反射するイマージュの戯れなのだから―

 以下どうでもいいこと-彼はブルース リーが好きなようだけど、個人的にはジャッキー チェンで、コーネリアスを尊敬し、AKIRAのファンらしいけど、個人的にはコーネリアスは69/96であり、AKIRAの台詞の引用は共感できる。
 
 最後にこれはとっても「男の子ブンガク」だと思う。知的でスリリングな記号論。言葉の世界の住民たちが好きで絶賛するのはわかる気がする。けれども同時代を生きる男の子としては、微妙なところ。もちろん男として理解できるところや、こういった文学があってもよいのだとは思うのだけれど・・・うむむ・・・
[PR]
by tomozumi0032 | 2006-05-08 17:17 | 小説評論


鏡の国のアリス

ルイス・キャロル ジョン・テニエル 安井 泉 / 新書館



子供向けと思われているのだが、実は非常に面白い知的遊戯のあるいはパラドックスのものがたり。分裂症的といっていいだろう。読みこなせない童話とはこのことではないか。

以下ドゥルーズ「意味の論理学」より引用4点。

1、私たちは、意味の理論を形作る一連のパラドックスを提示することにする。意味の理論がパラドックスから切り離すことができないということは容易に説明することができる。というのは意味とは現実存在しない抽象的実体なのであり、無意識とさえ非常に特別な関係をもつものだからである。ルイス キャロルの特権的な位置は次のことに由来する。それは彼が始めて、意味のパラドックスを収集したり、書き換えたり、ないし新しく作り出したりして大きく扱い、舞台に引き上げたからである。(物語の表層の戯れ)

2、私がアリスが大きくなるというとき、私はアリスが以前の彼女よりも大きくなる、ということを意味している。しかし、まさにそのことによって、彼女は今より小さくなる。もちろんアリスがより大きくかつ小さくあるのが同時なのではない。そう成るのが同時なのだ。これが生成の同時性であり、その特性は現在を逃れるということである。(現在を逃れるということ)

3、良識とはあらゆる状況において、一つの方向=意味が決定しうると主張することだ。しかしパラドックスとは二つの方向=意味を同時に主張することだ。(意味の分裂)

4、無限な同一性において現れるこうした転倒は、すべて同じ帰結をもたらす。それは、アリスの人格の同一性への異議、つまり固有名の喪失をもたらすのである。固有名の喪失は、アリスの冒険全体を通して幾度も繰り返される変事である。というのも、固有名、ないし単称名は、ひとつの知の永続性によって保障されているからだ。(名の喪失、ひとつの体系的な知の喪失)

2、3の補正、現在を逃れる能力を持っている、この純粋な生成のパラドックスとは、無限の同一性である。つまり、未来と過去、前日と翌日、より多くとより少なく、過剰と不十分に、能動と受動、原因と結果といった、同時に二つの方向=意味が無限に同一なことである。限界を固定するのは言語である。だが限界を無限定な生成と無限に等価なものに復元するのも言語である。

以下簡略化。

1、物語の表層の戯れ(言葉遊び、鏡、詩)
2、現在を逃れるということ(意味の不在、なにであるかを問えないもどかしさ、あるいは楽しさ)
3、意味の分裂(あべこべの世界、意味は宙吊りにされて疾走する物語)
4、名の喪失、ひとつの体系的な知の喪失(アリスとは誰でもありえ、故に誰でもありえない)

このように見ていくとこの物語の現在性が明らかになる。これは極めて現代というよりはむしろ未来の物語であり、だからこそ大人には理解の難しい物語であり、子供が感覚で把握しうる類の物語であるといえる。これはその表現様式からSFであり、凡百のSF(いわゆるサイエンスフィクション)を超えてSFなのである。それゆえにアングロサクソンコンピューターヘッドがこの物語に親しみ、コンピューターによってアリスの世界を目指したというのはむしろ妥当だ。つまりわたしたちは意識しようがしまいが、こういった物語を世界に内在させて生きており、むしろ生活を牽引する力なのである。

ウィリアム ギブスンの諸作はこの物語への憧れの変奏曲、あるいは解釈としても読めるかもしれない。故に読みにくいのだ。

アングロサクソンとはこういった言葉遊び好き民族-ジェイムズ ジョイスからピンチョン、ギブスン、あるいはカクテルの名群に至るまで、言葉遊びの系譜として読むと面白い。軽快な機知というには分裂的すぎるが、エレガントで華やかな戯れの奥に良識を超えた逆説性を呈示したこの作品はもっと「大人」に読まれてもよいと思った。意味と無意味の戯れ。意味の眩暈フラッシュという意味で究極のドラッグ文学ではないだろうか。

最後に引用、もうひとつ。

「最も深いもの、それは皮膚かもしれない」
a0065481_16354339.jpg

[PR]
by tomozumi0032 | 2005-12-10 14:25 | 小説評論
ボディ・レンタル


佐藤 亜有子 / 河出書房新社




「資本主義の極限においては、社会体は脱土地化して器官なき身体に席を譲り、種々の流れは脱コード化して欲望の生産の中に身を委ねるのである」<「アンチ オイディプス」ドゥルーズ>

「攻殻機動隊」の草薙素子的な義態、サイバーパンク/W・ギブソン的な肉人形、あるいはドゥルーズが「器官なき身体」とよんだ肉体の上に折りたたまれる物語であり、主体的なものの「ゆらぎ」が背景にあるのだろうし、フェミニスト的な「戦闘美少女」の闘争宣言という意味合いもあるのだろうが、この物語はむしろハイパー資本主義化した東京と周辺のいわゆる日本との対立項の物語として読まれた。つまり「野獣くん」や「雅」に代表される日本的なもの、東洋的なものとむしろ無国籍で無記名にグローバル化したキャリアウーマン嗜好の主人公との対立として。たしかに「O嬢の物語」を彷彿とさせるところもあるのだけれども、これはやはり現代という視座から見つめるとどうしても西洋と東洋の対立、あるいは東洋の敗北に思えてしまう。(資本主義の圧倒的勝利!)「奴隷になりたい」と願う彼女は最終的になにの奴隷になったかといえば、西洋人の奴隷であって、むしろあけすけに西洋人は支配者であるから私はその奴隷になる、と宣言してみせるあたりに、女のもつ不毛さと凄みのようなものを感じてしまう。大学の描写もあって、全体的にどこかしら禁欲的で、性をえがいていながら性に淫しておらず、と同時に混乱したエクスタシーが孕む死の慾動は全くなくて、むしろ龍安寺の石庭になぞらえる乾いた構築性と客体の上に自らを輝かせたいという願望ばかりが先立つことによって、混乱がもつであろう物事の勃興する熱度に欠けるきらいがある。彼女の悩まされている「空虚さ」というものはだから自らのもつ明晰の性質の慣性の結果であって、知的な分断線を四方に廻らせれば必然的に結果としてそうなるだけなのである。そしてこの空虚さを偽装的転移、あるいは戦略的置換によって日本的な精神性と接続させ、分解した意識と肉体にまで押し広げ、資本主義の慾動を遠くまで押し広げてみせたというその意味で彼女はまさに資本主義的運動循環に同調し「売れた」ということができるのだろう。もっともこれはなにが楽しいのだ、生きていて何を求めているのだという問いかけに対する果敢な前衛でもあり、その意味で知的刺激に満ちている。愛を重苦しいと否定してみせ、肉体を否定してみせ、他者を否定してみせ、充実を否定してみせ、感情を否定してみせ、そうして性さえも否定してみせるその言動は「現代の強く知的でエネルギッシュな女性のイコン」ではないだろうか。このようにはっきりと言われると、爽快でさえある。

「夜が美しければいい。裏返しの人間性に慣れすぎた自分が、昼間に生きる存在ではないと心得るだけの節度は持っている。だからなおさら、夜が美しければいい。どぎつい色彩やグロテスクな欲望に彩られて、夜は初めて美しくなる。わたしの自由-ばらばらに解体された自分を見つめる恐ろしさから逃れて、息をつく自由は、乾いたこの虚構の側にある。そういっても差し支えないだけで、わたしには恩寵だ。
夜はわたしを包むだろう。わたしはお返しに、妄想を詰め込んだこの体を喜んで犠牲にしよう。たとえばわたしの醜悪さで、夜を飾るために。」

願わくばもう少しの機微とユーモアがあるといいのだけれども。綺麗におさまりすぎるところが今ひとつの面白みにかけるところか。それでも三島同様に乾いた知的伽藍の空虚な孔であり、優れた才能だとも思う。そしてこういってよければここには三島同様の欠如がある。それはすなわち「瑕瑾」への愛だ。混乱すること、処理できない混沌と向き合うこと、明晰であらぬこと。そういったものの著しい欠如だ。つまり「基底材は少しも猛り狂ってはいない」のである。その意味で愛に欠け不毛だ。愛とは「大いなる混沌そのもの」であって、それは宇宙が混沌であると同様の一つの宇宙なのだ。

頭では良く分かるものの心では微妙な躊躇いを覚えてしまって、色々な意味で色々考えさせられた一冊。
[PR]
by tomozumi0032 | 2005-11-29 05:01 | 小説評論
 
さようなら、ギャングたち


高橋 源一郎 / 講談社




アブストラクトかつイマジネイティブ、空白でノンリニアな架空のホワイトスペースを構成していて、歴史にも重力にも囚われずに浮遊した不可思議な実験言語世界を形成している。POPで表象的でロートレアモンやジョイスなどの今世紀初頭の試みを連想させるところもある。この空白のスペースに多様なところからコラージュ的に剽窃されたとおぼしき言語が連なる。

 この本にはなんだかとっても自由なものに触れたような軽快感があって、他の比較を欠いた固有の面白さのようなものがある。POPなんだけど実験的なこういった非構築の世界を構築するにはそうとうな力が必要なのではないだろうか。
 
 ある意味では「愛と幻想のファシズム」のパロディを思わせ、ハリウッド的かつディズニー的なイマジネーションが矢鱈めったらである。あまり構造化されていない脳のほうがこういうものは受け入れやすいだろう。
 
 個人的にはこれは「KILL BILL」辺りの先駆け、あるいは原宿に集う若者のパロディ感覚の延長線上にあると思う。
[PR]
by tomozumi0032 | 2005-11-18 20:52 | 小説評論
←menu