カテゴリ:京極 夏彦( 3 )



文庫版 姑獲鳥の夏

京極 夏彦 / / 講談社



▼そういえば―
十五、六歳の時分に、テレビ映画で市川昆の「犬神家の一族」を見、鳥肌を立てて以来、横溝ファンになった。

▼いろいろ―
シリーズをやまほど買って夜更かしして読みふけった。
あまりに耽読して、あたまがぐにゅぐにゅになって、言葉遣いが昭和初期になった。
ちょうどその頃クラブでの夜遊びをはじめた。
頭を美術の先生にクレージーピンクのモヒカンにしてもらった。
そして―
すっかり夜が好きになってしまった・・・。

そう 夜遊びと夜読と昭和初期言葉が好きな「ブンガク モヒカン KID`S☆」だったような気がする(笑)
「オレは今、ブンガクに熱いぜ!」、とオーバーヒートするモヒカン頭で、目を「時速324キロ」ぐらいに血走らせて、活字の上に意識を躍らせたり、「オレは今、SKAやPUNKに熱いぜ!」とオーバーヒートするCORAZONで、クラブの床にステップを躍らせたりした。

―それで、次の日だいたい起きれなくて、寝坊して、学校休むことになったりすることにもなる。
いわずもがな、あまりよい生徒ではなかった。

▼おそらく―
夜が好きな―「ゴシック男」「さかしま男」「昼間の世ノ中ファック男」、になったのはこの頃かもしれない。今でも「太陽をバズーカー砲で打ち落としたい!」というそれこそ無茶だが、ゆえなく熱い期待に時折胸膨らませすぎて、眠れなくなってしまう夜もあるぐらいなもの―

▼そのついで―
と、いうとなんなんだけれども―大正や昭和初期のブンガクにハマリ、谷崎や夢野久作や江戸川乱歩、2・26事件、三島由紀夫(当時は昭和初期の人かと思っていた)、萩原朔太郎、中原中也、梶井基次郎やなにかが大好きになった。あの時代の感じが―いまの昭和30年代ブームのように―自分のなかの流行で、そういうオタクというか―和服とか着て、腹切りしたいなぁ~なんて漠然とイメージしていたように思う。
「やっぱ―西洋のなんてダメっすよ やっぱ―ジャパこ~さぁい!」、とその時分の心の声が聞こえる。
もしかすると・・・プチ右翼だったかも、しれない。

▼それでは―
そのどこがよかったのだろうか、とぼんやり考える。
それは、たぶん―「猟奇」に代表される、昭和初期に匂い立つ古風な頽廃の匂いに反応したのだと思う。畳に斜陽の爛熟が落ち、饐えた匂いのたちこめるなかで、ぼんやり腐ってゆくものの匂い。なげはなたれたような時間の狭間―常気と狂気と狭間―変わらない過去と変わり行く現代の狭間―日本ならではの沈澱して発酵して熟成した欲望の匂い。

▼そういった―

昭和初期のものの象徴として―古い横溝の記憶は確実に脳記憶構造のおくの方に潜在的にストックされていて、京極堂シリーズを読むと、それが刺激されて、起動させられる。

▼だからこそ―
坊主が如く、京極の「経典」のような本を、卓袱台に乗せ正座しながら、「づらづらべらべら読む」と、いうのは愉快なこと。そこでは横溝の記憶が「突然変異」を起こし、ハイパー化し、アニメ的に、膨大なデーターを背景に展開されるのだから―現代感覚の時代のREMIXといったらいいのかしらん・・・兎に角京極にはなにかしら―普段あまり機能させない―がしかし、集団的無意識の中に潜在的に刻み込まれている記憶の回路系統の電源をONにする働きがあるように思う。もっともそれがこそ文化の力だよ、といわれれば、返す言葉はないのだけれど―

▼そんなこんなで―
京極はとても面白い。なにか「読書少年」だったムカシの自分にかえれてしまうから。少年になって、わくわくさせられる。大人ではなくて、少年の自分を蘇らせるところがあるのだと思う。おうおうにして、書物や教養の魅力というのはそういったところが「なかりしもありき」で、本を読むことは他人という鏡に照らし出される自分を発見し、その記憶の扉をひとつづつ開けてゆくこと、それからその記憶の扉を熟成させた「門」とすること―なんじゃないかしらん。つまり―作者という他者と出会うのではなくて、他者の中に発見される自分を見つけ出すこと、自分の埃の連鎖を見出して、世界を自分というDNA連鎖構造に書き換えたいという故もなく得も知れぬそれ故に灼熱する願望。熱い情熱から発生する貪欲な知的渇望の行き着くのは「知的自己増殖世界」なのかもしれない。

▼―あ 
やばいなぁ・・・評論になってないみたいだなぁ これじゃあ・・・(笑)

▼―よ
横溝を現代的に洗練された知性でアレンジしたものという傾向が強いんじゃないでしょうか。
特に江戸時代ものにゆくまえの初期のものは―☆
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by tomozumi0032 | 2007-04-05 17:00 | 京極 夏彦

文庫版 鉄鼠の檻


京極 夏彦 / 講談社



◆「意味という病」という不毛で明晰な(あるいは明晰で不毛な)書物の「マクベス論」において柄谷行人はシェークスピアの「魔女」の認識のあり方を以下のように述べている。

「マクベスの魔女、亡霊、血、城、夜、瘴気といったおどろおどろしい中世的な舞台装置が少しも新鮮さを失わないのは、魔女の実在を確信しているシェークスピアの眼が中世的な思考とは程遠かったからである。」

◆京極の小説一般に上述の言葉はよく当てはまるのではないだろうか―つまり妖怪、亡霊、血、寺院、薬物、殺人、少女嗜好、幻覚、耽美的日本趣味、それらは一見時代錯誤的な衣装をまとっていながらも、極めて現在的な問いとして召還されており、そのあたりに彼の魅力と人気があるのだろう。

◆この小説では「禅」がその謎の中枢に位置しており、その意味で思想的なミステリーとして読まれ、通俗的なキャラクターと劇画調の大袈裟な語り、台詞に表象されながらも、それのみに終わらない深みが付加されている。とはいえ、「禅」とは言語ならぬ宗教体験を本文とし、言行一致の戒律に支配された宗教であり、それを言語化し、さらにはミステリー化しようとするには相当の読み込みと読解力が必要とされるのであろうが、京極の豊かな力量によって、非常に読みやすく上手に纏められている。巻末にあるように下手な禅の入門書の類を読むよりも包括的かつ具体的に禅なるものを理解できるのではないだろうか。禅の概略を観念として把握できるという意味において、啓蒙的である。

◆ただ整合性において、これはあえてかもしれないという前置きを付記した上で、LSDに関する記述が登場するのだが、LSDが広く流布したのは60年代後半であって、この本のどう考えても終戦直後の時代設定を鑑みると、違和感を感じざるを得ないのだが、以下に続く台詞を、そういった整合性を崩してもいっておきたかったことなのだ、と考えあわせるとそれはそれで仕方ないとも思われる。

◆「そうか。解ったぞ京極堂。座禅というのは薬物を用いずに薬物を投与した時と同じような生理的効果を齎す行為なんだな。情報量の少ない状態で五感を研ぎ澄ましていれば当然のように生理的な変化が起きる。脳内で麻薬が生成されることもあるのだったね。素晴らしき幻覚、神秘が訪れることもある訳だ。しかし、それを 「受け流す」から修行なんだな。いや、受け流すことができるようになるために修行をする のかな?ためにとか言ってはいけないのか」
「そうだ 魔境というのはその素晴らしく清浄な幻覚自体を言うのではない。その幻覚妄想を、悟りと勘違いしてしまう状況の方をいうのだ。同じ幻覚を見ていて、修行のなっていないものはそれに嵌り、なっているものは受け流すだけだ。だから生理的な区別はない。悟りは脳波で測れない。科学と宗教は、補い合うことはあっても寄り添ってはならないのです。」

◆ちなみにこの小説では「絡新婦の理」同様、犯人はその「場」の因果の糸の必然として連続殺人を展開させる。因果報応的な場の論理が展開されるところが彼独特の個性を放っているのではなかろうか。
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by tomozumi0032 | 2005-11-18 14:04 | 京極 夏彦


どすこい(仮)


京極 夏彦 / 集英社



地響きがする-と思って戴きたい。

地響きといっても地殻変動の類のそれではない。

「どすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこいどすこ~いぃぃぃぃぃ!!!」

抱腹絶倒のパロディ小説集。京極堂で検討された数々の問い群がみごとに換骨奪胎されて、ここでは「でぶ」に煌く。煌く「でぶ」の星々の銀河。まばゆいばかりの光芒に眼を背けることがあってはならない。そう ここでは精一杯心を純粋にして呟くことが大切。

「どすこいどすこ~い!!」

太りたい・・・
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by tomozumi0032 | 2005-11-18 13:46 | 京極 夏彦
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