カテゴリ:社会評論( 11 )

やあ、やあ、なんだかひさしぶりの更新となってしまいました。酒ばかり呑んでいたですって?-いやいや、まぁ否定はしません。浴びるようにね。呑んじゃうんだよなぁ・・・これが。それからネット環境にアクセスできなくなってしまって、それで更新が滞っていたんです。え、なんで、ですって―そりゃあいろいろね、いろいろあります。実際。やることが多いし、あれやこれやと欲張ってみて、いつしか更新ものびのび。そうです、欲張りすぎた。強欲。貪欲。悪いなぁ~そういうのは。いけないですよね。さらに怠け心で、ブログだと長文になるし、ツイッターでいいといえばいいんじゃないかなんて現代社会に吹き込まれたのがいけません。短文はやっぱり楽チン。さして構成の必要もないし、さしものボクですら、ささっと書けました。ああ、書けました。逡巡もさほどなく。ささっと。ああ、現代は楽でいいや。長文書けば「長文でごめんなさい」なんて誤らなくちゃいけないし、ね。いつも長文書いてごめんなさい。うへっ?―。時間取らしてごめんなさい。ひ?―。今日は短くてありがとう。は?―おかしい。現代社会はおかしい、狂っている―と腹のなかでは思うものの、そういった風潮に徒らに腹を立ててもしかたがありません。もう大人なのですし。さ。気分一転―楽しく、ちょっと知的にゆきましょう。はじめに心得ておいて下さいよ。いいですか、これは、長文ですよ。時間取りますよ。読んだところでなんと得にもなりません。でも人生はそんな時間が大切なんです。ははははは。

☆嫌煙論のアナロジー
ここしばらくのところ、世界の大都市で猖獗をきわめていることのひとつに「嫌煙」というのがありますよね。もう右も左も嫌煙・禁煙で駅を降りて、あ~・・・一服したいなぁと思ってもするところがない。そりゃあそうですよね、人間のタバコばかりではなくて、自動車も工場も煙をもくもくとあげているのってなんだか古臭いなぁ~と、ついイメージしてしまいます。やっぱり煙をあげるってのは前時代的なんでしょうか。まぁ 古いロックやJAZZを聴いていると、ジミヘンの「パープルへイズ」や「煙草の煙が目にしみる」という有名な曲もありますし、煙をぷかぷかやるのが格好がいいという時代もあった。ボクは悪いとは思いません。むしろ、煙というものを十把一絡げにして語るのはよくないし、煙にだっていろいろあるものです。自分自身の記憶のなかでは高度経済成長の記憶のように思います。恣、いくつか記憶をあげてみましょう。ボクがまだ若かったころはディーゼル車だって走ってたし、ダンプカーの排気煙は真っ黒でした。ダンプの後ろは煙たいなぁと幼心に思っていましたし、どこかしら大気に黒く煤けた感じがあった。これはやや乾いた流通の記憶。あんまりファンタジックじゃあないなぁ。ね。もうすこし古くてノスタルジックなもの。ヨーロッパの絵本の中で見た船長さんと船です。これは抽象的にイメージとしてあるものだな。青い空、ぽんぽん上がる煙はブリオッシュのよう。おいしそうで肉感的。船長さんはマリーンな青白ボーダー、背景はオレンジで、そこにもやもやふわふわがぽんぽんぽん・・・。こっちはなかなかオシャレなものですが、実際としては現実世界で見たことがない。そんなもん。イメージです。それからよく長野かどこかの標高の高いところへゆくと大きな白い煙がもわもわっと沸いて、すぎていったことがありました。そのとき一緒にいったおじさんが吸っていたタバコと重なって見えた。山もタバコを吹かしているんだなぁと思った。これも白い煙ですし、すこし古い神仙思想やなにかとも重なります。なんだかちょっと煙に巻いていて、格好がいい。こんなところに龍があらわれたりしたのかしらん-と昔の人の想像力を懐かしがりました。タバコは確かに体に悪い。でも煙に巻くというあのちょっとした韜晦の感覚が格好いい。そういう意味で禁煙と嫌煙の時代はハイパーリアルの時代です。すべてが見える。幻想の余地がない。突き上げる。ひりついた可視。それがいいとみなが思う。もやもやふわふわはあんまり必要ないんだろうなぁ~。それは見えないものではなく、見えるもの。でも、まぁ すべてを見通したり出来るようになるんでしょうか?そうなったらかなりつまらない世の中になってしまいそうです。禁煙によって、死を遠ざけ、すべてが見えるようになるんでしょうか。まったくずいぶん思いあがったものです。人間って。単純な奴らども。け。
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by tomozumi0032 | 2010-10-12 18:54 | 社会評論
☆優れた知性とは未来が見えること―日本の失われた20年は高度経済成長時に未来を見据えようとしなかった日本の知性と想像力の敗北―でも混乱と現在を熱くとらえることは生の特権だと思うのに・・・
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みなさま、あけましておめでとうございます☆
すこしおそいですね(笑)

さて、きょうはひさびさの社会評論。

2010ねん、日本はグローバル化のまっただなか―

これまでの中央集権・官僚依存システムを「書きかえ」ようと政権が自民党から民主党へとかわった。

社会的な現実や生きることはプログラムだから、これまで書かれてあることとこれから書かれることによって、認識されているのだし、「書きかえ」は現実を捉えなおすことになる。

それから、それぁ、もう、このやり方じゃうまくゆかないよな―とみなが考えた結果だろうなぁ~と思う。

「冷戦構造」の枠ぐみがあって、「G7」だったころはまだよかった・・・。
欧米化というおおきな目標があったころは、価値の枠組みがしっかりしていた。

―というよりは、わかりやすかったし、みやすかった。
中央集権システムによる一元的な統治が可能だった。

いまは「グローバル化」の枠ぐみと、「G20」の混乱が押し寄せてきていて、どっちがどうで、どちらが上下なのか?なにが勝ちでなにが負けなのか―それに意味があるのか、ないのか?―けっこうわかりにくいと思う。

こんな状況は、すこし今度上映されるジョニーディップ主演のディズニー映画「アリス」に似ているよう。つまり「どっち、どっちへいったらいいの・・・?」(鏡の国のアリス)―といったところ。

世界では、世の中を計るものさしは熱く混乱している。

このあいだのコペンハーゲンでの環境会議「COP15」だって、こんどの「火の鳥」の猿田博士を連想させる想像力にもとづくだろう名古屋での生物多様性会議「COP10」だって、世界の力学変化だし、人間中心主義の批判だ。こんな状況のなかで、やり方次第では、日本は国際社会のなかで、とても個性的で、とても重要なポジションにだってつけると思うのに―

それなのに、日本はなんでこんなに冷めているのかしら―

それは「政治」の混乱のせい?

「グローバル化」の昏迷?

「市場主義」はまちがいだった?

天下に忌諱(禁令)多くして、民いよいよ貧し、
民に利器多くして、國家ますます昏し
」といった古くからの教えどおりなの?

国内情勢の混乱が逆に日本を見えづらくしてしまっているため?

―・・・・どうなのだろう?

年金にしても、社会保障にしても、現在の国内問題と混乱の原因のひとつはおそらく「制度設計」にある。かつて、その時によかれ―と思って、設計した制度のおおくが、いまでは形骸化し、疲労してしまっているのではないだろうか。

優れた知性のもつ役割は「未来が見えること」にある。未来を見て、現在を設計すること。その時よかれ―と思っただけのことに囚われてしまわないこと。だから予言は新聞、テレビから雑誌にいたるまで氾濫するのだし、ひとびとはみな、SF映画から、最新の科学的成果までをのぞき見する。

―だとしたら、かつて日本の知性によって設計された制度それじたいが「未来が見えていなかった」ということだろう。老人社会。若者の政治不参加による、若者自身の立場の窮乏。(若者の貧困の遠因は政治をないがしろにした若者それ自身の「ツケ」ではないだろうか?)そして、日本の停滞。失われた20年。いわゆる「ロストジェネレーション」の大量生産。これは、そのさきのグランドデザインまで考えなかった、フィロソフィーを欠いた日本の知性と想像力の敗北なのだろうか。

それでも、知性と想像力が敗北した現在を生きることはできる。
だって、今という時間は生きているひとのものだもの。社会はみなの共有物だし、制度もそうなのだと思う。混乱と現在。それはつめたい受身系のものではないと思う。

混乱と現在を熱いものとして感じられたら、今年一年はよい年になるだろう―そう思います。
それこそが、生きること、生命の特権なのだから-ね☆

今年もよろしくおねがいします☆
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by tomozumi0032 | 2010-01-14 18:13 | 社会評論
◆もちろん―
時空間というのはわたしたちの制約である。

それは残念なことだろうけれども、時間と空間を飛び越えてわたしたちの存在は存在できるわけではない。どうしてもここにある種の限定と制約が生じてしまう。

◆でも―
芸術や学術やサブカルチャーあるいはコンピューターの体験の素晴らしいところはそういった時空間を超越させてくれるところにあるのではないだろうか?

◆ダリの絵で有名な「溶ける時計」のイマージュがあるんだけれども、あれを見ていると時間というものについて、いやおうなく考えさせられてしまう。

◆時計が溶けるというのはどういうことなのかしら?
時計に象徴されている時間そのものが溶けてるってことかしら?
―ってことはダリに従うとわたしたちの覆われているこの時間というものは「溶けた」「溶解」の時間そのものってことなのかなぁ?―なんて・・・。

◆プルーストの「失われた時をもとめて」を読んでいると、時間に対する考察のようなものの巨大な集大成という感じがしてしまう。事実時間そのものへの哲学的な考察という意味であの本ほど時間を考えた本というものはないのでは?―なんて・・・。

◆あるいはドゥルーズやキューブリックの真の魅力は時間軸を超越してみせて、その超越した時間軸をある読みによって明示することにあるのではないだろうか?とくに「ミルプラトー」にみられる時空間超越は素晴らしく美しく、なにより自由だ。

◆現代的な思考でいえば、時間軸というものは直線的なものだと認識されている。社会総体、社会身体、理性身体、新聞や雑誌はこういった時間軸によって立っている。

―だ、けれども、どうしても疑ってしまう。

本当にそうだろうか?

本当に?そういい切れるのか?

◆ぼく個人でいえば、時間が直線状であるなんて、まったく思わない。
ぼく自身を観察してみると、速い時間の部分もあれば、遅い時間の部分もあって、直線状というのは社会共有されるもの以外のものではないと思う。

直線状の時間が流れているのは「部分」、というよりは「共同体幻想」としてのものではないだろうか?

◆ぼくの時間は分解されていて、むしろ平面状なものだ。

たとえば、6歳児のぼくは、今もなおぼくの傍らにいる。
あるいは、18歳児のぼくは、今もなおぼくの傍らにいる。

それらは乗り越えられ消え去ったものではなくて、むしろまだ傍らに生々しく息づいているものだ。そしてそれは時々「ぴょこん!」と、あるいは「ひょっこり」顔を出すものである。

◆現代社会の「傲慢」は時間が一元的に流れると思い込むそのことにあるのではないか?
ぼくの意見ではこういった一元的な時間軸設定は効率優先の、合理主義優先の、現代のものだと思う。

◆そして―その現代というものは「バブル経済」あたりを頂点に終わっているのではないだろうか?終わっているにもかかわらず、わたしたちはこれに準拠する形で思考し、判断している。例えばなにかをなにかとして―ニートをニートとして、引き籠もりを引き籠もりとして思考するのは、それが準拠する時間軸の想定なくしてはありえないのではないのだろうか?

◆本当は新聞は嫌いだし、真実を伝えているものだとは思えない。なぜなら時間軸を一方的に想定したものだから、である。
あるいは雑誌は嫌いだ。なぜなら時間軸を一方的に想定したものだから、である。

そこで踊る言葉が馬鹿げている。

そして―それでしか判断できないというのは「傲慢」あるいは「無知」というものではないか?

◆もちろんこう考えることはできる。つまり―
社会体に折り畳まれた時間と個人体に折り畳まれた時間は異なるものだ、と。
それはバブル期以前の日本では比較的近いものだった。
しかしそれ以後の日本では大きくことなるようになったものであり、いわゆるポストモダンの社会体に接続される個人身体は大きく異なる時間体を進行させている、という風に―

◆社会がバラバラになっているのではない。
バラバラになっているのはむしろ、時間だ。
そしてそれを一元的な統治構造で言葉にしようとする言語装置的な言説はおおよそ信じがたく、疑わしい。それがいかに精緻で巧みに出来ていようとも、である。
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by tomozumi0032 | 2006-11-24 02:16 | 社会評論

★まずはJ・アタリの引用から―

「いかに組織された社会であれ、その胎内に差異を構造化することなしには存在し得ない。しかし、商品経済は、この差異を縮小することなしに発展することはできない。そこにこそ、資本主義が自己破壊へと至る矛盾がある」 NOISE 音楽/貨幣/雑音 (1985)

これは資本主義社会の欲望の流れをめぐる規定である。
つまり差異と差異の縮小をめぐるパラドキシカルな構造、いいかえれば、「差があること」と「差がないこと」をめぐって繰り広げられる戦い―としての規定。

★最近雑誌などでやかましい「二極化」と「スーパーフラット」はこの「差があること」と「差がないこと」をめぐる二つの局面を言葉にしたもののように思う。それはまさに資本主義社会体制構造の孕まざるを得ない矛盾だろうけれども、今の資本主義のこの二つの局面とはどのようなものなのだろうか。

★私見では、現代情報社会の要請とは「先見性」である。
すなわち―超越することではなくて、先んじることがこそ現代社会の不可視の要請であって、社会の胎内に構造化される差異というものは、おおよそこの「先んずること」=「先見性」にあり、先んじることが、「スーパーフラット」な、「差異がない」社会においての、「差異」、「差があること」となる。これはドゥルーズ風にいえば、「領土化」と「脱領土化」といったことになるだろう。

★そして現代社会の問題というのは、おそらくは情報処理のスピードをめぐるものであって、先んじたもの、先見性のあるもの、能力のあるものはデーターベース的に仕事・配当が集中しすぎてしまい、遅れたもの、能力のないものはデーターベースから排除されてしまう、といった仕事・配当の不均衡をめぐるものだろう。つまり「先見性」のあるものは売れ、そのコピーは売れない、出来る人は出来すぎ、出来ない人は出来なすぎる。この格差がこそ格差社会の格差ではないだろうか。

★こういった「先見性」をめぐって賦与される思想があるのならば、都市進化論というべきもののように思われる。つまり都市体という身体をめぐって進化する諸個人の意識というか、接続されて、拡張する意識レベルの総体というのは、先んずることによる付加価値から派生する「進化」をめぐる思想に結実する。

★飲料水の相次ぐモデルチェンジから缶ビール進化を訴えるCM、ファッション雑誌に踊る本当に編集者が信じているのかおおいに疑わしい「新しく変わった!」「わたしたち進化してま~す!」の文字、映画広告の「こんな映像みたことない!」「ハジメテの衝撃!」から、SEXで男が抱くファンタジーとしての「こんなスゴイのはじめて☆す・て・き☆」、あるいはPOPミュージックの「あなたの常識をぶち破るわ!ブっとんじゃうわ」、ゲームにおいてのPSPとWILLの次世代覇権争い、ART、鈍重な活字メディアに至るまで、社会体に模造の大地を形成するための欲望モーターとしての資本(金、数字)の要請というものは、常に差異をつくる事を前提とした「進化論」なのである。

★この「進化論」はおそらくは国家装置から派生するところの地縁的共同体組織に対する解体と数字的還元を突きつける遊牧民的な諸性質を内在させているのであって、社会体としての国家はこういった遊牧民的なものの法的調整をやることによって、欲望を統制し、統計学的な分配としての社会体の均質化をはかる。つまり秩序の中に遊牧民的欲望を押し込み、そうすることによって、先見性から生み出された尖端的な欲望集合としての剰余価値を公共財への投資としての財源へと変えることによって、本来的に人間に備わっている「差異」を配分し、「均質化」しようとするのだ。つまり抽象から具体への投機という意味では資本に備わっている投機と同様の投機がここでなされる。「進化した感覚」から「進化していない感覚」へ、あるいは「進化した脳」から「進化していない脳」へ、あるいは「変わって綺麗になった人」から「変わっていなくて綺麗ではない人」へ、さらにいえば「常識やぶって、ブッとんじゃっているもの」から、「常識的で、ブッとんでいないもの」へ・・・ETC.ETC・・・

★遊牧民的なものは明らかに情報資本主義、都市進化論の先端的領域であって、これは別に定住者の中にだってないというわけでもない。それは細かく微分した粒子状のものとして生活の時間の中にだって内在するもの―例えば時代の気分だってそうだし、余暇だってそうだし、音楽をきくことだって、ネットだってそうだろう、いまや放浪はヴェンダース・ケルアック的なものだけではない、ドゥルーズは坐ってする旅といったが、坐ってする旅も大いにあると思う―だ。この場合国家装置としては、どうしても回収をしきれないフラクタルを抱えることとなるし、こういった調整機構としての限界といったものもあるように思えてしまう。詳しくはないけれども、厳密な意味で国家装置が取り締まることはできない領域というものが膨大にあるのではないだろうか―国家装置はだからこそ生け贄と見せしめによって、そういった欲望の調整を今でもやっているように見える。

★遊牧民的な先見性という意味でゴダールのようなあり方はまさに時代の最先端であって、今もなおその通りだ。美術やファッションのみならず、デザイン、映画、音楽、そして(最近はちょっと疑わしいけど(笑))小説はだからこそ見るべきなのだとぼくは熱く主張したい☆
そう 遊牧民的先見性を練磨するために☆~☆~☆
つまり―それは余剰価値としての先見性(ブランドっていうのはつまりこれの言い換えだ)へと繋がるものなのであって、逆にいえば、持たざるものが持つ手段でもあるのだから―☆

★―ということで文化擁護しませ~う☆
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by tomozumi0032 | 2006-09-24 22:16 | 社会評論
「子猫殺し論争」はこちら
               
★養老孟司によれば、現代都市・社会は「脳の産物」である。
そして脳の産物としてあるこの都市・社会の中で、最終的に抑圧されるべきものは「身体」、つまり「死体」だという。さらにこのような「身体」「死体」を放逐した社会の裏として、腎臓移植や、脳死問題に現れる思想の昏迷と欠如を挙げ、日本における「思想としての身体の不在」を説き、同時に身体性の認知の問題である「個人主義がない」と述べている。

★「思想としての身体」と「個性」の徹底的な不在―
そしてそういった日本社会の表面に投げられるふいの「死の思想」。社会の極めて感情・情緒的な反応。これはちょっと三島由紀夫の割腹自殺に似ているように思った。
つまり、坂東眞砂子のこの「子猫殺し」の問題も日本の「思想としての身体の不在」と「個性」をめぐる同じ問いの循環LOOPのように見えてしまう。戦後管理社会をめぐる「生の逆説」の思い出したような閃き―

★「死の提示」と「日本批判」の反面には、確かに生きることに対して、淡いボンヤリとしたイメージでしか結べず、あらゆる匂いと実体を排除してしまう、イメージ先行の高速情報資本主義社会が広がり、ヒトを取り巻いている。ヒトはこの状況の中で、記号と実在を交互に置き換えながら、数字を叩き出し、「生」らしきもの、「生」とおぼしきものを生きているのだろうが、こういった「生」にあまり興味がもてないような、免疫不全の心情が拡散しているように思えてしまう。

★少子化は緩慢な自死―「身体の不在」そのものの形態であり、自殺やひきこもりや無気力はこういった「身体の不在」への素直すぎる反応であり、セックスとファッションの過激化は「身体の不在」の逆説の表現の両極ではないだろうか(どちらも艶やかな「狂い咲き」だ)

★そして様々な日本の文化的な台頭が、世界に影響を及ぼすものならば、この日本の状況というのはいみじくも誰かがいったように「憂鬱な世界の最先端」なのだろうか?スノヴィズムとしての日本化が世界を覆うのだろうか?それならば―養老がいうところの「脳化」と「徹底した管理化」、「思想としての身体の不在」はより徹底的な形で世界化してゆくのだろうか?それとも養老が「唯脳論」(1989)の末尾で描くように自然が不敵に復讐するのだろうか?

★私見では、文学ははやくからこの問いを追及してきたように思う。
例えば―ドストエフスキーの「地下室の手記」(1864)は地下室(身体)から水晶宮(脳)への批判だし、ハックスレーの「素晴らしき新世界」(1932)では、野蛮人(身体)と文明人(脳)を鋭く対峙させることによって、タニス リーがSFヒッピー的な意匠を借りて「バイティング ザ サン」(1976)で変奏させてみせたように、あるいは映画「MATRIX」(1999)やJ・G バラードの物語群にあるように―人間の知性とその逆説としての「身体」は永遠に循環loopを生み、変奏と、再生産を繰り返すものなのだろうか?

★文学者とはいつも<動物>である。
だから―ある意味でこういった動物的身体性による逆説ロジックが、彼女の脳裏で閃き展開されるというのも、文学の伝統線に沿っているようだ。

★おそらく彼女がいうことは正しいだろう。たしかに現代社会は死をジョーカーとした、トランプゲーム―記号の組み合わせによって成立しているのだろうし、そこでそれ本来の原初性は喪失されるだろう。が、それがもし人類の生成変化の尖端なのだとしたら―そして遅からず局所的なものから派生的に人類が日本人のように、徹底管理されるものだとしたら―そしてそれをメタレベルに置き換えることによって、平面次元での記号を組み合わせ「なおす」ことにしか未来はないのだろう。

★「身体の不在」、「個性の不在」、つまり―人間実質の最終的な不在―しかし、それならば逆に身体はどこにあったのだろうか?個性はいったいどこにあったのだろうか?人間といわれるものはどこにいたのだろうか?それらは相対的なもの、「いつかに較べると今は」あるいは「彼に較べるとオレ・私は」といったものに過ぎないのだとしたら―

本来人間など呼ばれるものはいないのではないだろうか?

「本当はいくつかの非人間性があるだけなのだ。人間はただ非人間性のみで作られている。」
ドゥルーズ=ガタリ 「ミルプラトー」p216
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by tomozumi0032 | 2006-08-27 16:59 | 社会評論
◆職場の休憩室にあったYOUNG JUMPをめくりながら、その女子化の度合に―あ―と思う。殆どの漫画の主人公が女子で、H系からアクション系に至るまで、男性的なものが見当たらず、男子の「ラヴジュース溶解化」が著しい。ほとんどこれは少女漫画の変奏曲、男子欲望による書き換えのように読まれてしまう。
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◆グラビアでもAV(アダルトヴィデオ)でもファッションでもそうだが、あれは男性の欲望の記号を巧みに置き換えた女子の欲望のように思われて仕方がない。例えばAVはだいたいが女子が肉体器官の記号を放蕩させ、その放蕩の道具として、男性をモノ的に放蕩しているんじゃないのだろうか。<男子欲望>は女子を潤ませ、ラヴジュースを放出させる道具で、女性はそれをひたすら消費するものじゃないか。

◆AVに「顔面シャワー」という技があるが、あの「顔面シャワー」は象徴的にこういった性的関係性の位相を明示している。白濁精液スペルマは内部放出されて、子宮と結ばれて結実するわけではなくて、外部放出されることによって、純粋なる消費の手段として女性を飾るものなのだ。だからあれは男性が女性を征服し、陵辱するものではなくて、逆に女子のエクスタシーを装飾するシャンペンシャワーのようなものではないだろうか。つまり女子が男子を<女子欲望>によって消費したということの証として―

◆あるいはSMはあれは逆転した転置でなされる女子の<男子欲望>と視線の支配の表現としか思えない。つまり吊るされ縛られ嬲られ被虐されることによって、彼女たちは逆説的欲望のトライアングルによって、男性を根源的に支配するのだ。(MADONNAをみよ!)思えばこういった二律背反のパラドクスは関係性のもとで止揚されるありふれた形態であって、彼女たちのこういった欲望をめぐる根源的奸計による企みは「ロリータ」から「ケープフィアー」に至る映画群に繰り返し反復されているものなのではないだろうか―

◆少子化の問題は拡大する資本主義のこういった<女子欲望>の拡大のパラドクスだ。「欲望されること」によって、あるいは「欲望を弄ぶ」ことによって、あるいは「欲望を操作する」ことによって、肥大し輝くこと。そうしてこの肥大した輝きの前で男子の欲望が被る決定的に貧しい位相を思うと、いずれにせよ片や氾濫するセックス情報と片や増大するセックスレスとは男子欲望をめぐる決定的な敗北を思わせる。それはつまりいまやOLD FASHIONという表現が妥当な、時代遅れのものとなってしまった。(そうしてある意味でのナショナリズムが特権的に擁護するものとはまさしくこの男子欲望だろう。これは戦争も含めて、どうしようもなく古い位相のものでしかない)

◆現代社会というものは―どうみても―あらゆる意味で前社会的なるものの飽和のパラドクスによって成立する逆転の運動力学を慣性として進行しているものにしか見えない。そこでは<男子欲望>はエレクトリックな制御によって制御される前時代的な記号であり―ここでの暗喩はこうだ―所詮お前らは土地神話的古き形態学と関係保持の力学とその構造化に従事していればいい、何故ならお前らは決定的なOLD FASHIONだ―NEW MODEとして社会を表象し社会を変革するものこそが<女子欲望>(フラクタル、ファッション、あるいは美学の力)なのだ。そして職業というものがことごとく「永遠の係員」(ドゥルーズ)なのだとしたら、フラクタル、ファッション、美学がこそ現代の表象なのではないか。
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◆現代の女子はいずれにせよ美しいと思う。薄っぺらいといわれようが、ある意味での白痴性をそなえていようが、それは男子の女子に対する「やっかみ」にすぎないのである。
<女子欲望>の昇華―そして変革への力。新しい美学と改革への意志―もし日本を変えられる力があるのだとしたら、この<女子欲望>のうちにその力を見るのはそれほど間違ったことだとは思わない。

◆日本は「勃起しない猿と勃起するクリトリスの国」になるだろう。
いやもうすでに―近代の軍国主義的迷妄に捉われなければ―ずっと―そうだったのだろう、仮名と女手の国。
そしてそれはそれでよいような気がしてしまう。
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by tomozumi0032 | 2006-07-14 19:56 | 社会評論
◆DNAとは生命情報が封じ込められた情報MATRIXのようなもので、生命というのは日々それを読み込んで生きているという説がある。瞬間瞬間の好悪の選択それ自体がすでにDNAの読み込みによって左右されて、決められているというもの。そうだとするならば、生命というものは個人の思惑を超えた取捨選択に基づいており、現実的に「そう見えるもの」というのは、むしろ「そう見させられているところのもの」というのが妥当なのではないだろうか。選択はDNA のなせる業で、主観的なものというものはその折り畳まれた過去によって規定されているのだ、と断言してみたい誘惑に駆られてしまう。
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◆さて―
ぼくの父は戦争体験者である。
池袋の出身で終戦間際の絨毯爆撃による焼夷弾で家を焼かれ、父と姉を亡くして、幼い頃相当に苦労をしたらしい。闇市の中を食べるために荷車を押して彷徨い、母と一緒に行商まがいのことをして歩いたそうだ。戦後、闇市の混乱のおもひで。そんなものが父の瞳の奥の方で生命の輝きと相俟って、輝くのが思い返される。

◆日本人の種としての記憶―DNAの奥底にある風景はこういった敗戦の、焼け野原の、闇市の、都市風景だろう。物資の欠乏に空腹と飢え、貧困、幻覚のように立ち現れる巨大な力の帝国アメリカ―日米首脳会談で、小泉がプレスリーのお馬鹿な真似をしてみせたってそれはそれで頷けるように思う―ヒリツクような欠乏と混乱の中に見えるアメリカが日本人にとって、消しがたい幻想の影を結ぶのは当然だろう。

◆いろいろな物語を読んでいると、ふいにまごうことなくこの父の影を見つけて、自分の糧としているぼく自身に気付いて、苦笑いしてしまう―つまりDNAに折り畳まれたあの欠乏と混乱を再確認し、それを自らの生のエネルギーに置換させ、操作している自分自身にである。
そうだ!そうなのだ!―おそらく―ぼくの生命の根本にあるものは、戦後のあの闇市の混乱なのだ。

◆こういったものはなにか種としてのやみがたい渇望を思わせてしまう。そしてそれはなんということはない日常風景の根本的な基調音だが、大きくマクロなものとしてみれば、東京という都市の根源的DNAであり、同時に活力なのではないだろうか。廃墟の混乱―巨大に立ち現れる生命の物資配給供給国としてのアメリカ。分かちがたい血肉として、その都市身体に深く刻み込まれてしまったもの。
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◆レヴィストロースという民俗学者は「贈与という負債」という概念を提示した。つまり「贈与」とは「負債」であり、目に見えない借りなのであり、負債であり、この負債を受けたものは負債を返し続けなければならない。

◆東京は、日本はその根源にこの「負債」を負っているのだろう。だからこそ、アメリカに対しては、終わる事の無い負債の返済をDNAレベルで義務付けられてしまっているのではないか。小泉は日本人としてやり得る最大の「負債の返済」をしているDNA因子のひとつに他ならず、3兆円基地移転贈与や牛肉輸入問題は、そういった大きな負債への返還のひとつなのだろう。そしてそれをパフォーマンスという洒落によって、少しでも対等に見せようという―意地悪にいえば「セコイ!」―配慮によって、なんとか体裁を取り繕っているにすぎない、ように見えてならない。
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◆傀儡は傀儡であるかもしれぬ。しかし何の傀儡であるかが、問題だ。言うまでもなく、日本は、日本人は「贈与による負債」の傀儡物なのである。そしてこの循環から抜け出すことは非常に難しいようにおもう。
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by tomozumi0032 | 2006-07-05 18:16 | 社会評論
■NHKスペシャル「日本の群像・再起への20年」の再放送を見ている。シリーズ全体を簡単に要約すれば、バブル経済時膨れ上がったジャパンマネーとそれを投機する日本企業が「いかにして」アメリカの中に呑み込まれその中で苦闘するかのドキュメンタリーで、バブルの崩壊とそれに伴う莫大な負債を生んだかのドキュメンタリーだ。

■27日の放送に限って言えば、映画会社コロンビアを買収したSONYとロックフェラーセンターを買収した三菱地所と明暗が描かれており、明としてのSONYは紆余曲折あったものの日本的価値観を変えることによってグローバル化に対応し、映画関連事業を赤字部門から黒字部門に転じさせ、現在では収益の柱となっていること、暗としての三菱地所は日本的価値観の継続によってグローバル化しえずに失敗し、膨大な債権処理に今も苦闘し続けていることが放送された。

■ドキュメンタリー番組としての硬質な構成はいいのだが、視点がよくも悪くも日本ローカルな視座を抜け切れておらず、時折文学評論における大塚英志の村上龍にたいするあの「勘違い」を思わせるところがある。と、同時に見ていて痛感したのは、大企業が「かくも大胆不敵にローカリゼーション(日本的世界観)の延長としてしか世界を見れていなかったのか」という視座狭窄と価値観の違いに対する驚くべき無理解ぶりで、「ジャパンアズアナンバーワン」などの著作に代表される時代の「盛り上がり」というか、言葉悪く言えば「思い上がり」があったように思った。

■バブル崩壊時に「第二の敗戦」という言葉が使われていたが、この言葉の意味するところは、つまり第二次大戦後というものが、なんら根本的な変化を引き起こさず構造として大戦前の構造を存続させてきたことの謂いであって、大戦と同様のイデオローグの極点としてバブルがあったということの暗喩として理解できる。だが視点を換えれば「第二の敗戦」とは価値における決定的な「日本的なるものの解体とグローバル吸収作業」ではなかったのだろうか。それは語の厳密な意味における「敗戦」というものではなく、むしろグローバルな流れが日本的なるものをいかに解体し、吸収していったかの過程として見るべきだろう。

■かつて吉本隆明は「世界レベルでの敗戦状況に直面しているのが現在の世界把握として適切ではないか」ということを述べていたが、マクロに見ればこの指摘は正しいと思う。
つまり日本人に限らずに先進諸国の個人は巨大な価値変転のうねりのなかに解体され、部分的歯車として投げ出されているのであって、何も日本人のみが価値変転に右往左往しているというわけではない。

■これまで欧米諸国が自明のものとして準拠してきた西洋=近代=男性のイデオローグや書き言葉であるエクリチュール、人間中心主義の西欧近代が現在被っている変転は構造が強固に構築されていればこそ、より烈しく軋みながらも変転しているのだし、NHKは日本だけを贔屓目でみるのではない巨視的な視点での世界規模の変転という視座を組み込むべきだと、少なくともあの番組を見た限りでは思った。
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by tomozumi0032 | 2006-03-29 17:04 | 社会評論
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フランスの哲学者「ドゥルーズ」は「アンチ オイディプス」という、反権力的書物を1968年五月革命に鼓舞されて書いたという。これは従来のオィディプスの名で表象される教養概念の死を意味しているように思う。
作家三島由紀夫と全共闘とが東大教養学部において、討論会を開いたのは1969年のことだった。ここで三島は徹底的に旧体制の遺物すなわち「化石」として扱われている。
前衛ロックグループであるCORNELIUSのアルバムで「69/96」というものがある。これは90年代が60年代的なもののテクノロジカルな解釈にすぎないことを示唆しているように思う。
あるいはかの著名なるホリエモンで個人的に気になったのは次の事業展開として「宇宙」を目指していたということだ。これも極めて60年代的なもの(2001年的なもの)の再解釈である。
ポップアーチスト村上隆にしても、あのちょっとオバカな主張をなくせば、「ウォーホル」の小文字再生産にすぎないのではないだろうか。
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白痴的エコロジー運動や地球環境への配慮、セックスの解放、あるいはアニメの夢はニューエイジ、カウンターカルチャーの夢であって、これらは案外なにげなく日常に砕け散っている。
それでは今、日記を書いているコンピューターとは何か、ひいては「BLOG」とは何か。これもまた「ドラッグの夢」(あるいはカリフォルニアイデオローグといってもいいだろう)を「テクノロジカルな経済文脈」に置き換えるアメリカカウンターカルチャーの戦略の小文字解釈である。つまり問いは「ディック的仮想現実の強度」を「ドラッグ共有性」によって実現するのか、それとも「テクノロジー共有性」によって実現するのか、であると考えられる。だからわたしたちはコンピューターによって幾分かはHIPPY化するのである。もちろん論理は決して感性に先立つことがないのだから、テクノロジカルな論理性というものはドラッギーな感性に先立つことはないことは明らかだろう。
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じつに現代文化というものはだいたいが60年代の再解釈なのである。より洗練されたツールで置き換えられ、拡大解釈された60年代なのではないだろうか。それがまことしやかな最先端の意匠をまとって、メディアに溢れている。頭がよかろうが、白痴的だろうが、感性がすぐれていようが、愚鈍だろうが、勝ち組だろうが、ニートだろうが、結局は60年代にされた規定を熱を失った線でなぞっているにすぎず、そこでは「若い」ということの特権性はシュミラルクルに反復されているだけだとすれば、クープランドではないけれども、もはや現実は笑い飛ばすしかない模造物なのではないか。

2005年現代、文化は今やカウンターカルチャーの夢の断片の反復模造生産文化だ。つまり新しいという名の反復模造。だが結局ないのは、あの感覚的な悦びの無垢、暴発の熱気、野蛮の爆裂といったものであり、野蛮は極めて精密なトレースによって、吸収されてゆくにせよ、感覚的な悦びの無垢がないというのは、やはり寂しいものである。たとえそれが嘘や模造や捏造であろうとも、多少の「野蛮」と「無垢さ」はあったほうが人生は豊かなものではないだろうか。
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もっとも現代で失われているからこそ貴重な野蛮と熱と無垢をもとめるというのはややイノセントすぎるかしらん・・・くらくら
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by tomozumi0032 | 2006-02-27 18:19 | 社会評論
最近巷を騒がせた問題として「粉飾」決算問題、耐震強度「偽装」問題、ES細胞「捏造」問題が挙げられるが、これら三つの問題とはいずれもあるインフラストラクチャーを背景としたシュミレーションと現実の混同として同じ問題の系を共有しているものと思われてならない。
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そのインフラストラクチャーとはいうまでもなく、コンピューターである。コンピューターが社会に蔓延し、誰もが潜在的にコンピューター環境の中を生きるものとなった現在、この種の混同は非常に簡単に、罪の意識なく行われてしまう。ニュースや新聞で見る限り、本人たちにここまで社会で騒がれるだけの罪の自覚があるものかどうか疑わしく、むしろ騒がれて狼狽し、当惑している表情が見て取れる。これは情報ばかりが先走る社会の陥穽ではなかろうか。シュミレーション感覚で行われるちょっとした錯誤、あるいは混同が瞬時のうちに現実のレベルに置き換えられてしまう。
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これらはなにかコンピューター社会の危さを思わせる。いいかえればすなわち利便性のパラドックスだ。
コンピューターの中では現実と虚構とが複雑に折り畳まれて展開され、そういった中でボタン一つの操作で意志決定がなされてしまう。快楽的といえば快楽的、便利といえば至極便利。そしてそれ故内部制御がかかりづらく、暴走が止められないという意味で危うい。そしてこういった現実と虚構の混在、意思決定の安易さが上記の3問題の根底にあるように思われてならない。

あまりに安易に行われ、瞬間的な「速度」で処理されてしまう「粉飾」と「偽装」と「捏造」。そしてこういったインフラ構造に左右されざるを得ないこの時代の「政治」と「労働」と「生活」。
やはり現代とはある意味では非常に危いバランスの時代だと思わされる。そしてこういってよければ、誰もがまたこういった危さを生の根底に秘め持たざるを得ないそのことが現代の「悲劇」なのではないだろうか。
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by tomozumi0032 | 2006-01-27 01:50 | 社会評論
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