カテゴリ:三島 由紀夫( 4 )



仮面の告白

三島 由紀夫 / / 新潮社




「僕の思念、僕の思想、そんなものはありえないんだ。言葉によって表現されたものは、もうすでに、厳密には僕のものじゃない。僕はその瞬間に、他人とその思想を共有しているんだからね」
「では、表現以前の君だけが君のものだというわけだね」
「それが堕落した世間で言う例の個性というやつだ。ここまで言えばわかるだろう。つまり個性というものは決して存在しないんだ」「旅の墓碑銘」より

◆プロローグ 
三島―偽・自我の文学

◆Aっと。三島の面白さっていうのは簡単にいえばこんなことじゃないかしらん―☆
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◆パロディすれすれの偽・物語・偽・自我、偽・オリエンタリズム、フロイト信奉者でその影響が強いところ、Bizarreといってもいいだろう過剰なバロック趣味、同性愛的感性、論理的に描かれる不毛な愛、砂漠の不毛な模造建築、レトリックと警句の巧みさ、文明社会への皮肉、青年期の願望の美的な昇華、(芸術家森村泰昌がパロディとしてやっていたが―)過剰な自己劇化、刺激的な血への憧れ、浅田彰が指摘するように「フェイクのフェイクによって発動する美学」―

◆それから戦後民主主義の中で、日増しにシュミラルクル化する社会の中での知的人格形成の経緯が見られるっていうか、まぁ 知識人ってのは業の深い人間だから、普通の人が受け止めるそれ以上のことを社会事象のなかに見て取って、言葉にするんだろうけれど、そのなんだかエキセントリックな雛形という感じがしてしまう。

◆この小説にはそういう三島の面白さのエッセンシャルな部分がギュッと凝縮されている。後の小説にみられるように社会問題を題材していないぶん作家の核の部分が閉じ込められている印象。

◆海外で似たような系譜の作家を探せばボードリヤールやJGバラードといった作家のスタンスに近い。両者ともどうやら異性愛者らしいが、三島同様に苛烈な逆説の警句に充ちており、刺激的で、言葉で自分の思っている日常的な価値感を華麗に裏返しにされるような面白さがある。

◆はっきりいえば非常識的で逆説的。でもそれは裏返された現代社会の価値の中枢を照準にした確信犯的狙撃者といってもいいもの。彼らは価値を弄んで翻弄する。正しさという価値を、あるいは「これはこうだ」という硬直した見方を。

◆ここではそういった三島の表現を―

◆1、シュミラルクル
◆2、仮面
◆3、機械
◆4、不思議

―の4点から見てみよう。

◆1、シュミラルクル
◆社会学者ボードリヤールによれば、現代社会は日増しに透明なシュミレーション化するモデル先行社会である。現実は増殖し、スクリーン画面のイメージによって、リアリティを捏造されてしまう。消費行動はイメージ消費と豊かさの記号の消費となる。三島由紀夫はこういった現実を敏感にとらえたという意味でまちがいなく戦後の文学者だったといえる。

◆こういった三島のようなあり方について、いろいろな角度からの賛否両論含めたカタチで批判がなされているのだけれども、自分たちのある写し鏡として、三島は極端であるが故に、好奇心をそそる―興味深い題材であり続けている。

◆まずは大塚英志の「サブカルチャー文学論」を見てみよう。
大塚はここで三島のディズニーランド論とボードリヤールのアメリカ論を俎上にのせ、その近親性を指摘している。簡単に書き加えておけば三島はアメリカの賛美者あり、ディズニーランドを心から楽しんだ一人だった。大塚はそういった三島がディズニーランドを楽しんだことにサブカル的な感性のさきがけを見てとる。

◆「あくまで重要なのは、60年代前後の時点で三島がここに見られるような仮想現実への批判性をあらかじめ持ってしまったという事実である。ボードリヤールが語ったような、現実がコピーの更なるコピーとして自己完結し、そういう質の新しい現実がわたしたちのぼくたちの生活をおおい尽くすという類のリアリティは80年代、90年代を体験した今となれば、それはおそらく誰にでも実感できるものである。一方では記号論的な言説がとてつもなく大衆化し、他方ではコンピューターゲームやインターネットといった新しいリアリティの具体的なサンプルが生活に侵入してきている現在、それはある意味で容易なことだ。だが三島は60年代の時点で確実にこの新しい現実への視線を発見し、しかも、それを賛美しているのである。」(「サブカルチャー文学論」P474)

◆大塚はここに明らかに現代のシュミレーション先行の社会の地続きの雛形を見ている。つまり、コンピューター・ネット社会の現実のコピー感覚の雛形を三島に見出している。だが、これははたして彼がいうように「60年代の時点」からなのだろうか?たとえばこの処女小説の題名は「仮面の告白」である。つまり自ら「仮面」であることを告白する、というフェイクの告白、実在ではなく、シュミラルクルの告白のようだ。そしてこのようなシュミラルクルの現実の視線が三島に発見され、賛美される背景といったものを考えてみると、戦後といったインターバルではなくて、文明開化以後から脈々と続くインターバルのなんらかの運動力学の慣性の言い換え、と考えられる。

◆ついで新潮文庫のあとがきから福田恆存の文章を引く。福田は三島に豊饒なる不毛、無邪気な悪党、子供大人、芸術家の常識人、模造品をつくる詐欺師、といった逆説とその不安定さを指摘したうえで以下のように述べる。

◆「「告白は不可能だ」ということで、かれ(三島)は読者を、さらに自分自身を突っ放しているのである。そうすることによって、作者は素面をも仮面となし、その背後に真の素面のための逃げ道をつくってやる三島由紀夫はやはり「書く人」を「完全に捨象」してのけたのであって、作者の素面をけっして追及し捕捉しようとしてはいない。いや、真相は、現代においては、素面を追究するしぐさによってしか仮面は完成しえず、素面を仮面と見なさずしては素面は成立しえないということにある。けだし「肉付きの仮面だけが告白をすることができる」ゆえんであろう。そんなことをこの作品はあかしている―小説の小説だというのもその意味だ。」(仮面の告白「あとがき」)

◆だから―この小説はリアルな告白というフィクションであって、フロイト的逆説がその実例として実を結ぶ地点なのではないだろうか。その意味で三島の創作というものはいずれにせよ、フィクションと現実とを切り離しえない地点で描かれたことがわかる。

「幼年時代は時間と空間の紛糾した舞台である。たとえば火山の爆発とか叛乱軍の蜂起とか大人から告げられた諸国のニュースと、目前で起こっている祖母の発作や家のなかのこまごまとした諍いごとと、今しがたそこへ没入していたお伽噺の世界の空想的な事件と、これら三つのものが、いつも私には等価値の、同系列のものに思われた。」
                      
「人生は舞台のようなものであると誰しもいう。しかし私のように、少年期のおわりごろから、人生というものは舞台だという意識にとらわれつづけた人間が数多くいるとは思えない。」「仮面の告白」より
 
◆もっともこういった感性というものはなにも三島のみに限ったものではない。たとえば―上述したJGバラードを見てみよう。彼の世界においては、現実は絶えず映画という映像メディアの後体験としてしか位置づけられない。そこがバラードの創作がどんなに毒と悲惨にみちていても、ゴージャスなエンターテイメントとして見えてしまうところであり、架空の物語が前景に感性として押し出されて、現実を後景に退かせる。最悪の状況の中でさえ、それは失われずに、現実をファンタジーに染め上げる。

◆「故障したネオンランプの光が総統の柔らかな口のうえに反射してゆらめいている。ジムが夢でみる光の明滅と同じであった。上海全体が彼の頭のなかから漏れ出るニュース映画に変わりつつあった。
あまりにも多くの戦争フィルムを見たために、頭がどうかしてしまったのだろうか?ジムは母親に何度か夢のことを話そうとした。(略)不気味なことに戦車や急降下爆撃機がごたまぜになった夢の光景はまったく音がなかった。まるでジムの眠っている意識が、パテーやブリティッシュ・ムービーのフィルムがつくりあげている戦闘ごっこから現実の戦争を切り離そうとしているかのようだった。」(「太陽の帝国」JGバラード)

◆これは明らかにいえる。
 わたしたちの頭や言葉の構造は現実や素面といったものをきちんと認識できるようにはできていない。素面は仮面に食い込み、映画フィルムは現実を侵食し、リアリティはシュミレーションに容易に置き換わる。だからミッシェル フーコーが著作「言葉と物」のなかで精緻に詳らかにしてみせたように、現実は時代によって認識を変えるものであって、わたしたち諸個人が正しいと思い込んでいるものは、フーコー風にいえば、時代のエピステーメという織物のひとつの編み目として、結局は織り込まれずみのものにすぎないのかもしれない。

◆ちょっと極端にいってしまえば、新しいものや個人的な体験にまつわる神話や人間なんてものはないのかもしれない。
 
 新しいもの―そんなものはない。
 個人的な体験―そんなものもない。
 人間―そんなものあったためしがない。
 ―の、かもしれない。

◆そして―わたしたちはあまりにも知性に欠け、あまりにも愚かで、あまりにも近視眼的にしかモノを見ることが出来ないから、それを新しいものだと勘違いして思いこみ、個人的な体験だと思い込み、人間だと思い込みすぎるのかもしれない。

◆テクノロジーと科学は大衆を支配する現代の錬金術であり、現代に支配的な魔術のひとつだが、そういった魔術によって、夢見させられ、現実を認識づけられさせられる大衆―もし、仮にPOP文化の神話を「テクノロジーという魔術に支配された大衆文化の神話」と呼ぶならば、三島は思考とレトリックのテクノロジーという魔術によって、大衆神話のひとつになったといえる。ただ―願わくば虚無であることをもう少し淡々と実直に受け入れることができたならばよかったのに―

◆大いなるフィクション、シュミラルクルの内包された現実を現実として生きること。

◆2、仮面
◆この小説はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の美にまつわる矛盾の引用から始まる。
 
「美― 美というヤツは恐ろしいおっかないもんだよ!つまり、杓子定規に決めることが出来ないから、それで恐ろしいのだ。なぜって神様は人間に謎ばかりかけていらっしゃるもんなぁ。美の中では両方の岸がひとつに出合って、すべての矛盾が一緒に住んでいるのだ。(中略)ええ畜生、なにがなんだかわかりゃしない、本当に!理性の目で汚辱と見えるものが、感情の目には立派な美と見えるんだからなぁ。一体悪行の中に美があるのかしらん?・・・・」 ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」

◆三島のフェイクの美学といったものが発動する始動点は、こういった美にまつわる矛盾だと考えていいだろう。ドストエフスキーはその著作の中で、重厚なロシアの歴史性とこういった悪行の中の美を饒舌な語りで魅力的な有無をいわせない力をもってやってみせるのだが、そんなような実存的逆説がまだ若い男の精神に影響をおよぼしたであろうことは想像に難くない。戦後の混乱、価値の変転、失われた正しさへの執着、変わりゆくものと変わらずに閉じ込められているもの、あるいはなにより愛の不毛な循環―ここにあるのは、そんな価値の支柱を失った敗戦国の国民のある美学的で逆説的な言い換えなのではないだろうか?

自我?
そんなものは仮面にすぎない。
そんなものなどないのだ。

告白?
そんなものは偽りだ。
告白すべきものなどないのだ。

◆強がり―といってしまえば、非常に強がりだ。
華麗なレトリックをもって、巧みにやってみせる強がりの自我の言語群。しかしそういった強がりや情念が暗黙裡にこめられることによって、文章をきらめかせ、言葉が狂ったようにまばゆく、眼もくらむように輝かない、とは誰もいえないはずである。

◆もっともこういった強がりが効力を発揮するのはある世代までだ、とは思う。たとえば、村上龍にせよ、春樹にせよ、森村にせよ、あきらかに三島にたいする侮蔑とまではいかないが、皮肉があって、それはおそらくはこういった島国の倭人的な原日本人的強がりを嫌悪するからだろう。

◆だから―
三島には何か日本人がもっていた饐えた臭いのする劣等感とそれを裏返してやろうとする涙ぐましい努力がうかがえる。天皇を中心とした神の国だった日本の敗戦。日本の精神性を旨とした戦前の教育と文明開化以後の押し寄せる西洋文化、そしてアメリカ文化の軋轢―

そのなかで生まれた「大衆」に対して、知識人としての、あるいは作家としての、みずからのポーズをとってみせること。

仮面を仮面として告白すること。
それにつづく成功物語としての―スペインのコロニアル風といった偽造の邸宅、自らの貧弱な肉体と機械運動をめぐる神話―からっ風野郎。

◆こういった戦前世代特有の気負いの「いやらしさ」は、ぬちゃぬちゃとした泥濘のような「いやらしさ」で、それは時に今では及ぶことがけっしてかなわないような地点で書かれたものだと思ってしまう。三島は「いやらしい」。Hでもエロでもなくて、「いやらしい」。なにが「いやらしい」って、知識人の情念とその大衆へのポーズがどうしようもなく「いやらしい」。そしてそれは少なくともぼくにとっては、時に芳烈なエロスを濃密に漂わせる「いやらしさ」なので、つい―めくらんで身も心もすっかり支配されてしまいそうなそんな手に負えない「いやらしさ」なのである。

◆たとえば―他の本だが、戯曲「鹿鳴館」の中で三島はこんな風に登場人物にいわせている。

影山「ごらん。好い歳をした連中が、
腹の中では莫迦々々しさを噛み締めながら、
だんだん踊ってこちらへやって来る。
鹿鳴館。かういふ欺瞞が
日本人をだんだん賢くしてゆくんだからな。」
朝子「一寸の我慢でございますね。
いつはりの微笑も、いつはりの夜会も、
そんなに永つづきはいたしません。」
影山「隠すのだ。たぶらかすのだ。
外国人たちを、世界中を。」

隠し、たぶらかすこと。

仮面―
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◆3、機械
「大体、倦きない玩具というものはない。メカニズムが一定しているからだ。そこへ行くと、人間ほど倦きない玩具はなかろう。男と女でははっきり肉体のメカニズムがちがっているし、お互いに倦きない玩具になりうる条件がそろっているうえに、精神のメカニズムは、それぞれの肉体に応じて、複雑な了解不可能な型を、それぞれ千差万別に成立させている。それぞれの型はお互いに不可解であるが、不可解ということを気にしてみようともしない型もある。」「文学的人生論」より

◆おそらくはフロイトに学んだものだろうが、三島には人間を機械として、心をメカニズムとしてみる視線がある。これは非常に面白い。冒頭の個性にまつわる引用でもそうだが、ときにフランスのポスト構造主義の哲学者ドゥルーズと三島の主張が重複しているように思われることがあるけれども、この「仮面の告白」の中にはそういった箇所が確認されるのである。

◆ドゥルーズとの重複は冒頭の個性の分裂的不在だけに限らない。たとえば秘密結社。

「複雑な組織をもった秘密結社、その一糸乱れぬ地下戦術は、何らかの知られざる神のためのものでなければならなかった。彼はその神に奉仕し、人々を改宗させようと試み、蜜告され、秘密裡に殺されたのだった。」「仮面の告白」

彼が結成した「楯の会」とはまさしく秘密結社ではなかっただろうか?

◆そして機械。三島が16歳のころに書いたという一説を引用してみよう。

「とうとう仄かではあるが真実であったものが、つよくして偽りの機械のなかにとじこめられる。機械は力づよく動き出す。そうしてひとびとは自分が「自己偽瞞の部屋」にいるのに気付かない。」「仮面の告白」

それからこんな一説。

「私の偽りのない愛が出現するかもしれない。機械は驀進していた。誰もそれを止めることはできない。」「仮面の告白」

機械は力づよく動き出す。ひとびとは「自己偽瞞」の部屋にいることに気付かない。
そして機械は驀進して、誰もそれを止めることはできない。

エクリチュールを紡ぎだす文学生成機械としての三島。
あるいは―現代日本に対する逆説機械としての三島。

邁進する機械の暴走―

そう 確かにそれを止めることは誰にもできなかった。
ここは大きくちがうところだが、ドゥルーズのように「音楽」によって斜めの「逃走線」をひくことはできず、あるいはバロウズのように「ソフトマシーン」であることができず、「闘争線」をめぐらせるあくまで「ハードマシーン」の三島。
それとも三島は逃げたのだろうか?じぶんという虚構から?
白昼の血みどろの四ツ谷駐屯所乱入、「自己偽瞞の部屋」にいる人々への過激なアジテーション―そして、割腹自殺。

すべて機械の成せる業―

「其のニ」へはこちら☆
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仮面の告白

三島 由紀夫 / / 新潮社


其の一はこちら☆
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4、不思議
◆猪瀬直樹や浅田彰の指摘や批判、あるいはW村上の皮肉めいた揶揄にもかからわらず、ぼく個人的には三島はやはり戦後の「大文学者」と呼ばざるを得ないところがあると考えている。三島はたとえばW村上よりもずっとドゥルーズ的でアーチスティックで「不思議」な感性がある。

◆こういってよければ、「不思議くん」な三島というべきところがあって、これは「美徳のよろめき」や「美しい星」、「獣の戯れ」にもあきらかだ。モノへの執着。饒舌に語るモノ。これは微妙にSF的で第六感的な何かを感じさせるもの。
たとえば三島は幼少時に糞尿汲み取り人に憧れたようだが、そのさい三島は「いわん方ない傾倒」を「股ひき」に覚えてしまうー

「一つの重点は彼の紺の股引きであり、一つの重点は彼の職業であった。紺の股引は彼の下半身を明確に輪郭づけていた。それはしなやかに動き、私に向かって歩いてくるように思われた。いわん方ない傾倒が、その股引きに対して私におこった。何故だか私にはわからなかった。」「仮面の告白」

それから饒舌に語るスパナの論理―

「スパナはただそこに落ちていたのではなく、この世界への突然の物質の顕現だった。打ち見たところ、伸びた芝生とコンクリートの自動車路との丁度堺のあたりに半ば芝草に埋もれて横たわっていたスパナは、いかにも自然なそこにあるべきような姿をしていた。だが、これは見事な欺瞞で、何か云いようのない物質が仮りにスパナに化けていたのにちがいない。本来決してここにあるべきでなかった物質、純粋なうちにも純粋な物質、・・・・・・・そういうものがきっとスパナに化けていたのだ。」「獣の戯れ」

三島において、こういったモノの変貌は多くの作品の中で変奏曲を奏でる感性の核としてある。
「美しい星」ではこういったモノがより大きな視座から語られている。

「こうして世界は伸び縮み、突然蘇り、又息絶え、われわれの周囲で、たえずいらいらと変様している。重一郎は片っぱしから、日常の道具の効用と、それらがたえずわれわれに強いている卑小な目的とを疑った。雨の日には傘が彼の頭上にわけのわからぬ黒い形態をひろげた。彼の手に握られているその湾曲した把手のいやらしさ、頭上の鉄骨が黒い絹の布をむりじいにひろげているその無慈悲な過度の緊張、その上にふりかかり八方へ伝わり流れてやまない執拗な雨!」「美しい星」

◆この感性はいったいどういった機械の作動なのだろうか?
これは現実認識に対するある種の間隙を意味してはいないだろうか?
たとえば―W村上や現代の多くの作家にこういったモノや世界との乖離は見られない。
三島においては世界は無前提にそこにある、のではない。そうではなくて、「ふいに伸び縮み、突然蘇り、又息絶え、たえずいらいらと変容している」ものとして立ちあらわれるのである。

◆ドゥルーズはガタリとの共著「アンチオイディプス」の中で、アンリミショーの「分裂症患者の机」を引用している。

「これは人間世界の外にでた机である。この机は気楽な心安さとは無縁なるものとなり、ブルジョワ風のものでも、作業のためのものでもなくなった。それは何ものにも役に立たないものとなった。それ自身は、どんな形にしろ、サーヴィスやコミュニケーションを提供することを頑なに拒否するものになっていった。この机には何か心をうちのめし、身をすくませるものがある。おそらくそこにはとまったモーターを思わせるものがあったのかもしれない。」「アンチオイディプス」

このアンリミショーの「机」に対する感性は三島の「スパナ」や「世界」に近いものだと思う。「人間世界」の外に出た机。饒舌に語るモノそれ自体。ドゥルーズ風にいえば、「分子的知覚」。
不思議で分裂病的な三島。

そう ここにいるのはオリエンタルで伝統的な地層にからめとられた三島ではない。むしろPOPでアーチストな三島であって、たとえばPOPスターブリトニースピアーズが世界に対する無垢な「不思議ちゃん」を初期のビデオクリップで演じて見せたように、世界に対して無垢な「不思議くん」として立ちあらわれる三島なのである。

◆もし三島が大衆にむけたポーズではなくて、真の意味でのPOPを体現する領域があるとするならば、この領域においてなのだ。「分裂病的」で「表象的」-そして語るモノたちのアニメちっくな感性が三島という優れて非凡な機械の背後に潜在するプログラムとなっていて、それは時折姿をあらわして、プログラムを疾走させる。

それは理解可能と理解不可能、大衆と知識人、一般的なものと芸術的なもの、あるいは上述した福田が述べたように、豊饒なる不毛、無邪気な悪党、子供大人、芸術家の常識人、模造品をつくる詐欺師といった二項を止揚するメタレベルのプログラムであり、現実を裏返しにしてしまうもう一つのプログラムだ、と思う。
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◆エピローグ 
ヴィヴァ ファンタスティックワールド☆

◆以上―三島を読んで教えられるように、世界は不思議である。
そしてわたしたちはその不思議と神秘をよく理解しないあまりおつむのよくない欠陥ある存在ではないだろうか?
おそらく―
世界はただただ不思議なのであって、そこにはどんな説明もなされはしないだろう。

ちょうどドストエフスキーが大著「カラマーゾフの兄弟」でゾシマ長老にいわせたように―
あるいはフロイトが「トーテムとタブー」で「大洋的な感情」と呼んだたように―
はたまたピンチョンが「競売ナンバー49の叫び」の中で描いてみせたように―

世界はただただ不思議なのであって、わたしたちはその不思議さにとまどい、時に頭をくるわせたり、時に鼻くそをほじったり、時に涎を垂らしたり、言葉と音の官能に身をよじらせたり、陰毛を落ち葉にからませたり、おちんぽとおまんこを結合させたり―しながらなんとか生きてゆくそんな存在なのかもしれない。
もしかすると―☆

VIVA ファンタスティックワールド☆
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美と共同体と東大闘争


三島 由紀夫 東大全共闘 / 角川書店



◆これはちょっと三島が可愛そうなようにも思う・・・

◆三島を模した「近代ゴリラ」の楯看板、荒々しいムードと殺伐とした状況。
まさに多勢に無勢な上、論議が成立するのに必要な磁場が互いに共有されておらず、言語が中空で神経症的に痙攣しているのが見て取れる。終わりの方での三島の憔悴ぶりが痛々しい。

◆同時に当時の文人はこれほどまでも苛烈に論議に晒され、批判され、否定されたのかと思うと、現代の白痴的幼児退行社会の白痴的作家賞賛の現状がやっぱり腑抜けて見える。
 
◆論議とは生きた言葉の文字通りのぶつかり合いであり、三島の思わぬ失言(?)から彼の本音が晒されるところは読みどころだ。それにしても思想的な対立はさておいて、全共闘はもう少し三島を丹念に読むべきではないのか、という気がした。

◆―というのは全共闘に見られるものは、驚くべき文脈的への無理解と理論的硬質さ、一面的誹謗というものであって、最初の頁においては、なんとか文脈を共有しようとお互いに論を展開するものの、結局文脈は共有されぬまま、上述のように三島は中空を彷徨い、結局は数の論理に押し切られてしまう。

◆これは「討論」にさえなっていない。
お互いがお互いの届かぬ、あるいは噛み合わぬ主張を述べて終わるのだから―

◆今となっては、感じる事の少ない旧体制と新体制の思考の齟齬といったものがここでは剥き出して確認されるという意味で確かに貴重な討論かもしれない。
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美徳のよろめき


三島 由紀夫 / 新潮社



◆空虚で典雅な小説だとは思うが、実際のところあまりよくわからない。

◆「美徳のよろめき」の題は何を示しているのだろうか―
ラディゲの影響云々というのはあるだろうが、それほど重要ではなくて、これはまさに「ないことをあるように描いた」小説ではないかという感じがする。つまり描かれていること一切を消滅させるようなことを目的とした小説。

◆実際恋愛対象である「土屋」はおらず、恋愛もなく、性もなく、堕胎もなかった、あらゆる非在がフィクショナルで優雅に行われたように「見えた」というだけの小説。そしてその証明として終わりに描かれた手紙は届かないのではないだろうか。

◆高級な懐石料理の食感を味わう悦楽や「おふ」のあののど越しのようななんとも得体ない感じがある。

◆空虚で優雅で高く、美しく典雅でエレガントで貴重なものを食したような印象で、なんともいえない読後感に包まれた。これは読後感を味わう類の小説なのだろうか?

◆原理の稀釈した軽快さがいい。文体は非常に節度があって、この節度が非常にエレガント。

◆「美しい星」とも共通する不思議さ。
 
◆「処女懐妊」の暗喩かしらん~☆
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