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日本のアニメーション作家・映画監督として活躍する宮崎駿さんが、大人気のタブレットパソコン『iPad』を非常に厳しい言葉で批判している。監督は自身の仕事において、「鉛筆と紙だけあればいい」と考えているようだ。その上で『iPad』について、「感心も感動もない。嫌悪感ならある」と酷評を浴びせている。

宮崎監督の『iPad』批判は、自身が所属するアニメーション制作会社『スタジオジブリ』が発行している小冊子、『熱風』に掲載されたもの。『熱風』の7月号には『iPad』の特集が組まれている。そのなかで監督はインタビューに応えて批判を繰り返しているのだ。

『iPad』片手に監督の話を聞くインタビュアーに監督は、「そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。嫌悪感ならあります」とバッサリ。これに対してインタビュアーは、インターネットに接続して資料を探したり、欲しい文献をすぐに取り寄せることができると切り返した。

すると、さらに追い討ちをかけるように、「あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません(中略)。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです」と、『iPad』とともにユーザーを全否定するような発言をしている。

また、「一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感(ぜんのうかん)を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう」と、購入の動機にまで発言が及んでいる。

監督の過激な否定発言に対してインターネット上では、「バカにしないでくれる!? 知っているわよ。そのくらい!!」や「別にiPadを自慢げに人前で持つことを気持ち悪いというのは良いが、ここまでくると言い過ぎじゃないだろうか」、「こういうこと言う人がいないとだめよね。老人はこれでいい」、「中学校のときの授業中に、シャーペン使うな鉛筆使えって怒鳴ってた教師を思い出した。書けりゃどっちでも良いじゃん、と思いながら渋々鉛筆使ってた」……など、様々な意見が飛びかっている。

『iPad』を購入する人すべてが、『全能感』を味わうためだけに購入しているわけではないものの、「目的もなく新しいものを購入するな」という指摘も十分うなづける。ちなみに今年5月にアメリカのオバマ大統領も、ハンプトン大学の卒業式のスピーチでデジタル機器について否定的な発言をして話題となった。「iPodやiPadをはじめとするデジタル機器のせいで、人は考えなくなった」として、デジタル機器がもてはやされることを、歓迎していない様子である。

監督や大統領が指摘にするように、新しい機器を購入するときには目的や用途について今一度考えた方がよいだろう。しかし「購入者は皆一緒」という考えはいかがなものか?

                   ロケットニュース24より
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by tomozumi0032 | 2010-07-15 13:33 | NOTE
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クリオ賞やOne Showと並び、世界3大広告祭のひとつとして名高いカンヌ国際広告祭。過去には日清カップヌードルのCM「hungry?」やユニクロの「UNIQLOCK」がグランプリを受賞したことでも知られる広告の祭典だ。このカンヌ国際広告祭で今年度のアウトドア部門グランプリ・キャンペーンを受賞したディーゼル社の広告が、いまちょっとした話題を呼んでいる。

今回、ディーゼル社が受賞したのは-
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“大人はNOと言う。僕らはYESと言う。大人は頭で考える。僕らは心で動く。大人には知恵がある。僕らには度胸がある。BE STUPID”

ーというスローガンに則り、既存の概念にとらわれない状況を映し出したポスター。その中には女性が監視カメラに向かって胸を露わにしていたり、水着姿の女性が自身の下半身の中をカメラで撮影していたりといった、性的なものも含まれている。

しかし、こうした“挑発”的な広告は、国際的に高い評価を受けたからと言って、世界の誰もがお気に召したというわけではないようだ。複数の苦情が寄せられたという英国の広告基準局(Advertising Standard Authority)は、いくつかの写真を「不快で反社会的な行動を助長させる」として批難し、発禁処分に。キャンペーンそのものはまだ出版物などでは認められているものの、広告基準局は「若年層が見てしまう恐れがある」との判断から、路上のような公共スペースへの掲示は認めていない。

こうした措置にディーゼル社は反論。これらの写真は「女性らしさという固定観念に対して、意外性と強さを表すもの」(英紙ガーディアンより)とし、最も批判の多かった監視カメラに向かって服をまくり上げた女性が胸を露出している写真については「ビデオカメラによる、憂慮すべき監視社会へのちょっとした批難」(同)であると説明している。

このような状況について、カンヌ国際広告祭の舞台となったフランスでは、例えばエクスプレス誌が「正直な話、このキャンペーンはディーゼル社の数年来の仕事で最も好ましいものと思われる。先日、フランスで問題となり、結局政府が回収するハメになった禁煙のポスター(タバコを男性器に見立てたもの)と比べれば、まだショックという程でもない」とコメント。擁護とも、ちょっとした皮肉とも取れる評価をしている。
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by tomozumi0032 | 2010-07-14 18:58 | NOTE
April 30, 2010

日曜の夜から突如はじまった迷宮劇場は、収束する気配をいまだ見せません。
きっと、まだまだ幕は続くのでしょう。
しかし、これは連休中の娯楽ではありません。
いまのうちに皆でクールダウンした方が絶対にいいと考えます。

今回ばかりは、その異常性の高さゆえ、あらゆるメディアに真摯に対応し、
まるで捜査をするように様々な問題ある関係を探り、僕なりに示したつもりです。
その土俵は、僕の場所ではありません。

ただの男女の問題ではないことは、容易に想像着き、違和感を感じている方も多いことだと思います。

いま僕が日々対峙しているのは、本来対峙するべき人と違います。
やっと、不自然なまでに僕を叩く目的は、よく理解できました。
まだわかりませんが、それが妻の本意だとしたら、とても残念であり、僕はこのようなやり方が良いとは絶対に思いません。

そして、なにより妻の安否が確認できました。

本件は、プライバシーに関する問題であり、
まだ、なにひとつ決まっておりませんので、
今後、あらゆるメディアの皆様からのご質問にお答えすることをご遠慮させていただきます。

何卒ご了承くださいませ。

明日から通常業務に戻ります。
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by tomozumi0032 | 2010-05-10 19:55 | NOTE
April 29, 2010

これは、事件なのか?

なにかが起きて、周辺が騒がしくなっている。

ある日、突然自分の離婚をテレビで知った。
僕も妻の家族も誰も知らず、
その時から、報道陣が大挙し押し寄せ、
早朝、妻の実家に見知らぬ車がやってきて、妻を連れ去ったと妻の家族は言います。

これは、事件なのか?

連日、報道の嵐。
僕への根拠がないバッシングが続きます。
その後、妻がオフィシャルのコメントを出し、
兄が橋渡しになって、離婚協議を進めているとのことだが、
お兄さんはそのようなことを頼まれていないと言うし、
望んでいないと言う。

一体、なんなんだ?

離婚などという言葉が二人の間で出た事はないし、
口論になった覚えもない。
もしかしたら、色々な不満はあったかもしれないけど、
不満がない夫婦はきっといないでしょう。

僕は、例えどんな結果になろうとも、きちんと理由を言って、
妻が眼を見て僕に真剣に頼めば、いままでなにひとつ断ったことは一度もありません。
ちゃんと心で話すべきだと、いつも思ってます。
先月の復帰会見の前夜も、妻に朝五時半まで僕はそのように話しました。
そして、この日を一生忘れる事ないようログし、同じように社会の軋轢に挟まってしまって苦しむ多くの人へと届けました。

なにより、夫婦の大事な話は夫婦のものであり、
メディアからはじまるものではありません。

そして、その結果を持って、
まずは家族に話すべきだと思います。

連日、「関係者」や「友人」のコメントを見ますが、
誰も署名でコメントを発表していないので、真実なのか誰だかもわかりません。
もし、本当の友人が周りにいるならば、彼女に人としていますべき「正しい事」を即すべきなのではないでしょうか?

僕や家族は、皆心配しています。

なぜなら、わずか数週間前までは、もし不満があったとしても、とても仲がよかったからです。

誕生日になる夜に、久しぶりに二人きりでお洒落して東京の夜を楽しみました。
妻はサロンに行って入念に準備をし、僕のプレゼントをとても喜んでくれた様子で、小さな愛ある手紙を僕にくれました。
また、その週末には、友人たち大集合して皆でバースデーパーティをし、ハワイでの結婚パーティビデオを見て、すっかり泥酔しました。

その後、僕が沖縄に行った際も電話をくれて、
共通の友人DJのレコーディングにコーラスで参加した話をしてくれ、
「今度、皆でゴハンに行こうよ」と言ってたのです。
わずか二週間ほど前のことです。

一体、この二週間でなにが起こったのか?

夫婦の大事な話は夫婦のものであり、
メディアからはじまるものではありません。
言うまでもなく「関係者」は、関係ないことです。
そして、各々の仕事は、相手に迷惑をかけない限り、好きなだけ自由にすればいい、といつも思います。

一体、これはなんなんだろう?

このリアルがない劇場の主演は妻だとしても、
僕や家族が知らない演出家や脚本家は、誰なのだろうか?
そして、その目的はなんなのだろうか?

どんな場合も苦境から逃げずに、自己と対話し、正しい道を行く。
いかなる場合も、人と心でしっかりと話す。
そして、混沌のあとにしか、調和はこない。

明らかに悪意を感じる報道と日々の対応には本当に疲れるが、
実にラビリンスを彷徨うような不思議な気分だ。
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by tomozumi0032 | 2010-05-10 17:35 | NOTE
March 16, 2010

君が仕事に復帰すると聞き、僕は誰よりもうれしく思います。

我が家では、仕事の持ち込み厳禁だから、
お互いの仕事のことを話す事は一切ないし、
僕は、君のドラマや映画を観る事さえも禁止されているので、仕事の詳細はわかりません。
広告で復帰すると聞き、今日街角で大きな君を見つけて、感涙しました。

君も僕も、生きる事も伝える事もとても下手だけど、
心で話せば、人には絶対に伝わります。
君のことを二年半近くも待っていた多くの人が、この国には大勢いるのです。
君のドラマや映画を見て、この子はなんて強くやさしい心を持った子なんだ、ときっと多くの人は知っているのです。
そして僕は、君がとてもやさしい心を持った女性であることを誰よりもよく知っているし、僕はそんな君が大好きです。
だから、いつも心で人と話しなさい。
必要であれば、僕はどんなときも君のそばに絶対にいます。

今まで、君が何度も仕事を辞めたいと言ったときに、僕は一言だけ言いました。
いままでの仕事上、信頼できる人がひとりもいないならいいけど、
ひとりでもいるなら、その人たちがいる限り、出来ることは最後までやるべきではないのだろうか、と。

だから君は、信頼できる仕事仲間と、自分が納得できる良い仕事を時間をかけてしっかりやるべきです。
そして、その仲間や応援してくれる人が一人でも多く増えれば増えるほど、僕は本当にうれしく思います。
信じるに値する人は、絶対にいると僕はいつも思います。

ずいぶんと長い間、世間では色々言われているようですが、もし問題があるとしたら、きっとそれは「挨拶」じゃないでしょうか?
「挨拶」や「挨拶の仕方」は、日本だろうが、どこの国だろうが、人と人の信頼の基本です。
緊張せずに、どんな時も落ち着いて笑顔で挨拶できれば、あとは絶対に大丈夫。
君の笑顔は、誰よりも素敵だから。
そして、はじめも終わりも自ら率先して挨拶をしたほうが、楽だし気持ちいいですよ。
だから、どんな時も自分自身の言葉で、まずこちらからちゃんと挨拶をする。
そしてお礼をする、感謝する、いつも心で話をする。
大事なことは、きっとそれだけです。
あとはピースに楽しく行きましょう!

まだ23歳じゃないか。
色々うまくいかなくて、当たり前。
世の中には、自分がどんなに正しいと思っても、納得いかない結果になってしまうこともあります。
僕が23歳のときには、納得いかない社会に抵抗して、家もなく車で長く暮らしてました。
エアコンや冷蔵庫を買ったのは、30歳を過ぎてからです。
君はこれから映画監督としてアカデミー賞を取るかもしれないし、世界一のデザイナーにもなれる。
誰になにを言われても、自分を信じて、信頼すべき人を信じて、いっぱい勉強して、ちゃんと挨拶して、いつも心で話し、
そしてどんなときも日々を楽しく生きましょう。

君が仕事に復帰すると聞き、僕は誰よりもうれしく思います。

愛する妻へ。

高城 剛
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by tomozumi0032 | 2010-05-10 17:18 | NOTE
4分33秒(4'33")は、ジョン・ケージが1952年に作曲した曲の通称。演奏される場合にはピアニストによることが多いため、ピアノ曲として取り上げられることが多い。正規の楽曲名と演奏形態については後述。

この曲は、音楽は音を鳴らすものという常識を覆す、「無音の」音楽である。楽譜には

I
TACET
II
TACET
III
TACET


第1楽章
休み
第2楽章
休み
第3楽章
休み

(右は訳である)のように書かれているだけである。

楽章を通して休止することを示すtacet(オーケストラにおいて、特定の楽器のパート譜に使用されるのが普通である)が全楽章にわたって指示されているので、演奏者は舞台に出場し、楽章の区切りを示すこと以外は楽器とともに何もせずに過ごし、一定の時間が経過したら退場する。

楽曲は、上記のように3つの楽章から成っている。それぞれの楽章の所要時間は、演奏者の自由である。その楽器でさえ、ピアノでもヴァイオリンでもサクソフォーンの重奏でもオーケストラでも何でもよい。その合計所要時間をこの曲の曲名とすることとなっている。初演は1952年8月、米国ニューヨーク州のウッドストックで、ピアニスト、デイヴィッド・チューダーによって行われた。このとき、チューダーは、第1楽章を33秒、第2楽章を2分40秒、第3楽章を1分20秒で演奏し、その合計時間4分33秒が、この曲の通称となっている。

「4分33秒=273秒」ということから、この作品を「絶対零度(-273℃)=無」と捉える意見があるが、ケージ自身が言ったことではない。

この曲は、いわゆる「無」を聴くものというよりも、演奏会場内外のさまざまな雑音、すなわち、鳥の声、木々の揺れる音、会場のざわめきなどを聴くものとされている。なお、チューダーによる初演後も稀にコンサートで「演奏」されることがある。数種類の(無音の)CDも存在する。

背景
この作品は、1950年代初頭に彼が創始した偶然性の音楽(不確定性の音楽)の最も極端な例である。ケージの偶然性の音楽には鈴木大拙の禅などの東洋思想の影響があり、「音を音自身として解放する」「結果をあるがままに受け入れる」という態度がある。

なお、次のような逸話も伝えられている。1940年代末のある日、ケージはハーバード大学の無響室を訪れた。ケージは「無音」を聴こうとして無響室に入ったが、彼が後に書いたものによれば、彼は『二つの音を聴いた。一つは高く、一つは低かった。エンジニアにそのことを話すと彼は、高いほうは神経系が働いている音で、低いほうは血液が流れている音だと語った。』ケージは無音を体験しようとして入った場所で、なお音を聴いたことに強い印象を受けた。『私が死ぬまで音があるだろう。それらの音は私の死後も続くだろう。だから音楽の将来を恐れる必要はない。』無音の不可能性をみたという認識が、後の「4分33秒」へ彼を導いた。

ケージは『作曲家の告白』(1948年)の中で、彼が次のような欲望を持っていると書いた。『絶え間ない沈黙の曲を書き、それをミューザック株式会社に売るのだ。その曲は4分半の長さ -- それがレコード音楽の標準の長さだからだ -- にして、曲名は「沈黙の奏者」にする。曲は、花の色や形や香りと同じくらい魅力的に作るつもりのアイデアとともに始まる。終わりは感知できないくらい徐々に近づくのだ。』ミューザックとは、アメリカで初めてBGMの販売を行った会社である。空間を音で満たしている会社に、無音の曲を売ろうということである。

この曲の別の影響源として、視覚芸術の分野の活動も言及されている。ケージの友人で同志でもあった画家のロバート・ラウシェンバーグは「白い絵」のシリーズを制作していた。これはただの何も描いていないキャンバスであるが、そのキャンバスが掛けられた部屋の照明の様々な状態によって、部屋の中の人物の影などでキャンバス表面の表情が変化するのである。これはケージに同じアイデアを使うことを思いつかせた。「無音」を「空白のキャンバス」として使い、毎回の「演奏」をとりまく環境音の流転をそこに反映させようとしたのである。

ケージは、この作品を気にいっている点として、演奏はいつでもできるのに、それは演奏されたときにしか生き始めないことをあげている。

先例
無音を音楽として見なす例は厳密には『4分33秒』が最初ではなく、他にいくつかの先例がある。これらはダダイズム運動が盛んになった1920年代に書かれている。

エルヴィン・シュールホフの「五つのピトレスケ」の第三曲は、全く意味をなさない顔文字と休符だけで全曲が構成された最初の音楽作品である。

同時期にアルフォンス・アレーの「耳の不自由なある偉人の葬儀のために作曲された葬送行進曲」という、いくつかの空白の小節のみが書かれた作品もある。

ただしこれらは楽譜を眺めることによってそこに込められた風刺的・ダダイスト的な意図を読み取ることが目的であり、実際に無音の空白を聞き取るというケージの意図とは必ずしも一致していない。
☆「WIKIPEDIA」より引用
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by tomozumi0032 | 2010-01-14 13:01 | NOTE
クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss, 1908年11月28日 - 2009年10月30日[1])はフランスの社会人類学者、思想家。コレージュ・ド・フランスの社会人類学講座を1984年まで担当し、アメリカ先住民の神話研究を中心に研究を行った。アカデミー・フランセーズ会員。

専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における構造主義の祖とされ、彼の影響を受けた人類学以外の一連の研究者たち、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセールらとともに、1960年代から1980年代にかけて、現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとり。

☆主な経歴
☆生い立ちから学生時代まで 1908-1929
1908年に両親が一時的に滞在していたベルギーのブリュッセルにて生まれる。両親ともアルザス出身のユダヤ人の家系であり、また両親はイトコ同士であった。父親の職業は画家であり、その交友関係は芸術を通じてのものが多く、幼少期から、芸術に親しみやすい環境で育った。

少年期には、ピカソやストラヴィンスキー、ワーグナーなどを同時代的に摂取しただけでなく、ジャポニスム期、印象派の時代からフランスへさかんに紹介されていた浮世絵を初めとする日本の文物にも触れており、日本の美術工芸への関心を持ち続けた。

両親の友人らを通じて、比較的早くからマルクス主義にふれ、高校から大学時代にかけて社会主義運動に参加し学生組織の書記長を務め、ベルギー社会党の協同組合運動をフランスに紹介するなどの活動を行い、社会党代議士ジョルジュ・モネの秘書として法案作成に携わるなど、政治活動を行っていた。パリ大学で法学の学士号を取得するかたわら、哲学を学び、アグレガシオン(哲学教授資格試験)に合格する。合格後の教育実習の同期生たち、モーリス・メルロー=ポンティ、シモーヌ・ド・ボーヴォワールなどがいた。

教授資格取得後、2つのリセ(フランスにおける中等教育機関、日本の高校相当)で哲学教師を経験する。資格取得試験のために中断していた政治活動を再開し、教師生活の傍ら赴任地の地方議会への立候補を企てるなどの活動を行うも、哲学教師としての生活にあきたらず、パリ大学での指導教授のひとりであった社会学者セレスタン・ブーグレから、新設のブラジル、サンパウロ大学の社会学教授としての赴任の打診を受けたことをきっかけに、当時興味をもち始めていた民族学のフィールドワークへの期待を抱いて[2]、社会学の教授としてブラジルへと渡る[3]。

☆ブラジルでの教師生活 1930-1939
大学教授として、1932年の護憲革命後の新たな社会の担い手を自認する新興ブルジョワ層の学生相手に社会学を講じ、妻ディナとともにサンパウロ州の郊外を中心に民族学のフィールドワークに取り組んだ[4]。

2年間の大学教授生活の間は、主に大学の休暇を利用して現地調査を行い、長期休暇の際には、パラグアイとの国境地帯に居住していたカデュヴェオ族や、ブラジル内陸のマトグロッソ地方に居住していたボロロ族のもとでの調査を行った。これらの調査結果は、フランスへの一時帰国の際に、マルセル・モースらの後援のもとで、パリの人類博物館などで発表された。その後、大学からの任期延長を断り1936年からほぼ一年間を、ブラジルの内陸部を横断する長期調査に費やす。この調査の途上で、ナムビクワラ族やトゥピ=カワイブ族など、アマゾン川の支流に暮らすいくつかの民族と接触している。

ブラジルへと渡るまでの経緯や、ブラジルでの現地調査などのさまざまな体験、さらに後述の亡命を経て第二次大戦後フランスに帰国する頃までの体験のいくつかが、著書『悲しき熱帯』(1955年)のなかで印象的に回想されている。

☆ニューヨークにおける亡命生活 1940-1949
ブラジルでの長期横断調査の後、第二次世界大戦前夜にフランスに帰国して応召、西部戦線に従軍する。フランスの敗戦により兵役解除となり、いったん南仏に避難するも、ナチスによるユダヤ人迫害が迫るのを逃れて、マルセイユから船でアメリカ合衆国へ亡命する。同じ船上には、シュルレアリスト詩人のアンドレ・ブルトンもいた。

亡命先のニューヨークでは、ブルトンを初め、当時ニューヨークに集っていたシュルレアリストたちと親しく交際[5]。彼らと連れ立って、アメリカ先住民の美術工芸品の収集を熱心に行っていた。社会人大学のニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチにて文化人類学を講じる。当時のニューヨークにはまたヨーロッパからのユダヤ系をはじめとする亡命知識人たちがおり、ニュースクールには彼らが教師として多数名を連ねていた[6]。

この大学において同じく合衆国へと亡命してきていた言語学者・民俗学者のロマン・ヤコブソンと知り合う。二人はお互いの講義を聴講しあい、レヴィ=ストロースは彼から、彼自身が主導してきた構造言語学の方法論、とりわけ音韻論(音素およびその二項対立的な組成、さらにゼロ音素の概念など)の発想を学び、ブラジルでのフィールドワークにおいて漠然とした着想を得ていた、親族構造論の骨格として活用することを思いつく[7]。

1945年の論文『言語学と人類学における構造分析』において、音韻論的な二項対立を活用して親族組織を分類するための基礎的な方法論がテストされた後、第二次大戦の終結後も合衆国にとどまり、およそ2年間の執筆期間をかけて、デュルケム学派の親族論の批判的継承やモースの贈与論の着想の活用をはじめ、従来の人類学・社会学の近親相姦および親族関係の主題を網羅したうえで、女性の交換を親族構造の根本的機能であることを提起した序論および第1部と理論部と、それに続いて、ニューヨーク公共図書館に通いつめての所蔵文献資料の検討の結果である、オーストラリアから北東・東南アジア・古代中国・インドの親族構造を題材にそうした交換様態の存在を例証した第2部・第3部からなる大著『親族の基本構造』を、博士論文として完成させた。

☆『親族の基本構造』の発表から社会人類学講座の創設 1950-1959
1948年頃に完成した『親族の基本構造』を携えて、フランスへと帰国する。1949年に『親族の基本構造』は論文審査を通過し、フランスにおいて公刊される。神話学者ジョルジュ・デュメジルの紹介により、高等研究実習院に職を得て、未開社会における宗教をめぐるセミネールを、この後、コレージュ・ド・フランスへの社会人類学講座創設にともなってのこのセミネールが発展的に解消されるまで担当する[8]。この間、マルセル・モースの著作集『社会学と人類学』の編集にたずさわり、「浮遊するシニフィアン」の概念などを提起しつつ、モースを彼自身の構造人類学の先駆者として再読する長大な序文を執筆するなど、自身の方法論である構造人類学をいわばフランス社会学派の相続者のひとつとして認知させる方向で研究をすすめていく。

1951年、1952年の2度にわたってコレージュ教授選へと立候補するも、学閥間の争いの結果として落選する。1958年の再々度の立候補までの間、みずからの方法論を冠した初めての論文集『構造人類学』(1958年)に所収される民族学・社会人類学関連の諸論文を執筆し研究活動を続けるかたわら、ユネスコの反人種主義キャンペーンのための小冊子『人種と歴史』(1952年)を執筆したほか[9])、メルロ=ポンティとサルトルが共同で編集していた論壇誌『タン・モデルヌ(現代)』誌でも「火あぶりにされるサンタクロース」をはじめとして幅広い論考を世に問うており、さらには 1955年の自叙伝的色彩をもった民族誌風の著作『悲しき熱帯』の刊行によりセンセーショナルな評価を獲得する。『基本構造』によって学会内部で著名であった彼の名前は、一気に世間に知れ渡ることになった。

3度目の立候補で、親友の哲学者であるメルロ=ポンティの尽力をはじめ[10])、デュメジルやバンヴェニストらの後押しもあって、1959年からコレージュ・ド・フランスの教授に選出される。この選出により彼が担当することになる講座は、新設の社会人類学講座であり、コレージュ・ド・フランスに人類学系の講座が設けられたのはこれが最初であった。

またこの社会人類学講座の創設と前後して、人類学のための学術雑誌『L'Homme(人間)』が、彼の呼びかけのもと、言語学者バンヴェニストや先史学者ルロワ=グーラン、さらに地理学者のピエール・グルーらを編集同人に加えて発刊される。それまではフランスに存在しなかった、大英帝国の『王立人類学協会雑誌』、『マン』誌、アメリカ合衆国人類学会の学会誌『アメリカン・アンスロポロジスト』のような人類学専門誌の創刊により、前述の社会人類学講座と合わせて、フランスにおける人類学研究の拠点のひとつの軸が形成され、彼も自身の研究を勧めるとともに、この研究グループに指導的立場として関わっていくことになる。

☆『今日のトーテミスム』および『野生の思考』から『神話論理』へ 1960-1969
コレージュ教授への就任と前後して、レヴィ=ストロースの研究活動の中心は、拠点としてはコレージュにおける毎年度の講義に、主題としては高等研究実習院のセミネール担当以来取り組んできた、未開社会の宗教研究とりわけ未開社会の神話の研究へと移った。パリの人類博物館や高等研究実習院の人類学関連部門と連携しつつセミネールを運営しながら研究活動を行っていった。これ以降、1984年のコレージュ退職までに刊行された著作はすべて(および、 1969年度講義をもとにして1992年に刊行された『大山猫の物語』)、まず講義において着想が練られ、聴講者との議論を経たのちに、著作として刊行されたものである。

1962年には、前年度の講義「今日のトーテミスムおよび野生の思考」を下敷きにして、トーテミズムという人類学上の概念を批判的に検討し、従来の用法を徹底的に解体しつくした『今日のトーテミスム』、ならびに、その解体作業を踏まえて未開的分類論がもつある種の合理性を説得的に取り出し、『人種と歴史』において挑発的に提出した「冷たい社会」と「熱い社会」という理念的対比を念頭において、冷たい社会における社会像の産出とその秩序維持のメカニズムを現代社会にも残存する諸要素と通底させるかたちで例証してみせた『野生の思考』が発表された。

☆思想的特色
彼の人類学におけるデータ分析の方法論において中心をなすのは、言語学とりわけ、ソシュールからヤコブソンへといたる構造言語学における音韻論および、フランス社会学年報派、とりわけデュルケムの流れを汲む社会学者マルセル・モースの社会学=人類学思想の2つであるといえる。

ただし、さまざまな著作の随所でそのつど述べられているように、さらには青年期に親しんだマルクス主義や、地質学への興味に見られる博物学的関心(こうした性向から、ときにゲーテの自然学への親近感を表明することもある)に加えて、芸術家の出入りが多い環境で育ったこともあり、音楽におけるワーグナーやストラビンスキー、絵画におけるシュルレアリズムやキュビズムなど、同時代のアヴァンギャルド芸術思潮からの影響も多分に受けており、こうした多方面的な知識が、彼の著作を単なる人類学における論文や著書とは一線を画したものにしているといってよい。

☆親族構造の分析-『親族の基本構造』から『親族の複合構造』へ
未開社会の婚姻規則の体系、無文字社会を贈与の問題や、記号学的立場から分析した。オーストラリア先住民(アボリジニ)と東南アジア・古代中国・インド・北東アジアの婚姻規則の体系を構造言語学のインスピレーションをもとにして統一的観点からの分析し、博士論文となった1949年の『親族の基本構造』において自らの基本的立場を明らかにした。 この分析に群論を使って数学的見地から裏づけを与えたのは、ブルバキグループの一員であったアンドレ・ヴェイユ(シモーヌ・ヴェイユの兄)である。

☆「未開社会」観の変革
レヴィ=ストロースは『野生の思考(パンセ・ソバージュ)』(1962年)などにおいて、従来の「野蛮(混沌)」から洗練された秩序が形作られたとする西洋中心主義に対し、混沌の象徴と結びつけられた「未開社会」においても一定の秩序・構造が見いだせると主張しオリエンタリズム的見方に一石を投じた。これは後のポストコロニアリズムで特に高く評価されている。なお『パンセ・ソバージュLa pensée sauvage』の題はパスカルの『パンセ』を元にしたといわれ「野生の三色すみれ」の意味もある。

☆関わった論争
☆『弁証法的理性批判』をめぐって-サルトルとの論争
1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」においてレヴィ=ストロースは、サルトルの実存主義を強烈に批判した。このことから、実存主義に対立し、それを乗り越えるものとしての構造主義という思潮が、ときには過剰なまでにもてはやされる契機となった。本人はその後も、センセーショナルな流行からはつねに距離をとり、10年もの歳月をかけて、ライフワークとなった4巻に及ぶ『神話論理』(『生のものと火にかけたもの』、『蜜から灰へ』、『テーブルマナーの起源』、『裸の人』)を完成させ、神話研究において不滅の業績を残した。

彼の問題意識はサルトルの実存主義という主体偏重を批判し、西洋社会における、西洋中心主義に対する批判的意識から出発している。前者に対しては、主体ではなく、主体間の構造こそが重要だと主張し(主体が使う言語は共同体社会によって生み出された構造主義的なものなので、絶対的な主体ではありえない)、後者に対しては、どのような民族においてもその民族独自の構造を持つもので、西洋側の構造でその他の構造に対して優劣をつけることなど無意味だと主張した。

☆デリダによる批判
橋爪大三郎の分析によると、

* ジャック・デリダは従来のパロール(話し言葉)中心の言語分析(ロゴス中心主義、音声中心主義と称される)に反対し、エクリチュール(文字)を重視せよと主張していた。
* そのデリダから見ると、レヴィ=ストロースは音韻論を人類学に持ち込み、なおかつ社会が出来てから文字が出来るという後成説を採っているので、デリダの批判するロゴス中心主義者と写る。

そのためデリダはレヴィ=ストロースを批判したとされる。

しかし同じく橋爪大三郎の指摘によれば、レヴィ=ストロースの主張とデリダの批判の間には噛み合っていない部分が多く、またレヴィ=ストロースの専門(人類学)とデリダの専門(言語分析)は必ずしも矛盾しないとされ、すなわちデリダによる批判という見解にはやや的外れな点があるとされる。

☆リーチによる批判
英国の社会人類学者エドマンド=リーチは、レヴィ=ストロースの親族研究を多岐に渡って批判している。しかし小田亮の分析によると、これはリーチ自身、「基本構造」という語が、交叉イトコ婚による婚姻体系ではインセスト・タブーと外婚制が裏表となっているという意味で「基本」構造と呼ばれていることを理解していないためであり、また経済的に何の利益もない「交換のための交換」が社会生成に関係するということを捉え損なっているためであるという。

☆エピソード
* レヴィ=ストロース(Lévi-Strauss)が姓である。リーバイスの創業者リーヴァイ・ストラウス(Strauss が姓)と似ているので、両者は遠縁関係であると一部に誤解されている。この点に関しては、合衆国に出張した際、カリフォルニアのレストランで名前を告げると「pants or books?(ズボン、それとも本?)」と尋ねられたという逸話を本人が語っている。
* 1955年に『悲しき熱帯』を刊行し、センセーショナルに受容された際、ゴンクール賞を選定するアカデミー・ゴンクールから、小説でないために『悲しき熱帯』を受賞作にできないのは非常に残念だという旨のコミュニケが発表された。また、アカデミー・フランセーズ選出者は賞を返上するという慣行があるらしく、かりにレヴィ=ストロースが受賞していた場合、この慣行が行われていた可能性がある。
* 1973年、エラスムス賞受賞
* 1993年4月、ETV特集で2回に分けロングインタビューが放映。ビデオは白水社で出された。絶版
* 2008年11月28日に100歳の誕生日を迎え、フランスでは記念行事が行われるとともに、政府からフランスで活動する人文社会科学者を対象とする「レヴィ=ストロース賞」の創設が発表された。

☆研究機関などでレヴィ=ストロースの指導を受けた研究者たち
* ピエール・クラストル
* フランソワーズ・エリティエ=オジェ
* フィリップ・デスコーラ
* モーリス・ゴドリエ
* ピエール・ブルデュー
* ミシェル・ペラン
* 川田順造
* 吉田禎吾
* 夏刈康男

☆主要著作
他の「構造主義者」と異なり、レヴィ・ストロースの文章は明晰であると評価されている。難解な言い回しを用いず、また彼の構造主義という発想の基点の一つである数学的知識に関しても誤った理解をすることなく受け入れたことで、後にフランス現代思想界を揺るがすアラン・ソーカルによる一連の批判(ソーカル事件)の対象外に置かれることとなった。
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by tomozumi0032 | 2009-11-07 18:07 | NOTE
リチャード・ミルハウス・ニクソン(Richard Milhous Nixon, 1913年1月9日 - 1994年4月22日)は、アメリカ合衆国の第37代大統領。

対外的にはベトナム戦争の終結や中華人民共和国との国交成立など平和主義に尽力したが、ウォーターゲート事件により第二次世界大戦後の大統領で最低の支持率を記録し、任期中に辞任した唯一のアメリカ大統領となる。

☆第37代合衆国大統領(1969-1974)
リチャード・ニクソンは1968年の大統領選挙に共和党から出馬。リンドン・B・ジョンソン政権の副大統領であった民主党の大統領候補、ヒューバート・H・ハンフリーを僅差で破り、第37代合衆国大統領に就任する。

当時はベトナム反戦運動が過激化しており、過激な運動を嫌う保守層がニクソンの掲げた「秩序の回復」のキャッチフレーズを支持した上、ケネディ政権によって始まり泥沼化していたベトナム戦争からの早期撤退を公約したことで、反戦的なリベラル層からの支持も獲得した。

就任後は、冷戦下で対立関係にあった東側諸国に対して硬直的な態度を取り続ける国務省を遠ざけ、官僚排除、現実主義・秘密主義外交を主とするホワイトハウス主導の融和外交を展開し、国家安全保障担当大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーとともに、これまでの封じ込め政策に代えて、融和的なデタント政策を推進する。

これらの外交における功績のみならず、下記のような様々な内政における功績も高い評価を受け、1973年には地滑り的な大勝利を挙げて再選される。

ウォーターゲート事件の責任を取り辞任したこともあり、辞任後から1980年代頃まではその功績が過小評価された傾向にあるものの、ベトナム戦争における南ベトナムからのアメリカ軍の完全撤退や、当時ソ連と対立していた中国共産党率いる中華人民共和国の承認など、主に外交面で行った施策がその後高い評価を受けている。内政的にもアメリカ環境保護局(EPA)の設置やアメリカ全土の最高速度制限の設定など、主に環境対策面で大きな功績を残していることもあり、近年はその功績が見直されてきている。

またジョンソンやケネディなどと同様、ニクソンの支持基盤の1つが軍産複合体であり、特に地元の南カリフォルニアに工場を所有していたヒューズ・エアクラフトやマクドネル・ダグラス、ロッキードなどと関係が深かったといわれている。また経済界では自らが顧問弁護士を務めていたペプシや、カリフォリニアに油田を多く持っていた石油業界、地元で大規模遊園地の「ディズニーランド」を経営していたウォルト・ディズニーなどと特に密接な関係を保っていた。

☆大統領任期中の主な施策
最後には辞任という不名誉な形で自ら政権の幕を下ろしたものの、2期に渡り大統領職を務めた中で、ベトナム戦争の終結や、その他の実績を残したことは評価されるべきであるという意見は多い。

☆繊維業者の多い南部の支持を取り付けるために、繊維製品の輸入制限を公約に掲げていた。1970年から「日米繊維交渉」が取り持たれ、1972年1月に政府間で規制することで交渉妥結した。

☆ドルと金との交換停止(ニクソン・ショック)。

☆1972年1月5日に、スペースシャトル計画を命じた。ニクソンの名前は月の表面に置かれた特別の飾り額の上で前国連事務総長、ウ・タントの名前に並んでいる。

☆1972年2月21日、アメリカの大統領としては初めて中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国を訪問、事実上承認した(これに伴い同国と対立している中華民国との国交断絶を伴った為批判も多い)。

☆1972年の大統領選挙ではジョージ・マクガヴァンを破り、かつ一般投票の60%以上を得て、アメリカ政治史で最も大きな地滑り的大勝の1つで再選された。全米50州のうちマサチューセッツ州でのみ敗れた(州ではないコロンビア特別区でも敗れた)。

☆1973年1月23日のパリ協定調印とベトナムからのアメリカ軍撤退によるベトナム戦争終結。

☆ 1973年の麻薬取締局 (DEA) の設置。

☆1973年のアメリカ環境保護局 (EPA) の設置。

☆1974年2月に、第一次オイルショックによるOPEC諸国の石油禁輸の影響から、ガソリン節約を目的とした自動車の最高速度を55mphに制限する法案に署名した。

☆なお、1969年には日本の佐藤栄作首相と会談、安保延長・在沖縄アメリカ軍の駐留維持と引き換えに沖縄返還に同意している。


☆ベトナム(インドシナ)戦争の終結
ニクソンは、フランスに代わってアイゼンハワー時代の軍事援助から始まり、ケネディ大統領により本格的に軍事介入が開始され、その後ジョンソン大統領によって拡大・泥沼化され、10年以上続いていたものの国民からの支持、支援も失っていたベトナム戦争を終了し「栄誉ある平和」を実現することを約束し、併せて当時アメリカの若者を中心に増加してきた「ヒッピー」文化の信奉者やベトナム反戦論者、そして保守主義者らなどの強い主張を持つ少数派を嫌っていたアメリカ人の大多数を占める「サイレント・マジョリティ」に向かって自らのベトナム政策を主張し、一定の支持を受けることに成功した。

大統領に就任したニクソンは、1969年7月30日に南ベトナムへ予定外の訪問をし、グエン・バン・チュー大統領およびアメリカ軍司令官と会談を行った。その5日前、1969年7月25日には「ニクソン・ドクトリン」を発表し、同時にベトナム戦争の縮小と終結にむけて北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始した。しかしその後の1970年4月にアメリカ軍はカンボジアへ侵攻、翌1971年2月にはラオス侵攻を行い、ベトナム戦争はさらに拡大してしまう[6]。

しかしその後も継続してベトナム戦争終結を模索したニクソンは、ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に北ベトナム政府との秘密和平交渉を継続させ、南ベトナム政府内の強硬派と、戦線の拡大と縮小を巧みにコントロールしながら、秘密交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日に北ベトナムのレ・ドク・ト特別顧問の間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。しかしながら、秘密和平交渉に時間がかかり、結果的に「ニクソン・ドクトリン」の発表後も4年以上に亘って戦争を継続する結果となったことは批判を受けた。

そして4日後の1月27日に、ウィリアム・P・ロジャーズ国務長官とチャン・バン・ラム南ベトナム外相、グエン・ズイ・チン北ベトナム外相とグエン・チ・ビン南ベトナム共和国臨時革命政府外相の4者の間で「パリ協定」が交わされ、その直後に協定に基づきアメリカ軍はベトナムからの撤退を開始し、1973年3月29日には撤退が完了。ここに、13年に渡り続いてきたベトナム戦争へのアメリカの軍事介入は幕を閉じた。

☆評価
ウォーターゲート事件の後遺症もあり完全な名誉回復はついになされなかったが、デタントの推進や冷戦崩壊への貢献など、外交面で大きな成果を上げたことで偉大な功績を残した歴代大統領の1人との評価を受けている。しかしウォーターゲート事件では自ら主導的に遂行するなど、闇の部分をも持ち合わせた大統領であったとの評価も受けている。

                                 ☆wikipediaより
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by tomozumi0032 | 2009-09-27 19:02 | NOTE
「レイブ(英語: Rave)とは、ダンス音楽を一晩中流す大規模な音楽イベントやパーティーのことである。毎週決まった場所で行われるクラブイベントなどとはことなり、屋外や特別な会場で行われる、一回限り(もしくは年一回など)のイベントであり、また規模も通常のクラブより大きい事が殆どである。レイブの語源は、ロンドンのジャマイカ系移民の俗語でパーティーを意味している」

☆目次
1 歴史
2 レイブの音楽
3 レイブのファッション
4 レイブの種類
4.1 フリー・パーティー
4.2 ダンス・フェスティバル
4.3 商業レイブ
5 麻薬汚染

1、歴史
現在見られるようなレイブが生まれたのは1980年代後半の英国である。それまで若年層の夜間の娯楽は屋内を舞台とすることが多かったが、アシッドハウスとテクノという当時最新の音楽の流入と、エクスタシーなどの多幸系ドラッグの流行により大きくその志向が変化した。レイブの原型は、当時の若者たちが、それまでのナイトクラブやディスコになかったまったく新しいパーティー経験と音楽を求めて、ウェアハウス(倉庫)や郊外の廃屋や農場などを利用してフリー(無料)・パーティーを自らの手で開いたものである。

こうした「レイブ」の開催や集客は既存メディアや音楽業界に頼らず、もっぱら口コミだけで行われたが、やがて毎週末、辺鄙な場所にあるレイブ会場にレイバーと呼ばれる参加者たちが集まるようになってくる。レイブは、それまでなかった音楽性やそのフリー・パーティーの享楽性と連帯感などにより多くの若者をひきつけ、巨大なムーブメントへと爆発的に成長した。この動きはしばらく遅れて世界各国に波及する。

しかし、その大きな要素の一つであったドラッグの広範囲な使用や、社会不安の原因となるといった観点から政府や警察はレイブを危険視し、強力に取り締まることとなる。また、レイブが巨大化し参加者が増えるにつれ、商業目的として多額の参加料をとるレイブが出現し、巨額の利益を上げるようになっていく。やがてブームの沈静化とレイブを取り締まる法律の施行などに伴い、従来のような巨大な野外での違法レイブはその数を減らし、かわって警察の認可の元に巨大な会場で有名なDJやダンス系のバンドを集めて行われる合法的なレイブが主体となっていった。また、非商業・音楽志向のレイブのDJやクラバーはその活動場所をクラブへと移していくこととなる。

しかしながら、規模は小さくなったもののアンダーグラウンドのフリーパーティーやウェアハウスパーティーも未だに世界各国で開催され続けており、クラブ音楽の重要な側面として存在している。また、90年代終わりからのトランス音楽の流行に伴い、再び一部の地域でレイブが盛んになってきている。また、ドイツのベルリンのように、市当局が観光振興の為に多くのスポンサーの協力をえて商業的ながらも無料の巨大なレイブ、ラブパレードを開催しているような例もある。こうした体制に取り込まれる動きや商業目的のレイブには、かつての非商業的でDIY精神に溢れていたアナーキーなレイブを知る人間からは批判も多い。

現在において、レイブ・パーティーの定義はその国や人によって多様である。いわゆる違法のフリーパーティーやウェアハウス・パーティーのみをレイブと呼ぶ人間もいれば、WIREのような大規模なコンサート形式のものもレイブと呼ぶ人間もいる。

2、レイブの音楽
初期のレイブの音楽は、アシッドハウスと呼ばれる音楽や、シカゴ・ハウス、テクノなどが主であった。当初はアメリカのそれまで知られていなかったこうした音楽(「テクノ」はレイブでヒットしていたデトロイトの新しい音楽を英国のメディアが命名した音楽ジャンルである)を輸入してDJ達がプレイしていたが、やがて英国や欧州からもその影響の下にオリジナルな音楽を作成するアーティストが多数現れた。代表的なものとしてレイブ・アンセムとなったシングル「チャーリー」などで知られるプロディジー、「GO」のモービーなどがいる(その後レイブ・ブームが去った後、この両者ともその音楽スタイルを完全に変えて世界的な大スターとなる)。

近年では大規模なレイブでは音楽のジャンルとしてはトランスやハードハウス、ガバなどが主流ではあるが、欧州を中心にハウスやテクノをメインとしたレイブも存在している。

3、レイブのファッション
イギリスでの当初のレイブでは、それまでのドレスアップして赴くナイトクラブやディスコと異なり、ドレスダウンしたカジュアルな服装が中心となった。このドレスダウンの流れは現在のテクノやハウスのクラブのファッションにも引き継がれている。またそれ同時に、ガスマスクや白衣などの奇異なファッションが流行した。近年のトランス系のレイブでは、グロースティックと呼ばれる蛍光アイテムなどが特徴としてしばしば見られる。

4、レイブの種類
4-1 フリー・パーティー

もっとも原型のレイブに近いもので、その多くはいわゆるイリーガル(違法)・パーティーと呼ばれるものである。人里離れた場所などでDJやサウンド・システムを設置してゲリラ的に行われるもので、口コミやチラシやインターネットなどによって集客を行う。屋内で行われる場合、ウェアハウス・パーティーなどとも呼ばれる。音楽の種類はその国により様々であるが、日本においてはトランス音楽などが主流である。無料であるか、もしくは必要経費だけを参加者からカンパの形で募るものである。何をもってこうしたパーティーを違法とするかの根拠は各国によって異なるが、当局によって摘発・中止を命じられることはしばしばあり、このために開催当日までは開催場所を伏せておくなどの手法が用いられることもある。また、当局に申請する際のイベントの目的を「集会」などとすることによって、都市の公園などで合法的に小規模なフリーパーティーなどが開かれることもあるが、こうした形式のものはレイブとは呼ばれないことが多い。

4-2 ダンス・フェスティバル
田舎や郊外の野外などで合法的に行われる商業的で大規模なダンス音楽を中心としたフェスティバル。国や人によってはこれをレイブの範疇に入れないところもある。海外で有名なものとしてはバーニングマン、Dance Valley Festival、Creamfields、Homelandsが、日本においてはメタモルフォーゼ、渚音楽祭などがある。警察や開催地当局の許可の下にプロのプロモーターの会社が開催するものが殆どである。入場料は高額であるが、有名なDJやバンドが多数プレイする事が多い。また、合法的に行われており、多数の警察・セキュリティも会場内にいる。多くの場合、数日間にわたって開催されるものが多く、参加者はキャンプをして過ごすこととなる。従来から英国などで盛んであったグラストンベリー・フェスティバルなどのロックを中心とした野外フェスティバルの流れと一体化したものとも言える。また、ロックを中心とした野外フェスティバルでも会場の一部をこうしたダンス音楽中心のものとするケースが多い。

4-3 商業レイブ
上記のレイブ・フェスティバルと類似しているが、都市内の大会場で有名なスターDJを集めて一晩限りで行われるもの。その為に参加が容易であり、多くの人間をひきつける。英国やドイツなどの欧州で盛ん。日本では、WIRE、METAMORPHOSE、SOLSTICE MUSIC FESTIVAL、S.O.S festival、The Gathering、エレクトラグライド、RAINBOW2000、アルカディアなどが有名。

5 麻薬汚染
最近ではレイブパーティーで薬物汚染が深刻になっており社会問題化している。2008年、群馬県で催された複数のレイブパーティーで大麻所持で多くの逮捕者を出した。また2008年6月に行われた同じレイブパーティの参加者の1人がパーティー翌日に会場近くで倒れ、その2日後に死亡したが、体内から薬物が検出されたという[1]。また2009年2月には山梨県の鳴沢村で行われたレイブの参加者6人が、麻薬所持容疑で逮捕されている。

                              ☆WIKIPEDIAより引用
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by tomozumi0032 | 2009-09-01 17:42 | NOTE
☆マイケル・ジャクソン麻酔薬ディプリバン過剰摂取
6月25日に急逝したマイケル・ジャクソンの死因が強力な麻酔薬ディプリバン(一般名:プロポフォル)の過剰摂取であったことがわかった。体内からは致死量を超えるプロポフォルが検出されたという。検死官はこれをもって「殺人」と結論付けた。

容疑者はマイケルの専属医師、コンラッド・マーレイだ。
マーレイ医師は睡眠薬を「ミルク」と呼んで常用するマイケルを薬物中毒者として扱っていた節があるという。普段から不眠に苦しみ、強い睡眠導入剤の投与を希望していたマイケル。マーレイ医師はそんなマイケルを心配し、「出来るだけプロポフォルではなく、もっと弱い薬で眠らせるよう心を砕いていた」と供述している。しかし、死の当日は他のあらゆる薬を試したもののマイケルは眠ることができず、とうとうプロポフォルを投与してしまった、という。

2009/08/25
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by tomozumi0032 | 2009-09-01 17:41 | NOTE
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