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☆はじめに
◆このブログはさまざまな評論や日記などをのせています。
評論は多岐にわたり、哲学から文学、映画にいたるまでさまざまですが、評論しながらも、どこかで解釈したくないという矛盾に悩まされています。ネットにはびこる解釈と陳腐化はいつもその対象をとりあやまっている、把握しあやまっているようにしか思われません。

◆基本的な姿勢はスーザンソンタグ「反解釈」からの以下の引用にゆだねたいと思います。わたくし個人が語るよりもずっと上手に自分の思いを説明してくれているからです。

「現代はまさしくそういう時代、解釈のこころみが反動的、抑圧的に作用する時代である。都市の大気を汚染する自動車の排気ガスや重工業の煤煙と同様、芸術にたいする解釈の横行がわたしたちの感受性を毒している。

 「肉体的活力と感覚的能力の犠牲において、知性が過大に肥大する」―という典型的な矛盾にすでに犯されているのがわたしたちの文化であるが、これに輪をかけるようにして、芸術にたいして知性が恨みを果たそうという試みが、すなわち解釈なのだ。

 そればかりではない解釈とは世界に対する知性の復讐である。解釈するとは対象を貧困化させること、世界を萎縮させることである。そしてその目的は、さまざまな「意味」によってなりたつ影の世界を打ち立てることだ。世界そのものを「この」世界に変えてしまうことだ。

 世界そのもの、われわれの世界がすでに十分すぎるくらい萎縮して、貧困化しているのだ。それをさらに複製したものなどを、わたしたちは遠ざけねばならない。そして再びわたしたちのもっているものを「直接的に経験」するようにならなければならないのだ」

                  
「解釈による世界の貧困化」は、いまや眼をおおわんばかりに世界にひろがっていますが、どうもあんまり深刻には受け止められていないようです。それがとても腹立たしい!そうではないにもかかわらず、そうだとする言葉の増殖には哀しく貧しい思いしかありません。

人や表現を解釈したり、裁いたりすることは、せいぜい「道徳」や「自分」や「歴史」の下位的な補強―「モラル」や「わたし」、「これまであったこと」の陳腐な補強、でしかないとボクは考えています。

解釈も裁いたりもせずに、愛すること。
そしてその愛を言葉にかえること。
にもかかわらず、感情をしりぞけ、自我をしりぞけ、無私と無感になること。
囚われないこと。逃げること。信じないこと。

そして、それらを厳しく鍛え上げ、洗練させること。

そんなことをこういった「言説空間統治の目標」としています☆

さいごにプルーストから引用をひとつ。

「精神の種類の差異をまったく認めないような無知の徒は上下貴賎を通じて別問題であるが、人々をたがいに近づけるものは、「意見の共通性」ではなくて、「精神の血縁」である」「失われた時をもとめて」より
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◆尚、各記事は推敲中でもUPします。
◆写真は蜷川実花のものです。
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by tomozumi0032 | 2006-01-10 04:25 | はじめに
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