カテゴリ:ドゥルーズ=ガタリ( 7 )

今日はドゥルーズ=ガタリの「Mille Plateaux」の簡単なまとめをしてみます☆
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(^ο^)「―で何が面白くて、どういうところに興味をもったんでしょうか?」

C☆「いっちばん最初はテクノのレーベルで、ベルギーだったかな、ドイツだったかな、おぼえてないんだけど、「ミルプラトー」っていうのがあって、それが記憶にあったし、それから浅田彰の「逃走論」なんか読んでたし、「アンチオイディプス」も面白かったし、で ま どんなもんかなぁっていう軽い気持ちで(笑)―で、すごい本だ!強烈!と思ったわけです。すっご~い!こんなこという人いないじゃん、なんてすごいんだろ!とか思ってくらくらしちゃって(笑)ぼくバカだから、もう 目眩まされちゃって―たいへん(笑)」

(^ο^)「あ そ、それは、それは。ごちそうさま。―で、ミルプラトーって何?どんな感じなの、どこが面白かったってか?」

C☆「ミルプラトーっていうのは、直訳すれば千の高原という意味。つまり単純にいえば「高い原」っていうことだろうね(笑)複雑にいえば、どんな外部的な結末によっても中断されず、どんな頂点にも向かわないような「連続強度の地帯」のこと。バリ島の文化なんかにはこういった文化の攻撃的プロセスが見出されるんだって。トランスミュージックなんかで踊り狂ったりしたときに得られる肉体位相と近いように思うんだけど―ま、で、どこが面白かったっていえばあれ、あの―人間中心主義じゃなくって、これまでの古い形での機械=人間=自然の対立的な関係っていうのを、思想として覆すっていうか―生物学的にもいわれてんだろうけど、ここまでドでか~い総合っていうのはなかったし―つまり、マクロの意味では機械と人間と自然を対立的なものとして考えられないっていう認識ですね」

(^ο^)「はぁ なるへそ。んでも、んでも もうちょっと続けて」

C☆「はいはい、では、最初におさえとかなきゃ文脈が分りづらいので、学術サイドからおさえてみれば、この本というのは、主体を複数形のものとするという意味でサルトル哲学の継承、言語学的にはチョムスキーの樹状モデル批判、それからアンチオイディプスに引き続いてかなり過激なフロイト批判、そして構造主義者であるレヴィ ストロースへの直裁批判、ダーゥインの進化論の継承、クラウヴィッツの戦争論の肯定的批判(?)、スピノザの擁護、であって、つまりB級・パルプ的っていっちゃなんだけどさ、主流ではないものの擁護による文化総体と人間経験総体のひっくり返しを狙った極めて野心的な書物であるとはいえるんじゃないかな・・・それから文学的にはビートニックなボヘミアン文学の圧倒的加速と敷衍、抽象レベルへの置き換えと進化と深化、そして音楽における実験文脈の擁護―モーッアルト、ブレーズやケージの擁護、それから国家装置と遊牧民の学問というものを対称させることによって、新しい価値の敷衍という役割をもっており、つまり現代社会諸問題に対する射程の広い百科全書的な原理の抽出だと思いました」

(^ο^)「・・・っつ~か あんま答えになってないんだけど、ぼくががいってんのはさぁ なにが面白いのかっていうこと―前置きはいいんで、「なにが」に答えろよ!そうしないと内臓レバーにして、くっちゃうぞ☆」

C☆「あ・・・はい、えっとこれだけはいっておきたいんだけど、まず読んで逃走論ってこれを小さくまとめたんだなぁって、思いました!」

(^ο^)「は!? そ。なんでなんで?」

C☆「う~ん べっつにぼくは学者でもないし―あ―いやもちろん・・・浅田は尊敬してるしドゥルーズ自体に触れるきっかけを与えてくれたってことで教えていただいたことは多々あるんだけど・・・じゃ簡単に浅田の批判。えっと・・・まず―逃走論の扉絵に描かれていた三角形―あれはね~やっぱ手書きじゃないと駄目だと思うんだけど(笑)…っていうのは、やっぱドゥルーズのよさはあの挿絵に代表されるアナログ感覚だよね。あれをテクノな浅田が解釈しちゃうと、なんだか変なんだよね。これは全体にも敷衍していえることであって、同時に松岡正剛にも言えることだと思うんだけどさ、彼らってつまりいいとこどりだけして、いいトコ繋ぎ合わせて悪いところをとらない傾向があるよね。だから逃走論にしても、松岡の本にしても、危機が語られずにいいところばかりが語られるっていうのは、どうなんですか?教養ありゃあいいってもんでもないだろ、って思っちゃうんだけど。だから今からでも遅くないけど、あれ三角形の手書きにしないと駄目だよね―それから浅田はそうはいってもハイカルチャーの側に対して強い確執をもっていて、その意味で違う。たぶん彼はさ~、バロウズ、ピンチョンって名前だけだしてるわりにはどうにも関心をもっているところがちがうような気がしてしまうんだけど。「逃走論」を見ていても、「ヘルメスの音楽」にしても、前時代的学者のエスプリに裏打ちされたものだよね」

(^ο^)「けっこうなまいきにいうわね~、えらそ~にさぁ、まぁ ぼく的には多様な解釈が成立するし、それはそれでいいとおもうんだけど、きみはふるいっていいたいわけよね?」

C☆「カンペキね。古いよ、あれ、なんであんなにハイカルチャーに固執するのか、よく分か~んない!―だから極めて80年代的な時代環境の中で成立した感じは否めないし、綺麗なところだけ取りすぎだよね」

(^ο^)「でも―現代においては、そういった新しい古いといった直線構造的な時間軸そのものが否定されていて、スーパーフラットな平滑空間化しているっていうところもあるでしょ?古いとはいえなくて、むしろ棲み分けっていうか、テリトリー(領土)を作らせて、そのテリトリー(領土)に作家を捕獲して、構造化させているんでしょ。だからそういった棲み分けから見れば、その固執ってやつも説明されると思うんだけど―彼の領土であって、その領土で上手くできるところをうまくやるってきわめて温情的かつ良識的な処置じゃない」

C☆「あ~ うん でも逆にいえば、そのテリトリーに安住してていいのかってのが、問題じゃない?テリトリー化した領域で権力を振るうなんて、最低だと思うんだけど―まぁ でもたしかにそういってると社会生活営めないことは分るけど、さ―」

(^ο^)「きみの意見ってのは作家的なのよね、浅田せんせは学者なんで、どうしても立場があるし―」

C☆「立場をなくすこと、つまりドゥルーズのいう「知覚しえぬものになること」というのはたしかになかなかどうしてむずかしいよね…そういった意味で非常に捕獲しがたいような言説をドゥルーズは孕んでいて、捕獲できないゆえに、いわゆる国家装置的な言説から逸脱する部分がたぶんにあって、それってつまり21世紀的だと思うし、蓮実にも通じるB級感覚だと思うんだけど―つまり国家装置に準拠する形で権威付けられてきたヘーゲルを頂点とするような静物的学術体系に対するもう一つの、オルタナティブなものとして機能するようなものとしての動的学術体系、で―ここでは今までよいとされてきたものが、攻撃されて、それほど評価されていなかったものが評価されている。例えば、ゲーテに対するクライストとか、ヘミングウェイではなくて、フィッツェジェラルド―つまり、いい子ちゃんじゃないもの、脱落者ね、で―こういったものの拾い上げをやっているんだけど、ぼくの見解ではこれぞ確かに現代あるいは未来だ、と思って唸らされるところが多々あるんだよね」

(^ο^)「ってのは、つまり―」

C☆「つまり―ロックだよ!!ロッケンロール哲学!たとえば彼って動物を観察し、体系をつくれ、とはいわない。じゃなんていうかといえば、「動物になれ」「女性になれ」「此性となれ」っていうわけ。生成変化せよって。動物になって、女性になって、此性となるんだよ。それで知覚し得ないものになれっていうの。面白いよね。ぼくの解釈では彼の言葉っていうのは一見抽象レベルへ投げられていて、現代を迂回しているように見えて、実は極めて現代諸問題の深いところを捉えている。たとえば―「存立平面」っていう概念はコンピューターのスーパーフラットな平面が視野に入るだろうし、「器官なき身体」は身体としての原型の呈示という意味で進化論や生物学や遺伝工学のエッセンス、生体臓器売買までが、あるいは「国家装置」と「遊牧民の戦争機械」をめぐる「条理」と「平滑」のふたつの空間呈示は、現代の犯罪学(おれおれ詐欺から少年の殺害の問題まで)が視野に入るよね。つまりこの本の中には現代をより深い射程からより概念的に説明しうる論理格子がめぐらされているといえるんじゃないかな。つけくわえば、宮台真司が理解できないと嘆いている若者の心的経済の構図は、ドゥルーズを読めばだいたい理解できることだと思うけど。しかもオイディプスに較べると読みやすいし…」

(^ο^)「読めってことか…」

C☆「読書っていうのは訓練だからね。脳の筋肉を鍛えるための―読むっていうのは、脳の筋肉の腕立て伏せってことでしょ(笑)色々な角度から、色々な世界があるということを受け入れること、そしてそれをなんとか自分の脳の中で咀嚼して、せいぜい自分なりの問いと答えを探究してみることが大切じゃないかと思います…それにしてもこの本はあてられちゃう(笑)超強力なリキッドのLSDを舐めたみたいな、も よれよれになっちゃうんだけど…かなり やばい!あたま ぶっこわされる!うわ~☆ 今までの自分・ファック…みたいな、超バカだったのね ぼくみたいな(笑)」

(^ο^)「あ、そ、そんなもんなの!?それってやばくな~い?―ま いいや。ところでソーカルらによるポストモダン批判というのがあったけれども、ドゥルーズの学術的整合性も問われていたわよね」

C☆「あ そうだね、不勉強で読んでないけど…でも例えばドゥルーズは3章「道徳の地質学」の中でみずからを荒唐無稽な弁士としてチャレンジャー教授に擬えて自らを揶揄している節もあるし―最初にもどると学術サイドからの整合性といったものとしてではなくて、ひとつのお話として、カルヴィーノの仮説小説的に読むってのも、楽しい読み方ではあるでしょ。ニーチェのいう「悦ばしき知」としてね」

(^ο^)「活字LSDってことか…」

C☆「ピンチョンが活字LSDであると同様に―スーパードラッギーな本だね、こりゃ!ま ぶっとび~ってとこで おちまいなのだ」


(^ο^)「あ あ あゆ~くれ~じ~?」

C☆「お~ いぇ~☆」

ドゥルーズはこちら☆
ドゥルーズ
船木 亨 / 清水書院
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本書において描かれるのはさまざまな角度から検討されるドゥルーズ像である。
「おいたち」から社会背景、諸著作がいかなる歴史的文脈から生まれてきたのか、難解な諸概念がどのような影響の下に生まれてきたのか等が硬い形式で手堅く描かれている。
入門書としてはややその関心の中心が「アンチ オイディプス」や「差異と反復」といった前期著作によりすぎているきらいもあるが、諸著作そのものでは見えづらい角度からの問いの把握ができるのではないだろうか。彼が何を望まなかったか、ということを知る上でも。

それではここではそのダイジェストとして、簡単にやや抜粋的にまとめてみる。

★「おいたち」
ドゥルーズは1925年パリ生まれ、ソルボンヌ大学でデカルト主義のアルキエとヘーゲル主義のイポリットに師事、後にリセ(高等学校)教師、リヨン大学講師を経て、1970年からパリ第八大学(ヴァンセンヌ)教授となる。

★「プライベート」
大柄なひとではない。病弱(ぜんそくの持病)。シワガレ声。ほとんど旅行はしない。おそるべき量の映画を見ている。F ガタリによれば「彼の教養と博識は驚嘆すべきもの」である。

★「簡単な著作のまとめ」
1953 処女作「経験論と主観性(邦訳名 「ヒューム、あるいは人間的自然」)
1962 「ニーチェと哲学」
1964 「プルーストとシーニュ」
1967 「マゾッホとサド」
1968 フランス五月革命
     「差異と反復」
1969 「意味の論理学」
1972 「アンチ オイディプス」
1975 「カフカ-マイナー文学のために」
     「リゾーム」
1980 「ミル プラトー」
1983 「シネマ1-イマージュ運動」
1985 「シネマ2-イマージュ時間」
1986 「フーコー」
1988 「壁-ライプニッツとバロック」
1992 「哲学とは何か」

★「アンチ オイディプス」の周辺
さて「アンチ オイディプス」だが、本書によれば、ドゥルーズ47歳の時、フェリックス ガタリという精神分析医との共著として出版され、哲学書としては異例の社会的センセーションを起こしながら、飛ぶようにうれたという。一挙に二万二千部を売り切り、その後十年のあいだにさらに三万部を売ったといわれる。にもかかわらず、まともに取り上げた批判や評価は今日まで決して多いとはいえない。なぜなら、書かれている内容、表現の難解さである。ゆえに「アンチ オイディプス」は翻訳者なかせの書物であって、早くから話題になっていながら、日本語訳の出版も十四年の歳月を待たねばならなかった。(1986年)
               
★「アンチ オイディプス」の3つのポイント
1、精神科医ガタリとの共著である点。ガタリがアイデアを出して、それをドゥルーズが取りまとめた。
2、アメリカのビートニクス作家ウィリアムバロウズの「カットアップ」に近いやり方でとり纏められた文体。つまりたくさんの断片をモザイク上に配置しておいて、全体で意味あるものとして示すのではなく、それらの断片に非主題的な形で別の次元の統合を与えるという手法でつくられた文体。鑑賞する側は、与えられた断片を記憶のなかで合成することによって全体像を把握するのではなくて、そのその断片とも関係ない別のインスピレーションを受け取る。
3、「五月革命」から生まれた書物であること。著者たちも、この書物は「五月革命の延長にある」という言い方をしている。「五月革命」については以下。

★1968 「五月革命」について
個人的な五月革命のイメージはやはりゴダールの「中国女」のあのイメージである。赤のファッション、共産主義の瞬間的な閃光。あるいは「ワイルドスワン」によって内部告発的に描かれた中国の赤の飛び火的爆裂-ゴダールの後期の政治的な映画群というのは五月革命の爆裂の残り火のようにも思われる。

1968「五月革命」・・・中国の「文化大革命」が進行しつつある一方で、東西冷戦構造は雪解けを迎え、「第二次大戦」という雰囲気が払拭されはじめた時期。学生たちの政治意識は、泥沼化したアメリカの対北ベトナム戦争に反対する「ベトナム反戦」という主張を中心とするが、徐々に大学改革要求に変わり、膨大な数の学生を巻き込んで展開される学生紛争(いわゆる「スチューデント パワー」)に火がつく。当初先進諸国(北米、旧西ドイツ、イギリス、日本等)での運動の盛り上がりを静観していたフランスは1968年の5月6日のカルチェラタンで二万人のデモを皮切りに、連日デモに参加する学生の数は膨れ上がり、10日には「バリケードの夜」と呼ばれた学生と機動隊との攻防によって、パリ市内は修羅場となる。さらに政府による学生の弾圧を批判する教職員組合と労働者の諸団体が一斉にストを打ち、学生の支援に回ることになり、ストは職種を超えて燎原の炎のように全国に広がり、5月20日には800万人もの労働者が参加するにいたる。フランス全土にひるがる赤旗、交通機関の一切の遮断、大統領ドゴールに対する「ドゴール ノン」-フランスは革命前夜の状況を呈する。しかし政治的には「五月危機」と呼ばれるこの事件は、5月30日のドゴールの演説によってあっけなく終息へ向かってしまう。「労働者側に立つ」とされた共産主義と社会主義政党が組織を使って、ストライキを押さえ込み、学生と連帯しないように支持を出したためである。革命は流産した。ドゴールは、いくつかの起死回生の手を打って野党勢力を分断、保守勢力を結集して信任を回復、そのあとの投票では五月革命以前にもまして、体制を確固たるものとした。ここにおいてマルクス主義に期待していた多くのフランス知識人の夢は脆くも潰えた。

以下本文より引用。
「五月革命において、確かに大衆の運動は生じ得た。しかし、理論的にはどうであれ、ひとびとが身をもって思い知らされたことがある。革命が挫折したとすれば、むしろ結果こそが正しいのであって、マルクス主義の言う歴史の真理は存在しなかったのである。歴史の真理が存在しないとして、たんなる暴動が手際よく終息させられたのだとすれば、人々はいつでもファシズムの情熱に身を任せることが出来るということになる。いずれが革命であり、いずれがファシズムであるかすら定かではない。左翼から見ればドゴールの巻き返しこそファシズムであるが、右翼から見れば五月革命そのものがファシズムなのである。
ファシズムを繰り返させてはならないというのが、ヨーロッパ知識人の原則的な問題意識である。それは、合理主義にのっとった近代自我にとって、最もはずべきスキャンダルなのである。」(P41)

★「五月革命」以後の状況 「アンチ オイディプス」   
1、五月革命以後、マルクス主義への幻滅と並行して、実存主義が急速にすたれていく。個人の革命か社会の革命かといった二者択一がもはやリアルなものではなくなってしまったからである。
2、逆にいよいよ溢れ出てくる情報の洪水のなかで、なにもかもが、知識や事実というよりはある種の情報に還元されてしまうなかで「本当のこと」とはなんなのかが切実な問いとなる。情報宣伝がファシズムにおける大衆操作の道具として使用されたが、いまや、だれが操作し操作されているのか、どれが大衆の操作であってどれが事実の報道なのかも明らかではない。
3、五月革命以後、何が問題かははっきりしている。歴史の真理は、見出されるものではなくて、むしろ発明されたイデオロギーにすぎない。とすれば、大衆的運動は、革命であるのかファシズムであるのか。大衆は盲目であり、革命とファシズムを識別する指標はないのではないか。ファシズムは特定の状況で作り出されるのではなく、いつでもどこでも、ここそこで培われているのではないか。

「アンチオイディプス」は2、3の問いを引き継いでいる。精神分析とマルクス主義の接合といった目標を、より包括的徹底的に鍛えられた形で表現している。精神分析とマルクス主義は、意識を出発点として考えるのではなくて、それ以外のものの「効果」として考える点で共通している。どんなにひとりひとりが真剣に思考して結論を出そうとしても、個人の問題においては、精神分析がそれを無意識の抑圧の仕組み(コンプレックス)に規定されているとみなすし、社会の問題においては、マルクス主義がそれを支配階級の思想(イデオロギー)に規定されているとみなすのである。ドゥルーズ=ガタリがこの書物のなかでなしとげようとしたことは、マルクスが描き出した資本主義社会の仕組みが、いずれの方角からいずれの方角へとわれわれを横切っているのかを明らかにすることであった。すなわち、自分と社会の現実的関係を測量するための適切な観測点はどこにあるのかを明らかにすることであった。それから精神分析が社会のなかで機能している形態としての核家族的生活のイデオロギーの抑圧をはずそうと試みた。「パパ-ママ-ぼく」という枠組みが人間の基本的単位とされ、社会組織の枠組みと並行的に捉えられるようになっている。これが現実をどのように歪めているかを示すことが「アンチオイディプス」の中心的主題であった。 「アンチオイディプス」によると個人的生活と考えられているものも、実は、決定的に社会的歴史的なものに絡めとられている。
実存主義者のいうように、歴史を超えた人間の普遍的条件があるわけではないが、また、マルクスの考えた以上に人間は社会的に規定されているのであり、抑圧の仕組みは複雑なのである。ソビエト連邦が崩壊したいま、マルクスが正しかったのは、現実の社会が資本主義社会であるという分析においてだけである。
資本主義社会は、もちろん非人間的な社会なのであるが、未来においても過去においても、「人間的な社会」などは存在しなかったのである。
「アンチ オイディプス」によれば、資本主義社会とは、ただ純粋に未来にとどまり続ける究極の理想社会を、祓い遠ざけるために循環し続けている過程に他ならない。 というのも「究極の理想社会(ユートピア)」とは、死の世界のことだからである。


★「アンチ オイディプス」の宇宙 
「アンチ オイディプス」は4つの章からなりたつ。順に「欲望する諸機械」「精神分析と家族主義、神聖家族」「野生人、野蛮人、文明人」「分裂者分析への道」という標題になっている。
第一章 「欲望する諸機械」=導入、宣言。「欲望する機械」「器官なき身体」の概括。
第二章 「精神分析と家族主義、神聖家族」=精神分析と家族主義への批判、精神分析を家庭環境の問題における個人的生活の問題としてではなく、社会全体の問題として取り上げ直すべきだという主張。
第三章 「野生人、野蛮人、文明人」=前章の問題提起を受けて、精神分析の理論を社会の中で捉え直すということを実際に行ってみせようとする。なぜ精神分析が家族主義に陥ったのかについて、それを実現してきた歴史が語られるのである。
第四章 「分裂者分析への道」=総括。唯物論的精神分析としての「スキゾ分析」がどのようなものかが示される。社会諸現象を精神分析とは違って、どのように理解するかという方向性が与えられる。
これらのキーワードとなるべき言葉が「欲望する機械」と「器官なき身体」の概念である。これらはパラドクシカルな概念だが、それぞれを見てみよう。(この本の難しさはこういった単語の難しさに集約されているように思う。というのはいずれも従来の言葉の概念を覆すような単語の使用をし、それが非常に抽象的な印象を受け、理解を拒むようなところがあるからだ)

★「欲望する機械」
「欲望する機械」はフロイトの精神分析に端を発する概念である。
ポイントは以下。
1、欲望という概念は古代ギリシア時代から、人間のこころの分類によく顔をだす。欲望とこころとは関連性が深い。
2、我々の経験は基本的には分裂的なものであり、欲望という過程のたえざる開始と、知性による介入の繰り返しである。そのとき、一般に知性が状況に応じて条件や方針をそのつど変更するのに対し、首尾一貫して過程を推し進めているのは欲望の方である。欲望はつねに優位である。
3、フロイトによると、食欲や睡眠欲はもとより、社会学的欲望もその変形にすぎないような「根源的欲望」が存在する。その無意識的な性的欲望は、知性による意識的な行動よりも普遍的であり、たえず開始される生命の永遠のサイクルである。「無意識」ということがいわれるのは意識されたものが欲望として必然的に変形されてしまっており、欲望の正確な表現ではありえないからである。そして性欲(性器的欲望)の過程が中断や停止を簡単に受け入れるということは、その過程が消え去ってしまうのではなくて、変形されて別の行動として現れるということなのである。その欲望を変形する機能としてこそ「自我」が見出されるし、知性(意識)もまた欲望の過程を変形しようとする「欲望」として捉え直されるであろう。
4、フロイトは欲望を一元論化し、そのエネルギーを「リビドー」と名づけた。そして「かれは人間のこころを、リビドーの流体力学に従って組み立てられた機械」(「欲望する機械」)であると考えて、そのメカニズムを探究したのである。このように欲望が機械仕掛けであるということはフロイトの思想に由来する。ドゥルーズ=ガタリは実在するすべてを欲望という観点から捉え「 欲望は機械である」と断言する。>欲望を最も抽象的に捉えれば、それはリビドーエネルギーによって作動する流体力学的機械装置なのである。
5、性欲の過程を決定しているもの、性欲を秘密とし、私的とし、社会生活から分離しているものをフロイトは「オイディプス(エディプス)コンプレックス」(歴史に普遍的なことは、幼児が父を殺して母と寝たいという願望をもつ)で説明した。ドゥルーズ=ガタリはこれを実証性においてではなく、治療と称して人間に関わるやり方、フロイトがそれによって精神分析を絶対化しようとしたことを批判する。ドゥルーズ=ガタリによると、性的欲望の過程がどのようなものであるべきかを規定するのは社会体制であり、性欲(性的欲望)を社会的に分離したのは、とりわけ資本主義体制だとする。性的欲望の意味が異性との結合だけにあるのではないということを指摘したのはフロイトであるのに、フロイトは最終的には、異性愛の家族的道徳的形態を強制する(オイディプス的)ブルジョワ イデオロギーのなかに入り込んでしまった。フロイトは欲望についての伝統的観念から決定的には離れられなかった。
6、人間経験の本質的契機に、知性が明晰にすることのできるものを超えた無意識的なものがある。そのようなものこそ、第二の観点における「自己生産する欲望」である。欲望を、知性とは本質的に関係のないものとして理解すること、人間経験のなかで、中断されてもたえずおのずからはじまり続けてやまない「過程」として理解すること、そして知性をもその特殊なあり方として理解することが必要なのである。
7、「唯物論的精神分析」。ドゥルーズ=ガタリのいう「機械」とは文化と自然と対立する二元論的なものではない。自然でも文化でもないひとつの系列の把握を目的とし、従来の二元論を乗り越えるために導入された概念である。かれらは、実在するすべてを欲望という観点から捉え、「欲望は機械である」と断言する。欲望を最も抽象的に捉えれば、それはリビドーエネルギーによって作動する流体力学的機械装置なのである。
8、以下長いが上記説明。
「機械の典型としてよく引き合いにだされる古典的な時計は、ぜんまいのほどけようとする傾向性をエネルギーとして、これが解放されるのを遅らせるメカニズムに接続され、最終的に文字盤に針の位置を少しずつ与えるものである。だが、まったく使用者がいない時計が設計されることは考えられないであろう。文字盤から針の位置を読み取る人間が存在しなければ、この機会は機能していることにはならない。それゆえ、複数のにんげんが時計と同期した時間についてのイメージをもっていなければならない。人間にそのイメージを与えるのは、幾何学的に等分された時間間隔を与える社会機構(社会機械)である。
時計が一個の技術的機械として現象するのは、設計者や所有者にとってでしかない。社会的機械にまつわるさまざまな装置と人間の資格が対応していないところでは、時計なる技術的機械は存在し得ない。人間が時計を見て合理的に時間配分を行うと考えられるかもしれないが、その合理性自体を構成しているものについて考えるならば、まったく別の様相が見えてくる。すなわち人間が時計を見るわけは、社会的機械が隠された理由、人間の側からすると無意識の理由によって、人間の視線の流れを、腕器官機械に取り付けられた時計の文字盤へと「接続」することによって、たとえば会話の流れを、腕器官機械に取り付けられた時計の文字盤へと「接続」することによって、たとえば会話の流れを「切断」するからだというように理解することができる。正確な時刻に応じて行動を決定するのが「合理的である」とするにせよ、どの行動をとるかに応じて時刻を問題にする理由が生じるのであり、その行動に無意識的な動悸が伴っていることを否定はできないであろう。
技術的な機械が真の機械の部品にすぎないというのは、以上のような意味においてである。ほかのどんな技術的機械についても、それが作動する対象やその作動を可能にする社会的無意識的システムと切り離さずに考察するならば、そこに働く社会的機械の分であるという様相が見えてくるはずである。
他方社会機構(社会的機械)は技術的機械と同じ仕組みによるものではない。ドゥルーズ=ガタリの考えている真の機械は、原因と結果が一義的に対応する部分が結合された古典力学的な系として、機械にとって外的な目的に従って組み立てられるようなものではない。それは、各部分が作動の多義的な繋がりとして相互に影響を与え合う流体力学的な系として、くみあわさってくるに従って自発的な目的が外部に現れてくるようなあり方をしている。そのさまざまな水準で、欲望する(自己生産する)という共通の特徴をもちつつ、多様な現象を提示するものとされるのである。」
9、体の諸器官とは「機械」である。このことは精神分析の理論のなかにすでに素描され、精神分析医ラカンによっても「断片的身体」という概念で前提とされている。人間経験は、最初から統合された身体のなかで意識をもつようになるのではなく、各器官がせめぎあい、それいがいの諸対象と区別がつかないようにして繋がりあっているだけである。
10、「アンチ オイディプス」において「欲望する機械」の名で、因果性の働く機構として定義される従来の機械概念に対し、これをも包摂する生命論的な機械が構想されている。フロイトのリビドー論を核にして、生命・欲望・愛・技術・社会のすべての領域を包括することができるように拡張されているのである。「欲望する機械」は物質でもあれば、生命でもあるような、経験の元素である。
11、人間中心主義批判。生命とは、さまざまな欲望が相互に織り成している秩序である。細胞・器官・生物を環境として前提としながら、寄生や共生といった形態において、相互に欲望しながら生きている。山や星なども含めて、われわれはあらゆるものに生命としての生涯を見出す。機械という概念が何ら生物と対立するものではないとしたら、技術的機械もまた欲望をもち、その生涯をもつと考えることができるのではないか。人間を欲望しながら生きているとはいえないだろうか。生命を物質と対立させるべきではなく、生物と非生物を区別すべきではないのである。
12、機械は、まずは生命的なものであり、欲望がすでにそう定義されていたように自己生産するもののことである。自己生産とは、ひとつの作動を通じて別の機械が生産され、最初の機械が廃棄されたり別の機械の部品となったりするということである。欲望する機械は「調子が狂うことを通じてしか作動しない」といわれているが、それはこの自己生産の継起に由来する。機械の調子狂いが、たんなる混沌への堕落ではなく、一定の有機的な系列をもって生じることは、その系列によって故障を診断する修理技術者ならばよく知っていることである。全体のシステムを設計する主体が存在しないのに、機会が集積複合されつつ、作動する目的と手段、運転と再生産がたえず交換され、交錯しつつ自己生産し続ける。その現象は、技術的機械を基準とする、まさに「調子狂い」以外の何者でもない。
技術的機械についてはその支配者と考えられていた「人間」は、もはや機械の欲望の享楽状態としてしか理解されないようになる(これはある意味で、マルクスが理想として描き出した人間の姿でもある)。まさしく人間は、社会的機構(社会機械)の部品にすぎないのである。かれに属するとされてきた諸器官やかれが認識して働きかけるとされる諸対象も、実際は、かれには「支配できない」「欲望する諸機械」にほからなない。

★「器官なき身体」 
「器官なき身体」は「器官ある身体」に対立する概念であり、「欲望する機械」が完全に展開されつくして、凝固した無数の欲望する機械となるものである。
以下長文のポイントで失礼。
1、人間の意識は、社会機構を制御したり改良したりするどころか、せいぜい社会機構の部品として働くにすぎない。 意識とは、主体的に何かを把握するというよりも、むしろ、あたかも映画でも見ているように、社会機構によって「配給」されるものである。自然実在論的な意味で、因果性によって自動的に物質の状態が反映されるといっているのではなく、意識は、社会機構の「生産」するイメージを表象するものにすぎないのではないかということ。
2、「欲望する機械」=それ自身は、本質的に何も表象せず、相互に無秩序である。それゆえ「アンチオイディプス」では、意識と社会のあり方を、精神分析の論理に従って、欲望する機械が集積され複合されて社会的機械となり、一方では社会に秩序が生み出されるとともに、他方では意識に表象されるものを生み出すと説明する。


以下 ドゥルーズ2へつづく☆ 
以下 ドゥルーズ1からのつづき☆

3、「根源的抑圧」=表象一般は「欲望する機械」が受け入れる抑圧の結果として生じると考えられる。欲望は抑圧を被るが、抑え込まれて消滅してしまったりするものではないのだから、抑圧は欲望を押さえ込むと同時にその代わりのものを与える。そこから「抑えこまれる欲望」「抑えこむ欲望の作用」「抑えこまれたかわりに与えられる表象」の三つの契機が見出される。
欲望のサイクルとは、人間が生きているということ、生命であるということであった。生命は定義からして死の反対物である。それ自身は死ぬものではない。ところが、細胞や個体や種は死にいたる。ある意味で細胞は個体の形成・成長・保存のために死ぬのであり、個体は種の存続のために死ぬのである。その結果として、種の本質を担う胚種は細胞から細胞へ、生殖細胞を伝って個体から個体へと転移しながら、また進化を通じて種から種へと生成しながら、永遠の生命であり続ける。
人間とはその意味で「胚種」であるということもできるが、それは人間経験が無限の欲望のサイクルにあるという意味になる。 自分が胚種であるという経験があるとすれば、それは無限の時間を感じ取ること、無時間的に多様な強度が一挙に直観されることであり、いわばブラックホールの経験のようなものであろう。われわれの経験一般の、想像を絶した反対物である。ドゥルーズ=ガタリはそのような反経験を「胚種的渦流 」とよんだ。
経験の始原におけるこの「胚種的渦流」に対して、生命は個体へと展開し、進化の道のりを歩むようになる。われわれの経験は、時間的に質的なものとして展開し、空間的な広がりのなかで量的にあたえられるようになる。この移行については「アンチ オイディプス」のなかでは「根源的抑圧」ということばによって説明される。 欲望は任意に抑圧されたり、されなかったりするものではないし、外部から抑圧されるのでもない。抑圧とはみずからを禁じて抑えこむ欲望のことであるが、欲望は根源的にそのような欲望をもっているとされるのである。このことは、理論的に不可能ではないというくらいにとっておいてよい。というのも、われわれは抑圧されたものとしてしか欲望を知らないし、抑圧なき欲望もまた考えがたいものだからである。
したがって「根源的抑圧」とはビッグ バンのようなものである。それによって「欲望する機械」が無数に分散されながら生じる宇宙開闢であり「欲望する機械」はその宇宙の表面に展開して、相互に流れたりきったりするようになるのである。根源的抑圧によってこそ、欲望する機械はひたすら流れる一者ではなくなり、一方でそれを抑えこむ集積複合した機構になろうとするし、また自分自身を切ったり受け取ったりする表象を世界をもつことになるのである。
4、種という見地からしてみれば、重要なのは群集であって、個体ではない。現代生物学によると受精細胞の分裂の初期には、どの細胞もそれぞれが一個の有機的身体になりうるだけの情報をもっており、逆に、どの器官へと成長していくかについての情報はもっていないということである。分裂した諸細胞は成長の諸段階において、相互の位置や環境に応じて、生成すべき各器官へと自己限定していく。個体としての有機的身体は欲望する機械が複合して生じる布置以外の何者でもなく、単独で実在するものではない。身体における諸器官の有機的統合とは、直接に社会体制(社会身体)そのものではないかと考える。種に属する個体が有機的身体をもっているのではなく、社会体制が諸器官の接続や配置と同時に、諸個体の表象をも与えているのである。その意味では、むしろ社会体制(社会的身体)の方こそ、文字どおり有機体なのである。
5、「アンチ オイディプス」においては、社会体制(社会身体)は分子量的な現象であるとされる。分子量とは分子が一定集合して、人間経験に特定の現象として理解されるものとなったような「個体」のイメージである。人間の通常の経験は、分子量的なものであって、それによって与えられるイメージは仮の姿にすぎない。社会体制も「欲望する機械」という分子が集合して、その分子とは別のイメージが作り出されたものである。「欲望する機械」は、それ自身では秩序はもたないが、集積複合されると社会体制と秩序と人間経験とを出現させる。それは抑圧という精神分析的論理を介して、人間経験を表象的なものとして構成するのである。
6、身体とは「欲望する機械」が集積複合した効果が生じる表面のようなものであり、その集合に内在している目的性が投射される外部である。社会体制とは、その公開として身体の表面に表象された無数の諸器官(欲望する機械)のあいだで生じる有機的関係である。 その関係において、種の個体の有機的身体や人格的人間身体がまた、身体それ自身の表面に投影されているわけである。このようにして、ひとつの身体のうえに無数の身体が描き出されることは、決して矛盾ではない。この場合の全体とは部分の総和ではなくて、部分の総和を指示する別の部分なのである。社会の有機的体制は諸部分(欲望する機械)が全体(ひとつの身体)とは別のものであるかぎりにおいて生じる仮象なのである。そのようなものとしてわれわれは全体についての表象をもつが、それはわれわれの生きている諸部分のありのままの姿ではないのである。
7、「器官なき身体」とは全体と諸部分とが合致し、表象が欲望する機械の全体制と合致した状態-それは「欲望する機械」が完全に展開されつくし、もはや欲望するものと欲望を押さえ込むものの配置が完全に無差別になって多様性や局在性が消滅し、凝固した無数の「欲望する機械」となり、器官機械は消滅し、その無差別性として、諸器官の絶対的外部が姿を現すときのことである。
8、「器官なき身体(非有機的身体)」という概念は、アルトーが彼自身経験した苦渋に満ちた身体の究極的状態であるが、それは同時に、マルクスが「経済学哲学草稿」の中で述べた、一切の物質が人間の生活と結び付けられて、自然が消えてしまう未来の状態のことである。
9、 「器官なき身体」は決して到来しない未来において、つねに現在に対する影としての姿を現すのである。要するに「器官なき身体」とは全体の実在的表象として真理のことであるが、実は、社会体制(社会的身体)につきまとう社会の死のことなのである。
10、「器官なき身体」とは欲望する機械の自己生産が無限にまで到達した世界、生産自身が欲望されているだけの世界(「欲望する生産」)のことである。それは抑圧が完全に解除され、資本の自己増殖が完全になった社会であるが、その結果、あらゆる欲望がホワイトノイズ(あらゆる周波数成分が含まれたザーッという音)のように無秩序に存在するだけで、まったく資本主義としても機能しなくなった死の世界である。

まとめ-以上から「器官なき身体」と「欲望する機械」との関係は以下のようになる。すなわち生命の現在とわれわれの経験を「胚種的渦流」と「器官なき身体」の中間において理解しようとする際に主題となってくるような概念が「欲望する機械」だったのである。「胚種的渦流」と「器官なき身体」というこの始まりと終わりは実際の時間的展開における最初と最後ではない。このふたつは精神分析の論理を徹底化したところに生じる概念である。
精神分析においては、意識は無意識の論理を知ることによって無意識を推定することができるとされるが、そのことによって、原理的に意識が知りえないし解決もできない諸問題に光を与える。このことの徹底化とは意識の純粋化や実験手法の徹底化ではなく、現在の現実を意識と無意識の混淆(混合物)として捉えてその精密な批判をすること、すなわち基準を確定して理論的限界を指摘することである。すなわち基準を確定して理論的限界を指摘することである。「胚種的渦流」と「器官なき身体」というふたつの概念は、理論的限界を示す到達点としての絶対的過去と絶対的未来なのである。

★欲望の論理学
「アンチオイディプス」は諸器官相互の能動性に視点を移動することによって、人間主体(個人)を宇宙の中心から追いやり、生命と機械、目的論と機械論、意識と社会が、もはや対立しないものとして捉えられるような総合的な観点が実現されている。「アンチ オイディプス」の中心的主題は、現代とそこで生活するわれわれの経験の意味を根本的に明らかにすることにあった。
資本主義であるということの人間的意味は、マルクスが指摘したように、「資本の奴隷」になるということである。資本は、その剰余価値を広告や戦争や環境破壊といった浪費に費やして生産をあおりつつ自己増殖していく。資本家の贅沢とは、生産をさらに増大させることであり、労働者は、一方で労働に見合わぬ賃金しか獲得でくずに、他方でそれを使って生産物を消費することに追い回される。
「欲望に支配される」といわれるそうした奇妙な人間の行動は、マルクス主義においては「労働の疎外」として、人間の本質である労働が人間にとってよそよそしいものになってるからだ、とされるが「アンチ オイディプス」ではそのことが、オイディプス コンプレッスの歴史的意味を通じて理解されなおされることになる。精神分析のいう心理的な意味においてではなく、欲望が生み出す集積複合のメカニズムによって理解される。
「アンチ オイディプス」の書き出す歴史は、マルクスの考えた弁証法的な歴史ではないし、ましてや実証的な歴史ではない。それは、論理的な意味で、資本主義が生成してくるプロセスを示すことを通じて、資本主義が何たるかを説明しようとするものにほかならない。知識がどのように生成してきたかを説明する発生論な論理学というものがあるが、そうした意味で、「アンチ オイディプス」が述べている歴史は「欲望の論理学」が展開されたものなのである。

「アンチ オイディプス」の中ではこの歴史は野生時代、野蛮時代、文明時代として提示される。野生と野蛮の時代は資本主義である文明時代の時間的に以前にあるというよりは、論理的にそれを準備し、またそれを構成しているものとして描き出される。上述のようにこれらはフロイトの文明的抑圧の過程を描いた文明史観であることに留意されたい。

★野生時代
「胚種的渦流」という種の個体の胚種をもつ人間は先祖から子孫への膨大な世代のながれのなかに位置する。「私が何者であるか」と問う経験は、私が祖先のだれかれであり、その誰もであると同様に、私が私の子孫の一切の可能性であることを与える。またそのことを通じて、私はすべての種を生じさせた神であり、あらゆる種の個体で在り得ることを与える。こうしたことをまともに考えさせるのは精神分裂症の妄想においてでなければ、輪廻思想においてであろう。
そのような「胚種的渦流」の経験が抑圧されるということは時間そのものが発生することによって、種が分離され、世代が分離され、群衆と個体とがあらわれてくるということである。レヴィ ストロースによると、近親相姦の禁止からなる婚姻関係の論理が世代と血統(出自)とを分離して統合し、先祖をさまざまな動植物に求めるトーテミズムが、各部族を分離して分類の一般原理を確立する。どちらが先立つということもなく、前者によって個体が、後者によって群衆(血族や部族)が出現するといえる。つまり近親相姦の禁止が個体を、動植物を頂点とするトーテミズムが群衆を生む。

野生時代の社会的機械は、要するに自然と人間の有機的関係を形成しているといってもよい。人間は土地との関わり(地縁)に基づいて生活しており、みずからの社会形成を自然的諸対象の生命活動から区別していない。土地とはテリトリーが近親相姦の禁止によって人間化されたものだと考えることができる。
その意味で野生時代の社会機構は「土地的社会的機械」と呼ばれ、身体とは土地のことだと説明される。それぞれの土地の諸状態の配置に、諸対象と諸器官の結合としての生命的ないし霊的個体(もの)と親族関係の交点としての個体(ひと)の系譜が登記され、その登記に従って人間が生活しているわけである。

ある日突然、土地社会的機械のなかに征服者がやってきて、エディプス願望を実現してしまう。征服者は姉妹と近親相姦するというが、その意味はその社会の部族関係を構成する親族関係の血統には決して入らない独立した血統に属しているということである。そして、征服者は母との近親相姦をするというが、それは、征服ののち、親族関係の構造から外れているのに、その社会の中心的血統の女と結婚してしまうということを意味する。その結果征服者は従来とは異なった社会機構を作り出すのである。


★野蛮社会 
「野蛮社会」においては専制君主身体がヒラエルキー上位に属する。この社会機械体制下においては、従来の土地的な社会体制(社会的身体)は破壊されることなく、それが君主の身体で二重化される。あらゆることが君主のなのもとになされるようになり、君主の声(命令)に由来する法律・制度・組織といったものが、土地の社会的機械を支配し、収奪する。君主の身体が土地という身体を属領とし、専制君主の、文字通り「手足」となる官僚機構が出現して、みずから属領支配の地図となるのである。

蝶の口の形状が、進化の系統においては遠く離れた特定の種の花の構造に対応しているのと同じく、人間は植物を成長させ動物を繁殖させる手足を発達させた。そのような、すでにある自然的文化的コードを横領する手法によって新たなコードを生み出して、人間の生活と血族は多様性に富むようになり、社会は発展していくのである。

それに対し、専制君主は、その水平な接続の連鎖をそのままに、それを垂直的に統合し直す。コードを規定するコード(超コード)を形成し、それを通じて社会的発展の上前をはねる仕組みをつくりあげるのである。この仕組みが「専制君主の社会的機械」である。それを維持するのは、征服者の軍事力ではない。専制君主機械が一旦形成されると、君主の告知の体系(法律)と徴税の台帳が、すなわち表象についてのコードが出現する。要するに、「超コード化」を実現して維持する言語の構造と社会的機能が中心的役割を果たすようになる。

★言語の起源
ドゥルーズ=ガタリは、言語をも、普遍的な意味伝達の媒体などとしてではなく、欲望の論理学のなかで、段階を設けて説明する。 言語は社会的歴史的に規定される、「欲望する機械」の体制の一側面にすぎないのである。
野生社会における言語は、器官と部分対象の接続の延長において、身体への登記において理解される。それらに関する人間的コードの形成は、いわば森に道をつくるようなものである。それが集団的であって個体的ではないという意味は、一切の対象が、だれにとっても同じものとしてあらわれる徴表的記号としてあるということである。
野生時代における言語はそれぞれの対象がもっている効果と同様の効果を帯びた呪術的な記号である。人間が表出する図柄や音声は、はじめから器官と書対象の連鎖のなかに差し込まれている。音声は何かを意味しているのではなくて、人間諸機関と自然的対象にたいして効果を生じるかぎりで意味をもつのである。それゆえ、黒雲が雨のふる徴表であるのと同じように、図柄と音声は対象の連鎖のなかに含まれてしまっており、たとえば名を知ることが相手を支配することに繋がる。それは呪術として、人間の諸機関に直接効果を及ぼして、治療したり殺傷したりすることもできるのである。
これに対し、通常に言語であると考えられているものは、実は、野蛮時代の言語である。征服者の出現とともに、意味する言語、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)とをもった言語が出現する。というのも、征服者の音声と被征服者の音声には何ら共通するものがないのだから、これらを翻訳する必要がある。「真の意味」を媒介して通じ合わせるのではない。官僚機構を媒介として、君主の声が民衆の知覚と行動に転換されるのである。
「超コード化」を担う官僚機構を形成するものは、法律や規則からなるさまざまなエクリチュール「書き言葉」である。器官の集合的結合に参加していた図柄が民衆から取り上げられ、君主の声(命令)を民衆に提示するものとして、いいかえれば、支配者のことばの写しとして再構成されて、エクリチュールとなる。 エクリチュールとは、ロラン バルトによれば、パロール(話ことば)を文字に写し取るだけでなく、それに反作用して「正しい語り口」としてパロールを整えていく秩序のことである。エクリチュールが形成される結果、民衆の知覚や行動が、君主のことばの「意味」とされるが、意味とは、君主の命令に従った知覚と行動なのである。そのようなわけで、音声と文字の対応(表音文字)と同時に、ことばと意味の対応が確立されたというのである。

以下 ドゥルーズ3へつづく☆
 以下ドゥルーズ2からつづき☆

★資本主義の到来
専制君主機械のピラミッドは君主の背後にある恐怖によって、君主のエクリチュールをあえて支えようとする。その恐怖とは根源的抑圧が社会を形成したように、社会を解体するもの、すなわち「器官なき身体」を人は恐れるようになる。(近代においては、それが「自分の死」として表象されることになる。)

「器官なき身体」は一挙に実現されるわけではない。そこで資本主義社会が器官なき身体の先取りとして歴史のなかに姿を現す。野生と野蛮が絶えず交代している歴史のなかで、資本主義はまずは偶然に到来する。コードから資本の流れの逸脱と労働の流れの逸脱が、たまたま同期するという出来事が起こったという。
本質的な変化が、資本主義以前と資本主義のあいだにある。というのも資本主義は最後の時代である。その意味は、社会が器官なき身体になりつつ歴史がおわりかえけている状況において、それをうまく遠ざける仕組みをつぎからつぎに開発するような社会が到来したということである。資本主義は社会に出現する器官なき身体の徴候を、たえず別の現象へとずらしながらかえってそれを利用することによって社会を維持していくような社会体制なのである。


★資本主義の公理系
さしあたって資本主義社会は、野生と野蛮の交替にすぎず、実質的な内容をもっていないといっていい。しかしながら、資本主義とは、野生と野蛮が、高速でたえず局地的に交替を続けているシステムである。資本主義が到来する以前においても野生と野蛮とは交替していたのであるが、資本の流れと労働の流れが結びつくというある偶然によって、この交替が急激に加速され、以前とは質的にまったく異なった現象を示すようになった。
もはや土地のコード化とそれに対する超コード化が繰り返されるのではない。それ以前の社会体制は、既存のコードを利用したコードを形成して発展するのであるが、資本主義においては、それらのコードが解除されてしまう。コードとは抑圧の結果として欲望の流れと切れの連鎖を装丁している表象であるが、資本主義における資本の社会的機械はそれを「脱コード化」して欲望を自由に流れさせるという。
資本主義は「脱土地(テリトリー)化」と「再土地化」の永久運動であるとされる。「脱土地化」とは、コードと超コードを取り外す「脱コード化」の現象であり、欲望の流れによって形成される形象を分解する運動である。そこに器官なき身体の徴候が現れる。しかし「脱コード化」とは言語が「解釈する」という意味でもあり、あらゆるものを解釈してしまうことでもある。その解釈によって、「脱土地化」されたものをたちどころに仮の土地に変貌させてしまう「再土地化」の運動が作動する。新たな「土地の社会的身体」のようなものが、その跡を覆うのである。
資本主義はそのためにコードの生成と解除についての公理系をもっているとされる。公理系は、コードの解釈から出発するが、コードのような「一覧表」ではなくて、それらの相互関係を延長して展開させる「系列」である。その結果、コードは規約や情報のような、関係と変化を示すもの(フロー)に変わってしまう。
それゆえ「再土地化」は、土地機械による「コード化」と同じものではない。「再土地化」は土地の擬似的な形象を再生することである。「形象」とは、無数の点から成り立っているテレビの画像のようなもので、欲望の流れを切断するときに出現する一時的で固定されない断片的知覚のことである。大地や人間や民族や自然に帰属されるそれらの形象は、土地的機械のアルカイックなコードを、欲望の流れとして再構成したものにすぎず、文化や自然のコードとして充実した機能をもっているわけではない。
資本主義はいわば底なしなのである。もはや土地のあり方(自然)や制度のあり方(文化)といった基礎的なコードが重要なのではない。災害・戦争・病気・恐慌のような偶然の出来事において復活してくるかに見える本来の生活(民族性)、人間のなすべきことや安らげる場所(倫理)といった基礎を資本主義社会はもってはいない。
資本主義にとって真に重要なのは「成長」である。公理系の出現に、社会体制は、もはや土地やピラミッドとは関係ない成長の仕方を開始させた。社会体制はコード形成によって「発展」するものではなくて、流れ(フロー)を流すことによって「成長」するようになる。
流れ(フロー)実質的な量ではなくて、その微係数が問題である。資本主義はただ欲望の流れが増大する場所を移動していくことによって成長をし続けるのである。
したがって資本主義の成長は、社会体制自体が発展することではない。「技術革新」がつくりだすものは見かけ上のものであり、一時的なものである。技術は知性の無限の能力によって推進されるのではなくて、欲望の布置によって要請されるものにすぎない。資本主義機械の成長はいたるところにフロンティア(辺境)を、植民地や発展途上国といった市場として形成しながら行われる。その成長がおわらないように、欲望の流れはたえず分散され全面的にならないようにされる。成長は「流行現象(モード)」としてたえず古いものを掘り起こしながら繰り返され、あらゆるものを陳腐化しながら進むのである。実に各人のこころのなかのエディプスこそ、真の意味での植民地(流行の場)なのである。
ここで、フロンティアとは、真の意味での外部との境界や人間の可能性の限界ではないことに注意しておくべきである。資本主義にとっての真の外側は、「器官なき身体」である。資本の社会的機械の作動は、公理系に従って、「器官なき身体」という究極の原価を少しずつ取り入れて、安全で管理された境界である「フロンティア」としてつくりなおすことである。
そのようにして、この機械は、欲望の流れが全面的になって器官なき身体が出現しないかぎり、球体の表面にひろがっていく漣のようにして、永久運動を繰り返すようになるのである。

 ★スキゾ分析
資本主義は自由と制度を「器官なき身体」のかわりに操り、「人間経験」を二重拘束のなかに閉じ込める。人間は欲望のままに自由になれるが、決してその自由を文字通り行使してはならない。この二重拘束を執行する代理人こそ父親、母親であり、それを推進しようとする精神分析である。 資本主義社会には個人主体であるということはどういうことか、欲望がなぜそのように限定されているかについて、ひとりひとりが納得させられてしまう仕組みがある。それによって欲望が消滅してしまうというよりは、ひたすら資本の自己増殖に費やされるようになるからであり、この事態の解明こそが「アンチ オイディプス」の中心的主題である。それでは人間経験が、資本主義の規定がなにか見てみよう。

★パラノイア
個体としての人間は、野生社会において、まずは近親相姦の禁止によって形成される親族の布置の中で与えられる。諸機関は集団的に配置されていて、それを作動させるのは自然とか神々と呼ばれる土地的機械なのだから、人間経験は期間の統合ではなく、呼ばれる名前そのものである。
専制君主の機械下において、人間は欲望の根源を横領し、自分が欲望の主体であるとの意識をもつようになる。民衆の個体性の方は、専制君主の機械の超コード化によって二重化され、ある程度の強度の帯にすぎないままでありながら、専制君主の機械の部品ともなる。機械の部品になるといっても、超コードが規定する表象に従って、みずから欲望してなるに変わりはない。諸器官が有機体に対してもつ関係のようにして、部品としての人間個体は、専制君主の機械がよく働くようにその秩序を欲望する人物となる。この傾向が、資本主義機械の時代になると、「パラノイア」として現れてくる。パラノイアとは、元来、妄想症状が中心となる精神病のことだが、パラノイアの欲望する秩序が実現すると、社会体制はファシズムとなる。現代において、ひとが独創的(芸術)とか、理性的である(科学)とか、カリスマ的である(政治)ということは、パラノイアの変種として理解することができる。パラノイア症の患者の妄想は概して首尾一貫したものである。パラノイアは現実の瑣末な諸要素から、壮大な体系を構想する。それが妄想と呼ばれるとすれば、それはその体系が、資本主義機械の与える、現実についての表象に組み込まれないというだけである。
資本主義機械は、「器官なき身体」を遠ざけるために、まず現実と空想を区別する第一の公理系「オイディプス化」を与える。そのうえでさまざまな公理系をつぎつぎに開発しては、現実とされるもののなかに組み込み、その秩序を維持する。その応用や適応として既存の公理系に組み込まれる妄想が合理(理性)的なものと呼ばれて作品や理論や政策になるのである。

★スキゾ
しかし「器官なき身体」は少しづつ社会体制に漏れ出す。資本主義以前ではこの欲望をどうやって閉じ込めるかが問題だったが、資本主義機械はこの欲望の流れを積極的に利用する。流れ(フロー)の連続的な増加のあとの突然の低下という現象(恐慌)が資本主義の特徴である。いたるところでやりなおされながら、欲望が一点に殺到しては、その流れが崩壊する。こうした流れをたえず増加させようとする資本主義はその増加が原理的に、無限大に到達し得ないが故に、いわば調子狂い抜きにはありえないという成長の仕方をする。成長に狂いをあたえて資本主義を賦活するものこそ、体制を覆すとして怖れられている漏出する欲望の流れである。
それにしても無数の欲望の漏出が、つまり人間経験ではなまの形での欲望する機械の出現が、とりわけ資本主義社会ではいつでもどこにでも見出される。欲望の過程においては、人間はもともと分裂的なのであるということは指摘した。ドゥルーズ=ガタリが「スキゾ(分裂)」と呼ぶのは、欲望する機械が現出する、このなまの経験のことである。

★ノイローゼとオイディプス化
オイディプス化の公理系は、欲望する機械が性欲と呼ばれるようになり、性欲が想像の領域を形成するようになる資本主義の基本的な公理系である。それは「パパ-ママ-ぼく」という三角関係から出発する。
この関係のなかで本来は社会的なものである「想像」が個人の秘密の経験になってしまい、その経験を中核として、エディプス化のプロセスが、性的想像力的な関係と社会的現実的な関係の蝶番としての「個人」をつくりだす。個人とは想像上と限定されてしまっているのだから完全に性的欲望であることもできず、現実は性的欲望が支配しているのにそれを否定するのだから完全に社会的であることもできないという二重拘束に陥った経験のことである。
ノイローゼの患者はエディプス願望にいたるまえの状態に退行していて、想像的関係と現実的関係の区別をうまく理解できなくなっている。その結果、想像と現実の境界線の曖昧さに、その転換のタイミングに、性的欲望の識域の水準の違いに苦しんでいるのである。いいかえるとノイローゼの患者は、社会的状況が実際には非エディプス的であり、いたるところにスキゾが出現することに苦しんでいる。
   
★人間経験の個人的範囲
だが治癒とは、患者が人物を「回復する」というよりは、ひとはオイディプス化の操作を通じて、「人物化」されるのである。すなわち人間経験は基本的に開かれていて、その範囲を確定しがたいものであるのに、オイディプス化によって一定の領域画定がなされ、責任ある個人とか、さらには理性的主体という単位に作り上げられてしまう。
精神分裂病の諸症状は、すべて欲望する機械の、エディプス化に対するさまざまな抵抗の運動を示している。言語によって抵抗し(妄想型=パラノイア)、行動によって抵抗し(破瓜型)、ついには欲望の死に至る(緊張型)。それらの型は、患者の社会的な取り扱われ方を鏡のように表現しているだけであり、最終的には人間経験における「器官なき身体」の到来への、進んだり遅れたりする道行にほかならないのである。
現代の人間経験として「個人」であることは、スキゾを社会的に許容される程度に否定するか肯定するかに応じて、少しノイローゼであるか、少しパラノイアであるかのいずれである。資本主義機械は決してスキゾを否定しているわけではないし、まさにそれを活用しているのだから、人間経験があたかも原子力発電所のゆっくりとした核爆発のように、そお安全な範囲におさまることが期待されている。

★ノマディズム
ではそのような状況のなかで、何をなすべきなのだろうか?
第一に重要なことは、個人であることは、どうこうすることではない。どうこうしようとすることは、ノイローゼになることか、ノイローゼ的状況から抜け出そうとしてパラノイアになることである。パラノイアになることは専制君主の社会機械を再構築しようとすることである。個人の二重拘束に呼び戻されながらパラノイアであり続けようとするなばら、ひとはファシズムへ向かうことになる。
第二に重要なことは、スキゾを求め、そのそばに移動することである。いたるところに欲望する機械が姿を現す。それを見出す事の出来る特殊な能力があるわけではない。ただ、「欲望する機械」が公理系に絡め取られてしまうまえに、そこに到着しなければならない。

「ノマド(遊牧)」といわれているものが、その振舞いである。それは、土地の上での遊牧、身体的移動としての遊牧ではない。「遊牧民は決して旅立たない。旅は定住民のすることである。ともに旅立つことを拒むが故にかれらは遊牧するのである」。ノマドとは、スキゾを追い続けてどこにも定住(土地化)しないようにすること、パラノイアにならないようにすることである。

具体的にはつぎのようにすべきだろう。パラノイアは「よい」と「悪い」などのさまざまな社会的二分法を強調して、その根拠を捏造するのが好きである。かれらの引く線には図表や一覧や公式や路線などを形成するさまざまな線がある。それが、擬似的な土地を形成している。それゆえ、まずはそのような線を一緒になって引かないようにすることである。そして、これらの線を無効にするような現象を見損なわないことである。
そしてさらに、それらの現象を繋いでみるという、奇妙な線を引くこともできるであろう。たとえば、よいことと悪いことに共通するものに線を引いてみることである。こうした従来の分類を異なった方角から分類しなおすように引く線をドゥルーズ=ガタリは「横断線」ないし「逃走線」と呼ぶ。逃走線とは私が逃げる方向を示すものではない。「個人」である私が脱出しようとするのだとしたら、それはノイローゼのことであろう。逃走線は、欲望が社会体制から漏出し、スキゾが出現する可能性があるいわば「前線」のことでなのである。

                  
★ファシズムと革命
社会体制における真の問題とは公理系の飽和による「欲望の窒息現象」であり、「ファシズム」である。「欲望する機械」は有機的身体を知らないし、それに対立するものだから、それ自体癌細胞のようなものである。分子的な欲望する機械が進化の因子となって生命に新たな飛躍や多様性を生み出す可能性があるのに対して、分子量的ファシズムという病はオイディプス三角形の巨大な結晶体を形成して社会的なオイディプス機構を作り上げ、生きた社会体制と対立するようになる。
資本主義機械が自動的に自己生産しながら成長していくためには、人間経験がたえず欲望する機械を導入し、個々の欲望がその本質(スキゾ)において追求されるという条件が必要である。「アンチ オイディプス」によると、通常はさまざまな公理系が、「器官なき身体」を祓いながらそれを社会に内在化しつつ、社会を活性化する役割を果たしている。ところが資本主義機械の中核にある「オイディプス化」という公理系が、欲望を完全なものの欠如である形態として表象して欲望を窒息させ、ファシズムを生み出す枠組みとして機能するという。
ドゥルーズ=ガタリによれば資本主義的社会体制を転覆させることは問題ではない。むしろそのなかでオイディプス化に抵抗することこそ重要である。というのもノマディズム、すなわち経験のなかにスキゾを維持しようとすることは、個人の自由を追求するままにパラノイアとなってファシズムを迎え入れてしまうことに抵抗することを意味する。
もしたえずスキゾに向かうことを「革命」として理解するならば、ノマディズムとは「永久革命」の理論である。革命とは、生命の進化と同様に、まずは「生の飛躍」(べルクソン)であって、既存の秩序に対して差異をもたらし、多様性を生み出す運動の人間的経験である。実際スキゾは芸術・科学・政治において、創造・閃き・革命として出現するのであって、それらは同じものであり、経験の質において行き着くところまで行くこと、ニーチェのいう永劫回帰である。


★表現の世界
◆シーニュ
ドゥルーズの議論のなかで表現の問題は重要性を帯びている。文学芸術作品がことばで語られる以上のどのような意味を持ちうるのか、そして哲学が言語表現として成立するのはどのようにしてだろうか。この問題は「プルーストとシーニュ」で取り上げられる。
この書物で中心となる主題は書名にも明らかなように、「シーニュ」である。シーニュとは、英語では「サイン」であり、「記号」とか「徴候」とか訳されるものである。これをさしあたり「そのもの自身において別のものを指し示すところのもの」と定義しておこう。とりわけ、記号という訳語で考えると、事物や思考を示すためにひとびとのあいだで取り決められたものと考えられよう。
ところが、たとえば黒雲が雨の「徴候」であるというようにもいえるのであるから、シーニュとは、自然現象も含めて、ひとが別の現象を推定するような事物一般のことでもある。シーニュは、ひとびとの取り決めによってはじめて可能になるのではなく、個人的に規定しえるものでもあるといえる。自分が対象として目指す自然的事物の特徴を、たとえば植物学者ふうにあるいは陶芸家ふうにいうように形成したりもできるのである。ただしそこで何が規定されるべきかということは必ずしも自由ではなく、気候などの自然現象を考えても分るように、なにがしかの秩序があることが想定される。
それゆえ文化的なものであれ自然的なものであれ、あらゆる事物はシーニュである得るが、それが指し示すものがすべて取り決められているわけでも、知られているわけでもないというのが、われわれのおかれている状況である。しかもどのシーニュをどのような意味のものとして見出すかということは、自分がどんな社会集団や人間関係に属しているかに大いに関わりのあることに違いない。事物そのものと考えられているものも、科学者や哲学者の集団において約束されたシーニュにすぎないのである。
そこからドゥルーズが「シーニュ」という語で論じようとしているのは、つぎのようなことである。事物がシーニュという性格をもつこともあるということではなくて、見出されるかぎりにおいてすべてはシーニュなのであり、ただそれが物質といわれることもあれば精神的なものといわれながら、その中間のさまざまな段階を形成している。重要なことは、見出されるものが、つねにシーニュの示すものとシーニュの素材との二重のものとしてありえるということである。
                 
以下ドゥルーズ4へつづく☆              
以下ドゥルーズ3からのつづき☆ 

★ナンセンスと道徳
ことばにおいてシーニュを成立させているものは、相互に通じ合うということだった。通じ合うように語るためには、正しく語る条件を与えるものとして、文法や論理が必要であると考えられよう。またとりわけ「正しく」語るには、ことばによって条件づけられない事物ないし精神の世界との結びつきが必要であろう。そうでないにしても、少なくとも語られる事の意味が真となる条件が存在するはずである。このようにして、正しく語られる条件をこれまで多くの哲学者が問題にしてきた。
だがドゥルーズは、そうしたことが議論されるのも、何かが語られているにもかかわらず、正しくないとされる語り方が現になされ得るからだということを強調する。それが「ナンセンス」なのであるが、ここで注意すべきは、ナンセンスが「無意味」なのではなくて、意味があるけれども正しくないものとされるもののことだということである。ルイス キャロルが一連のアリスの物語のなかで試みているのは、このナンセンスのユーモラスな探究である。
ナンセンスは通常、いい間違いや勘違い、事実の誤認や歪曲から生じてくると考えられる。だがその場合は、語ったひとの文脈や背景が知られれば、それらは必ずしもナンセンスというわけではなくなる。
しかし純然たるナンセンスというものがあって、それはことばがことばに対して使用されるときに生じてくるものである。たとえば「たらの目」という歌について考えてみよう。「歌の名は「たらの目」である」とだれかがいう。では「歌は「たらの目」と呼ばれるのか」と、アリスなら尋ねるであろう。アリスの問いは、ひとを混乱に陥れるに違いない。歌と呼ばれるのは、「音声を使ってメロディを生み出すやり方」のことである。その歌なるものには名があって、それが「たらの目」だということではないはずである。
「歌」はそれ自身が名であるとともに、歌という音声からなる事象を示している。ことばのシーニュにおいて、素材であることばと指示されるもの(意味)については、指示されるものもまたことばで表現され得るのだから、ことばのなかだけでは、その両者を区別する手立てがない。ところが、ことばの世界でしか語られないことは、あまりに多いのである。だから、たとえば「歌」は日本語なのである。こうした発想がナンセンスをうむ。
なるほど、そんな発想をするひとは「おかしい」。つまりユーモア感覚のある面白いひとなのか、現実感覚が狂っている危ないひとなのかのいずれである。しかし、このような発想による表現は文法的に間違っているわけではないし、非論理的なのでもない。とすれば、逆にことばを正しく受け取って、上のような発想をしないひとが、道徳的に「きまじめ」なひとだということになるのではないだろうか。
ひとは手持ちの語彙を使って何でも自由に語りえるのではなく、「正しく語ること」の秩序に従ってしか、なかなか語りえないのである。そして、その秩序は、真なるもの、ないし現実的なるものの秩序とされているが、時代とともにそれが変化していくのだとしたら、その秩序は基本的に文化的道徳的なものにすぎないのではないか。


★言語の世界
したがって、言語が成立する世界と、そのなかでの「正しく語られること(語るべきこと)」の秩序を区別しておかなければならないであろう。これまでは正しく語られたことばをのみ言語のモデルにしたために、この両者が混同されてきたのである。ドゥルーズによるとこの後者の秩序を規定するのは、良識(BON SENS=よい方向)と常識(COMMON SENSE=共通感覚)である。
かれによると、良識という語は命題の意味する一定の方向として、正しい解釈の仕方があることを示しているが、その裏返しとして、命題はその方向以外の方向でも理解されうることが前提とされている。他方常識という語は、人々に共通に感じられるものといて、その正しい方向によって見出される意味の一定の領域を示しているが、その裏返しとして、命題は多様な意味を持ちうることが前提とされる。
それらの方向や領域に対して「ナンセンス」と呼ばれるような別の方向、別の意味領域が存在し、それがしばしば良識や常識と混同されるということは、言葉が正しく語られる事の集合なのではなくて、まずその内部で照合しあいながら成立する自立した体系をもっているということである。
ひとは人間言語の本質を、音声の分節化や統辞法の確立や象徴機能によって定義しようとしてきたが、ドゥルーズによると、言語の本質は自己言及によって生じる「ナンセンス」というタイプの意味の出現によって規定される。あえてナンセンス(冗談)をも語れるようになったときに、幼児は言語能力を獲得したと知られるであろう。

結局われわれは「真ではない」とか「現実的ではない」といって、命題の特定の意味を退けていくのではあるが、その根拠を尋ねられれば、それもまた命題によって答えるしかないとすると、真であるもの、現実的なものは、ひとびとが肯定するもの、ひとびとにそう「見えるもの」にすぎないのではないか。そしてひとびとが見ようとしているものは、むしろ言語がその意味を表現しているにすぎない「出来事」なのではないか。
ドゥルーズは、言語がそもそも事物や観念を反映する道具や素材であるとする見方を退けて、言語はそれだけで独自の世界をつくっているという事、そのなかで「正しく語ること」の秩序も内在的に生じてきているということを主張する。 そして、かれは、良識という語り方や常識という公式的な諸命題が、われわれの語る言葉を「正しいもの」として、道徳的(社会的人間関係のなかで)規制しているだけだと考えたのである。

★むすび-出来事の哲学、出来事としての哲学
観念が潜在的に存在するということを現象の側から捉え直すと、現象が一般にシーニュであるということである。シーニュは、他のシーニュとの(段階的)差異を説明することを通じ、あたかもそれがただひとつの意味をもつかのようにされて、われわれに現実の常識なるものを押し付ける。因果性といわれるものも、シーニュが「信号」として、一様の意味しか持ち得ないように拘束されていることにすぎない。
しかしながらドゥルーズは、シーニュとは本来「ちぐはぐさが交流しながら閃光を発するものであると主張する。その意味は、シーニュが万人にとっての共通のものでありながら、各人の受け取りようで、より深いもの、より高いものを導くことができるということである。シーニュは、それがもっている他のシーニュに対する(本来的)差異を通じて、それが含意している潜在的な秩序(観念)へとひとを送り返すのである。
さて言語も典型的なシーニュであることを考えれば、言語表現を、単なる現実のコピーとは考えがたくなるであろう。すなわち言語は現実の常識を表現すると同時に、観念の潜在的内容を現実化するという点で別の現実を表現しているのであり、そのために現実の常識に反することをいう権能を有し、その結果として「嘘をつく能力」でもあるのである。
ところが、表象の世界では、言語は命題へと整えられて生活の文脈をはずされ、「真理を意味」に「誤謬をナンセンス」に帰されてしまう。命題は、良識によって、その意味の経験可能性に応じて真偽が与えられると考えられたりする。そして「真理を語ること」は「きまじめに語ること」、良識に従って常識を語るということになってしまう。それでは真理を探究するひとが望むところのまさに反対物だろう。
真理を探究する人にとっての問題は、可能性のある経験の種類や、経験の現実性の条件を列挙することではなくて、出来事からくる問いかけとその解決の展開の仕方なのである。出来事は、現在のなかにある過去の証拠や未来の予兆といった「見えるもの」の継起によって生じるのではない。もしそうだとすれば、すべてはその継起に従って推移していくばかりで、ひとは何事にも動かされず、何ものにも自分を賭けることはないだろう。ドゥルーズ主義の哲学がいわんとするのは、つぎのようなことである。
ひとは出来事や行為を自然と文化の合成物と解して、これを実践の条件とする。しかし、自然として認識されるものは文化的構築物にほかならないし、文化として理解されるべきものは、意識する事の条件を含んでいるのだから、意識されるものを原理的に超えている。したがって認識主観が要請する客観性は、実践とは何の関係もない。自然や文化といった客観的なものの秩序は認識論的主観性の虚構と同様、表象として捉えられた、いわば出来事の残骸にすぎないのであった、表象それ自身は何も生み出す力をもたないのである。
それに対し、生成しつつある出来事は、表象の世界においては比較を絶していながら、これこそがわれわれの行為にとって、もっとも重大なものであり続ける。出来事のこの次元は自然や文化によって説明される。それらとは別の一次元などではなく、真にわれわれが見ようとしており、また見るべきところの次元なのである。
出来事の真の秩序(次元)は、それぞれの出来事をただ一度のものとしながら反復するところにある。われわれは出来事のことを、そのつど「同じことが繰り返される」とか「空前絶後」だとかいうのであるが、それらは同じ本性をもっている。出来事はわれわれの不意をつくところに本性があり、われわれの行為の本性は出来事の意味を通じて偶然性に身を託すことなのである。人間の問いは、だからこそ、出来事の条件ではなく、出来事そのものへと向かわなければならないのである。

ドゥルーズによると、出来事それ自身は、どの時点どの地点も同じ資格で同一法則に従うような抽象的な事柄ではなく、法則を無視する具体的な「特異点」である。それは、われわれの行為においては、いわゆる「ヤマ」のことである。「ヤマをはる」などというが、ヤマとは「見えるもの」ではなくて、まさに「見るべきもの」なのである。
それゆえ、ヤマを発見させる幻想の力を、見直すべきであるといわれるのである。表象の世界において規定されるような、出来事の法則や行為の規範があるのではない。 出来事はまた幻想されるものであって、行為は偶発的な出来事を、幻想を通じて、どこまで追いかけていくことができるかということにかかっている。
「幻想は形象的なものから抽象的なものへと進む。幻想は形象的なものからはじまるが、抽象的なもののなかで追いかけられるしかない。幻想は、非物体的なものが構成される課程であり、ちょっとした思考を引き出す機械である。

幻想というと、ひとは白日夢のようなものをイメージするかもしれない。だが、幻想が個人的で現実的なものになるのは、道徳によってである。幻想が人間経験の本質に迫らないときには、それはフロイトが分析したような退行を示し、性的で個人的なものとして、また現実には属さないものとしての姿を現す。

危険なのは明らかに幻想がとびあがることができず、跳躍をしそこなうたびに、最も貧困な思考、性的なもの「について」の白日夢の子供騙しの堂々巡りに突入することである。それに対し幻想の輝ける道はプルーストが示したところのものである。

フロイトは、幻想を退行やその他の防衛機制を克服して「昇華」すべきであると説いている。それは、理性という人間能力についての新たな解釈である。ドゥルーズは、そうした意味の理性が、結局は社会的常識に従う良識的態度にすぎないことを指摘した。かれは「アンチ オイディプス」においても、理性を否定して欲望をとるべきだと主張しているのではないし、ましてや理性の存在や意義を否定しているのでもない。近代理性概念が、欲望に含まれる肝心なものを取り逃がしてしまうばかりか、それを抑圧しようとする方向で働くといいたかったのだ。
理性か、非理性かではなく、いずれにもまたがる経験のなかでの繊細で緻密な分析が重要である。幻想はすべて退行なのではなく、退行ではない幻想があり、それは芸術の具体的な駆動力である。 つぎの箇所でプルーストにとっての「人間経験の本質」は「純粋な出来事」と呼びなおされている。

幻想は能動や受動を表象しているのではなく、能動と受動の結果、すなわち純粋な出来事を表象する。どのような出来事が現実的で、どのような出来事が想像的かという問いは成り立たない。想像的なものと現実的なもののあいだに区別があるのではなく、そのような出来事とその出来事を引き起こすか、そのなかで有効となる物体的事物の状態のあいだに区別がある。

ドゥルーズは「哲学の表現は良識ではなく、パラドックスであり、パラドックスは哲学のパトス、哲学の情念」であると述べる。真か偽かということは命題のうちにあるのではなく、まさにわれわれが命題の意味としての出来事を問うときに口にすることばである。それゆえ、真理をかたるためにわれわれがなし得ることは、良識の反対の方向に進むこと、非常識なことばを語ることだということになる。そのことが正しく語る秩序としての道徳を成立させている権力を暴露することであり、道徳に従っている自分自身を変身させることだからである。

「現代の世界はシュミラルクルの世界である」(「差異と反復」序)そのことは真理探究としての哲学を不可能にするという意味ではない。観念と現象の関係は、オリジナルとコピーの関係ではなく、同一性・類似性・対立性・類比性ではない。「意味とは、真なるものの発生ないし生産である」(「差異と反復」第三章)とドゥルーズはいう。それが「真の」差異によって関係付けられるならば、人間経験の本質を通じて、真なるものの生成として、われわれは「意味の生産」に立ち会うことができるからだ。

いま よろこぶべきことに、意味は決して原理や起源ではなく生産されるものだというよいニュースが流れている。意味は、発見すべきもの、復興すべきもの、再使用すべきものではなく、新しい機械装置によって生産すべきものなのである。
(「意味の論理学」第十一系)


たとえば芸術家(ここでいう芸術家とはおそらく「A ウォーホル」らのPOPアーチストだろう)は、日常生活のさまざまな反復、機械的反復や習慣的反復といったステレオタイプな闇に対して、それらとの差異の閃光を引き出すような反復を行う。革命家はといえば平凡な世間の日常的遮光に対してこそ革命を行うのである。同様にして、哲学者は「超越論的経験論(観念の経験論)」に到達すべきであるといわれるであろう。というのも、経験論とは常識の探究であるが、ドゥルーズによると、哲学者は、そのただなかに常識とは無関係なものの現出、観念の超越性の現れを見出さなければならないのだからである。

哲学者と夢見るひとは、世界という卵の個体化を、想像のなかで学ばなければならない。想像こそ、領域、次元、水準を貫き、隔壁を打ち砕き、世界に共拡張してわれわれの身体を導き、われわれの魂に生気を吹き込み、たえず夢から科学へと、またその逆にとす住む幼虫的意識として、自然と精神の統一を学ぶのである。 (「差異と反復」第四章)

何かが真であるということは、出来事の意味を作り出すのに力を貸すということであり、みずからが出来事の原因の位置に身を置くことである。良識と常識に従うよりも、ナンセンスを怖れずに幻想(想像)を見つつそれを追い詰めていくこと、幻想そのものの構造にまで到達して、もっとも究極的な意味を発生させること、それがドゥルーズの哲学であり、ドゥルーズ的意味での「実践」である。

それは考えられるだけであり、しかもナンセンスとして考えられるだけである。しかし、確かにそれは思考そのものの現実である。・・・思考のなかにしか存在せず、芸術作品以外の結果をもたないゲームは、それによって思考と芸術が現実的なものとなり、世界の現実と道徳と経済を揺り動かすのである。 (「意味の倫理学」第10系)

出来事は語られる命題のなかでは不毛で中立で無感動だが、それが幻想のなかでは生成の力をもち、現実を揺り動かす。このことが、われわれの経験のなかで最大のパラドックスである。だが、そのパラドックスは、哲学的ないし芸術的実践としての幻想によって乗り越えられてしかるべきものである。すなわち「見えるもの」を「語るべきこと」とする近代西洋的倫理ではなく、「語られるもの」を通じて「見るべきもの」(意味)へと進む実践である。このとき、哲学は、それ自身もまた出来事でなければならないということになるのではあるまいか。

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アンチ・オイディプス


市倉 宏祐 ジル ドゥルーズ フェリックス ガタリ / 河出書房新社


「ドゥルーズがやっかいだと思うのは、たとえばフーコーであれば、その入門書というのは一定のレベルを踏まえているのもであれば大体どれもが同じようなテーマを扱っているのですが、ドゥルーズは誰が書いたかによって、入門書の体裁を取っていても、全然違うんです。ドゥルーズのどこに焦点を当てているのか、何を自分にとっての刺激的なものとして取り出してくるのかが全然違っていて、それがドゥルーズという思想家の凄い所だと思います」田崎英明
                                         
哲学書にして現代の百科辞典。奇妙で魅惑的な読み物。文学、哲学、経済学、芸術、ある種の文学的センスによって描かれているとおぼしい抽象的分析用語の羅列はSF的哲学(あるいはハイパーシュールレアリズム哲学)を思わせて、文学への親密な接近、言語的遊びの面白さと分析的鋭角さ、超人的脳筋力を思わせる、が「奇妙」であり読みづらい。言葉がアブストラクトすぎて文章としての意図がわからず、言語の海で溺れてしまうことも度々・・・広大な言説の海なので、「盲人象を撫でる」の状態に陥りかねない。この「アンチ オイディプス」は非常に感覚的にいえばタニス リーのSF(「バイティング ザ サン」)に近い。音楽でいえば「mouse on mouse」という前衛テクノ・エクスペリメンタルなグループや「DJ SHADOW」「OSYMYSO」などのちょっとああいう感覚で、哲学的文脈は混在させられている。これはバロウズ的カットアップとDJ REMIXやイリヤ カバコフやシンディ シャーマンなどの偽史的現代美術のポストモダン表現に馴れた「現在感覚」にはすんなり馴染む感覚か?―つまり「アグレシヴ創造野郎ども」の本なのでは?

乱暴に断言すれば、とどのつまり―

ドゥルーズとは哲学界の「前衛ロックンローラー」である☆

生成を信じ、どこまでもポジティブに連結し接続させる「筋肉リゾーム反体制野郎!」がこそドゥルーズである、というのが僕的解釈。

グラフィックではない。筋肉言語に逡巡させられてしまう。殊に細部にいたる言説の不明さはあっちいって頭メロ、こっちいって頭メロメロに捩られて、「ふぃ~~~!」とよれよれにさせられてしまう・・・にもかかわらずドゥルーズの脳筋力塊の知的躍動力はなんて凄いのだろう!彼こそ人知を超えた未来バイオロイド的スーパーコンピューターのような「諸機械(人工的というよりはより有機的メカニズム)」であり、メガトン級の「卵胞核爆弾」だ。

いたずらに混沌ばかりを煽るのもなんなので、読むにあたって簡単なガイドライン提示。
まずドゥルーズその人について。
以下「ドゥルーズ」檜垣立哉からの引用。

1、カント―ベルグソン―ライプニッツ―ドゥルーズの文脈から見られる骨太な哲学性。孤独のなかで原理を語りつくすという哲学の姿勢擁護。
2、深みのある根拠の否定。永遠の真理の否定。生成の戯れ。表面的姿勢の称揚。
3、ベルグソンを継承する流れの哲学<異質なもの、多用なものが溶け合う流れ>
4、現象学が否定していた俯瞰の姿勢の回帰。特権的な定点をもたずに流れの中に飛び込むこと。そこから生起する想定可能な可能性ではなくて、想定不可能な遺伝子的進化を生きること。
5、問題は解かれるものではなく、創造されるものであるということ。問題はつねに更新されてゆくからこそ価値がある。「なんで―どうしてではなく、どう―どのように」と問う。
6、同一性ではなく差異による無数の世界の分散した多元世界。調和的に収束されるのではない拡散する世界像。パラドックスに満ちているがしかしそれをまるごとポジティブに受け入れ、進化の方向へ推し進める卵としての世界。
7、進化は当然変態化を孕む。ハイブリッドな接合と思いもよらぬ器官の使用。主体的な決断はできない。不条理である。しかし生成する遺伝子は未来へと向かう。
8、特異で畸形な個を孕んだ上でのシステム論。以下引用。
「ドゥルーズの述べる個体とは、あくまでシステムの個体である。それが特異であるのは、個体の存在がそれぞれ偏った仕方で、システムのあることを支えるからである。<私>のかけがえのなかさなど流れてゆくシステムへとすっかり溶け込ませてしまえばよい。<私>の中心性を想定する議論からは、潜在的な生成の力を引き立てる倫理は描けない。本来的な<私>を探し、ありうべき<私>をとりもどすという設定は、それ自身転倒した発想でしかありえない。」

付記・檜垣は明晰さにこだわるが、ドゥルーズというのはむしろ明晰さを超えた運動性の哲学なのではないだろうか。その意味で「あとがき」の言説は語る形式の限定もあるだろうが、やや腑に落ちないところがあった。

次に「アンチオイディプス」について
以下アンチオイディプスの浅田彰の整理 「逃走論―ドゥルーズ ガタリを読む」より

1、スタティックなものに落ち込みがちな構造主義開革命。哲学史でのマイナー(副次系)の積極的評価。表象―劇場―構造ではなく、生産―工場―機械。

2、フロイトやその他精神医学の批判―フロイトが嫌っていた精神分裂病の積極的評価
資本主義のダイナミズムをさらに多様化・多形化していく場合に最大の障害と考えられるエディプス家族あるいはそのエディプスコンプレックスの「解決」を通じて一方向に水路づけているスタティックな近代資本主義社会の理論的解体。資本主義のダイナミズムの解放。

3、「ある」という状態の哲学ではなく、「なる」という生成の哲学―「ある」というスタティックで完結した構造を切り出して、現実を虚構として認識するのではなく、「なる」ことの動的ダイナミズムの場としての構造の全面的な肯定。言い換えれば力と強度、あるいは運動と速度の哲学。ある意味では現実を抽象化することをやめてそのままとらえること。現実を「なる」という運動の錯綜体としてとらえること。

4、静態的な秩序付けロジックに堕落する弁証法批判―弁証法的な思考様式が絶対につかみとることのできない「はみ出し」や「余剰」や「過剰」の動きを見直す。これまでの形而上学と弁証法では把握する事の出来ず、排除することしかできなかった残余部分から全体を見直す。

5、「諸機械」―「諸機械」とは構造ではなく、ふだん静止していて原動力を送り込めば動くようななにものかではなくて、そのような「動き」そのもの、そこで展開されている諸力のエコノミーそのものが「諸機械」という形で一挙に掴まえられる。「「諸」機械」の表記は単一の力では運動を生まず、力と力の差異が力と運動を生むとの認識に基づいている。
補足―機械とは人工である以上にはるかに精密な、しばしば仕組みの解明できない自然の機械、メカニズムのことである。(宇野邦一)

6、「劇場」ではなく「工場」―表層から一歩退いたところにある全体的な構造というものが舞台の上における表象的・個別的なアクトを決定しているという基本的に劇場的な捉え方は一切認めない。舞台裏と舞台と客席が一緒になった演劇のようなもの。それは「劇場」というよりは「工場」である。

7、「生産」―ドゥルーズのいう生産とは主体が何らかの目的を定立して行う対象的活動ではない。諸機械が生産の主体だということすらできない。そもそも諸機械は生産活動の総体と区別されない。動きこそが諸機械である以上(5参照)諸機械ともろもろの生産の総体とは外延を同じくする。つまりこれはいわゆる消費と対立する生産というわけではなくて、消費を含みこんだ生産だといえる。

8、「器官なき身体」―諸力の原質料。分節化の手前にあるような原マチエール(素材)。運動がその極限に達したときに、いわば運動の自乗としての静止、あるいは差異の自乗としての同一性のようなものが現れるが、そういう一次元上の原質料のようなもの。運動の強度が無限大になりそれが即ちゼロになるという状況。それはそこから諸力がさまざまな強度の波動の群れとして構成されていくような原質料としての強度ゼロ=無限大であり、そのうえで諸機械がブラウン運動を行ってリゾーム的に連結して、動いていくような基盤でもある。
いいかえれば有機体というものは一定の強度をもった波動であると考えるとして、その波動と波動が出会ったときにアフェクシオンが起こり、互いに強めあったり、減殺しあったりする。そこから<快/不快>や<よい/わるい>が出てくるが、そういったすべての波動を総括するような最高の強度が<器官なき身体>である、つまり<器官なき身体>とはそのような波動がその上を行き交うひとつの巨大フィールドであるといえる。

9、コード化―超コード化―脱コード化
☆ドゥルーズ=ガタリは現実を諸力の運動としてとらえるのだが、この諸力を人間社会の位相で見た場合、それが「欲望」と呼ばれる。したがって社会というものは欲望の運動パターンとしてとらえられる。この「欲望」はほっておけばどこへ向けて流れていくか分らないという危険を孕み至るところで多数多様な絡み合いをつくる、これが「欲望機械」である。それに対して「社会機械」というものがそういったアナーキーな動きをなんらかのかたちで安定化するメカニズムとして登場してくる。「欲望機械」は「社会機械」によってスタティックな安定化したものとなる。この安定化メカニズムがこそコード化の機能である。
☆コード化
コード化のメカニズムは中心なき負債の軌跡にそって働く。この軌跡とはいわゆる贈与の円環である。では贈与とは何か。それは一種の烙印であり、それを受け取ったものは下位に置かれ、与えたものは上位におかれる。受け手は返礼しなければならない負債を、負い目を負う。この差を埋め、身に被った烙印を払拭するためには、受け手は贈与をし、自分が贈り手の立場にたたねばならない。以上のような負債の運動が贈与の円環にのっとって行為することを順繰りに強制するメカニズムをコード化のメカニズムとよぶ。贈与というのはこの場合、女の贈与でもあり、贈与の円環にのっとって行為するということは近親相姦の回避という意味ももつ。
☆超コード化
国家のある社会の発生によって出現する。超コード化のメカニズムは抑圧的国家装置というかたちで現実化し、その働きによってもろもろの原始共同体を自分のユニットとして組み込み、さらに道路や都市のシステムを制御し、王や神を頂点とする巨大ピラミッドのヒエラルキーを形成し、そびえたつ。ところがそのようなかたちで定住的安定化が起ころうとするや否や、それを突き動かしていくような動きがあらわれる。それが遊牧民と彼らの「戦争機械」である。
このようにシステムが閉じようとするときに常に外へ外へと動く生成変化の線があるというのが彼らの歴史観の基本となっている。これは一個のシステムとそれに随伴する外部なりカオスなりとの弁証法の歴史=物語とはまったく違うものであって、還元不能な諸システム間の照応やズレの家庭、それを織り成している多数多様なる生成変化の線こそが歴史を動かしていくのだという見方になる。
☆脱コード化
近代資本主義という社会機械の出現により、それまでの社会機械が行っていたスタティックな安定化ではなく、ダイナミックな安定化が求められることとなる。それはコード化でもなく、超コード化でもなく、脱コード化によって動くメカニズムである。この脱コード化はコード解読だけにとどまらず、コードそのものを突き崩し、そのなかの諸要素をコードから解放して流出させてしまう。安定化していた欲望の流れが、脱コード化によって全面的な運動に投入されることになる。ここで問題となるのはアノミー(社会成員の欲望に一定の節度を与えていた社会的規範が弛緩してしまい、欲望のアナーキーが生じ、誰もが絶えざる欲求不満に陥る結果、社会の不安定性がたかまる状態)であり、このアノミーをアノミーにさせないための操作が必要となる。どうすればよいか―欲望を一方向へ駆動してやればよい。全員がお互いに追いつけ追い越せと打って一丸となって走っている限りはシステムは相対的だがダイナミックな安定を得ることが出来る。このような「赤信号をみんなで渡っている」システムが近代資本主義である。つまり超コード化の段階においては媒介者というものは絶対のかなたにあり、それを模倣し追いつこうということ自体ナンセンスなのだが、脱コード化の段階になると、基本的には位置のうえで差異がなくなっているわけであり、媒介者は自分より先に出発した人であるというだけで、努力さえすれば追いつける、そして追い越すことも夢ではない。この典型がオイディプス三角形の家族の図式となる。ボクはパパの介入によってママとの直接的合一を断念しなくてはならない。だけど、パパだって神様じゃないんで、ボクより先にいたというだけじゃないか、だからボクだって、パパをモデルかつ障害物として追いつき追い越しさえすればいい。こうしてパパ―ママ―ボクのおぞましい三角形が<追いつき追い越せ>の回路へと誘導し「学校」という教育装置がこれを引き継ぎ、「家族+学校」の「国家イデオロギー装置」によってアノミーのフラクタルな不安定さは回避される。この<追いつけ追い越せ>の運動性は近代の貨幣と資本のオブジェクションレベルへの再投下、商品化、メタレベルへの貨幣回帰という際限のない増殖運動とパラレルにトレースされる。脱コード化は以上のような循環運動を描く。

10、属領化―脱属領化―再属領化
諸機械の運動がそのうえで行われるところの基盤が<器官なき身体>というかたちで析出されたが、社会領野においては<器官なき身体>に近いものとして、まず「大地」、次に「王の身体」(としの王国)、そして貨幣=資本と、この3つが出てくる。それを<充溢せる身体としての社会体>とよぶ。この<社会体>が社会的機械を支える基盤となり、社会的機械は欲望の流れをその上に属領化することによって安定化を図る。
コード化の段階においては<社会体>としての大地の上に欲望の流れがはりつき、属領化されている。
超コード化の段階になると、いったん脱属領化が起こり、欲望の流れが大地から離れて高みへと上昇し始める。それは超越者としての王の身体という<社会体の上>に再属領化され、王を頂点とするピラミッドのようなかたちの布置がつくりあげられる。
近代社会では徹底した脱コード化にともない、すべてを脱属領化する。しかし脱属領化された流れを多数多様なかたちで散乱させるのではなくて、動的なかたちをとるにいたった<社会体>である貨幣=資本の流れにたばねていく。そのため、いったん無効になったはずのさまざまな領域性をパッチワークのように組み合わせて、堤のようなものをつくる。こういう整流のために再属領化において最も重要な役割をはたすのが、オイディプス的家族という領域性である。
近代特有なのは脱属領化を優位とした属領化・再属領化の無限の駆使だといえる。属領化が未開社会だけとか、脱属領化は超コード化時代ということではなく、近代社会はそういうものを全て内包しながら、絶対的ではないが、相対的な脱属領化を優位にしつつ、もう一度再属領化を試みるようなかたちで、各属領化やそういったものをもう一度組み込むようなかたちで無限運動を繰り返している。

11、パラノイアとスキゾフレニー
☆パラノイア(偏執型)とはこれまでの過去のすべてを積分=統合化して背負う。蓄積し、セントラルに定住し、メジャーでウェットでハイアラーキーな純血種である。これまでの資本主義はこのようなパラノイアックな回路付けによって多数多様に散乱すべき流れを一方向化している。
☆スキゾフレニー(分裂型)はこれに対してそのつど時点ゼロにあって微分=差異化している。ギャンブルに賭け、マージナルな周辺を生き、マイナーでドライでアナーキーなハイブリッド(雑種)である。
そのようなかたちで流れが限りなき差異化の果てに一種の多数多様体を産み出すというのが、彼らのえがくユートピックなイメージである。

12、自己の複数性
われわれ自身の人格もまったく単数じゃなくて、動的にとらえるなら、あるいは極端に言えば無限の他方向性をもった多様性のかたまりでしかない。だから「私」のなかにもさまざまな個体がある。そういう多様性を、ひとつのセットみたいなものを、「人格」とよんでいるだけであって、その人格の捉え方がいままでは非常に一本のリニアな線だけでエゴ、コギトというような考え方で設定してきた。デカルト的な個体論であれカント的な個体論であれ、一本のリニアな線であり方向が一本である。ところが多様性とはそうではなくて、さまざまな人間の生き方があり、それを同時にやっている瞬間瞬間をとらえてゆくと、さまざまな個体化がある。そお個体化のセット、これを自由な人格とよびうる。自由な人格、自立の可能性、それはもう運動としてしかありえない。

13、モル革命 分子革命
パラノイア/スキゾフレニーはモル的/分子的というかたちにパラフレーズされる。
モル的とはアトムの巨大な集積のイメージ。その中では一個一個のアトムはもはや画一的なパチンコ玉のようなものでしかないのに対して、分子というのは巨大な生体高分子のイメージ、つまり一個一個がDNAのような複雑なかたちをしており、いろんなところでほかのやつと結合をつくったり、分裂したりという動きを繰り返しているものをいう。だからモル的な群衆がいわばパチンコ玉をたくさん集めたようなものだとすれば、分子的な群衆というのは、いわばウニのようなもの、それも無限に長いトゲを持ったウニのようなものがたくさん集まっているようなものである。土台を傾ければ前者はバーッと走る。後者はそう簡単には動かない。というか、むしろ一方向の動きを拒否するところがある。モル的な群衆がカネッティのいう意味での「群衆」であるのに対して、分子的な群衆は、むしろ彼のいう「群れ」のようなものである。この「群衆」とは多数性、画一性を特徴としていて、各メンバーはどこにいたって中心ないし全体と同一化している。「群れ」とは少数性・多数性を特色とするわけで、中心にいたかと思えばすぐボーダーにいるというかたちをとっている。ドゥルーズらは前者を「犬の集団」後者を「狼の集団」とよぶ。そしてそのような「群れ」に独裁権を、というんが分子革命である。

14、クリティクスの終焉
否定性を中心しにしてものをみること、それを「クリティクス」というならそれは終焉した。ドゥルーズたちがニーチェから受けたメッセージとは、否定の時代は終わった、偉大なヤーを遂げ、人生を生き生きと生きようということである。これは障害物と猛烈に喧嘩するということと矛盾せず、猛烈に喧嘩しながら自由に生きるということ、そういうことを含めて彼らはポジティブという概念を提出している。障害物というか、人間の多様な生き方を足枷によって締め上げていく、そういうものと徹底的に戦うことは何ら否定的なことではなく、そういうものを含めてポジティブに、そして問題提出的に生き抜くこと。それは重要な二十世紀後半のメッセージである。

以上―
20年前の解説とはいえ、浅田はアカデミックな哲学文脈に通じている上、概念整理が上手である。僕自身どう位置づけていいのか、困っていたフラクタルがこういった見通しのもとでテキパキと折り畳まれて整理されると唸らされた。とはいえ、原書を読むとこういった概念整理からはずれてゆく「読み」の面白さがある。つまり浅田のものは細晰な析出ではなく(「野蛮人」はどこいったぁ・・・「夜の生物的―宇宙的な記憶」はどこだぁ・・・「残酷の劇場」はどこいったぁ・・・)ダイジェストとしての指示図式である。原書を読むと、細部に淫するというわけではなくて、図式には還元されえない詩的妙味をもった「放射状言語群」や「独自の生命宇宙論」があって面白い。付記すれば差し挟まれる美術やプルーストや英米文学への言及など読み物としてのかなり充実しているのではなかろうか。そしてこの瑣末の理解しがたい混乱と混沌と眩暈が個人的には大切だと思う。すなわちこの時間にこそ進化を廻る生成螺旋があるのではないだろうか?もちろん混沌そればかりであってもよろしくはないのだが、兎に角広く深い本である。解釈は幾通りも可能だろう。
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「私はカウンターカルチャーの大いなる幻影の時代をはねつけようとは思わない。なぜならば、結局のところ、あの時代のいきすぎた単純化、あるいは素朴なまでに無防備な信条告白といったものは、わたしの目には、現在のポストモダニズムの信奉者のシニシズムよりも価値のあるものとして映るからである。」(P12)

◆たしかに「ミルプラトー」は巨大な本だった、と思う。
あの本に潜在している可能性はまだまだ汲み尽くされてはいないし、「来るべき世界への示唆」に富んでいるし、なによりも「60年代」という時代が生み出した集合的無意識が生み出した時代の熱気といったものが籠もっており、読んでいて、そういった―熱い、熱気のようなものに心をほだされてしまうところがある。

◆だが―こう問うことはできるだろう。
はたして―
「ミルプラトー」以後に生きるものにとって「ミルプラトー」は―現実レベルでどのくらい実現された未来なのだろうか?
 
◆多元化はいい―平面化はいい―顕微鏡と望遠鏡をもつものはいい―遊牧民はいい―スキゾはいい―分裂症はいい―フロイトはおそらくドゥルーズが指摘したかたちでの制度不良を起こしていることは間違いないように思う(マクロ資本主義(社会身体)に沿うものとしての個人や心的経済形成)

◆その結果訪れた社会は相変わらず―というか、より強固さを増してゆく「抑止構造」と「管理」なのではないだろうか。多様化が逆説的にうむ構造レベルでの抑止と管理―「自由すぎることが生む抑止」といったものはドゥルーズ=ガタリの思考の中に入っていないように思ってしまう。

◆例えばM・ウェルベックはこういったドゥルーズ以後の暗黒面を明らかな前世代への挑戦をもって告げていはしないだろうか。60年代の表現ヴェクトルの強烈さは咀嚼されがたい。そして咀嚼されがたいので、どうしても消化不良をおこしがちになる。ウェルベックは咀嚼されない60年代に彷徨う90年代の若者、そしてボードレールに代表される復古的な「悪」へと向かい、呪詛を復古するという意味ではどうしようもなく不毛な―不毛であるが故に感動的な男だ。

◆もちろんフランスと日本は状況が違うし、封建主義的なものの強い日本という国家と革命によって変革されるフランスという国家―つまり革命が起こり焼き払うことによってかわった国と近代化の革命が復古主義と結びつく国の差異はあるだろう。

◆だが―
それでも、やっぱりドゥルーズ=ガタリのあの本に期待してしまうところはある。
もちろん新しいことへの期待というものを持つには、このどちらかといえばシニシズムと短縮化の機能主義の時代にロマンチックすぎるところはあるかもしれないけれども―
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◆この本はそうしたミルプラトー以後の―80年代のやや苦い状況が著されており、ガタリのちょっと苦虫を噛み潰したような、釈然としない調子もあるが、それでも未来への希望を捨てない闘争し逃走する精神分析家、思想家としてのガタリがうかがわれる。

◆前衛性ということでいえば、ドゥルーズよりガタリのほうが前衛的というか、文献学的ではなくて、実践的な感じがし、よりアクティブな印象もあるが、フランスはまたあんな面白い哲学を生み出せるのかと思うと、今の状況からしてみると厳しいのかも知れない。「ミル・プラトー」のなかでも語られたように―現在フランスがやっていることはたいがいがアングロサクソン言語の圧倒的な支配下のブルジョワコラージュなように思う。

◆フランス語のような一元的な統治構造をもち、「貼り付けること」ではなく、「置き換えること」によって、自らの文化を中華化させてしまうような言語構造はやはりこういった時代には弱いような気もしなくもないのだけれども・・・英語の身軽さとマイノリティ的な変数が言葉構造に内在されていないのはやっぱりねぇ・・・うむむ・・・まぁ OTAKUに萌え無重力にサスペンドする日本のレベルは口にできないようにも思うけれど―
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